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ジャポニズムあふれるゴッホの名作『タンギー爺さん』
ゴッホは、ヨーロッパを代表する有名な画家の1人であり、日本の浮世絵作品に魅了された海外画家の1人でもあります。 ゴッホが描いた作品の背景を知ることで、日本の浮世絵作品の素晴らしさを再認識していきましょう。 ゴッホの名作『タンギー爺さん』の魅力 ゴッホは数多くの名作をこの世に残しており、その一つが『タンギー爺さん』です。 この作品には、ゴッホらしい作風が表現されているとともに、日本の浮世絵に対する敬意も表現されているのです。 ジャポニズムあふれる名作『タンギー爺さん』 ゴッホの有名作品である『タンギー爺さん』は、1887年に描かれた油彩画で、鮮やかな色彩と自信に満ちたモチーフのデザインが特徴的です。 『ペール・タンギーの肖像』とも呼ばれており、現在は、パリのロダン美術館に所蔵されています。 ゴッホが魅せられた、ジャポニズム ゴッホは、日本の浮世絵に大きな影響を受けたといわれています。 たとえば、安藤広重や葛飾北斎などの作品です。 題材はもちろん影のないフラットな色彩やパターンが、これまでのヨーロッパ美術にはなかった技法であったため、ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちは、大きな衝撃を受けました。 ゴッホは、日本画は平穏の探求を表していると述べています。 ゴッホは、パリにいた時代、浮世絵への興味がピークに達しており、弟のテオと一緒に日本の浮世絵作品を400点以上収集したといわれています。 また、集めるだけでは物足りず、コレクションを利用して浮世絵の展覧会も開催していたのです。 これらの行動からゴッホがどれほど浮世絵に傾倒していたかがわかるでしょう。 『タンギー爺さん』を観賞する ゴッホが描いた有名作品の一つ、『タンギー爺さん』。 このタンギー爺さんが誰であるか、詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。 タンギー爺さんという人物を知るとともに、作品に描かれた題材からゴッホの浮世絵に対する興味や愛がどれほどのものであったかを見ていきましょう。 タンギー爺さんとは誰なのか 『タンギー爺さん』に描かれている人物は、ジュリアン・フランソワ・タンギーと呼ばれる画商のことです。 画商であるとともに、画材を販売する絵具挽き屋でもありました。 当時、ゴッホの絵をいち早く売り出した人物として知られています。 性格は陽気で、人望の厚い人柄と芸術や芸術家に対する敬意・熱意から、タンギーのお店はパリでは最も好まれていた画材店でした。 タンギーは、周囲の人々から「ペール・タンギー」の愛称で呼ばれていたそうです。 実は同じ構図の絵画が2作ある ゴッホが描いた『タンギー爺さん』は、ほぼ同じ構図の作品が2つ存在しています。そのため、タンギーを題材にした作品は、別の肖像画を含めて合計3点です。 最初の肖像画は、1886~1887年の冬に描かれました。 この作品には、鮮やかな色彩は使われておらず、茶色をメインとして唇に赤、エプロンに緑が使われている程度でした。 一方、1887年に描かれた2点の『タンギー爺さん』では、鮮やかな色彩が用いられています。 タンギー爺さんの背後にある浮世絵作品 『タンギー爺さん』の作品の背景には、日本の浮世絵作品をモチーフにした絵が多く描かれています。 タンギーは、画商でもありますが、自分のお店で浮世絵の取り扱いはしていませんでした。そのため、『タンギー爺さん』の背景に描かれた数々の浮世絵作品は、ゴッホ自身の浮世絵に対する愛やこだわりであったと考えられます。 『タンギー爺さん』の背景に描かれている『雲龍打掛の花魁』は、渓斎英泉の有名な美人画です。 ゴッホとタンギー爺さんは画家とモデルを超えた関係だった ゴッホとタンギー爺さんは、単なる画家と画商の関係だけではなく、ゴッホの理解者でもあったと考えられます。タンギーは、貧しい芸術家の生活をサポートするために、画材代の支払いを絵画の売却ですることを認めていました。 そのため、当時まだ無名であった画家が多く出入りしており、ゴッホもその画家の1人でした。 タンギーは、ゴッホが亡くなったとき、葬儀に参列した数少ない人物です。 『タンギー爺さん』には、浮世絵への愛だけではなく、タンギー爺さんに対する愛も込められている素晴らしい作品といえるでしょう。
2024.11.22
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ゴッホの描いた花魁とは?ジャポニズムと浮世絵が与えた衝撃
江戸時代から日本の民衆に愛され続けてきた浮世絵作品。 現代でも、多くの人を魅了している芸術品ですが、実は日本だけではなく海外人気も高い作品なのです。 多くのファンやコレクターが世界中におり、浮世絵の影響を受けている有名な海外作家もいます。 その一人が「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。 彼は、浮世絵にどのような魅力を感じたのでしょうか。 ゴッホの『花魁』に見る、浮世絵の影響 ゴッホは浮世絵の魅力に衝撃を受け、作風が大きく変化したといわれています。 当初のゴッホは、祖国オランダの同時代にいた画家の影響を強く受けており、どちらかといえば地味な作風の絵を描いていました。 現代に残されている、絵具がキャンパスのうえを走り回るような躍動感ある作品が生まれるきっかけを作ったのが、浮世絵作品であるといわれています。 ゴッホとジャポニズム ゴッホとは、ポスト印象派の画家で、現代でも天才画家と称されて多くの作品が美術館に所蔵されたり、オークションにて高値で取引されたりしています。 