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歴史と言葉で読み解く、日本の花札文化
花札の歴史と文化的変遷—南蛮文化との出会いから現代まで— 花札誕生以前:渡来と変容 16世紀後半の安土桃山時代、ポルトガル船により「南蛮かるた」が日本にもたらされました。これは、日本のカードゲーム文化における重要な転換点となりました。南蛮かるたを基に制作された「天正かるた」は、日本における最初のかるたとして歴史に名を刻み、後の花札発展の礎となりました。 江戸期の変遷と規制 江戸時代を通じて、かるたは幕府による厳しい規制の対象となりました。その主な理由は、賭博用具としての使用が横行していたためです。しかし、規制下にありながらも、かるたは庶民の娯楽として根強い人気を保ち続けました。この時期の社会的な抑圧が、後の花札の独特な発展を促す要因となりました。 花札の誕生と確立 江戸時代後期、特に寛政年間(1789〜1801年)には、京都の山口屋儀助(井上家春)による画期的な試みがありました。「武蔵野」という商品名で販売された花札は、賭博用具の取り締まりを巧みに回避する工夫が施されていました。従来の数字表記を避け、代わりに四季折々の花々を配した絵柄を採用したのです。 独自の構成への昇華 花札の特徴的な構成は、既存のメクリかるたを創造的に再構築したものです。4スート(種)×12枚という構成から、12スート(月)×4枚という新しい形式が生み出されました。この変更により、数字による表記を避けつつ、従来の遊技方法を維持することが可能となりました。 近代化と変容 明治時代に入り、西洋のトランプの流行と共に花札の販売も正式に解禁されました。これにより、花札文化は新たな発展期を迎えます。全国統一デザインの花札だけでなく、各地方の特色を反映した地方札も登場し、花札文化は一層の多様性を獲得しました。 制度的変化への対応 1902年の骨牌税法制定は、花札産業に大きな影響を与えました。課税対象となったことで多くのかるた屋が経営難に陥り、地方特有の花札文化も徐々に衰退していきました。この時期は、花札文化における大きな転換点となりました。 現代に息づく花札文化 現代の花札は「八八花」と呼ばれる形式に統一されています。12ヶ月それぞれに4枚ずつ、計48枚で構成されるスタイルは、日本の美しい四季折々の風情を見事に表現しているといえるでしょう。各札には、その月を象徴する花や風物が美しく描かれ、日本の伝統的な自然観や文化的価値観を今に伝えています。 地域性と現代的展開 花札の遊び方は、地域ごとに独自の発展を遂げてきました。各地に伝わるローカルルールは、その土地の文化や価値観を反映する貴重な文化遺産といえます。さらに、現代では新しい遊び方も次々と考案され、花札文化は絶えず進化を続けています。 花札は、その誕生から現代に至るまで、日本の文化的・社会的変遷を如実に反映してきました。外来文化の受容から始まり、規制との共存を経て、独自の発展を遂げた花札の歴史は、日本文化の適応力と創造性を示す好例といえるでしょう。 現代においても、伝統的な遊戯文化として、また日本の美意識を伝える芸術作品として、花札は重要な文化的価値を持ち続けています。 花札が紡いだ日本語表現の世界 ここまで見てきたように、日本の伝統的なカードゲームである花札は、単なる遊戯道具としてだけではなく、その歴史のなかで、独自の変化・発展を遂げてきました。そして、実は、私たちが普段使っている言葉にも影響を与えています。花札から派生した言葉にはどんなものがあるのでしょうか。 その起源と現代における使用法を見ていきましょう。 「シカト」 語源と形成過程 花札の10月札に描かれている「紅葉に鹿」の図柄が、この表現の起源となっています。この札に描かれた鹿が特徴的な横向きの姿勢をしていることから、「鹿の十(しかのとお)」という呼び方が生まれ、それが縮約されて「シカト」となりました。 現代における意味と用法 現代では「意図的に無視する」「存在を認めないかのように振る舞う」という意味で広く使用されています。特に若年層のコミュニケーションにおいて頻繁に用いられ、人間関係における消極的な拒絶や疎外を表現する際の代表的な語彙となっています。 「ピカイチ」 語源と形成過程 花札の手役から生まれた表現です。配られた7枚の札のうち、光り物(20点札)が1枚のみで、残りがすべてカス札という状況を「光一(ピカイチ)」と呼んでいたことに由来します。 現代における意味と用法 現代では「群を抜いて優れている」「最高水準である」という意味で使用されます。多くの花札由来の言葉が否定的な意味合いを持つ中で、「ピカイチ」は珍しく肯定的な評価を表す表現として定着しています。 「ヤクザ」 語源と形成過程 花札の賭博「おいちょかぶ」から派生した表現です。8(や)、9(く)、3(ざ)の組み合わせが最も弱い手となることから、この呼び方が生まれました。合計20となり、一の位が0となるため、役にならない状態を指していました。 現代における意味と用法 現代では主に暴力団構成員を指す言葉として定着しています。また、より広い文脈で「社会的に好ましくない存在」「信用できない人物」を表す際にも使用されます。 「ボンクラ」 語源と形成過程 「盆暗」と表記され、「盆」は賭博場を、「暗」は常に負け続ける様子を表現しています。賭博における運の無さや判断力の欠如を揶揄する言葉として使用されていました。 現代における意味と用法 現代では「理解力や判断力に欠ける人物」「要領の悪い人」を指す表現として使用されています。しばしば軽蔑的なニュアンスを伴いますが、親しい間柄では軽い冗談として使用されることもあります。 「三下(さんした)」 語源と形成過程 花札の「カブ」という賭博から派生しました。二枚の札の合計が3以下という、勝ち目のない状況を指す言葉として使用されていました。 現代における意味と用法 現代では「組織の下っ端」「取るに足らない存在」を指す蔑称として使用されます。特に暴力団関連の文脈で使用されることが多く、社会的地位や能力の低さを強調する表現として定着しています。 花札から派生したこれらの表現は、その多くが賭博文化との関連から生まれたため、否定的なニュアンスを持つものが目立ちます。しかし、「ピカイチ」のように肯定的な意味で使用される例外も存在し、これらの言葉は日本の言語文化の重層性を示す興味深い事例となっています。 これらの表現は、現代においても日常会話や文学作品の中で活発に使用され続けており、花札文化が日本語に与えた影響の大きさを物語っています。 日本の文化と歴史が作り育てた文化、「花札」 16世紀末に外国から伝わった南蛮かるたをもとに生まれた花札は、江戸時代の厳しい規制の中で、日本独自の遊び道具として発展していきました。その過程で花札は、単なる遊び道具としてだけでなく、日本の文化や美的感覚を表現する媒体としても育っていったのです。 特に注目したいのは、花札が新しい言葉を生み出すきっかけにもなってきたことです。「シカト」「ピカイチ」など、今でもよく使われている言葉は、花札文化が日本語に与えた影響を示す良い例だと言えます。これらの言葉の多くは、もともとは賭け事の世界から生まれたため、マイナスの意味を持つものが多くなっています。しかし、それぞれの言葉が花札という遊びの特徴をうまく表現しており、日本語をより豊かなものにしてきたと考えられます。 このように、花札とそこから派生した言葉の歴史は、日本が外国の文化を取り入れ、それを独自の形に作り変えて、新しい価値を生み出してきた過程を示す興味深い例と言えるでしょう。 いまでは日常的に花札に触れる機会があまりない人も多いかもしれませんが、スマホゲームやお正月の遊びとして根強い人気のある花札の世界にぜひ触れてみませんか。
2024.12.31
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村上華岳(1888年-1939年)日本画家[日本]
村上華岳とは 生没年:1888年-1939年 村上華岳は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。 甲州武田氏の末裔である武田誠三の長男として、大阪北区松ケ枝町に生まれました。 華岳は、神秘的でありながら官能さも秘めている仏画を多く描いており、新しい時代の日本画を追求した人物です。 闘病生活をつづけながらも独特な作品を生み出し続けた華岳は、持病のぜんそくが悪化して51歳という若さで亡くなっています。 13歳で家督を継がなければならなかった少年時代 村上華岳は、家庭の事情により7歳のころから実の両親の元を離れ、叔母の嫁ぎ先であった神戸の村上家に預けられ、神戸の小学校に通っていました。 華岳が13歳のとき、実の母は行方知れずで、実の父は亡くなってしまいます。 そのため、まだ少年であった華岳が、武田家の家督を継ぐことになりました。 しかし、3年後の1904年に武田家の廃家が許可されたため、華岳は村上家の養子となります。 なお、廃家とは戸主が婚姻や養子縁組などによって他に家に入るために、元の家を消滅させることです。 華岳は、幼いころから絵を得意としており、村上家の養子になる少し前の1903年に、京都市立美術学校に入学しています。 その後、美術学校の研究生を経て、1909年に新設されたばかりの京都市立絵画専門学校に同年進学しました。 文展への出品は、1908年から始めており、京都市立絵画専門学校の卒業制作で描いた『早春』を第5回文展に出品し、褒状を受け取っています。1916年には、華岳が初めて仏画に挑戦し、第10回文展に『阿弥陀之図』を出品して特選を受賞しています。 