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美人画浮世絵を買取してもらおう | 誰もが知る名作・名絵師なら高額査定も期待大
浮世絵の中でも特に美しい女性の姿を描いたものを美人画と呼びます。 美人画は人気が高く、さまざまな作家が取り組んできたため、誰もが知る名作も多数あります。『見返り美人図』は美人画の代表例です。 高価買取が期待できる作品もあるため、美人画を持っている方は、査定してもらうのがお勧めです。 美人画の概要や主な人気作品についての知見を深め、所有する美人画の価値を確認できるようにしましょう。 人気の美人画浮世絵を買取してもらおう 身の回りのさまざまなものを題材とした浮世絵は、いくつかのジャンルに分けられます。 中でも美しい女性をテーマとしているのが美人画です。 美人画は、浮世絵が誕生したころから一貫して人気のジャンルだったため、さまざまな作家により数々の名作が残されています。 美人画浮世絵とは 美人画とは、美しい女性を描いた浮世絵です。 遊女や歴史上の人物、お店の看板娘などの美しいと評判だった女性をモデルとすることが多いものの、本人そっくりに描かれるとは限りません。むしろ、女性個人をありのままに描くよりも、理想の女性像を表現することが美人画の主流でした。 当然、美人と言われる基準は、時代によって少しずつ異なります。 時代や絵師による表現の違いを比べるのも、美人画の楽しみと言えるでしょう。 美人画浮世絵は今でも人気が高い 美人画は、浮世絵の中でも特に人気の高いジャンル。 日本国内だけでなく海外にも愛好家がいる浮世絵は、芸術作品として買取してもらえる可能性があります。 特に有名作家の作品であれば高く売れると期待できます。 遺品整理や相続で得た浮世絵を手放すのであれば、一度査定してもらうとよいでしょう。 作家名が分からないものも相談してみるのがお勧めです。専門知識を持つ査定士が査定した結果、高い価値が付くかもしれません。 有名すぎる美人画『見返り美人図』 浮世絵の美人画における代表作と言えば、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の『見返り美人図』。 17世紀に描かれた『見返り美人図』は、かつて切手の図柄として採用されたり、教科書に掲載されたりしたため、浮世絵の中でも特に知名度の高い作品ではないでしょうか。赤い着物を着た一人の若い女性が、ふと振り返った瞬間を捉えたこの作品は、構図の巧みさなどの点で、後世にまで大きなインパクトを与えたと言われています。 浮世絵の祖といわれる菱川師宣 『見返り美人図』を描いた菱川師宣は、浮世絵の祖と言われています。 そもそも浮世絵とは、人物や風景など身近なものを題材とする風俗画のこと。 現代では、浮世絵と言えば版画形式の浮世絵版画を指しますが、始めは他の絵画と同様に浮世絵も筆で紙や布に描かれていました。これを肉筆浮世絵と言います。 肉筆浮世絵は一枚ごとに絵師が手描きするため、制作に時間やお金がかかります。そのため、初期の浮世絵は庶民が気軽に手に取れるものではありませんでした。 しかし、菱川師宣が木版画の技術を使い、一枚の絵を大量に擦る方法を発明したことで、状況は大きく変化しました。 本の挿絵を描く仕事をしていた菱川師宣が、絵だけを観賞用として別に擦り、それが大衆に受け入れられたのが、浮世絵版画が生まれたきっかけです。 大量生産が可能になったことで一枚あたりの価格が下がり、庶民でも浮世絵を入手しやすくなりました。 これがきっかけで浮世絵は、大衆文化の一つとして大きく発展を遂げることになったのです。 同時に、浮世絵版画を生み出した菱川師宣は「浮世絵の祖」と呼ばれるようになりました。 なお、菱川師宣が活躍したころは白黒のみだった浮世絵版画は、その後、技術の発展により何色も重ねた色鮮やかな表現が可能になりました。 18世紀に活躍した葛飾北斎(かつしかほくさい)の『富嶽三十六景』のような多色擦りの浮世絵版画は「錦絵」と呼ばれています。 安く大量生産が可能になった浮世絵版画は、写真の技術がなかった江戸時代には、マスメディアの役割も果たしていたと言われています。 例えば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』、歌川広重の『東海道五十三次』といった風景画は、絵葉書や旅行ガイドの代わりでもありました。 また、遊女や看板娘などを描いた美人画は、広告の役割も担っていたと考えられています。 『見返り美人図』の見どころ 江戸時代から昭和に至るまで数多くの美人画が描かれてきた中で『見返り美人図』が特に有名なのには、いくつかの理由があります。 その理由の一つが、構図です。 実は菱川師宣より前まで、美人画と言えば一枚の絵の中に複数の女性が描かれるのが一般的でした。複数人を描くほうが、風俗が伝わりやすいためです。 一方、『見返り美人図』では一人だけを描くことで、女性に視線が集中する効果を狙ったのでしょう。 この作品以降、女性一人だけを登場させる構図は浮世絵の定番となりました。 また、体勢や視線の向きに細かく気を配った構図も『見返り美人図』の見どころです。 現実には、やや無理のある体勢だと言われていますが、女性の美しさを際立たせています。そして、あえて背景に何も描かなかったのも、女性の動きや美を強調するためだと言われています。 『見返り美人図』は当時から人気が高く、「師宣の美女こそ江戸女」と言われるほどでした。 その理由は、女性のファッションにあります。 当時の美人画は実在する女性をありのままに描くというより、理想の美女を具現化することに重きが置かれていました。 そのため、『見返り美人図』に登場する女性は高級な着物に身を包み、髪型や帯の結び方は当時の流行に沿っています。見るだけで最先端の流行が分かる美人画は、江戸時代の人にとってファッション誌の代わりでもあったのでした。 また、現代の私たちにとっては、当時の風俗を伝えてくれる資料としての価値もあります。 なお、『見返り美人図』は、菱川師宣が直接描いた肉筆浮世絵であり、版画ではありません。 菱川師宣は浮世絵版画を生んだ絵師として有名ですが、同時にさまざまな肉筆浮世絵も手掛けています。 『見返り美人図』は同じものが存在しない肉筆浮世絵であるという点も、評価が高い理由として挙げられます。 一世風靡した、鳥居清長の美人画 18世紀末の天明年間に美人画で一世風靡したのが鳥居清長(とりいきよなが)。 江戸出身の絵師である鳥居清長の作品では、すらっとした8等身の美女が目を引きます。また、儚げというよりは堂々として健康的な女性たちを多く描いたことも特徴です。 鳥居清長の美人画にはもう一つ、背景が描かれているという特徴があります。 美人画では美女のポーズや着物、表情などに注力し、『見返り美人図』のようにあえて無背景とするものは少なくありませんでした。 一方、鳥居清長の美人画では、背景として江戸の風景が写実的に描かれており、このように美人画の背景に江戸の風景を細かく描写したのは、鳥居清長が初めてだと言われています。 彼の描く長身で健康的な美女は、背景に描かれた江戸の風景から江戸のヴィーナスまたは天明のヴィーナスと呼ばれることも。 代表作は『美南見十二候』、『風俗東之錦』。 鳥居清長の作品は、特に海外でも高い人気を誇っており、外国の美術館にも多くの作品が収蔵されています。 誰もが一度は見たことがある『ポッピンを吹く娘』 喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は、江戸時代中期にあたる、18世紀半ばに活躍した絵師です。美人画を得意とし、彼がモデルにした女性は、あっという間に江戸中で有名になったと言われています。 『婦女人相十品 ポッピンを吹く娘(ビードロを吹く娘)』は、1790年ごろに発表されました。 『婦人人相十品』という、女性がさまざまな仕草をしているシーンを切り取った10枚の大判錦絵から構成されているシリーズのうちの一枚です。 ポッピンとは、長くて細い首を持ったフラスコのようなガラス製のおもちゃのことです。 江戸時代後期にオランダから伝わり、ビードロとも呼ばれ、首の部分から息を吹き込んで音を鳴らして遊びました。 喜多川歌麿の美人画の特徴は、胸から上を大きく描く構図だと言えます。この『ポッピンを吹く娘』でも、あえて全身を描かずに上半身だけにフォーカスしています。 喜多川歌麿はこうした「美人大首絵」と呼ばれる構図の作品を多く残しています。 また、この作品では女性が着ている衣装や小道具であるポッピンも見どころです。 市松模様は、当時流行していた柄で、振袖を着ていることから若い未婚の女性であることが分かります。また、舶来品であるポッピンを持っていることや、ガラス細工のついたかんざしから裕福な家の娘であることも示されています。 江戸時代後期には美人画浮世絵にも変化が… 江戸時代後期に入ると、美人画にも従来とは異なる傾向が見られるようになりました。 当時、主に遊女をモデルとする美人画で人気があったのが、絵師の渓斎英泉(けいさいえいせん)です。 渓斎英泉は絵師としてのキャリアの前半では、師匠に倣って細い線で優美な女性像を制作していました。しかし、徐々に独特の美人画を発展させていきます。 大首絵を得意とした彼の美人画では、女性たちがみな猫背で下唇を突き出すような姿で描かれるという特徴がありました。 その表情は、どこか思い詰めているような、厭世的な雰囲気を感じさせます。 渓斎英泉が活躍した19世紀前半は、次々と来航する外国船やそれに刺激された尊王攘夷運動などにより、人々は不安定さを感じていたと考えられています。そうした世相にマッチしていたことが、渓斎英泉の美人画が人々の心をつかんだ理由だったのでしょう。 また、彼の画風に影響を受けた絵師として、歌川国貞(うたがわくにさだ)が挙げられます。 同時代に活躍した二人は、幕末の退廃的な美を描いた絵師として評価されています。 しかしこの頃に起きた「天保の改革」の一つとして、1842年頃からの数年間にわたって浮世絵の制作が厳しく制限されるという事件が起こりました。美人画を含む浮世絵は、風紀を乱すものとして処罰の対象となるおそれがあったのです。 これをきっかけに渓斎英泉は、文筆業に専念するようになり、浮世絵作家としての活動を終えたのでした。 大正の浮世絵師、竹久夢二 竹久夢二(たけひさゆめじ)は、明治時代末から大正時代にかけて活躍した画家です。 日本画の技法を用いた竹久夢二の作品は、厳密に言えば浮世絵ではありません。しかし、多くの美人画を描いたため、「大正の浮世絵師」と称されることもありました。 竹久夢二の美人画は、白いうりざね顔にやや離れた大きな目、曲線を強調したボディラインなどが特徴です。 その女性像は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンの象徴ともなりました。 竹久夢二は、絵画だけでなく、書籍の装丁や広告宣伝、日用雑貨などのデザインも多数手掛けていました。そのため、彼の美人画は当時から大衆の間で絶大な人気があり、「夢二式」という言葉が美人の代名詞として使われるほどでした。 美人画浮世絵の買取は実績ある買取専門業者へ相談を 美人画は江戸時代から現代に至るまで浮世絵の人気ジャンルの一つ。 菱川師宣の『見返り美人図』を始め、これまでに多くの名作が生まれてきました。 それぞれの時代の理想の女性を描いた美人画には、当時の流行や世相が反映されていることも魅力です。 人気の美人画は、高く買取してもらえる可能性があります。 ただし、浮世絵は作家や作品によって買取価格が異なるため、実績ある買取業者へ相談することが大切です。 鳥居清長や喜多川歌麿などの有名作家のものや、保存状態のよい作品、肉筆浮世絵などが特に買取価格が高くなりやすい浮世絵の例です。 シミやカビなどの汚れがあっても買取してもらえるケースもあります。 処分予定の美人画は、査定を依頼してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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大阪で浮世絵は高価買取のチャンス!実績ある査定士へ相談を
