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大島紬 買取 | 骨董品価値が高く高額査定が期待できます
日本を代表する伝統的な織物「大島紬」は、高級絹織物としても知られており、着用する人を上品にみせてくれるとして人気があります。 現代では、着物を着る機会が減り、大島紬を所有していてもなかなか活躍の機会がないと悩んでいる方もいるのではないでしょうか。 利用する機会がないのであれば、いっそのこと買取に出してしまうのも一つの手段です。 適切な価格で買い取ってもらい、新しい購入者に大切に使ってもらうのもよいでしょう。 大島紬は高価買取が期待できる? 伝統的な織物である大島紬の着物は、軽くてシワになりにくい特徴があります。 丈夫な作りをしているため、何十年にもわたって着用でき、世代を超えて受け継がれている着物もあります。 大切にしてきた大島紬の着物を、着る機会がないために手放そうと考えている人もいるでしょう。 伝統的な織物であるため、なるべく高値で買い取ってもらいたいと思うものです。 適切な価値を知りたい方は、専門の買取業者へ査定を依頼しましょう。 大島紬とは 大島紬とは、約1300年もの歴史ある伝統品で、鹿児島県の奄美大島や鹿児島市、宮崎県の都城市などで作られている絹100%の織物のことです。 発祥地は、奄美大島で、結城紬と並んで高級紬の一つとして数えられ、しなやかで軽く、光沢のある地風が特徴です。 661年、大島紬に使われているテーチ木染めが奄美大島で始められたとされており、1720年には紬着用禁止令が発令された影響で、真綿糸献上品として織られるようになったそうです。 明治時代に入ると、商品用に生産されるようになり多くの人々の注目を集めました。 大正時代にかけて生産量が増加し、1921年ごろには33万反もの大島紬が生産されるように。 しかし、昭和時代に入り第二次世界大戦が勃発すると、大島紬の生産が停止されてしまいます。 戦後、1954年に本場奄美大島紬協同組合が設立され、本格的に生産が再開されたのでした。 現在は、着物だけではなく、財布やバッグ、洋服、ネクタイなどさまざまな形で大島紬が生産されています。 また、大島紬の染め方は数種類あり、主な方法は以下の通りです。 ・泥大島紬 ・泥藍大島紬 ・正藍大島紬 ・草木染大島紬 ・白大島紬 ・色大島紬 高額査定が期待できる理由 大島紬が高額査定になりやすい主な理由は、希少性の高さとブランド力の高さの2つです。 大島紬は、生産量が極端に少ない織物で、市場へ製品が大量に出回るものではありません。 先染手織りかつ締機で手作業により経・緯絣の加工をしている大島紬は、熟練の職人が一つひとつ丁寧に手作りしているため、1つの製品ができあがるまでに多くの手間と時間がかかります。 そのため、まとまった量の生産ができず、希少価値が高まっているのです。 大島紬の技術継承者は、年々減少傾向にあり、今後も希少価値は高まっていくと予想されます。 高価買取してもらいやすいもう一つの理由が、伝統工芸品としてのブランド力の高さです。 大島紬は、古くからある伝統的な織物で、日本最古ともいわれている染色技法をもっています。 独特な泥染め技法や絣模様は、日本だけではなく海外からも人気を集めています。 日本の伝統的な技法を用いた信頼あるブランド力と、国内外からの注目度が、大島紬の買取市場での価値を高めているといえるでしょう。 大島紬の着物の買取相場は?いくらくらいで売れる? 大島紬の着物の買取価格は、数万円が相場といわれていますが、価値の高いものだと100万円を超えることも。 有名なブランドの大島紬は、高値で買い取ってもらえる場合が多く、特に都喜ヱ門は、高価買取が狙えるでしょう。 また、泥染めの際に白土を使用して白く染めた糸を使う白大島は、大島紬の中でもより希少価値が高いため、高価買取が期待できます。 高額査定のためにチェックしておきたいポイント 歴史ある織物の大島紬は、着物の中でも高値で取引されやすい製品です。 高価買取を狙うのであれば、高値で買い取ってもらいやすい製品の特徴を把握しておきましょう。 証紙があるかどうか 証紙があるかどうかも、大島紬の買取額に大きな影響を与えます。 証紙とは、産地や製織方法などの情報が書かれた書類で、着物の証明書です。 着物が厳しい審査をクリアして認められた証拠にもなるため、証紙があると品質の高さを証明でき、高価買取につながるでしょう。 主な大島紬の証紙は、以下の通りです。 ・伝統工芸品マーク:経済産業省が認めた伝統工芸品であると証明する書類 ・旗印:鹿児島県産の大島紬であると証明する書類 ・地球印:奄美大島産の大島紬であると証明する書類 ・鶴印:宮崎県都城産の大島紬であると証明する書類 大島紬製品を買取に出す際は、上記の証紙をまとめて査定してもらうと買取額のアップが期待できます。 証紙の有無は、品質の信頼度が大きく変わるため、大島紬を購入したり譲り受けたりした際は、証紙があることを確認し、大切に保管しておきましょう。 マルキ数 マルキとは、大島紬の柄を表現するために使われた絣糸の量を表す単位です。 マルキ数が多いほど手が込んでおり、買取価格も上がりやすい傾向があります。 一反を構成する経糸1240本のうち、絣糸がどのくらい使われているかを表しており、80本で1マルキとなります。 マルキ数が多くなると絣糸の本数が増えて手間はかかりますが、それだけ繊細に柄を表現できるということでもあるのです。 大島紬の買取を依頼する際は、マルキ数に注目しましょう。 大島紬の買取相談はどこに相談するのが良い? 所有している大島紬を手放そうと考えたとき、どのような方法が最適か悩んでいる方も多いのではないでしょうか。 大島紬の処分方法としては、専門の買取業者への依頼のほか、ネットオークション、フリマ、リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者などを利用する方法があります。 ネットオークションやフリマを利用すれば、自分で価格を設定して売却できるメリットがありますが、大島紬の価値を正しく判断できていないと、損してしまう可能性があるでしょう。 また、買い手とのやり取りや、注文後の発送準備など自分でやらなければならない工程が多いため、手間もかかります。 リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者を利用すれば、不要になったものをまとめて処分できますが、骨董価値のある製品は知識がないと正しい価格をつけられないため、本来よりも安い値段で引き取られてしまうおそれがあります。 大島紬本来の価値を見いだし、適切な価格で売却したい場合は、大島紬に関する知識をもった専門の買取業者へ依頼するのがお勧めです。 人気の大島紬にはどんな特徴がある? 高級絹織物の着物として人気の高い大島紬ですが、どのような着物を大島紬と呼んでいるのか、知らない方も多いのではないでしょうか。 高額査定を狙うのであれば、所有している大島紬が、本物であるかある程度判断できるようにしておいた方がよいでしょう。 大島紬の条件や人気の柄を確認し、手元の着物に当てはまっているかチェックしてみてください。 大島紬の条件 長い歴史を誇る伝統の織物「大島紬」は、鹿児島県や奄美大島、宮崎県都城市で作られていますが、大島紬と呼ばれるには、一定の条件を満たす必要があります。 通商産業省が、昭和55年に大島紬を伝統的工芸品に指定するにあたって、以下の条件を設けました。 ・絹100%で作られていること ・経糸と緯糸が一本ごとに浮沈する平織りであること ・先染手織りであること ・締機を使って手作業により経・緯絣を加工していること ・手機で経・緯絣を織り上げていること 現在、上記の条件を満たした織物が、大島紬と呼ばれ市場に出回っています。 大島紬は希少 大島紬は、大量生産が難しく希少価値が高いのも特徴の一つです。 大島紬と呼ばれるための条件にもある通り、職人が丹精込めて手作業で作っているため、1つの製品を完成させるまで手間と時間がかかります。 機械で大量生産できないため、市場に出回る数が少なくなり、希少価値が高まっています。 大島紬の人気の柄 大島紬の柄は、数種類あり、伝統的な柄は生活や地名などから考えられています。 代表的な柄は、以下の通りです。 秋名バラ柄 秋名とは、奄美大島の地名で、バラは花のことではなくザルの方言です。 幾何学柄が施されており、シンプルで上品な柄が特徴で、コーディネートしやすい点も魅力の一つです。 龍郷柄 龍郷柄は、奄美大島に生育しているソテツとハブを幾何学模様で表現した柄です。 女性用着物に用いられる柄で、奄美大島を代表するデザインともいえます。 西郷柄 西郷柄は、男性用着物の最高峰といわれており、伝統的な柄の一つです。 細かな柄が入っており、遠くからだと無地に見えますが、奥行きのある深い味わいがあります。 亀甲柄 亀の甲羅を表現した柄で、六角形を連ねた模様が特徴的です。 男性の風格を引き立たせる柄といわれており、男性用着物の代表的な柄の一つです。 そのほかにも女性用の大島紬には、古典模様や草花模様、幾何学模様、更紗模様、モダンアートなどがあります。 大切な大島紬の買取相談は、実績ある買取業者へ 大切にしてきた大島紬を手放すとき、ただ処分してしまうのではなく、買取業者に依頼して価値を査定してもらうことをお勧めします。 正しい値段で売却でき、大切にしてくれる人のもとへ渡れば、嬉しい気持ちになります。 大島紬の適切な価値を判断するためには、専門的な知識が必要となるため、リサイクルショップや不用品回収業者よりも、専門の買取業者に依頼するのがお勧めです。
2024.12.13
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着物買取 | 受け継いだ着物や珍しい着物…高額査定のポイントとは