有力な美術団体「国画創作協会」を設立 第10回文展の翌年は落選となり、新しい傾向を持つ作品への評価に不満を抱いた村上華岳は1918年、京都市立絵画専門学校の同窓である土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らとともに、若手日本画家5人による国画創作協会を設立しました。 この協会は、華岳を中心に文展の審査のあり方に疑問を抱いた若い画家たちが、西洋美術と東洋美術を融合させ、新しい絵画を創出していくために結成されたもので、近代日本画革新運動の一つとして知られています。 国画創作協会の第2回展で出品した『日高河清姫図』は、華岳の代表作の一つです。 なお、第1回展では涅槃を題材にした『聖者の死』を出品していますが、焼失してしまい現代には残されていません。 長年憧れた渡欧をぜんそくで断念 村上華岳は、長年憧れ続けてきた西洋美術を自身の目で直接見て学ぶために、国画創作協会の仲間である土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花らと渡欧の計画を立てますが、華岳は直前にぜんそくの発作を起こしてしまい一人断念することに。 1924年、仲間がヨーロッパから帰国すると協会展を再開しますが、華岳は画壇としての活動が画家の自由な創作を縛り付け、芸術活動を不純なものにするのではという思想が強まったことと、持病のぜんそくが悪化したこともあり、1926年の第5回国画創作協会展への出品を最後に画壇を離れました。 1927年、京都を離れ神戸花隅に移り住み、京都画壇とは距離を置いた状態で、個性的な山水図や牡丹図、仏画などの制作にあたりました。 独自の水墨画の作品を残す 村上華岳は、自身を慕う数少ない人々から支援を受けながら、自己の精神的深化を追い求め、深い精神性と官能性をあわせもった観音像や六甲の山並み、牡丹花などをモチーフにした独自の水墨画を描いていきます。 神戸 花隈に移り住んでからの華岳は、病弱であったためか小さな作品が多く、色彩もモノクロームに近いものが増えていました。 華岳が描く菩薩や仏は、『裸婦図』の系譜を引いているのが特徴で、世俗性と精神性、官能美と悟りの境地、妖艶さと聖性という相反する要素が調和している様子が魅力的です。 晩年の華岳は、毎晩発生するぜんそくの発作と、発作を抑えるための劇薬の服用により、肉体的苦痛の極限状態にありましたが、それでも筆を執り続けました。 しかし、病状が改善されることはなく、1939年、『牡丹図』に加筆するための礬水びきをしたその夜に、51歳で生涯の幕を閉じました。 村上華岳の代表作 村上華岳は、新時代の日本画開拓に貢献した人物の一人で、神秘的な仏画を多く描き人々を魅了してきました。 晩年はぜんそくに苦しみながらも、病状と闘い孤独の中で制作活動を行っていました。 闘病生活と並行して制作をしていたためか、晩年の華岳の作品は小さいサイズのものが多い特徴があります。 また晩年は、モノクロームで落ち着いた色彩の作品が多く制作されました。 『裸婦図』 『裸婦図』は、第3回国画創作協会展に出品された作品です。 異国情緒漂う薄衣をまとった菩薩にもみえる女性が描かれた作品で、村上華岳自身は『裸婦図』について、女性の眼に観自在菩薩の清浄さを表現しようとしたとのちに語っています。 世俗性と精神性、官能美と宗教性、妖艶さと聖性といった相反する要素が取り入れられているのも特徴で、この表現方法は、のちの華岳の仏画にも引き継がれていきました。 官能的な要素がありながらも、気品にあふれた雰囲気を醸し出す華岳の仏画は、近代の宗教絵画の中でも高く評価されています。 『日高河清姫図』 『日高河清姫図』は、能や戯曲にもなった安珍と清姫の物語をモチーフにした作品です。 道成寺縁起伝説では、清姫は蛇の姿になって愛する人を焼き殺す激情に翻弄される女性として伝わっていますが、華岳が描いた『日高河清姫図』の中の清姫は、悲しみや切なさのある雰囲気が伝わってきます。 絵には、雨雲が低く垂れこみ、画面のほとんどに黄土色の山肌が描かれ、左下にわずかに川らしきものが流れている構図が印象的です。 『観世音菩薩 施無畏印像』 『観世音菩薩 施無畏印像』は、1928年に制作された作品で、村上華岳のぜんそくが悪化し、闘病する中で描かれています。 施無畏印とは、恐れを退き人々に安寧を与える手指の形のことです。 施無畏印を結んだ観音菩薩が描かれており、その優しげな表情と肉感が特徴的です。 『菩薩図』 『菩薩図』は、制作年が判明していませんが、村上華岳らしさがよく表現されている作品で、繊細な線描と淡い色彩が上品な雰囲気を醸し出しています。 子どもにも女性にもみえる神秘さをまとった菩薩が、かすかに微笑みを浮かべている表現方法が印象的です。 村上華岳作品の中では、比較的小さいサイズの作品です。 年表:村上華岳 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888年(明治21年)7月3日 0歳 大阪天満松ケ枝町に生まれる。本姓は武田、甲州武田氏の末裔。本名は震一。 1895年(明治28年) 7歳 神戸市神戸尋常小学校に入学し、叔母の嫁ぎ先である村上家に寄居する。 1903年(明治36年) 15歳 京都市立美術工芸学校に入学。 1904年(明治37年) 16歳 村上家の養子となり、「村上」姓を名乗る。 1907年(明治40年) 19歳 京都市立美術工芸学校を卒業。 1909年(明治42年) 21歳 京都市立絵画専門学校に入学。 1911年(明治44年) 23歳 京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作『早春』が第5回文展で褒状を受賞。 1913年(大正2年) 25歳 京都市立絵画専門学校の研究科を修了。 1916年(大正5年) 28歳 『阿弥陀之図』が第10回文展で特選となる。 1918年(大正7年) 30歳 国画創作協会を結成し、第2回展で代表作『日高河清姫図』を発表。 1920年(大正9年) 32歳 『裸婦図』を国画創作協会第3回展に出品。 1921年(大正10年) 33歳 持病の喘息のため、他の国画創作協会のメンバーと共に渡欧せず。 1923年(大正12年) 35歳 京都から兵庫県芦屋市に転居し、隠棲生活を始める。 1925年(大正14年) 37歳 インドの詩人タゴールと交流し、『タゴール像』を素描。 1927年(昭和2年) 39歳 神戸市花隈に転居。以後、画壇から距離を置きつつ制作を続ける。 1934年(昭和9年) 46歳 憧憬者たちが集まり、東京永楽倶楽部において華岳の作品展を開催。 1935年(昭和10年) 47歳 帝国美術院第一部無鑑査となる。 1936年(昭和11年) 48歳 京都美術倶楽部で友人たちが華岳の作品百余点を展示。 1939年(昭和14年)11月11日 51歳 神戸花隈の家で喘息のため死去。晩年に『牡丹図』に加筆するための作業を続けていた。
2024.12.27
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岩佐又兵衛(1578年-1650年)浮世絵師[日本]
武士の家系に生まれ、波乱万丈な幼少期を送り、絵師となった岩佐又兵衛。 浮世又兵衛の名で呼ばれていたこともあり、のちの時代では浮世絵の元祖ともいわれるようになりました。 浮世絵の元祖と呼ばれる「岩佐又兵衛」とは 生没年:1578年-1650年 岩佐又兵衛は、江戸時代初期に活躍した武家出身の浮世絵師です。 又兵衛は、兵庫県伊丹の有岡城主である荒木村重の息子として生まれました。 誕生した翌年、父の村重は織田信長の家臣でしたが、反逆を企てて失敗してしまいます。 有岡城の戦いまたは伊丹城の戦いといわれており、羽柴秀吉の軍として三木合戦に参戦していた村重が戦線を離脱して有岡城に帰城し、信長に謀反を起こしたことがきっかけで始まりました。 村重が破れ有岡城が落城する際、荒木一族のほとんどは惨殺されてしまいます。 しかし、まだ2歳の幼い子どもであった又兵衛は、乳母に助けられ石山本願寺に保護されました。 その後、又兵衛は信長の息子である織田信雄に仕え京都で暮らし始めたそうです。 武士の道を捨てて浮世絵師となる 京都で暮らし始めた岩佐又兵衛は、父の家臣の子どもであり、京都で絵師として活躍していた狩野内膳から絵を 学んだという説もあるが、本当のところはわかっていない。 その後も、土佐派や狩野派の技法を習得しながら京都で活躍していきました。 また絵師としての活動を始めた又兵衛は、母の性である岩佐を名乗るようになったのです。 大阪夏の陣の後、又兵衛は松平忠直に招かれ福井に移住しました。 そこで、松平家のために多くの作品を描いたといわれています。 又兵衛の代表作の多くは、この時期に生み出されたといわれており、有名なものでは『浄瑠璃物語絵巻』や『山中常盤物語絵巻』などがあります。 20年の間、福井で暮らしたのち徳川家に招待され、晩年の20年は江戸で活躍しました。 近松門左衛門も憧れた浮世絵師 岩佐又兵衛が浄瑠璃の世界を題材に描いた絵巻『浄瑠璃物語絵巻』。 江戸時代前期に活躍した浄瑠璃・歌舞伎の作者である近松門左衛門は、又兵衛をモデルにした舞台を制作しています。 1708年に初公演された浄瑠璃『傾城反魂香』に登場する主人公の絵師「吃の又平」は、又兵衛がモデルといわれています。 現代でも人気のある演目で、繰り返し上演されてきたことで、又兵衛の名が広く知れ渡るようになったともいえるでしょう。 岩佐又兵衛が描いたとされる絵巻たち 岩佐又兵衛の描いた作品は、それまでの流派にとらわれない独自の画風で人気を集めました。 