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モネの描いた”見返り美人図”…浮世絵の影響が垣間見える名作とは
クロード・モネとは、19世紀後半に活躍した印象派を代表するフランスの画家です。 代表作の『印象・日の出』は、印象派と呼ばれる名前の由来ともなっています。 生涯を通して多くの美しい絵画を残したモネは、多くの画家に影響を与えました。 実は、風景画を多く手がけてきたモネは、浮世絵に大きな影響を受けた画家の一人。30代のころに浮世絵収集をしており、231点もの浮世絵コレクション を集めるほど日本美術に高い関心を持っていました。 浮世絵に魅せられていたモネは、『ラ・ジャポネーズ』という作品を残しています。 『ラ・ジャポネーズ』をとおして、モネが浮世絵をはじめとした日本美術にどのような関心を持っていたのか紐解いていきましょう。 モネの描いた『ラ・ジャポネーズ』とジャポニズム 熱心な浮世絵コレクターとしても知られているモネは、ジャポニズムの影響を受けて『ラ・ジャポネーズ』という油彩画を制作しています。 『ラ・ジャポネーズ』は、1876年4月に開催された第2回印象派展に出品され、注目を浴びました。 会場で購入はされませんでしたが、衣装の繊細な表現に対して多くの賛辞が寄せられていたそうです。 なお、『ラ・ジャポネーズ』は、同月に行われた競売で2010フランという高値で落札されています。 モネが『ラ・ジャポネーズ』を制作した当時のフランスでは、ジャポニズムが大流行していました。 ジャポニズムは、19世紀後半にヨーロッパで流行していた日本趣味を指しています。 ヨーロッパで活動する多くの画家が、日本の美術作品に衝撃を受けインスピレーションを得ており、モネもその一人でした。 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムのブームが始まった当初に制作された作品です。この作品では、日本的なモチーフを取り入れるのみにとどめられていますが、のちのモネ作品では、モチーフだけではなく技法も取り入れて制作が行われています。 『見返り美人図』 を彷彿とさせる、モネの『ラ・ジャポネーズ』 とは モネが描いた『ラ・ジャポネーズ』は、日本の着物を着た金髪の女性が描かれた油彩画です。 作品の構図や色彩をよく見てみると、日本の浮世絵師である菱川師宣が描いた『見返り美人図』を彷彿とさせます。 『見返り美人図』を描いた菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれている人物です。 本の挿絵としての役割を担っていた浮世絵版画を一つの作品と捉え、メインで制作することで、浮世絵と呼ばれるジャンルを確立させました。 その菱川師宣が描いた肉筆画が、『見返り美人図』です。 『ラ・ジャポネーズ』は、『見返り美人図』からインスパイアを受けて描かれたと考えられており、フランスと日本のモチーフが混じり合って描かれている点が印象的です。鮮やかな赤の着物には、猛々しい武士の姿が描かれています。 また、背景の壁に貼りつけられている多くの団扇の中には、日本の風景画や浮世絵などが描かれています。 『ラ・ジャポネーズ』はまさしく、フランスで大流行したジャポニズムの影響により生まれた、西洋と東洋の文化が混じり合ったユニークな作品といえるでしょう。 鮮やかな色彩が多くの人の目を引き、印象派の繊細な筆使いで光と影を巧みに表現している点も魅力の一つです。 印象派・モネは有名な浮世絵コレクターだった フランスの印象派を代表する画家クロード・モネは、日本の文化に魅了された海外芸術家の一人でもあります。 特に浮世絵を好んでおり、生涯にわたって浮世絵を収集していました。 ノルマンディー地方のジヴェルニーに、モネが晩年を過ごした家があります。 季節の移り変わりとともに、さまざまな花を咲かせる庭園を持ち、家の中には青と白の陶器で作られたタイルが目を引く台所や、黄色で統一されたダイニングルームなどがある家です。 また、庭にある竹やぶを抜けると池にかかる一つの橋が目に飛び込んできます。 自宅の様子から、モネが日本の文化をこよなく愛していたことが伝わってくるでしょう。 さらに多くの人を驚かせていたのは、自宅内に所狭しと飾られている浮世絵の数々です。 その数は、およそ231点。 モネは、特定の浮世絵だけではなく、さまざまな浮世絵師の作品を集めていました。 『ラ・ジャポネーズ』で描かれた妻・カミーユ 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムの影響を受けたモネによって描かれた作品ですが、絵の中の人物が誰であるか、知らない人も多いでしょう。 実は、『ラ・ジャポネーズ』に描かれている赤い着物を着た女性は、モネの妻カミーユです。 カミーユは本来褐色の髪であるため、この作品では金髪のカツラをかぶせて描いたといわれています。 また、『ラ・ジャポネーズ』には、『緑衣の女』と呼ばれる対になる作品があります。 モデルは『ラ・ジャポネーズ』と同様にカミーユが務めました。なお、『緑衣の女』が描かれた当時、まだモネとカミーユは結婚前でした。 モネは、妻であるカミーユをモデルにした作品を数多く制作しています。 カミーユは、結婚前からモデルを務めており、その中で恋に落ちていったといわれています。 カミーユは、モネとの間に長男のジョンと次男のミシェルの2人の息子を授かりますが、32歳という若さで亡くなりました。モネは、カミーユの死に際を描いた『死の床のカミーユ』という作品を残しています。 有名画家モネの描いた”見返り美人”を観賞しよう モネが描いた絵画は、ジャポニズムの影響を受けている作品も多くあります。 絵画を鑑賞する上で、作品から日本の文化を探してみるのも面白いでしょう。 モネの歴史や日本文化との関係性を知ると、よりいっそう親しみが湧き、これまでとは違った視点で作品を楽しめるのではないでしょうか。
2024.11.22
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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北斎漫画とは?浮世絵師たちがこぞって真似た個性的なイラストたち