日常生活で着物を着る人は少なくなりましたが、特別なイベントで着物を着る機会は、現代でも多くあります。 しかし、頻繁に着るわけではないため、一度利用した着物をどのように扱えばよいか悩んでいる方も多いでしょう。 利用する機会がない着物は、処分するのではなく一度買取業者に相談してみるのがお勧めです。 タンスに眠る着物…高く買い取ってもらえる? 「成人式で利用して、それ以降着る機会がない振袖」や「昔に訪問着として利用し今は着ていない着物」、「遺品整理をしていたらタンスから出てきた着物」など、さまざまな形で眠っている着物をお持ちの方もいるのではないでしょうか。 立派な着物を処分してしまうのはもったいないと感じる方も多くいるでしょう。 もし、着なくなってしまった着物をお持ちであれば、一度買取査定を依頼するのがお勧めです。 着物の買取を行っている業者であれば、大切にしてきた着物の価値を正しく査定してくれます。 買取してもらえれば、新しい買い手に着物が引き継がれ、また大切に利用してもらえるでしょう。 どんな着物が高く売れる? 着物と一口にいっても多くの種類があり、柄やサイズもさまざまです。 せっかく買取依頼するのなら高値で買い取ってもらいたいと考えるでしょう。 着物を高く買取してもらうためにも、まずは自分自身が、着物の査定で見られるポイントを理解しておくことが大切です。 査定ポイントを把握したうえで、お手持ちの着物の特徴と照らし合わせ、高価買取が狙えるか確認してみましょう。 なお、特徴が当てはまらなくても買取自体は行ってくれるケースも多いため、所有する着物に価値がないと決めつけず、一度買取業者に相談するのがお勧めです。 生地の種類によっても価格は変わる? 着物に使われている生地の種類によって、着物の価値は大きく変動します。 着物には主に絹や木綿、麻、羊毛、ポリエステルなどが利用されています。 絹は、よく高級な着物に使われている素材で、光沢があり上品な着物に仕上がるのが特徴です。 体によくなじみ動きやすい生地ですが、湿気に弱く傷みやすいため、適切な方法で扱う必要があります。 正絹と呼ばれる絹を100%使用した生地は、着物の中でも最高級品とされています。 木綿は、スタンダードな素材で、絹よりも価格が安い傾向がありますが、肌触りがよく通気性や耐久性、吸水性に優れているのが特徴です。 ただし、縮みやすくシワになりやすいため注意しましょう。 麻は、通気性がよくやわらかくて着心地のよい素材です。 弾力性がなく、シワになりやすかったり、色落ちがしやすかったりするデメリットがあります。 麻のメリットを生かしつつデメリットをカバーするために、木綿と麻を混ぜて作られた綿麻と呼ばれる生地があります。 木綿特有の肌触りと麻の通気性が活かされており、強度が増すことでシワができにくいのが特徴です。 羊毛は、吸湿性が高く水をはじき、シワになりにくい特徴があり、冬場でも温かみを感じられる素材です。 ただし、耐久性が低く、虫がつきやすい点に注意しましょう。 夏場でも着られるサマーウール、絹を混ぜたシルクウールなど、幅広い種類があるのも特徴です。 基本的に普段着に利用される生地のため、価格も手に取りやすいといえます。 ポリエステルは、よく洋服に使われている素材で、ポリエステルで作られた着物は、自宅で洗濯が可能で、取り扱いやすいのが特徴です。 ただし、吸湿性や保温性が低く、着物の絵柄が映えにくいデメリットがあります。 化学繊維で大量生産が可能なため、最も安価になりやすい素材です。 保存状態が良くないと買取不可? シミや虫食いなどがあり着物が傷んでしまっていても、買い取ってもらえる可能性はあります。 着物は、大切に保管したり定期的にクリーニングに出したりしていても、シミやカビが付着してしまったり、虫食いが生じてしまったりするものです。 買取に出そうと考えても、着物に傷みがあると買い取ってもらえないのではと不安に感じるでしょう。 もちろん、状態のよい着物に比べたら価値は下がってしまいますが、買取自体ができないわけではありません。 現在、着物は日本だけではなく海外からの需要も高く、外国人観光客が着物を着て観光地を巡る光景を見たことがある人も多いのではないでしょうか。 また、海外では着物を洋服にリメイクするのも流行っており、着物の生地そのものにも注目が集まっています。 着物の海外需要の高まりにより、着物が重宝されていることから、多少の傷みがあっても買い取ってもらえる可能性があるのです。 流行の柄ではないのだけれど… 着物にも、洋服と同じように流行の色や柄が存在しているため、人気のない柄や色の着物は買取価格が下がってしまう可能性があります。 10年以上前に流行した着物は、現在では人気がない柄となってしまっているケースも多く、親や祖母から受け継いだ着物は、買取価格が低い傾向です。 しかし、昔流行った柄でも、レトロなデザインが人気を集め再び流行する可能性もあるでしょう。 また、着物の価値は柄だけではなく、状態や生地の種類、ブランドなどから総合的に判断するため、柄が古いからと買取をあきらめず、まずは買取業者に相談してみるのがお勧めです。 有名作家や老舗ブランド 有名作家や老舗ブランドが作った着物は、高額買取が期待できます。 有名な着物作家には、北村武資や木村雨山、久保田一竹などがおり、老舗ブランドには、尾峨佐染繍、大彦、銀座きしやなどがあります。 作家物であるかを見極めるポイントは、落款や証紙などです。 落款は作家の印鑑のようなもので、主におくみや衿先に押されているケースが多いようです。 証紙は、有名産地や伝統工芸品の着物などの組合が発行する書類で、証紙があると本物であることの証明になります。 落款や証紙があると着物の価値が明確になり、正しい査定が期待できるでしょう。 有名産地 有名産地で作られた着物も高価買取が期待できます。 大島紬の発祥地である鹿児島県奄美大島や、結城紬を作る茨城県・栃木県、西陣織を作る京都の西陣地域などが有名産地です。 他にも全国各地に有名な産地があり、それらの地域で作られた上質な着物は、高値で買い取ってもらえる可能性があるでしょう。 着物の丈が長い、未使用も査定アップポイント 丈の短い着物よりも、長い着物の方が買取価格が高くなりやすく、未使用であればさらに査定評価がアップします。 丈が長く大きな着物であれば、体型を選ばず幅広い人が着用でき、販売時の需要が高いため、買取価格もアップしやすくなります。 着物の丈が長ければ、生地が多く使用されており、仕立て直しがしやすいことも高価買取になりやすい理由の一つです。 着物を手放すにはどういった方法がある? 着物を手放す際、考えられる方法としては、専門買取業者、リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者、ネットオークション、フリマなどがあります。 リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者では、不要になったものをまとめて処分できるメリットがありますが、着物に対する専門知識をもっているとは限らないため、本来の価値よりも安値で買い取られてしまう可能性があるでしょう。 ネットオークション、フリマは、自分で価格設定が可能ですが、出品や発送までの手間がかかるうえに、個人間のやり取りとなるためトラブルが発生するリスクもあります。 専門買取業者であれば、着物に関する知識を備えているため、価値を正しく判断してくれるでしょう。 査定も無料で実施している業者が多いため、気軽に査定をお願いしてみるのがお勧めです。 高額査定が期待できる着物のブランド・産地 着物を高値で買取してもらうためには、高額査定が期待できる着物のブランドや産地を把握しておくことが大切です。 機械で大量生産している着物よりも、手織り勝手作業で柄を染めている伝統的な着物の方が価格が高くなりやすいといえます。 大島紬 大島紬は、鹿児島県奄美大島発祥である伝統工芸品の絹織物です。 新品で購入すると最低でも数十万円はする高級紬の一つで、先染めした絹糸を使って織りあげることで表現される絣模様が特徴です。 一般的に大島紬では、経糸と緯糸のどちらにも絣糸を用いて模様を織りあげていきますが、緯総絣と呼ばれる絣糸を緯糸だけに取り入れる織り方もあります。 緯総絣では、経糸に柄が入らないため、一般的な方法よりも織るのが楽になりますが、価格は1/10ほどになるといわれています。 友禅(京友禅・加賀友禅) 京友禅は、京都の伝統工芸品で、加賀友禅は石川の伝統工芸品であり、どちらも絹織物の白布に絵を描いて染め出すのが特徴の着物です。 京友禅・加賀友禅は、ともに職人の手作業によって作られており、一着数百万円と高額になる着物も多くあります。 友禅は防染するために、図柄の輪郭線にあわせて細い口金の先から糸目と呼ばれる細い糊を一定の太さで出し、図柄を描く必要があります。 この糸目を引く作業は、高い技術力が必要なうえ手間がかかるため、着物の価格も高くなりやすいといえるでしょう。 江戸小紋 江戸小紋は、型を活用して染められる着物で、遠くから見ると色無地に見えますが、近くで見ると細かい模様が全体に入っているのが特徴です。 細かい模様を織りあげるためには、高い技術力が必要となり、手間や労力がかかる分、価格も高くなりやすいといえます。 新品で購入すると一着数十万円はするといわれています。 近年は、機械技術の発展により、機械で模様をプリントするケースも増えており、機械プリントの着物は、手作業で染めた江戸小紋より安価に購入できるのが特徴です。 志ま亀 志ま亀は、1810年創業の老舗着物ブランドで、もともとは京都のみで着物の製造を行っていましたが、昭和25年ごろに東京へ進出し、全国に名が知れ渡っていきました。 志ま亀は、さまざまな着物の制作を行っており、柄の種類が豊富な特徴があります。 幅広い世代になじむ着物を作るために、年齢によって染色を変え、私服として街中で着ても違和感のない仕上がりを目指しています。 JUNKO KOSHINO JUNKO KOSHINOは、若い世代から人気を集めているデザイナーで、JUNKO KOSHINOが手がける着物は、若い世代からも注目されています。 有名デザイナーのデザイナーブランドは、需要が高いため、着物や浴衣なども高価買取が期待できます。 着物は「格」で需要が違う?より高額査定が期待できる着物は? 着物には、正装用や普段着用などの格が存在し、格により買取価格も変動するのが特徴です。 着物の格は高い順に、黒留袖・色留袖・振袖・訪問着・付け下げ・色無地などがあります。 黒留袖は、女性着物の中で最も格式の高いものですが、既婚者だけが着用できるもので、利用シーンが限られてしまうため、買取相場はあまり高くないのが現状です。 色留袖は、誰でも着用が可能で結婚式や披露宴などで親族が着用するケースの多い着物です。 こちらも利用シーンが限られてしまうため、格が高くとも高額買取はあまり期待できないでしょう。 振袖は、主に未婚女性が着用する着物ですが、現在は既婚女性でも気にせず着用する風潮になりつつあります。 振袖は、有名作家の一点もの作品や、高級品なども多く出回っているため、買取相場も比較的高めといえます。 訪問着は、結婚式やお茶会などさまざまなシーンで着用できる着物のため、中古市場での需要も安定的に高く、高価買取が狙える着物です。 付け下げや色無地は、訪問着よりも買取価格が低くなる傾向ですが、作家物や伝統工芸品の着物などは、高価買取が期待できます。 格の違いによって買取価格の傾向がありますが、着物の査定では、格だけがチェックされるわけではなく、素材や種類、柄、状態などを総合して判断されることを心得ておきましょう。 大切な着物を売るなら、実績ある買取業者へ相談を 大切にしてきた着物を手放すなら、着物の買取実績が豊富な買取業者に相談しましょう。 着物の種類や状態によっては高価買取が期待できるため、経験豊富な査定士に査定してもらうのがお勧めです。 無料で査定を行っている業者も多く存在するため、複数の業者で買取価格を比較してみるのもよいでしょう。
2024.12.13
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自在置物とは | 海外から評される技術の高さ