又兵衛は、人物の表現方法が独特で、豊かな頬や長いあご、たくましい身体などを強調して描く特徴があります。 自身のスタイルを確立させた又兵衛は、浮世絵の先駆者として「浮世又兵衛」とも呼ばれていました。 重要文化財『山中常盤物語絵巻』 『山中常盤物語絵巻』は、義経伝説をもとにした御伽草子系の物語で、重要文化財に認定されています。 奥州へ向かった牛若を探して都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺されてしまい、牛若が母の仇を討つ物語です。 この作品は、全12巻からなり、全長は150mを超える超大作として知られています。 また、岩佐又兵衛が描いた絵巻物群の中でも、生気あふれる力強い作風であるといわれており、又兵衛本人が関与している可能性が最も高いといわれています。 自然や風俗の描写が細かく巧みで、又兵衛の技量の高さがうかがえる作品です。 重要文化財『浄瑠璃物語絵巻』 『浄瑠璃物語絵巻』も、牛若を主人公にした物語で、『山中常盤物語絵巻』と同様に重要文化財に認定されています。 奥州に向かう牛若と、三河矢矧の長者の娘である浄瑠璃との恋愛模様をメインにした物語です。 牛若の衣装デザインや浄瑠璃姫の寝室の調度、2人が交わす大和言葉などが事細かに表現されており、各シーンは金箔や金銀泥、緑青、群青、朱などの高価な顔料を用いて描かれています。 岩佐又兵衛が描いたとされる絵巻群の中で、最も色彩が華やかで豪華絢爛な作品であるといわれています。 年表:岩佐又兵衛 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1578年(天正6年) 0歳 摂津国有岡城主、荒木村重の子として生まれる。 1579年(天正7年) 1歳 織田信長に反逆した父・村重が敗北。有岡城落城後、乳母に救出され、石山本願寺に保護される。 1587年(天正15年) 9歳 北野大茶湯に参加した可能性がある。 1616年(元和2年) 38歳 京都から福井へ移住。松平忠直と面識を持つが、直接仕えることはなかった。 1623年(元和9年) 45歳 松平忠昌が福井藩主となった後も福井に留まり、多くの作品を制作。 1637年(寛永14年) 59歳 京都を経て江戸へ向かう。江戸幕府3代将軍徳川家光の招きとされる。 1638年(寛永15年) 60歳 仙波東照宮の再建に際し、『三十六歌仙図額』を奉納する仕事を命じられる。 1640年(寛永17年) 62歳 仙波東照宮新社殿の完成に合わせて『三十六歌仙図額』を奉納。 1650年(慶安3年)6月22日 73歳 江戸で没する。家は福井に残した息子、岩佐勝重が継承。
2024.12.27
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尾形光琳(1658年-1716年)画家[日本]
琳派を代表する画家「尾形光琳」とは 生没年:1658年-1716年 尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家で、琳派を代表する人物です。 伝統あるやまと絵に、大胆な構図や色彩を取り入れた斬新な画風が特徴で、背景には金箔がふんだんに使用された屏風絵作品が有名です。 琳派は、世襲制や師弟関係が存在しないため、直接絵を学ぶことはありませんでしたが、光琳は俵屋宗達をはじめとした先人の作品を手本に模倣を繰り返し、技術を学びながら独自の画風を築き上げていったと考えられています。 裕福な呉服屋の次男として生まれる 尾形光琳は、1658年に京都有数の呉服商である「雁金屋」の次男として生まれました。 父の尾形宗謙は、能楽や茶道、書、絵画などをたしなむ趣味人で、光琳は父の影響により幅広いジャンルの文化芸能に幼いころから親しみました。 陶工や絵師として活躍していた尾形乾山は、光琳の5歳下の弟です。 裕福な家柄で生まれ育った光琳でしたが、21歳のときに雁金屋の最大顧客であった東福門院が亡くなってしまいます。 東福門院は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の娘であり、後水尾天皇の后でもありました。 最大の顧客を失った雁金屋の経営状況は悪化の一途をたどり、30歳のときには父が亡くなります。 尾形光琳は、父の莫大な遺産を相続しましたが、まともに働かないまま遊び惚けており、早々に財産を使い果たしてしまったといわれています。 尾形光琳は遊び人だった? 数多くの名作を残している尾形光琳ですが、30代を迎えるまではかなりの遊び人だったといわれています。 亡くなった父の遺産で豪遊し、女性との交際も華やかなものだったそうです。 30歳前後で結婚したといわれていますが、トラブルは後を絶ちませんでした。 32歳のときには、女性から子どもの認知をめぐって訴えられたこともあり、家屋敷や財産を差し出して穏便に済ませようと交渉に持ち込んだ逸話も残されています。 また、光琳には、正妻を含めて6人の妻と7人の子どもがいたともいわれています。 このような話から、光琳は大変プレイボーイであったと予想できるでしょう。 本格的に画業をはじめたときも借金をしており、のちに画家として成功してからも派手な暮らしから離れられず、借金漬けの生活を続けていたそうです。 絵師としてデビューしたのは30代後半 尾形光琳が絵師として本格的にデビューしたのは30代後半ごろからだったといわれています。 江戸に移り住み、大名お抱え絵師として活躍し、雪舟の水墨画や狩野派、中国絵画などを学んでいきますが、江戸での暮らしになじめず5年ほどで京都に戻っています。 京都に戻ってからは、江戸で学んだ技術や経験と持ち前の絵画センスで、目覚ましい活躍をみせるようになりました。 幼いころから家業の影響で衣装文様の装飾美に多く触れていた光琳は、構図感覚や色彩感覚に優れていたと考えられます。 また、公家の名門である「二条綱平」という強力な後援者を得るとともに、富裕層が好む装飾的で豪華絢爛な作風を得意として、活躍の場を広げていきました。 1701年、尾形光琳が44歳のときには「法橋」の称号を授かっています。 そもそも法橋は、高僧に与えられる位ですが、優れた功績をおさめた絵師や仏師にも与えられるケースがありました。 制作年代を確定できる要素がなく、いつごろ制作されたものか判明していない作品もありますが、残されている多くの作品に「法橋光琳」の落款が押されていることから、本格的に絵画を制作し始めたのは、30代後半から40代以降と推察されています。 尾形光琳が活躍した元禄年間 尾形光琳が活躍した時代は、琳派が誕生してから約100年経った時代の京都です。 光琳が生まれた時代は、元禄年間と呼ばれており、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉がおさめていたころです。 江戸時代の最盛期ともいわれており、積極的な新田開発や農業技術、器具の改良などにより農業生産力が大幅に向上し、経済的にも発展を遂げていました。 商品流通の拡大もあり、貨幣経済が発展し、大阪や京都を中心に商業都市が栄えていきました。 絵画の世界では、幕府や大名のお抱え絵師である狩野派や、朝廷絵師の土佐派などが活躍していたそうです。 一方、琳派は新しい時代の作品を多く制作しており、数々の名品を生み出しています。 光琳は、琳派の中でも本阿弥光悦や俵屋宗達の技法を吸収し、琳派を発展させていった人物としても知られています。 絵画や蒔絵に新しい風を吹き込み、多くの人々から人気を集めました。 300年後も評価されるデザインセンスを持っていた 尾形光琳は、デザインセンスに優れており、俵屋宗達の画面構成にならい独自の画風を確立しました。 『紅白梅図屏風』でも、その天才的なセンスが発揮されており、大きな水流を中央に描き、左右の金地には紅白の花を咲かせた梅の老木と若木を配置しています。 自然の景観をモチーフにしていますが、本来の自然界では存在しない構成であり、光琳のセンスが光る作品です。 印象的な構図で、当時の日本美術のイメージとはかけ離れている作品であるにもかかわらず、一つの作品としてまとめられているのは、光琳のデザインセンスがあったからこそであるといえるでしょう。 また、『燕子花図屏風』では、燕子花のモチーフが繰り返されているデザインが印象的で、光琳のクリエイティブさがうかがえます。 尾形光琳は美意識も高かった 尾形光琳は、美意識も高く、優れたファッションアドバイザーでもありました。 光琳は、後援者だった中村内蔵助と公私問わず親交を深めており、蔵助の妻が茶会に出かけるときにどのような衣装を着ていくべきかを光琳に相談したそうです。 当時、富裕層の妻たちが集まって行われていたお茶会は、衣装の豪華さを競う場でもありました。 光琳はそのような場で、あえて白と黒のシンプルな色使いの衣装を提案します。 アドバイスを受けて、シンプルな衣装を着て出かけた蔵助の妻は、豪華な装いをしたほかの妻たちから絶賛されたそうです。 このエピソードから、光琳が優れたファッションセンスも身につけていたことがわかるでしょう。 尾形光琳はアール・ヌーヴォーの火付け役? 尾形光琳は、19世紀の終わりから20世紀のはじめごろのフランスを中心としたヨーロッパ全体で流行していたアール・ヌーヴォーの火付け役であったともいわれています。 国際的な美術運動であるアール・ヌーヴォーは、植物の文様や流れるような曲線のデザインが特徴的で、その後のジャポニズムにつながっていきました。 アール・ヌーヴォーが誕生したきっかけは、琳派の絵画であったといわれています。 