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アルフォンス・ミュシャ(1860年-1939年)画家[チェコ]
アール・ヌーヴォーの旗手「アルフォンス・ミュシャ」とは 生没年:1860年-1939年 アルフォンス・ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表する画家で、装飾パネルやポスター、カレンダーなどを多く制作しています。 星や宝石、草花などのさまざまな概念を、女性の姿で表現するスタイルが特徴的で、華麗な曲線美が魅力の一つです。 幼いころは音楽も好きだった ミュシャは、オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェという小さな村で、裁判所の官吏の子として生まれました。 大変謙虚で倹約家であった家族の元に誕生し、母は製粉業者の娘でした。 ミュシャは、幼いころからドローイングの才能を発揮しており、ミュシャの絵をみた地元の商人が大変感銘を受け、当時まだ絵を描くための紙は、ぜいたく品であったにもかかわらず、無料で分け与えてくれるほどだったそうです。 また、幼いころのミュシャは、音楽にも関心を寄せており、1871年には、ブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に参加し、熱心な信仰者となりました。 のちにミュシャは、「絵画の概念と教会へ通うことと音楽は密接に関係していて、音楽が好きだから教会に通っているのか、教会が好きで音楽も好きになったのかはっきりとはわからない」と語っています。 プラハの美術アカデミーに入学を拒否される 1878年、18歳になったミュシャは、プラハの美術アカデミーに入学を希望しましたが、学校側からほかに君にふさわしい職業を探しなさいと入学を拒否され、書類審査で落選してしまいます。 1880年、19歳でオーストリアのウィーンへ向かうと、ウィーン劇場で舞台装飾の仕事を担っているカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房の求人広告を発見し、見習いとして働くことに。 ウィーン滞在中は、美術館や教会、宮殿、劇場などに通い、特に仕事の得意先が劇場であることから、工房の師匠からチケットをよくもらい、無料で鑑賞していたそうです。 また、ミュシャは工房で働きながら、夜間は絵画教室に通い、デッサンを学ぶ日々を過ごしていました。 この時期にミュシャは、ウィーンで人気を集めていたアカデミックな画家ハンス・マカルトから大きな影響を受けています。 マカルトは、ウィーンにある宮殿や政府の建築物の壁に大きな壁画を描いたり、壮大な形式で歴史画や肖像画を描いたりする巨匠として知られていました。 この芸術様式に影響を受け、ミュシャはその後方向性を変え、制作する作品に大きな影響を与えていったのでした。 工房の得意先が焼失して失業する 1881年の終わりごろ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまい、ミュシャは仕事を失ってしまいます。 失業したミュシャは、モラヴィアの南部にある国境の町ミクロフへ行き、フリーで装飾芸術や肖像画を描き、墓石に刻む文字制作などを行い、生計を立てるようになりました。 ミュシャの作品の評判は、徐々に高まっていき、地主であるエドゥアルド・クエン・ベラシから、邸宅であるエマホフ城の壁画シリーズの制作を依頼されます。 その後、ガンデック・カーストのチロルにある先祖代々受け継がれてきた家に飾る絵画制作の依頼も受けました。 当時すでに神話をモチーフにした女性の形態や青々と美しい草花の装飾画を描き、才能を発揮していました。 ベラシ自身もアマチュアの画家であったことから、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノでの美術鑑賞にミュシャを連れていったり、バイエルンで有名なロマンティシズム画家のウィルヘルム・クレイをはじめとした多くの芸術家たちにミュシャを紹介したり、さまざまなサポートをします。 伯爵の後押しを受けてミュンヘン美術大学に入学 1885年、 エゴンはアカデミックな芸術教育をミュシャに受けさせるために、ミュンヘン大学への入学を勧め、授業料と生活費を支援するパトロンとなりました。 大学では、ドイツの画家であるルートヴィヒ・ヘルテリッヒやルートヴィヒ・フォン・レフツ教授などから絵を学び、デッサン技術を着実に身につけていきます。 移住制限によりパリへ移り住む ミュシャは、チェコの学生クラブを創設し、プラハの民族主義的出版物をはじめとした政治的なイラストを掲載していました。 ミュンヘンの芸術性にあふれた環境を満喫していたミュシャでしたが、長居できるものではないと悟っていました。 当時、ババリン当局が外国人学生や居住者に対して、移住を制限する政策を打ち出しており、 ブラシはミュシャにローマかパリに移動するよう提案し、ミュシャは ブラシからの支援を受けながら1887年にパリへ移り住みます。 パリで入学した2つの学校で異なるスタイルを学ぶ パリへ移住したミュシャは、アカデミー・ジュリアンで学んだあと、アカデミー・コロラッシにも通っています。 1889年の終わりごろ、ミュシャが30歳になると、 ブラシはミュシャが十分な美術教育を受けられたとして、奨学金を打ち切る決断を下しました。 打ち切りの理由は明かされていませんが、いつまでも ブラシに頼って学生生活を続け、画家として独立を考えないミュシャに対して、自立を促すためであったと考えられています。 ミュシャは、突然パリで極貧状態となり、住む場所にも困っていたため、大規模な スラヴ共同体のサポートを行っている避難所を発見し利用します。 その後、ミュシャは、グランド・ショミエール13通りにある、クレムリと呼ばれる寄宿舎に住みました。 イラストレーションで高く評価される ミュシャは、ミュンヘン出身のチェコの画家ルーデック・マロルドが、パリで雑誌のイラストレーションを手がけ成功したことを知り、同じ道を歩もうと考えます。 1890年と1891年に、ミュシャは毎週小説を掲載している人気週刊誌「ラ・ヴィー」で、イラストレーションの仕事をスタートさせました。 ミュシャがイラストを担当したのは、ギ・ド・モーパッサンの小説『ユースレス・ビューティ』で、1890年5月22版にて表紙になっています。 そのほかにも、若者向けの物語を雑誌や本で出版しているル・プティ・フランセ・イラストでイラストレーションも描きました。 この雑誌では、フランコ・プロイセン戦争のシーンをはじめとした、歴史上で起こったさまざまな事件の劇的なシーンを切り取り、イラストレーションを描いています。 ミュシャのイラストは、人気となり、定期的な収入が入ってくるようになったため、ミュシャは、音楽趣味のハーモニカやカメラを購入しました。 カメラは、自分や友人を撮影したり、参考となる絵の構図を作ったりするために利用されました。 その後、ミュシャはポール・ゴーギャンと出会い、一定期間アトリエを共有して制作活動をしています。 1894年の秋には、劇作家のアウグスト・ストリンバーグと交流を深め、哲学や神秘主義に興味を抱くようになりました。 ミュシャのイラストレーションの仕事は、書籍の仕事にもつながっていき、歴史家チャールズ・セニョボスが書いたドイツ史のシーンやエピソードを表現したイラストレーションを依頼されるようになりました。 『ジスモンダ』のポスターで大成功をおさめる 1894年の終わりごろ、当時雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生活していたミュシャは、印刷業者のルメルシエから大女優サラ・ベルナールが主役の芝居『ジスモンダ』のポスター制作を急遽依頼されます。 すでにパリのルネサンス座で公演されていた劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの演劇『ジスモンダ』が大成功をおさめており、クリスマス休暇後に公演期間を延長することになっていました。 その宣伝用のポスターの制作に、ミュシャが抜擢されたのでした。 実は、ミュシャは過去にベルナールに関連するイラストの仕事をしており、1890年にクレオパトラのパフォーマンスをするベルナールを描いています。 また、『ジスモンダ』開演時には、雑誌『Le Gaulois』の特別クリスマス付録のベルナールのイラストを制作していました。 公演期間延長の宣伝用ポスターは、急ぎの仕事であったため、ミュシャは大慌てでデザインを仕上げ納期に間に合わせたそうです。 1895年の元旦からパリの街頭に貼りだされたベルナールのポスターは、大きな反響を生み、ミュシャは一夜にして人気者となりました。 ベルナール自身もポスターに大変感激し、1895年と1896年の間でポスターを4000枚発注し、ミュシャ自身とも6年間ポスター契約を結びました。 ポスターの背景に描かれているアーチは、ミュシャのスタイルを表す特徴の一つとなり、以後の演劇ポスターの制作では必ずといっていいほど描かれています。 商業用ポスターで、一躍有名人となったミュシャは、次に装飾パネルの制作も手がけるように。 アメリカでは注文肖像画を描く 1904年、ミュシャはアメリカの招待により3月から5月まで滞在し、アール・ヌーヴォーの旗手としてメディアに取り上げられ、手厚い歓迎を受けました。 滞在中は、ニューヨークやフィラデルフィア、ボストン、シカゴなどを巡り、上流階級の注文肖像画を描いています。 また、ポスターやデザインなどの装飾作品や壁画作品なども制作しています。 かなりの数を制作していたそうですが、パリ時代に描かれた名作や代表作となるものは、アメリカ時代ではあまりみられませんでした。 ミュシャが最初の招待以降もアメリカに滞在していたのは、資金集めの目的があったからといわれています。 ミュシャは、パリ時代に スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩を、いつか絵で表現することを思い描いており、そのための資金集めだったといわれているのです。 プラハに戻り国のために芸術を捧げる 1910年、ミュシャはチェコのプラハに戻ると、国のために芸術を捧げる決意をします。 プラハ市長の公館に装飾壁画を制作し、その後さまざまな街のランドマークの制作を手がけました。 思い描き続けてきた『 スラヴ叙事詩』を描くためのアトリエを兼ね、西ボヘミアのズビロフ城に住み、作品制作を開始しました。 『 スラヴ叙事詩』は、6m×8mと巨大な作品で、1912年に最初の3点が完成し、1926年にシリーズすべてが完成。 最終的に、 スラヴ民族の歴史とチェコ人の歴史を10点ずつ合計20点の大作となりました。 第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立した際、ミュシャは、新しい国家の公共事業にもかかわるようになり、プラハ城をモチーフにした郵便切手や通過、国章などのデザインや制作を行いました。 晩年、1936年にパリの美術館にてチェコ出身の画家クプカとともに二人展が開催。 この時期、最後の大作といわれているミュシャが描いた理想の世界『理性の時代』、『英知の時代』、『愛の時代』の3部作の構想が練られますが、作品が完成することはありませんでした。 1939年、ミュシャは 肺感染症によりプラハで息を引き取りました。 アルフォンス・ミュシャが描く美しい女性たち ミュシャが描いてきた作品では、女性の美しさが際立ち、女神のような神秘的な空気感をまとっています。 華やかで目を引くミュシャの作品は、芸術の域だけにとどまらず商業用のデザインとしても親しまれました。 商業芸術であるリトグラフによる巧みな表現 ミュシャの代表作となるポスターや装飾パネルは、リトグラフと呼ばれる技法で描かれています。 リトグラフとは、石版画とも呼ばれるもので、複雑な線や色合いをイメージ通り表現できるのが特徴です。 ミュシャが手がけるリトグラフでは、太い曲線と細い曲線が巧みに使い分けられており、それまでの商業デザインではみられなかった、マットな質感と淡く美しい色彩が見事に表現されています。 