自在置物とは 自在置物とは、日本の金属工芸の一つで、鉄や銅、銀、金と銅の合金、銀と銅の合金などの金属板を素材に、龍や蛇、鳥、エビ、伊勢海老、蟹、蝶などの動物の模型を指します。 単に、写実的に作成するだけではなく、体節や関節の部分を本物のように動かせることも追求しており、内部の仕組みが複雑になっているのも特徴の一つです。 たとえば、蛇の自在置物であれば、円筒型のパーツを数百個組み合わせており、とぐろを巻かせたり、流線型を描いたりと、自在に形を変えられる魅力があります。 自在置物は、日本よりも海外で高い評価を受けており、1888年にフランスで出版された日本美術の紹介雑誌『Le Japon Artistique』にて紹介されています。 自在置物の起源 自在置物は、明らかになっていないことも多いですが、起源は江戸の中期ごろです。 当初は、関東を中心に制作されていましたが、その後、北は弘前、南は高知と分派が全国各地に広がっていきました。 自在置物は、大名の手土産にするために制作されるようになったのではないかといわれています。 甲冑師が、武具や防具を受注するために、大名に自在置物を贈り、技術の高さをアピールしていたそうです。 自在置物を製作する甲冑師 戦国の世が終わりを迎え、平和な時代が訪れた江戸時代、武具類の需要が減少したことを受け、甲冑師の一部は技術伝承と収入を得るために、本業である甲冑だけではなく、鍔や轡などの武具、馬具、火箸、花瓶、箱といった民具を鉄で造り販売するようになりました。 自在置物は、この流れを受けて、室町時代から続く名家である明珍派の工人たちによって生み出された作品です。 明珍派の工人は、鉄を打ち出して加工する技術に長けており、自在置物の複雑な仕組みや繊細な表現が活かされています。 日本で作られる金工作品の写実性が向上するのは、江戸時代後期ごろからですが、自在置物の誕生は、それよりも早いといわれています。 お土産として人気となる 来日した西洋人が自在置物に興味を持つようになり、お土産物として人気を集めるようになりました。 日本人が得意とする繊細な細工の自在置物は、西洋人の心を魅了したといえるでしょう。 そして、明治時代に入ると、廃刀や西洋式生活が導入されるようになり、甲冑師や金工の職人たちは職を失ってしまいました。 そのような時代背景があり、職人は自在置物を盛んに制作するようになりました。 外交官の佐藤尚武が駐在先のフランスに、お土産として高瀬好山の工房で制作された置物を贈ったところ、評判がよかったため、追加注文を出したという話があるほど、海外でも人気のある工芸品です。 現在の自在置物 現在も、京都で金工を仕事にしていた冨木伊助や、伊助から金工を学んだ高瀬高山の作品が残されています。 高山は、金沢生まれで、神戸の貿易会社に勤めていた経験があり、販売経営で優れた才能を発揮していたそうです。 1893年に京都で独立したのち、明治の終わりには皇太子殿下の御買上げに預かり、昭和の初めまで、さまざまな展覧会に作品を出品しています。 当時需要が高かったため、制作が追い付かなくならないよう、工房制作の体制を取っていました。 現在、自在置物を制作している人物は、2人のみといわれています。 1人は、伊助の子孫にあたる冨木宗行で、2人目は、宗行の弟子である満田晴穂です。 「自在置物」が定着し、認知度も上がる 伝統工芸品である自在置物の名称は、比較的新しい時代に作られています。 東京国立博物館が明治時代の終わりに購入した里見重義作の銀製の龍の箱に、『純銀製自在 龍』と書かれていました。 当時の台帳には『自在龍置物』と登録したため、1983年に博物館で特別展を開催した際に、同じような作品に「自在○○置物」と名づけ、自在置物という言葉が用いられるようになったといえるでしょう。 木製の自在置物 基本的に、自在置物は、鉄や銀、銅などの金属で制作されていますが、木を用いて制作された自在置物作品もあるのです。 接合部分は、はめ込む仕組みになっており、制作する生き物の動きによって割れたり欠けたりしないよう、高い技術が必要です。 また、木で制作される自在置物も、写実性が高く本物にそっくりな魅力があります。
2024.12.13
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伝統工芸とは?世界が驚く技術や長年大切にされている文化に触れる
日本工芸とは 一般的に工芸とは、日常生活において利用される道具類の中で、材料や技巧、意匠によって美的効果を与えられた製品を指します。 工芸品は、生活用品としての実用性を兼ね備えており、彫刻や絵画などの芸術・美術とは異なり、建築とともに応用芸術の一種として扱われています。 また、多くの工芸品は手作業によって製作されており、伝統的な技術や技法を用いているのも特徴の一つです。 作品によっては、職人の技術や創造性が反映されたものもあり、実用性がありながらも鑑賞としての楽しみ方も持ち合わせています。 工芸の種類 工芸には、利用される材料や技法によってさまざまな種類のものがあります。 木工 木工は、木材を加工して製作された工芸品です。 木に直接彫刻する「彫物」や、薄い木材を曲げて形を作る「曲物」、木をくりぬいて製作する「刳物」、板を組み立てて製作する「指物」などがあります。 日本は、国土の7割が森林であり、木は古くから住宅や家具、日用品など、私たちの身の回りのものの材料として多く利用されてきました。 さまざまな技法により製作された木工の工芸品は、日本の暮らしを古くから支えてきたといえるでしょう。 漆器 木で木地と呼ばれる形を作り、漆の木の樹液を上から塗って製作する工芸品です。 漆は、水が染み込みにくく、酸やアルカリにも強い特徴があり、防虫や防腐性にも優れており、食器として古くから利用されてきました。 漆を塗り重ねるほど強度が増し、揮発させ飴色にしたものに顔料を混ぜると色漆となり、美しい発色が見られます。 竹工 竹を加工して製作された工芸品が竹工で、軽く弾力性があり耐水性に優れている竹を利用することで、長持ちする日用品が製作できます。 日本には約600種類の竹が生育しており、竹工はそのうちの約10種類の竹を使って製作されています。 編物や組物などの技法があり、古くから、箸、茶筅、籠などの竹細工も製作されてきました。 石工 石を加工した工芸品で、石灯籠や鉢物、五重の塔、彫刻物などの種類があります。 石灯籠は、仏教とともに日本へ伝わり、平安時代にはすでに神社仏閣の常夜灯として利用されていました。 石は、丈夫で長持ちする上に加工により美しい見た目を表現できるため、古くからさまざまな形で用いられてきました。 ヨーロッパや中国などと比べると、日本は木造建築がメインですが、石垣や庭石、墓石などにも石工が用いられています。 染物 織り上げた白い生地に、さまざまな染料で模様を描く工芸品で、糸をくくったり板にはさんだりして、一部の白い部分が染織されないようにして模様を描く「絞り」や、模様を切り抜いた型を用いて染める「型染め」や「小紋」、染めを防ぐ糊で模様の輪郭を描く「筒描」、防染した内側を染める「友禅」など、時代によってさまざまな染めの技法が生まれています。 織物 色を染めた糸を織って製作する工芸品で、色の染め方や織り方によってさまざまな模様を表現するのが特徴です。 ストライプやチェック柄などを表現する「縞」や「格子」、糸の一部を防染して白い部分を残した糸を使用して織る「絣」などがあります。 編物 糸を編んで製作した布や衣類、装飾品などを指す工芸品で、ニットやメリヤスとも呼ばれています。 手編みのニットから機械編みの靴下まで、手法や製品の種類が豊富で、伸縮性のある編物には独特の風合いがあります。 皮革 動物の皮を加工した工芸品で、カバンや財布、靴などの生地として利用されています。 なめしの技術により、皮の状態を安定させることで腐敗を防止し、柔軟性や弾性、耐熱性、耐水性などに優れた素材となります。 手入れを適切に行えば、何十年と持つ製品を作れることから、親から子へ何代にもわたって受け継がれるものが作れるのも魅力の一つです。 陶器・磁器 陶器や磁器は、土をこねて成形し、窯で焼いた焼き物を指す工芸品で、陶器であれば「陶土」が利用され、土独特の風合いが楽しめます。 磁器であれば「陶石」を細かく砕いた粉が用いられ、地の色が白く水を通しにくい特徴があります。 また、陶器は透過性がありませんが、磁器には透過性があるのも特徴です。 和紙 植物繊維を水に溶かして、簾桁と呼ばれる道具を用いてすくって薄く平らにし、水を切って乾かして紙にした工芸品です。 破れにくく丈夫なのが特徴で、伝統的な和紙は手すきで作られています。 和紙の技術の起源は諸説ありますが、日本書紀に記されている610年に朝鮮から仏教の僧が日本に伝えたとする説が有力です。 平安時代には、日本独自の文化が花開き、和紙の製造方法でも日本ならではの流し漉きが誕生しました。 金工品 金や銀、銅、鉄などの金属を加工した工芸品で、湯釜や鐘、生活用品では、鍋や包丁、カトラリーなど、さまざまな用途の製品に利用されています。 技法もさまざまで、代表的なのは、鋳型に金属を流しいれて形を作る「鋳金」や、あとから金属の表面に美しい文様を彫る「彫金」などです。 人形 こけしのように木を彫って作られる「木彫り人形」、木彫りの人形に溝を掘り布挟んで着飾る「木目込人形」、「土人形」、「衣装人形」などがあります。 国の指定を受けている伝統工芸品の人形は、8種類です。 ガラス ホットワークと呼ばれる、原料を加熱して自由自在に加工する技法と、コールドワークと呼ばれる、すでにできあがっているガラスを常温で削り、加工する技法があります。 ホットワークによって作られるガラス製品には、肥前びーどろや佐賀ガラスなどがあり、コールドワークによるガラス製品には、江戸切子や薩摩切子などがあります。 明治工芸とは 明治工芸とは、海外輸出向けに作られた工芸品で、近代化に向けて必要となる外貨を獲得するために製作されました。 1868年、江戸幕府が崩壊し明治政府が誕生すると、日本は、西洋諸国に対抗するために近代化を目指すようになりました。 工業の機械化や鉄道網の整備などを精力的に行い、国力を高める殖産興業政策を推進するためにも、外貨が必要だったのです。 当時の日本には、まだ現代のような技術や工業製品が生まれていなかったため、外貨獲得のために伝統的な工芸品の輸出を柱にしました。 武家社会の崩壊により、街に溢れていた将軍家や大名家お抱えの刀装金工師や蒔絵師などに、輸出用工芸品の製作を依頼したのが始まりです。 1873年、日本が初めて参加した第1回ウィーン万博において、鎖国により広く知られていなかった日本の金工をはじめとした数々の工芸品は、欧米人には大変新鮮に映り、ジャポニズムという言葉が生まれるほど、日本の伝統文化が海外で大ブームを巻き起こしました。 明治工芸には、金工や彫刻、自在置物、七宝、陶磁、提物、漆器などの工芸品がありました。 明治工芸は、現代では再現が難しい作品が多く、超絶技巧と高く評価される海外輸出向けの製品であったため、日本国内にはあまり残されていない希少な工芸品です。 自在置物とは 自在置物とは、日本の金属工芸の一つで、龍や蛇、鳥、エビ、伊勢海老、蟹、蝶などの動物が表現されているものが多いのが特徴です。 体節や関節部分を本物のように自由に動かせるようになっており、内部の構造が複雑で製作するのに高い技術力が必要な工芸品です。 材料には、鉄や銅、銀、金と銅の合金、銀と銅の合金などが用いられています。 たとえば、蛇の自在置物であれば円筒形のパーツを数百個組み合わせて製作されており、置物にとぐろを巻かせたり、流線型を描かせたり、姿かたちを自由に変えられる魅力があります。 明治工芸として製作された自在置物は、日本国内よりも海外で高く評価されており、1888年にフランスで出版された『Le Japon Artistique』という日本美術の紹介雑誌でも、自在置物が紹介されていたそうです。
2024.12.13
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工芸品(伝統的工芸品)は高額買取してもらえる?
