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花鳥画浮世絵を高く買取してもらおう | 高額査定のコツやポイントまで
江戸時代ごろから人気を集めているジャンル「浮世絵」。 さらに、そこから複数のテーマに分類され、さまざまな題材が描かれている浮世絵が誕生しています。 現代でも人気のジャンルの一つが、花鳥画浮世絵です。 有名浮世絵師が描いた作品も多く残されており、作家や作品によっては高価買取が狙えます。 浮世絵の美しい花鳥画…高額買取してもらえる? 浮世絵の中でも寛政期以降に人気を広げた花鳥画浮世絵。 浮世絵は、日本画の中でも人気なジャンルの一つで、さらにさまざまなテーマに分かれています。 武将絵や美人画、役者絵、風景画、花鳥画など題材が豊富なのも特徴の一つです。花鳥画浮世絵も人気ジャンルの一つで、作品や作家によって買取価格が高くなると予想されます。 買取時に価値の把握ができるよう、花鳥画浮世絵がどのようなものか知り、高価買取のポイントを押さえることが大切です。 花鳥画浮世絵とは そもそも浮世絵とは、江戸時代から大正時代に描かれた町人の日常生活を表現した絵のことです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、その一つが花鳥画浮世絵です。 花鳥画そのものは、花や鳥、昆虫などをモチーフにした絵画を指します。 花鳥画の起源は、六朝時代の中国です。 宋時代以降には、民間の間で寓意を取り入れた花鳥画が広がりを見せます。 日本では、平安時代ごろから花鳥画の制作が始まり、南北朝時代には、禅僧による水墨画の花鳥画が描かれるようになりました。 その後、室町時代に色鮮やかな花鳥画が誕生し、隆盛期を迎えます。 桃山時代には、日本ならではの様式が確立され、江戸時代中期ごろからは、写実的な作品が多く制作されるようになりました。 花鳥画浮世絵は、俳諧や狂歌などの当時の文芸との関係性が深かったため広がりを見せました。寛政期を境に、当時の浮世絵2大ジャンルであった美人画と役者絵は、徐々に後退しています。 のちに風景画や花鳥画などがメインとなった浮世絵が多く描かれるようになりました。 花鳥画浮世絵は高く売れる? 江戸時代に暮らす人々の生活を描いた浮世絵には、ジャンルがさまざまあり、花鳥画浮世絵もその一つです。 花鳥画浮世絵は、日本だけではなく海外からも高く評価されている絵画で、作品によっては高価買取が狙えます。花鳥画浮世絵の価値は、描いた絵師が誰であるかも大きく関係しています。 歴史的に有名な絵師が描いた花鳥画浮世絵であれば、高値で買い取ってもらえることも。描いた絵師を確認するためには、落款やサインをチェックしましょう。 また、鑑定書や付属品がある場合は、一緒に査定に出すと評価が上がります。 有名絵師が描いた花鳥画浮世絵ほど、偽物も出回っています。 そのため、自宅にある花鳥画浮世絵の真贋や価値を知りたい方は、プロの査定士への査定依頼がお勧めです。 著名な浮世絵師も花鳥画を描いた 江戸時代の始まりとともに町民の間に広がりを見せた浮世絵。 日本絵画の一つでジャンルもさまざまあります。 有名な浮世絵師も花鳥画浮世絵を多く手掛けています。花鳥画浮世絵を描いた有名浮世絵師は、西村重長・歌川広重・小林清親などです。 有名な浮世絵師と人気作品をチェックし、自宅にある花鳥画浮世絵は、高価買取してもらえるかの判断材料にしましょう。 江戸時代初期に活躍した、西村重長 作家名:西村重長(にしむらしげなが) 代表作:『新吉原月見之座舗』『竹田新からくり』 生没年:1697年?-1756年 西村重長は、江戸時代の初期に活躍した浮世絵師です。 鳥居派の中でもとくに鳥居清信風の漆絵による役者絵を描いていました。その後は、西川祐信や奥村政信風のテイストも取り入れ、漆絵美人画や浮世絵、花鳥画、歴史画、風景画などの紅摺絵も描いています。 西村重長は、多彩な浮世絵師で墨線を使わず、紅、黄、緑、鼠色で摺った無線絵の一種である「没骨の水絵」と呼ばれる技法の作品も多く描きました。それらの作品は、のちに石川豊信・鈴木春信・礒田湖龍斎らの画風にも影響を与えたといわれています。 また、江戸通油町(現・東日本橋)の地主でもあり、晩年は神田で古書店を開業しています。 西村重長は、多くの浮世絵作品を手掛け、花鳥画浮世絵も描いたとされていますが、現代まで残されている作品は少ないのが現状です。 歌川広重の描いた、花鳥画 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『名所江戸百景 水道橋駿河台』『東都名所 日本橋之白雨』 生没年:1797年-1858年 歌川広重は、多くの人気風景画を残していることで有名ですが、実は花鳥画も多く手掛けています。その数は数百点にものぼるといわれており、多くの作品が短冊型で制作されています。 歌川広重が描く花鳥画浮世絵の特徴は、静止画でありながらも躍動感のある生き生きとした鳥の描写です。 ツバメやカワセミ、千鳥などが飛翔する様子や枝にとまった瞬間の様子、身体をさかさまにして枝にぶら下がる様子など、さまざまなシチュエーションの鳥を描いています。歌川広重が描いた花鳥画浮世絵には『水葵に鴛鴦』『萼あじさいに川蝉』などがあります。 ”最後の浮世絵師”小林清親の描いた、花鳥画 作家名:小林清親(こばやしきよちか) 代表作:『東京五大橋之一両国真景』『於黄海我軍大捷第一図』 生没年:1847年-1915年 小林清親は、15歳の時に父が亡くなったことをきっかけに元服して家督を継ぎ、幕臣となりました。 第15代将軍徳川慶喜のもとで多くの合戦に参加しています。 その後、江戸幕府がなくなると、母親とともに徳川慶喜らを追って静岡に移住しました。母が亡くなった27歳ごろには、東京に戻り絵師としての活動を本格化させました。 西洋画家に師事したといわれていますが、誰に師事したかは明確になっておらず、一説では、イギリス人の風刺画家「チャールズ・ワーグマン」に師事していたといわれています。 小林清親の本格的なデビューは、1876年と明治時代に入ってからでした。 風刺画や風景画を多く手掛けていた小林清親ですが『鶏と蜻蛉』『柿に目白』など花鳥画も描いています。 人気の花鳥画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 現代でも人気の高いジャンルの一つである花鳥画浮世絵。 多くの有名浮世絵師によって描かれており、作品や作家によっては、高価買取が狙えるでしょう。高価買取を狙いたい方は、まず手持ちの花鳥画浮世絵が、どの浮世絵師によって描かれているかのチェックがお勧めです。 また、買取価格には、作品の保存状態も大きく影響します。 破れやシワ、シミなどが目立つ状態だと、買取価格は下がってしまうでしょう。作品の買取を考えている場合は、保管方法にも気を遣うことが大切です。 自宅に眠っている花鳥画浮世絵がある方は、ぜひ一度プロの査定士へ査定を依頼してみてくださいね。
2024.08.13
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迫力ある相撲絵:浮世絵買取は実績ある買取業者へ相談を
迫力ある相撲絵は、高価買取が狙える浮世絵です。 倉庫に眠っている浮世絵や相撲絵を発見したら、まずは査定士に相談してみましょう。 江戸時代の有名な絵師も相撲絵を数多く描いており、現代でも人気を集めている作品もあります。浮世絵のなかでも相撲絵の価値を知るためには、相撲絵がどのようなものか、いつごろから人気を集めているかをチェックしてみると良いでしょう。 江戸庶民も熱狂!相撲絵の浮世絵を買取してもらおう 相撲は日本の国技であり、土俵から外に出たら負けというシンプルなスポーツです。 現在の相撲の形式は、江戸時代に確立されたといわれています。土俵入りの儀式や化粧回しなど現在でも行われている様式は、江戸時代から誕生していきました。 また、浮世絵としても人気を集めており、有名な絵師が描いた相撲絵は、現在でも高価買取が期待できるでしょう。 相撲絵とは 相撲絵とは、浮世絵版画のなかでも相撲を描いた作品を指します。 力士の似顔絵や取り組みの様子、土俵入りなどもあれば、平常の姿を描いた作品もあります。のちには、力士たちが宴会をする様子や稽古場風景なども描かれるようになりました。 相撲浮世絵は高く売れる? 相撲浮世絵は、作品によって高価買取が狙える浮世絵です。 相撲は、古来より神事として扱われており、競技や娯楽として多くの日本人に親しまれてきました。相撲の浮世絵は、プログラムや取組表など、競技に必要な版画を制作することから始まっています。そこから人気が集まり、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの有名絵師も相撲の浮世絵を描くようになりました。 実際に有名な絵師が描いた相撲絵もいくつも現存しており、特にそういった作品であれば高価買取が期待できる浮世絵です。 ご自宅に相撲浮世絵がある方は、ぜひ一度査定に出してみてはいかがでしょうか。 江戸時代には相撲が大ブームに 江戸時代に大成した相撲は、神事として古くから受け継がれてきています。浮世絵としても人気を集めており、当時の有名力士が描かれた浮世絵も多く存在しています。 歌舞伎と並んで人気だった、相撲 相撲は、神話や伝説にも登場する競技です。 なんと4世紀ごろの古墳時代の出土品に相撲人形があり、実に古くから競技が行われていたことが分かっています。 また、古事記や日本書紀の神話や伝説にも登場し、神事としても知られています。稲作が開始されると、農民の間で稲が豊作となるよう祈ったり、占ったりするための行事としても執り行われていました。 奈良時代や平安時代に入ると宮廷儀式である相撲節会となり、天皇の前で相撲を取る天覧相撲が行われています。 武士の時代に入ると、力が強いと戦いに必要な武術に長けているとみなされ、武家で力士を雇うようにもなりました。 日本で有名な戦国武将の1人である織田信長は、大の相撲好きとしても知られており、毎年力士を集めて相撲大会を開くほどでした。信長の相撲好きについては『信長公記』と呼ばれる資料にも記載があります。 そして、江戸時代に現在行われている相撲の原形が確立され、武士の娯楽として親しまれてきた相撲が庶民の間にも広まっていったのです。 勧進相撲は、お寺や神社の修繕に必要な費用を収集する目的で行われていた相撲として有名です。大店の商人がスポンサーとなり、数多くの名試合を生み出し、庶民を楽しませていました。 プロの力士が誕生したのも江戸時代です。 