浮世絵と言えば江戸で制作されたものがよく知られていますが、江戸時代後期には大阪でも盛んに描かれるようになりました。 上方浮世絵とも呼ばれる大阪で作られた浮世絵には、江戸のものとは異なる魅力があります。 大阪で浮世絵を売りたい方は、上方浮世絵の特徴や高く売れる浮世絵のポイントなどをチェックしましょう。 大阪で浮世絵買取を相談しよう 江戸時代に天下の台所とも呼ばれた大阪には、今も昔も多くの人や物が集まっています。 浮世絵を買取する業者も多いため、処分を考えている方はぜひ相談してみましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、主に江戸時代に作られた、人々の生活や身近なものを題材とした絵画のことです。 始めは肉筆で紙や絹に描かれていましたが、17世紀に菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって確立された木版画形式の浮世絵版画が一般的になると、庶民の間にも広がりました。 木版画の場合、同じ絵柄を数百枚も作成できるため、1枚あたりの価格が下がったことが理由です。 ただし、当初の浮世絵版画は白黒が中心です。 その後、2〜3色で擦る紅摺絵が普及しましたが、現代でもよく知られているカラフルな浮世絵版画の作品が生まれたのは、18世紀半ばになってからのことでした。なお、浮世絵の有名な作家には、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)などがいます。 浮世絵は、江戸時代の大衆文化の中心となっただけでなく、海外の芸術家にも影響を及ぼしました。あのゴッホやゴーギャンといった有名画家が浮世絵に惚れ込み、自身の作品の参考にしたと言われています。また、19世紀にヨーロッパで日本の美術工芸作品を愛好するジャポニズムが広まったのも浮世絵がきっかけでした。 美人画や風俗画、武将絵などさまざまなものをテーマとして描かれた浮世絵は、当時の人にとってマスメディアのような存在でもありましたが、明治時代中期に普及した写真に取って代わられる形で徐々に衰退しました。 浮世絵は高く売れる? 風景画の名手として知られる歌川広重(うたがわひろしげ)の『東海道五十三次』は、最も有名な浮世絵作品の一つです。 江戸と京都を結ぶ東海道にある53の宿場に、起点と終点の2箇所を加えた全55箇所の風景を描いた作品で構成されています。 このように『東海道五十三次』では、東海道の起点を江戸・日本橋、終点は京都・三条大橋としています。しかし、実際には京都と大阪の間にも宿場があったことが分かっているのです。 京都・大阪間にあった宿場は伏見、淀、枚方、守口の4箇所で、終点は高麗橋でした。もしこれらの宿場も描かれていれば、作品名は「東海道五十七次」になっていたかもしれません。 大阪で発展した「上方浮世絵」 浮世絵は1765年、浮世絵師の鈴木春信(すずきはるのぶ)により色鮮やかな木版画を制作する技術が発明されたことで、一気に広まったと言われています。多色摺りの技法を用いた色鮮やかな浮世絵は、「錦のように美しい」ことから錦絵と呼ばれるようになりました。 これ以降、ほとんどの浮世絵師が錦絵を描くようになりましたが、当時の浮世絵の中心は、あくまでも江戸です。 しかし、江戸での錦絵の発明から遅れること約25年。 1790年代に大阪で活躍していた流光斎如圭(りゅうこうさいじょけい)という浮世絵師が、初めて大阪で錦絵を描いたと言われています。 大阪で描かれた錦絵は、江戸で流行していたものとは異なる特徴を持っていました。 江戸では遊女やお店の看板娘などをモデルとした美人画や、風光明媚な景色を描いた風景画が人気のあったジャンルです。 一方で大阪や京都では、役者絵と言われる歌舞伎の人気役者を描いた浮世絵が中心でした。 こうした違いがあったことから、江戸時代に上方と呼ばれていた大阪や京都で制作された浮世絵は、特に「上方浮世絵」と言われ、江戸で描かれた浮世絵とは区別されています。 上方浮世絵には、役者を題材としているものが多いことの他に、以下のような特徴があります。 ・筆致 ・写実的 ・金銀の絵の具が使用されている ・上摺と並摺の2種類に分ける販売方法 ・天保の改革以降はサイズが小さくなった 当時、江戸にも初代歌川豊国(うたがわとよくに)、初代歌川国政(うたがわくにまさ)といった役者絵を得意とする浮世絵師がいました。 彼らの作品は、人気役者が舞台で活躍する様子をすっきりとした筆致で描いているのが特徴です。 一方、上方浮世絵では同じように役者を題材としていますが、必ずしも舞台で活躍する姿だけを描いているとは限りません。舞台裏で化粧する様子や素顔で舞台挨拶に望む姿などを表現した作品も数多く残されています。筆使いも江戸のように華やかさや優美さを求めるのではなく、粘りや力強さを感じさせるものが主流です。 役者を格好良く描くことよりも、ありのままを写し取ることに重きを置いていたのが上方浮世絵の特徴と言えるでしょう。 また、江戸では禁止されていた金や銀の絵の具が使用された作品があることも上方浮世絵の特徴です。ただし、これらの絵の具は当時も高価であったため、同じ図柄を2種類の方法で擦って販売する方法が取られていました。 上質な素材や高い技術を使って制作されたものを上摺(じょうずり)、安価な素材で価格を抑えたものを並摺(なみずり)と呼びます。 江戸時代後期に実施された天保の改革では、1843年から1847年までの約5年間、役者絵の制作が禁止されました。この事件以降、作品が従来より小型化したことも上方浮世絵の特徴として挙げられます。もともとB4サイズだった浮世絵は、半分に相当するB5サイズで作られるようになりました。 葛飾北斎が描いた、大阪・天神祭り 大阪天神祭りとは、大阪天満宮で毎年6月下旬から約1カ月にわたって開催される祭りです。 京都の祇園祭り、東京の神田祭りに並ぶ日本三大祭の一つに数えられています。特に最終日の7月25日の夜には、花火が打ち上げられ、大川に船を浮かべる船渡御も行われるため大変な賑わいを見せます。 『富嶽三十六景』などで知られる葛飾北斎(かつしかほくさい)が天神祭りを描いた作品が『摂州 天満橋 大阪』です。 この作品では、摂州天満橋を中心に、祭提灯を飾った船が大川を行き交う様子が描写されています。同じく祭提灯が掲げられた橋の上には、大勢の人がおり、祭りの夜の活気が伝わってきます。 大阪の浮世絵買取、気を付けたいポイントとは 浮世絵は、作品によって価値の違いが大きいことが特徴です。 高く買取してもらうには、査定士が重視しているポイントを押さえておくことが大切です。 浮世絵の査定では、主に以下のポイントがチェックされます。 ・作家 ・保存状態 ・鑑定書の有無 ・付属品の有無 ・肉筆浮世絵かどうか など 特に作家は、浮世絵の買取価格を決める重要なポイントです。 歌川広重や葛飾北斎、鳥居清長(とりいきよなが)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などが主な人気作家です。これらの作家の作品で、かつ人気シリーズや初版であるといった条件がそろえば1,000万円以上の価格がつけられることもあります。 なお、相続などで浮世絵を受け取ったケースでは、作家名が不明なこともあるでしょう。そのようなケースでは、査定により有名作家の作品と分かることもあるため、専門知識を持つ査定士に見てもらうことをお勧めします。 また、同じ作品でも保存状態が良いほうの買取価格が高くなりやすいでしょう。ただし、200年以上前に制作された浮世絵に汚れやシミはつきものです。 シミやカビの程度によっては、修復を前提に買取する業者もいます。一度相談してみてはいかがでしょうか。 大阪で浮世絵買取を相談するなら、実績ある買取業者へ 江戸時代に流行した浮世絵は、大阪で独自の発展を遂げました。 当時の人気役者を主な題材とした上方浮世絵は、金や銀の絵の具が使われた華やかなものが多いことなどが特徴です。また、役者を理想化せず、ありのままの姿を描いた上方浮世絵には、江戸の作品とは異なる魅力があります。 江戸時代から商業の中心地であった大阪には、浮世絵買取ができる多くの業者がいます。作品によっては高価買取が期待できるでしょう。 浮世絵の処分を検討している方は、実績豊富な査定士に一度相談してみてください。
2024.08.13
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富士山や江戸の町…風景画浮世絵を買取してもらおう