日本の伝統的な技術を用いて作られる工芸品は、お土産物として購入する人もいれば、日常的に利用している人もいます。 全国各地でさまざまな種類の工芸品を購入でき、日用品としての使い道もあることから、手放す際に買取に出す人は少ないでしょう。 しかし、工芸品の種類や作品によっては、価値が高いものもあるため、そのまま処分してしまうのはもったいありません。 処分を検討している方は、一度査定に出して、作品の価値を確認しましょう。 工芸品買取を相談しよう 芸術的要素を備えながらも日常使いできる工芸品は、古くから日本で親しまれてきた伝統的な道具です。 日用品として捉えている人も多く、骨董品として買い取ってもらおうと考える人は少ないかもしれません。 しかし、ものによっては高額買取が期待できるため、価値や売却方法を事前に知っておくことが大切です。 工芸品/伝統的工芸品とは 工芸品とは、一般的に日常使いしている道具類の中でも、材料や技巧、意匠によって美術的な効果も兼ね備えた物品を指します。 生活用具として実用性のある道具のため、彫刻や絵画とは異なり、建築と同様に応用芸術の一つとして捉えられています。 工芸品に該当するものは、陶磁やガラス、金工、漆工、木工、竹工、人形、染織などです。 工芸品の中でも、伝統的工芸品と呼ばれるジャンルは、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」によって定められています。 日常的に使われているもので、伝統的な原材料を使用して、伝統的な技術や技法を用いて、主要部分を手作りしている工芸品を、伝統的工芸品と呼んでいます。 現在、指定されている伝統的工芸品は、237品目あり、そのどれもが長年の技術を継承して制作されてきた日本が誇る文化といえるでしょう。 自宅にあるコレクションや相続品を整理したい 日常的に使われる工芸品や伝統的工芸品に、どのような価値があるか知らない方も多いでしょう。 日用品のため、骨董品としての価値はないと判断し、処分してしまっていないでしょうか。 自宅にあるコレクションや相続した工芸品を整理したいと考えている方は、一度骨董品買取業者に査定を依頼しましょう。 自分では価値がないと考えていても、思いもよらない価値をつけてもらえるかもしれません。 工芸品・伝統的工芸品であるか分からない、誰が制作した作品か分からないというものであっても処分する前に、価値を知っておくのもよいでしょう。 そもそも工芸品には価値がある? 日常使いのできる工芸品には、骨董品としての価値がないと考える人も多いのではないでしょうか。 身近な存在である工芸品ですが、ものによっては高価買取が期待できるため、まずはどのようなジャンルの工芸品があり、日本でどのように発展してきたのかを知って、工芸品の価値を再認識しましょう。 工芸品の歴史 工芸品のような、日常的に利用する道具は、旧石器時代や縄文時代から存在したとされていますが、商品としての工芸品はまだ登場していません。 その後、奈良時代に入ると、木工や金工の最高技術を用いて制作された東大寺大仏が登場するなど、職人による工芸品づくりが徐々に広まっていきました。 江戸時代になると、工芸とそれらの造形が多彩になり、工芸品制作の技術は江戸時代に完成したとまでいわれるように。 本格的な研究と産業育成が開始されたのは、昭和に入ってからで、現在の経済産業省である商工省が、国立工芸指導所を設立したことに始まるといわれています。 工芸産業の育成は、世界恐慌で悪化した地方の経済対策として打ち出されました。 その後、建築家として有名なブルーノ・タウトなどを指導者として日本に招き、工芸に関連する技術者の育成に励みました。 現在、工芸品や伝統的工芸品の出荷額は、1983年をピークに減少傾向にあり、この状況を危惧し、2017年には一般社団法人日本工芸産地協会が設立。 日本各地の工芸産地の自立や100年後も続くものづくりを目指して活動を続けています。 身近なところにもある、工芸品 現在、伝統的工芸品には237品目が指定されており、工芸品や伝統工芸品はさらに多くの種類があります。 宮城県のこけしや鳴子漆器、東京都の村山大島紬、江戸切子、神奈川県の箱根寄木細工、石川県の輪島塗、三重県の伊賀焼、滋賀県の信楽焼など、全国各地に工芸品が存在します。 種類が多いため、実物を見たことがあるものや、名前も知らなかったものなど、さまざまあるでしょう。 例えば、村山大島紬とは東京都武蔵村山市周辺で制作されている織物を指しており、正藍染めを特徴とする村山紺絣と、玉繭から作る絹織物の砂川太織が融合して発展した工芸品です。 奄美大島で制作されている大島紬に似ているため「大島」の名がついたといわれています。 箱根寄木細工とは、さまざまな色合いの木々を組み合わせて幾何学模様を表現した工芸品です。 工芸品は、全国各地で制作されておりジャンルも豊富であるため、知らず知らずのうちに見かけていたり、利用していたりするかもしれません。 どんな工芸品が価値が高い? 工芸品は種類が多く、特徴も多種多様であるため、どのような工芸品に高い価値がつけられているのか知らない人も多いでしょう。 工芸品の中でも、やはり経済産業大臣の指定を受けている伝統的工芸品は、価値が高くなる傾向です。 例えば、鉄瓶は、お湯を沸かす鉄製の道具として活用されるもので、電気ポットやケトルで沸かしたお湯よりも、軟水化されまろやかな感触になるため、人気を集めています。 鉄瓶の中でも、岩手県の南部鉄器は伝統的工芸品に認定されており、貴重な鉄瓶の中には、約500万円の価値がつくものもあるそうです。 有名な工芸品作家や作品 有名な工芸品作家が作った作品は、高価買取が期待できます。 所有する工芸品が誰によって作られた作品か把握するためにも、代表的な工芸品作家や作品を把握しておくとよいでしょう。 今泉今右衛門 今泉今右衛門とは、江戸時代から続く肥前国の陶芸家の名跡で、鍋島焼の伝統を受け継いでいます。 色鍋島と呼ばれている色絵は、古くからの伝統と高い品格を持ち合わせており、赤絵の調合や技術は、一子相伝の秘宝として現代まで伝えられています。 江戸時代から始まり、現在制作を担っているのは14代今泉今右衛門です。 酒井田柿右衛門 酒井田柿右衛門とは、江戸時代から続く肥前国の有田焼の名跡で、現在15代まで続く伝統的な陶芸家です。 柿右衛門様式の陶芸には、やまと絵風の花鳥図をモチーフにしたデザインが施されている特徴があります。 モチーフは暖色系で描かれ、乳白色の豊かな余白がモチーフをより際立たせています。 有田焼の中でも、柔らかく暖かみのある雰囲気が魅力の一つです。 秋山 信子 生没年:1928年-2024年 秋山信子は、日本の人形作家で、1996年には重要無形文化財「衣裳人形」の保持者として、人間国宝にも認定されました。 人形作家の大林蘇乃に師事し、粘土の一種である桐塑や和紙貼、木目込などの伝統的な人形制作技法を習得します。 1960年に開催された第7回日本伝統工芸展で初入選し、大阪府教育委員会賞を受賞。 その後、1963年に日本工芸会正会員に認定されています。 工芸品を手放すにはどんな方法がある? 工芸品を手放す際の方法として、ネットオークション、フリマ、リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者、骨董品買取業者などの利用が挙げられます。 ネットオークション、フリマでは、価格を自由に決められるメリットがありますが、価格交渉をされたり、多くの問い合わせに回答したりと、手間や負担が大きいデメリットがあります。 リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者を利用すれば、手放したいものをまとめて買取もしくは回収してもらえますが、骨董品に関する専門知識をもっていない可能性も高く、本来の価値よりも低い値段で引き取られてしまう場合があるでしょう。 骨董品買取業者であれば、専門的な知識や査定実績もあるため、お手持ちの工芸品の適切な価値を判断してくれると期待できます。 とはいえ、業者によって実績や経験が異なるため、複数の業者で査定してもらい、条件のよい場所で買い取ってもらうことをお勧めします。 大切にしてきた工芸品を売るなら、実績ある買取業者へ相談を 工芸品は日常使いできるものも多く、一見骨董品としての価値がないと思われがちですが、作品によっては高額買取になる可能性を秘めています。 そのため、売れないだろうと処分せずに、一度査定に出して価値を確認するのがお勧めです。 骨董品買取業者では、無料査定を行っているケースも多いため、価値を知ってから手放すかを判断したい人にも適しています。
2024.12.13
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民芸品は高く売れる?骨董品価値のあるものとは
各地域で手作りされた民芸品は、味わいや温かみがあり、魅力的にみえるものです。 身近な存在である民芸品も、製品によっては買取してもらえる可能性があります。 大切にしていた民芸品を手放すとき、ただ捨てるのではなく一度買取を検討してみるのもよいでしょう。 民芸品買取を相談しよう お土産として人気の高い民芸品は、地域によってさまざまな製品があり、購入した人やプレゼントされた人を楽しませてくれます。 バリエーションが豊富なため、コレクションするのも楽しみ方の一つです。 地域に根差した民芸品を手放すとき、価値をつけてもらえるのか気になっている人もいるでしょう。 民芸品とは 民芸品とは、民衆的工芸品の略称であり、各地域で暮らす民衆の手によって作り出された日用品で、生産地域と製品は切り離せない存在です。 ほかの骨董品とは異なり、一般の民衆が手作りしている製品が多い傾向で、製造方法が地域全体に代々受け継がれていることもあるため、地域住民の多くが制作できるケースもあります。 似たようなジャンルに工芸品がありますが、こちらは日用品として利用できる道具類の中でも、材料や技巧、意匠などにより美術的な価値を備えた製品を指します。 さらに、工芸品の中でも伝統的工芸品と呼ばれるものは、伝統的な原材料や技術、技法を用いて作られている工芸品のことです。 どれも地域に根差した製品ではありますが、民芸品は最も民衆に近い存在であり、工芸品や伝統的工芸品は、ものによって高い価値がつきやすい傾向があります。 自宅にあるコレクションや相続品を整理したい 自宅に眠っているもの、趣味で集めていたものなどで所有していた民芸品をどのように手放すか迷っている方もいるのではないでしょうか。 基本的に民芸品は、各地域に暮らす多くの民衆が制作を担っているため、ほかの骨董品よりも付加価値がつきにくく、高価買取が難しいとされています。 しかし、そのまま処分してしまうのはもったいないため、まずは正しい価値を判断できる買取業者に査定を依頼しましょう。 そもそも民芸品には価値がある? 民芸品というジャンルで価値のある製品があるのか気になっている方もいるでしょう。 工芸品や伝統的工芸品に比べると、価値がつきにくい民芸品ですが、買取してもらえるケースも、もちろんあります。 買取を依頼する前に、民芸品がどのようなものであるかを知り、高価買取を狙うためのポイントを理解しておくことが大切です。 民芸品=地域の伝統的なお土産? 民芸品とは、地域に根付いた製品であると先述しましたが、具体的にどのような製品があるのか気になる人もいるでしょう。 民芸品として有名なものは、木彫りの熊やこけしなどです。 こけしは、主に東北地方で作られている民芸品で、シルエットや表情などはその土地によって異なる特徴があります。 バリエーションが豊富なため、コレクターから人気の高い民芸品といえます。 木彫りの熊は、北海道みやげとして有名で、熊が鮭を加えている姿の製品を見かけたことがある人も多いでしょう。 お土産としてや一部のコレクターからは人気の高い民芸品ですが、骨董品としての価値は高くないものが多く、高価買取を狙うのは難しいといえます。 民芸品の中には骨董品価値のあるものも 民芸品の多くは、骨董品としての価値がほとんどありませんが、一部骨董品価値の高い民芸品も存在します。 有名作家が制作した歴史ある製品や、貴重な素材を用いて作られている製品は、高価買取が可能な場合もあります。 作家物の民芸品は、価値がつきやすいため、民芸品だからと買取をあきらめず、処分する前に査定依頼するのがお勧めです。 民芸品を高額買取してもらうには 民芸品の買取額をアップさせるためには、鑑定書や共箱、由来書、しおりなどの付属品もまとめて査定に出しましょう。 付属品がそろっていると高値がつきやすくなるため、捨てずに製品と一緒に保管しておきます。 また、民芸品に傷や汚れ、破損があっても査定前に修理するのは避けましょう。 きれいに修繕できなかった場合、価値を下げてしまうおそれがあります。 買取価格よりも修理費用の方が高くついてしまう可能性もあるため、まずは査定に出して価値を知ることから始めましょう。 民芸品を手放すにはどんな方法がある? 民芸品を手放す方法として、買取業者への依頼以外にも、ネットオークション、フリマ、リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者などを利用する方法があります。 リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者では、民芸品に対する知識があるとは限らないため、民芸品本来の価値に見合った金額を提示してもらえない可能性があるでしょう。 ネットオークションやフリマは、金額を自由に設定できますが、個人間の取引となるため、やり取りの負担が大きくなります。 専門の買取業者であれば、民芸品の価値を把握し適切な価値をつけてくれると期待できます。 しかし、基本的に民芸品は高価買取が難しい製品のため、査定額がつかない可能性もあるでしょう。 その場合は、自分でネットオークションやフリマを利用して売却するのも一つの手段です。 大切にしてきた民芸品を売るなら、実績ある買取業者へ相談を 地域ごとの特徴を持ち合わせた民芸品は、お土産物としても人気が高く、知人や友人から贈られることもあるでしょう。 もし、大切にしてきた民芸品を手放すタイミングがきたら、まずは実績のある買取業者への相談がお勧めです。 民芸品は、高価買取が難しい製品ですが、価値がまったくないわけではありません。 正しい価値を判断してもらうためにも、査定士に相談しましょう。
2024.12.13
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1970年の大阪万博ってどんなものだった?