江戸や大阪、京都などで相撲興行が活発に行われ、相撲風景を描いた錦絵も制作されるように。絵のモデルにもなったことで、さらに人々の間で相撲人気が広まっていきました。しかし、相撲の試合ではけんかや争いが絶えず、政府は頻繁に禁止令を出していたそうです。 そのため、勝負の決まり手を四十八手に定めたり、現在の土俵のように俵で丸く仕切ったりなど、競技としてさまざまなルールが決められていきました。また、力士を養成する部屋制度もこの時代に誕生しています。 ふんどしにまげ姿の衣装は、古くからの伝統で、このようなしきたりが数多く残っている相撲は、単なるスポーツではなく日本の文化を受け継いだ伝統的な文化といえます。 筋肉隆々、巨大に描かれた力士たち 相撲の浮世絵では、独特の表現が用いられ多くの力士が描かれてきました。 力士は、背が高く体重も重いため、大きな力士の隣に世話係を小さく縮こまっているように描くことで、その特徴を描写することもありました。 また相撲絵では、力士がどれだけ巨体で迫力があるかを伝えるために、筋肉隆々な描き方がされています。 相撲絵として描かれた人気力士 競技でも相撲絵としても人気のあった力士として、4代目横綱の谷風(たにかぜ)、5代目横綱の小野川(おのがわ)、無双力士の雷電(らいでん)などが挙げられます。いずれも、浮世絵師の勝川春英(かつかわしゅんえい)によって描かれています。 4代目横綱の谷風は、伝説として語られている江戸の名横綱。 歴代の力士のなかでも、強豪として語り継がれる偉大な力士で、全盛期には4年間負けなしだったといわれています。63連勝という大きな功績を残し、江戸時代における相撲文化を大いに盛り上げた力士の一人といえるでしょう。 5代目横綱の小野川は、4代目横綱である谷風の連勝記録を64勝で止めた力士でもあります。 谷風やのちに紹介する雷電とともに、相撲の黄金時代を築き上げた力士の一人といえるでしょう。176cm・116kgと力士としては決して巨体とはいえない体格で、技能派力士としても知られています。 雷電は、江戸時代に活躍した力士で、生涯勝率が9割6部2厘と驚異的な勝率を叩き出しています。 この記録は、歴代1位でいまだに破られていません。254勝10敗2分で優勝相当成績25回のうち、全勝が7回で44連勝を含んでおり、歴史的な記録といえるでしょう。 この屈強な力士たちの浮世絵を描いたのが勝川春英(かつかわしゅんえい)です。 勝川春英は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師で、勝川春章の門人でした。相撲絵のほかにも役者絵や狂画、武者絵などを描き、版本の挿絵や肉筆画なども手がけていることで有名です。 人気の浮世絵・相撲絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 江戸時代ごろから長く日本の庶民に愛され続けている浮世絵。 多くの有名絵師を排出している江戸時代には、浮世絵の人気が多くの人の間で広まっていました。浮世絵のジャンルの一つである相撲絵もまた、人気作品のひとつです。日本の国技である相撲をモチーフとしており、筋肉隆々の迫力ある力士の絵が魅力といえるでしょう。 浮世絵は現在でも多くのコレクターがいるため、骨董品市場の中でも人気ジャンルの1つ。そして、相撲絵の浮世絵も例外ではありません。相撲絵の価値をより正確に評価してもらうのは、実績のある浮世絵買取業者へ相談するのが良いでしょう。プロの査定士が、状態などを見ながら納得いく価値で評価をしてくれます。
2024.08.13
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浮世絵の最高額作品、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』
浮世絵をはじめとした美術作品は、作品の質や画家の知名度などにより、時代が経つにつれて価値が上がっていくものもあります。 浮世絵は、日本だけではなく世界的に人気の美術作品です。 そのため、オークションでは、希少性の高い作品に驚くほどの価格がつくことも。 浮世絵の中でも、どのような作品が高額でやり取りされているのか確認してみましょう。 最高額の浮世絵、『神奈川沖浪裏』 最も高い金額でやり取りされた浮世絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『神奈川沖浪裏』です。 近年、浮世絵は海外のオークションでも人気が高まる一方。相場も大きく右肩上がりになっています。 『神奈川沖浪裏』のオークションは、2023年3月にニューヨークのクリスティーズで行われました。 入札価格は、なんと、280万ドル(約3億6000万円)。 過去の最高額も同じく『神奈川沖浪裏』で、2021年に159万ドルで落札されています。 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎が描いた傑作『富獄三十六景』の中の一作品であり、富士山の手前に大きな波が描かれたこの作品を、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 『富獄三十六景』は、富士山をさまざまな地域から描いた浮世絵で、その中で描かれている『神奈川沖浪裏』は、荒れ狂う海を進む押送船と富士山がテーマです。 