アール・ヌーヴォーと美しい女性 ミュシャ作品の最大の特徴は、美しい女性の姿です。 また、女性を引き立たせる大胆な構図や、アール・ヌーヴォーに象徴的な幾何学模様や、草花、文字の装飾なども見事なものです。 芸術的な美しさも兼ね備えながら、すべて商品や女優などのモチーフへ視線が誘導される容易として描かれている点も、ミュシャの偉大さを表しています。 ミュシャと日本美術 ミュシャの作品は、日本の伝統的な浮世絵から影響を受けていると同時に、日本もまたミュシャの作品から大きな影響を受けています。 ミュシャの作品には、日本の浮世絵と共通する、鮮やかな色彩、流れるような線、自然物をうまく取り入れた構図などがみられます。 ミュシャは、浮世絵をはじめとした日本美術特有の特徴を取り入れたことで、ヨーロッパの人々からは、描かれた作品が新鮮で美しく映ったのかもしれません。 ミュシャは、明治時代ごろから日本人の間で人気を集めていました。 日本美術にも大きな影響を与えており、フランスやイタリアで洋画を学んだ藤島武二が手がけた与謝野晶子の『みだれ髪』の表紙デザインは、どことなくミュシャのスタイルが見え隠れしています。 またミュシャ作品の大きな特徴であるアール・ヌーヴォーの影響は、現代の漫画家にも色濃く残っており、ミュシャが残した幻想的な世界にインスピレーションを受けた作品が多く存在しています。 年表:アルフォンス・ミュシャ 西暦 満年齢 できごと 1860年7月24日 0歳 オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれる 1875年 15歳 サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊となり、音楽家を目指していたが、声が出なくなり、音楽家の夢を諦める 1879年 19歳 ウィーンへ行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う 1883年 23歳 クーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる 1885年 25歳 エゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学 1888年 28歳 卒業後パリに移り、アカデミー・ジュリアンに通う 1895年 35歳 サラ・ベルナールの舞台『ジスモンダ』のポスターを制作し、一夜にして有名になる 1896年 36歳 『四季』、『黄道十二宮』などの代表作を次々と制作 1910年 50歳 故国であるチェコに帰国し、『スラヴ叙事詩』の制作に着手 1918年 58歳 新たに設立されたチェコスロバキアの紙幣や切手などのデザインを行う 1928年 68歳 『スラヴ叙事詩』が完成する 1939年7月14日 78歳 チェコスロヴァキアは解体された後、ナチスに逮捕され、釈放後に肺感染症により死去
2024.12.27
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加納夏雄(1828年-1898年)金工師[日本]
明治を代表する彫金師「加納夏雄」とは 生没年:1828年-1898年 加納夏雄は、幕末から明治にかけて活躍した京都出身の金工師です。 廃刀令により仕事が減る中、ビジネスセンスを活かして世界に名を知らしめた夏雄は、刀剣装飾以外にも、花瓶や置物、香合や根付などをメインに製作を続けていきました。 京都に生まれ7歳で養子に出される 夏雄は、京都御池通柳馬場で米穀商をしている伏見屋の子として生まれ、7歳で刀剣商・播磨屋の加納治助の養子となり、才能を開花させていきます。 幼いころから商売道具である刀剣の特に鍔をはじめとした金具の美しさに心惹かれた夏雄は、子どもながらに鑑識眼を養っていきました。 やがて、夏雄は自らも工具を使うようになり、製作に打ち込むようになっていきました。 夏雄の才能を見抜いた治助は、彫金師の奥村庄八のもとで本格的な技術を学ぶよう夏雄に勧め、12歳のころから奥村庄八に師事します。 庄八のもとで金工の基礎を学んだ夏雄は、その後、名金工・大月派の池田孝寿にも学び、夜は四条円山派の巨匠といわれている中島来章に絵を学び、朝には和歌や学術を儒学者である谷森善臣から習うなど、1日中学び続ける生活を送りました。 金工の技術だけではなく、絵や学問も学んだことが夏雄の今後の作風に大きな影響を与えたといえるでしょう。 19歳で独立し江戸に行く 19歳になると、夏雄は京都で開業して彫金の世界で独立を果たし、刀剣装飾をメインに事業を展開していきました。 自宅の2階にこもり、古くから作られてきた金工名作を模造したり、円山応挙や呉春の絵を学びなおしたり、古名作を自分流にアレンジして独自のデザインを探したりと、楽しみながら学びも忘れずに続けていたそうです。 夏雄が開業した1846年ごろは、幕末の動乱の真っ最中で、何人もの職人を抱えていた夏雄は、分業スタイルを導入して刀剣装飾の仕事をこなしていきました。 効率よく大量生産できるこの仕事の方法は、のちの事業にもプラスの影響を与えます。 25~27歳ごろ、夏雄は新たな地で事業をはじめようと、江戸に向かいます。 江戸は、金工の大家が多く、夏雄の生活はしばらくの間困窮しました。 1855年ごろから注文がようやく入りはじめたと思いきや、安政の大地震に見舞われてしまいます。 大地震により江戸の家を失ってしまった夏雄は、周囲の助けを借りながら2か月後には新居を建て直し、少しずつではありますが店も繁盛し、名声を高め確固たる地位を築いていきました。 明治の新貨幣づくりに携わる 徳川幕府が解体され新政府が樹立し、明治時代を迎えると夏雄の事業は大きく変化していきました。 廃刀令により、刀剣装飾の仕事は激減してしまいますが、明治政府から新貨幣の製造という大きな仕事の依頼が舞い込んだのです。 彫金師として高い評価を受けていた夏雄は、造幣寮で新貨幣の製造に携わるようになり、弟子たちとともに古今の資料を集めて研究し、官僚らと合議を重ねて、原型となる新貨幣を1870年に完成させました。 明治天皇御剣の拵金具を作る 1872年には、明治天皇御剣の金具製作の依頼が飛び込んできました。 正倉院に伝来していた聖武天皇御剣を明治天皇が大変気に入り、新たに製作するにあたって、夏雄の名があがったのでした。 明治天皇御剣には龍が刻まれていますが、夏雄はあまり龍や獅子を取り入れた作品は製作しておらず、夏雄の作品の中でも珍しいモチーフの作品です。 その後も、夏雄は御太刀製作にも携わっています。 帝室技芸員として若手育成にも努めた ビジネスの才能があった夏雄は、造幣寮を去った後も精力的に製作活動を進め、手がけていた事業が軌道に乗ると、ウィーン万国博覧会や展覧会などでも高い評価を得るようになっていきました。 1889年には東京美術学校が開校し、夏雄は彫金科の教授として教鞭をとり、後世の育成に励みました。 翌年の1890年には、帝室技芸員に任命され、彫金師としてさらに注目を集めていきます。 加納夏雄が製作した作品の特徴 夏雄は、刀装具や硬貨だけではなく、時代に合わせて花瓶や置物、シガレットケースなどさまざまな作品を製作しています。 夏雄が手がけた作品は、伝統的な美を継承しつつも現代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせていること、片彫りによる写実性の高さなどが特徴です。 伝統的な美と現代のスタイリッシュさ 従来の技法を用いて伝統的な美を重んじながらも、時代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせているのが夏雄作品の大きな特徴です。 このようなデザインセンスは、幕末から明治という変化の大きい時代を過ごした夏雄ならではの感覚であったといえるでしょう。 片切彫りによる写実的なデザイン 夏雄は、片切彫りと呼ばれる手法を得意としており、モチーフの片側の線を垂直に刻み、ほかの線を斜めに彫っていくスタイルを指します。 江戸時代中期の彫金師が生み出した技法で、この彫り方を用いるとモチーフが立体的に見えるのが特徴です。 夏雄は、卓越した技術力により、片切彫りで人物や花、鳥、鯉などを精巧かつ美しくデザインしています。 また、夏雄は若いころに円山派の絵を学んでいたため、絵画で培った写実的センスが、作品にも大きく反映されたと考えられるでしょう。 真面目で寛容な性格から弟子たちに慕われていた 真面目で寛容な性格であった夏雄は、多くの弟子たちから慕われていたといいます。 ある日、夏雄の古希を祝おうと弟子たちが計画を立てていたとき、幹事を務めたいと申し出る門下が50人ほどもいたそうです。 実直で探求心旺盛な夏雄は、何事も軽率に扱うことがなかったため、いつまでも金工の技術と目を養うことを怠らなかったといわれています。 年表:加納夏雄 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1828年(文政11年)5月27日 0歳 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 1835年(天保6年) 7歳 刀剣商の加納治助の養子となり、彫金に興味を持つ。 1840年(天保11年) 12歳 彫金師奥村庄八の元で修行を始め、線彫り、象嵌などの技法を習得。 1842年(天保13年) 14歳 円山四条派の絵師・中島来章に師事し、写実を学ぶ。 1846年(弘化3年) 19歳 金工師として独立。 1854年(安政元年) 26歳 江戸へ移り、神田に店を構える。 1855年(安政2年) 27歳 安政の大地震により家を失う。 1869年(明治2年) 41歳 皇室御用を命じられ、明治天皇の太刀飾りを担当。 7月には、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣を作成。 1872年(明治5年) 44歳 正倉院宝物修理に携わる。 1873年(明治6年) 45歳 明治天皇の命により『水龍剣』の拵えを完成させる。 1876年(明治9年) 48歳 廃刀令により多くの同業者が廃業するが、煙草入れや根付を作り続ける。 1890年(明治23年) 62歳 第三回内国勧業博覧会で『百鶴図花瓶』が一等妙技賞を受賞し、宮内省に買い上げられる。 1890年(明治23年) 62歳 東京美術学校の教授に就任。 1890年(明治23年) 62歳 第1回帝室技芸員に選ばれる。 1896年(明治29年) 68歳 明治天皇の下命により『沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵』を完成。 1898年(明治31年)2月3日 69歳 逝去。
2024.12.27
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正阿弥勝義(1832年-1908年)彫金師[日本]