1970年に開催された大阪万博とは 1970年に開催された大阪万博は、日本初・アジア初の国際博覧会で、当時史上最大の規模を誇っていました。 当時の日本は終戦25周年で、戦後の高度経済成長を成し遂げてアメリカの次となる経済大国にまでのぼりつめた日本。 終戦記念として日本の象徴的な意義をもつイベントとして、大阪万博は開催されました。 大阪万博は、1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトで、企業や研究者、建築家、芸術家などさまざまジャンルの専門家が、パビリオン建設や映像・音響などのイベント・展示物制作に採用されました。 「人類の進歩と調和」をテーマとした博覧会 1970年に大阪で開催された万国博覧会は、「人類の進歩と調和」をテーマに、新しい発明品や未来の製品が展示されました。 1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会以降、さまざまな機械文明の発展が展開されていましたが、20世紀後半ごろからは、交通機関や情報手段が発達し、未来の製品として紹介されていたものが現実のものとなっていきました。 人類の創造的活動を単に展示するだけの博覧会では、魅力が薄れてきてしまったため、テーマに基づいた博覧会を設計する傾向が強まっていったのです。 大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」では、技術文明の進化を紹介するだけではなく、社会の発展が同時に自然や人間性にどのような影響をおよぼしているかを訴え、問題を解決するためにはどうするべきか、人と自然の調和をとった進歩をどのように実現するかを問いかけてします。 出展者に向けたテーマは、さらに具体的な展示内容を決めやすくするために、4つのサブテーマが設定されていました。 1.より豊かな生命の充実 生命の起源や神秘、医療、心理、出産・育児、趣味などの展示 2.よりみのりの多い自然の利用 栽培植物、養殖、開拓、エネルギー、海底資源の利用、気象などの展示 3.より好ましい生活の設計 食料、住宅、衣類、乗り物、時計、公害防止などの展示 4.よし深い相互の理解 報道、通信、言語、教育、家族、文化交流、芸術などの展示 シンボルマークは桜を表現している 1970年に開催された大阪万博では、日本を代表する花である「桜」がモチーフになっています。 マークを制作したのは、グラフィック・デザイナーかつ、日本グラフィックデザイナー協会の理事を務めたことのある大高猛で、万博テーマの「人類の進歩と調和」を視覚化したデザインが考えられました。 5つの花びらは、世界を表現しており、世界が手を取り合って日本の大阪万博へ参加しよう、という意味合いを表現しています。 中央の小さな円は、日本の日の丸を表しており、周辺の白抜き部分は発展と進歩への余裕を表現。 安定した全体の印象は、日本の品位と調和を示しており、大阪万博が世界的なイベントであると力強く表現されています。 大阪万博の象徴『太陽の塔』に込められた想い 大阪万博が開催された1970年、日本は当時高度経済成長期で、アメリカに次ぐ2位の経済大国でした。 さらに、世界の状況を見てみると、世界初の月面着陸に成功したアポロ11号空もわかるように、テクノロジーが大きく発展していた時代といえます。 さまざまな技術が発展して便利な世の中になっていくと同時に、大気汚染や水質汚染などの環境問題や、新幹線による騒音・振動などの問題も浮き彫りになっていきました。 目まぐるしく環境が変化していくとともに、解決すべき問題も山積みになっていったのです。 そのような世界的状況の中開催された大阪万博では、人類の知恵と協力を社会の発展だけではなく、地球規模の問題解決にも役立てるべく、さまざまな展示が行われました。 自然と進歩の調和を図る意志の象徴となったのが、現在万博記念公園に設置されている岡本太郎デザインの『太陽の塔』です。 『太陽の塔』は、内部がテーマ館と呼ばれるパビリオンの一部になっています。 高さ約41mの生命の樹をメインに、生物の進化の過程や生命の大切さ、人々の生き方の多様さなどを展示にて追求しています。 万博といえば、近未来的なテクノロジーの展示物が注目されがちですが、大阪万博は、人類の原点を振り返る高度経済成長期ならではの万博となりました。 準備から開幕までの軌跡 日本が国際博覧会条約に加盟したのは、1965年で、その年の9月には、大阪での万国博覧会の開催が正式に決定しました。 財団法人日本万国博覧会協会が発足し、1か月後には本格的な準備が始まりました。 高い理想を掲げ開幕した日本万国博覧会の式典に出席した内外の貴賓・招待者は約8000人で、開会式の感動は、宇宙テレビで全国に中継されましたのでした。 世界各国の子どもたちによるかわいらしい踊りによって、進歩と調和の願いが世界中に届けられました。 ナショナル・デー、スペシャル・デーの式典やイベントは、国境、宗教、民族、ことばの壁を越えて世界中の人類が一つとなる祭典であり、会期中のナショナル・デーは73回、スペシャル・デーは15回です。 6月29日の日本の日の式典には、皇太子や同妃両殿下もご出席され、各国の代表たちと会場を埋め尽くす約1万人の観客に、日本を強く印象付けました。 大阪万博開催にあたって、世界中から多くの貴賓が訪れ、その数は約4800人を超えていたそうです。 大阪万博で開催されていたもの 大阪万博では、「人類の進歩と調和」をテーマにしたさまざまな展示やイベントが行われており、訪れた多くの人に感動や衝撃を与えました。 過去・現在・未来をテーマにした展示 大阪万博では、77か国の国際機構や政庁、州、都市、企業などを含めた合計116の展示館が建設され、過去や現在、未来などのテーマに基づいて、さまざまな展示を繰り広げました。 各展示館では、入館者が長い列を作り大盛況となり、若い世代からお年寄りまでさまざまな人々が、万博で表現された新しい世界に感動。 世界のお祭りを再現 大阪万博の広場やホールでは、世界各国の祭りを再現したイベントが繰り広げられていました。 その公演数は、2880回にもおよび、人類交歓の場であったお祭り広場では、内外27万人が出演。 1000万人以上の観客が、イベントに感動し拍手や喝采を送りました。 大阪万博のお祭り広場では、「見たことのないものを創る」をコンセプトに、新しい表現方法を模索してきた具体美術協会もパフォーマンスを行っています。 大阪万博がクライマックスに近づいてきた8月末の3日間、具体美術まつりと称して、具体メンバーがアイデアを持ち寄り、いくつかのプログラムを上演しました。 真っ赤な衣装を着たメンバーが、バルーンを付けて飛び跳ねたり、オリジナリティあるパフォーマンスを披露したり、個性的な演出が行われたそうです。 ユニークなパフォーマンスに、子どもから大人まで、幅広い層の観客の喜ぶ姿がみられるイベントになりました。 子どもの国・エキスポランド エキスポランドとは、大阪万博開催時にアミューズメントゾーンとして作られた遊園地で、アメリカ館やソ連館、太陽の塔などと並んで人気を集めた施設の一つで、万博に訪れた約6400万人のうち、4割ほどにあたる2600万人ほどが入園したそうです。 エキスポランドは、子どもたちから大人気で、6つの地区に分かれた約17万2500㎡の遊園地は、連日若者や家族連れで賑わいました。 大阪万博で披露されたテクノロジー 大阪万博では、現在私たちが当たり前のように使用している技術や製品が、未来の製品として展示されていました。 大阪万博での発表を機に、開発や普及が進み、現在でも親しまれているものがたくさんあるのです。 ワイヤレステレホン 現在、多くの人々が当たり前に使用しており、日常に欠かせない製品となっているスマートフォンも、大阪万博で初めて一般の人々の目に触れました。 NTTのパビリオンであった電気通信館にて展示されていたワイヤレステレホンが、現在のスマートフォンの原型といわれています。 また、オンライン会議やオンライン飲み会などで利用されているビデオ通話は、大阪万博でテレビ電話として登場。 大阪万博では、迷子や落し物の確認にテレビ電話が用いられていました。 ピクトグラム ピクトグラムも大阪万博で注目を集めました。 ピクトグラムが初めて日本で活用されたのは、1964年の東京オリンピックといわれています。 しかし、当時はデザインが統一されておらず、大阪万博の際には、グラフィックデザイナーである福田繁雄がデザインしたピクトグラムが採用され、統一化が図られました。 現在日本や世界各国で使用されているピクトグラムは、大阪万博で福田繁雄がデザインしたものをベースにしているといわれています。 プレーンヨーグルト 日本でプレーンヨーグルトが普及するきっかけを作ったのが大阪万博であるといわれています。 それまでも日本でヨーグルト製品は販売されていましたが、本格的なプレーンヨーグルトはありませんでした。 大阪万博では、ブルガリア館が本場のヨーグルトの試食を提供しており、当時試食した明治の社員が本場の味に感動。 日本の食卓に本物のヨーグルトを届けたいという想いが生まれ、開発を決めたといわれています。 その後、試行錯誤を重ねプレーンヨーグルトは商品化され、現在販売されている製品のロゴは、大阪万博のブルガリア館のロゴにインスパイアされたものになっています。 人間洗濯機 大阪万博で、話題を集めた展示の一つに人間洗濯機があります。 直径2mほどのカプセルのような造りをしていて、上部から顔が出せるようになっており、超音波を使って発生させた気泡によって身体を洗い、最後に温風で全身を乾燥させる装置です。 乾燥させる際には、赤外線と紫外線によって血行を良くし、殺菌も行える仕組みであったそうです。 突起の付いたカラフルなマッサージボールによって、洗浄と同時に身体をほぐす効果もありました。 リニアモーターカー 現在、最高時速500kmで東京と大阪を約1時間で結ぶとして話題を集めているリニアモーターカー。 大阪万博では、日本の歴史や文化、技術を展示する日本館にて、未来の乗り物として紹介されました。 リニアモーターカーの模型が展示され、会場に設置されたレールを走行して注目を集めたそうです。 電気自動車 電気自動車は、大阪万博開催中に会場内の交通機関の一つとして活躍しました。 来場者用のタクシーや放送用機材を運ぶプレスカー、施設管理用のパトロールカーなど、万博内のあらゆる移動が電気自動車で行われました。 万博を通じてすぐに普及とはいきませんでしたが、現在の電気自動車につながる確かな歩みになっていたことでしょう。 エアードーム 大阪万博の展示物ではなく、会場そのものも訪れた人々が注目する展示となっていました。 その一つが、アメリカ館のエアードームです。 塩化ビニール樹脂製の膜材を建築物にかぶせて空気を送り込み、空気圧で支えて屋根にしたものです。 一般的な大型テントとは異なり柱が必要ないため、大きな空間を確保するために重宝されました。 大阪万博ではさまざまな記録が生まれた 1970年に開催された大阪万博は、日本だけではなく世界各国から大変注目された展覧会でした。 183日間の開催で会場に訪れた人は、約6421万人で、1日の平均入場者数は約35万人、最も多かった日には、83万5832人が訪れたそうです。 その日は、会場全体が大混雑となり、訪れた人々は身動きが取れないような状況でした。 消費電力は1日平均90万kw、排出されたごみの量は合計40万㎥、迷子は4万8190人、救急車の出動は1万664回など、さまざまな記録が残されています。
2024.12.13