活躍した江戸時代から今日まで高い人気を誇っている葛飾北斎。 画号を30回以上変えたり、90回以上引っ越しを繰り返したりするユニークな面も持ち合わせています。浮世絵師としてあまりに有名な北斎ですが、実は漫画も刊行しているのです。 北斎漫画とは 北斎漫画とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎によって描かれた漫画のことです。北斎は、日本のみならず海外からも高い評価を受けている浮世絵師で、多くの海外芸術家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎がどのような人物であるかを知るとともに、北斎漫画にはどのような絵が描かれていたのか見ていきましょう。 北斎漫画の魅力を知れば、より葛飾北斎の偉大さや浮世絵の魅力も深まります。 葛飾北斎とは 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年-1849年 代表作:『冨嶽三十六景』『富嶽百景』 葛飾北斎は、数多くの名作を世に残した有名浮世絵作家です。 北斎は、東京都の墨田区で生まれ、4歳のころに江戸幕府御用達の鏡師である中島伊勢の養子となりました。鏡師とは、神社やお寺に納める青銅鏡を製作する職人です。 北斎は、6歳になるころには、すでに絵を描くことに興味を持っていたといわれています。 12歳のときに家業の鏡師は継がずに、貸本屋で下働きをはじめ、多くの本を読んで絵の技法を独学で学んだそうです。その後、14歳のころに木版彫刻師の弟子となり、木版印刷の技術を習得しました。 しかし、18歳になるころ、自分は木版を彫ることよりも絵を描く方が好きだと再認識し、彫刻師をやめて絵師になると決意します。 その後、勝川春朗や俵屋宗理、葛飾北斎など、さまざまな名を名乗り、浮世絵の制作活動を進めていきました。 北斎は、何度も画号を変えており、その数はなんと30回ともいわれています。 北斎の作品に描かれている画号により、描かれた時代がわかるとともに、絵の特徴の違いを比較してみるのも面白いでしょう。 北斎漫画とは 葛飾北斎が、弟子のために描いた絵手本である北斎漫画には、どのような内容が描かれているのか気になる人も多いでしょう。 北斎漫画は全15編からなり、初編から5編まで、6編から10編まで、11編から15編の3冊で構成されています。 初編の発行は、北斎が55歳になる1814年でした。 初編は、葛飾北斎が弟子の牧墨僊の自宅に滞在して描いた300点の下絵をまとめたものです。 当時を生きる町民や武士、僧侶などの人物や魚、動植物、風景などさまざまなイラストがいきいきと描かれているのが特徴です。 もともとは初編のみの刊行予定でしたが、想像以上に人気を集めたため続編が制作されることになりました。 2編では、初編で掲載できなかった人物や動植物、面白いお面などが描かれています。 3編では相撲絵や雀踊絵が描かれ、4編では戦う男、5編では偉人や建造物が描かれています。 6編は、弓を射る人や鉄砲を撃つ人など、戦う様子を描いており、7編では『冨嶽三十六景』で描かれているような波の絵も。 8編からは表情豊かな町民といったユニークなイラストも描かれ始めました。 この北斎漫画が最後の15編まで刊行されるのを待たずして、北斎は1849年に亡くなっています。 1849年に13編が刊行されているため、14・15編は北斎が亡くなってから刊行されたものです。 北斎漫画はなぜ描かれたのか 絵の才能に長けていた葛飾北斎から絵を学びたい人は、多くいました。 当時、北斎には弟子が200人以上もいたといわれています。 弟子がこれ以上増えてしまうと、直接指導ができなくなってしまうとして、葛飾北斎の絵を学びたい人に向けて北斎漫画が制作されたのでした。 浮世絵師たちが手本としたスケッチ="漫画" 北斎漫画が制作された当時は、芸術作品としてではなく、絵の書き方を習いたい人のために描かれたスケッチや絵手本のような役割を担っていました。 そのため、最初は人物や動植物、風景など、浮世絵でよく題材として扱われるモチーフを描いています。 後半になるにつれて、個性的でユニークなスケッチが増えていきます。 なぜ北斎漫画は尾張(名古屋)の版元から出版されたのか 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張に滞在していたころには、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行っており、人気を集めていました。 葛飾北斎は、1812年ごろ関西方面へ足を運んだといわれており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在しています。そこで、300枚以上のスケッチを描き上げました。このスケッチが、のちに門下の絵手本となる『北斎漫画』の原型です。 名古屋で描かれたため、名古屋の版元である永楽屋東四郎のもとで、初版が刊行されたのでした。 北斎漫画に描かれた絵手本 葛飾北斎が手がけた『北斎漫画』には、さまざまなジャンルのイラストが掲載されています。 また、後半になるにつれて珍しいユニークな絵も増えていくため、その違いを楽しむのも良いでしょう。 珍しい題材としては、お化けや仙人、妖怪なども描かれています。 葛飾北斎は偉大な浮世絵師だった 『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などの名作を生み出した、偉大な浮世絵師である葛飾北斎。 浮世絵師を目指す人からは、尊敬のまなざしで見られ、多くの人が葛飾北斎のもとで絵を学びたいと思ったことでしょう。 『北斎漫画』を出すころには、一人では見きれないほどの弟子を抱えていました。北斎が直接手をかけられなくても、多くの絵師が技術を上げられるよう、指南書となる北斎漫画を発行したのでした。 今では芸術作品としての価値が高い『北斎漫画』。 もとは、弟子たちに向けた絵手本であったことを踏まえて鑑賞してみると、また違った視点で楽しめるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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海外にも浮世絵師がいた?知られざる外国人浮世絵師たち