ゴッホがインスピレーションを受けたとされるジャポニズムとは、19世紀後半ごろにヨーロッパで流行した日本趣味のことです。 当時のフランス画家たちは、日本から伝わってきた浮世絵や陶器の絵柄などに見られる、日本独自の構図や色彩構成に強い衝撃を受けたといわれています。 ゴッホも衝撃を受けた画家の一人で、浮世絵を模倣したり、肖像画の背景全体に浮世絵を配置したりした作品も多く残されています。 ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちの間では、写実性を高めるために輪郭線を明確に描かず、立体感や奥行きのある絵画技法が主流でした。 しかし、浮世絵作品では、はっきりと描かれた輪郭線や直接的な構図などが用いられており、これまでにない表現方法が、ヨーロッパの画家たちの目には新鮮に映ったのでしょう。 ゴッホの描いた『花魁』 浮世絵の鮮やかな色使いや大胆な構図に大きな影響を受けたゴッホは、浮世絵作品を模した絵画も多く残しています。 その一つが、溪斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』です。 ゴッホは、この作品を模写した油絵を制作しています。 また、花魁が描かれた作品には、カエルや鶴なども描かれており、ほかの浮世絵作品からモチーフを持ってきたと見られます。 『雲龍打掛の花魁』を模写した作品からだけでも、ゴッホの浮世絵に対する熱中ぶりが見て取れるでしょう。 ゴッホを魅了した溪斎英泉『雲龍打掛の花魁』 ゴッホを魅了した溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』がどのような作品であるか、知らない人も多いでしょう。 ゴッホの浮世絵を模した作品の鑑賞を楽しむうえで、もととなった作品や作家の詳細を知っておくと、より背景を想像でき楽しみ方の幅が広がります。 溪斎英泉とは 溪斎英泉とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、吉原の遊女といった女性を題材にした美人画や春画を多く手がけていました。 妖艶で刺激的な作品も多く、当時の民衆を虜にしていました。 また、春画や美人画に限らず、風景画でもすぐれた作品を多く残しています。 溪斎英泉が描く美人画の特徴は、間隔の離れた切れ長の目と筋の通った鼻、突き出た下唇などです。 妖艶な雰囲気を醸し出している表情の女性の絵が、人々から人気を集めていました。描かれている女性の姿勢は、屈曲していたり猫背だったりと、女性特有の丸みが表現されています。 どこか退廃的な雰囲気が漂う作品が多い傾向です。 ゴッホが影響を受けたとする『雲龍打掛の花魁』も、溪斎英泉を代表する美人画といえます。 なぜゴッホは『雲龍打掛の花魁』を知っていたのか ゴッホが『雲龍打掛の花魁』を知るきっかけになったのが、パリ・イリュストレ誌です。 1886年5月号で日本特集が組まれた際に、表紙として左右反転された溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』が、採用されたのです。 ゴッホの遺品から、当時の雑誌の表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、雑誌の表紙を模写したものと考えられています。 ゴッホの絵に見る、日本浮世絵の魅力 世界的な画家であるゴッホを魅了した浮世絵。 ゴッホはこの作品以外にも『タンギー爺さん』や『種まく人』など浮世絵の影響を受けた作品を多く残しています。 浮世絵にインスピレーションを受けたゴッホの絵を鑑賞する際は、モチーフとなった浮世絵作品と見比べてみるのもよいでしょう。
2024.11.22
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謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは何者なのか
江戸時代中期に突如として浮世絵業界に現れ、そして忽然と姿を消した「東洲斎写楽」。 その正体は、いまだ明らかにされておらず、さまざまな説が現代でも論じられています。 写楽が描いた役者絵は、世界的な知名度を誇る日本の名作です。その正体を知りたい人は、決して少なくなく、今でも多くの議論がなされています。 謎に包まれた、東洲斎写楽とは何者なのか 作家名:東洲斎写楽 代表作:『市川蝦蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽(以下:写楽)は、1794年5月から1795年1月のおよそ10か月間だけ活動していたとされる浮世絵師です。 所属の流派・出生・本名、そのすべてが不明で、活動期間もわずか10か月というあまりにも奇天烈な人物といえます。 短い期間に145点もの作品を描く鬼才の持ち主で、活動初期には、一挙に28点もの大首絵(役者の上半身を描いたもの)を仕上げたそうです。 彼の描いた役者絵は、現代でもその構図が使われるほど芸術的要素の強さが魅力です。 役者の特徴を捉えたデフォルメチックな表現方法は、後世に続く浮世絵師や海外の画家たちにも多大な影響を与えました。 東洲斎写楽とは 写楽は、江戸時代中期を代表する「4大浮世絵」とも呼ばれています。 ほかの3人が葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重であることからも、その知名度の高さがうかがえます。 なお、写楽が「東洲斎写楽」の落款(作者の署名のこと)を使っていたのは、デビューから2か月間のみです。 