江戸時代から明治時代にかけて、庶民の娯楽として広まった浮世絵。 なかでも、風景を描いた作品は、独創性に富んだものが多く、幅広い層に人気があります。 葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』など、誰しも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 浮世絵の買取を希望する場合は、専門の買取業者に査定をお願いするのがお勧めです。 有名な作品や、状態の良い作品は、高く売れるチャンスがあります。 風景画浮世絵をお持ちの方は、買取業者に持ち込んでみてはいかがでしょうか。 風景画の浮世絵は高価買取のチャンス 風景画の浮世絵は、独特の色彩表現や構図により国内外で人気があります。 有名な絵師の作品や、劣化が少なく保存状態の良いもの、大きなサイズのものなどは、高価買取のチャンスです。浮世絵の多くは木版画として大量に印刷され、庶民にも入手しやすかったため、思わぬところに保管されている場合があります。 風景画浮世絵とは 風景画浮世絵とは、江戸町人の生活を描いた浮世絵の中で、主に風景に焦点を当てた作品です。 「浮世」つまり仏教用語でいうところの「儚い世」が、やがて「現世の楽しみ」を意味するようになります。そして浮世絵では、遊女や役者などの町人の暮らしから歴史物語など、多様な題材が描かれるようになりました。 日本における風景画は、中国美術の影響が色濃い「山水画」として発達しましたが、浮世絵の1ジャンルとして独立したのは、18世紀末ごろです。 幕府が武者絵や役者絵に対する規制を強めると、風景画というものが脚光を浴びるようになります。 風景画浮世絵で描かれるのは、江戸や京都の街並み、富士山の眺めなど、日本人に馴染み深い景観です。 山水画のような理想化された自然の風景ではなく、日本人なら誰もが見たことがあるような写実的でどこか身近な風景こそが、浮世絵で描かれる風景画です。 風景画の代表作といえば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』を思い浮かべる人は多いでしょう。風景画浮世絵は、美しく身近な自然や街並みの姿を描くのみならず、当時を生きた人々の価値観や感性をも反映しています。 風景画浮世絵は買取してもらえる? 風景画浮世絵は、美術品としての価値があるだけでなく、当時の生活や文化を今に伝える貴重な資料でもあるため、多くの需要があります。 そのため、多くの買取業者が存在し、査定や買取を行っています。 しかし、作者や作品の状態、描かれたテーマなどにより買取価格が大きく変動することも。 風景画浮世絵を査定してもらう際は、真贋を見極め適正な価格つけられる業者を選ぶことが重要です。 誰もが知る『富嶽三十六景』は代表的な風景画 風景を描いた浮世絵として、大半の人が思い浮かべるのは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。 激しい白波に翻弄される小舟と、遠景に佇む富士山を描いた『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』。 這うように青黒く広がる樹海と、朝日を浴びて真っ赤に染まる富士山を描いた『凱風快晴(がいふうかいせい)』。 これらは、誰もが一度は目にしたことがあると言っても過言ではない、あまりに有名な風景画浮世絵です。 『富嶽三十六景』とは 『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』は、1831年〜1834年(天保2年〜5年)にかけて刊行された、葛飾北斎(かつしかほくさい)による大判の版画集です。 葛飾北斎の晩年に描かれた風景画のシリーズで、さまざまな季節や場所から眺めた富士山が色鮮やかに描写されています。 富嶽三十六景の刊行当時、葛飾北斎は70歳を超えていましたが、老いてなおその画力は、さらに洗練されていきました。富士山をテーマにしていますが、富士山を眺める人々やその周辺の様子などを巧みに描いており、葛飾北斎の観察力や構図力・色彩センスが存分に感じられるシリーズです。 なかでも『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、富嶽三十六景の代表作であるだけでなく、浮世絵を代表する作品として世界中で知られています。画面手前では荒れ狂う白波に小舟が揉まれ、画面奥には泰然と構えた富士山の姿が対照的に描かれています。 信仰の対象や観光地として人々の心に深く根ざしていた富士山。 当時流行した、藍色の絵具や鮮やかな赤色を用いて描いた『富嶽三十六景』は、国内外に大きな反響を巻き起こし、そのあまりの人気ぶりに、当初の36図版に加えて追加の10版が刊行され、富嶽三十六景は全46景となったほどです。 三大役物 富嶽三十六景の中でも、「三大役物」と呼ばれ、ひときわ人気の高い作品があります。 その3つとは『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』・『凱風快晴(がいふうかいせい)』・『山下白雨(さんかはくう)』です。 『神奈川沖浪裏』 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎による作品の中でも最もよく知られたものの一つです。白波の迫力と、遠くに見える富士山の落ち着いた姿が対照的に描かれています。 『凱風快晴』 『凱風快晴』という題名に心あたりがない場合でも、「赤富士」といえばすぐにわかる人は多いかもしれません。『凱風快晴』の画面で、朝日に照らされ真っ赤に染まる富士山と裾野に広がる樹海の背景には、真っ白な雲と青空が広がっています。 空と雲と富士山という単純すぎるほどの構成要素ですが、それぞれが細部まで緻密に描かれ、見るほどに魅力が増す傑作です。 『山下白雨』 『山下白雨』は、「黒富士」とも称され、富士の裾野に黒雲が広がり、稲妻が宙を引き裂く様が描かれています。雷雨のふもととは対照的に、山頂付近は明るい色調で描かれ、富士山の高さや雄大さが巧みに表現されています。 「黒富士」と「赤富士」では、描かれている雲の形や光の様子が異なり、季節ごと変化する富士山の姿を感じられるでしょう。 歌川広重が描いた風景画『名所江戸百景』 江戸時代後期の浮世絵師である歌川広重(うたがわひろしげ)は、風景画の名手として知られています。 『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』や『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』など、多くの優れた作品を残しました。 『名所江戸百景』 『名所江戸百景』は、1856年〜1858年(安政3年〜5年)にかけて歌川広重が制作した連作浮世絵です。 江戸の名所や景観・町人たちの暮らしを描いた作品群であり、浮世絵師・歌川広重の集大成とも位置付けられます。名所として古くから知られる場所だけでなく、何気ない江戸近郊の景観が、四季ごとに斬新な構図で描かれています。 『大はしあたけの夕立』 『大はしあたけの夕立』は、隅田川にかかる「大はし」の上を、雨から身を隠しながら渡る人々と、対岸の「あたけ」(安宅丸という船が繋留されていたことに由来)がぼやけて見えないほどの豪雨を描いた作品です。 墨の濃淡で表現された直線により、雨の強さや方向性が示されており、橋と河岸が斜めに交差する構図により、奥行きやダイナミックな雰囲気が演出されています。また、版木に水を含ませることにより絵具を滲ませ、遠くに見える対岸の街並みをぼかした表現も特徴的です。 橋を渡る人々の慌てた様子や、激しく叩きつける雨の音までも聞こえてくるような、リアルさが感じられる作品でもあります。 この作品は、印象派の画家ゴッホが模写したことでも知られ、歌川広重の画力が如実に伝わってくる傑作と言えるでしょう。 『亀戸梅屋舗』 名所江戸百景の一枚である『亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)』は、江戸の亀戸にあった梅の名所を描いた絵。 画面の一番手前に、視界を遮るように大きく描かれた梅の木が特徴的です。 背景には梅屋敷の庭や訪れる人々が見えます。 画面上半分の赤と、下半分の青が対比を強調しており、鮮やかな色彩にも歌川広重の多彩な表現を感じられるでしょう。 1857年(安政5年)にシリーズの30作目として描かれた作品で、春の風景を題材にして人気を博しました。 この作品の「梅屋敷」とは、豪商・伊勢屋彦左衛門(いせやひこざえもん)の別荘として建てられた「清香庵」を指します。 清香庵の梅林は、大変見事であると評判で、8代将軍である徳川吉宗も訪れたほどの名所でした。 『大はしあたけの夕立』とともに、『亀戸梅屋舗』もゴッホが模写した絵として知られています。ゴッホは浮世絵の中でも、歌川広重の作品から特に大きな影響を受けました。切り取られた構図や装飾的な色使い、強い輪郭線などを自分の作品で試すために、ゴッホは歌川広重の作品を模写したといわれています。 『浅草金龍山』 『浅草金龍山』もまた、歌川広重の傑作『名所江戸百景』を代表する作品です。 この作品は、浅草に現存する浅草寺雷門から見える雪景色を描いた一枚です。 浅草寺は、正式名称を「金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)」といい、「浅草観音(あさくさかんのん)」の呼び名でも知られています。 江戸時代の浅草は、庶民の集まる娯楽の場であり、浅草寺はその象徴として江戸の人々に愛されており、江戸の名所を描いた歌川広重の作品の中でも、特に人気の高い作品です。 『浅草金龍山』の大きな特徴は、画面手前の上部に大きく描かれた雷門の大提灯です。 この提灯を、あえて切り取るように描くことにより、画面に奥行きと臨場感を与えることに成功しています。 雷門の柱と提灯の大きさが、遠景の小さな寺と対照的であり、雪の白さをより際立たせている点も見事です。 こうした歌川広重のトリミング手法は、当時の印象派絵画にも多大な影響を与えたといわれています。 人気の風景画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! ご自宅やご実家に眠っている風景画浮世絵はありませんか。 江戸時代から明治時代にかけて広まった、独自の日本文化・浮世絵。美人画や役者絵・名所絵などさまざまなジャンルがあります。 その中でも風景画浮世絵は、国内外のコレクターや美術館・博物館による人気が高く、高価買取が期待できるジャンルです。 浮世絵の買取価格は、作者や作品の題材・保存の状態や付属品の有無などにより、大きく変動します。 そのため、高価買取のためには、専門知識豊富なプロの査定士の判断が不可欠です。状態の良いものは希少であり、高い買取価格がつく可能性もあります。シワやシミなどのダメージがあっても、有名作品であれば高値がつくことも。 適正な価格をつけてもらうためにも、信頼できる買取業者でプロの査定士に相談してみることをお勧めします。
2024.08.13
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役者絵は高額買取が期待できる浮世絵!買取業者の選び方やポイントとは