当時欧米では、シーボルトが持ち帰った酒井抱一の『光琳百図』や、フェノロサによって紹介された琳派の俵屋宗達や光琳が注目されており、光琳文様の自然表現がクリムトやミュシャなどの画家に大きな影響を与え、西洋絵画に新しい風を吹き込んだのでした。 尾形光琳と俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代の初期に活躍していた絵師で、尾形光琳とは生きていた時代が異なります。 直接的な師弟関係はありませんでしたが、光琳の作品からは宗達が描いた『風神雷神図』『槙楓図』のような様式がみられるものもあり、光琳が宗達の作品から学びを得ていたのではないかと考えられています。 光琳は宗達を目標にしていたといわれていますが、決して越えられない壁であると気付いた光琳は、独自の画風を生み出していったのでした。 尾形光琳と尾形乾山 尾形光琳には、尾形乾山という5歳離れた弟がいました。 乾山も芸術家としての道に進んでいますが、絵ではなく焼きものの制作を選び、二条家から譲ってもらった窯で乾山窯を開いていました。 初期のころに制作していた焼きものの絵付けは、すべて兄である光琳が行っていたそうで、兄弟の仲は良好であったと考えられるでしょう。 また、派手好きで遊び人であった光琳とは正反対に、乾山は勤勉で読書好きだったといわれています。 年表:尾形光琳 西暦 満年齢 できごと 1658年 0歳 京都で呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。幼名は惟富、通称は市之丞。 1678年 20歳 雁金屋の経営が東福門院の崩御により傾き始める。 1687年 29歳 父・宗謙が死去。兄・藤三郎が雁金屋を継ぎ、光琳は遊興にふけ、借金をつくる。 1692年 35歳 「光琳」の名が史料に初めて登場する。収入の為に画業に専念し始める。 1701年 44歳 法橋の位を得る。これ以降、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られるようになる。 1704年 47歳 江戸へ下る。裕福あった中村内蔵助を頼り、経済的に困窮しつつも活動を続ける。 1709年 51歳 京都に戻る。 1711年 53歳 京都の新町通りに新居を構え、創作活動を行う。 1713年 55歳 長男・寿市郎に遺言書に相当する書を残す。自身の画業を「家業」とは見なしていないことを述べる。 1716年7月20日 59歳 死去。代表作『紅白梅図』などを残す。
2024.12.27
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旭玉山(1843年-1923年)彫刻家[日本]
象牙彫刻や彫嵌細工を手がける「旭玉山」とは 生没年:1843年-1923年 旭玉山とは、象牙彫刻や彫嵌細工を表現のメインとして活動していた彫刻家です。 玉山は、浅草の寺の子どもとして生まれますが、僧侶の道を捨て、一般の人に戻り、独学で彫刻を学んでいきました。 彫刻の技術を習得すると、生き物をモチーフにした精緻な根付を作り、生活するように。 根付とは、主に江戸時代に使用されていた留め具のことで、印籠や煙草入れ、巾着などに利用されていました。 その後、玉山は1877年に開催された第一回内国勧業博覧会に『人体骨格置物』を出品し、見事竜紋賞を受賞しました。 翌年の1878年には、明治時代の彫刻科である石川光明とともに、牙彫の技術や文化を発展させるために、競技会と批評会を定期的に開催するようになり、のちの東京彫工会につながっていきます。 1881年には、第二回内国勧業博覧会にて『牙彫髑髏』を出品し、名誉賞牌を受賞して高く評価されます。 明治宮殿が造営される際は、東京彫工会を代表して宮内省に出向き、多くの工芸家たちをまとめて彫刻制作を取り仕切りました。 1890年、玉山は眼病を患い大磯に移住し、その後1892年には京都に移り住みます。 京都に移ってからは、関西地区で開催される博覧会で審査員を務めました。 1900年に開催されるパリ万国博覧会に向けて作品の制作を進めていましたが、展覧会までに完成が間に合わず、作品は翌年の日本美術協会展にて出品されました。 その作品が『官女置物』で、十二単を牙彫で精緻に表現しているこの作品は、明治牙彫の代表作として知られています。 玉山は、木彫をメインに嵌入彫刻や鹿角彫刻を制作していましたが、晩年は素朴でシンプルな表現の作品を多く制作しました。 象牙を素材にした彫刻「象牙彫刻」の特徴 象牙彫刻とは、象牙を素材として彫刻した作品を指し、象牙がもつ重量感や柔らかな質感、温かみのある色合いなどが特徴です。 牙彫師の繊細で卓越した技巧により生み出された象牙彫刻には、ほかの芸術作品にはない独特の美しさがあります。 また、すべての象牙が作品として利用できるわけではなく、彫刻とするのに適した硬度と粘りが存在します。 象牙彫刻によって作られる主な工芸品は、アクセサリーや根付などの作品や、刀装具、印章、楽器の部品、などです。 また、人や動物、建物をモチーフに作られた芸術作品も多く制作されています。 象牙彫刻の歴史をさかのぼると、約32,000年前のドイツで獅子頭の小立像が発見されており、この作品が最も古い象牙彫刻であるといわれています。 中国では、宮殿を飾る等宮廷職人が象牙彫刻の技術を発展させていき、奈良時代ごろに中国から日本にも象牙作品が伝わっていきました。 江戸時代以降は、牙彫根付が流行し、精巧な牙彫の印寵といった日用品や置物にも象牙彫刻の技術が利用されるように。 大正時代に入ると、着色技術が発展していき、豊かな色彩表現が特徴の象牙彫刻も増えていきました。 素材はめ込んで装飾する「彫嵌細工」の特徴 彫嵌とは、象牙や木などのベースとなる素材を図柄にあわせて彫り、刻んだ貝や牙角、金属、べっ甲などをはめ込んで装飾する技法を指します。 もともとは大陸で生まれた技法といわれており、日本に伝わってからさらに技術が洗練されていき、特に明治以降は、彫嵌細工の優れた美術品が数多く制作されています。 彫嵌細工は、素材の特性を熟知したうえで、高度な技術を用いて制作する必要があり、時間と手間が大いにかかる美術品です。 彫嵌細工は、美しいだけではなく、独特の風格や品格を備えており、多くの人の心を惹きつけてきました。 旭玉山の代表作『牙彫髑髏置物』 『牙彫髑髏置物』は、1881年に玉山が制作した牙彫作品で、明治政府が編纂している図案集『温知図録』にも掲載されています。 玉山は、医学者の松本良順らから人体骸骨の制作指導を受けており、象牙彫刻を用いた髑髏の制作を得意としていたそうです。 年表:旭玉山 西暦 満年齢 できごと 1843年 0歳 浅草の寺に生まれる。幼名は富丸。 1877年 34歳 第一回内国勧業博覧会で『人体骨格置物』を出展し、竜紋賞を受賞。 1878年 35歳 石川光明と共に牙彫発展のための競技会と批評会を開始。 1881年 38歳 第二回内国勧業博覧会で『牙彫髑髏』を出展し、名誉賞牌を受賞。 1885年 42歳 競技会と批評会が東京彫工会に発展。 1890年頃 47歳 眼病を患い、大磯に移住。 1892年 49歳 京都に移住し、関西地区の博覧会で審査員を務める。 1900年 57歳 パリ万国博覧会に向けて制作を進めるも間に合わず、翌年日本美術協会展に出展。 1901年 58歳 日本美術協会展に『官女置物』を出展し、高い評価を受ける。 1923年8月10日 80歳 死去。
2024.12.27
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高村光雲(1852年-1934年)仏師・彫刻家[日本]
彫刻界の重鎮と呼ばれた「高村光雲」とは 生没年:1852年-1934年 高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家で、明治から大正にかけて活躍した人物です。 仏像や動物をモチーフにした作品を多く残しており、代表作には、上野公園の『西郷隆盛像』や皇居の『楠公像』などがあり、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 息子の高村光太郎は、詩人であり彫刻家としても活躍した人物です。 12歳で仏師・高村東雲に弟子入り 光雲は、江戸・下谷源空寺門前の長屋にて生まれ、本名を中島幸吉といいます。 父の兼松は、自身が幼いころ家庭の事情で手に職を付けられなかった経験から、息子には何か手に職を付けさせてやりたいと考えていました。 幼いころからノコギリやのみで木片を切ったり削ったりしている光雲の姿をみて、大工をしている親戚の家に奉公に出そうと考えます。 光雲が12歳になり、いざ奉公に出る日の前日、髪を整えるために訪れた床屋で大きな転機がまっていました。 光雲が大工に弟子入りすると床屋の主人に伝えると、彫刻師の高村東雲が一人弟子をとりたがっていることを伝えられます。 それを聞き、光雲は大工への弟子入りをやめ、東雲に弟子入りすることを決めたのでした。 光雲は、伝統ある仏像彫刻の技術を守り続けてきた東雲のもとで、彫刻に関する技術を熱心に学びます。 のちに、光雲は兵役を逃れるために、東雲の姉の養子となり、高村の名を継ぎました。 1874年、東雲からも認められるほどの腕前を身につけた光雲は、高村光雲と名乗り、1877年には第1回内国勧業博覧会にて東雲の代わりに『白衣観音』を出品しました。 この作品は、最高賞となる龍紋賞を受賞し、光雲の名は多くの人々に知れ渡っていきます。 師匠亡きあと独立するも苦境が待っていた 1879年、師匠である東雲が亡くなり、光雲は仏師・彫刻家として独立することになりました。 