その後、8か月間は「写楽画」と名乗っていました。 落款の名が変わると同時に、写楽の画力は急速に衰えます。 一部界隈では「この時期から別の人物が写楽を名乗っていたのではないか」との説も浮上しています。それほどまでに、絵柄がまったく異なるのです。 東洲斎写楽が描いた、役者絵 写楽を代表する『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』を始め、彼の描いた役者絵は、江戸中に知れ渡る大ブームに発展しています。 その背景を語るうえで欠かせない存在が、江戸の大手版元(現代の出版社)である「蔦谷重三郎」です。 写楽の役者絵が一大ブームを起こしたのは、蔦谷重三郎によるプロデュースがあってこそでした。 一説では「蔦谷重三郎が写楽本人なのではないか」との説も存在します。 堅実な経営スタイルで知られる蔦谷重三郎。 かの有名な喜多川歌麿の作品を出版するときでさえ、ゆっくりと入念な準備を進めたそうです。 しかし、写楽の作品においては、類を見ないアクティブさを見せつけています。 当時、無名かつ無実績の新人である写楽の作品を、一挙に28点も掲載しました。 また、すべてに黒雲母摺と呼ばれる鉱物の粉末をちりばめた特別仕様で出版するという、稀に見る好待遇でデビューを迎えさせました。 慎重な性格の蔦谷重三郎が、デビュー前の新人になぜこのようなハイリスクな出版を行ったのかは、いまだ明らかになっていません。 しかし、彼のプロデュースにより、写楽の作品は江戸中を巻き込むほどの大成功を収めました。 東洲斎写楽が多くの人を魅了する理由 慎重さに定評のある蔦谷重三郎によって大々的にプロデュースされた写楽。 新人作家である彼が多くの人を魅了したのは、人物像が謎なだけでなく、役者絵に込められた躍動感と、絵画としての完成度にあります。 まず、28枚の役者のなかでも一際人気を集めた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』。 これらは写楽の作品でも、役者の人物像と見た目の特徴を、的確に捉えているといわれています。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」の登場人物の1人で、芸妓の身請け金を奪おうとする悪役「江戸兵衛」を演じる大谷鬼次を描いたものです。 あごを突き出してにらみつけるような鋭い眼光や開いた両手が、悪役らしさを生み出しています。 『市川鰕蔵の竹村定之進』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」にて、前半の主人公である竹村定之進を演じた市川鰕蔵を描いた作品です。 市川鰕蔵は、当時の歌舞伎役者の中でも歴代最高と呼ばれており、描かれた風貌からもその自信が現れているように感じられます。 写楽の作品は、対象の人物像を正確に捉えたところが評価される一方、あまりに役者の素を表しすぎたとして、役者から批判も発生したそうです。 良くも悪くも、写楽は忖度のないありのままを描いた浮世絵だったのです。 東洲斎写楽の謎…彼は誰だったのか? 突然の登場から、わずか10か月で姿を消した写楽ですが、その正体には複数の説があります。 蔦谷重三郎や市川鰕蔵も候補の1人として数えられ、果ては葛飾北斎が写楽の正体だという説も。 写楽の正体を探る研究は、長年続けられてきましたが、現在ではある人物が濃厚だといわれています。初期の落款に描かれた「東洲斎写楽」と、同じ作家名を名乗る江戸に住んでいたとされる人物です。 謎の多い写楽の正体 1817年に出版された『諸家人名 江戸方角分(現代のタウンページのようなもの)』によると、八丁掘という現代の東京都中央区に位置する場所に「[号]写楽斎 地蔵橋」との記述が発見されました。 これは、写楽という名の人物が住んでいた場所で、すでに故人であることを意味します。 さらには、1844年に出版された『増補 浮世絵類考』によると、東洲斎写楽が八丁掘に住んでいたことと、徳島藩お抱えの能役者であり、浮世絵師であったことが記されていました。 また、本名を「斉藤十郎兵衛」といいます。 現在では、斉藤十郎兵衛が写楽の正体ではないかと提唱されています。 同名の浮世絵師であることはもちろん、自身も役者であったからこそ見事な役者の大首絵を描けたと考えれば、異論の余地がないのも当然です。 しかし、同名の作家を名乗る偽物の可能性も捨てきれないことから、確証にはいたっていません。 実は写楽は1人ではなかった? 写楽の作品は、第1期〜第4期まであるとされ、3期目から急速に画力が衰えます。 明らかに画風が異なるため、写楽複数人説が浮上しました。 実際に、各期の作品を見ればわかりますが、浮世絵に詳しくない人でも、違いが明らかにわかるレベルです。 ただ、途中で作風を変更した可能性もあります。 写楽の作品が最ももてはやされたのは、第1期の作品。第2期も好評でしたが、1期ほどではなかったようです。 そのため「写楽本人が人気を再燃させるために画風を変えた」との説も唱えられています。 3期から落款の署名が変更されたことから、現在は、写楽複数人説が定説です。しかし、当の本人の正体も判明しておらず、真相はいまだ明らかにされていません。 浮世絵最大のミステリー、東洲斎写楽 現在定説とされている写楽の正体は、八丁堀に住んでいた能役者「斉藤十郎兵衛」が濃厚です。 また「途中から別の人物が作品を描いていた」という説も、ある程度の信憑性を獲得しています。 いずれにしても確証のある証拠はそろっていないため、仮説の域をでません。 江戸を席巻した浮世絵「写楽」の正体が明らかになる日が、いつの日かくるのかもしれません。
2024.11.22
