最高額で売るなら、
だるま3で解決!

最高額で売るなら、だるま3で解決!

サルバドール・ダリ(1904年-1989年)画家[スペイン]

天才・狂人・奇人と呼ばれる「サルバドール・ダリ」とは

生没年:1904年-1989年
サルバドール・ダリが描いた時計がぐにゃぐにゃと変形した絵を見たことがある人も多いのではないでしょうか。
ダリは、それ以前の常識を壊し、新しいアートを創造した芸術家として知られています。
絵画だけではなく、商業アートや映画、演劇などさまざまな分野に挑戦し、常識にとらわれない発想で人々を魅了していました。

幼いころに兄の生まれ変わりと両親に告げられる

ダリは、スペインのカタルーニャ地方の町フィゲラスで生まれ、父は弁護士をしていたため教育に厳しく、反カトリック的な思想をもっていました。
一方、母は裕福な商家出身で、芸術に興味をもつダリを応援していました。
両親にとってダリは2人目の子どもで、1人目である同じ名前の兄は、ダリが生まれる9か月前に3歳で亡くなっています。
ダリが5歳になったころ、ダリは兄の生まれ変わりであると両親から伝えられます。
生まれ変わりであるという認識は、ダリの人生と芸術に死ぬまでつきまとうことになるのです。
ダリはのちに、「生きていることを知る前に、自分は死んだと思っていた」と、そのときの心境を語っています。

ピカソ・フロイト・未来派などから影響を受ける

1916年、ダリはフィゲラス市立のドローイング学校に入学し、定期的にパリへ出向いていたカタルーニャ出身の印象派画家ラモン・ピチョットから前衛芸術を学びます。
ピチョットからピカソや未来派などの画家を教えてもらったダリは、写実的でありながらも2つのスタイルの影響を受けていきました。
1922年、17歳になったダリは、マドリードの名門美術大学である王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学します。

当時、風景画や肖像画などをメインに制作していたダリですが、徐々に独特な奇妙さが前面に表れてくるようになりました。
ダリは、写実的で本物に近い絵を描けたため、どこか奇妙さがあっても一般大衆に受け入れられたと考えられます。

ダリが若いころ影響を受けたと考えられる人物に、ジークムント・フロイトがいます。
心理学者や精神科医として活躍していたフロイトが唱えたイドの理論に没頭したダリは、フロイトの理論を絵画にも取り入れ、自身の恐怖や欲望、神経症なども作品で表現しました。

ミロ・タンギーのスタイルに刺激を受ける

ダリは、同じカタルーニャ出身の先輩画家であるジョアン・ミロが描く生き物のような抽象的な絵に刺激を受けています。
ダリの初めてのシュルレアリスム絵画である『器官と手』では、針のような細い脚が生えた幾何学的なモチーフの上に、奇妙な物体が乗っており、周囲には人のような形の絵が描かれています。
作品を描いたダリは、この景色は潜在意識の奥底から湧き出たものであると語りました。
ダリは、20世紀を代表するシュルレアリスム画家であるイヴ・タンギーにも強い関心をもっており、作品を大変熱心に研究・吸収し、タンギーの姪に「私はあなたのおじさんからすべてをつまみ取りました」と伝えたといいます。
その後ダリは、タンギーやほかのシュルレアリスム画家たちを凌駕するほど人気を集めていきました。

ルイス・ブニュエルと短編映画を制作する

1928 年、ダリはスペイン出身の映画監督であるルイス・ブニュエルと、ブニュエルの母が出資した『アンダルシアの犬』と呼ばれる短編映画を制作しています。
2人は、学生時代にマドリッドで出会い意気投合し、共同での映画制作に至ったのでした。
映画の中には、カミソリを使って女性の眼球を切り裂く衝撃的なシーンもあり、インパクトの大きさから評判を集めました。
のちに、断片的な映像や、無意識下で心に浮かんだ感情や事象を表現する自由連想のような挑発的な映像を組み合わせたモンタージュ技法により制作されたこの映画は、映画史に残る名作として知られるように。
1年後、2人が制作した『黄金時代』は、ブルジョワの性的偽善を風刺した映画です。
公衆の面前で泥にまみれ性交するカップルが登場する、インパクトの強いこの映画は、公開後すぐに右翼が上映中のスクリーンに爆弾を投げつける事件を引き起こすほどの問題作となりました。