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モネが晩年に描いた壮大な装飾画と彼の芸術への情熱に触れる『モネ 睡蓮のとき』展
フランス・パリで生まれ、「印象派」という美術運動の創始者としてあまりに有名な画家・クロード・モネ(1840年-1926年)。 自然の光と色彩を描くことに情熱を注ぎ、同じモチーフを異なる時間帯や天候で繰り返し描く「連作」という手法を用いた作品を多く残しています。 今回は、国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展に行ってきました! この企画展では、晩年のモネが情熱を注いだ大装飾画『睡蓮』をメインに、印象派として活躍した彼の世界に浸れる贅沢な内容が詰まっています。 パリのマルモッタン・モネ美術館の全面協力により、国内外から選りすぐりの名品が集結している点も見どころです! さらに、楕円形の地下展示室では壁面に配置された『睡蓮』の大作に囲まれる体験ができ、まるでモネの庭に足を踏み入れたような感覚を味わえます。 「モネ 睡蓮のとき」展は国立西洋美術館にて開催 国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展は、その注目度の高さから平日でも多くの来場者で賑わっていました。 平日に訪れましたが、お昼過ぎであったこともあり、チケット売場には長い列ができていました。 モネの「睡蓮」という普遍的な人気を持つテーマが多くの人々を惹きつけているともいえますね。 午後の時間帯は、観覧チケットの購入だけでなく、ミュージアムショップのグッズ購入でも列ができ混雑しているため、空いている時間を狙うならなるべく午前中の早い時間がよさそうです。 「モネ 睡蓮のとき」展では、アンバサダーを務める石田ゆり子さんが音声ガイドを担当しています。 音声ガイドでは、モネの人生や作品にまつわるストーリーを彼女の温かな声で解説してくれます。 まるで彼女の案内でモネの世界を散策するような、特別な時間を楽しめるでしょう。 当日貸出価格:650円(税込) およそ50点!日本初公開も含めた、モネの名品がずらり 今回のモネ展では、世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館から、日本初公開となる作品を含む約50点のクロード・モネの作品が展示されています。 さらに、日本国内の美術館が所蔵するモネの名品も加わり、晩年におけるモネの創作活動を多角的に掘り下げる試みがなされています。 モネの人生後期に焦点を当てたこの展示は、彼が追い求めた光と色彩の世界を存分に味わえる内容です! なお、企画展は基本的に撮影が禁止されています。 ただし、地下展示室に展示されている3章の作品は写真撮影が可能です。 第1章:セーヌ河から睡蓮の池へ 1890年代後半、モネが繰り返し描いた主要なモチーフは、3年連続で訪れたロンドンの風景、そして彼の画業を通じて最も身近な存在であったセーヌ河の風景でした。 この時期に描かれたセーヌ河沿いの水辺の風景は、水面に映り込む鏡像が重要なテーマとなっています。 鏡のように穏やかな水面に映る光や景色を巧みに捉えたこれらの作品には、のちの代表作『睡蓮』を予見させる要素が随所に見られます。 反映された像が揺らぎながらも形を成すその表現には、彼の「見る」という鋭い観察眼と、自然の一瞬の美を捉えたいという情熱が感じられますね。 第1章では、そんなロンドンやセーヌ河を描いた名作が展示されており、モネがどのようにして『睡蓮』の世界観を築き上げていったのかを、時間を追いながら楽しめます! セーヌ川の支流であるエプト川を舞台にした作品『舟遊び』。 モネは、この川辺の風景を繰り返し描きながら、水面に映る光とその反映像の美しさを探求し続けました。 晩年に手がけた「睡蓮」のような、画面全体を水で覆う大胆な構図の片鱗がこの作品からも感じられますね。 らに、このセーヌ川を描いた他の作品も多く展示されており、それぞれ異なる「表情」を楽しめます。 寒色を基調とした作品は、空気の冷たさや透明感を巧みに表現し、暖色が差し込むものは陽光の温かさを感じさせてくれます。 同じセーヌ川を題材にしながらも、瞬間ごとに移ろいゆく光と空気を見事に捉えたモネの視点に驚かされるばかりです! また、モネはロンドンを訪れた際、テムズ川に架かるチャーリング・クロス橋を何度も描いていたようです。 この橋を題材とした一連の作品は、時間や天候、光の変化による風景の多様性を鮮やかに捉えています。 たとえば、朝日が昇りきり、川や空気が柔らかな黄色の光に包まれる情景。 モネは、光が水面をどのように照らすか、そして川辺の空気がその光をどのように拡散するかを細やかに表現しています。 一方、朝焼けや夕焼けのころ、川と煙が赤みを帯びた光に染まる作品も。 モネの、一瞬の移り変わりを見逃さない観察眼と光をどれほど巧みに操っていたかを間近で感じられる作品たちでした。 モネは、日本の美学に深く共感し、その影によって物の存在を暗示し、断片によって全体を感じさせる表現方法に強く影響を受けました。 その象徴的な作品が『睡蓮』であり、彼の作品の中ではしばしば、影や反射が重要な役割を果たしています。 『睡蓮』というと淡い色合いで幻想的な風景のイメージをもつ人も多いでしょう。 今回の展示では、赤をメインとした睡蓮の作品もいくつか鑑賞しました。 なかには、水平方向に広がる水面をあえて縦型のキャンバスに収めることで、黄昏時の赤く染まる空気と、その光の反射が水面に広がる様子を強調した作品も。 モネが追い求めた光や色の奥深さの新たな一面を見れたように感じます。 第2章:水と花々の装飾 大の園芸愛好家として知られるモネ。 彼の庭は、まるでキャンバスに絵具を載せるように、色鮮やかな花々で彩られていました。 その美しい庭は、彼の創作活動に大きなインスピレーションを与えた場所でもあります。 モネが構想しながらも実現することのなかった幻の装飾画に登場する植物たち。 池に架けられた太鼓橋を覆うように這う藤棚と、岸辺に咲くアガパンサスの花々が、この計画で重要な役割を担っていました。 紫や白の藤が揺れる橋と、青紫のアガパンサスが並ぶ風景は、モネが愛した自然そのものであり、彼が追い求めた色彩の世界を象徴する存在です。 また、モネが「睡蓮」に次いで多く描いた植物、それがアイリスです。 そのなかでも、作品番号25の『黄色いアイリス』はユニークな視点で描かれており、解説をみて驚きました。 この作品では、アイリスの花が真横から描かれ、その背後に広がる空と雲が水面に映り込んでいます。 一見すると、アイリスの花を下から見上げ、空と雲を同時に捉えているように感じられます。 しかし、解説を見ると、この作品は真横からアイリスを見た視点と、水面に反射する空と雲を上からみた視点の2つで構成されているとのことでした! まるで、モネが寝転がりながら花を見上げて描いたかのような自然な構図の中に、計算された構図の妙がありますね。 モネの庭に咲く植物たちは、彼の作品の重要なモチーフとなり、「アイリス」以外にも「アガパンサス」や「藤」なども題材にされています。 それぞれが異なる視点や光の演出で描かれており、植物を通して自然の豊かさや多様性を感じ取れます。 モネの作品は、単なる植物画を超え、その花々がある場所や時間の空気感までも描き出している点に、何度も引き込まれてしまいますね。 第3章:大装飾画への道 第3章では、まるでパリのオランジュリー美術館にある楕円形の部屋を彷彿とさせるような特別な空間が広がっています。 白を基調としたシンプルな楕円形の展示空間では、鑑賞者が睡蓮の池に囲まれるような感覚を味わえます。 水面に映り込む木々や空の柔らかな表現が、まるでその一部になったかのような没入感を与え、ただ「見る」だけでなく、「感じる」絵画体験を楽しめるでしょう。 また、旧松方コレクションの『睡蓮、柳の反映』も今回の企画展で注目したい作品の一つです。 モネが生前に唯一売却を認めた4メートルを超える巨大な装飾パネルであり、そのスケール感と芸術性に圧倒されます。 しかし、2016年に再発見された際には、上部の大半が欠損している状態だったとのこと。 今回の企画展では、この作品とともに、欠損前の姿を想像させる類似の作品も並べて展示されています。 これにより、かつての『睡蓮、柳の反映』がどのような壮麗な姿をしていたのかに思いを馳せることができますね。 失われた部分を想像しながら鑑賞する体験は、モネの創作の背景や彼が求めた芸術の理想に触れる貴重な機会となりました。 なお、企画展のなかで第3章は唯一写真撮影が可能な空間です。 ぜひ、モネが描いた『睡蓮』を写真に収め、後から余韻に浸るのもまたよいでしょう。 また、地下展示室を抜けるとサシャ・ギトリによるドキュメンタリーも放映されていました。 モネをはじめ、同時代に活躍したオーギュスト・ロダンやピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガといった著名な芸術家たちを記録した貴重な無声の映像作品です。 また、当時の舞台女優サラ・ベルナールや作曲家カミーユ・サン=サーンスなども登場し、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化的な空気感がリアルに伝わってきます。 中でも印象的なのは、立派な白ひげを蓄えた貫禄あるモネの姿。 タバコのようなものをくわえながら、パレットから色を取り、力強くキャンバスに向かうその姿は、まさに芸術家そのものでした。 モネがどのような思いで自然と向き合い、色を重ねていったのか、その一端を垣間見ることができる貴重な映像作品です。 第4章:交響する色彩 第4章では、モネが晩年に大装飾画の制作と並行して描いた小型の連作群が展示されています。 彼の庭に架けられた日本風の太鼓橋や、バラが咲き誇るジヴェルニーの庭が描かれ、モネが愛した自然の一部が色鮮やかに表現されているのが特徴的でした。 モネの晩年の作品には、白内障の影響が色濃く反映されています。 そのころの色彩は以前に比べて濃く、原色に近い鮮やかな色合いが多く見られ、暖色系が頻繁に使われるようになったと感じられました。 たとえば、作品番号49の『日本の橋』では寒色が中心でありながらも、そのトーンは深く、濃密な色彩が印象的です。 白内障という視覚障害を抱えながら、モネが何を思い絵筆を握っていたのか。 これまでのような繊細な色使いができなくなったことに対する失望や、描きたいものを思うように表現できない無念さがあったのかもしれません。 それでもなお、彼は新たな作品を生み出し続けました。 その中で、過去の自分とは異なる表現を模索し、新たな芸術の境地に挑戦していたのではないかとも考えられます。 作品番号65の「ばらの庭から見た家」では、白内障を患う中で描かれたとは思えないほど淡い色調とともに、ピンクや紫が幻想的に溶け合い、まるで夜の夢の中の風景を切り取ったかのようです。 視覚の制限を超えて、モネが自らの心に映る情景を描き続けたことが伝わってきます。 そして、実はこの作品は、モネが白内障の手術を受けた後に描かれたものだそうです。 白内障の手術を受けた後、モネの視界は片目は寒色系を認識できるようになったものの、もう片目はこれまで通り白内障の影響で暖色系に見えるという状態だったのです。 このような複雑な視覚の条件下で生まれた作品だからこそ、現実とモネ自身の内面が交錯した独特の色彩が生まれたのかもしれません。 白内障という逆境の中で、モネは新たな視点と色彩を見出しました。 