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モネの描いた”見返り美人図”…浮世絵の影響が垣間見える名作とは
クロード・モネとは、19世紀後半に活躍した印象派を代表するフランスの画家です。 代表作の『印象・日の出』は、印象派と呼ばれる名前の由来ともなっています。 生涯を通して多くの美しい絵画を残したモネは、多くの画家に影響を与えました。 実は、風景画を多く手がけてきたモネは、浮世絵に大きな影響を受けた画家の一人。30代のころに浮世絵収集をしており、231点もの浮世絵コレクション を集めるほど日本美術に高い関心を持っていました。 浮世絵に魅せられていたモネは、『ラ・ジャポネーズ』という作品を残しています。 『ラ・ジャポネーズ』をとおして、モネが浮世絵をはじめとした日本美術にどのような関心を持っていたのか紐解いていきましょう。 モネの描いた『ラ・ジャポネーズ』とジャポニズム 熱心な浮世絵コレクターとしても知られているモネは、ジャポニズムの影響を受けて『ラ・ジャポネーズ』という油彩画を制作しています。 『ラ・ジャポネーズ』は、1876年4月に開催された第2回印象派展に出品され、注目を浴びました。 会場で購入はされませんでしたが、衣装の繊細な表現に対して多くの賛辞が寄せられていたそうです。 なお、『ラ・ジャポネーズ』は、同月に行われた競売で2010フランという高値で落札されています。 モネが『ラ・ジャポネーズ』を制作した当時のフランスでは、ジャポニズムが大流行していました。 ジャポニズムは、19世紀後半にヨーロッパで流行していた日本趣味を指しています。 ヨーロッパで活動する多くの画家が、日本の美術作品に衝撃を受けインスピレーションを得ており、モネもその一人でした。 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムのブームが始まった当初に制作された作品です。この作品では、日本的なモチーフを取り入れるのみにとどめられていますが、のちのモネ作品では、モチーフだけではなく技法も取り入れて制作が行われています。 『見返り美人図』 を彷彿とさせる、モネの『ラ・ジャポネーズ』 とは モネが描いた『ラ・ジャポネーズ』は、日本の着物を着た金髪の女性が描かれた油彩画です。 作品の構図や色彩をよく見てみると、日本の浮世絵師である菱川師宣が描いた『見返り美人図』を彷彿とさせます。 『見返り美人図』を描いた菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれている人物です。 本の挿絵としての役割を担っていた浮世絵版画を一つの作品と捉え、メインで制作することで、浮世絵と呼ばれるジャンルを確立させました。 その菱川師宣が描いた肉筆画が、『見返り美人図』です。 『ラ・ジャポネーズ』は、『見返り美人図』からインスパイアを受けて描かれたと考えられており、フランスと日本のモチーフが混じり合って描かれている点が印象的です。鮮やかな赤の着物には、猛々しい武士の姿が描かれています。 また、背景の壁に貼りつけられている多くの団扇の中には、日本の風景画や浮世絵などが描かれています。 『ラ・ジャポネーズ』はまさしく、フランスで大流行したジャポニズムの影響により生まれた、西洋と東洋の文化が混じり合ったユニークな作品といえるでしょう。 鮮やかな色彩が多くの人の目を引き、印象派の繊細な筆使いで光と影を巧みに表現している点も魅力の一つです。 印象派・モネは有名な浮世絵コレクターだった フランスの印象派を代表する画家クロード・モネは、日本の文化に魅了された海外芸術家の一人でもあります。 特に浮世絵を好んでおり、生涯にわたって浮世絵を収集していました。 ノルマンディー地方のジヴェルニーに、モネが晩年を過ごした家があります。 季節の移り変わりとともに、さまざまな花を咲かせる庭園を持ち、家の中には青と白の陶器で作られたタイルが目を引く台所や、黄色で統一されたダイニングルームなどがある家です。 また、庭にある竹やぶを抜けると池にかかる一つの橋が目に飛び込んできます。 自宅の様子から、モネが日本の文化をこよなく愛していたことが伝わってくるでしょう。 さらに多くの人を驚かせていたのは、自宅内に所狭しと飾られている浮世絵の数々です。 その数は、およそ231点。 モネは、特定の浮世絵だけではなく、さまざまな浮世絵師の作品を集めていました。 『ラ・ジャポネーズ』で描かれた妻・カミーユ 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムの影響を受けたモネによって描かれた作品ですが、絵の中の人物が誰であるか、知らない人も多いでしょう。 実は、『ラ・ジャポネーズ』に描かれている赤い着物を着た女性は、モネの妻カミーユです。 カミーユは本来褐色の髪であるため、この作品では金髪のカツラをかぶせて描いたといわれています。 また、『ラ・ジャポネーズ』には、『緑衣の女』と呼ばれる対になる作品があります。 モデルは『ラ・ジャポネーズ』と同様にカミーユが務めました。なお、『緑衣の女』が描かれた当時、まだモネとカミーユは結婚前でした。 モネは、妻であるカミーユをモデルにした作品を数多く制作しています。 カミーユは、結婚前からモデルを務めており、その中で恋に落ちていったといわれています。 カミーユは、モネとの間に長男のジョンと次男のミシェルの2人の息子を授かりますが、32歳という若さで亡くなりました。モネは、カミーユの死に際を描いた『死の床のカミーユ』という作品を残しています。 有名画家モネの描いた”見返り美人”を観賞しよう モネが描いた絵画は、ジャポニズムの影響を受けている作品も多くあります。 絵画を鑑賞する上で、作品から日本の文化を探してみるのも面白いでしょう。 モネの歴史や日本文化との関係性を知ると、よりいっそう親しみが湧き、これまでとは違った視点で作品を楽しめるのではないでしょうか。