師の東雲が精力的に製作していた時代から、木彫りは徐々に衰退の道を辿っており、明治維新後は、さらに仏教を廃止する運動が高まっていったため、仕事は急速に減少していきました。 さらに、海外向けに輸出された象牙彫刻が流行となり、独立したばかりの光雲の生活は、次第に苦しくなっていったのです。 しかし、光雲は逆風に飲まれることなく積極的に西洋美術を学び、木彫りをさらに研究していきました。 西洋美術から写実的な表現方法を学んだ光雲は、木彫りにも応用して新しい技術を生み出し、木彫りの伝統を近代へとつなげる橋を架けました。 牙彫師・石川光明をきっかけに美術の世界へ その後、光雲は洋傘の柄から貿易品の型彫りまで、木彫りの依頼は何でも引き受け、仕事を着実にこなしながら木彫りの技術を磨いていきました。 そのようなとき、転機となる彫刻作家、石川光明と出会います。 光明は光雲と同い年で、下谷稲荷町の宮彫師の家に誕生し、牙彫師・菊川正光に師事し牙彫を学んでいる人物です。 1881年には、第2回内国勧業博覧会に出品した『魚籃観音』が妙技二等賞を受賞し、超絶技巧といわれるほどの高い技術力によって活躍していました。 地元が同じかつ同い年であり、さらには似た経歴をもつ2人は、すぐに意気投合し、光明に誘われ、光雲も日本美術協会の会員となっています。 これがきっかけで、仏師職人の道を歩んできた光雲が、日本美術の世界に足を踏み入れていくのでした。 その後、光雲は日本美術協会役員の推薦により、光明とともに皇居造営における室内装飾を任され、日本の木彫りの第一人者として広く知れ渡りました。 東京美術学校の教授となり後進の育成に励む 光雲は、1889年に開校となった東京美術学校の教員に就任しました。 開校当初は、日本画科と彫刻科、工芸科の3つが設置され、光雲は校長の岡倉天心に誘われ、彫刻科の教員を務め、翌年には教授に就任しています。 同年、皇室が日本の美術や工芸を保護と奨励を目的として定めた帝室技芸員に、光明とともに任命されました。 その後は、明治のはじめごろから衰退の一途を辿っていた日本の木彫りを再興するために、精力的に製作活動をする一方、東京美術学校での指導や工房で多くの弟子をとるなど、後進の育成にも励みました。 高村光雲が手がける作品の特徴 高い技術力をもつ光雲は、伝統的な日本の木彫りに西洋の技術を融合させ、新たな作品を次々に生み出していきました。 伝統の木彫技術と西洋の写実性との融合 これまでの木彫りには、写実的な技術があまり用いられていませんでしたが、光雲は時代の移り変わりにあわせて積極的に西洋美術を学び、写実主義を取り入れた新たな木彫技術を生み出しました。 画家が写生するときのようにモチーフをよく観察し、見たままを写し取るのが特徴です。 写実性を重視していた光雲は、製作時に描いたスケッチが多く残されています。 今にも動き出しそうな細部へのこだわり 光雲の作品は、規模が大きく迫力のあるものも多くありますが、個人が所有する小・中サイズの仏像や動物をモデルにした作品も、多く製作しています。 小さな作品でも、口元の歯や目じりのシワなど細部に至るまで表現されており、衣は柔らかさをもった質感で再現されているのが魅力です。 動物をモデルにした作品では、皮膚の質感や毛の流れなども繊細に表現されており、今にも動き出しそうな躍動感が伝わってきます。 年表:高村光雲 西暦 満年齢 できごと 1852年3月8日 0歳 江戸下谷(現・台東区)で生まれる。 1863年 11歳 仏師・高村東雲の元に徒弟として入る。 1889年 37歳 東京美術学校に勤務開始、彫刻科教授に就任。 1890年 38歳 帝室技芸員に任命される。 1893年 41歳 『老猿』をシカゴ万博に出品。 1897年 45歳 『西郷隆盛像』が完成。 1900年 48歳 『山霊訶護』をパリ万博に出品。 1901年 49歳 正六位に叙される。 1903年 51歳 従五位に叙される。 1912年 60歳 正五位に叙される。 1922年 70歳 正四位に叙される。 1926年 74歳 東京美術学校を退職し、名誉教授となる。従三位に叙される。 1934年10月10日 82歳 死去。満82歳。
2024.12.27
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山田宗美(1871年-1916年)鍛金家[日本]
早世の鍛金家「山田宗美」とは 生没年:1871年-1916年 山田宗美は、石川県加賀市出身の鍛金家で、本名は山田長三郎といいます。 宗美は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で、加賀市の大聖寺藩に仕えていた武具鍛冶師の家系に生まれました。 1885年ごろから父の山田宗光に象嵌や打出しなど鍛金の技法を学び、ほかの兄弟が早くに亡くなってしまったことから1890年に10代目長三郎を襲名し、号として宗美を使うようになりました。 1891年、弱冠20歳とまだ若かった宗美は、新しい鉄打出の技法を編み出します。 1枚の薄い鉄板を金づちで叩いて伸ばし、立体の花瓶や置物を作り上げる独自の手法で、銅をはじめとした柔らかい金属とは異なり、鉄の打ち出しは難しく高い技術が必要なため、この技法は、画期的なものでした。 宗美は、卓越した鉄の打ち出し技術を持ち合わせており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」といわれるほどでした。 宗美は、自身が編み出した鉄打出技法を用いて数々の名作を製作しています。 1896年には、日本美術協会展に作品を初出品し、三等賞銅牌を受賞して宮内庁御用品となりました。 さらに、1900年にフランスで開催されたパリ万国博覧会、1904年にアメリカで開催されたセントルイス万国博覧会にも立て続けに作品を出品し、一等賞金牌を受賞しています。 さらに、1910年の日英博覧会に出品した『鉄打出狛犬大置物』は、名誉大賞を受賞。 宗美の精巧な技術と作り上げられた作品は、日本のみにとどまらず、海外からも高く評価されたのでした。 華々しい活躍をおさめる宗美ですが、一心不乱に創作活動を行っていたため、健康面で不調がみられるようになっていきました。 1913年、宮内省により運営されている帝室技芸員に推薦され、1916年には内定していましたが、発表を目前にして宗美は、44歳という若さで亡くなってしまいます。 帝室技芸員とは、美術や工芸において優秀な功績を残した人物が任命されるもので、技術の保護と発展のために制定された制度です。 今後の活躍も大いに期待されていた宗美でしたが、任命発表を待たずして生涯の幕を下ろしたのでした。 山田宗美が作り出す作品の魅力 宗美が製作してきた作品は、金属でありながらも細やかな写実性を表現しているのが大きな特徴です。 宗美は、たがねを使用して金属の表面を細かく彫り、彫った溝に別の種類の金属をはめ込む彫金技法「象嵌」を得意としていました。 江戸時代においては、武士が使用する鎧や兜、刀などの装飾に象嵌の技術が活用されていました。 象嵌を使用して金属を作る技法には、鍛金・彫金・鋳金の3つがあり、鍛金とは熱した金属が伸びる特性を活かし、叩いて伸ばすことで造形していく技術です。 宗美は、造形が難しいといわれていた鉄を使用した打出技法を編み出しており、その技術を利用して精巧な置物や花瓶などを作成しています。 宗美の作品では、特にウサギをモチーフにした置物が有名で、本物のウサギのようにピンと長い耳や柔らかな毛の質感を鉄で巧みに表現しており、作品を鑑賞すると思わずうっとりしてしまうでしょう。 細部にまでこだわり写実された作品は、素人目でみても心が惹きつけられます。 山田宗美は新しい技法を生み出した 宗美が考え出した鉄打出と呼ばれる新技法は、画期的な技術で、日本のみならず世界中で高く評価されています。 素材が鉄であるにもかかわらず、作品から冷たさは感じられず、写実的で今にも動き出しそうな躍動感が魅力です。 宗美には弟子がおり、黒瀬宗世は、1枚の薄い鉄板を伸ばして立体的な作品を作り出す技術を継承した数少ない人物です。 若くして亡くなってしまった宗美ですが、生み出された匠の技術は、後世にも伝えられています。 山田宗美の代表作品 巧みな技術を用いて作られた宗美の作品は、金属でありながらもリアルで温かみがあります。 『鉄打出兎置物』 『鉄打出兎置物』は、本来は伸ばしにくい1枚の薄い鉄板を、均一の厚さを維持しながら金づちで伸ばしていき、打ち絞ることで置物や花瓶を造形していく鉄打出工芸の技法を用いて作られています。 1枚の鉄板から形作られたとは思えない、リアルで躍動感のある作品は、精緻な写実表現により見る者を圧倒します。 また、鋳造品のように重量感のある見た目をしていますが、実際に作品を手に取ってみると、思っているよりも軽いのが特徴です。 この技法が誕生した過程や技法の詳細は、記録や資料として残されておらず、現在では再現不可能な幻の技法といわれています。 両耳をピンと真っすぐに伸ばしてうずくまるウサギの置物は、今にも飛び跳ねそうな躍動感を兼ね備えています。 前足と後ろ足の緊張感のある筋肉表現や、ふわふわとした毛の質感、両頬を膨らませて何か口に含んで隠しているような愛らしさなど、ウサギ独特の表情や動きがリアルに表現されているのが魅力の一つです。 写実性の高さから、技術力はもちろん、宗美の観察眼の鋭さも作品から垣間見えます。 『大根鼠置物』 『大根鼠置物』は、横向きに置かれた大根の上で、今にもかじりつきそうな様子のネズミが表現された作品です。 口元に手を当てた表情は、写実性が高いだけではなく、ネズミの生命感や躍動感なども巧みに表現しています。 宗美は、この作品を製作するにあたって、ネズミの生態を知るために俵を被り、20日間納屋に潜んでネズミとともに住んだというエピソードが残されており、リアルな表現のために観察に力を入れていたとわかります。 大根は、実際に無造作に置いたときに広がる葉の形を巧みに表現しており、ネズミと同様に鉄の堅さを感じさせない柔らかな質感をもっているのが特徴です。 年表:山田宗美 西暦 満年齢 できごと 1871年12月23日 0歳 石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で生まれる。 1891年 19歳 独自の鉄打出し技術を編み出す。 1896年 25歳 日本美術協会展で受賞。 1900年 28歳 パリ万国博覧会で受賞。 1904年 32歳 セントルイス万国博覧会で受賞。 1909年 37歳 日英博覧会で『鉄打出狛犬大置物』が名誉大賞を受賞。 1916年3月15日 44歳 帝室技芸員に内定するも、発表前に死去。 1982年 - 『鉄打出狛犬大置物』と『鉄打出鳩置物』が石川県指定文化財に指定。