卓越した彫金技術をもっていた「正阿弥勝義」とは 生没年:1832年-1908年 彫金師である正阿弥勝義の彫金技術は、明治時代の職人の中でも群を抜いて優れていたといわれています。 精緻な彫金や高い写実性とともに、多彩な金属を使用して色数が多く、美しい光沢が表現されているとして高い評価を受けています。 評判は国内だけにはとどまらず、海外の展覧会で展示され、国内外問わず人気を集めている人物です。 彫金師の父をもち幼いころから彫金を学ぶ 勝義は、津山二階町に住んでいる津山藩お抱えの彫金師である中川五右衛門勝継の3男として誕生しました。 幼いころから父に彫金を学び、津山藩先手鉄砲隊小山家の後継ぎになった後は、江戸の彫金師に弟子入りを頼みますが、果たせずに江戸から帰郷し、養子関係を解消しています。 その後は、18歳のときに岡山藩お抱えの彫金の名家である正阿弥家の婿養子となり、正阿弥家の9代目を受け継ぎました。 正阿弥家は、藩主からの依頼を受けて刀装具を作り、安定した暮らしをしてきた名家です。 9代目となってからは、実の兄である中川一匠や、その師の後藤一乗などに手紙で下絵や脂型、作品をやりとりして指導を受けます。 兄の一匠は、代々徳川家に仕える彫金師である後藤家の門下であり、江戸幕府や宮中の御用職人を務めていました。 勝義の作品が多く所蔵されている清水三年坂美術館には、この時代に制作された刀装具や短刀拵もあり、作品のできばえから当時すでに高度な技術を有していたことがわかります。 技術を生かした美術工芸品づくりで成功 正阿弥家の9代目として刀装具などを作り、安定した暮らしを送ってきた勝義でしたが、明治維新後に薩摩藩主との雇用関係が解消され生活の保障がなくなると同時に、廃刀令によって刀装具の仕事もなくなってしまいました。 時代の流れにより多くの彫金家たちが廃業していく中、勝義は彫金師としての技術を生かして、新たに花瓶や香炉などの室内装飾品や、彫像などの美術工芸品、茶器などの制作を開始します。 1878年、30名あまりの当代随一の工芸家たちで輸出産業を立ち上げ、神戸の貿易商をしていた濱田篤三郎の紹介でイギリス商人と売買契約を締結。 しかし、不正な手段により利益を得ようとする奸商が、作りの粗い偽物を制作していたことで輸出を中止します。 その後、少数精鋭の職人で美術工芸に専念すると、イギリスから大衝立の注文を依頼され、加納夏雄・海野勝珉が十二支図案を作成し、勝義が金工彫、逸見東洋が木工を担当。 3年がかりで完成させて輸出し、現在はボストン美術館に所蔵されています。 勝義は、制作した作品を国内外問わず精力的に博覧会や美術展に出品し、世界各国で高い評価を得ており、受賞は30回以上、宮内省買い上げは13回にもおよんだそうです。 1899年、67歳になった勝義は、美術研究のために京都へ移り住みます。 京都の伝統文化に触れ、さらに才能を昇華させていき、高い評価を受けている作品の多くは、京都に移り住んでから亡くなるまでの10年間に制作されたものといわれています。 真面目で几帳面な彫金師であった 勝義は、真面目かつ几帳面であり、筆まめであったといわれています。 休みを取るのは正月と葵祭の2日だけで、それでも彫金の仕事に嫌気がさすこともなく、無心に制作に打ち込んでいたそうです。 ある日、成金から金の煙管を作ってほしいと頼まれ、一度は断ったもののどうしても欲しいと聞かないため、勝義は純金で煙管を作り依頼主に渡しました。 依頼主は大変喜びましたが、その様子を見た勝義はもう一度煙管を受け取り、金の上から鉄を巻いてしまいました。 そして、上から草花を彫ると、鉄の下から金の彫り物が浮かび上がり、依頼主に「金とはこうして使うものです」と言って返し、その依頼主は大変感心したそうです。 正阿弥勝義が制作した作品の特徴 勝義が作る作品は、超絶技巧と呼ぶほど高い技巧を誇っており、上品かつ精緻な作品は、多くの人の心を惹きつけました。 ときに生々しいほど写実性の高い表現もあり、一つひとつの作品を丹念に作り上げているとわかります。 また、巧みな技巧だけではなく色数の多さや鉄錆地の美しさも魅力の一つです。 勝義は、全体的に技術レベルの高い明治時代の彫金師たちの中でも群を抜いていたといわれています。 高い技術力に加えて、見る者の意表をつき想像を湧かせる遊び心や、粋な趣向なども盛り込み、複数の意匠を融合させることで、緊張感や物語性を生み出しているのです。 正阿弥勝義の代表作 『群鶏図香炉』は、銀地をベースに、金や銀、赤銅、素銅などのさまざまな金属を組み合わせてできています。 象嵌によりさまざまな鶏の姿を表現しており、ドーム状の火屋には、小菊を密集させ高肉彫で表現しています。 摘みの雄鶏は、丸彫で立体的に表されているなど、多彩な彫金技法を用いて作られた代表作の一つです。 『蓮葉に蛙皿』は、素銅地に鋤彫で葉脈を描き、緻密な槌目で葉の質感を巧みに表現しています。 虫食いの穴や枯れた葉の色調も細かく再現してあります。 ひときわ目を引くのが、巻いた葉の上に飛び乗った瞬間のアマガエルが表現されている部分です。 一瞬の動きを見逃さずに捉えた勝義の観察力の高さと、それを金属で表現する高い技術力がうかがえる一作品です。 年表:正阿弥勝義
2024.12.27
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濤川惣助(1847年-1910年)七宝家[日本]
無線七宝で活躍した「濤川惣助」とは 生没年:1847年-1910年 濤川惣助は、無線七宝を開発した七宝作家で、七宝を工芸品から芸術のレベルまで高めた人物でもあります。 東京の濤川、京都の並河と称され、国内外問わず高い評価を受けています。 1893年の、 シカゴ万博に出品された『七宝富嶽図額』は、2011年に重要文化財に指定。 1910年、63歳で肺炎にかかり亡くなるまで、七宝を研究し続け新たな道を切り開き続けた人物といえるでしょう。 貿易商から七宝家の道を目指す 惣助は、現在の千葉県旭市である下総国鶴巻村にて、農家の次男として誕生しました。 その後、陶磁器などを取り扱う貿易商となり働いていましたが、1877年に開催された第1回内国勧業博覧会で鑑賞した七宝焼に目を奪われ、七宝家の道を目指す決意をしました。 同じ年に、塚本貝助をはじめとした尾張七宝の職人たちが働いている、東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を、惣助は買収。 2年後となる1879年に、革新的な技術を用いて無線七宝を確立させました。 国内外の博覧会で賞を受賞 当時は、まだまだ機械工業が未発達であった日本では、伝統工芸品の輸出が貴重な外貨を得るための手段でした。 明治政府は、欧米で定期的に開催されていた万国博覧会に伝統工芸品を出品し、輸出を盛んに行おうとしていたのでした。 惣助は、この伝統工芸品を輸出する流れに乗って、国内外の博覧会に自身が手がけた無線七宝焼作品を出展し、次々に賞を受賞していきます。 1881年に開催された第2回内国勧業博覧会では、名誉金牌を授かり、1883年のアムステルダム万博では金牌、1885年のロンドン万博でも金牌、1889年開催のパリ万博では名誉大賞を受賞するなど、目覚ましい活躍をみせていました。 技術を磨き高い評価を受け順調に七宝家の道を歩んできた惣助は、1887年にはアーレンス商会と同様に尾張七宝の職人が働いている名古屋の大日本七宝製造会社の、東京分工場までも買収しています。 濤川惣助が生み出した無線七宝とは 無線七宝とは、有線七宝と同様に金属線を使用して模様を作り、釉薬を塗って焼成する前に金属線を取り除く技法により制作された作品です。 金属線を除去することで、釉薬の境界部分が混ざり合い、柔らかく滲んだような色合いが表現できます。 無線七宝は、釉薬の絶妙な色彩のグラデーションを生み出し、写実的で立体感がありつつも柔らかな表現ができる革新的な技法です。 また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝の技術を融合させることで、遠近感や水面に浮かぶ影の表現も可能としました。 濤川惣助が制作した32面の七宝額 1909年に東京御所として建設され、日本で唯一のネオ・バロック様式を用いた宮殿建築物である迎賓館赤坂離宮には、惣助が制作した七宝額が飾られています。 七宝額は、高度な技術と技法により制作されており、七宝を日本の伝統的な芸術品として世界に広めた作品といえるでしょう。 惣助の七宝焼は、これまで主流であった有線による表現ではなく、絵画のような滲みを巧みに表現した無線七宝の技法によって作られています。 赤坂離宮には、惣助がその巧みな技術と革新的な技法を用いて制作した七宝額が、花鳥の間に30面、小宴の間に2面の合計32面が飾られており、下絵は渡辺省亭が担っています。 帝室技芸員として活躍した二人のナミカワ 無線七宝を生み出し数々の賞を受賞した惣助と、有線七宝の巧みな技法と鮮やかな色彩により活躍した並河靖之は、どちらも七宝家であるとともに帝室技芸員でもありました。 帝室技芸員とは、日本の伝統的な美術工芸の技術を帝室で保護し、未来に継承・発展させるために定められた制度です。 二人のナミカワが帝室技芸員に任命されたのは、どちらも技術と人柄の両者において優れた美術工芸家であり、技術を磨き続けるとともに後進の育成に努めていたためです。 有線七宝を制作した並河靖之とは 靖之は、日本を代表する七宝家の一人で、有線七宝により活躍をおさめました。 彫金や象嵌などの技法も取り入れ、花や鳥、風景など自然から着想を得た図柄や、そこで暮らす人々の生活などを七宝焼に描きました。 これまで、図柄や紋様部分がメインで使用されていた黒色透明釉を、背景にも使用するようになり、そのような作品を「並河ブラック」と呼ぶことも。 鮮やかで独特な色彩の組み合わせや自由なデザインが海外でも高く評価され、海外の博覧会でも数多くの賞を受賞しています。 万年自鳴鐘の七宝台座を制作 万年自鳴鐘は、江戸時代の機械式置時計の傑作として知られており、七宝台座部分は、惣助が手がけています。 1851年に、田中久重が万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の6面部分はブリキ製であり、七宝による装飾はされていませんでした。 初代久重が亡くなったあと、2代目久重の依頼により万年自鳴鐘の大修理が実施され、その際に6角形の台座にある側面6面に七宝の装飾が施されたのです。 修理が無事終了した万年自鳴鐘は、日本初の時の記念日である1920年6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された時の博覧会にて展示されました。 6面には、それぞれ日本画が表現されており、岩礁や波、草木などと一緒に亀や鶏、太鼓、ウサギなどの動物も描かれています。 年表:濤川惣助 西暦 満年齢 できごと 1847年 0 下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれる。 1877年 30 第1回内国勧業博覧会を観覧し、七宝に魅了され七宝家に転進。塚本貝助ら尾張七宝の職人を擁するドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収。 1879年 32 革新的な無線七宝技法を発明。 1881年 34 第2回内国勧業博覧会で名誉金牌を受賞。 1883年 36 アムステルダム万博で金牌を受賞。 1885年 38 ロンドン万博で金牌を受賞。 1887年 40 大日本七宝製造会社の東京分工場を買収。 1889年 42 パリ万博で名誉大賞を受賞。 1893年 46 シカゴ万博に『七宝富嶽図額』を出展し、高評価を得る(後に重要文化財に指定)。 1896年 49 帝室技芸員に任命される(七宝分野では濤川惣助と並河靖之のみ)。 1910年2月9日 62 平塚の別荘で静養中、感冒から肺炎を併発し、死去。
2024.12.27
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並河靖之(1845年-1927年)七宝家[日本]