江戸時代から明治時代にかけて、浮世絵は庶民を中心に親しまれた文化でした。 その浮世絵の中でも、歌舞伎役者の姿を描いた作品が「役者絵」と呼ばれ、多くの人気作品が存在します。 人気の浮世絵・役者絵は高価買取が期待できる? 浮世絵にはいくつかのジャンルがありますが、役者絵はその中でも人気ジャンルの一つです。 役者絵の買取価格は、作者や作品の状態・希少性などさまざまな要素で決まるため、適正な価値を正しく知っておく必要もあります。 役者絵(役者浮世絵)とは 役者絵とは、浮世絵の中でも特に、歌舞伎役者を描いた作品を指します。 1603年(慶長8年)、出雲の阿国が京都で「かぶき踊り」を創始、1624年(寛永元年)に京橋に中村座ができたことが歌舞伎の始まりです。当初は女性も出演していましたが、風紀を乱すという理由で幕府により禁止され、その後は男性俳優による古典演劇へと発展していきました。 その歌舞伎役者の舞台姿や似顔を版画にしたものが役者絵です。 最初の役者絵は、鳥居派の浮世絵師によって描かれました。当時はまだ役者の顔に似せて描かれてはおらず、類型的な表現にとどめられていました。 その後、勝川派の勝川春章(かつかわしゅんしょう)によって「似顔(にがお・実際の役者の顔に似せて描く)」が考案され、役者絵の形が次第に出来上がっていきます。 さらに、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が、役者の個性をデフォルメした「大首絵」を描いたことが話題に。 歌川豊国(うたがわとよくに)や歌川国貞(うたがわくにさだ)など、歌舞伎役者をより魅力的に描き出す浮世絵師たちが、次々に頭角を現しました。 役者浮世絵は高く売れる? 役者絵は人気が高く、鳥居派や勝川派・歌川派など、多くの有名浮世絵師によって手がけられてきました。 また、美術品としての価値が高いため需要があり、高価で取引されることも珍しくありません。役者絵の買取価格は、作者や作品の状態・付属品の有無などさまざまな要素で変動します。 役者絵を高価で買取して欲しい場合は、専門的な知識と経験を持つプロの査定士に依頼するのが良いでしょう。 人気歌舞伎役者の浮世絵 人気の歌舞伎役者の役者絵は、江戸時代から数多く残されています。 なかでも、歌舞伎界で現代まで続く人気を持つ「市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)」の役者絵は、多くの人々を魅了していました。 市川團十郎とは 市川團十郎は、歌舞伎役者の名跡(みょうせき) であり、江戸歌舞伎の始祖と言われる初代から現在の13代目まで、300年以上にわたって続いています。 歌舞伎における名跡とは、血縁や師弟関係により代々受け継がれてきた芸名です。 名跡の大きさや歴史の長さに応じて、役者の格や地位が決まりますが、市川團十郎の名跡は、歌舞伎界で最も権威ある大名跡だと言えます。 初代・市川團十郎は、ダイナミックな演技である「荒事(あらごと)」を得意とし、市川宗家の礎を築きました。 その後を継いだ歴代の市川團十郎も、写実的な演技である「実事(じつごと)」や優しく柔和な演技「和事(わごと)」など、個性に応じてさまざまな芸風を磨き上げ、歌舞伎の発展に貢献したのです。 市川團十郎は、歌舞伎の名跡としてだけでなく、浮世絵の題材としても非常に人気が高く、多くの浮世絵師によって役者絵が描かれました。 東洲斎写楽が大首絵(歌舞伎役者や遊女などの上半身を描いた浮世絵版画)を描いた5代目。歌舞伎十八番(初代から4代目までが得意とした18の作品)を定め、敵役である「色悪(いろあく)」の芸を確立させた7代目。上品で美しい容姿により多くのファンを魅了した8代目などが浮世絵に描かれています。 なかでも8代目市川團十郎は、「死絵(しにえ)」という、役者を追悼する浮世絵が多数描かれたことでも有名です。 市川團十郎を描いた、浮世絵師たち 初代から続く市川團十郎の名跡は、歌舞伎界で圧倒的な影響力を持ち、彼らを描いた浮世絵は、時代を超えて名演を今へと伝える貴重な資料です。 当時、役者絵として市川團十郎をはじめとする歌舞伎の世界を描いたのは、どのような浮世絵師たちだったのでしょうか。 歌川豊国 作家名:歌川豊国(うたがわとよくに) 代表作:『役者舞台之姿絵 まさつや』『三代目市川高麗蔵の佐々木巌流』 歌川豊国は、1769年(明和6年)に木彫り人形師の子として生まれました。 幼少期に歌川派の創始者である歌川豊春(うたがわとよはる)の門人となっています。 絵師としてのキャリアは、1786年(天明6年)に発表した絵暦『年始の男女』や、1788年(天明8年)に描いた黄表紙(絵を主体とした滑稽文学)である『苦者楽元〆(くわらくのもとじめ)』の挿絵から始まったと言えます。 歌川豊国が浮世絵師として出世する転機となったのが、『役者舞台之姿絵(やくしゃぶたいのすがたえ)』でした。 この役者絵のシリーズは、当時の人気役者の姿を爽やかで清々しいタッチで描写したことから、大変好評を博しました。 衝撃のデビューから10ヶ月で姿を消した東洲斎写楽や、役者絵の大御所・勝川春英の引退もあり、歌川豊国は役者絵の世界を代表する存在となります。 歌川豊国は、美人画においても優れた作品を世に残しており、当時の人気絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と並ぶほどの人気を得ました。 さらに、版本の挿絵では葛飾北斎とも人気を争ったことから、歌川豊国がいかに幅広い画力を持っていたかがうかがえるでしょう。 歌川国貞 作家名:歌川国貞(うたがわくにさだ) 代表作:『東海道五拾三次之内 京 石川五右衛門』『東海道坂下土山間 猪の鼻 勘平』 歌川国貞は、1786年(天明6年)に現在の東京都墨田区にある材木問屋の家に生まれ、少年時代から歌舞伎に魅了された歌川国貞は、役者絵を多数複写していました。その後、初代歌川豊国に認められ、彼の弟子としてすぐに才能を開花させたのです。 歌川豊国に弟子入りしたのは15歳のころでしたが、次の年には本の挿絵を描くようになり、その後も精力的に作品を発表していきました。 1815年には、役者の錦絵を出版することとなり、美人画や合巻(ごうかん:黄表紙を数冊綴じたもの)の挿絵など、幅広い分野で活躍しました。 歌川国貞が生涯で描いた作品は、20,000点以上に及ぶとされ、浮世絵師の中でも特に多作な絵師として知られています。 1844年(天保15年)に、師匠である歌川豊国の名を継ぎ「2代歌川豊国」を名乗りましたが、2代はすでに歌川豊重が襲名していたため、歌川国貞は一般的に「3代歌川豊国」と呼ばれています。 歌川国貞は、浮世絵に対する幕府の規制が厳しい中、独自のスタイルを確立しました。 歌川国貞の役者絵は「面長猪首」と呼ばれる特徴的なもので、役者の細長い顔と太く短い首を強調した手法が魅力の一つです。 東洲斎写楽 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、1794年(寛政6年)の浮世絵界に突如として現れた正体不明の絵師です。 東洲斎写楽のプロフィールはほとんど知られていませんが、10ヶ月という短い活動期間の中で140点あまりの作品を残し、人々に強烈なインパクトを与えました。 東洲斎写楽の役者絵は、役者本人の特徴を誇張し、役者の人間性や演技力を鮮明に表現する点です。 歌舞伎役者を単純に美しいもの、煌びやかなものとして描くだけではなく、個性や内面に迫る表現手法をとり、革新的な役者絵で人々を魅了しました。 東洲斎写楽の代表作とも言える『市川鰕蔵の竹村定之進(いちかわえびぞうのたけむらさだのしん)』は、市川鰕蔵(のちの5代目市川團十郎)の姿を描いた作品です。市川團十郎の堂々たる風格や豊かな表情が、特徴をデフォルメした形で描かれており、役者の魅力を際立たせる作品と言えます。 東洲斎写楽は、浮世絵界に出現したときと同様に、突然その姿を消してしまいました。 東洲斎写楽が誰で、どのような背景を持つ人物だったのかについては、現在になっても明らかになっていません。しかし、彼の作品が美術史上で重要な位置を占めていることは間違いありません。 役者絵はなぜ人気だったのか 庶民の間で大人気となった役者絵は、どのような理由でそれほどの人気を得ていたのでしょうか。 役者絵の人気について考えるためには、歌舞伎が庶民の間でどのような位置づけ出会ったかを知る必要があります。 庶民最大の娯楽・歌舞伎 歌舞伎は、江戸時代に庶民の間で大流行した伝統芸能であり、江戸の文化風俗を語るために欠かすことのできない存在です。 歌舞伎の始まりは、京都で「出雲阿国(いずものおくに)」という巫女出身の女性が奇抜な服装で踊った「かぶき踊り」とされています。 かぶき踊りは、遊女や若者たちに広まりますが、風紀を乱すとの理由で幕府から禁止されてしまいました。その後、成人男性が演じる「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が登場し、今も受け継がれる歌舞伎へと発展していったのです。 歌舞伎は、江戸の町人文化や気質を反映した演目や役者・演出によって、観客の心を掴むことに成功しました。歌舞伎役者は、庶民にとってのアイドルとも言える存在で、ファッションの参考や憧れの対象であったようです。 歌舞伎の舞台装置や派手な演出も、庶民の目を大いに惹きつけました。 歌舞伎の興行は、1回の演目を観るのに半日かかる長丁場ですが、その舞台の迫力と臨場感に、庶民たちは飽きることなく魅入っていたのでしょう。 「ブロマイド」の役割だった役者絵 歌舞伎は庶民の間で大流行しており、歌舞伎役者たちは、庶民の憧れるスターやファッションリーダーたる存在でした。そのため、歌舞伎役者たちを描いた浮世絵である「役者絵」も、庶民がこぞって買い求めるアイテムとなったのです。 役者絵は、歌舞伎役者が舞台で演じる姿や、日常での様子などを描き、現代でいうブロマイドのような役割を果たしていました。舞台の一場面を描いたものは「芝居絵」と呼ばれ、役者絵の中でも興行を広告するチラシのようなものだったようです。 役者絵の分野では、特に歌川派が江戸の浮世絵界をリードしました。歌川派の中でも、歌川豊国は一世を風靡し、活躍する歌舞伎役者たちの姿や魅力を広く人々に伝えました。 人気の役者浮世絵の買取は、プロの買取業者・査定士へ相談を! 役者絵は、江戸時代から明治時代にかけて国内外で愛好されてきた浮世絵の中でも、特に人気の高い。役者絵は、歌舞伎の舞台で活躍する役者を、個性豊かな浮世絵師たちがさまざまに描いた作品で、美術史上でも重要な位置を占めています。 役者絵の買取価格は、作者や状態の良し悪し、作品の希少性や描かれた時代など、さまざまな要素により変動します。 適正な買取価格を求めるならば、役者絵を熟知したプロの査定士に相談することが重要です。 高価買取の機会を逃さないために、役者浮世絵の買取は、プロの査定士へぜひご相談ください。
2024.08.13
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人気浮世絵師・写楽や歌麿も描いた大首絵は高く買い取ってもらえる?
