渡辺崋山は、藩士としての務めの中で、画業や学問に取り組んでいた人物です。
はじめは、貧しい家計を支えるために、現代でいう副業のような形で絵を描き始めました。
そのため、職業的な画家を目指していたわけではなく、あくまで真の務めは藩士であったといえるでしょう。
武士としての顔を持つ半面、画業と学問で海外の事情に精通し、さまざまな活躍をみせた崋山の生涯を知ることで、より作品の魅力が深まるでしょう。
目次
藩士・学問・画業に励んだ「渡辺崋山」とは
渡辺崋山は、江戸時代後期に活躍した人物で、武士・学者・画家と多彩な才能を発揮しています。
変化の激しい幕末を生きた人物で、通称は登、呼称は定静です。
画家としての号は、当初「華山」であったのが、35歳ごろ「崋山」に改めています。
さまざまな顔を持つ崋山。
それぞれの方面から特徴を知ることで、作品の魅力を改めて感じましょう。
藩士としての渡辺崋山
渡辺崋山は、1832年に家老に就任しました。
その後、紀州藩破船流木掠取事件や幕府からの命によって実施した幕命の新田干拓計画、助郷免除など難解な事件をいくつも解決しました。
また、崋山が所属する田原藩は、救民のための穀物を備蓄した報民倉を建設しています。
そのため、1836年・1837年に発生した大飢饉では、1人の餓死者も出ませんでした。
この功績により、翌年1838年には、幕府が田原藩を唯一表彰しました。
報民倉の建設は、崋山の指導により行われたものだったのです。
崋山は、黒船が近海に接近する時代に、外国船の旗印を描いて沿海の庄屋に配布し、沿岸の防備や見張りに当たらせました。
学者としての渡辺崋山
渡辺崋山は、12歳のころから鷹見星皐のもとで儒学を学んでいます。
のちに、佐藤一斎や松崎慊堂からも学びを得て、幕府の昌平黌にも学籍をおいていました。
当時の学者文人とも積極的に交流を図り、詩文や和歌、俳諧などにも通じました。
37歳のときには、三宅氏の家譜編集を藩主から命じられています。
江戸では、藩邸学問所の総世話役となり、儒者である伊藤鳳山を招いて、藩校成章館の興隆を進めました。
晩年、貧しい暮らしの中で集めた書籍を、田原藩の後輩のために献上しています。
画家としての渡辺崋山
渡辺崋山は、山水花鳥画と肖像画を得意としていました。
師である金子金陵・谷文晁からは、中国の南宗画に由来する南画を学び、山水画や花鳥画の画法を身につけていきます。
しかし、それらの画法だけにはとどまらず、洋画でよく取り入れられている手法、遠近法も融合させ、独自の画風を確立させていきました。
代表作には『千山万水図』や『蘆汀双鴨図』などがあります。
『千山万水図』は、外国船が迫りくる三浦半島の風景を描いた作品です。
『蘆汀双鴨図』は、崋山が21歳のときに描いた作品で、蘆の生えた水辺で鴨のつがいがくつろぐ様子が描かれています。
絵をかいて貧しい家計を助けていた
渡辺崋山は、田原藩藩士の渡辺定通の長男として、江戸の藩屋敷で生まれました。
その後、ほとんどの時間を江戸で過ごしています。
当時、田原藩が財政難であったのと、父に持病があったこともあり、一家11人を支えるには家計が厳しく、田原家の生活は貧しいものでした。
崋山が8歳になったとき、田原藩主の子の話し相手として仕えることになりました。
しかし、暮らしが楽になることはなく、奉公に出された幼い弟と妹を亡くす悲しいできごとも経験しています。
崋山は、将来を考え、13歳のときに江戸幕府が奨励していた儒学を学ぼうと、儒学者である鷹見星皐の門下となりました。
また、10代後半には、田原藩の江戸屋敷に仕えながら、副業で家計を助けようと灯籠の絵を描く内職もはじめています。
海外事情を知りモリソン号事件で江戸幕府を批判
渡辺崋山は、西洋の画法を学び独自の画風を確立するとともに、絵画以外でも海外へ関心を寄せるようになりました。
崋山は、海外事情を知るために、ドイツ人医師のシーボルトに学んだ蘭学者である高野長英や小関三英と、長崎で交流を図ります。
オランダからの書物を翻訳し、医学や自然科学の知識を身につけ、海外の事情に精通するようになりました。
また、長英らとともに蘭学者によって形成された尚歯会の中心メンバーとなり、日本と海外の政治や海防問題について議論を重ねていくようになります。
蘭学者との交流を深めていく中で、崋山は日本よりも西洋の学問がいかに優れているかを痛感するようになり、江戸幕府の鎖国政策に疑問を抱くようになりました。
そのような矢先、1838年にモリソン号事件が発生しました。
日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号を、当時の異国船打払令に則り浦賀奉行所が砲撃をしたのです。
崋山と長英は、この事件がきっかけで、鎖国政策は外国が日本へ戦争を仕掛けるための口実になってしまうおそれがあると危惧し始めます。
崋山は、鎖国政策と江戸幕府を批判したことで、1839年に江戸幕府の蛮社の獄によって謹慎となってしまいます。
藩士でありながら絵を描き続けたことを非難され切腹
藩士でありながら絵画を描き続け、さらには学問にも精通していた渡辺崋山。
しかし、蛮社の獄により田原藩での永蟄居(自宅の部屋から一生出られない処罰)を受けます。
当時崋山は多くの門下生を育てており、一家の生活を心配した弟子たちが崋山に絵を描かせ、自分たちで販売する会を開催しました。
謹慎であるにもかかわらず絵を描き販売していた崋山を、周囲の人々は謹慎になっていないと非難しました。
そのような批判の中から、田原藩主が江戸幕府将軍から叱責されてしまうとの噂が流れるように。
崋山は、田原藩主に迷惑をかけるわけにはいかないと、1841年、自らの屋敷の納屋で切腹し、その生涯の幕を閉じました。
崋山は、最後まで田原藩主への忠義と家族への孝行の気持ちを持ち続けた素晴らしい人格の画家であったといえるでしょう。
渡辺崋山が描いた作品の特徴
渡辺崋山は、幼いころから絵を描くことを好んでいたようで、常にスケッチができるよう髪と絵筆を持ち歩いていたそうです。
藩士としての務めを果たすかたわらで描き始めた作品は、時代の趣向にあい人気を集めました。
崋山の画風は、南画を原点とし、西洋画の写実性を取り入れた斬新なものでした。
西洋画の影響を受けているとはいえ、あくまでも日本画の伝統を尊重した画風であり、趣のある作品が魅力的です。
伝統を絶やすことなく、西洋の新しい風を自然に取り入れた崋山の作品は、多くの人の心を惹きつけました。