日本を代表する七宝家の一人「並河靖之」とは 1845年-1927年 並河靖之は、日本の七宝家の一人で、明治時代に京都で活躍した人物です。 幼いころは動物好きだった 靖之は、川越藩松平大和守の家臣であり、京都留守居役京都詰め役人であった高岡九郎左衛門の3男として生まれました。 川越藩は、近江国に5000石の支配下をもっており、高岡家は代々その代官を務めていました。 靖之は幼いころ動物好きで、毎日世話役におぶってもらって近くの本能寺の馬場へ馬の匂いを嗅ぎに行っていたそうです。 並河家の家督を急遽継ぐことに 1855年、11歳になると、親せきで粟田青蓮院宮家に仕えていた並河家当主の靖全が急死してしまったため、靖之は急遽養子になることに。 並河家の家督を受け継いで、1858年に成人の儀式である元服を行い、9代目当主となりました。 なお、江戸時代の青蓮院家には、東の並河家と西の並河家の2つの並河家がありましたが、靖之が養子になったのは、西の並河家です。 家督を継いですぐに、皇族の久邇宮朝彦親王に近侍として仕え、親王が相国寺への隠居永蟄居を命じられた際や、広島藩預りになった際も、近くで仕え続けました。 靖之は、日本古典馬術の流派の一つである大坪流を修める馬術の達人であり、伏見宮や閑院宮でも馬術の手解きをしています。 明治維新後に七宝焼作りに取り組む 靖之は、親王に仕えたあと、明治維新後から七宝焼作りの取り組みを開始します。 知識や資材が不十分な中で、試行錯誤しながら技術を学んでいきます。 そして1873年、靖之の初作品となる『 鳳凰文食籠』が完成しました。 当時、七宝焼というと、主に中国でよく作られている艶のない釉薬を用いた泥七宝が日本でも主流でした。 一方、尾張七宝では、釉薬の発展が進んでおり、乳濁剤や呈色剤を使用していない透明釉をよく用いています。 靖之は、内国勧業博覧会にて見た透き通ったガラス質で艶のある尾張七宝の美しさは、泥七宝とは異なり、大きな衝撃を受けました。 すぐさま靖之は、下絵師を務めていた中原哲泉とワグネルとともに、七宝焼の研究を進めました。 熱心に研究を重ねた結果、最終的にどの七宝工房よりも釉薬の色の種類が多くなり、特に黒の透明釉薬である黒色透明釉は、大変評判が高く、現代では並河ブラックと称されています。 靖之は、国内外問わずさまざまな博覧会で多数の賞を受賞しており、七宝作家として大成功を収めています。 並河工房には、海外からも文化人が多く訪れ、靖之が製作する京都並河の七宝焼は、新聞や雑誌などを通して海外へと広く紹介されました。 並河靖之が製作する七宝焼の特徴 靖之の七宝焼は、巧みな技法と鮮やかな色使いによって一世を風靡しました。 靖之は、彫金や象嵌などの技法を七宝焼に取り入れ、自然や風景、そこで暮らす人々の生活などを作品に描きました。 豊かな色彩 靖之作品の特徴は、表面に施された鮮やかな色彩で、七宝焼全体に見られる特徴ではありますが、靖之の作品ではより顕著で、見る者の心を惹く豊かな色彩が魅力です。 細部まで手の込んだ細工 靖之が作る七宝焼は、緻密な細工が特徴の一つです。 一つひとつの作品が、細部に至るまで繊細かつ緻密に手間暇をかけて作られており、巧みな技術力が見え隠れしています。 自然の要素が豊富なデザイン 靖之が作る七宝焼には、花や鳥、風景など自然から着想を得て製作された作品が多く、自然の調和が作品に深みと生命感を与えています。 時代によって変化をみせる作風 七宝焼の研究を絶えず続けてきた靖之の作品は、生涯を通して変化し、洗練されていきました。 初期の作品では、伝統的な七宝焼の手法を用いたものが多く、徐々に独自の色彩の組み合わせやデザインが追及されるようになっていきます。 後期の作品では、大胆で豊かな色彩と自由な形状のものが増え、靖之の個性ある芸術観が作品に反映されるようになっていきました。 靖之は、七宝焼の中でも有線七宝を極めた人物で、パリやロンドン、シカゴ、バルセロナなど海外の博覧会や内国勧業博覧会に出品された花瓶や壷などの作品は、金賞を含む数多くの賞を受賞しています。 有線七宝とは、素地に文様の輪郭線となる金や銀の線を張り付け、線の間に釉薬を塗って焼成・研磨する技法によって作られた七宝焼です。 初期(1873-1880) 靖之が七宝焼を製作し始めた当初は、艶の少ない釉薬を用いた泥七宝が主流でした。 初期の中ごろから日本でも釉薬の開発が進み、艶のある透明釉薬を利用した作品も作られるようになっていきます。 初期作品は、作品全体に植線を立てて、全面に模様や図柄を施した作品が多い傾向です。 植線には、真鍮線を使用していましたが、初期の途中からは銀線や金メッキ線を用いた作品も多く見られるようになりました。 作品の図柄には、鳳凰や龍などの古代図を題材にしたデザインが施された作品が多く残されています。 第二期(1880-1890) 釉薬の開発がさらに進んでいき、使用できる釉薬の色が格段に増えたことで、作品の鮮やかさが増していきます。 またこの時期の七宝焼には、真鍮線が見られず、植線には銀線や金メッキ線が用いられていました。 初期のころ同様に、作品全体に植線を立てて全面に図柄を施していますが、一つひとつの柄の精巧さがより増しており、技術力の向上が見られます。 第三期(1890-1900) 第三期からは、植線に銀線と金線を用いるようになり、これまで黒色透明釉は、図柄や紋様部分のみに使用していましたが、背景にも利用するようになっていきました。 背景に黒色透明釉を使用した作品は、並河ブラックとも呼ばれています。 これまで紋様的な図柄の多かったのが、第三期からは写実的な図柄に変化していき、余白が生まれ、品のある空白の美しさが引き立つように。 製作技術はより洗練されており、1本の植線で太さを変えて、筆によって描かれたような表現方法が用いられています。 晩年(1900-1923) 晩年の作品は、より空白が目立つようになり、余白の美が強調されています。 有線七宝の技術は、さらに向上しており、第三期と同じように筆で水墨画を描いたような図柄が魅力的です。 多色の釉薬が利用できるようになったことで、今まで製作されてこなかったクリーム色や、紫、黄緑、ピンク、白などの素地の作品も多く作られています。 同時期に活躍した二人のナミカワ 靖之と同じ時代に活躍した七宝職人である濤川惣助は、靖之のライバルとして名が挙げられることもあり、二人のナミカワとしてよく比較されてきました。 惣助は、無線七宝と呼ばれる革新的な技法を採用して七宝焼を製作しています。 無線七宝では、釉薬を塗る前にあえて植線を取り除き、絶妙な色彩のグラデーションを生み出す技法が用いられており、写実的かつ立体感のある表現や、柔らかい表現を生み出せる特徴があります。 靖之と惣助の二人は、七宝の名匠として名を残しており、それぞれ異なるスタイルと巧みな技術で明治の七宝界をけん引しました。 年表:並河靖之 西暦 満年齢 できごと 1845年10月1日 0歳 京都柳馬場御池北入町で生まれる。 1855年 11歳 並河家の養子となり、並河靖之を名乗る。 1873年 28歳 七宝制作を開始し、処女作『鳳凰文食籠』を完成させる。 1875年 30歳 京都博覧会に出品し銅賞を受賞。 1876年 31歳 フィラデルフィア万博で銅賞牌を受賞。 1877年 32歳 第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受賞。 1878年 33歳 パリ万博で銀賞を受賞。 1879年 34歳 京都府の博覧会品評人を務める。 1881年 36歳 ストロン商会から契約を破棄され、事業を縮小。 1889年 44歳 パリ万博で再び受賞。 1893年 48歳 緑綬褒章を授与される。 1896年 51歳 帝室技芸員に任命される。 1906年 61歳 賞勲局の特命で勲章製造を開始。 1927年5月24日 81歳 逝去。
2024.12.27
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川端玉章(1842年-1913年)日本画家[日本]
後進育成にも努めた日本画家「川端玉章」とは 生没年:1842年-1913年 川端玉章は、明治時代に活躍した日本画家で、自ら作品を制作しながらも東京美術学校の教授を務め、自身の川端画学校を開設するなど、後進の育成にも励んだ人物です。 美術学校の同僚には、狩野派の画家で第一次の帝室技芸員メンバーにも選ばれている、橋本雅邦がいました。 玉章は、繊細な筆使いと、情緒あふれるモチーフを融合させて、新しい日本画の道を切り開いた芸術家として、高く評価されています。 幼いころから絵の巧さを認められていた 玉章は、京都の高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれました。 父は、蒔絵師であり俳諧をしていた芸術家で、幼いころの玉章は、蒔絵を父から教わっていました。 さらに、漢学や国学などの教養も教わり、さまざまな学びを得られる環境にいた玉章は、自然と絵画への道を歩み始めたのです。 11歳のときに、実業家の三井高喜や三井高弘などに絵の巧さを認められ、さらに絵画の基礎を固めて本格的に画家として活動していくために高喜の紹介で、円山派の絵師である中島来章から絵を学んでいきます。 貧しい生活から徐々に頭角を見せ始める 1866年には、レンズ越しに絵を覗いて鑑賞する眼鏡絵 や、錦絵 、新聞の付録などを描くようになり、1867年には江戸に移り住みます。 玉章は、江戸で苦しい生活を続けていましたが、少しずつ画家としての才能を世間に広めていったのでした。 そして、1872年ごろからは、狩野派を学び洋画家となった高橋由一のもとで油絵を学ぶようになり、1877年には第一回内国勧業博覧会で褒状を受け取り、1878年には画塾天真堂を創設しています。 1882年になると、第一回内国絵画共進会にて初入選を果たし、これをきっかけに玉章は才能を開花させていき、1884年の第二回内国絵画共進会では、銅賞を受賞しました。 東京美術学校で円山派の教師として働く 1889年、岡倉 覚三の声かけにより、玉章は東京美術学校の円山派の教師として勤務することに。 1890年には、正式に東京美術学校の教授に就任して教鞭をふるい、1912年までの22年間、写生の授業を受け持ちました。 玉章が、東京美術学校として受け入れられたのは、 覚三がみた両国の大きな書画会において、一番達者に描いていたのは河鍋暁斎でしたが、玉章の作品は図柄が他の画家とは異なり印象に残ったためといわれています。 1881年には、深川に画塾「天眞舎」を開き、そこでも若い画家たちに絵を教えていたそうです。 日本青年絵画協会設立を援助する 1891年には、玉章より一世代若い画家たちによる日本青年絵画協会の設立にあたって、玉章は川辺御楯らに働きかけ、援助しました。 1896年には、優れた美術家や工芸家が任命される帝室技芸員となり、1897年には古社寺保存会委員、1898年には日本美術院会員や文展開設 以来審査員なども務めました。 1910年ごろには、小石川下富坂町に川端画学校を開設し、さまざまな方面から後進の育成を進めていたそうです。 1913年、玉章は発作を起こし、長年悩まされていた中風により息を引き取りました。 中風とは、現在でいう脳血管障害の後遺症を指し、手足のしびれや言語障害、麻痺などが該当します。 日本画だけではなく洋画も描いていた 玉章は、若いころにチャールズ・ワグナーに洋画を学んでおり、日本画だけではなく洋画作品も多く手がけています。 円山派の技法を西洋画に融合させて、新しい写実性を生み出すことに成功しました。 新しいジャンルを確立させた玉章は、晩年には文化絵も研究しており、生涯学びの姿勢をもち、誠実で努力家な人物であったと想像できるでしょう。 川端玉章のライバル橋本雅邦 円山派から絵を学び伝統を重んじていた玉章と同じ時代に東京美術学校で教授を務めていたのが、雅邦です。 玉章と雅邦は、ライバル同士であったと評されており、玉章は円山派の流れを継承し、美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らの育成にあたったのに対して、雅邦は狩野派を受け継ぎ、横山大観や菱田春草ら日本美術院出身の画家を輩出した点で、対照的であるとわかります。 玉章のライバルといわれている雅邦は、狩野派の技法をベースに他流派や西洋画などの技法も柔軟に取り入れ、近代的な新しい日本画スタイルを生み出しました。 山水画や故事人物画などの漢画系のモチーフを得意としており、雄大な山水画は多くの人を魅了しました。 一方、玉章は花鳥山水画や風景画を得意としており、さらに絵を仕上げるのが早かったことでも知られています。 絵を描き始めると終始机に向かって絵を描き続け、その集中力は常軌を逸するとまでいわれていました。 古い伝統だけに固執せず、西洋画の写実技術を学び、新たな日本画のジャンルを築き上げていきました。 川端玉章の弟子たち 玉章は、自ら日本画の新しいスタイルを確立させていくだけではなく、新たに活躍していくであろう若手画家の育成にも努めていました。 東京美術学校で教鞭をとりながらも、同美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らを育成した点も、玉章の大きな功績といえるでしょう。 平福百穂 生没年:1877年-1933年 平福百穂は、玉章の内弟子の一人で、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 川端塾で絵を学び、塾生の先輩であった結城素明に勧められて東京美術学校にも入学しています。 