浮世絵といえば、江戸時代から明治時代にかけて、庶民の娯楽として大流行した木版画です。 人気浮世絵師の手がけた作品は、状態が良ければ高値をつけてもらえる可能性があります。 東洲斎写楽や喜多川歌麿など、一世を風靡した浮世絵師たちの描いた「大首絵」などをお持ちの方は、プロの査定士に見てもらうことをお勧めします。 人気浮世絵師も描いた大首絵は高価買取できるかも 歌舞伎役者を描いた「大首絵」を描いた浮世絵師は、数多く存在し、今でも多くの作品が残されています。 人気浮世絵師による「大首絵」を高価買取してもらうため、どのような点に注意すれば良いのでしょうか。 大首絵とは 「大首絵(おおくびえ)」とは、浮世絵版画の中でも特に、人物の顔または上半身を大きく描いた一枚摺りの作品です。 大首絵は、主に美人画や役者絵に見られ、被写体の特徴や表情が強調される点が魅力です。 役者の個性や役柄の持ち味を、個性的な表現で描写した作品が多数存在し、国内・国外を問わず高い人気を誇ります。 大首絵の中でも、顔だけを大きく描いた作品は「大顔絵(おおかおえ)」と呼ばれ、勝川春章や勝川春好ら、勝川派の絵師が起源とされます。 大首絵は、1716〜1736年ごろ、鳥居清信が描いた漆絵が起源と考えられていますが、当時はまだ作品数があまりありませんでした。その後、1772〜1781年ごろになると、徐々に大首絵が増えていきます。 1781〜1789年ごろには、大首絵を描く浮世絵師が多数登場し、役者絵では東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、美人画では喜多川歌麿(きたがわうたまろ)が活躍。彼らの描いた浮世絵は、大首絵の人気を一気に押し上げたと言えるでしょう。 美人画の名作を多数残した喜多川歌麿と、突如登場して役者絵に革命をもたらした東洲斎写楽。 同じ時代に活躍したこの2人は、大首絵の世界で双璧をなす存在です。 大首絵の浮世絵は高く売れる? 大首絵の浮世絵は、喜多川歌麿や東洲斎写楽など、美人画や役者絵の人気浮世絵師によって数多く制作され、独特の魅力や芸術性が高く評価されています。 大首絵は、浮世絵の中でも特に人気の高いジャンルで、人気絵師の作品や保管状態の良いものは高価買取の可能性が十分にあるでしょう。 大首絵にはどんな浮世絵があった? 大首絵を代表する浮世絵師として、美人画の喜多川歌麿と、役者絵の東洲斎写楽を抜きにしては語れません。 大首絵の傑作として名高い作品には、具体的にどのような浮世絵があったのでしょうか。 美人画『寛政三美人』 作家名:喜多川歌麿(きたがわうたまろ) 喜多川歌麿は、1753年(宝暦3年)に生まれたとされる浮世絵師です。 しかし、生年や出身地は、はっきりとわかっていません。キャリア初期には、妖怪や幽霊の浮世絵で知られる鳥山石燕(とりやませきえん)に師事し、幅広いジャンルで才能を開花させ、特に美人画において名を馳せました。 1788〜1789年ごろに狂歌絵本の挿絵を手がけ、1790年頃から美人大首絵を描き始めてから、大きな人気を得るようになります。 喜多川歌麿の美人画は、当時一般的だった全身像だけでなく、顔を中心とした構図が特徴的でした。 喜多川歌麿の美人画として有名な『寛政三美人(かんせいさんびじん)』は、1793年(寛政5年)ごろの作品です。 当時の美人画としては珍しく、記号化された美人ではなく、3人それぞれの容貌が写実的に描き分けられている点が最大の特徴と言えるでしょう。 寛政三美人に描かれたのは、当時並ぶもののいない美人として評判だった、富本豊雛(とみもととよひな)、難波屋おきた(なにわやおきた)、高島屋おひさ(たかしまやおひさ)の3人です。 喜多川歌麿は、彼女たちの浮世絵をほかにもいくつか描いています。 役者絵(歌舞伎絵)『大谷鬼次の奴江戸兵衛』 作家名:東洲斎写楽 東洲斎写楽は、1794年(寛政6年)に突如現れ、約10か月の間に140点あまりの作品を発表した生没年不明の浮世絵師です。 東洲斎写楽は、江戸の版元である蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)の下で、歌舞伎役者の大首絵28図を一挙に出版し、一躍注目を集めました。 しかし、鮮烈なデビューからの短い活動期間の後、東洲斎写楽は表舞台から忽然と姿を消し、彼の詳しいプロフィールや正体はいまだ明らかになっていません。 東洲斎写楽の描く役者絵の特徴は、役者の個性を大胆にデフォルメして描き出すことにあります。 役者絵は、役者を美化して描くことがあたり前でしたが、東洲斎写楽はあえて役者の個性や人間的な魅力を大胆に表現しました。役者の特徴的な顔立ちをリアルに捉え、誇張して描くことにより、内面的な魅力や演技力までもが表現されているかのように見える点が、東洲斎写楽の役者絵の魅力です。 東洲斎写楽の代表作として『大谷鬼次の奴江戸兵衛(おおたにおにじのやっこえどべえ)』を挙げる方は多いのではないでしょうか。 この作品に描かれた人物は、中村仲蔵(なかむらなかぞう)という江戸時代後期の歌舞伎役者ですが、歌舞伎役者としてではなく、東洲斎写楽の浮世絵で特に有名な人物です。 『大谷鬼次の奴江戸兵衛』にも顕著ですが、東洲斎写楽の作品には、緻密に計算された役者の身体表現が見られます。役者の表情や手の動きの一つひとつに、彼らの内面や緊張感、そして魂までが映し出されているかのようです。 大首絵の魅力…繊細に描かれた、髪の毛やまつ毛 美人画や役者絵などの浮世絵で、特に美しく繊細に描かれている部分が、髪の毛やまつ毛などの毛です。 特に顔周りが大きく描かれる「大首絵」の場合、髪の毛やまつ毛が非常に細やかに描写されており、注目して見るとそのあまりの繊細さに魅了されてしまうでしょう。 美人画を中心に用いられる、この表現技法は「毛割(けわり)」と呼ばれます。 毛割は、髪の毛一本一本を細い線で表現する版画の技法で、髪の生え際やまつ毛の微かな描写に用いられることの多いテクニックです。 毛割には主に「通し毛」・「八重毛」と呼ばれる2つの技法があります。 「通し毛」は、髪の毛を長く彫る方法で、滑らかに髪の毛を表現する方法です。 一方で「八重毛」は、生え際や襟足を櫛で梳いたように、複雑かつ美しく表現できます。 髪の毛の一本にまで気を配る毛割の技法は、特に喜多川歌麿の美人大首絵が描かれていたころに発展しました。 髪の毛に対する毛割の技法は、女性の表情を自然に、そして魅力的に描く上で重要な技法であると言えるでしょう。この技法は非常に難しいものでしたが、彫師にとっては腕の見せどころであり、親方格の「頭彫(かしらぼり)」と呼ばれる立場の人物が担当したようです。 毛割の技術は、喜多川歌麿の全盛期である1790年代ごろに、大首絵ならではの技法として確立し、浮世絵師たちは、さらなる芸術性と美の追求の道へと進んで行きました。 人気の大首絵浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 美人画や役者絵の中でも顔を大きく描いた「大首絵(おおくびえ)」は、1789年(寛政元年)ごろに登場した浮世絵のジャンルです。 美人画で有名な喜多川歌麿や、歌舞伎の役者絵で有名な東洲斎写楽なども、大首絵を多数残しており、誰しもが思い浮かべる有名な作品も多数あります。 大首絵は、被写体の細かな表情や動き、髪の毛やまつ毛などの細部まで繊細に表現されており、浮世絵の高度な技術と美意識の現れと言えるでしょう。 浮世絵の中でも人気の高いジャンルとして知られ、高価で取り扱われている作品も多いのが特徴です。 大首絵の買取価格は、作者や作品の状態、希少性や描かれた時期など、さまざまな要素によって変動します。 適正な買取価格を求めるならば、知識と経験豊富なプロの査定士に依頼することが重要。 高価買取の機会を逃さないためにも、大首絵浮世絵の買取は、プロの査定士へご相談ください。
2024.08.13
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近年再注目!春画は高価買取が期待できる浮世絵ジャンル
江戸時代に広がった浮世絵は、当時の風俗、特に役者や遊女などを題材に描かれた絵画で、庶民にまで広がった娯楽の1つです。 なかでも春画は、日本独自の風俗を反映している史料としても人気が高まっているため、近年注目を集めている浮世絵ジャンルの1つなのです。 春画浮世絵は高価買取が期待できる! 浮世絵の中でも春画は、文化的な価値の高さからコレクターの間で人気が高く、その結果買取価格が上昇しています。 春画は、江戸時代の著名な画家がこぞって制作したため、骨董品店で販売されている商品が価値の高いものであることも少なくありません。 また、家族が所有していたコレクションなど、相続や遺品整理のタイミングで見つかることもあるため、査定を依頼した際には、高額な査定額がつく場合もあります。 春画とは 春画とは、浮世絵のジャンルの一つです。江戸時代の風俗模様や風景を描くことが多かった浮世絵の中でも、春画は庶民の営みを赤裸々に綴った作品として、有名無名に限らず多くの作家によって精力的な制作活動が繰り広げられました。 木版浮世絵の祖として知られる菱川師宣は、生涯手がけた作品の実に3分の1が春画だったといわれるほど、心血を注いで作品を制作していたことが知られています。 現代においては、歴史の風俗資料としてだけでなく、東洋のポップアートとして注目を浴びています。 国内外でも展示会が開催されるなど、アートとしての魅力にスポットがあたったことで、人気の高い一大コンテンツとして再注目されるようになりました。 春画浮世絵は高く売れる? 春画のアートとしての人気は年々高まっており、商品価値は高騰しています。 国内外とも展示会が開催されるほど注目を浴びているため、コレクターたちによる収集が盛んに行われていることは、想像に難くありません。 また、春画は庶民の生活に根ざした芸術作品だったため、意外と実家に眠っていることがよくあります。 祖父母から資産相続を受ける場合や、遺品を整理する場面で見つかることも多々あるため、もし春画がご自宅にあれば、買取査定を依頼してみてはいかがでしょうか。 春画をはじめとした浮世絵を専門に取り扱っている専門業者も多数いるため、実績があり信頼できる会社へ相談してみましょう。 人気浮世絵師がこぞって描いた、春画 春画は江戸時代の生活を描いた浮世絵として有名ですが、始まりは平安時代まで遡ります。