2024.12.27
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鈴木長吉(1848年-1919年)金工師[日本]
生きているかのような『十二の鷹』を作った「鈴木長吉」とは 生没年:1848年-1919年 鈴木長吉は、日本の金工技術を海外に広め、人気を高めた金工師の名工です。 日本の工芸品を積極的に海外へ輸出し、伝統的な美と技術を広めるとともに、日本の発展にも寄与しました。 18歳で独立し江戸で開業する 現在の埼玉県坂戸市である武蔵国入間郡石井村で生まれた長吉は、比企郡松山を代表する岡野東流斎から蝋型鋳金を5年間学んでいます。 鋳金とは、高熱で溶かした金属を鋳型に流し込んで、鋳型の空間にあわせて形を作る技法で、鋳型を蝋で製作するのが蝋型鋳金です。 その後、18歳で鋳物職人として独立を果たし、江戸で開業しました。 1874年には、明治政府が西洋諸国に対抗するために始めた政策の一つ殖産興業の一環として、日本の工芸品を西洋へ積極的に輸出する取り組みが動き始めました。 長吉は、輸出を目的に設立された起立工商会社の鋳造部監督を務め、2年後には工長となり、退社する1882年までの間、多くの大作を手がけて国内外の博覧会へ出展を行い、高い評価を得ています。 明治のはじめごろは、まだ機械工業が未発達であったため、高い技術によって作られた精巧な工芸品は、日本にとって貴重な外貨取得手段でした。 また、幕府解体により廃刀令や廃仏毀釈が出された影響で、職を失いつつあった当時の金工家にとって、工芸品を輸出する目的で設立された数々の企業は、生計を立てるための貴重な仕事場でした。 西洋人好みの作品を製作する 長吉は、西洋事情に詳しい日本の美術商・林忠正の監修のもと、西洋人好みの作品を製作していきました。 その一つが『十二の鷹』で、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つです。 また、同じ博覧会に出品された『鷲置物』は、2001年に重要文化財に指定されました。 長吉自身は、1896年に高い技術力が国に認められ、鋳金家として帝室技芸員に任命されました。 機械工業の発達により工芸品製作は下火に 日本の工芸品を製作する職人たちが活躍していく中、明治後期に入ると日本の機械工業が日に日に発達していき、手間や時間のかかる工芸品の製作は、下火になっていきました。 また、日本の工芸品が粗製乱造や過度な西洋趣味に偏ってしまっていたことも相まって、工芸品に対する評価が落ちてしまっていたのでした。 精緻かつ写実的で美しい装飾を大量に施す長吉のスタイルは、アール・ヌーヴォーの盛り上がりが収まっていくにつれて時代の流行とマッチしなくなっていきます。 晩年、長吉は養子を迎えて金剛砥石業に転職し、1919年、腎臓病にて自宅で亡くなりました。 高い技術と才能が認められて帝室技芸員にまでのぼりつめた、工芸界にとって重要な人物ではありますが、晩年の詳しい活動は明らかになっていません。 鈴木長吉の代表作 長吉は、数々の名作を残しており、展覧会にて受賞歴のある作品も多数存在します。 『十二の鷹』 『十二の鷹』は、1893年に製作されており、長吉はこの作品を製作するために実際に鷹を飼い、写生を繰り返して製作までに3年の月日を費やしたそうです。 江戸時代に発展した卓越した金工技術を用い、さまざまな姿の鷹をまるで生きているかのように表現しています。 『十二の鷹』は、1893年のシカゴ万博に出品され、紀念賞を受賞しました。 徳川幕府の時代、鷹が生息する48の地域から若い鷹を60羽近く集め、その中から将軍の鷹狩りのために選りすぐりの12羽を選定する儀式があり、その儀式にちなみ12羽の鷹が製作されました。 『孔雀大香炉』 『孔雀大香炉』は、1876年から1877年にかけて製作され、1878年のパリ万国博覧会に出展し、金賞を受賞しています。 構想は、フィラデルフィア万国博覧会の直後から練られ、渡辺省亭や山本光一に図案を作成してもらい、若井兼三郎が構図を作成、長吉が鋳造を担いました。 製作当初は、香炉の上に鳩が5羽いたそうです。 アール・ヌーヴォーの名を生み出した美術商のサミュエル・ビングは、この作品を「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と褒め称えました。 ヴィクトリア&アルバート博物館は、多額の予算を投じてビングから作品を購入し、現在博物館に所蔵されています。 『青銅鷲置物』 『青銅鷲置物』は、図案を山本光一が手がけ、鋳造を長吉が担当した作品で、1885年にニュルンベルク府バイエルン工業博物館にて開催された金工万国博覧会で金賞牌を授かり、博物館長が作品の美しさに驚き、会場で一番目立つ円形広間に移動させたそうです。 『水晶置物』 『水晶置物』は、1876年に御嶽山で採取された水晶玉の原石を用いて作られた作品で、第2回内国勧業博覧会に出品されました。 1893年に、美術館が水晶玉の寄贈を受けると、その後水晶にあわせてカスタムメイドの台座の製作を山中商会に依頼し、1500ドルが支払われたそうです。 『銅鷲置物』 『銅鷲置物』は、1893年に製作された作品で、岩上から獲物を狙う鷲の姿を写実的に表現した青銅製の置物です。 羽の一本一本が精密に作られており、足の肌合いまでもが本物のように表現されています。 鷲は、頭部・胴部・両翼・脚部を蝋型鋳造で作って接合し、接合部はたがねやのみを使って整えてあります。 鷲本体は黒褐色で、くちばしと爪は茶褐色で表現され、両目の眼球は彫った溝に純金を埋め込む金象嵌の技法が施されているのが特徴です。 年表:鈴木長吉 西暦 満年齢 できごと 1848年9月12日 0歳 武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれる。 1866年 18歳 岡野東流斎に蝋型鋳金を学び、独立して江戸で開業。 1874年 26歳 起立工商会社の鋳造部監督に就任。 1876年 28歳 『孔雀大香炉』を制作。フィラデルフィア万国博覧会に出品。 1882年 34歳 起立工商会社を退社。 1885年 37歳 『青銅鷲置物』でニュルンベルク府バイエルン工業博物館の金工万国博覧会で金賞を受賞。 1893年 45歳 『十二の鷹』『鷲置物』をシカゴ万国博覧会に出品。『十二の鷹』は高い評価を受ける。 1894年 46歳 『百寿花瓶』を制作。 1896年 48歳 帝室技芸員に任命される。 1899年 51歳 『岩上双虎ノ図置物』を制作し、翌年のパリ万国博覧会に出品。 1903年 55歳 『水晶置物』を制作。ボストン美術館に収蔵。 1919年1月29日 72歳 東京の自宅にて、腎臓病のため逝去。
2024.12.27
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木谷千種(1895年-1947年)日本画家[日本]
大阪を拠点に活躍した「木谷千種」とは 生没年:1895年-1947年 木谷千種は、大正から昭和にかけて活躍した女性日本画家です。 大阪をメインに活躍した人物で、島成園や松本華羊、岡本更園などとも交流があります。 当時の女性としては珍しく、渡米して洋画を学んでいますが、自身の作品では、歌舞伎や人形浄瑠璃など、日本の伝統芸能や伝統行事に焦点を当てた作品を多く残しています。 結婚後は、家事や子育てをしながらも、精力的に絵を描き、発表し続けました。 12歳で渡米しシアトルで洋画を学ぶ 千種は、大阪府大阪市北区堂島にて、外国の商品や西洋の衣料・雑貨をメインに扱う唐物雑貨商を経営する吉岡政二郎の娘として誕生しました。 本名は吉岡英子で、幼いころに母を失っています。 12歳になると、渡米してシアトルで2年間洋画を学び、1909年に帰国した後は、大阪府立清水谷高等女学校に通います。 在学中から日本画家の深田直城に師事し、花鳥画を学びました。 深田は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、京都にて四条派を学び、その流れをもつ大阪の船場派で絵を描き続けるとともに、後進の育成にも貢献した人物です。 その後、千種は1909年に発生した大阪府大阪市で発生した大きな火事・北の大火により、自宅を焼失してしまいます。 東京移住後は池田園に師事する 千種は、女学校卒業間近にして東京に移住し、1913年から約2年間、女性日本画家の池田蕉園に師事しました。 