江戸時代は、1603年から1868年と265年もの長い年月、平和で安泰な時代でした。 長く平和な時代の中で人々は娯楽を求め、その一つとなったのが浮世絵です。 江戸時代初期から後期、そして現代に至るまで人々の娯楽として長く親しまれてきた浮世絵。 日本の伝統的な浮世絵が日本の開国を機に、どのように世界へ影響を与えたのか気になる人も多いでしょう。 また海外では、浮世絵に衝撃を受けた外国人たちが浮世絵師を目指す動きもありました。 日本の浮世絵に魅せられた、外国人浮世絵師たち 19世紀後半、日本の鎖国が終わると日本の芸術品や工芸品は、海を渡りヨーロッパやアメリカの画家たちに大きな衝撃を与えました。 浮世絵をはじめとした日本の美術品に見られる技法は、美術品以外にも建築やインテリアなどのさまざまな分野に影響を与えました。 それまでの西洋美術には見られなかった、自然への慈しみや余白の美しさ、そして非対称な表現などは、その後の西洋美術の画家たちの作風にも表れています。 ヘレン・ハイド 作家名:ヘレン・ハイド 生没年:1868年-1919年 代表作:『母と子』『田圃から』 ヘレン・ハイドは、1868年アメリカ合衆国のカリフォルニア州で生まれた女性版画師です。 ヘレン・ハイドは、1899年に来日し、翌年にはエミール・オルリックより木版の技術を学んでいます。 のちに、幕末から明治時代に活躍した日本画家の狩野友信から日本画の技術を学び、浮世絵師となりました。 ヘレン・ハイドは、日本の風景や日常生活を題材にした作品を制作し、その繊細かつ精巧な技術により注目を集めました。 中でも、当時の日本風俗を西欧人女性の視点から描いた『母と子』は、多くの日本人女性の共感を呼び、高い評価を得ています。 エミール・オルリック 作家名:エミール・オルリック 生没年:1870年-1932年 代表作:『日本の摺師』『日本の絵師』 エミール・オルリックは、1870年オーストリア生まれの版画家です。 幼いころから絵の才能を発揮し、私立絵画学校やミュンヘン美術院で美術や歴史画を学びました。 在学中に日本の浮世絵に強い影響を受け、エッチングやリトグラフなどの版画制作も学んでいます。 世界各地を旅しながら新しい技法を次々に学んでいき、一つのスタイルやジャンルにとらわれることなく、絵画作品を制作していました。 版画家としては、風景画や肖像画などさまざまな作品を制作しており、特に人物画において高い評価を得ています。 なお、エミール・オルリックは、狩野友信から日本画の筆法を学んでおり、その技法をヘレン・ハイドに教えています。 フリッツ・カペラリ 作家名:フリッツ・カペラリ 生没年:1884年-1950年 代表作:『柘榴に白鳥』『濠端の松』 フリッツ・カペラリは、1884年オーストリア生まれの版画家です。 第一次世界大戦の影響により、帰国できず日本に滞在していたフリッツ・カペラリは、1914年に在日オーストリア・ハンガリー大使館で、日本の風景をモチーフにした絵画の個展を開催しています。 1915年、新しい絵を描くための参考資料として複製の浮世絵を探しているとき、京橋にあった渡辺版画店で、版元の渡辺庄三郎と出会いました。 フリッツ・カペラリは、渡邊庄三郎にすすめられ、木版画の制作を始めたといわれています。 また、渡邊庄三郎と協力し、西洋の技法と日本の伝統的な技法を融合させた「新版画」を確立させました。 フリッツ・カペラリの作品は、日本の風景や美人画、花鳥画などが中心です。 葛飾北斎や鈴木春信、伊藤若冲などの影響があったことが作品を通して感じ取れます。 エリザベス・キース 作家名:エリザベス・キース 生没年:1887年-1956年 代表作:『朝鮮の人』『寺の賑い(朝鮮、金剛山)』 エリザベス・キースは、1887年スコットランド生まれの版画家です。 28歳のころ、日本で新東洋と呼ばれる雑誌を刊行していたロバートソン・スコットと結婚していた姉のエルスペットを訪ねて、初めて来日しました。 日本で見た風景や風俗に感動したエリザベス・キースは、浮世絵の技法を学び始めました。 その後、版元の渡邊庄三郎と出会い、木版画を多数制作しています。 姉と朝鮮や中国、シンガポール、フィリピン、東南アジアを旅しながら、各国の風景や暮らしを木版画で表現しました。 エリザベス・キースの作品は、高い描写力や原色を使った鮮やかで装飾的な色彩、構図の安定性などが特徴で、臨場感のある版画が多く残されています。 リリアン・メイ・ミラー 作家名:リリアン・メイ・ミラー 生没年:1895年-1943年 代表作:『雨中の傘』『紅葉の滝』 リリアン・メイ・ミラーは、1895年アメリカ生まれの女性版画家です。 9歳のころから3年間、狩野友信に日本画の筆法を学んでいます。 のちに、12歳からは歴史画を得意とする島田墨仙から水墨画や日本画を学び、「玉花」の号を与えられました。 1920年ごろ、渡邊庄三郎と出会い、木版画の制作を始めました。 リリアン・メイ・ミラーの作品には、浮世絵の影響を受けているものが多くあります。 このほかにも、『芝居小屋の通り』を描いたバーサ・ラムや、池田輝方・池田蕉園に師事したポール・ジャクレーなどがおり、多くの外国人浮世絵師が活躍していたとわかるでしょう。 多くの外国人を魅了したジャポニズムの影響 ジャポニズムとは19世紀後半〜20世紀はじめに、日本の美術品が西洋の芸術に影響を与えた現象を指します。 西洋の芸術家たちは、日本美術からインスピレーションを得て、それぞれの作品を制作しています。 ゴッホやモネなどのように、浮世絵の手法を取り入れた画家もいれば、実際に浮世絵を描いた画家(浮世絵師)もいることがわかりました。 現代のように、まだ日本が諸外国と頻繁に行き来していない時代や、戦争があった時代でも、こうして浮世絵に魅せられた外国人絵師がいたのです。
2024.11.15
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浮世絵の祖と呼ばれる、菱川師宣の功績
歴史的文化遺産を残した偉人たちのなかでも菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれる著名な浮世絵師です。 江戸時代を生きる人々を描いた彼の作品たちは、浮世絵を大衆的な文化から芸術にまで昇華させた実績を誇ります。 当時は画期的ともいえる鮮やかな色彩と独特な構図は、後世に続く葛飾北斎や歌川広重らの作品にも受け継がれた技術です。 菱川師宣は、まさしく「浮世絵の祖」と呼ばれるにふさわしい人物といえるでしょう。 浮世絵の祖といわれた菱川師宣 作家名:菱川師宣 生没年:1630?年~1694年 代表作:『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』など 菱川師宣は、浮世絵の歴史に大きな影響を与えた江戸時代初期の浮世絵師です。 後世に続く数々の版画技術を生み出した張本人であり、当時本の挿絵でしかなかった浮世絵を1つの芸術に昇華させた貢献者といえます。 代表作は、肉筆画の『見返り美人図』です。 そのほか、掛け軸や屏風絵など幅広いジャンルも手掛けており、なかでも『歌舞伎図屏風』は、国の重要文化財に指定されています。 菱川師宣の功績は、浮世絵の技法を確立しただけでなく、浮世絵を大衆文化にまで広めたことにもあります。 当時、絵画は高級品で、富裕層しか入手できない代物でした。 しかし、菱川師宣が浮世絵を1枚絵として木版画で大量生産することで、安価で入手できるようになり「一般の人々でも買える絵」として浮世絵が広まりました。 浮世絵が大衆文化として確立したのは、菱川師宣のおかげといえるでしょう。 菱川師宣は、1人の職人であると同時に、優秀なビジネスマンだったことがうかがえます。 