内容は男女の営みであるため、しばしば公権力によって風紀良俗を乱すものとして弾圧されてきた過去をもちます。 しかし、江戸時代に至ると春画は、人々の娯楽や嫁入り道具になるほど人々の生活の奥深くに浸透してきました。 そのため、歴史で学ぶような有名な浮世絵師をはじめとする数多くの作家が、作品を残しています。 一流浮世絵師の証、春画 今人気の高まっている春画ですが、一流の浮世絵師も精力的に作品を残しています。 「性」に対しておおらかな時代背景だった中世の日本において、貴族から庶民まで春画は、大変人気を博していました。 ところが、第5代将軍徳川吉宗によって発布された「好色本禁止令」によって表立った制作は禁止されてしまい、一時存続の危機に陥っています。 しかし、裕福な好事家たちは、春画の入手を諦められなかったため、人気絵師たちに秘密裏に春画を作成させたのです。 その結果、人気絵師になると春画の制作を依頼されるようになるため、画家の間では「春画の制作=一流絵師の仲間入り」とまで称されるほど。 このような流れから、葛飾北斎や喜多川歌麿のような誰もが知る有名画家も多数の春画を残してきています。 『蛸と海女』葛飾北斎 葛飾北斎は『冨獄三十六景』をはじめとした名作を生み出した、江戸時代を代表する一流の浮世絵師です。 生まれは貧しい百姓の家に生まれた彼は、4歳のときに幕府御用達達磨師の中島家の養子として迎え入れられましたが、実子に家督を譲ることになったため、中島家を出ます。 人生の岐路に立った葛飾北斎は、さまざまな仕事を経験しながら、木版彫刻家に弟子入りしたことで画家の道に興味をもちました。 浮世絵師の勝川春章に師事しながら画道を極めていた葛飾北斎ですが、浮世絵の上達のために、師が教える派閥を超えた画法も積極的に学んでいたことで破門されます。 その後、会派に属することなく自由に描く身分になったとき、オランダから来た風景画に出会ったことで、現代に残る独自のスタイルに行きついたようです。 その後も、北斎は後世に語り継がれるような作品を多く描いていきましたが、生活には困窮していたとのこと。 生活するための収入を得るために、春画をはじめとしたあらゆる絵図を描いたとされ、葛飾北斎の代表的な春画である『蛸と海女』は、彼が浮世絵師として生きるために描いた作品の1つだったとされます。 この2匹の蛸による海女の女性の快楽が描かれた『蛸と海女』は通称で原題はなく、『喜能会之故真通』(きのえのこまつ・全三巻)中の一場面にあります。画面いっぱいに書かれた詞書には、蛸や女から発せられる台詞や音が書かれており、これは北斎自身も当時の春画から影響を受けたとも考えられていますが、この作品ものちに国内外のアーティストたちに多くのインスピレーションを与え、映画や絵画などのモチーフとなっています。 『風流真似ゑもん』鈴木春信 鈴木春信は、浮世絵を語る上で外せない錦絵の祖です。 超一流の浮世絵師であることに変わりありませんが、鈴木春の生涯は謎に包まれている点も多く、現在までの研究によって、鈴木春信は1725年に京都で生まれたとされています。 浮世絵師としてのキャリアは京都で始まったとされており、西川祐信に師事し、その後江戸に拠点を移しました。 江戸に移ってからは、近所に住む平賀源内と親交を深めながら錦絵の技術開発に精を出したようです。 錦絵が開発されるまでは、紅摺絵の技法を用いて浮世絵を制作していましたが、江戸時代におけるパトロンの助力により、ついに錦絵の技法を完成させます。 錦絵は浮世絵の木摺り技法の中でも、複数の色を使うことで色鮮やかな作品に仕上がる点が特徴で、錦織のように美しいことから名づけられました。 鈴木春信の作品では、絵暦で錦絵の技法が多用されています。 絵暦とは、その年の歴を添えた絵のこと。そのうちの『夕立図』では、夕立の中で風に吹かれながらも、急いで干した浴衣を取り込んでいる女性が描かれています。 鈴木春信は、錦絵で有名な浮世絵師ですが、実は春画本も23冊出しています。 鈴木春信は描いた春画の代表作が『風流真似ゑもん』です。 小さくなった真似ゑもんと呼ばれる人物が、江戸に暮らすさまざまな人の情事を覗き見るという設定で描かれています。 『歌満くら』喜多川歌麿 喜多川歌麿もまた、浮世絵版画を語る上では外せない一流画家です。 浮世絵版画は、菱川師宣らにより興され、前述の鈴木春信らによって錦絵に昇華し、喜多川歌麿によって完成されました。 喜多川歌麿は、狩野派の鳥山石燕に師事し、絵画の道を極めました。当初は、木燕や燕岱斎、北川豊章と称して活動していましたが、天明の後半に至り喜多川歌麿の名を冠し、主に美人画を生み出していきます。 美人画を描き始めたはしりには、鈴木春信らの伝統を重んじた全身像を取り入れていますが、浮世絵師としてのキャリアを積むにつれ、上半身の美人画にシフトしていきました。 そして、寛政時代に至り大首絵と呼ばれる半身美人画を完成させます。 この大首絵は、のちの東洲斎写楽や歌川豊国の画風に取り入られるほど、ほかの作品に大きな影響を与えています。 このように、ほかの画家に多大なる影響を与えた喜多川歌麿でしたが、彼が生み出した作品のほとんどが春画だったようで、その中でもとりわけ有名なのが『歌満くら』ではないでしょうか。 喜多川歌麿が描いた春画に『歌満くら』があります。35歳ごろに描いた全12図からなる春画作品です。 大胆な構図と男性側の冷え切った目が印象的な作品で、喜多川歌麿が描いた作品の中でも最高傑作であるといわれています。 春画は「ポルノ」ではない?なぜ多くの人に支持されたか 春画は描かれている題材が性にまつわるものであるため、しばしば「ポルノ」と捉えられることが少なくありません。 明治時代においては「わいせつだ」として禁止されています。 しかし、春画が多くの人に楽しまれていた江戸時代においては「笑い絵」として、人々の生活の一部として根付いてきました。 日常生活の中で春画はどのように取り入れられていたのでしょうか。 嫁入り道具 春画は嫁入り道具として重宝されていたようです。 主に男女の営みを題材にした作品が多かったため、江戸時代中期には、婚礼仕様書としての役割をもった作品が多数制作されています。 婚礼に関する心得や、新婚生活における新郎新婦の振る舞い方がイラストとともにわかりやすく表現されていたため、これから結婚を控えている男女や、新婦として嫁ぐ際の事前勉強をかねて楽しまれていたようです。 火除け また、イメージが湧かないかもしれませんが、春画は火除けとしての役割も担っていました。 この理由として、明和期に京都で発生した火災が原因とする説があります。このとき、京都市中で発生した火災は、広範囲を焼き尽くしましたが、一棟のみ倉庫が焼け残っています。鎮火後に倉庫内を見てみると月岡雪鼎作の春画が小箱に入っており、火災の被害から免れたことがわかりました。 その結果、月岡雪鼎作の春画は、火の手から守ってくれる火伏せの効果があるとして大変な人気を誇ったといわれています。 験担ぎ 春画が験担ぎとされる謂れは、なんと平安時代まで遡ります。 平安時代の貴族の嗜みとして催された絵合わせにて、春画がほかの絵に勝ったことが説の発端です。 その絵は、当時のとあるモテ男の寝室をモチーフに描かれていたようですが、参加者の注目を浴び華々しい戦績をあげました。その結果、「勝絵」という縁起の良いものとしての別名が春画につきました。 このように、単なる娯楽の一つとして春画は消費されず、人々の生活や文化に根ざしてきたことで、今に至るまで多くの人に愛されるコンテンツとして普及しています。 近年人気が再燃する、春画浮世絵 単なる「ポルノ」ではなく、日本を代表する文化やアートとして現代に受け継がれてきた春画であるからこそ、近年人気が再燃しています。 再燃のきっかけとなったのは、2013年にイギリス・大英博物館で開催された春画展でした。 開催期間は、2013年10月から2014年1月まで催され、イギリスをはじめ世界中の国々から来場者を動員するなど大きな賑わいを残しています。 入場に年齢制限を設けるなど異例な措置がとられた春画展でしたが、「人類史上、最もきわどくて素敵」(英紙・インディペンデント)と評価されるなど、各国のメディアからも高い評価を得たことは、記憶に新しいでしょう。 また、2015年には国内で初めて大規模な春画展が開催されました。 国内外の美術館や個人コレクターの所持品から「春画の名作」を集めた壮大な展示会です。 木版画が多かった浮世絵ですが、肉筆画も多数展示されており、鈴木春信や葛飾北斎、喜多川歌麿をはじめとした浮世絵絵師の大家たちの作品が一堂に会した会場は、荘厳な雰囲気に包まれていました。 人気の春画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 春画は当時の風俗を知る歴史的な史料としても、人々の生活の一部だった娯楽としても非常に価値の高い作品です。 一方で、当時の人々が気軽に楽しめたコンテンツだったからこそ、実家の蔵や箪笥の中に眠っているほど作品点数が多く、十分に流通していたことが伺えます。 そして、その中に非常に価値の高い作品や希少性の高い作品が眠っているかもしれません。 春画を手放したい方はもちろんのこと、所持品の価値を知りたい方も、まずはプロの査定士へ相談してみてはいかがでしょうか。 経験と実績のある買取業者を選ぶことで想像以上の高価買取が実現することもあるため、まずは相談してみましょう。
2024.08.13
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浮世絵の当時の価格は?江戸時代に庶民の間で普及した理由