2024.11.22
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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浮世絵の祖と呼ばれる、菱川師宣の功績
歴史的文化遺産を残した偉人たちのなかでも菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれる著名な浮世絵師です。 江戸時代を生きる人々を描いた彼の作品たちは、浮世絵を大衆的な文化から芸術にまで昇華させた実績を誇ります。 当時は画期的ともいえる鮮やかな色彩と独特な構図は、後世に続く葛飾北斎や歌川広重らの作品にも受け継がれた技術です。 菱川師宣は、まさしく「浮世絵の祖」と呼ばれるにふさわしい人物といえるでしょう。 浮世絵の祖といわれた菱川師宣 作家名:菱川師宣 生没年:1630?年~1694年 代表作:『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』など 菱川師宣は、浮世絵の歴史に大きな影響を与えた江戸時代初期の浮世絵師です。 後世に続く数々の版画技術を生み出した張本人であり、当時本の挿絵でしかなかった浮世絵を1つの芸術に昇華させた貢献者といえます。 代表作は、肉筆画の『見返り美人図』です。 そのほか、掛け軸や屏風絵など幅広いジャンルも手掛けており、なかでも『歌舞伎図屏風』は、国の重要文化財に指定されています。 菱川師宣の功績は、浮世絵の技法を確立しただけでなく、浮世絵を大衆文化にまで広めたことにもあります。 当時、絵画は高級品で、富裕層しか入手できない代物でした。 しかし、菱川師宣が浮世絵を1枚絵として木版画で大量生産することで、安価で入手できるようになり「一般の人々でも買える絵」として浮世絵が広まりました。 浮世絵が大衆文化として確立したのは、菱川師宣のおかげといえるでしょう。 菱川師宣は、1人の職人であると同時に、優秀なビジネスマンだったことがうかがえます。 菱川師宣とは 安房国平北郡保田村、現在の千葉県に位置する地域で誕生した菱川師宣は、第4子の長男でした。 彼の幼少期については情報がほとんどありません。 生年も明確にはわかっていませんが、1630年ごろ(寛永年間の中ごろ)と推定されています。しかし、生い立ちに関する記載が、1680年の絵手本『大和武者絵』の冒頭にて記されています。 以下は、大和武者絵から抜粋した記述です。 「ここに房州の海辺菱川氏という絵師、船のたよりをもとめて、むさしの御城下にちっきょして、自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗三家の手跡を筆の海にうつして、これに基づいてみずから工夫して、あとこの道一流をじゅくして、うき世絵師の名をとれり」 『大和武者絵』より引用 「自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ」とあるように、幼少期から絵を描くのが好きな少年だったことが想像できます。また、代々家が縫箔師(金箔を布地に施す職人)であったことから、菱川師宣は当初、縫箔師として江戸に修行にでたといわれています。 しかし、絵を描くのが好きだった菱川師宣は、名門絵師である「狩野派・土佐派・長谷川派」の手法を独学で学び、オリジナルの画風を生み出しました。 菱川師宣の使う版画技法は、絵の真似ごとがルーツだったのです。特定の一派に所属せず、絵画手法を習得している背景から、抜群の描画センスを持っていたといえるでしょう。 その後、縫箔師から絵の道に転向したのがいつのことなのか、はっきりとした情報はありません。 しかし、1671年刊行の『私可多咄』に無記名で挿絵を描いていたことから、それより前に転向していたのは確かでしょう。 1年後の1672年には、墨摺絵本『武家百人一首』にて、正式に菱川師宣の名でデビュー。 当時、幕府のお抱え絵師である「御用絵師」以外で刊本に署名をしたのは、菱川師宣が初めてだったといわれています。江戸時代初期の刊本は、文章がメインで挿絵はあくまでおまけ程度でしたが、菱川師宣は挿絵主体の画期的な絵本を刊行し、その順位を逆転させました。 彼が挿絵主体で作った絵本『大和絵のこんげん』は、瞬く間に大ヒット。 江戸の中で着実に知名度を上げていきました。 菱川師宣の代表作・見返り美人図 菱川師宣の代表作とされる『見返り美人図』が描かれたのは、晩年の1688年ごろから1697年のことです。 江戸の町娘をモデルにしたといわれており、女性をあえて正面から描かない手法は、画期的なものでした。 また、著名な人物ではなく「どこにでもいる町娘」をモデルに取り上げたのも、江戸の人々を描く菱川師宣らしさが現れています。 なお、『見返り美人図』は、1948年発行の5年切手の図案に採用されています。 菱川師宣の作品は『歌舞伎図屏風』を始め、国の重要文化財とされていますが『見返り美人図』は指定されていません。 理由は定かではありませんが、ほかの作品たちが文化財に指定されている背景から、今後改めて重要文化財に指定される可能性はあります。 現在は、東京国立博物館にて保管されているため、気になる方は鑑賞しにいくのもおすすめです。 なお、歌舞伎図屏風も同じ場所で展示されています。 菱川師宣の作品 菱川師宣の作品といえば『見返り美人図』と『歌舞伎図屏風』が代表的ですが、そのほかにも文化遺産として大切に保管されている作品が数多くあります。 