菱川師宣とは 安房国平北郡保田村、現在の千葉県に位置する地域で誕生した菱川師宣は、第4子の長男でした。 彼の幼少期については情報がほとんどありません。 生年も明確にはわかっていませんが、1630年ごろ(寛永年間の中ごろ)と推定されています。しかし、生い立ちに関する記載が、1680年の絵手本『大和武者絵』の冒頭にて記されています。 以下は、大和武者絵から抜粋した記述です。 「ここに房州の海辺菱川氏という絵師、船のたよりをもとめて、むさしの御城下にちっきょして、自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗三家の手跡を筆の海にうつして、これに基づいてみずから工夫して、あとこの道一流をじゅくして、うき世絵師の名をとれり」 『大和武者絵』より引用 「自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ」とあるように、幼少期から絵を描くのが好きな少年だったことが想像できます。また、代々家が縫箔師(金箔を布地に施す職人)であったことから、菱川師宣は当初、縫箔師として江戸に修行にでたといわれています。 しかし、絵を描くのが好きだった菱川師宣は、名門絵師である「狩野派・土佐派・長谷川派」の手法を独学で学び、オリジナルの画風を生み出しました。 菱川師宣の使う版画技法は、絵の真似ごとがルーツだったのです。特定の一派に所属せず、絵画手法を習得している背景から、抜群の描画センスを持っていたといえるでしょう。 その後、縫箔師から絵の道に転向したのがいつのことなのか、はっきりとした情報はありません。 しかし、1671年刊行の『私可多咄』に無記名で挿絵を描いていたことから、それより前に転向していたのは確かでしょう。 1年後の1672年には、墨摺絵本『武家百人一首』にて、正式に菱川師宣の名でデビュー。 当時、幕府のお抱え絵師である「御用絵師」以外で刊本に署名をしたのは、菱川師宣が初めてだったといわれています。江戸時代初期の刊本は、文章がメインで挿絵はあくまでおまけ程度でしたが、菱川師宣は挿絵主体の画期的な絵本を刊行し、その順位を逆転させました。 彼が挿絵主体で作った絵本『大和絵のこんげん』は、瞬く間に大ヒット。 江戸の中で着実に知名度を上げていきました。 菱川師宣の代表作・見返り美人図 菱川師宣の代表作とされる『見返り美人図』が描かれたのは、晩年の1688年ごろから1697年のことです。 江戸の町娘をモデルにしたといわれており、女性をあえて正面から描かない手法は、画期的なものでした。 また、著名な人物ではなく「どこにでもいる町娘」をモデルに取り上げたのも、江戸の人々を描く菱川師宣らしさが現れています。 なお、『見返り美人図』は、1948年発行の5年切手の図案に採用されています。 菱川師宣の作品は『歌舞伎図屏風』を始め、国の重要文化財とされていますが『見返り美人図』は指定されていません。 理由は定かではありませんが、ほかの作品たちが文化財に指定されている背景から、今後改めて重要文化財に指定される可能性はあります。 現在は、東京国立博物館にて保管されているため、気になる方は鑑賞しにいくのもおすすめです。 なお、歌舞伎図屏風も同じ場所で展示されています。 菱川師宣の作品 菱川師宣の作品といえば『見返り美人図』と『歌舞伎図屏風』が代表的ですが、そのほかにも文化遺産として大切に保管されている作品が数多くあります。 当人の作品のほとんどは、日本や世界中の博物館や美術館にて保管されており、鑑賞が可能です。 現物が残っていない、または行方がわからない作品もありますが、もしかしたらどこかの家の骨董品として残っているかもしれません。 菱川師宣が制作した作品のなかで、現存するものには『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』などがあります。 このうち『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』は、遊郭である吉原や歌舞伎の舞台裏を題材とした作品です。後世に残る浮世絵は、女性や遊郭をテーマにした作品が多数存在しますが、当時のなかでは非常に珍しいものだったそうです。 一方、『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』では、江戸に住む人々の暮らしが描かれています。 見返り美人図も不特定の町娘がモデルだったように、その時代に生きていた人たちの「今」を記録した絵が、菱川師宣らしさといえます。 今でこそ国の重要文化財に指定されるほどですが、菱川師宣の作品は、常に大衆に向けて作られたものだといえるでしょう。 江戸の人々を生き生きと描いた、菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵を世に広めた1人の職人であり、大量生産できる画期的な印刷手法や本を作り上げたビジネスマンでもあります。 浮世絵で有名な偉人のなかでも、菱川師宣は芸術家とビジネスの両立を達成した人物といえるでしょう。 後世に続く浮世絵文化でも、菱川師宣は重要な役割を果たしました。 菱川師宣の作品は、アメリカ・ワシントンDCにあるフリーア美術館や東京国立博物館など、さまざまな場所で鑑賞できます。 菱川師宣の作品をその目で見たい方は、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
2024.11.15
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歌舞伎と浮世絵の深い関係
江戸時代から人々の人気を集めていた浮世絵と歌舞伎は、現在でも多くの人々から愛されています。 しかし、多種多様な娯楽がある現代では、浮世絵や歌舞伎に触れる機会が減り、詳しく知らない人も多いでしょう。 浮世絵や歌舞伎、またその関係性や歴史を知ることで、より両者の魅力を感じられます。 浮世絵と歌舞伎の関係とは 浮世絵のジャンルの一つに、役者絵があります。 役者絵とは、歌舞伎役者を描いた作品。 浮世絵と歌舞伎には深い関係があり、当時の人の浮世絵師が歌舞伎の人気役者を描くことで、相乗効果により浮世絵と歌舞伎が繁盛しました。 江戸時代、浮世絵は安く販売されていたため、人気歌舞伎役者が描かれた役者絵は、多くの歌舞伎ファンを魅了していたといえるでしょう。 浮世絵・歌舞伎はいつ始まった? 浮世絵と歌舞伎はともに、江戸時代に始まった娯楽です。 歌舞伎は、江戸時代に絶大な人気があった男性俳優による古典演劇です。当時、歌舞伎小屋は、遊郭とあわせて江戸の二大悪所といわれていました。歌舞伎小屋や遊郭は、貴族や武士、町人などの身分に関係なく、誰もが自由に楽しめる空間として扱われていたのです。 