それは、彼の芸術家としての情熱が尽きることなく、むしろハンデを乗り越えて新しい芸術の可能性を切り開いた証といえるのではないでしょうか。 モネが追い求めたものは、変わりゆく自然の美しさだけではなく、自らの限界を超えた先にある新たな表現の世界だったのかもしれません。 彼の晩年の作品を通じて、私たちは「見ること」「描くこと」の深い意味をあらためて考えさせられます。 エピローグ:さかさまの世界 1914年、モネは〈睡蓮〉を含む大装飾画の制作に着手しました。 同年、第一次世界大戦が始まり、人々が未曽有の悲劇に直面していた最中のことです。 そんな時期に彼はこう綴っています。 「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです。」 モネが筆を取り続ける理由、それは単なる絵画制作を超えた、生きるための行為であり、苦難の中にあって自身を保つための術だったのかもしれません。 モネが目指したのは、鑑賞者が無限の水の広がりに包まれ、静かに瞑想できる空間。 その発想は、西洋絵画の伝統である遠近法を否定し、人間中心主義的な視点から脱却しようとする挑戦ともいえるものでした。 これを「森羅万象が凝縮されたさかさまの世界」と称したクレマンソーは、モネの死後も彼の志を支え続け、1927年に大装飾画がオランジュリー美術館に設置される運びとなったそうです。 うっとりするようなデザインのグッズがあるのは、モネ展ならでは 「モネ 睡蓮のとき」展では、モネの世界観を五感で体験できるユニークなグッズが充実しています。 企画展の記念やお土産としてぴったりなアイテムをいくつかご紹介します。 食べてひたるモネ:ヴォヤージュサブレ Sablé MICHELLEが手がける焼き菓子「ヴォヤージュサブレ」。 美味しいだけでなく、缶には大人気の《睡蓮》がプリントされています。 この特製缶は食べ終わった後も使えるので、展覧会の思い出として長く楽しめます。 触れてひたるモネ:シュニール織ハンカチ 歴史と伝統あるFEILER(フェイラー)がデザインしたシュニール織ハンカチは、グリーンとピンクの2色展開。 柔らかな手触りと上品なデザインが特徴で、今回の企画展だけの特別なアイテムです。 普段使いはもちろん、ギフトとしてもおすすめ。 歩いてひたるモネ:オールスター スニーカー 「White atelier BY CONVERSE」が手がけたオールスターは、左右の外側とタン部分に『睡蓮』をプリントしたデザインが特徴的。 鮮やかな色彩で描かれたこのスニーカーは、履くたびにモネの世界を感じられる特別な一足です。 展覧会限定のこれらのグッズは、モネの名画をさまざまな形で楽しめる貴重なアイテムばかりです。 この機会に、ぜひお気に入りを見つけてみてください。 モネの『睡蓮』と彼が紡ぎ出した芸術の世界を体感できる「モネ 睡蓮のとき」展 同じ場所でも、一秒たりとも同じ景色は存在しない。 それを感じさせてくれたのが、今回の企画展で展示されていたモネが描き続けたセーヌ川や睡蓮の風景です。 水面に映る光と影、風の動きや空の色。 絵画を通じて、時間の流れを感じつつも、その一瞬の尊さを教えてくれるモネの作品は、日常の何気ない景色すら特別に思えるきっかけを与えてくれるでしょう。 ぜひ、企画展に足を運んで、モネの『睡蓮』を間近で感じてみてください。 水面に映る美しい風景とともに、あなた自身もその絵画の一部となったような感覚を楽しめるはずです。 開催情報 『モネ 睡蓮のとき展』 場所:国立西洋美術館 住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園7番7号 期間:2024年10月5日~2025年2月11日 公式ページ:https://www.nmwa.go.jp/jp/ チケット:一般2,300円、大学生1,400円、高校生1,000円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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草間彌生の死生観を辿る「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展
皆さんは、草間彌生(1929年-)を知っていますか? 1957年に渡米した彼女は、自己消滅をテーマにした網目模様の絵画で注目を集めました。1960年代には水玉模様を人体に描くパフォーマンスで生命の美を反戦と絡めて表現。 1970年代に帰国後、死をテーマにした暗い作品が中心となりますが、80年代後半には輪廻転生や永劫回帰を描き始めます。 2000年代以降は、迫り来る死への意識を創作のエネルギーに変え、生きる喜びをカラフルに描き続けています。 今回は、草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を運びました! この展覧会では、1940~50年代の戦争の影響が反映された絵画から、近年の最新作に至るまで、多様な作品を通して草間彌生の死生観の変化を感じ取れる内容となっています。 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は草間彌生美術館にて開催中 新宿区弁天町に位置する草間彌生美術館。 外観は縦長で、白を基調としたシンプルかつ洗練されたデザインが特徴的です。 カラフルで独創的な草間作品とは正反対の印象を受けました。 今回の企画展「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」は、日時指定の完全予約制(各回90分)でゆっくり鑑賞できるのがうれしいポイントです。 入口でQRコードを提示すればスムーズに入館できます。 今回、訪れた際は海外からの観光客が多く、国際的な人気を感じる空間でした。 館内1階には荷物を預けるロッカーがありますが、その数が少ないため混雑時には利用できない可能性があります。 大きな荷物は避け、身軽な状態で訪れると安心です。 また、展示会場は1~5階の全5フロアに分かれています。 一つの階ごとにテーマが分かれており、スムーズに鑑賞が進められる工夫がされています。 1~3階では写真撮影が禁止されているため、作品を心でしっかり楽しむことに集中しましょう。 一方、4階の映像作品と5階屋上の「かぼちゃ」の作品は撮影OKです。 屋上のかぼちゃは、草間ワールドの象徴ともいえる作品で、多くの人が記念撮影を楽しんでいました。 生命力あふれる作品に圧倒される展示が… 草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を踏み入れると、まず1階のエントランスから大きな作品が私たちを迎えてくれました。 生命力を感じさせる立体作品『生命(REPETITIVE VISION)』(1998)と、草間が生と死をテーマにした絵画シリーズ「わが永遠の魂」からの2点、『永遠に生きていきたい』(2017)と『自殺の儀式』(2013)が展示されています。 『生命(REPETITIVE VISION)』は、黒地に黄色の水玉模様が描かれ、植物のように上へ上へと伸びようとする姿が印象的です。 この作品は、草間が60年代に性的な強迫観念を表現したソフト・スカルプチュアの延長ともいえる作品です。 しかし、強迫観念からくる抑圧的な印象を超えて、生命が力強く伸びようとする力強さを感じさせます。 どこか生命のエネルギーを感じるこの作品に、思わず息を呑んでしまいました。 また、後方に展示された2点の絵画『永遠に生きていきたい』と『自殺の儀式』も印象的です。 この2つの作品は、生と死という相反する感情を常に持ち合わせながら創作に向かった草間の姿勢を感じさせ、彼女がどれほど内面的な葛藤を抱えながら作品を生み出してきたのかを想像させてくれるような作品です。 2階では、1950年代から80年代にかけて、さまざまな方法で死に向き合いながら生まれた草間の作品が並び、彼女の創作における真摯な探求心が感じられます。 まず、注目すべきは初期の代表作『残夢』(1949)。 赤く荒れ果てた大地に枯れたひまわりが描かれており、戦争の死の記憶が生々しく残る当時の空気を感じさせます。 この作品には、草間が生きた時代背景と、戦争がもたらした深い影響が色濃く反映されているのでしょう。 続いて、草間が1957年に渡米し、60年代に「自己消滅」というテーマのもとで創作した作品やヌード・パフォーマンスにも注目したいところです。 ベトナム戦争を背景にした反戦運動と呼応する形で生み出された草間のパフォーマンス作品は、死と向き合わせることで生まれた芸術的表現の一端を垣間見ることができます。 そして、70年代に恋人や父などの身近な人の死や心身の不調に直面して帰国した草間は、より直接的に死をテーマにした作品に取り組むように。 フロアの中央に展示された『希死』(1975-76)は、生命力に満ち溢れた1階の作品『生命(REPETITIVE VISION)』とは正反対の印象を与えるソフト・スカルプチュアです。 冷たく輝く銀色のファルスが死のイメージを強く印象付けます。 無機的な表現が、草間が直面した深い絶望と向き合う姿勢を象徴しているかのように思えました。 また、草間自身の言葉による詩も強く印象に残っています。 帰国後の彼女の作品には、死への強い意識が表れたものが多くあります。 詩とともに展示されている作品が、草間の内面的な葛藤や創作への情熱をより一層深く感じさせてくれるでしょう。 3階では、最新作のインスタレーション『再生の瞬間』(2024)が展示されています。 この作品は、天井まで伸びる樹木のような巨大な構造で、生命の力強さを感じさせてくれます。 筒状に縫い合わせた水玉模様の布に綿を詰めたその形は、まるで枝を四方に伸ばしているようで、周囲に広がる生命のエネルギーをイメージさせるものです。 インスタレーションとセットで展示されているのが、1988年の平面作品『命の炎―杜甫に捧ぐ』です。 背景の赤いキャンバスに描かれた白い無数の水玉模様にはしっぽのようなものが生えており、まるで精子のようにも見え、生命の根源的な存在を象徴しているようにも感じられます。 ほかの平面作品からも生命の動的な力が感じられ、2階の展示とは対照的に、展示室全体にあふれる生の躍動感が伝わってきました。 4階に展示されている、2010年制作のヴィデオ・インスタレーション『マンハッタン自殺未遂常習犯の歌』は、視覚的にも感覚的にも非常に強い印象を残す作品です。 こちらは草間彌生自身が出演する映像作品で、詩を歌う姿が強く印象に残っています。 映像が合わせ鏡によって無限に増殖していくという構造も特徴的でした。 詩の内容は、死というテーマに深く根ざしており、「去ってしまう」「天国への階段」「自殺(は)てる 現在は」といった言葉が散りばめられています。 これらのフレーズには、草間自身の内面の葛藤や死への衝動がにじみ出ているように感じられます。 一方で、「花の煩悶(もだえ)のなかいまは果てなく」「呼んでいるきっと孤空(そら)の碧さ透けて」といった清涼さがあり、どこか永遠を感じさせる言葉も見受けられました。 草間は死と向き合いながらも、それを単なる終わりとして捉えることなく、むしろ新たな何かを生み出す力として表現しているのだと感じられました。 この映像作品で詠われている詩の両義的な言葉は、見る者の心に強く訴えかけ、死というテーマの深さを改めて考えさせられます。 5階にある屋外ギャラリーでは、最新作の「かぼちゃ」をモチーフにした作品『大いなる巨大な南瓜』(2024)が展示されています。 