当人の作品のほとんどは、日本や世界中の博物館や美術館にて保管されており、鑑賞が可能です。 現物が残っていない、または行方がわからない作品もありますが、もしかしたらどこかの家の骨董品として残っているかもしれません。 菱川師宣が制作した作品のなかで、現存するものには『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』などがあります。 このうち『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』は、遊郭である吉原や歌舞伎の舞台裏を題材とした作品です。後世に残る浮世絵は、女性や遊郭をテーマにした作品が多数存在しますが、当時のなかでは非常に珍しいものだったそうです。 一方、『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』では、江戸に住む人々の暮らしが描かれています。 見返り美人図も不特定の町娘がモデルだったように、その時代に生きていた人たちの「今」を記録した絵が、菱川師宣らしさといえます。 今でこそ国の重要文化財に指定されるほどですが、菱川師宣の作品は、常に大衆に向けて作られたものだといえるでしょう。 江戸の人々を生き生きと描いた、菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵を世に広めた1人の職人であり、大量生産できる画期的な印刷手法や本を作り上げたビジネスマンでもあります。 浮世絵で有名な偉人のなかでも、菱川師宣は芸術家とビジネスの両立を達成した人物といえるでしょう。 後世に続く浮世絵文化でも、菱川師宣は重要な役割を果たしました。 菱川師宣の作品は、アメリカ・ワシントンDCにあるフリーア美術館や東京国立博物館など、さまざまな場所で鑑賞できます。 菱川師宣の作品をその目で見たい方は、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
2024.11.15
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浮世絵に描かれた兎たち…兎は古来より神聖で縁起物だった
日本に古くから存在する兎は、浮世絵のモチーフとしてもたびたび登場します。 古来より神聖で縁起物とされてきた兎について知ることで、より浮世絵の深い楽しみ方を身につけられるでしょう。 兎がモチーフとなっている浮世絵とともに、兎の説話や童話などの意味についても理解を深めることをお勧めします。 日本に古来からいた、兎 浮世絵にも描かれている兎は、いつごろから日本にいるのか気になる方も多いのではないでしょうか。 日本では、各地に点在している縄文時代の貝塚から兎の骨が出土していることや、古事記の『因幡の白兎』に登場していることから、その時代にはすでにかなりの数の兎が生息していたと考えられます。 日本の固有種であるニホンノウサギは、灰色や褐色の毛色をしており、冬の積雪地帯では白毛に生え変わります。 兎は、日本に限らず世界各国でよく擬人化されて童話や説話のモデルとして利用されているのが特徴。日本では、月面の模様が餅つきをする兎に見えていたことから、兎は月に棲んでいるという説話が仏教や道教の説話、民間説話に残されています。 また、兎は山の神の使いともいわれています。 日本の各地で兎にまつわる行事が行われており、人が暮らす里と神や動物がいる山を自由に行き来する様子から、境界を超える神使であると考えられてきました。 『因幡の白兎』に登場する兎は、オオクニヌシノミコトに助けられた後、感謝の言葉とともにオオクニヌシノミコトがヤカミヒメと結ばれる予言を伝え、2人の仲を取り持ちます。 この神話の内容から、兎は人のご縁を結ぶ導きの動物としても表現されることが多くなったのです。 『金太郎』に登場する兎 金太郎とは、坂田金時の幼名であり、金太郎を主人公とする昔話や童話のタイトルでもあります。 金太郎の童話として有名なエピソードも、実在した坂田銀時の生い立ちになぞらえているとされています。 金太郎は、小さいころから力持ちで、熊と相撲をとったり、鹿や猿、兎などと野山を駆け回ったりして遊んでいました。 ある日、いつものように動物たちと散歩をしていると川につきました。 橋がないため動物たちが渡れずに困っていると、金太郎は川辺で育つ大木を引き抜き川に渡して橋にしたのです。 これを見学していた侍が感心して、金太郎に腕相撲を挑み、金太郎は侍に腕相撲で勝利します。 京都から来たこの侍は、強い人を全国で探し回っていました。 そして、力比べで勝利した金太郎を京都に連れていき、のちに坂田金時という立派な侍に育てたとされています。 有名な説話が多く存在する金太郎は、浮世絵のモチーフとしても多く描かれていました。 鳥居清長(とりいきよなが)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川国芳(うたがわくによし)など多くの人気浮世絵師にも描かれています。 『かちかち山』に登場する兎 かちかち山は、おばあさんを殺したタヌキを、おじいさんに代わって兎が成敗する話です。 かちかち山が民話として成立したのは、室町時代後期とされています。 この民話では、兎は知恵者で人の味方として描かれており、タヌキは人をだましたり化かしたりする者として描かれているのです。 かちかち山の物語では、兎がタヌキを懲らしめる描写が多くあります。 芝刈りに誘ったタヌキの背中に火をつけ大やけどを負わせ、とうがらし入りの味噌を薬と偽って背中に塗りたくり、タヌキは痛みで苦しみました。 兎はさらにタヌキを漁に誘い、泥の船に乗せると海で船が溶け出し、タヌキは溺れてそのまま死んでしまいます。 