一方、浮世絵も江戸時代の町人から大変人気を集めていた絵画です。 木版画による大量生産で安価に入手できたため、大衆へ広まったといわれています。浮世絵の中でも、初めて役者絵を描いたとされているのは、鳥居派初代当主の鳥居清信です。 役者絵は、舞台に上がる役者1人を描いた1枚絵からはじまり、のちに2~3人の歌舞伎役者を描くために、サイズが大きい大判が使用されるようになっていきました。 また、2枚以上の絵がセットになっている続絵と呼ばれる作品も多く残されています。 江戸時代の庶民文化、浮世絵と歌舞伎 江戸時代に庶民の娯楽として注目を集めていた歌舞伎に出演する役者もまた、高い人気を誇っていました。 人気のあまり役者たちのファッションを真似する人も現れ、庶民への影響力が大変大きかったといえるでしょう。 役者のファッションや持ち物などに注目が行くきっかけを作ったのは、浮世絵ともいえます。 歌舞伎を見に行く人もそうでない人も、役者絵として描かれた歌舞伎役者のファッションを真似ていたと考えられます。 役者絵は主に、歌舞伎役者の全身を描いた全身絵と、役者の上半身を描いた大首絵、役者の顔を強調して描いた大顔絵の3種類です。 人気の役者絵は飛ぶように売れた 歌舞伎とともに人気となった役者絵には、人気役者の舞台姿を描いたものだけではなく、楽屋の様子や日常の姿を描いたものもあります。 それゆえ、現代にあるブロマイドのような存在でした。 役者絵が最も流行したのは、1789年~1801年といわれています。 人気浮世絵師が人気役者を描くと、相乗効果で役者絵は飛ぶように売れました。 浮世絵の中の役者と歌舞伎 浮世絵の中で表現される役者と歌舞伎は、多くの歌舞伎ファンを魅了したことでしょう。 その中でも、歴代の市川團十郎を描いた作品や、水滸伝ブームを引き起こした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』、謎の絵師が描いた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、当時絶大な人気を誇っていました。 市川團十郎 市川團十郎といえば、歌舞伎の宗家である成田屋の名跡です。 初代市川團十郎は、荒事という人並外れた力で敵を倒す家芸を確立しました。 隈取という顔を紅、藍、墨で彩ったメイクを始めたのも、初代市川團十郎です。 のちに、2代目が隈取を完成させています。 3代目は、将来を期待されていましたが、22歳と若くして亡くなりました。 実力派と呼ばれた4代目、華やかで人気のあった5代目、花形俳優と賞賛された6代目、歌舞伎十八番を確立した7代目と、それぞれ異なる活躍をみせています。 歌舞伎界一の人気と美貌を持ち合わせていた8代目は、謎の自殺を遂げています。 歴代の市川團十郎を描いていた浮世絵師は、当時の人気トップばかりでした。 初代と2代目を描いたのは、鳥居清倍。4代目を描いたのは、勝川春章です。 5代目は勝川春章、勝川春好、東洲斎写楽によって描かれています。 6代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国政、7代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国貞です。 9代目は月岡芳年、豊原国周によって描かれています。 歴代の市川團十郎も市川團十郎を描いた浮世絵師も人気が高かったため、当時役者絵は大人気でした。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵木版画で歌川国芳が描いた連作です。 最初の刊行は、1827年といわれています。 初出版では、智多星吴用、九紋龍史進、行者武松、黒旋風李逵、花和尚魯智深の5人が描かれています。 1830年まで出版されていたとされる一方で、1836年ごろまで出版されていたともいわれており、出版時期は定かではありません。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個は、歌川国芳の出世作で、版元の加賀屋吉兵衛に注目されて水滸伝ブームを生み出しました。 悪がはびこる世の中で、108人の世間からはじき出された英雄たちが集結し、国を救うために活躍するストーリーです。 しかし、現代においては、108人の全図は確認されていません。 三代目大谷鬼次の江戸兵衛 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、東洲斎写楽が描いた有名作品です。 東洲斎写楽とは、1794年5月に彗星のごとく現れわずか10か月の活動期間で姿を消した謎の絵師といわれています。 スマートに描かれた全身絵が一般的だった役者絵を、顔を大きく役者の顔の特徴を強調しデフォルメした大首絵で表現したのです。 贔屓にしている役者の顔が大きく描かれているため、歌舞伎役者ファンに人気の作品となりました。 流行猫の狂言づくし 歌舞伎と浮世絵の人気はとどまることなく、その自由さや刺激的な面があるゆえに、たびたび規制がかけられることがありました。 1841年~1843年に行われた天保の改革では、庶民の娯楽・贅沢が厳しく取り締まられ、歌舞伎だけでなく役者絵も規制の対象となり、価格や色数までに制限がかかるほどでした。 しかし、人気絵師たちは泣き寝入りすることなく、ユーモアと反骨心で政府を煙に巻きます。 人気の役者を猫やうさぎなどの動物に例えて、パロディ画として表現したのです。 代表的なパロディ画は、歌川国芳が描いた『流行猫の狂言づくし』です。 幕府から役者絵であると指摘された際に「これは猫です」といい、幕府の規制をかいくぐっていました。 タイトルや構成に過去の有名な物語である『忠臣蔵』や『勧進帳』などを借りることで、「昔話です」と、幕府の目から逃れ、規制がかけられていた時代も庶民を楽しませていました。 江戸時代に生まれ、今も日本文化として残る浮世絵と歌舞伎 江戸時代に生まれ、400年ほどの歴史ある歌舞伎や浮世絵は、現在も日本の文化として残っています。 浮世絵と歌舞伎は、海外でも人気が高い娯楽です。 歌舞伎と浮世絵の歴史や関係性を理解すると、より浮世絵や歌舞伎の鑑賞が楽しくなるでしょう。
2024.11.15
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明治時代の浮世絵の特徴と、江戸の浮世絵との違い