卒業後は、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を研究し、制作していきました。 1916年ごろからは、中国の南画や画像石や画巻などに関心を示し古典回帰がみられます。 その後、自然主義的写生画と古典を融合させて新たな作品を作り出していきました。 結城素明 生没年:1875年-1957年 結城素明は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 東京で酒屋を営んでいた森田周助の次男として誕生し、10歳のころに親類の結城彦太郎の養嗣子となりました。 覚三の勧めで玉章の画塾に入門して学びつつ、東京美術学校の日本画科にも入学。 いつも墨斗と手帖をもっており、目に留まったものや気になったものは何でも写生したそうです。 川端玉章の代表作 玉章の代表作の一つが『四時 軍花図』と呼ばれる油彩画で、第一回内国勧業博覧会に出品された作品です。 玉章はいくつも油彩画を制作していたといわれていますが、現存する作品は『四時 軍花図』のみです。 また、ほかにも『唐人お吉』という作品は、人物の半身像という珍しいモチーフを描いた作品で、玉章の手がけた作品の中でも異彩を放っています。 年表:川端玉章 西暦 満年齢 できごと 1842年4月18日 0歳 京都高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれる。 1853年 11歳 三井家で丁稚奉公に出て、三井高喜や三井高弘らに絵の才能を認められ、中島来章に入門。 1867年 25歳 江戸に移住する。 1872年 30歳 高橋由一に油絵を学び、三井家の依頼で三囲神社に『狐の嫁入り』扁額を描く。 1877年 35歳 第一回内国勧業博覧会で褒状を受ける。 1878年 36歳 画塾「天真堂」を創設。 1879年 37歳 龍池会設立に関与。 1881年 39歳 深川に画塾「天眞舎」を開く。 1882年 40歳 第一回内国絵画共進会で銅賞を受賞。 1884年 42歳 第二回内国絵画共進会で再び銅賞を受賞。 1890年 48歳 東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、主に写生を担当。 1891年 49歳 日本青年絵画協会設立を援助。事務所を自邸に置く。 1896年 54歳 帝室技芸員に任命される。 1897年 55歳 古社寺保存会委員に任命される。 1898年 56歳 日本美術院会員に選出され、文展開設以来の審査員を務める。 1909年 67歳 小石川下富坂町に川端画学校を開設。 1913年2月14日 70歳 中風のため死去。東京都港区高輪2丁目と、東京芸術大学中庭に顕彰碑が建てられる。
2024.12.27
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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)画家[オランダ]
ポスト印象派の画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」とは 生没年:1853年-1890年 フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ出身のポスト印象派の画家です。 代表作として知られている作品の多くは、1886年以降、フランスに住んでいた時代の中でも、特にアルル時代と呼ばれる1888年から1889年、サン=レミで療養していた1889年から1890年に描かれました。 ゴッホが描く作品は、フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響をおよぼしています。 幼いころからドローイングの才能があった ゴッホは、カトリック教徒の多いオランダの南部にある北ブラバント州のフロート=ズンデルトと呼ばれる村で生まれました。 父のテオドルス・ファン・ゴッホは、オランダ改革派の牧師で、母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスは、ハーグの裕福な家庭に生まれた子でした。 ゴッホは、真面目で思いやりのある子どもで、幼いころから母親と家庭教師に育てられ、1864年からは、ゼーフェンベルゲンにある寄宿学校で学び始めますが、ゴッホはホームシックにかかってしまいます。 1866年からは、ティルブルフの中学校に進学しますが、ゴッホはなじめず楽しい学校生活を送れなかったそうです。 しかし、芸術への関心は幼いころからあり、ドローイングの才能を母親から褒められ続けていました。 ゴッホは中学在学中からドローイングや水彩画を描いていましたが、美術の授業でもゴッホの憂鬱とした気持ちは晴れず、1868年、ゴッホは学校から突然帰宅することもあったそうです。 その後、16歳になると叔父のセントにハーグの美術商会社グーピル商会の仕事を紹介され、4年ほど画商として楽しく過ごしました。 失恋により孤独感が増していく 1873年、ゴッホはロンドン支店への転勤が決定します。 下宿先の娘であるユルシュラ・ロワイエに恋をして、告白しますが振られてしまい、ゴッホは大変気分を落とし、孤独感を募らせていき、このときから宗教へ傾倒していくようになりました。 1875年にロンドンからパリへ転勤するも、商売を軸にしたアートビジネスをメインにしているグーピル商会のやり方に不満をもっており、1876年に解雇の通告を受け、4月に退社しました。 ゴッホは、より宗教に没頭するようになり、牧師になるために神学者の叔父であるヨハネス・ストリッケルのもとへ預けられます。 しかし、牧師になるための学校の入学試験に失敗してしまい、挫折してしまいました。 1880年ごろからは、弟のテオから生活資金の援助を受けながら、鉱夫として働き始めます。 このころからゴッホは、周りにいる人物や景色に興味を抱くようになり、また芸術を軸に生活してみては、とテオからアドバイスを受け、ドローイングを描き始め画家としての活動を本格的にスタートさせていきました。 自宅に戻り田園風景のドローイングを始める 1881年、経済的に苦しい生活をしていたゴッホは、エッテンの実家に戻り、近くの田園風景や農夫など、身近なものをモチーフにドローイングを始めました。 ある日、ゴッホの父が招いた未亡人のケー・フォス・ストリッケルに、ゴッホは恋をします。 7歳年上で、8歳になる息子がいる彼女に対してゴッホは求婚しますが、断られてしまいます。 その後、義理のいとこで画家として活躍しているアントン・モーヴから、数か月後にエッテンへ戻り、木炭やパステルで絵を描くようアドバイスをもらい実行しました。 しかし、ケーのことを諦めきれなかったゴッホは、一度アムステルダムへ向かい面会を試みましたが、断られてしまいます。 その後、ゴッホはモーヴから油絵や水彩画を学び、アトリエを借りるための資金まで用意してもらい、さまざまな援助を受けますが、石膏のデッサンにて美術的観点での意見の違いが生まれるようになっていきました。 アルコール依存症の娼婦シーンとの同棲 モーヴがゴッホと距離をおくようになった理由の一つに、ゴッホが娼婦クラシーナ・マリア・ホールニクと同棲し始めたことがあります。 クラシーナには5歳の娘がいて妊娠もしていますが、アルコール依存症であり、のちに生まれた男の子も含め、ゴッホは一緒に暮らすようになりました。 ゴッホの父はその状況を知ると、クラシーナと縁を切るよう迫りますが、ゴッホは抵抗します。 しかし、ゴッホは自分が売れない画家として貧しい生活を続けていると、クラシーナに再び売春の仕事をさせてしまうことになるのではないかと思い始めました。 同棲生活は喧嘩の連続で、ゴッホは家族との生活という環境に幸福を感じられず、家庭と芸術的発展は、共存できないと思うようになったそうです。 その後、1883年にゴッホとクラシーナ一家は別れ、クラシーナ自身は1904年にスヘルデ川で入水自殺してしまいました。 本格的に絵画制作をスタートさせる ゴッホは、1885年からの約2年間のニューネン滞在で、大変多くのドローイングや水彩画、約200点にもおよぶ油絵を描いています。 当時のゴッホのパレットには、暗い色彩が多く、特に濃い茶色をメインに構成されており、ゴッホの代表作にみられるような鮮やかな色彩はまだみられませんでした。 サイズの大きい絵の制作にも取り組んでいますが、ほとんどの絵を破棄してしまっており、『ジャガイモを食べる人々』と関連作品がわずかに現存するのみです。 当時描かれたゴッホの作品は、まったく売れず悩んでおり、テオは流行りの印象主義のように明るい色彩ではなく、暗めの色合いが原因ではないかと分析していました。 その後、ハーグの画廊に初めてゴッホの作品が飾られますが、展示された農夫のポートレイト絵画のモデルになった女性が妊娠したのは、ゴッホのせいであるとモデルの女性から非難される事件が発生し、村の教会は村人に対してゴッホの絵のモデルにはならないよう注意喚起が行われました。 貧しい生活を送りながら絵画を描く 1885年にアントウェルペンへ移り住んだゴッホの生活は大変貧しいもので、テオから援助される資金のみが頼りでした。 ゴッホは貧乏生活を極めており、パン、コーヒー、タバコまでも節約するようになり、1886年にゴッホからテオへ送られた手紙の中に、前年は5月以降、6回しか暖かい食事をしていないと書かれていました。 ゴッホは、アントウェルペンで色彩理論の研究に努め、多くの時間を美術館で過ごすようになります。 バロック美術を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスの研究を進め、結果的にコバルトブルー、エメラルドグリーン、カルミンなどの鮮やかな色彩がパレットに並ぶようになりました。 また、このころから日本の浮世絵にも影響を受け始め、さまざまな日本美術をコレクションするように。 のちの作品では、背景に浮世絵の影響を受けたであろう絵が描かれているものもあります。 後期印象派とジャポニズム 1886年、ゴッホはパリに移り住み、モンマルトル周辺のアパートでテオと共同生活を始めるとともに、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びなおします。 アントウェルペンにて日本美術に興味をもち始めてからは、数百枚もの浮世絵を収集しており、アトリエの壁に飾っていたそうです。 パリにいる間、ゴッホは印象派の画家たちとも交流を深めていき、テオはモンマルトル大通りに自分の画廊を持っており、新しい印象派の作品を扱っていました。 ゴッホは、シャルル・ラヴァルの色彩に関する論文にも興味をもち、補色を活用して作品を描くようになっていきました。 1886年末ごろ、ゴッホとテオは衝突し、ゴッホはアニエールに移り住み、セーヌ川や公園、レストランなどの風景画を描きます。 1888年、パリの生活に疲れ果てたゴッホは、休養をかねてアルルへ移ることになりました。 アルルの黄色い家とゴーギャン ゴッホは、アルコール依存症やニコチン中毒の症状を和らげるために、アルルへ移り、グリッドを使用した遠近法を用いた風景画を制作しました。 その後、黄色い家と呼ばれるアトリエを借り、芸術コロニーの拠点としての活用を予定していましたが、数か月未完成のまま無人であったそうです。 ゴッホは、黄色い家でさまざまな作品を描いており、その中には代表作の『ひまわり』、『夜のカフェ』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』などもあります。 黄色い家の当初の活動計画を聞いたゴーギャンは、ゴッホの意志に賛同し、共同生活を始めました。 2人は、共同作品もいくつか制作しており、美術館で一緒に絵画鑑賞もしていました。 しかし、共同生活から2か月ほどが経ったころ、2人の関係は次第に悪くなっていき、口論もするようになり、ゴッホはゴーギャンに見捨てられるのではと、大きな不安を抱えるようになっていきます。 精神的に不安定な状況が続く 精神的に不安定な状況が続いていたゴッホは、精神病院に入院し、2つの部屋を用意されると一つをアトリエとして利用し、絵を描いていきました。 