葛飾北斎は、長寿であり遅咲きの浮世絵師として知られています。 この『神奈川沖浪裏』が描かれたのも、葛飾北斎が70歳のころです。 葛飾北斎の作品は、海を渡りゴッホやゴーギャンなど、海外の偉大な画家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎の作品を見てみると、1人の絵師が描いたとは思えないほど画風が違っているのです。これは、若くして狩野派や土佐派、西洋画法など、さまざまな画風の絵画を学んできたためと考えられます。 なぜ浮世絵は最高額を更新しつづけているのか 海外のオークションで浮世絵が最高額を更新しつづけるのには、海外人気の高い葛飾北斎が関係していると考えられます。 もちろん、葛飾北斎は日本でも人気の高い絵師の1人です。 しかし、アメリカの雑誌が1998年に発表した「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」に日本人として葛飾北斎が選ばれており、日本と海外では人気の度合いに大きな差があるといえるでしょう。 2017年には、イギリス・ロンドンにある大英博物館で特別展「北斎 - 大波の彼方へ」が開催され、大盛況を納めています。 海外人気が高い理由としては、葛飾北斎の斬新な画風が考えられます。 ルネサンス期から続くヨーロッパの絵画技法は、19世紀半ばごろに画一的になり、盛り上がりに欠ける一面がありました。その時期に、葛飾北斎の浮世絵がフランス・パリの万国博覧会で出展され、多くのヨーロッパ人に衝撃を与えたのです。 モネやルノワールなど印象派のフランス画家が、浮世絵をモチーフにした作品を次々に描き、ジャポニズムと呼ばれました。 浮世絵や葛飾北斎は、日本以上に海外からの人気を得ており、オークションを中心に最高額を更新しているといえるでしょう。 これからも浮世絵は最高額を更新する可能性が 海外人気が高く、オークションでも高値で取引されている浮世絵。 葛飾北斎が描いた『神奈川沖浪裏』は、2023年3月に280万ドル(約3億6000万円)で落札されています。 海外では、多くの有名画家が葛飾北斎の浮世絵に衝撃を受けています。 日本趣味や日本の芸術が西洋の芸術作品に影響を及ぼす、ジャポニズムと呼ばれる現象も引き起こしているのです。 このように、海外で高い人気を誇る浮世絵は、美術投資の一つとしても注目されています。 作品によっては、オークションにて高値でやり取りされることから、投資価値のある美術品として購入する人も増加傾向にあります。 海外での浮世絵人気は、今後も高まっていく可能性があり、オークションの最高額を更新する日もそう遠くはないでしょう。
2024.08.13
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天才は一日にしてならず!葛飾北斎の初期作品からその進化を見る
日本だけではなく、海外からも高い評価を得ている浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は、生涯にわたって絵を描き、追求し続けたといわれています。 世界的に有名な『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、北斎が70歳を超えてから描いたとされていることに、驚きを感じる方もいるのではないでしょうか。 そこに至るまでにどのような進化があったのかを知るために、北斎の初期作品から紐解いていきましょう。 葛飾北斎の初期作品とは 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門し絵師となりました。 90歳の長寿を全うし、生涯現役を貫いています。最期まであと5年、10年生きられれば真の絵描きになれたと話していたことから、北斎は常に高みを目指して描き続けていたことがわかります。 そんな絵に情熱を注いだ北斎が描いた作品がどのように進化していったのか、初期作品から見ていきましょう。 処女作『四代目岩井半四郎 かしく』など 葛飾北斎の処女策として知られているのは、『四代目岩井半四郎 かしく』です。 1779年と、勝川春章に弟子入りした翌年に発表されています。北斎の錦絵デビュー作品の1つで、勝川春朗と号して描かれた浮世絵です。 勝川春朗時代に描いた作品には、役者似顔絵や美人風俗、名所絵、相撲絵、伝説古典、和漢武者、信仰画、動植物、金太郎、日本や中国の子どもなどがあり、ジャンルを限定せず多種多様な作品を手掛けていました。 北斎は、好奇心旺盛で絵に対する熱意も高かったことから、師の模倣だけでは飽きたりず、狩野派や唐画、洋画の画法も学んでいきました。 しかし、ほかの流派の画法を学んだことを咎められ、勝川派を破門されています。 『おしをくり はとう つうせんのづ』 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が描かれる30年近く前にも、葛飾北斎は同じ構図の波の絵を描いています。 それが、『おしをくり はとう つうせんのづ』。 この作品は『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の原型ともいわれ、北斎が45歳ごろに描いたものといわれています。 