浮世絵は、日本の江戸時代に生まれ、栄えた絵画の一つです。 明治時代に入ると西洋の影響が強まり、浮世絵のスタイルやテーマも変化していきました。 浮世絵は、伝統的なスタイルを残しつつも、新しい技術やテーマを取り入れ発展していったのです。 明治時代にも浮世絵はあったのか 明治時代に入ると、日本では急速な近代化と西洋文化の導入が進みました。 浮世絵も、この時代の変化に大きな影響を受けています。 近代国家を描いた、明治の浮世絵 明治時代の近代国家を描いた浮世絵は、明治浮世絵と呼ばれています。時代にあわせて東京の新しい建物や蒸気機関車、港、西洋人、明治天皇などが描かれ、軍事や近代化を題材にした浮世絵も多く描かれました。 明治浮世絵では、江戸時代とは異なる新しい時代の幕開けが表現されていたといえます。 また、江戸時代、幕府に対する批判を制限するために行われていた検閲が廃止されたことで、ジャーナリズム的要素を持った浮世絵も多く見られるようになりました。 明治時代の浮世絵の特徴 明治時代の浮世絵には、江戸時代の浮世絵にはなかった特徴があります。 江戸時代の浮世絵との大きな違いは、赤絵や光線画の登場です。 赤絵とは、輸入顔料のアニリン染料を使った赤色が目立つ様子からつけられた、明治時代の浮世絵の総称です。 江戸時代の末期から鮮明な発色をする輸入顔料がよく用いられるようになり、毒々しいまでの赤や紫などの色を発色する特徴があります。しかし、派手な発色の明治時代初期の錦絵は、現代ではあまり人気がないようです。 光線画も、明治時代に登場した錦絵の一種です。 西洋絵画の遠近法、陰影法、明暗法などを取り入れた浮世絵で、小林清親が描いた浮世絵がはじまりとされています。小林清親は、写真術を下岡蓮杖から、西洋画法をワーグマン、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を組み合わせて光線画を確立しました。 明治時代を代表する浮世絵師たち 浮世絵といえば、江戸時代の娯楽というイメージが強い人も多いでしょう。 しかし、浮世絵は明治時代に入ってからも描き続けられていました。 江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍した浮世絵師も多くいます。 月岡芳年(つきおかよしとし) 月岡芳年は、明治時代に活躍した浮世絵師です。 月岡芳年といえば、血みどろ絵や無残絵が印象的ではないでしょうか。残酷な流血シーンをよく描いていた月岡芳年は、「血まみれ芳年」の異名を持っています。 歌川国芳の門人であり、初期の浮世絵には、国芳の流れを汲んだ作風が見受けられます。のちに、武者絵や血みどろ絵が有名となり、中期以降は熱心に絵画技法を学び続け、独自のスタイルを築き上げていきました。 代表的な作品には、『英名二十八衆句』や『新形三十六怪撰』などがあります。 『新形三十六怪撰』は、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、伝説、民話、史譚などの幅広いジャンルを参考にして幽霊や妖怪を描いた傑作です。 小林清親(こばやしきよちか) 小林清親は、明治時代に活躍した浮世絵師で、月岡芳年や河鍋暁斎と並んで最後の浮世絵師と呼ばれていた人物です。光線画と呼ばれる技法を生み出した浮世絵師で、光と影によって明暗を強調した作品を多く描いています。 27歳のときに母が亡くなり、そのタイミングで東京に戻った小林清親は、浮世絵師としての活動を本格化させていきました。絵画技法を学ぶために、当時来日していた西洋人画家に師事したといわれていますが、その人物が誰であったかは明らかになっていません。 小林清親は、光線画以外にも、戦争画や武者絵も多く手がけ、代表作には『於黄海我軍大捷第一図』『菅公配所之図』などがあります。 豊原国周(とよはらくにちか) 豊原国周は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。 1848年に3代歌川豊国の門下となり、当時は「門人八十八」と名乗っていましたが、1855年ごろより、最初に学びを得た豊原周信と歌川豊国の名前を組み合わせて「豊原国周」の名を利用するようになりました。 豊原国周には、ユニークな逸話も多く残されており、常識にとらわれない人物であったと考えられます。 生涯で妻を40人ほど変え、引越し回数は117回にも及ぶそうです。 浮世絵師としての技術はもちろん、奇想天外な行動や言動でも注目を集めていました。 豊原国周は、役者絵を得意としていた浮世絵師ですが、合戦浮世絵も手がけています。 代表作には『夷伐神風ノ図』『羽柴久吉 市川團十郎他』などがあります。 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ) 楊洲周延は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 浮世絵師の中には、風刺画を用いて幕府や明治政府を批判するものも多くいましたが、楊洲周延は、戊辰戦争にて幕府側に回った異色の浮世絵師としても知られています。 また、文明開化が進む明治時代にあって、江戸風の浮世絵を描き続けた人物でもあります。 楊洲周延が生きた時代では、横浜に日本初の写真館が開業し、写真の文化が普及しつつありました。 しかし、楊洲周延は幼いころに天然痘にかかり、顔にあばたが多く残っていたため、写真を嫌っていたといわれています。 さまざまなジャンルを描いていた楊洲周延が、生涯で最も力を入れていたのは美人画です。 代表作には『高貴納涼ノ図』『上野公園御臨幸之図』などがあります。 河鍋暁斎(かわなべきょうさい) 河鍋暁斎は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 幼いころから写生を好み、並外れた画力により優れた浮世絵を多く残しています。 前村洞和に弟子入りした河鍋暁斎は、師から「画鬼」とも呼ばれていました。 写生に対する興味や関心が人一倍強く、10歳のころに洪水で溢れたあとの神田川で生首を拾い、持ち帰って精密な写生を行ったというエピソードも残されています。 また晩年、死の前に床に臥せていた際、枕元の障子に自分のやせ衰えた姿と亡くなった後に入る角型の桶を描いています。死を前にしても、河鍋暁斎の写生欲はとどまることを知らなかったといえるエピソードです。 幅広いジャンルを手がけた河鍋暁斎の代表作には『明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図』『僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸』などがあります。 浮世絵の衰退と芸術作品としての復興 江戸時代に、貴族や武士階級のみならず町人にまで普及し栄えた浮世絵ですが、時代の流れによって明治時代以降、衰退していきます。 しかし、現在は浮世絵の価値が再認識され、多くの美術館や博物館で所蔵されているほか、個人の愛好家やコレクターによって鑑賞が楽しまれています。 春画の取り締まり 春画は、性的な内容を描写した絵画で、江戸時代に盛んに制作されていました。 当時、春画は庶民の娯楽として楽しまれていたのです。