蕉園は、明治から大正にかけて活躍した女性浮世絵師であり日本画家で、東京で最も人気のある美人画の描き手であったといわれています。 上村松園とともに女性美人画家の双璧といわれていましたが、31歳と若くして亡くなっています。 第6回文展で初入選を果たす 1912年、千種は、吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し、見事初入選を果たしています。 1915年には、大阪に戻り、池田室町に住んでいた叔父で東京テアトル創業者の吉岡重三郎のもとで一時的にお世話になることに。 叔父は、阪急東宝グループの創業者である小林一三を支援し、宝塚歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに力を入れた人物で、千種はこのようなモダンな環境にて絵画の制作活動を本格化させていきました。 大阪では、日本画家の野田九浦や浮世絵師であり日本画家の北野恒富などから、美人画を中心に学び、第1回大阪美術展覧会には『新居』を出品しました。 大阪で「女四人の会」を結成 女性日本画家の先駆けである大阪出身の島成園が、21歳という若さで第7回文展で入選を果たし、前年にも『宗右衛門町の夕』で初入選を果たしていたことから、若い女性画家が注目を集めていました。 また成園の活躍は、同世代の大阪の女性日本画家にとって大きな刺激となり、女性が職業画家を目指して大阪に集まる現象が起きていたそうです。 その中で、同じ時代に文展でそれぞれ入選し活躍していた千種、成園、華羊、更園が集まり、1916年に「女四人の会」が結成されました。 女四人の会は、浮世草子の井原西鶴が作った『好色五人女』をテーマに大阪で展覧会を開催しました。 千種は、1915年の第9回文展で入選した『針供養』や1918年の第12回文展入選作品の『をんごく』などを発表して注目を集め、のちに文展無鑑査決定を得ています。 その後、1918年に千種は、住まいを京都に移し、翌年から近代日本画家の先駆者といわれている竹内栖鳳の紹介により、菊池契月から絵を学んでいます。 千種は、同門である梶原緋佐子、和気春光とともに、「契月塾の三閨秀」と称されました。 -島成園 生没年:1892年-1970年 成園は、大阪堺に生まれ育ち、大阪を中心に活躍した女性日本画家です。 弱冠20歳にして、第6回文展に入選し、翌年の第7回文展でも入選するなど、若くして頭角を現し、美人画の領域を超えた衝撃的な作品を多く描き注目を集めていました。 成園が同世代の女性画家に与えた影響は大きく、多くの女性画家が大阪に集まり、近代大阪で一大勢力を形成しました。 -松本華羊 生没年:1893年-? 華羊は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家で、1913年に第13回巽画会展で入選を果たし画壇デビューすると、『ばらのとげ』、『池のほとり』、『都の春』など次々に新作を発表します。 1915年に大阪へ移り住み、第9回文展では『青葉の笛』が入選し、創作グループ「女四人の会」のメンバーとなり、さらに活躍の場を広げていきました。 1916年ごろからは、日本画と並行して洋画や彫塑などにも挑戦するようになり、1917年には泥人形展覧会を開催しています。 -岡本更園 生没年:1895年-? 更園は、日本画家の鏑木清方、西山翠嶂の門下であり、大正から昭和にかけて活躍した大阪の女性日本画家です。 はじめは、義理の兄である岡本大更の更彩画塾にて日本画を学び、その後「女四人の会」を結成して活躍の場を広げていきました。 美人画が得意で、新聞や雑誌の挿絵などの制作活動も行っていました。 結婚後は文楽や歌舞伎なども描く 1920年、千種は、近松門左衛門を研究している木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に戻ります。 結婚後は、これまで注目を集めてきた美人画だけではなく、文学や歌舞伎をテーマにした作品も多く描くようになりました。 1925年には、第6回帝展に『眉の名残』を出品して入選、1926年の第7回帝展では『浄瑠璃船』が入選、1929年の第10回帝展では『祇園町の雪』が入選するなど、目覚ましい活躍を見せていました。 女性をモチーフにした作品の発表を続け、帝展ではあわせて12回も入選を果たしています。 また、夫の蓬吟が書いた『解説註釈大近松全集』の装丁や、蓬吟が編集と発行を務めた郷土趣味雑誌『大阪人』の表紙絵を描くなど、結婚後は夫の仕事も支えていました。 若手女流画家の育成にも力を入れた 千種は、自ら精力的に優れた作品を制作し続けるだけではなく、後進の育成にも力を入れていました。 大阪の自宅を利用して「八千草会」や「千種会」などを開き、若手女性画家たちの育成を行っています。 指導だけではなく、地位を向上させるべく、千種会展や大阪女流展などを開催し、弟子たちに作品を発表する機会を与えました。 千種自身も、自らの作品を展覧会に出品しています。 1947年、女性画家として活躍し、後進の育成にも努めた千種は、大阪府南河内郡にて51歳で亡くなりました。 年表:木谷千種 西暦 満年齢 できごと 1895年2月17日 0 大阪府大阪市北区堂島で唐物雑貨商の吉岡政二郎の娘として生まれる。本名は吉岡英子。 1907年 12 渡米し、シアトルで2年間洋画を学ぶ。 1909年 14 帰国後、大阪府立清水谷高等女学校在学中に深田直城に師事し、花鳥画を学び始める。同年、北の大火で自宅を焼失。 1912年 17 吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し初入選。 1913年 18 東京に移住し、日本画家の池田蕉園に師事する。 1915年 20 再び関西に戻り、叔父の吉岡重三郎の元に寄寓。野田九浦や北野恒富の指導を受ける。大阪美術展覧会に『新居』を出品。 1916年 21 島成園、松本華羊、岡本更園と共に「女四人の会」を結成し、『好色五人女』を題材にした展覧会を大阪で開催。 1918年 23 京都に転居し、竹内栖鳳の紹介で菊池契月に師事。「契月塾の三閨秀」の一人と称される。 1920年4月 25 近松門左衛門研究家の木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に帰阪。文楽や歌舞伎を題材にした作品を多く手掛けるようになる。 1925年 30 第6回帝展に『眉の名残』を出品し入選。 1926年 31 第7回帝展に『浄瑠璃船』を出品し入選。 1929年 34 第10回帝展に『祇園町の雪』を出品し入選。 1930年代 35-40 文展、帝展に通算12回の入選を果たす。 1930年代 35-40 夫の著作『解説註釈大近松全集』の装丁や雑誌『大阪人』の表紙絵を手掛け、夫を支援。 1940年代 45-50 自宅に画塾「八千草会」や「千種会」を設立し、女流画家の育成に尽力。千種会展や大阪女流展を開催。 1947年1月24日 51 大阪府南河内郡にて死去。
2024.12.27
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モーリス・ユトリロ(1883年-1955年)画家[フランス]
白の画家と呼ばれた「モーリス・ユトリロ」とは 生没年:1883年-1955年 モーリス・ユトリロとは、近代のフランス画家で、数少ないモンマルトル出身の芸術家です。 ユトリロは、素朴な都市の風景画を描く画家として知られており、パリのモンマルトル地区近郊の曲がりくねった道や路地の風景を好んで描いていました。 父が誰であるかはっきりとはわかっていませんが、ボワシーと呼ばれる若いアマチュア画家や、有名画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワールであるともいわれています。 母はアートモデルで画家志向だった ユトリロは、パリ・モンマルトルの丘のふもとにあるポトー街8番地にて、シュザンヌ・ヴァラドンの子として生まれました。 母のヴァラドンは、ブランコの転落事故によりサーカス曲芸師をやめ、アートモデルに転向すると、ルノワールやベルト・モリゾ、アンリ・ド・トゥールズ・ロートレックなどのモデルを務めながら、自身も画家を志し絵画を学んでいました。 ユトリロは、身体が弱く情緒不安定でしたが、ヴァラドンは自身の母マドレーヌに育児を任せていたのです。 ユトリロは、学校に通うようになってからもあまり周囲となじめず転校を繰り返しています。 その後、ヴァラドンはポール・ムージスと暮らしはじめ、自宅にアトリエを構えると絵画により専念していきました。 ムージスと結婚し生活が安定すると、ユトリロは私立学校の寄宿舎に預けられ、その後オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を取得しました。 パリの中学第五学級には、ピエールフィットの祖母の家から通い、優秀な成績をおさめていましたが、最高学年で問題を何度も引き起こし退学となっています。 若くしてアルコール依存症に陥る 祖母のマドレーヌは、大のお酒好きで、ワインは健康によいと信じており、ユトリロも中学生のころからワインを飲んでいたそうです。 少年時代からの飲酒経験が、アルコール依存症を引き起こしたといえるでしょう。 1900年、ムージスの紹介で臨時雇いの外交員として働いていたユトリロですが、4カ月ほどでやめています。 ほかの仕事も長続きせず、ユトリロの気難しい性格や激情、アルコール依存症などの影響により暴力が増え、1901年に一家は、サルセルに移り住むことになりました。 