絵のモチーフは、病院そのものや窓から見える景色で、この時代の代表作としては『星月夜』が有名です。 精神病院では、短時間のみスタッフの監視下においての散歩が許可されており、散歩で見かけた糸杉やオリーブの木が、絵のモチーフになったといわれています。 ゴッホの最期とその後 1890年、ゴッホがパリを訪れると、多くの友人がゴッホのもとを訪ねてきました。 7月ごろ、ゴッホはテオに手紙を書き、その中で『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』の3点の大作を仕上げたことを伝えています。 7月27日、ゴッホは自らリボルバーで胸を撃ち、37歳の若さで亡くなったといわれています。 自殺した場所は、ゴッホが絵のモデルにしていた麦畑もしくは地元の納屋であったそうです。 ゴッホは、疾患や性質については諸説ありますが、躁状態と鬱状態を繰り返す双極性障害であったのではといわれています。 ほかにも、うつ病やてんかんなどの症状もみられており、貧しい生活による栄養不足や過労、不眠、アルコールなどにより、病状が悪化したと考えられています。 ゴッホを献身的に支えた弟テオ ゴッホには弟のテオがおり、長い間貧しい暮らしをしていたゴッホの生活をサポートし続けていました。 しかし、精神状態が常に不安定だったゴッホは、いつまでも弟に迷惑をかけていることを申し訳なく感じ、自殺未遂を図るのでした。 テオはすぐにゴッホのもとを訪れますが、自殺未遂の2日後、ゴッホはテオの腕に抱かれ亡くなります。 兄のゴッホが亡くなったあと、テオも精神を病んでしまい兄を追いかけるようにして半年後に他界しました。 ゴッホは自分の耳を切断した? ある日、ゴッホは自分の耳を切断する大事件を起こしました。 ゴーギャンによると、事件当時ゴッホは、ゴーギャンが身の危険を感じるほど危ない振る舞いをしており、ゴーギャンは共同生活に嫌気がさしていたのもあり、黄色い家を出ていくような素振りをみせていました。 ゴッホは、ゴーギャンが自分のもとを離れていこうとしているのに気づき、慌てて剃刀をもって追いかけてきたそうです。 ゴーギャンは身の危険を感じ、黄色い家には戻らずホテルに宿泊します。 ゴーギャンを追いかけていたゴッホは、黄色い家に戻ると突然幻聴に襲われて、自分の左耳を切り落としてしまったそうです。 意識不明で倒れているゴッホは、警察官によって発見されますが、病院への搬送が遅れてしまったために、切断した耳の接合は叶いませんでした。 ジャンルに分けられないゴッホの絵 ゴッホは、一般的に後期印象派に分類されていますが、作品はオリジナリティが強く、はっきりとはジャンルに分けられません。 後期印象派に近いとはいえ、ゴーギャン作品のようなフォービズムの雰囲気も持ち合わせており、セザンヌに代表するキュビズム的視点もあり、さらにはスーラの点描も感じられるなど、さまざまなジャンルのスタイルが混ざりあっているのが特徴といえます。 年表:フィンセント・ファン・ゴッホ 年号 満年齢 できごと 1853年3月30日 0 オランダ南部ズンデルトにて誕生。父はオランダ改革派の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ、母はアンナ・コルネリア・カルベントゥス。 1861年 8 家庭教師の指導を受けるようになる。 1864年 11 10月、ゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学。絵画に興味を持ち始める。 1866年 13 ティルブルフの国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学し、コンスタント=コルネーリス・ハイスマンスの指導を受ける。 1868年 15 学校を中退し、家に帰る。以降、家庭で学ぶ。 1869年 16 7月、画商グーピル商会のハーグ支店に店員として勤め始める。 1873年 20 グーピル商会のロンドン支店に異動。ここで、イギリス文化と宗教に深く触れる。 1875年 22 グーピル商会のパリ支店に転勤するが、次第に商業的な仕事に嫌気がさし、信仰の道へ進むことを考える。 1876年 23 グーピル商会を退職し、イギリスで教師や牧師補助として働く。聖職者を志すようになる。 1877年 24 アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが、試験に失敗し、学業を断念する。 1878年 25 ベルギーのボリナージュ地方で伝道活動を行い、貧しい鉱山労働者たちに心を寄せる。 1880年 27 画家を志すことを決意し、ブリュッセルで美術の勉強を始める。 1881年 28 オランダのエッテンに移り住み、絵を描き始める。 1882年 29 ハーグに移り、絵画の制作を続ける。 1883年 30 ニューネンに移住し、農民や田園風景を描くようになる。『ジャガイモを食べる人々』を制作。 1885年 32 父が亡くなり、ニューネンを離れる。アントウェルペンに移住し、美術学校に通いながら、さらに自分のスタイルを追求する。 1886年 33 弟テオを頼ってパリに移住し、印象派や新印象派の影響を受ける。日本の浮世絵にも興味を持ち、収集を始める。 1888年 35 南フランスのアルルに移住し、『ひまわり』『夜のカフェテラス』など多くの名作を生み出す。ポール・ゴーギャンとの共同生活が始まるが、12月に「耳切り事件」を起こし、関係が破綻する。 1889年 36 アルル近郊のサン=レミにある療養所に入所し、『星月夜』を含む数々の作品を制作。 1890年 37 5月、療養所を退所し、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移住。7月27日、自らを撃ち、7月29日に死去。
2024.12.26
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イサム・ノグチ(1904年-1988年)彫刻家・アーティスト[アメリカ]
20世紀が生んだ偉大な彫刻家「イサム・ノグチ」とは 生没年:1904年-1988年 イサム・ノグチは、日系アメリカ人アーティストで、彫刻や造園、インテリアデザイナー、舞台芸術などさまざまな分野で活躍した人物です。 特に彫刻作品への探求心が強く、社会における彫刻の役割は何かを常に考え、その在り方を追い求め続けました。 イサムが制作した作品は、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館やニューヨークのイサム・ノグチ美術館などをはじめ、世界中で所蔵されています。 また、イサムは、彫刻を身近な存在として扱っており、作品を間近で体感したり触れたりできるアートスポットも、国内外に多く存在しています。 晩年は、石彫に情熱を注ぎ、周囲の環境と調和した自然彫刻を制作していました。 アメリカで生まれ日本で孤独を味わう イサム・ノグチは、アメリカのロサンゼルスにて、詩人の野口米次郎とアイルランド系アメリカ人で作家のレオニー・ギルモアの間に誕生しました。 父の米次郎は、18歳のときに渡米して放浪生活を送った後、大学で講師を務めていた詩人を目指すレオニーと知り合い、交流を深めていきます。 21歳のとき、英語で書いた詩文をアメリカの文壇で発表すると、高い評価を受けて詩人として注目を集めるようになり、25歳という若さでニューヨークにおいて一躍有名になりました。 アメリカとイギリスで高い評価を受けた米次郎は、その後日本に帰国します。 しかし、このときすでにレオニーは、米次郎との子・イサムを身ごもっており、父が不在のままアメリカで出産しました。 イサムが3歳になると、レオニーは日本にいる米次郎に会うために2人で日本を訪れますが、すでに米次郎は日本人女性と結婚していました。 レオニーは、イサムとともに正妻のいる家に居候しますが、イサムと住むための家を神奈川県の茅ケ崎に建てて、3か月ほどで米次郎のもとを去ります。 その後、米次郎はレオニーとイサムに会いにくることはなかったそうです。 イサムは、日本の小学校に入学しますが、日本人とアメリカ人のハーフであることで好奇のまなざしを向けられ、いじめを受けることもあったといいます。 イサムは、父との確執や、ハーフであるゆえに日本とアメリカどちらにも帰属できない孤独感を抱え幼少期を過ごしました。 医師と彫刻の勉強を並行する イサムは、13歳になると全寮制学校へ進学するために単身渡米しました。 入学した学校は、わずか1か月で閉鎖されてしまいますが、イサムはその学校で「木彫りの天才少年」と呼ばれていたそうです。 その後、エドワード・ラムリーが保護者代わりとなり支援を行い、無事に高校を卒業します。 コロンビア大学へ進学し医師を目指す一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間クラスに通い、彫刻家オノリオ・ ルオットロから彫刻を学びました。 彫刻の才能を開花させたイサムは、入学から3か月で個展を開催し、彫刻家としてのキャリアをスタートさせたのでした。 世界各地を旅して得た経験を作品に投影 彫刻家として活動を始めたイサムは、20代でパリへ留学し、彫刻の巨匠と呼ばれるブランクーシと出会い、その後の制作活動に大きな影響をおよぼしました。 その後、日本や中国、イタリアなど世界各地を旅して周り、さまざまな国々で得た体験や技術を自身の作品に反映していきました。 また、第二次世界大戦後の日本において、庭園や伝統技術を見て触れたことは、庭園作品やAKARIシリーズ誕生のきっかけになったといえるでしょう。 イサムは、繊細かつ大胆であり、伝統的な芸術とモダンを融合させた独自の世界観で作品を制作し、唯一無二のアーティストとなりました。 その後も活躍の場を広げ、1982年には芸術へ生涯にわたって貢献した人物へ贈られるエドワード・マクダウェルメダルを受賞しています。 1986年には、日本にて京都芸術賞を、1987年には、アメリカにて国民芸術勲章を、1988年には、再び日本政府から瑞宝章を授かるなど、数多くの賞を受賞しました。 石の声を聞き、心をみる 晩年は、石彫へと制作意欲が回帰していき、安息の地として選んだ香川県の牟礼町では、生涯右腕として活躍する和泉正敏と出会います。 イサムは「石を割る行為は愛と暴力どちらの意味も備えており、また侵入でもある」と語っており、和泉は「山神である石の命をいただく行為」と考えていました。 同じ価値観を共有した2人は、のちにイサム・ノグチ庭園美術館となる場所にて、石彫に没頭していきます。 古代から現代までにいたる東西の彫刻は、石を彫り進めて自分の表現したい形に近づけていくことが一般的でした。 しかし、イサムは自分の主張を石で表現するのではなく、自然石の声を聞き彫り進めていくスタイルを貫いていました。 石本来が持つ要素や性質を活かそうとするイサムの姿勢が作品に反映され、人々を惹きつける唯一無二の作品が生み出されていったといえるでしょう。 イサム・ノグチの代表作 イサムのアトリエは、アメリカのニューヨークと、香川県の牟礼町の2か所にあり、日本でも数多くの名作を残しています。 また、間近に見て触れられるスポットもあるため、イサムの作品を自分の目で見たい方は、各地にあるアートスポットを訪れてみてはいかがでしょうか。 『モエレ沼公園』 札幌市にある観光名所としても有名な『モエレ沼公園』は、イサムが基本設計を手がけたとして有名です。 公園のシンボルであるガラスのピラミッドや、海辺をテーマにしたモエレビーチ、札幌市内を見渡せて夜景がきれいなモエレ山、カラフルな遊具で子どもたちから人気のサクラの森など、見どころが満載です。 子どもも大人も楽しめる公園全体が、イサムの大地の彫刻になっています。 『ブラック・スライド・マントラ』 『ブラック・スライド・マントラ』は、札幌市の大通公園に設置されているすべり台であり、彫刻作品です。 伸びやかな美しいフォルムが印象的で、真っ黒なその姿は圧倒的な存在感があります。 真っ白な雪で覆われる冬景色や、夏場の新緑など、季節に合わせて溶け込むよう、調和が意識された作品です。 