しかし、幕府は風紀の乱れを懸念し、公共の場での販売や展示を厳しく取り締まったのです。 春画の制作や販売には、発覚すれば厳しい罰則が科されることもありましたが、春画は裏で密かに制作され、販売され続けました。 明治時代になると、日本の社会や文化が大きく変化し、西洋の価値観や倫理が介入してきます。日本の伝統的な性風俗を卑しめる風潮が生まれ、1868年に作られた検閲制度により春画の制作や販売は、いっそう厳しく取り締まられるようになりました。その結果、人々は春画を目にする機会が減り、芸術作品としての春画は衰退していったのです。 印刷技術の発達と浮世絵の衰退 明治時代になると、木版印刷や版画技術に代わって、写真や近代的な印刷技術が普及していきました。 写真や印刷技術により、風景や人物をリアルに表現できるようになり、浮世絵の役割に取って代わり、浮世絵は徐々に衰退していったといわれています。 また、石板画や銅板画などの錦絵より安く制作できる印刷技術が発展したことも、人々の浮世絵に対する興味関心が離れていく原因の一つとなりました。 現在では芸術作品として復興 明治時代に衰退した浮世絵は、現在芸術作品として復興し、作品の美しさや独創性が再評価されています。 きっかけは、大正時代に渡辺庄三郎を中心として行われた新版画運動でした。 木版浮世絵と同じ制作方法で描かれた新版画は、より芸術性を重視した作品です。 写真との違いを強調することで、浮世絵の復興を目指しました。 現在、浮世絵は海外からも高い評価を受けており、世界中に愛好家やコレクターがいます。 浮世絵の大胆かつ繊細で美しい作品が、多くの人々に受け入れられているのです。 多くの美術館やギャラリーで浮世絵の展示が行われ、浮世絵の価値や歴史的な意義が伝えられています。 また、学術的な研究や解説書も増え、浮世絵の技法やその時代の背景について深く研究されています。 一度は衰退した浮世絵は、芸術作品としての地位を復興し、新たな時代の人々にも愛される存在となりました。 時代の変化の中で、芸術作品としての価値を高めた浮世絵 浮世絵は、江戸時代の風景や日常生活を鮮やかな色彩で描写し、人々の関心を集めていました。 明治時代のはじまりにも活躍した浮世絵師が多数いましたが、文化や技術の変化により徐々に衰退の一途を辿ります。 しかし、見事復興を果たし、現在では芸術作品としての価値はもちろん、日本の歴史や文化を知るための貴重な史料としても扱われています。
2024.11.15
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浮世絵が江戸時代に流行したのはなぜ?庶民の一大ブームに迫る
今では、希少価値の高い美術品としてのイメージが強い浮世絵。 江戸時代の初期から後期までの300年もの間、浮世絵は人々にとって身近な存在であり続けました。 浮世絵とひと口にいってもさまざまなジャンルが存在します。 浮世絵に描かれた題材を知ることで、流行の理由が見えてくるでしょう。 江戸時代に浮世絵が流行した理由とは ジャンルが多彩な浮世絵は、現在では芸術品として人々に親しまれていますが、江戸時代には、庶民も楽しめる娯楽でした。浮世絵が、日本だけにとどまらず海外でも人気を集めたのには、どのような理由があったか気になる人もいるでしょう。浮世絵が流行った理由を知ることで、より作品の魅力が深まります。 浮世絵に描かれた身近な題材 浮世絵が江戸時代の民衆から人気を集めた理由の一つに、身近な題材が描かれていたことが挙げられます。 浮世絵では、江戸時代の自然豊かな風景を描いた風景画、美しい花や鳥を描いた花鳥画、歌舞伎役者の姿を描いた役者絵、戦場で奮起する武士を描いた武者絵、力士の勇猛な姿を描いた相撲絵などが描かれていました。 例えば、日本特有の四季折々の景色を描いた風景画。 春には華やかで美しい桜が、夏には海や川のせせらぎとともに生き生きとした新緑が、秋には眩しいくらいの紅葉や収穫の様子が、冬には真っ白な雪が人々の暮らす町に降り積もる様子などが描かれており、日本の四季の美しさと人々の暮らしがよりリアルに伝わるでしょう。 当時を生きる人々の身近にあったものが題材となっていたことで、多くの人が親しみを感じられたといえます。 平和なときが長く続いた江戸時代は、町民文化が栄え、人々は娯楽を求めていました。 そこに登場した浮世絵は、時代にあった楽しみの一つであったといえるでしょう。 木版画技術の向上 浮世絵が民衆の間で流行した理由として、木版画技術の向上が挙げられます。 江戸時代、木版画技術が発展したことで、浮世絵は大量生産が可能になりました。そのため、浮世絵が安価で出回るようになり、庶民が入手しやすい状況が生まれました。 また、木版画が開発された当初は、墨一色を使った白黒で摺られています。 時代とともに技術が向上していき、墨絵に筆を使って着色していく丹絵や紅を使用した紅絵が描かれるようになり、その後、絵具に膠や漆を混ぜた漆絵も登場し、多様な手法が誕生していきました。 さらに技術が発展していき、多色摺りの錦絵が開発され、浮世絵の流行はピークに達しました。 錦絵は、浮世絵師の鈴木春信が研究を重ね完成させた技法といわれています。多色摺りが可能になったことで、浮世絵の表現方法が一気に広がったといえるでしょう。 多彩な表現が可能になった浮世絵は、より人々の興味を引きつけ、大衆から人気を集めていました。 庶民に広がった絵画鑑賞 芸者や歌舞伎役者などを描いた役者絵は、浮世絵の中でもより庶民の身近にありました。 歌舞伎は、当時のエンターテイメントの中心であり、歌舞伎役者は、現代でいうアイドルのような存在です。 浮世絵では、歌舞伎役者の華やかな衣装や表情が生き生きと描かれており、江戸時代の大衆を魅了していました。 浮世絵には、ブロマイドやファッション誌のような役割もありました。 木版画技術の発展により安価で手に入るようになったことから、人気歌舞伎役者の絵を自宅で鑑賞したり、描かれた人物のファッションを真似したりと、さまざまな楽しみ方が生まれたといえます。 浮世絵は、流行の最先端を知るための資料であったともいえるでしょう。 なお、現代では10,000円ほどで購入できる浮世絵が、江戸時代では20文前後で販売されていました。 当時、蕎麦1杯が16文程度であったため、現代の価格に直すと数百円から1,000円ほどで浮世絵が購入できたと考えられます。 現在まで高い人気である「ジャポニズム」 ジャポニズムとは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西洋の芸術や文化に日本の要素が取り入れられ、西洋社会に影響を与えたことを指します。 この期間、日本の浮世絵や陶磁器、木工品などの美術品がヨーロッパや北アメリカで注目され、西洋の芸術家やデザイナーたちに大きな影響を与えました。 