生涯の伴侶・ガラとの出会い

ダリはもともと女性恐怖症で、女性を前にすると緊張のあまり笑いが止まらなくなってしまう発作にも苦しんでいました。
しかし、ガラとの出会いによりダリの心は少しずつ癒されていったのです。
ダリとガラが初めて出会ったのは1929年、フランスの詩人でシュルレアリスムをけん引したポール・エリュアールとその妻であるガラの訪問を受けたときのことでした。

10歳年上であったガラの魅力に惹かれ、2人はすぐに関係をもちました。
当時のガラは、夫のエリュアールとドイツ人画家であるマックス・エルンストと三角関係にあったともいわれています。
のちにダリとガラは結婚し、ガラは生涯の伴侶でありモデル、ミューズでもある存在となりました。
ダリは、ガラからインスピレーションを受けて、『ポルト・リガトの聖母』をはじめとした数々の名作を生み出しました。

シュルレアリストオブジェを制作する

ダリは、シュルレアリスム運動にも貢献した人物として知られており、多くの芸術家たちがシュルレアリスム運動に加わるようになったころ、プルトンが芸術家たちの多様なスタイルとイデオロギーを統合できるようなものを考えてほしいとダリに依頼しました。
その依頼に対してダリが出した答えが、「シュルレアリストオブジェ」と呼ばれる発想です。
シュルレアリストオブジェは、単に芸術と現実世界、ハイカルチャーとローカルチャーの境を行き来するものではなく、抑え込まれた思考や感情を掘り起こすことを目的にしたものです。
この発想は、フロイトのフェティシズム理論に基づいているといわれています。

偏執狂的・批判的の追求により誕生した名作

シュルレアリストオブジェを生み出したのと同時期に、ダリは「偏執狂的・批判的」と呼ぶ体系的方法についても追求しています。
パラノイア患者は、実際に存在しないものが現実に存在しているかのように感じるという考えに基づいた手法で、絵を鑑賞する人の意識の流れを試すものであり、性格検査のロールシャッハ・テストのようなものととらえています。
偏執狂的・批判的の追求により誕生した名作は『記憶の固執』や『海辺に出現した顔と果物鉢の幻影』などです。

商業的成功をおさめ批判を受ける

当時の前衛芸術家たちは、金と名声への追及は芸術に対する裏切り行為だと考えていましたが、ダリは両方を積極的に追い求めて作品を制作しました。
ダリは堂々と自身を宣伝し、金と名声を手にすることやそのために行動することを認めていたのです。
1929年、ダリの初個展がパリのグーマンス画廊で開催され、批評家たちからは理解されませんでしたが、商業的には大成功をおさめました。
1934年、初めてニューヨークを訪れたダリは、終始多くのメディアたちに囲まれ、尖った発言を繰り返してより注目を集めました。

ダリがニューヨークを離れる前に、カレス・クロスビーと呼ばれるボストンの大富豪でありブラジャーを発明した女性が、ダリのために仮面舞踏会を開催し、招待しています。
ダリは、ガラスケースに入ったブラジャーを胸に装着し、ガラは頭から出産する女性の仮装をして仮面舞踏会に参加しました。

ダリはロンドン講演で深海用のダイビングスーツを着用して窒息しかけたり、パリの講演ではカリフラワーで埋め尽くされたロールスロイスに乗って登場したり、派手なパフォーマンスを行いメディアに大きく取り上げられるようになり、1936年にはタイム誌の表紙を飾るまでに知名度を上げました。

ダリが描いていたシュルレアリスムとは

シュルレアリスムとは、超現実主義と呼ばれるもので、現実の先にある世界観を表現することを指しています。
目に見えて触れられる意識的な世界観ではなく、人が無意識の中にもっている世界観のことで、フロイトが当時発表した夢や無意識などに関する世界観から大きな影響を受けており、シュルレアリスムでは、人間の無意識を題材にした作品が多く制作されました。
シュルレアリスムは、夢や無意識を原点にしているため、単なる幻想やファンタジーとはまた異なります。