イサムは「このすべり台で遊ぶ子どもたちの尻が作品を完成させる」と語っており、普段は子どもがのびのびと楽しめる憩いの場となっています。 『AKARI』シリーズ 『AKARI』シリーズは、岐阜提灯をモチーフにデザインされたランプで、35年にわたって200種類以上も制作しています。 イサムは、この作品を単なる提灯ではなく「光の彫刻」であると考えており、和紙がもたらす柔らかい光や優れたデザイン性は、和洋さまざまなインテリアになじみ、自然に調和します。 年表:イサム・ノグチ 西暦 満年齢 できごと 1904年11月17日 0歳 ロサンゼルスで日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家レオニー・ギルモアの間に生まれる。 1907年 3歳 母レオニーと共に来日、父米次郎と同居、森村学園付属幼稚園に通園。 1918年 13歳 アメリカへ単身渡航、インターラーケン校に入学。後にラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業。 1923年 18歳 コロンビア大学(医学部準備過程)に入学し、同時にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間彫刻クラスに通う。 1925年 20歳 日本人舞踏家伊藤道郎の仮面を制作し、初の演劇関連のデザインを手がける。 1927年 22歳 グッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事。 1930年 25歳 日本に渡航、京都・奈良などを周遊し、陶芸を学ぶ。 1947年 42歳 ジョージ・ネルソンの依頼で『ノグチ・テーブル』をデザイン・制作。 1950年 45歳 再来日し銀座三越で個展を開き、丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。 1951年 46歳 山口淑子と結婚(1956年に離婚)。広島平和記念公園のモニュメントのデザインが選ばれるが、後に選考から外れる。 1961年 56歳 ニューヨーク州のロング・アイランド・シティにアトリエを構え、IBM本部に庭園を設計。 1968年 63歳 ホイットニー美術館で大々的な回顧展を開催。 1984年 79歳 ロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。 1986年 81歳 ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出。日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞。 1987年 82歳 アメリカにて国民芸術勲章を受章する。 1988年12月30日 84歳 勲三等瑞宝章を受勲。心不全によりニューヨーク大学病院で逝去。
2024.12.26
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ロイ・リキテンスタイン(1923年-1997年)アーティスト[アメリカ]
アメコミ風ポップアートで活躍した「ロイ・リキテンスタイン」とは 生没年:1923年-1997年 ロイ・リキテンスタインとは、 アンディ・ウォーホルらとともにアメリカのポップアートをけん引したアーティストです。 パロディによりコミカルに皮肉を含ませたポップアートを多く制作しており、インスピレーションの原点は、新聞に描かれている大衆漫画といわれています。 また、オリジナルではなく、既存の漫画作品の1コマをキャンバスに拡大し、独自の配色によって制作するのも一つの特徴です。 少年時代はジャズにも熱中していた リキテンスタインは、ニューヨークにて不動産の仕事をしている父と 専業主婦の母の間に生まれました。 ニューヨークのアッパーウエストサイドで育ち、12歳までパブリックスクールに通い、神学校のドワイトスクールに進学します。 学校を通じて美術やデザインに関心をもつようになったそうです。 また、母がピアノを弾いていた影響からか、リキテンスタインは音楽にも興味をもっており、特にジャズに熱中し、ハーレムのアポロ・シアターで開催されるコンサートをよく見に行っていたそうです。 そこで、楽器を演奏するミュージシャンの姿を描くのも趣味の一つでした。 1939年、高校を卒業する前には、ニューヨークのアート・スチューデント・リーグの夏期講習を受け、パリ生まれのアメリカ人画家レジナルド・マーシュに絵の指導を受けています。 オハイオ州立大学で絵を学ぶ 1940年、リキテンスタインはニューヨークを離れ、オハイオ州立大学に入学し、スタジオコースにて美術を学び、学位を取得します。 しかし、第二次世界大戦の影響を受けて、1943年から1946年まで陸軍に入隊し、軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたりました。 危篤状態であった父を見舞うために一時的に帰国したリキテンスタインは、G.I.ビルの資格を取得して陸軍を除隊します。 その後、オハイオ州立大学の大学院に通い、のちにリキテンスタインの作品に大きな影響を与えたといわれている師匠ホイト・L・シャーマン教授のもとで美術を学びます。 リキテンスタインは、三次元空間で捉えたものを二次元に置き換えることを学び、1949年には芸術額の修士号を取得しました。 なお、リキテンスタインはのちに、OSUに出資して設立したスタジオに「ホイト・L・シャーマン・スタジオ・アート・センター」という名称をつけています。 抽象表現主義作品の個展を開催する 1951年、リキテンスタインは、自身初の個展をニューヨークのカール・バック画廊 にて開催しました。 当時は、大学講師や製図工などの仕事で生活をしながら、注目度の高かったキュビズムや抽象表現主義スタイルの作品を制作していました。 同年、オハイオ州のクリーブランドに移り住み、6年間ほど暮らしますが、その間もニューヨークには頻繁に戻っていたそうです。 1954年には、妻イザベル・ウィルソンとの間に、 現在ソングライターとして活躍する長男のデビッドが生まれ、1956年には次男のミッチェルが誕生します。 1957年、ニューヨークに戻ると再び講師として働き始め、1958年にはニューヨーク州立大学オスウィーゴ校の講師となりました。 このころから、抽象表現主義スタイルの中に、ミッキーマウスやバッグス・バニーなど漫画のキャラクターのイメージを取り入れ、作品を制作するようになっていきました。 プロト・ポップ・アートへ関心を寄せる 1960年からは、ニュージャージー州のラトガース大学で講師を務め、同じく講師として働いていたアラン・カプローのスタイルに強い影響を受けるようになっていきました。 カプローは、一般人を巻き込んだゲリラ的なパフォーマンススタイルを生み出したアーティストで、彼の影響によりリキテンスタインは、ポップアートに関心を寄せるように。 1961年、カートゥーンのイメージと商業印刷から得た技術を活用して、ポップ・ペインティングの制作を開始しました。 また、息子がミッキーマウスの本を指さし、「パパはきっとあれほどうまくは描けないよ」と言ったことをきっかけに『Look Mickey』という作品を制作しました。 このころから見られる輪郭線のはっきりしたキャラクター表現が、のちのリキテンスタイン作品の個性となっていくのです。 1962年には、ニューヨークの美術商レオ・カステリのギャラリーにて個展を開催しますが、出品した作品は、展覧会が始まる前にすべて有力なコレクターが買い占め、世間から注目を集めました。 このころからのリキテンスタイン作品は、戦争や恋愛をテーマにした漫画に触発されたものが多く、強い感情を題材に強い興味をもっていたと語っています。 彫刻や映画も制作し多彩な才能を発揮する 1964年ごろからは、彫刻作品にも強い興味をもち始め、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作しています。 また、1969年にはアッパー・ウエストサイドにあるグッゲンハイム美術館にてリキテンスタインの回顧展が開かれました。 1970年になると、ロサンゼルス・カウンティ美術館からの依頼を受けて映画制作を手がけます。 1972年から1980年の初めごろにかけては、モチーフに漫画だけではなく、果物や花瓶、花などの伝統的なものも採用するようになり、多彩なジャンルかつテーマの拡大に挑戦していたとわかるでしょう。 画家・彫刻家として国民芸術勲章を授章する 1995年、リキテンスタインは、画家・彫刻家として国民芸術勲章を受賞しました。 また同年、日本でも人気の高かったリキテンスタインは、京都賞の思想・芸術部門を受賞しています。 1997年、リキテンスタインは、肺炎による合併症によりニューヨーク大学医療センターで息を引き取りました。 73歳で亡くなるまで、熱心に制作を行っていたリキテンスタインの作品は、現在でも高い人気を誇っており、世界中の美術館にもその作品が所蔵されています。 史上最悪のアーティストと批判されることも 多くの人々の視線を集め人気を博していたリキテンスタインですが、過去には史上最悪のアーティストと批判されたこともあります。 1961年、リキテンスタインの作品は、美術商レオ・カステッリの目に留まり、注目の新人として世間に紹介されるようになりました。 1964年、アメリカの人気雑誌『ライフ』は、注目されていたリキテンスタインを取り上げ、アメリカ史上最悪のアーティストだと長い批評を掲載したのです。 しかし、リキテンスタインは褒められたりけなされたりすることにいちいち動じることなく、黙々と自分のアートを表現することに集中していました。 結果的には、人気雑誌に名前が掲載されたことでさらに注目が集まり、存在や人気を押し上げていったのでした。 戦争と暴力性に訴えかける作品 リキテンスタインの作品には、ミッキーマウスやヒーローキャラクター、典型的な金髪美女などがよく登場しており、第二次世界大戦参加の経験により戦闘シーンや戦車などが登場することも。 『takka takka』には、マシンガンが描かれており、言葉の暴力や攻撃性などが作品に表現されています。 原色を用いてカラフルかつコミカルな見た目でありながら、作品内に表現されたアクションにより鑑賞するものを攻撃しているともとれるでしょう。 リキテンスタインは、コミカルで一般大衆にも受け入れられやすいポップアートと擬音語を通して、戦争といったリアルな争いや言葉の暴力に訴えかけていたアーティストといえます。 ロイ・リキテンスタインが制作する作品の特徴 リキテンスタインは、漫画のコマを大きく拡大したようなスタイルが特徴的なポップアーティストです。 リキテンスタイン作品の特徴を知ることで、より作品の鑑賞が楽しくなるでしょう。 漫画風のアート ポップアートのテーマは、一般的に大量生産や大量消費社会、大衆文化などから取り入れられます。 リキテンスタインは、量産される新聞から漫画をモチーフにポップアートを制作しました。 息子にミッキーマウスの絵を描いてあげたときに、これまでの芸術としての絵画よりも漫画のほうが強いインパクトや表現力をもっているのではと気づいたリキテンスタインは、漫画の1コマを拡大したような作品を次々に制作するようになりました。 余白のドット リキテンスタインは、グレイスケールやカラー画像を、色数を限定して小さな点のパターンで表現する手法を作品に取り入れていました。 ドットの大きさや密度により陰影を表現しているのが特徴です。 遠目からは、塗りつぶされているように見えますが、近くで見るといくつものドットが密集していることに気づきます。 インパクトのある輪郭線と三原色 リキテンスタインの作品に登場する人物やモチーフは、太い輪郭線で囲まれており、原則として三原色を用いた油彩で表現されているのが特徴です。 白と黒のモノクロと、赤・青・黄の三原色と、限られた色彩により描かれていますが、シンプルでありながらも原色の色合いによって強烈なインパクトを与えてくれます。 また、後期には三原色以外の色彩も用いるようになり、表現の幅が広がっています。 