現代でも人気の高い浮世絵が、江戸時代にどれくらいの価格で販売されていたのか気になる方も多いのではないでしょうか。 美術作品としても親しまれている浮世絵は、江戸時代は庶民の娯楽の1つでもありました。 販売価格を確認するとともに、庶民に広く親しまれた背景を知ることで、より浮世絵の魅力を深められるでしょう。 江戸時代当時の浮世絵の価格は? 江戸時代ごろから日本の町民に親しまれてきた浮世絵。 現代では、10,000円ほどで購入が可能です。 浮世絵が広がり始めた江戸時代ごろでは、いくらで販売されていたのか気になる人も多いのではないでしょうか。 当時の価格と現在の価格に大きな差のある、有名作品も多くあります。当時の販売価格を知って、江戸時代の庶民たちに愛されてきた背景を探りましょう。 江戸時代当時の浮世絵価格 浮世絵が大流行していた江戸時代では、8~20文ほどで作品が販売されていました。 江戸時代の物価は、前期・中期・後期で変動しますが、小判1枚=金1両=4,000文に相当するとされています。 現在の価値になおすと、金1両あたり約8万円といわれています。 つまり、8万円÷4,000文となり、1文は約20円。江戸時代のそば1杯の価格が16文(約320円)だったため、浮世絵はそばを食べるのと同じくらいの金額で購入できたとわかります。 また、浮世絵の価格は作品のサイズによっても異なります。 一般的な多色摺版画サイズの大判は20文ほど、ブロマイドのような扱いであった役者絵は、8文ほどで購入が可能でした。 人気の低い作品は、3~6文ほどの手軽な価格で販売されていたといわれています。 浮世絵は、日本橋をメインに江戸一帯に存在していた、絵草子屋と呼ばれる浮世絵販売専門店で購入ができました。 身分にかかわらず誰でも購入できたため、庶民にも広く知れ渡ったといえるでしょう。 春画や風刺画など、当時幕府の統制がかかっていた作品も、ひそかに販売されていました。また、江戸に住む人々だけではなく地方から訪れた人々が、江戸土産として購入するケースも多くありました。 版画の技術が浮世絵を庶民に広めた 浮世絵が江戸時代の庶民に広がり、大衆文化として愛されるようになったのは、版画技術の発展が関係しています。 木版画の技術が向上し、役者や美人などの身近な題材が描かれるようになったのと、大衆向けの読み物が流行していたのがきっかけとなりました。 最初は、書道に用いられる墨一色で描かれていた浮世絵でしたが、筆で色をつけた作品も制作されるようになっていきます。 より色鮮やかな作品が見たいという人々のニーズに応えるために、筆で色付けを行うのではなく、色を乗せる部分も版画として摺り重ねる技術が発展していきました。2・3色だけの重ね摺りだったのが、版画技術の進歩により多彩な色を摺り重ねられるようになっていったのです。 版画によって描かれていた浮世絵は、版木が一度完成すれば同じ絵を何枚も摺れるため、大量生産が可能でした。 そのため、民衆の高まる需要にも応えられ、大衆文化として広まっていきました。 浮世絵版画と肉筆浮世絵 浮世絵版画とは、木製の原版を利用して描かれた浮世絵を指します。 まず、浮世絵師が版画のデザインとなる原画を描きます。 彫師は、原画をもとに木製の板を彫る職人です。 彫師の作業により版木が完成します。その後、摺師の手によって版木に彫られた画を紙に摺っていきます。 一方、肉筆浮世絵とは、浮世絵師が直筆で描いた一点物の作品。一般的な絵画同様に、同じ作品は存在せず一点物であったため、当時でも高価な美術品でした。 浮世絵が誕生した当初は、浮世絵師が筆をとって一枚一枚描いていました。 庶民の需要が高まるとともに木版技術が発展していったため、同じ絵を多く制作できるようになり、庶民に広く親しまれるようになったのです。 江戸時代当時の浮世絵の役割 江戸時代から多くの庶民に愛され、現代でも人気の高い浮世絵。 現在は、価値ある美術作品として鑑賞されることの多い浮世絵ですが、江戸時代に描かれていた当時は、どのような役割があったのか気になる方も多いのではないでしょうか。 当時の浮世絵は、単なる絵画ではなく情報誌やファッション誌のような役割を担っていました。 ジャンルごとにどのような役割を果たしていたかは、以下のとおりです。 ・役者絵:ブロマイド ・美人画:ファッション誌 ・名所浮世絵:情報誌(ガイドブック) 歌川広重が描いたことでも有名な『東海道五十三次』は、徳川家康によって整備された江戸と京都を結ぶ東海道に点在する、53の宿場町を指しています。 江戸時代に旅行がブームとなり『東海道五十三次』を題材とした浮世絵は、ガイドブックの役割を果たしていました。 浮世絵は、単に鑑賞用の絵としてではなく、版画の技術が普及したことで庶民でも手軽に入手できる価格で普及しました。 手に入れやすい価格で急速に広まった浮世絵 浮世絵は、版画技術の発展により手ごろな価格で販売が可能になりました。 同じ絵をいくつも生産できるようになったため、庶民の間にも浮世絵が広がっていったのです。 浮世絵が江戸時代に人気を集めた背景を知り鑑賞すると、より違った魅力を発見できるでしょう。 版画と肉筆画どちらの浮世絵作品も、違った特徴と魅力を持っています。 ぜひ、特徴を理解したうえで改めて鑑賞を楽しんでみてください。
2024.08.13
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浮世絵の最高額作品、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』
浮世絵をはじめとした美術作品は、作品の質や画家の知名度などにより、時代が経つにつれて価値が上がっていくものもあります。 浮世絵は、日本だけではなく世界的に人気の美術作品です。 そのため、オークションでは、希少性の高い作品に驚くほどの価格がつくことも。 浮世絵の中でも、どのような作品が高額でやり取りされているのか確認してみましょう。 最高額の浮世絵、『神奈川沖浪裏』 最も高い金額でやり取りされた浮世絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『神奈川沖浪裏』です。 近年、浮世絵は海外のオークションでも人気が高まる一方。相場も大きく右肩上がりになっています。 『神奈川沖浪裏』のオークションは、2023年3月にニューヨークのクリスティーズで行われました。 入札価格は、なんと、280万ドル(約3億6000万円)。 過去の最高額も同じく『神奈川沖浪裏』で、2021年に159万ドルで落札されています。 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎が描いた傑作『富獄三十六景』の中の一作品であり、富士山の手前に大きな波が描かれたこの作品を、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 『富獄三十六景』は、富士山をさまざまな地域から描いた浮世絵で、その中で描かれている『神奈川沖浪裏』は、荒れ狂う海を進む押送船と富士山がテーマです。 葛飾北斎は、長寿であり遅咲きの浮世絵師として知られています。 この『神奈川沖浪裏』が描かれたのも、葛飾北斎が70歳のころです。 葛飾北斎の作品は、海を渡りゴッホやゴーギャンなど、海外の偉大な画家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎の作品を見てみると、1人の絵師が描いたとは思えないほど画風が違っているのです。これは、若くして狩野派や土佐派、西洋画法など、さまざまな画風の絵画を学んできたためと考えられます。 なぜ浮世絵は最高額を更新しつづけているのか 海外のオークションで浮世絵が最高額を更新しつづけるのには、海外人気の高い葛飾北斎が関係していると考えられます。 もちろん、葛飾北斎は日本でも人気の高い絵師の1人です。 しかし、アメリカの雑誌が1998年に発表した「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」に日本人として葛飾北斎が選ばれており、日本と海外では人気の度合いに大きな差があるといえるでしょう。 2017年には、イギリス・ロンドンにある大英博物館で特別展「北斎 - 大波の彼方へ」が開催され、大盛況を納めています。 海外人気が高い理由としては、葛飾北斎の斬新な画風が考えられます。 ルネサンス期から続くヨーロッパの絵画技法は、19世紀半ばごろに画一的になり、盛り上がりに欠ける一面がありました。その時期に、葛飾北斎の浮世絵がフランス・パリの万国博覧会で出展され、多くのヨーロッパ人に衝撃を与えたのです。 モネやルノワールなど印象派のフランス画家が、浮世絵をモチーフにした作品を次々に描き、ジャポニズムと呼ばれました。 浮世絵や葛飾北斎は、日本以上に海外からの人気を得ており、オークションを中心に最高額を更新しているといえるでしょう。 これからも浮世絵は最高額を更新する可能性が 海外人気が高く、オークションでも高値で取引されている浮世絵。 葛飾北斎が描いた『神奈川沖浪裏』は、2023年3月に280万ドル(約3億6000万円)で落札されています。 海外では、多くの有名画家が葛飾北斎の浮世絵に衝撃を受けています。 日本趣味や日本の芸術が西洋の芸術作品に影響を及ぼす、ジャポニズムと呼ばれる現象も引き起こしているのです。 このように、海外で高い人気を誇る浮世絵は、美術投資の一つとしても注目されています。 作品によっては、オークションにて高値でやり取りされることから、投資価値のある美術品として購入する人も増加傾向にあります。 海外での浮世絵人気は、今後も高まっていく可能性があり、オークションの最高額を更新する日もそう遠くはないでしょう。
2024.08.13
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浮世絵にある極印や改印とは?当時を知るための手がかりに