チュッパチャップスのロゴはダリが原案

世界的に有名なお菓子チュッパチャップスのロゴデザインは、ダリが考えたものです。
チュッパチャップスを大ヒットさせた会社の創設者であるエンリク・ベルナトは、チュッパチャップスを世界展開するためにロゴデザインに力を入れていました。
エンリクは、当時高い人気を誇っていた芸術家であるダリの自宅を訪問し、ロゴデザインの制作を依頼します。
昼食の際に、ダリがナプキンに「Chupa Chups」の文字と、黄色い雛菊のイラストを用いたロゴを走り書きしたものが原案となり、多くの人が目にした経験のあるチュッパチャップスのロゴが誕生しました。

卵の「カタチの完璧さ」に魅了されたダリ

ダリは、卵のカタチの完璧さに強い関心をもっており、生命の源としての存在にも魅了されていたといわれています。
ダリの作品には、卵をモチーフにしたものも多くあり、ポル・リガットには通称「卵の家」と呼ばれるかつてダリが住んでいた家であり、現在は博物館として公開されている建築物があります。
邸内には、たくさんの卵のオブジェが飾られており、強いインパクトのある建築物です。

ダリは猫好きな画家だった

奇想天外な発想で人々を魅了したダリは、猫好きな画家であったともいわれています。
ダリは自宅で、小さなジャガーのような模様と体型をした猫を飼っており、オセロットと名付けていました。
野生の山猫で、通常のイエネコよりも2倍ほど大きく、美しい斑点模様と鋭い視線が魅力的な猫です。
ダリはオセロットを豪華客船のクルージングやエッフェル塔の最上階などさまざまな場所へ連れて行ったり、宝石をちりばめた首輪をつけたりと、大変大切に扱っていたといわれています。

ダリが描く不思議な世界観の魅力

ダリが制作する作品には独特な世界観があり、多くの人を魅了しました。
ダリの個性は作品だけではなく、ファッションや発言からも見て取れます。
長く伸ばして固めたヒゲ姿を見たことがある人も多いでしょう。
作品では、だまし絵のようなイメージを繰り返す表現方法を用いたものや、グロテスクで皮肉めいたメッセージの強いものなどが多くあります。
また、ダリは、戦争や宗教、心理学、物理学なども作品に取り入れ、表現していたそうです。

 

年表:サルバドール・ダリ

年号 満年齢 できごと
1904511 0 スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで生まれる。
1922 18 マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。そこで映画監督のルイス・ブニュエルと出会う。
1923 19 教授を批判し学生の反乱を指導したとして、アカデミーから処分を受ける。
1925 21 マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開く。
1927 22 パリで、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアールらシュルレアリスムの中心人物たちと面識を得る。
1928 24 アカデミーで出会ったルイス・ブニュエルと、シュルレアリスムの代表的映画と言われる『アンダルシアの犬』を共同制作する。
1929 25 ポール・エリュアールが、妻ガラ・エリュアールとともにカダケスのダリを訪ねた時が、後に妻となるガラ・エリュアールとの初めての出会いとなった。
1931 27 代表作ともいわれる『記憶の固執』が制作される。
1934 30 詩人ポール・エリュアールの元妻であった、ガラ・エリュアールと結婚。
1938 34 自身の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れてしまった為1929年から参加していたシュルレアリスト・グループから除名されてしまう。
1964 60 イサベル・ラ・カトリカ大十字勲章を受章。
1982 78 妻ガラ・エリュアール=ダリ死去。ジローナのプボル城に引きこもる。
1983 79 5月を最後に、絵画制作を辞める。
1984 80 寝室でおきた火事でひどい火傷を負い、フィゲラスに移る。
1989123 84 フィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で心不全により死去。
人気の買取業者はこちら 人気の買取業者はこちら

人気骨董品買取業者はこちら

あなたのお家にある “骨董品、高く” 売りませんか?

買取業者を探す