当時、北斎は西洋画の技法を学んでいたとされ、その影響が随所に現れている作品です。 原型ということもあり、構成は似ていますが、波の描かれ方が大きく異なっている点が見て取れます。 『おしをくり はとう つうせんのづ』では、丸みを帯びた波が描かれていますが、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、波の先が鋭く細かく表現されており、波のしぶきにより勢いのある様子が表されています。 30年の時を経て写実性が高まったといえるでしょう。 また、構図にも微妙な違いがあります。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、下から見上げる視点で描かれていますが、『おしをくり はとう つうせんのづ』では、見下ろす画角で描かれているのです。 視点を低くしている方が、大波の迫力や臨場感が伝わってくる作品といえます。 北斎の絵が進化し続けたのは、その向上心から 90歳で亡くなるまで生涯現役を貫いた葛飾北斎が絵にかけた情熱は、はかり知れません。 浮世絵版画以外にも、版本の挿絵や肉筆画も手掛けていました。 とくに版本は、力強く迫力のある描写や、ダイナミックな構図で読者を圧倒し、人気を集めていたそうです。 当時流行っていた作家・曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』といった作品をはじめ、さまざまな活字作品を圧倒的な表現力で絵画化していきました。 露木氏曰く、余北斎翁の門に入り、画法を学びしが、一日阿栄にむかひ、嘆息して謂て曰く、運筆自在ならず、画工とならんを欲するも、蓋し能はざるなり。 阿栄笑て曰く、我が父幼年より八十有余に至るまで、日々筆を採らざることなし。 然るに過ぐる日、猶自腕をくみて、余は実に猫一疋も画くこと能はずとて、落涙し、自ら其の画の意の如くならざるるを嘆息せり。 すべて画のみにあらず、己れ及ばずとて自棄てんとする時は、即これ其の道の上達する時なりと。 翁傍にありて、実に然り、実に然るなりといへり。 引用:飯島虚心 著、鈴木重三 編『葛飾北斎伝』岩波文庫 葛飾北斎が制作した作品は数多く、版画や錦絵のほかに挿絵や着物のデザインなど、浮世絵師として残した作品は約3万点を超えるといわれています。 このように情熱を燃やし生涯浮世絵を描き続けた北斎は、画狂人とも呼ばれています。 しかし、初期作品である『おしをくり はとう つうせんのづ』の画風と名作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の画風には大きな違いが。 このことから、世界中で高い評価を得ている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が完成するまでには、常に向上心と執着心を持ち続け、絵を描き続けた北斎の絶え間ない努力が垣間見えるでしょう。 亡くなる直前にも、まだ真の絵師にはなれていないと悔やむ姿があったとされることから、現状に満足することなく、常に進化し続けようと努力してきた北斎の姿が目に浮かびます。 葛飾北斎の作品に興味が湧いた方は、ぜひ有名作品だけではなく初期の作品も鑑賞し、その違いを楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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猫も金魚も…擬人化がかわいい、歌川国芳の浮世絵
浮世絵のジャンルの一つに擬人化があります。 主に、天保の改革による浮世絵への厳しい規制がかけられていた時代に描かれていました。 擬人化の浮世絵で有名なのが歌川国芳です。 ユーモアあふれるデザインと、幕府への風刺が入り混じった浮世絵は、一般的な浮世絵とはまたひと味違う魅力があるといえます。 動物から植物まで…擬人化作品といえば歌川国芳 浮世絵には、擬人化された作品も多く存在します。 その中でも擬人化で人気を集めていたのが歌川国芳です。 個性あふれる歌川国芳の擬人化作品は、動物から植物までさまざまな生き物を題材にしており、その背景に隠された想いを想像しながら鑑賞してみてはいかがでしょうか。 歌川国芳 作家名:歌川国芳(うたがわくによし) 生没年:1798年-1861年 代表作:『相馬の古内裏』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 日本美術史上では、奇想の絵師の一人に挙げられています。 日本橋の紺屋で生まれた歌川国芳は、12歳と早くにその画才を認められ、当時人気絵師だった歌川豊国のもとで師事を受けました。しかし、その後十数年間、歌川国芳の絵は人気が出ず、脚光を浴び始めたのは30歳を過ぎてからでした。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』が大ヒットし、一躍人気浮世絵師となります。色彩鮮やかに描かれ躍動する英雄は、江戸の人々の心を惹きつけました。その後、武者絵の国芳と呼ばれるようになり、古今東西の歴史や物語に登場するさまざまな英雄を描いていきます。 歌川国芳が描く浮世絵の魅力は、クールに描かれた英雄たちだけではありません。 