草間の代名詞ともいえるアイコニックな作品で、美術や芸術に詳しくない人も見たことがあるのではないでしょうか。 展示全体を通じて、草間の死生観を感じたあとに最新作の「かぼちゃ」を鑑賞すると、生命の象徴としての力強さが伝わってきます。 屋外ギャラリーでの作品鑑賞後、観賞者はエレベーターで1階のロビーに戻る順路になっていますが、この動線自体が、生と死の輪廻を思わせるようでした。 美術館限定のグッズやあの水玉模様のグッズまで 草間彌生美術館のショップスペースでは、草間彌生の作品を象徴する水玉模様や網目模様のグッズがずらりと並んでいます。 例えば、アイコニックな水玉デザインの缶が目を引く「プティ・ゴーフル」は、上野風月堂とのコラボレーションで、サクサクの生地にバニラ風味のクリームがサンドされています。 さらに、「かぼちゃ缶」のプティ・シガールは、ヨックモックとのコラボ商品で、美術館限定アイテムとして大人気です。 どちらも美術館限定の商品なので、アート鑑賞を楽しんだ後はぜひお土産として手に入れてください。 また、企画展の図録も販売されているため、草間彌生の世界観にいつでも触れていたいという方は、購入を検討するのもよいでしょう。 死と生を見つめる『私は死を乗り越えて生きてゆきたい』展 草間彌生美術館で開催されている「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は、草間彌生がどのように創作によって「死を乗り越えてきたのか」というテーマに迫る展覧会です。 草間の作品は、死を意識させるものもあれば、逆に色彩豊かでエネルギッシュな作品が並び、命の力強さを感じさせます。 その両面を見つめることで、彼女がどのように内面的な葛藤を創造的なエネルギーに変えてきたのか、少しだけその答えに触れることができるかもしれません。 展示空間自体も非常に魅力的で、外観と内観、そして作品の大胆さと繊細さが見事に融合しています。 アートに包まれるような感覚を味わえるだけでなく、美術館そのものが一つのアート作品のような印象を与えてくれます。 草間の作品を観賞するだけでなく、美術館全体の雰囲気を楽しむことができるので、ぜひ一度足を運んでみてください。 開催情報 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展 場所:草間彌生美術館 住所:〒162-0851 東京都新宿区弁天町107 期間:2024/10/17~2025/03/09 公式ページ:https://yayoikusamamuseum.jp/ チケット:一般 1,100円、小中高生 600円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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うっとりするガラス工芸の美しさ…「没後120年・ガレ展」
美術館「えき」KYOTOにて開催されている、「没後120年 エミール・ガレ展 美しきガラスの世界」。 アール・ヌーヴォーの中心人物であり、ガラス工芸を芸術の域にまで高めたフランスのガラス工芸家エミール・ガレの没後120年を記念して開催されたもので、ガレの偉業を振り返る約70点の美しいガラス作品が展示されています。 ガラスで表現された美しく繊細なガレの作品たちは、見る者をうっとりとさせずにはいられません。貴重な作品たちが間近で鑑賞できるこの「エミール・ガレ展」、堪能してきました。 パリ万博で有名になった、エミール・ガレ エミール・ガレも出品したパリ万博とは パリ万国博覧会(パリ万博)は、19世紀から20世紀にかけてフランスの首都パリで複数回開催された国際的な大規模イベントです。 1855年に第1回が開催され、その後も定期的に開催されました。パリ万博は、世界中の国々が参加し、最新の技術や文化、芸術を展示する場となりました。 特に1889年の万博は、フランス革命100周年を記念して開催され、エッフェル塔が建設されたことでも有名です。この万博では、シャン・ド・マルス公園やトロカデロの丘などが会場となり、機械館や自由芸術館など、当時の最新技術を駆使した建築物が展示されました。 その翌年、1900年の万博は19世紀最後の国際博覧会として開催され、第2回近代オリンピックと同時開催されるなど、世界的な注目をいっそう集めました。 世界の文化や技術の発展に大きく貢献したパリ万博は、国際交流の場として機能しただけでなく、建築や芸術の分野で革新的なアイデアが生まれる契機となり、パリの都市計画や観光産業にも大きな影響を与えました。 例えば、1889年の万博で建設されたエッフェル塔。 当初は一時的な建造物として計画されましたが、その後はパリのシンボルとして、現在に至るまで世界中から多くの観光客を集めるパリ随一の名所となっています。 このように、パリ万博は、その時代の科学技術や芸術、文化の粋を集めた国際的なイベントとして、世界中から注目を集め、現代のグローバル社会の基礎を築いたと言えるでしょう。 パリ万博での受賞がガレを一躍有名に エミール・ガレもパリ万博で有名になった芸術家の1人。 ガレは、1889年のパリ万博に、ガラス工芸品300点、陶器200点、家具17点を出品しました。 彼のガラス作品には、複雑な層状技法や酸腐食技法を用いた花や昆虫のモチーフが施された繊細な作品が多く施されており、これらの陶器作品は、日本の影響を受けた装飾技法や自然主義的なデザインが特徴的でした。 また、家具作品は、木材の自然な風合いを生かしつつ、繊細な象嵌細工や彫刻を施した芸術性の高いものでした。 その結果、ガレはガラス部門で大賞、陶器部門で金メダル、家具部門で銀メダルを受賞するという輝かしい成績を収めました。この功績により、ガレはレジオン・ド・ヌール勲章四等を受章し、国際的な名声を得ることとなりました。 その後、ガレは1900年のパリ万博にも出品し、69点の家具と73点のガラス器を展示しました。 この万博では、「ラ・マイン・オ・アルジャン(銀の手)」と呼ばれる象嵌細工を施した家具や、複雑な層状技法を用いた「風景画」ガラスなど、より洗練された作品を発表。ガラスと家具の両部門で大賞を獲得し、レジオン・ド・ヌール勲章三等に昇格しました。 1889年から1900年のパリ万博までの11年間は、ガレ工房が最も隆盛を極めた時期とされています。ガレの作品は、その芸術性と技術の高さで多くの人々を魅了し、アール・ヌーヴォーを代表する作家としての地位を確立していくこととなり、そのきっかけがパリ万博だったのです。 ガレのガラス製品と「アール・ドゥ・ヴィーヴル(Art de Vivre)」 フランスに息づく考え方「アール・ドゥ・ヴィーヴル(Art de Vivre)」は「暮らしの美学」とも訳され、日常を豊かにする工夫を大切にする考え方です。 この考えはガレの作ったガラス製品にも根付く考え。ガレは優れた芸術性を備えながらも日用品として使用することができるガラス製品を多く残しています。 例えば、美しいランプやテーブルウェア、香水瓶など。 日用品としての機能を備え、そして生活を豊かに彩る高い芸術性も同時に持ち合わせたガレの作品は、当時の人々を魅了しました。特に、アール・ヌーヴォー様式に魅了された芸術愛好家や洗練された趣味を持つ上流階級や裕福な中産階級の人々に好んで使用されていました。 今回の展示でも、「生活を彩るガラス」として数多くの作品が展示されていました。 例えば、飾っておくだけでも美しく、うっとりとした気分にさせてくれるような香水瓶や、来客を迎えた際にそこにあるだけで華やかになるテーブルウェアの数々。 眠りを誘うオレンジの光がともされたランプは、明かりが灯ることでぼんやりと浮かび上がる模様にうっとりとさせられます。 実際にこれほど間近に、ガレの作品を鑑賞できる機会もなかなかないのではないでしょうか。 美しいガラスに囲まれていると、まるで当時のフランスの宮殿に暮らす人になったような、優雅で贅沢な気分になります。 ガレとジャポニズム さて、展示の終盤になると、これまでの作品とは少し趣の異なるテイストのガラス製品が複数展示されています。 私たち日本人にとっては、どこか懐かしくなじみある風景が描かれた作品たち。 山水風景が描かれたこれらの作品は、ガレがいわゆる「ジャポニズム」に深く感銘を受けたことの現れと言えるでしょう。 ガレは1867年のパリ万博で日本文化に触れ、日本美術に強い関心を抱いたといわれています。特に、自然の姿をそのまま描写する日本美術の特徴に魅了されたガレは、植物や昆虫などの繊細な表現を自身の作品に取り入れました。さらに、ナンシーの国立林業専門学校へ派遣されていた日本画家の高島北海との交流も、ガレの作品に日本的要素を取り入れるきっかけとなったといわれています。 山水風景だけではなく、トンボや蝶などの昆虫たちや、美しい花々、そして水墨画のようなぼかし表現も、ガレがジャポニズムから受けた影響は随所に見受けられます。 こういった作品が、ガレの作品が日本人にとっては親しみやすく、かつ新鮮さを感じさせるのでしょう。 展示作品には、トンボをモチーフにしたものも多くありました。 優雅な姿と、透き通った羽…ガレの高い技術だからこそ表現できる美しいトンボの姿は、アール・ヌーヴォーを効果的に表現したものといえるでしょう。 高い技術を駆使した美しい作品たち エミール・ガレの作品には、さまざまな高度な技術が用いられています。 代表的なものとして、被せガラス技法、エッチング、パチネなどの技法があげられますが、特に私が感銘を受けたのが、「スフレ」という技法が取り入れられた作品でした。 スフレとは「ガラスを吹くこと」を意味しており、作品は立体的な仕上がりとなっています。 あらかじめ型の中に果実、人物、動物などのレリーフを凹刻していたものを型の中に熱いガラスを吹き込んで成形するのがこの技法で、ガラスの表面に文様や模様を浮き立たせることができます。 ガレはこの技法を巧みに使い、繊細な図柄やよりリアルな描写を実現しています。 これまでにも写真や映像で彼の作品を目にしたことはありましたが、やはり実物を近くでみると、その精巧さと美しさには、思わずため息が出てしまうほどです。 実際に展示会場でも、さまざまな角度から作品を眺める人や、近くで見たり少し離れてみたりしながら楽しんでいる人も多くいました。 よりリアル、より幻想的なガレの世界を楽しんでほしい ガレの作品を充分に堪能できる、「没後120年 エミール・ガレ展」。 細部までリアルに描かれた描写と、ガラスだからこその幻想的な雰囲気――そして私たち日本人だからこそ感じるであろう、ガレへの親近感。 ゆったりとじっくりと眺めながら、当時、こうしたガラス製品が使用されたシーンやその室内を想像しながらタイムスリップしてみるのも、この展示の楽しみ方かなと思います。 美しきアール・ヌーヴォーの世界へ浸りたい方、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。 開催情報 「没後120年 エミール・ガレ展 美しきガラスの世界」 場所:美術館「えき」KYOTO 期間:2024/11/22~2024/12/25 公式ページ:https://www.mistore.jp/store/kyoto/museum.html チケット:一般1100円 高大生 900円 小中学生 700円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.09
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