平面を強調した表現 漫画のように平面を強調した画面構成も特徴の一つで、リキテンスタインは、モネやピカソなどの名画をオマージュして、平面的に描いたり、油彩で絵の具を分厚く塗って立体的にする筆触の手法で描かれた作品も平面で表現したりしています。 ロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル リキテンスタインとアンディ・ウォーホルは、どちらも1960年代当時のニューヨークで全盛期を迎えていたポップアートを代表するアーティストです。 同時期に活躍していた2人は、お互いに意識しあっていたといいますが、中でもリキテンスタインの作品は、ウォーホルのスタイルにも影響を与えたといわれています。 ウォーホルは、32歳のころ『スーパーマン』や『バットマン』などのアメリカンコミックをモチーフにした作品を手がけていましたが、リキテンスタインの制作したアメコミ風作品の完成度の高さを目の当たりにして、漫画をテーマにした作品制作から手を引いたといわれているのです。 リキテンスタインの色のない部分を細かなドットで表現するアイティアを自分では思いつけなかったと、ウォーホルは悔しさをあらわにしたといいます。 その後、ウォーホルは、お互いの競争を避け、漫画風の作品制作は行わず、シルクスクリーン作品の『 キャンベルのスープ缶』をきっかけに、世界で注目されるポップアーティストに登り詰めていくのでした。 年表:ロイ・リキテンスタイン 西暦 満年齢 できごと 1923年10月27日 0歳 ニューヨークで生まれる。父は不動産勤務、母は専業主婦であった。 1940年 17歳 ニューヨークを離れ、オハイオ州立大学美術学部に入学。 1943年~1946年 20歳~23歳 第二次世界大戦のため兵役に就く。軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたる。 1949年 26歳 オハイオ州立大学で美術の修士号を取得。大学に残り、1951年まで講師を務める。同僚であったイザベル・ウィルソンと結婚する。 1951年 28歳 ニューヨークのカール・バック画廊で初の個展を開催。 1954年 31歳 長男のデビットが生まれる。 1956年 33歳 次男のミッチェルが生まれる。 1960年 37歳 漫画のコマを拡大したポップアート作品を発表し、注目を集める。 1961年 38歳 『Look Mickey』を制作。 1964年 41歳 彫刻作品に関心を持ち、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作。 1965年 42歳 離婚する。 1969年 46歳 グッゲンハイム美術館で、回顧展が開催される。 1995年 72歳 京都賞思想・芸術部門(美術分野)を受賞。 1997年9月29日 73歳 肺炎による合併症で亡くなる。
2024.12.26
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ルイーズ・ブルジョワ(1911年-2010年)彫刻家[フランス]
巨大なクモの彫刻で有名な「ルイーズ・ブルジョワ」とは 生没年:1911年-2010年 ルイーズ・ブルジョワは、フランスのパリ出身でアメリカ合衆国を拠点に活動していたインスタレーションアートの彫刻家です。 ルイーズは、パリの郊外でタペストリーの修理工房を経営する家庭で生まれ育ちました。 パリの名門ソルボンヌ大学で数学を学びますが、芸術の道を志すようになりエコール・デ・ボザールをはじめとした複数の美術学校に通います。 その後、20世紀前半に活動したフランスの画家フェルナン・レジェのアシスタントとなりました。 1938年には、アメリカ人の美術史家であるロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住しました。 ブルジョワの作品には、幼いころのできごとからインスピレーションを受けたフェミニズム・アート作品が多いのも特徴です。 生まれてくることを望まれなかった女の子 ブルジョワは、クリスマスの日に生まれましたが、父からは歓迎されなかったといいます。 当時、父のルイが自宅の階下で家族を集めクリスマスパーティを開催しているとき、ブルジョワは産声をあげましたが、母のジョゼフィーヌは、医師から「残念です」と声をかけられたそうです。 それは、死産となり赤ちゃんが亡くなってしまったからではなく、生まれた子どもが女の子であったからです。 タペストリーの修理工房を経営するルイは、男の子の赤ちゃんを待ちわびていました。 しかし、生まれてきた子どもが女の子であったため失望し、クリスマスの家族団らんの時間に重い空気がのしかかったのでした。 第一次世界大戦の衝撃 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、父は徴兵されてすぐに戦地へ駆り出されました。 念願の長男ピエールが生まれ、家庭が落ち着きを取り戻し始めたころであったため、母は再び別の不安が襲ってきたために、ヒステリーを起こすように。 母と子どもたちは、母が生まれ育った地域に疎開し、戦地からの手紙を毎日確認していました。 戦地からの手紙が1日でも途切れると、母はヒステリーを起こしていたそうです。 また、疎開先は、自宅前の道を挟んだ向かい側には屠殺場があり、屠殺される家畜の断末魔が響き、近くの線路からは、深手を負って血まみれになった兵士たちが生死をさまよううめき声が絶えず聞こえてくる環境でした。 精神的に不安定だった母 母は父に依存しており、父がいない状態では不安定な人でした。 父が戦地から無事に戻ってくると、パリ郊外のアントニーに大きな自宅を建築し、タペストリーの修理工場を再開させました。 そこで母は、25人もの従業員をまとめ、一族経営の工場を取り仕切る優れた女性マネージャーとして活躍します。 これまで精神的に不安定だった母は、自信を取り戻し、父は母を「子を産む女」としてではなく、妻として尊重するようになったのでした。 母によって見出された絵の才能 ブルジョワは幼いころよく絵を描いており、その様子をみた母が、タペストリーのためにスケッチをするよう頼みました。 ブルジョワの存在をよく思っていなかった父を見返すチャンスだと思ったブルジョワは、タペストリーの絵の修復の下書きを行うようになりました。 このときブルジョワは10歳で、工場や依頼人からは、脚のスケッチがすばらしいと高い評判を得ていたそうです。 ブルジョワは、市立学校に通いながらも修理工場でスケッチを手伝い、一家の事業に役立てる存在になりました。 横暴な父により虐げられる 父は、横暴で、家族をコントロールし思うままにすることに喜びを感じていたといいます。 たとえば、食卓は毎日一家全員がそろわないと気が済まず、食事中に勝手に話をすると無言でソーサーを投げつけることも。 また、食事が終わったあとは、家族が一人ずつ歌や詩を強制的に披露させられることもあったそうです。 ブルジョワは、このやりたい放題の父親をよく思っていませんでした。 父に対する憎しみを作品で表現 父の横暴な態度に憎しみをもつものの、賢いブルジョワは決して歯向かわず、しかし、別の方法で憂さ晴らしをしていました。 ブルジョワは、父への憎しみが増したとき、白パンを口でぐちゃぐちゃにしたものを粘土の代わりにして、父をかたどった人形を作り、その手足をナイフで切り落としていったそうです。 のちに、この憂さ晴らしの素材はゴムに変わり、ラテックス、銅、大理石と次第に変化していき、『poupée de pain』という作品に昇華されました。 父と愛人に対する憎悪 ブルジョワが11歳になったころ、英語の教師として18歳の女性サディ・ゴードンが自宅にやってきました。 そして、なんと父は母を寝室のベッドから追いやり、サディを寝室に招き入れたといいます。 ブルジョワと7歳しか違わない少女は、父の愛人として生活するのでした。 母は受け入れていましたが、ブルジョワは男性の身勝手さや世間の風評により傷つき、家庭内には不穏な雰囲気が溢れていたそうです。 名門ソルボンヌに入学すると手のひらを返す父 1929年、ブルジョワはパリの名門ソルボンヌ大学に入学します。 すると、あれだけ自分を嘲笑し蔑んできた父が、手のひらを返したようにブルジョワを尊重するようになったのでした。 父は、ブルジョワが姉や弟よりも能力が高かったことに対して、敬意を払ったといいます。 大学に進学したブルジョワは、父の歓心をさらに買うために数学の研究に没頭しました。 芸術の道を進む決意 大学で数学を研究していたブルジョワでしたが、自分が興味をもって進めているわけではない勉学への情熱は少しずつ冷めていき、それと同時にボヘミアンで開放的な雰囲気をもつアートシーンに興味や憧れを抱くようになっていきました。 そして1932年、ブルジョワは芸術学校の名門であるエコール・デ・ボザールに入学しました。 ブルジョワが美術学校に入学すると同時に、父は一家の役に立たない勉強だとして仕送りを打ち切ります。 ブルジョワはルーブル美術館で働きながら学校に通い、稼いだお金で小さなギャラリーを開きました。 のちに、ギャラリーに訪れたアメリカ人学生のロバート・ゴールドウォーターと結婚し、1938年にパリからアメリカに活動拠点を移しました。 亡き母に捧げたクモの彫刻『ママン』 六本木ヒルズに飾られている大きなクモの彫刻を見たことがある人も多いのではないでしょうか。 この彫刻はブルジョワが制作した『ママン』と呼ばれる作品です。 ママンはフランス語で母を意味しており、ブルジョワが亡き母に向けた愛情をクモの姿で表現したといわれています。 本質に突き刺さるメッセージ性 晩年になってもブルジョワは、制作活動を続けて新作を発表し、生涯現役を貫きました。 ブルジョワにとってアートは言語の一種で、コミュニケーション手段の一つでした。 ブルジョワは、作品を通して「私たちはみな一人ではない。共通の要素をもっている」という安心感や帰属意識を、見る者に伝え続けてきたのです。 表現主義でありフェミニスト芸術家でもある ブルジョワは、感情を大切にする表現主義の芸術家として知られています。 性的なモチーフを取り扱っている作品も多く、背景を知らずに鑑賞した人は、そのインパクトに驚くかもしれません。 西洋美術における写実性や美しさとは、遠く離れた価値観ではありますが、作品には強い感情が込められており、見る者の心を揺さぶります。 また、1982年のニューヨーク近代美術館で開催された回顧展をきっかけに、ブルジョワの作品はジェンダーやフェミニズムの視点からも評価されるようになりました。 ルイーズ・ブルジョワがもつ芸術的感性 ブルジョワは、アートシーンは男性のものであるという感覚があり、男性中心の美術とは距離を置いて、独自の感覚で官能的で触覚的な立体作品を制作するようになったと語っています。 約70年という長い芸術家人生の中で、ブルジョワは絵画やドローイング、彫刻、インスタレーションなど、さまざまなジャンルの芸術を用いて、男性と女性、意識と無意識、受動と能動など、対をなす事象の関係を探求し、作品の中に共存させていきました。 年表:ルイーズ・ブルジョワ 西暦 満年齢 できごと 1911年12月25日 0歳 フランス・パリ郊外で生まれる。 1929年 18歳 ソルボンヌ大学で数学を学ぶが、美術の道を志し、エコール・デ・ボザールなどの美術学校で学ぶ。フェルナン・レジェのアシスタントとなる。 1938年 27歳 アメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住。 1982年 72歳 ニューヨーク近代美術館で個展が開催され、再評価される。 1993年 81歳 ヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ館の展示を担当。 1995年 83歳 ドキュメンタリー映画が制作される。 1999年 87歳 高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門を受賞。 2010年5月31日 98歳 心臓発作のため、マンハッタンで亡くなる。
2024.12.26
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