かちかち山では、日本を含む世界各国で古くから裁判の一種として用いられてきた火責めや水責めなどが行われており、物語の中で兎が裁判官となりタヌキの罪を罰しています。残酷な物語に聞こえますが、悪いことをした者には罪が与えられるというメッセージが込められているといえるでしょう。 浮世絵の時代から兎は神聖で身近な生き物だった 兎は日本で古くから神聖な動物として扱われており、さまざまな説話や童話に登場しています。 『因幡の白兎』では、人と人を結ぶ役割を果たしていたり、『かちかち山』では、知恵者として罪人を罰して人間の味方となったり、兎は人との関係性が密接であったと考えられるでしょう。 兎は、芸術作品のモチーフとしてもよく用いられており、浮世絵にも多く描かれています。 神聖な生き物でありながらも、古くから人の身近で暮らしていたといえます。 浮世絵作品を観賞する際は、兎が描かれている背景や意味を想像しながら楽しむのもよいでしょう。
2024.08.15
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浮世絵に描かれた犬たち…おかげ犬から南総里見八犬伝まで
江戸時代に描かれた浮世絵には、犬を題材にした作品も多くあります。 昔から人々の生活に馴染み、生活を共にしてきた犬にかかわる作品を知り、当時の人々の生活に触れていきましょう。 『南総里見八犬伝』と柳川重信 江戸時代に書かれた『南総里見八犬伝』と浮世絵師の柳川重信には、深いつながりがあります。 『南総里見八犬伝』は、現代でも歌舞伎の演目として披露されたり、ドラマになったりと根強い人気を誇っています。作品自体の面白さはもちろんありますが、当時、浮世絵師・柳川重信が描いた『南総里見八犬伝』の表紙の挿絵も、大きなインパクトを残し、人々の目を惹きつけたといえるでしょう。 『南総里見八犬伝』とは 曲亭馬琴(1767~1848)による長編小説『南総里見八犬伝』は、安房の里見家の興亡を描いた物語です。 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの徳の玉を持つ八犬士を中心に、里見家の危機を救うために奮闘する姿が描かれています。 歌舞伎の人気演目の1つで、浮世絵にも多くの作品が残されています。 表紙や挿絵を描いた浮世絵師、柳川重信 作家名:柳川重信(やながわしげのぶ) 代表作:『絵を描く花魁図 』『三都名所之花 』 柳川重信は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 葛飾北斎(かつしかほくさい)の弟子となり、のちに北斎の長女・美与と結婚しました。柳川重信は、曲亭馬琴が書いた長編小説『南総里見八犬伝』の表紙や挿絵を描いたことでも有名です。 挿絵は、養子の重山(後の二代目重信)とともに担当しました。 柳川重信の描いた表紙は犬だらけ 柳川重信が描いた『南総里見八犬伝』の挿絵のほとんどに犬が登場します。 もちろん『南総里見八犬伝』の中でも犬が登場しますが、決して犬ばかりのストーリーではありません。 しかし、シリーズごとに異なるデザインの表紙には、毎回たくさんの犬たちが描かれています。 かわいらしい見た目から、現在でも注目されているデザインです。 犬のタッチは表紙によって異なり、丸くデフォルメされた愛らしい姿で描かれているものから、擬人化された凛々しい姿のものまでさまざまあります。 小さな子犬が表紙にぎゅうぎゅう詰めで描かれたものもあり、犬好きにはたまりません。 柳川重信の描いた犬の表紙により、以後の『南総里見八犬伝』にちなんだ作品の表紙でも、犬をメインにしたデザインが多く採用されています。 江戸時代の犬と人の関係 現在、さまざまな動物と共に暮らす日本ですが、江戸時代でも多くの動物がペットとして可愛がられていたようです。 なかでも代表的なのは、犬や猫で、武家や町人、長屋の人々にとっても身近な動物でした。 江戸時代初期は、西洋から大型犬が伝わってきていたこともあり、武家が威厳を示すために大型犬をよく飼っていたといわれています。 その後、日本犬が主流となり江戸の町のあちらこちらで、犬が放し飼いになっていました。 ペットとしてかわいがられた狆(ちん) 江戸時代では、狆と呼ばれる犬が武家など上流階級で飼育されていました。 狆は、日本で初めて改良された愛がん犬で、江戸時代では猫のような犬、犬と猫の間の動物などといわれていた歴史を持っています。 「ちいさいいぬ」が省略されていき、「狆(ちん)」になったともいわれています。 性格は温和で物静か。 体臭が少なく、犬は屋外で飼うものと認識されていた江戸時代においても、狆は屋内で飼育されていました。 当初は、大奥、大名家、遊郭などで人気を集めており、その後、上流階級のステータスとして、一般庶民にも広まっていきました。 伊勢屋、稲荷に、犬の糞 江戸時代は、犬の数自体が多く、当時は放し飼いが当たり前になっていました。 そのため、江戸のあちこちで犬を見かけ、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞(いせや、いなりに、いぬのくそ)」といわれるほど、江戸の町には伊勢屋の屋号を持つ店と、お稲荷さんと犬が多かったのです。 長屋のある地域では、住人全体が飼い主の位置づけで、各住人がそれぞれに餌をやったり、遊んだりして飼っていました。 犬は番犬としても役立ちますが、子どものよい遊び相手になっていたともいえます。 お伊勢参りに行った犬たち 江戸時代には、お伊勢参りをする「おかげ犬」が相次いで現れました。 飼い主とともに伊勢に参るのではなく、病気や用事で参詣できない飼い主に代わって、犬が単身伊勢参りを行うものです。 