画想の豊かさや斬新なデザイン力、奇想天外なアイディア、確実なデッサンスキルなどが組み合わさり、浮世絵の枠にはとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出しています。 戯画(浮世絵戯画)とは 太平の世が続いていた江戸時代には、多くの浮世絵戯画が描かれていました。 戯画とは、戯れに描いたり、誇張や風刺を交えたりして描かれたユーモラスあふれる絵を指しています。 江戸時代では、浮世絵の題材として用いられることも多く、多くの庶民を楽しませていました。 題材は人間だけではなく、動物や植物も含まれます。 歌川国芳の描いた、ゆかいな戯画の数々 歌川国芳が描く浮世絵の大きな魅力は、独特のユーモアや発想の奇抜さにあります。 天保の改革により、浮世絵をはじめとした娯楽産業に厳しい制限がかけられた際、遊女や歌舞伎役者を浮世絵に描くことが禁じられてしまいました。そこで歌川国芳は、見立て絵を描き規制をかわしていくのです。 『金魚づくし・百ものがたり』 歌川国芳が描いた浮世絵『金魚づくし・百ものがたり』は、戯画の一つ。 金魚や水中の生き物を擬人化し、ユーモアあふれる作品に仕上がっています。 百ものがたりは、当時江戸で流行していた怪談会を指しており、百本のろうそくを火に灯し、怪談話が一つ終わるごとにろうそくの明かりを一本ずつ消していくというもの。最後の一本を消すと幽霊が現れるという肝試しの一つでもありました。 『金魚づくし・百ものがたり』は、金魚たちが怪談話を披露していき、最後の話が終わり猫の化け物が現れた瞬間を描いています。 猫・猫・猫…歌川国芳は無類の猫好き 歌川国芳は、無類の猫好きであったとも伝えられています。 明治期の浮世絵研究者である飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』によると、常に5・6匹の猫を飼い、さらには1・2匹の猫を懐に入れておくほどの猫好きだったようで、猫が亡くなると供養を行うだけではなく、猫専用の仏壇も置かれていました。 猫好きであったこともあってか、猫を題材にして擬人化した作品も多く残しています。 『其のまま地口猫飼好五十三疋』は、歌川広重の有名作品『東海道五捨三次之内』を猫バージョンで描いた作品です。 ユーモアあふれる作品で、『東海道五捨三次之内』と見比べてみても楽しめるでしょう。 出版規制の残る時代に擬人化アイディアで楽しませた歌川国芳 歌川国芳は、浮世絵師界の中で戯画や狂画の第一人者ともいえる存在です。 天保の改革による出版規制をかいくぐるため、独創的なアイディアで日本を風刺していきました。 擬人化による独自のセンスが光る歌川国芳の浮世絵。 そのポップで奇抜なデザインだけではなく、時代背景を考え、どのような思想が描かれているのかを想像して鑑賞するのも楽しみ方の一つです。
2024.08.13
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「だるせん」と呼ばれた葛飾北斎の達磨絵と名古屋との関係
世界中から高い評価を受けている葛飾北斎。浮世絵版画作品の印象が強い人も多いでしょう。しかし、葛飾北斎は、高い画力と奇抜な発想力により多彩な作品を手掛けています。名古屋との縁も深い葛飾北斎が「だるせん」と呼ばれていた由縁に迫っていきましょう。 葛飾北斎のニックネーム「だるせん」とは 江戸時代から現代まで絶大な人気を誇っている浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は「だるせん」と呼ばれていたのをご存知でしょうか。さまざまな技術を学び多彩な画風が特徴の葛飾北斎は、だるまの絵を描いていたこともありました。 大達磨を描いた、葛飾北斎 1817年、名古屋に滞在していた葛飾北斎は、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行いました。この催しは、北斎漫画を広めるために行われたといわれています。葛飾北斎が大だるま絵を描くことを紹介した張り紙があちこちの店に張り出され、当日は張り紙を見たり、噂を聞きつけたりしてきた人々で大変にぎわっていたようです。 境内には足場が組まれ巨大な紙が用意されていました。見物人からの拍手喝采を受け、葛飾北斎はまず鼻を描いていきます。その後、右の眼、左の眼、口、髭を描き、紙を引き上げ衣紋を描いていきました。完成した大だるま絵の大きさは、18m×11mほどもあったといわれています。 このパフォーマンスは大きな話題をさらい、葛飾北斎はだるま先生を略して「だるせん」と呼ばれるようになりました。現在の名古屋、本願寺名古屋別院(西別院)は「大達磨絵揮毫の地」とされています。 葛飾北斎とは 出身地:東京都墨田区 代表作:『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『富士越龍図』 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くのが好きだった北斎は、十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章に師事を受けています。