しかし、ユトリロのアルコール依存は、悪化する一方で、モンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住みつくようになりました。 このころから水彩画を描くようになり、治療を担当していた医師は、興味をもったことはやりたいようにやらせるよう勧めたため、ユトリロはすぐに芸術的才能を開花させます。 しかし、アルコール依存症の症状は一向に改善されず、ムージスはユトリロを精神病院に入院させてしまいます。 その後、症状の改善がみられるようになってきたユトリロは、モンマニーへ戻り、モンマルトル周辺を拠点に絵を描き始めました。 モーリス・ユトリロが活躍した白の時代 ユトリロが、白い壁が印象的な建築物や壁そのものをモチーフにした絵を描いていた時代を「白の時代」といいます。 1908年ごろからの約6年間を指しており、ユトリロの生涯の中で最も傑作が多いと、高く評価されている時代です。 - 画商で最初の買い手はルイ・リボート 少しずつ絵を描くようになっていったユトリロの作品を、最初に購入してくれた画商がルイ・リボートです。 ユトリロは、購入してくれる人であれば誰にでも絵画を売っていましたが、画商として購入する人は、いままでいませんでした。 1909年、ユトリロは、サロン・ドートンヌに2点の作品を初めて出品しました。 このうちの一作品が、ユトリロの代表作といわれる『ノートルダム橋』です。 同年、ヴァラドンとムージスは破局し、ユトリロとヴァラドンらは、モンマニーにあるパンソンの丘の館に移り住みました。 - モンマニーに移り住み経済的困難に陥る モンマニーに移り住んでからの一家は、誰も十分な収入を得ていなかったため経済的困難な状況に直面しました。 一時、ユトリロが石膏採掘場にて働き始めますが、大勢の前で大暴れし警察沙汰となってしまいました。 時間にゆとりのあったユトリロは、絵を描いて売ろうともしており、才能を認めていた画商リボードは、モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品を購入し、転売に成功して利益を得ています。 そのような中でも、ユトリロはアルコール依存症の影響で、泥酔した際に猥褻の罪にて起訴され、罰金刑を受けています。 ある日、ユトリロは、セザール・ゲイという一人の元警察官と出会い、ゲイが所有し、マリー・ヴィズィエが経営している「ベル・ガブリエル」によく出入りするようになりました。 飲食だけではなく、店の奥で絵を描くことを許可してもらい、完成した絵をゲイが自分の店のホールに飾るようになると、多くの人から高い評価を受けて、芸術家としてのユトリロの名は、モンマルトル一帯に知れ渡るようになっていったのです。 - ユトリロの絵画の価値が急上昇していく 1912年、ユトリロの絵画の価値が急上昇していることを知ったリボードは、専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬をユトリロに支払うように。 一家は経済的に安定しましたが、ヴァラドンらはユトリロの絵画に利益を見出そうとし、リボードと対立するようになりました。 そのような中、4月末から5月のはじめにかけてユトリロの健康状態は悪化していき、美術批評家のアドルフ・タバランが、リボードに病院へ入れるよう促しましたが、リボードはそれを拒否。 リボードとヴァラドンの関係はさらに悪化しますが、最終的にリボードはユトリロの入院費を支払うことになりました。 入院中、ユトリロは外出を許可され、ルヴェルテガ博士の勧めにより多くの絵を描きました。 治療の効果が見え始め、一家の友人であるリッシュモン・ショドワの提案により、ブルターニュのウェサン島で2カ月以上を過ごします。 ユトリロは休暇中も絵を描きますが、リボードから1カ月に6枚以上は描かないというルールを設けられており、それに従い12枚以下の風景画と2点の小さなカルトンしか描かなかったそうです。 - 入院生活を送りながらサロンへ出品 パリに戻ったユトリロは、サロン・ドートンヌに『サノワの通り』と『コンケの通り』の2点を出品しますが、12月に再び健康状態が悪化し、再入院します。 1913年の大半を病院で過ごす一方、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにもユトリロの作品が出品されました。 その後、ユトリロは家族とともにコルシカ島に向かい、コルシカ高地のベルゴデールで過ごし、20点ほどの作品を描きました。 - 治療をしながらも絵を描き続ける コルシカ島から戻ってきた直後に、ユトリロは、ヴァラドンの紹介により画商のマルセイユと出会います。 マルセイユは、リボードとは異なりユトリロにとって好条件な契約を提案し、ユトリロはすぐに契約を交わしました。 収入を得たユトリロは、モンマルトルの丘の酒場を回るようになり、結果的にルヴェルテガ博士の診療所で再び治療を受けることになってしまいます。 治療後は、後軍隊に志願しますが、医学的理由で兵役を免除されてしまい、ユトリロはまた酒場に入り浸るようになっていきました。 この時代に描かれた作品は、数百点にのぼり、白を基調としていたことから白の時代と呼ばれるようになりました。 色彩の時代への移行 白の時代のあと、ユトリロの作風は、黒い輪郭線で空間を構成し、幾何学化によりモチーフ同士のバランスを保つような色彩の時代に移っていきました。 ユトリロは、ゲイの店の奥を借り、色彩の調和を探求していきました。 1915年ごろからは、1年中絵を描きながら酒を飲み続け、騒ぎを起こすようになったため、再び病院へ入院するようになり10カ月以上も監禁生活を送ることに。 退院後の1917年、ベルナイム=ジュヌの画廊で開催されたグループ展では、数枚の作品を出品し、高く評価されるようになっていきました。 モーリス・ユトリロの作風 ユトリロの描く風景画には、独特の哀愁があり多くの人の心を惹きつけました。 精神的に不安定で、生涯アルコール依存症に悩まされ続けたユトリロが描く作品は、どこか不安げな雰囲気のある建築物が印象的です。 白の画家の由来となる白を多用 白の時代と呼ばれるユトリロ初期の作品には、色彩があまりなく、白をベースとした風景画が多いのが特徴です。 これは、ユトリロの心の中に、生まれ故郷であるモンマルトルの風景が強く残っているからと考えられるでしょう。 モンマルトルには、レンガや漆喰の階段が多くあり、ユトリロは幼いころからその町中を遊びまわっていたそうです。 そのため、白は、ユトリロにとって身近な色であり、大切な思い出の色でもあるのかもしれません。 温かみのある色彩による表現 白の時代が終わり、アルコール依存症と精神的な不安定さに回復の兆しがみられたころ、ユトリロの作風は、変化していきました。 心の状態を表すかのように、温かみのある色彩で満ちた作品を描くようになりましたが、晩年に近づくにつれ、再び精神的に不安定な状態に陥り、生活は荒廃していきました。 しかし、色彩への探求心はもち続け、絵画の制作には打ち込み続けます。 そして、現在でも高く評価されるような作品を数多く残しました。 年表:モーリス・ユトリロ 西暦 満年齢 できごと 1883年12月26日 0 パリ・モンマルトルのポトー街8番地でシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。 1890年頃 7 スペイン人画家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスに認知され、「モーリス・ユトリロ」と改姓。 1894年頃 11 精神病のため母シュザンヌに病院へ連れて行かれる。 1896年 13 母シュザンヌがポール・ムージスと結婚し、モンマニーに転居。ユトリロはピエールフィットのモランという私立小学校に預けられる。 1900年2月 17 ムージスの紹介で外交員として短期間の職を得るが、4か月で辞職。 1901年 18 アルコール依存症の悪化により、サルセルに転居。 1902年 19 モンマルトルのコルトー街2番地に住み着き、水彩画を描き始める。 1904年初頭 21 サン=タンヌ精神病院に入院し、症状の改善を見せる。 1905年頃 22 『モンマニー風景』などの作品を制作。 1906年 23 『屋根』を制作。 1907-1908年 24-25 シスレーの回顧展の影響を受け、画面の奥行きや堅牢さを追求。 1909年春 26 ルイ・リボートが画商となり、ユトリロの作品が初めて展覧会に出品される。 1909年 26 サロン・ドートンヌに出品。ヴァラドンとムージスが破局。モンマニーに移住。 1911年 28 ユトリロが泥酔して起訴され、罰金刑を受ける。 1912年 29 リボードとの専属契約を交わし、経済的安定を得る。ドリュエ画廊で6点の作品を展示。 1913年 30 ウジェーヌ・ブロ画廊で初の個展を開催。展示会は失敗し、ユトリロの多作が原因とされる。 1914年 31 コルシカ島に出発し、20点ほどの作品を制作。 1915年-1916年 32-33 第一次世界大戦中、フランスの軍需工場で働く。 1917年 34 リボードとの契約が終了し、経済的に困窮。 1920年 37 「白の時代」の作品が評価され、商業的に成功を収める。 1930年 47 サロン・ドートンヌで大規模な回顧展を開催。 1950年 67 フランス政府から芸術家としての評価を受け、名誉ある賞を受賞。 1955年11月5日 71 死去。モンマルトルの墓地に埋葬される。
2024.12.27
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