犬が1匹で伊勢まで行き、お参りを行うとはにわかに信じがたい話ですが、飼い主の代わりにお参りを果たした犬の像や記録が各地で残されています。 当時、犬がお伊勢参りをする様子は、歌川広重の描いた『東海道五十三次 四日市 日永村追分参宮道』にも登場していたのです。 鳥居の前に木札や風呂敷を結びつけた犬が描かれており、お参りに来た人々と交流を交わす様子が描かれています。 また、福島県須賀川市の十念寺には、シロと呼ばれる犬の像が祀られています。 江戸時代後半、シロは病気で寝込んでお伊勢参りに行けない飼い主に代わり、2か月かけてお伊勢参りを行い、伊勢神宮のお札をもらって飼い主のもとに帰ってきたというお話です。 浮世絵にも残された、犬と人間の変わらぬ関係 現代では多くの犬が、人々の生活の中で一緒に暮らしています。 江戸時代でも、犬は人のそばで暮らし、時には主人の代わりに旅に出るなど、その関係と信頼の深さがわかるエピソードも多いことがわかります。 古くから愛され続けた犬がモチーフになっている浮世絵作品も多く残されているため、当時の人々と犬の暮らしが垣間見える作品の観賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.15
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浮世絵に描かれた大きな鯨!江戸時代の捕鯨・名将の逸話
古来より、日本と鯨には密接な関係性があります。 日本では捕鯨が盛んに行われており、鯨は当時の人々の食料として重宝されていました。日本人が生きていくために必要とされていた鯨は、浮世絵でもたびたび描かれています。 巨大な鯨を複数の大判を連ねた続絵で描いた作品は、圧倒的なスケールで人々を魅了していました。 日本人の生活や娯楽に結びついている鯨と捕鯨の歴史をたどり、浮世絵作品の楽しみ方に深みを与えましょう。 浮世絵に描かれた鯨 巨大な鯨は、浮世絵のモチーフにもよくなっており、多くの有名浮世絵師によって描かれています。 有名な作品としては、歌川国芳の『宮本武蔵の鯨退治』、葛飾北斎の『千絵の海 五島鯨突』などがあります。 絵師による描き方の違いを比較しながら楽しむのもよいでしょう。 歌川国芳『宮本武蔵の鯨退治』 歌川国芳(うたがわくによし)の『宮本武蔵の鯨退治』は、宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説を基に描かれた作品。 宮本武蔵とは、江戸時代初期に活躍した剣豪で、二天一流剣法の祖ともいわれ、日本の剣道史上もっとも有名な剣豪の1人です。 生涯無敗を誇ったとされる宮本武蔵の苛烈な生き様は、宮本武蔵死後も歌舞伎や浄瑠璃、小説などでたびたび描かれています。 『宮本武蔵の鯨退治』は、伝説的な強さを誇る宮本武蔵が鯨を退治する様子が描かれています。 3枚続きの大判に大きな鯨の絵が描かれ、迫力のある作品です。 波が斜めに描かれている様子から、海が平衡感覚を失うほど荒れ狂っている様が伝わります。空は灰色で暗雲が立ち込めています。 この悪条件の中、宮本武蔵が刀1本で鯨に立ち向かい、剣を突き立てている勇ましい姿が描かれており、ダイナミックな構図が魅力的です。 宮本武蔵の表情には自信が感じられ、その圧倒的な強さを表現しているといえるでしょう。 葛飾北斎『千絵の海 五島鯨突』 葛飾北斎(かつしかほくさい)も鯨の浮世絵を描いており『千絵の海 五島鯨突』は、『千絵の海』シリーズの1つとして知られています。 五島の海に姿を表した大きな鯨を、30艘ほどの船で取り囲み、鯨を入り江に追い込む様子が描かれています。 鯨は尻尾を振り上げ、巨大な波しぶきをたてながら暴れているようにも見えるでしょう。また、銛はまだ刺さっておらず、これから船団が鯨に近づいていき、一斉に銛を打ちこむ様子であるといえます。 肥前国(現在の長崎県)西端にある列島の五島では、現在でも漁業が盛んな地域です。 捕鯨は、紀州熊野灘(現在の和歌山県)や土佐湾(現在の高知県)と並んで、盛んに行われていました。 日本人はいつから捕鯨をしていたのか 四方を海に囲まれた日本では、古来より漁業が盛んに行われてきました。 また、日本の近海が鯨の回遊路にあたっていたため、鯨も大切な食料として盛んに捕鯨を行っていました。 さまざまな鯨が行き交う路の近くに日本列島が存在している環境から、日本人が鯨を捕獲して食す文化が育まれていったと考えられます。 縄文時代から鯨を捕獲する文化は始まっていたとされ、江戸時代初期に入ると鯨組による組織的な捕鯨が開始されました。 のちに網取り式捕鯨と呼ばれる効率的な捕獲方法も開発され、日本における鯨の供給量は増大していきます。 当時、日本にはまだ生肉類を保存する技術がありませんでした。そのため、赤肉や皮類は塩蔵して全国各地へ出荷されています。また、内臓は主に産地でのみ消費されていました。 江戸時代後期になると、アメリカの捕鯨船が日本近海で鯨を乱獲し、資源の確保が悪化してしまいます。 日本の沿岸捕鯨は一時的に衰退の一途をたどりました。その後、明治時代後期にノルウェーから伝わった近代捕鯨が導入され、供給量は回復していきました。 鯨に対峙する様子をダイナミックに描いた浮世絵 江戸時代を中心に当時の捕鯨は、現代よりも技術がなかったため命がけで鯨と対峙していたといえます。 当時の時代背景や捕鯨環境を考えると、浮世絵として描かれている鯨の作品を見る視点も変わってくるのではないでしょうか。 ダイナミックな構図で描かれた迫力のある鯨絵を、当時の様子を想像しながらぜひ楽しんでみてください。
2024.08.15
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