その後、破門されてしまいますが、他流派や西洋画などさまざまな画風を学んだ葛飾北斎は、その圧倒的な画力と奇想天外なアイディアで数々の名作を完成させました。浮世絵版画を多く制作していますが、肉筆画も多く手掛けています。 尾張(現在の名古屋)でも人気だった葛飾北斎 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張でも人気を集めていました。1812年ごろ葛飾北斎は、関西方面へ旅に出たとされており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在し、300枚以上の版下絵を描き上げました。 このとき描いた絵がのちに、門人の絵手本として有名な『北斎漫画』になるのです。『北斎漫画』は、名古屋の版元である永楽屋東四郎によって初版発行されています。 200年の時を経て再現された大達磨絵 1817年に葛飾北斎が名古屋で描いた大だるま絵は、第二次世界大戦時に消失してしまったといわれています。しかし、尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)によって書き留められた『北斎大画即書細図』に当時のイベントの情報が残されていました。書細図には、当時のスケジュールや賑わいの様子はもちろん、用意された和紙や筆、絵の具などまで詳細に記されています。 2017年、200年前に描かれた葛飾北斎の大だるま絵を再現して描くイベントが行われました。場所は、名古屋市中区の本願寺名古屋別院、愛知県立芸術大や名古屋市博物館の協力により実現されました。当時の記録をもとに、雨に強い和紙や米俵5俵分のわら筆を用意し、忠実に再現して描かれています。 当日は小雨が降り強風が吹いていましたが、約2時間で絵は完成され、観客から拍手と歓声がわき上がる素敵なイベントになったようです。 葛飾北斎の人気は当時からすごかった 現在でも、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている葛飾北斎は、江戸時代当時から、江戸にとどまらず各地で人気を集めていました。名古屋とのゆかりも深く、当時は「だるせん(だるま先生)」と呼ばれていたそうです。大だるま絵をはじめとして、葛飾北斎の作品は、奇想天外なものも多く、作品によって異なる魅力を感じさせてくれます。有名な作品ばかりではなく、さまざまな地域や時代に描かれた葛飾北斎の作品を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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浮世絵に描かれたかわいい猫・怖い猫・面白い猫たち
浮世絵のモチーフとしてもよく用いられている猫。 現在では多くの人々に愛されている動物です。 人と暮らし、人々の生活に溶け込んでいる猫は、いったいいつごろから日本でなじみ深い動物になったのでしょうか。 その歴史は、奈良時代にまでさかのぼります。 猫と人間の深い関係 現代では、自宅で猫を飼う人もいれば、一方で人懐っこい野良猫もいます。 人々が暮らす街中に溶け込んでいる猫たちは、古くから人々と生活をともにしてきていたようです。 歴史をさかのぼって人々と猫の関係性を見ていくとともに、猫がモチーフになっている芸術作品にも触れていきましょう。 猫は昔から人間のそばにいた 一般的に、奈良時代に中国から仏教が伝えられた際に、経典をネズミから守るため、船に一緒に乗せられたのが、日本に猫が伝わった始まりとされていました。 しかし、近年、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で、イエネコとみられる動物の骨が発掘されたのです。貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守るために飼われていたと考えられています。 この発見により、今からおよそ2100年前の弥生時代には、日本に猫がいたのではないかとする説が濃厚になりました。 どちらにせよ古代日本では、愛玩目的ではなく書物や食料を守るために猫が飼われていたようです。 その後、平安時代には、現在の猫と同じように愛玩動物として飼われるようになりましたが、まだ数が少なく貴重な存在であったため、高貴な身分の人のみが猫を飼っていました。安土桃山時代から江戸時代にかけては、ネズミによる食料被害を減らすべく、猫を放し飼いにする作戦が実行されました。 猫による対策効果は高く、ネズミによる被害は減ったそうです。 しかし、猫が貴重な存在であることには変わりなかったため、本物の猫の代わりに猫の絵が重宝されていたとする史料もあります。 その後、縁起の良い動物として招き猫が誕生したように、猫は守り神としても親しまれていきました。庶民でも手の届きやすい存在になったころ、ネズミ駆除として多くの人々によって猫を飼うことが習慣化していきました。 江戸時代には、猫がモチーフになった浮世絵作品が多数制作されています。縁起物として親しまれてきた猫は、芸術のモチーフにもなり、長く人々から愛されてきたことがわかるでしょう。 猫を愛した浮世絵師、歌川国芳 歌川国芳は、浮世絵界きっての愛猫家として知られています。 