ジャポニズムの特徴は、日本の美術や工芸品に見られる独特のデザインや技法が西洋の芸術作品に取り入れられたことです。 特に、浮世絵の影響は顕著で、その明るく繊細な色彩や平面的な表現、独特な構図が、印象派やポスト印象派などの西洋の芸術に影響を与えました。 ゴッホたちも惚れ込んだ浮世絵 ゴッホは、パリで浮世絵を鑑賞し、その鮮やかな色彩や構図に魅了されたといわれています。 当時の西洋では、肖像画や宗教画、戦争画などの題材が多く描かれていました。 日本の浮世絵は風俗画と呼ばれるジャンルで、人々の暮らしをメインにした絵画です。 西洋にはなかった題材を描いていた点も、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたと考えられるでしょう。 西洋画家の中でもゴッホは特に、熱狂的な浮世絵愛好家であったといわれています。 ゴッホの大胆な構図や鮮やかな色使いは、浮世絵からインスピレーションを受けているといわれるほどです。 弟のテオに向けた手紙の中には、葛飾北斎の名が度々登場したり、浮世絵の話題がよく綴られていたりしました。 ゴッホの作品である『タンギー爺さん』の背景にも、浮世絵が登場しています。 弟と2人暮らしをしていた際には、浮世絵の収集を熱心に行っており、浮世絵への大きな愛が伝わってきます。 国内外の展覧会も人気 浮世絵は、国内のみにとどまらず、海外でも高い評価を受けており、コレクターも多くいるなど、その人気は、国内外で常時展覧会が開催されるほどです。 浮世絵人気が高まる中、ひときわ注目を集めているのが「春画」です。 葛飾北斎が描いた『蛸と海女』は、グロテスクな内容といわれることもある作品ですが、19世紀後半にフランスの美術批評家であるエドモン・ド・ゴンクールが評価して以来、ヨーロッパの美術界では、有名な作品となっています。 日本における春画は、19世紀ごろからタブー視されていました。 しかし近年、海外で春画を題材にした研究書が多数出版されたことをきっかけに、春画コレクションを対象としたリサーチが行われています。 このことから、春画に対する興味が人々の間に広がりつつあるともいえるでしょう。 時代を超え世界へ広がる、浮世絵の人気 日本の代表的な文化である浮世絵は、時代を超えて世界中で愛される芸術品です。 海外からの評価が高いとはいえ、日本でも古くから親しまれている作品であるため、国内で鑑賞する機会も多くあります。 浮世絵の時代背景を知ると、より楽しく鑑賞できるでしょう。
2024.11.15
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浮世絵の「復刻版」とは?オリジナル版やコピー品との違い
江戸時代から民衆の間で高い人気を誇っていた浮世絵作品。 版画の技法を取り入れたことで大量生産が可能となり、多くの町民が楽しめた芸術作品でした。 浮世絵版画は、現代でも高い人気を誇っており、人気浮世絵師の作品は高値でやり取りされています。 浮世絵の「オリジナル版」「復刻版」とは 浮世絵版画とは、浮世絵師が描いたデザインを木版に彫って、紙に摺り上げた作品を指します。木版を完成させてしまえば、何度も摺れるため大量生産を可能にした制作方法です。 なお、浮世絵師が自ら筆をとって紙に描き上げた作品は、肉筆画といい、これは1点ものです。 浮世絵版画には、オリジナル版と復刻版と呼ばれる2つの種類があります。 どちらであるかによって、作品の価値が大きく異なるため、浮世絵版画の買取や購入を検討している方は、違いについて詳しく知っておきましょう。 オリジナル版と復刻版の違い 浮世絵版画のオリジナル版とは、江戸時代から明治のはじめごろにかけて制作されていた木版画の作品を指します。 浮世絵版画は、浮世絵師自らがデザインし、彫師によって木版に彫られ、摺師によって紙に摺り上げていく工程を経て完成するのです。 オリジナル版の中でも、初期に摺られた浮世絵を初刷り、重版として摺られたものを後摺りと呼びます。 一方、復刻版とは、人気作家の作品を現代に復活させるべく制作されたもののことです。人気浮世絵師の絵をもとに、現代の彫師が新たに木版を彫り、摺師によって摺り上げられた作品が復刻版に該当します。 復刻版の骨董品価値 浮世絵は、日本のみならず海外からも人気の高い芸術作品であり、現代においても多くのファンやコレクターが存在します。しかし、浮世絵版画のオリジナル版は、何枚も刷り上げられたとはいえ、現代まで現存している作品は、数に限りがあるでしょう。 復刻版は、オリジナルのデザインをもとにプロの彫師が木版を制作しているため、オリジナル版と遜色ないクオリティといえます。 しかし、骨董品としてみたときには、オリジナル版と比較すると歴史的価値や希少価値が劣るため、価格も低くなると考えられるでしょう。 復刻版は、高価買取を狙うものではなく、自宅で観賞用として楽しむものであるといえます。 復刻版とコピー品(印刷)は違うのか 印刷機でコピーされた作品は、復刻版とは呼びません。 復刻版は、オリジナルデザインを用紙に印刷したものではなく、一度木版に彫られ、一枚一枚摺り上げられています。 復刻版と聞くと、印刷されたポスターのようなものを想像する人もいるでしょう。 しかし、復刻版は、単なる印刷ではなく、彫師や摺師が手間をかけて制作しており、オリジナル版と同様に紙に摺る工程を行っているため、木版画ならではの特徴を楽しめるのも魅力の一つです。 版画作品は、作品を裏から見てみると色のにじみが見受けられます。 このにじみが木版画の証拠であるとともに、味わいの一つともいえるでしょう。 また、復刻版は贋作でもありません。 贋作は、現代において印刷や版画で刷られた作品を、当時のオリジナルと偽って販売、転売したものです。 復刻版は、復刻版として販売がされており、オリジナル版を尊重して扱われています。 圧倒的に価値の高い「初版(初摺り)」の浮世絵版画 オリジナル版の浮世絵版画には、初摺りと後摺りがあると紹介しました。 初刷りは、オリジナル版の中でも価値の高い作品です。 初刷りでは、絵を描いた浮世絵師が、自ら彫師や摺師が摺り上げる場面に立ち会い、色や表現の指示などを行っている場合があります。 自分が想像している完成図を表現できるよう、こだわりを持って刷られている可能性が高いのです。 そのため、オリジナル版の中でも初摺りは、浮世絵師が自らかかわったとする希少価値がつくといえるでしょう。 復刻版のある浮世絵は人気の証拠 人気の高い浮世絵は、明治期以降も復刻版が多く刷られていました。 その作品の人気の高さ故でもありますが、骨董品としての価値が高いのは、やはり当時の浮世絵師や版元たちがかかわったオリジナルだといえるでしょう。
2024.11.15
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