明治期の浮世絵研究者・飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』でも、歌川国芳の猫への溺愛ぶりが記録されています。 『浮世絵師歌川列伝』によると、歌川国芳は常に5・6匹の猫を飼っており、1・2匹の猫を懐に入れて暮らすほど、猫好きだったようです。 また、猫が亡くなったときは、供養を行うだけではなく、自宅には猫の仏壇が置かれていました。 猫への愛情が伝わる弟子とのエピソードがあります。 ある日、亡くなった猫の供養を弟子である歌川芳宗にお金を渡して頼みました。しかし、歌川芳宗は猫の亡骸を橋から捨てて、もらったお金を吉原の遊郭で使い果たしてしまいました。 供養に行ったふりをして帰ってきた歌川芳宗に対して、歌川国芳が猫の戒名を訪ねたことで、嘘がばれてしまいます。その後、芳宗は破門されたといいます。 無類の猫好きである歌川国芳は、猫をモチーフにした浮世絵も多数制作していました。 『其のまま地口猫飼好五十三疋』は、歌川広重の『東海道五十三次』をオマージュした作品です。 53の宿場町にちなんだダジャレとともに猫の姿が描かれており、思わず笑ってしまうユーモアあふれる作品です。 猫の描写や表現が豊かな作品たちは、いまもなお多くの人々に愛されています。 浮世絵に描かれた猫たち 江戸時代に流行した浮世絵には、猫を題材にした作品も多く存在します。 愛らしい猫が描かれた親しみのある作品から、浮世絵の世界を深めていくのもお勧めです。 豊原周延 作家名:豊原周延(とよはらちかのぶ) 生没年:1838年-1912年 豊原周延は別名・楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)ともいい、戊辰戦争で幕府側について戦った異色の浮世絵師として知られています。 幼少のころは狩野派で絵画技法を学び、その後は、渓斎英泉の門人から浮世絵を教わりました。のちに、歌川国芳や歌川国貞にも師事し、師の他界後は、歌川国貞の門人であった豊原国周から学びを受けます。 絵の学びを続ける中、幕末の戊辰戦争が勃発。 豊原国周は、江戸の高田藩士で結成された神木隊として上野戦争に参戦しました。 その後、箱館戦争を戦うなど激動のときを過ごしたのでした。そのため、本格的に浮世絵師として活動できたのは、40歳を過ぎてからでした。 優美な美人画や躍動感ある役者絵、戦争絵、時事画題、歴史画などさまざまなジャンルを描き、明治という時代を彩っていきます。 色鮮やかな着物を着た女性と子ども、そしておもちゃに戯れる猫の姿が描かれています。猫は、紐でくくられているようにも見え、おそらく飼い猫であることが分かります。 一筆斎文調 作家名:一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう) 生没年:不詳 一筆斎文調は、1760年ごろから浮世絵を描いていた浮世絵師といわれています。 もとは狩野派の石川幸元の門人とされており、のちに浮世絵へ転向した絵師です。 勝川春章と『絵本舞台扇』を共作し、これまでの形式化した役者絵に新しい風を吹かせたとして高い評価を受けています。 浮世絵作品の数は少なく、とりわけ肉筆画は、ほとんど残されていません。 一筆斎文調の描いたこの絵には、足元に小さな子猫がいます。江戸の暮らしには、猫が人々とともにいたことが分かる作品といえるでしょう。 鈴木春信 作家名:鈴木春信(すずきはるのぶ) 生没年:1725?年-1770年 鈴木春信は、錦絵の誕生や発展に大きく貢献した浮世絵師として知られています。錦絵が誕生するまでは、紅摺絵の技法を用いて浮世絵を制作していました。 鈴木春信は、浮世絵を制作しながら、近所に住む発明家の平賀源内と交流を持ち、ともに錦絵の技術研究を行っていたといわれています。版元からの資金援助も受け、錦絵の手法の発展に力を注いでいきました。 多色摺りの技術向上を続けていた鈴木春信の版木を譲り受けた版元は、暦や依頼者の名前を削り取り印刷して販売します。 この浮世絵が錦織のように鮮やかで美しかったことから、錦絵と呼ばれるようになりました。 鈴木晴信もまた、江戸の人々と暮らす猫を描いています。この作品では、子どもが猫を抱える様子が。猫の首には首飾りらしきものがつけられており、飼い猫であろうことが想像できます。 歌川國貞 作家名:歌川國貞(うたがわくにさだ) 生没年:1786年-1865年 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍を見せた絵師で「奇想の絵師」とも呼ばれています。 小さいころから絵の才能があり、7・8歳ごろには、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたそうです。 このころから絵の勉強は始まっており、著名な絵師の作品を模写する中で、浮世絵の技術を身に付けていきました。 歌川国芳が大衆からの人気を集めたのは、決して早くなく30歳のころでした。 明代中国の小説・水滸伝をモチーフにした連作浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』が大ヒット。 その後も、ユーモアあふれる作品を数多く生み出していきました。
2024.08.13
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