浮世絵とは、江戸時代に庶民の間で人気の高かった芸術作品の一つです。 現代では、歴史的価値のある美術品として認識されていますが、当時はファッション誌のような役割を担っていました。 浮世絵のデザインを楽しむとともに、浮世絵に押されている印にも一度目を向けてみましょう。 意味合いを知ることで、浮世絵の奥深さに気づけるかもしれません。 浮世絵にある極印とは 浮世絵には、さまざまな印が押されており、その一つが、極印です。 極印はほかの印同様に、大事な役割を担っています。 浮世絵に押される印の意味を把握して、浮世絵の価値を知るためのきっかけにしましょう。 極印(きわめいん)とは 極印とは、江戸時代に制作された浮世絵版画を刊行する際に、検閲済みの証拠として版画に刷られた印。丸のなかに「極」の字が書かれています。 また、浮世絵だけではなく、金貨や銀貨、器物などの品質保証や偽造防止のためにも用いられていました。 時代を知る手がかりとなる、極印 1790年に行われた改革の一環として、町奉行が出版取締令を出したことで、極印が用いられるようになりました。 地本問屋に関する検閲制度がスタートしたのです。主に政治批判や風紀風俗の乱れ、奢侈の3点が取り締まりの対象でした。 幕府に対する批判と少しでも疑われるものは処罰の対象となっており、徳川家やその時代の事件や出来事をモチーフとすることが禁じられていました。 検閲を受けるタイミングは、版本では作者の稿本が完成したとき、版画では画工の板下絵が完成したときです。 稿本や板下絵が完成すると、地本問屋行事や名主の下へ提出します。 幕府を批判するような内容が書かれていないことを確認して出版許可が下りると、極と記載された改印が押されます。 江戸時代の後期からは、極印のほかにも検閲した年月を表す干支や漢数字の印が押されたため、現代においては作品の制作年月を知る重要な手がかりの一つです。検閲制度は、1875年に廃止されましたが、改印に代わり作者と版元の住所や氏名を明記することが義務付けられました。 浮世絵師だけではない!浮世絵に携わる人たち 浮世絵の制作にかかわっているのは、浮世絵師だけではありません。 浮世絵は、いくつかの手順に分業して、それぞれ専門分野の人たちが担い、作られています。 現代でいう出版社の役割は、版元が行っていました。 浮世絵を販売するお店のことで、商品の企画やプロデュースを行います。 出版全体を担う責任者の役割があり、どのような浮世絵であれば人気が出るかを見極める能力が必要な職種です。 浮世絵の制作には、3種類の職人が携わっています。 1人目は、浮世絵の原画を描く「絵師」です。 原画は、一般的にモノクロで描かれていました。また、描く精度は人それぞれで、髪の毛1本1本丁寧に書き込む絵師もいれば、大まかなデザインを描き、あとは彫師にお願いする絵師もいました。 江戸時代の有名絵師には、葛飾北斎(かつしかほくさい)や歌川国芳(うたがわくによし)などがいます。 多くの絵師は、木版画の原画だけではなく、肉筆画も制作しています。 2人目は、木版画の板を彫る「彫師」です。 絵師が描いたデザインを、木製の板に彫っていきます。1つの作品を複数の彫師が担うケースもあります。 3人目は、彫師が彫った版木に顔料を染み込ませて和紙に摺る「摺師」です。 このように、浮世絵は工程ごとに職人が分かれており、複数の職人の技術が合わさって制作されています。 極印以外にもある、さまざまな印 浮世絵には、さまざまな印が押されています。 一つは、落款印と呼ばれる浮世絵師のサインである判子です。 絵師の雅号が変わると落款印も変わるため、落款印からは絵師を判断するだけではなく、描かれた年代を推察することも可能です。 また、江戸時代の検閲が行われていたころには、幕府がチェックし出版を認めた証として、改印が押されました。極と書かれた字の判子で、出版統制によって押されるようになったものです。 そのほかにも、版元印や彫師の印、摺師の印、名主印、年月印などさまざまな印が押されています。 版元印とは、浮世絵版画の企画やプロデュースを行ったのが誰であるかを表す印です。 浮世絵版画は、絵師が自由に描いて制作されているわけではなく、版元からの依頼によって描かれています。そのため、企画者が誰であるかを記録するために版元印が押されます。 江戸時代の出版を担っていた有名人物といえば、蔦屋重三郎です。蔦屋重三郎は、山形に蔦の葉のマークが描かれた版元を使用していました。 蔦屋重三郎がプロデュースした作品が数多く存在し、東洲斎写楽の『中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権』や、喜多川歌麿の『婦女人相十品 文読む女』にも、版元印が押されています。 浮世絵に押された印は、歴史的価値を知る貴重な手がかり 浮世絵に押されているさまざまな印は、浮世絵の価値や歴史を知るために必要な情報です。 落款印からは、どの絵師が描いた作品なのかがわかります。 極印は、江戸時代の校閲があったタイミングで制作された浮世絵であることを示しています。そのほかにも、年月印からは年代の特定が可能です。 作品のデザインだけではなく、印にも目を向けることで、鑑賞の楽しみが広がるでしょう。
2024.08.13
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その浮世絵は本物?贋作や復刻版との見分け方
江戸時代、大衆文化として人々から愛されていた浮世絵。 現代では、芸術的価値が高い作品も多く、有名浮世絵師の作品が高値でやり取りされるケースもあります。 人気の高い浮世絵作品ほど、贋作が多いのが現状。 贋作を誤って購入したり、本物だと思っていた所有する浮世絵が偽物でがっかりしたりしないよう、見極めのポイントを知っておくことが大切です。 浮世絵が本物かどうか見分けよう 現在、日本の浮世絵は、海外でも高い評価を受けています。 有名な浮世絵師の作品ほど贋作も多く出回っているため、購入を検討している場合は、真贋をチェックするポイントを知っておくとよいでしょう。 落款・印章は入っているか? 浮世絵が本物であるかどうかを確認するのに一番わかりやすいポイントが、落款・印章です。 そもそも、落款や印章がない作品もありますが、そのような浮世絵は、自分で価値を判断するのは難しいため、経験豊富な鑑定士に査定を依頼してみるとよいでしょう。 落款や印章がある作品は、デザインの違いを確認します。 浮世絵には、複数のサインや印が記されている場合があります。 それらは、浮世絵師のサインや版元のサイン、幕府が許可した作品であると示すための改印などです。 場合によっては、彫師や摺師の印が押されていることも。 本物の作品に記されているサインや印と見比べて、本物であるかを判断していきます。 現代では、サインまで精巧に作られた贋作も存在するため、素人目だけで断定はせず、目星をつけたうえで鑑定士に依頼すると、より信頼性の高い結果が得られるでしょう。 印刷ではないか? 浮世絵版画は、木版を紙に摺って制作されます。 そのため、作品を裏から観察してみると色のにじみがあります。このにじみが木版画として摺られた証拠です。 贋作の中には、木版で摺らずに印刷したものもあります。そのような偽物を判別する方法として、にじみをチェックしましょう。 「本物」だけど…価値ある浮世絵かどうかの見分け方 浮世絵作品は、ほかの芸術品と異なり、本物の作品が複数存在します。 これは、木版画によって大量生産が可能であったためです。一度木版画が完成すると、同じものを利用して何度も紙に摺って生産ができました。 しかし、本物の作品でも摺られた時期や、技術、復刻版であるかどうかなどにより、異なる価値をつけられるのが浮世絵の特徴です。 同じデザインの作品でも、作品のクオリティによって価値が異なるため、希少性の高い作品がどのようなものであるか、その特徴を確認しましょう。 復刻版ではない? 有名な浮世絵には、復刻版と呼ばれる作品があります。 この作品は、贋作ではありませんがオリジナルでもありません。 復刻版とは、かつての浮世絵師が描いたオリジナルデザインをもとに、現代の職人が版下絵を作成し、彫師が版木を彫って、摺師が和紙に摺ることで制作された作品です。 実際に木版画を作成して紙に摺られるため、オリジナルと同様のクオリティで制作できます。 しかし、オリジナルの浮世絵の方が歴史的価値が高いといえるでしょう。 オリジナルと復刻版の大きな違いは、サインの表記です。 かつての浮世絵は、版上にサインを摺っていましたが、復刻版では摺り終わった後に鉛筆で記入されている作品が多いようです。 復刻版は、歴史的価値以外はオリジナルと大差ありません。 そのため、作品そのものの美しさや味わいを楽しみたい方にとっては、復刻版の購入もお勧めです。 有名な浮世絵作品の手摺木版ならではの美しい色彩と風合いを楽しみたい方は、復刻版の購入も検討しましょう。 初摺?後摺? 浮世絵作品は、本物であっても初摺であるか、後摺であるかによって価値が大きく異なるケースもあります。 初摺とは、版木が完成して最初に摺られた200枚ほどの浮世絵のことです。 それ以降の増版された作品は、後摺と呼ばれています。 初摺は、浮世絵師が色を指定していることや、版木が摩耗していないことから、デザインを手がけた浮世絵師が理想とする状態を表現できている作品なのです。そのため、初摺の浮世絵は価値が高いといわれています。 もちろん、浮世絵作品によっては、後摺の方が風合いが出て魅力が増す場合もあります。 しかし、基本的に初摺は、色や線が鮮明に摺られているのに対して、後摺は版木の摩耗により線がぼやけていたり、一部が欠けていたりするでしょう。 また後摺は、浮世絵師が仕上がりをチェックしない場合も多いため、色の誤りや色抜け、位置ずれなどが起こってしまうケースも。 そのため、一般的には初摺の方が価値が高く、後摺になると価値が低くなるといわれているのです。 特殊な技法が使われているか? 彫師が版木を彫っていく工程や、摺師が版木を紙に摺っていく工程で、高度な技法が用いられているオリジナル版は、価値が高くなります。 彫師の技法の一つに「毛割」があります。 とくに美人画や役者絵の浮世絵作品で用いられる技法です。 人物の顔を大きくとらえた大首絵では、紙の流れるような描線や生え際の美しさも作品の魅力です。 この繊細な髪の毛の流れを表現するのが彫師の技でした。 毛割では、1mmに2本ほどの細かい彫を施すこともあります。繊細な髪の毛を表現するための毛割は、彫師の中でも頭彫と呼ばれる師匠クラスの職人しかできない最も難しい彫の技法とされていたため、髪の毛が繊細に表現されている浮世絵は、価値が高くなるといえるでしょう。 また、摺師の技法で、凹凸を表現する空摺や濃い色から薄い色に変化させるグラデーション、背景をムラなく色付けする地潰しなどがあります。 これらも摺師の高い技術力によって表現が可能なため、利用されている浮世絵は、価値が高くなると考えられるでしょう。 肉筆浮世絵の本物であれば、より価値が高い 浮世絵には、版木を用いて何枚も摺られる浮世絵版画と、浮世絵師が直接筆をとって和紙に描いていく肉筆画があります。 木版画で制作された浮世絵は、何枚も摺って作品を生産できますが、肉筆画は、この世に一つしかない作品です。 そのため、一点物の肉筆浮世絵の方が、浮世絵版画よりも価値が高くなるといえるでしょう。 多くの浮世絵師は、浮世絵版画を手がけるかたわら、肉筆画の制作も行っています。希少価値の高い浮世絵作品を鑑賞したい方は、肉筆画の作品をチェックしましょう。 実際にあった、贋作ばかりの入札会 1934年に起こった肉筆浮世絵の大規模な贋作事件「春峯庵事件」は、まるでドラマのような現実にあった贋作ばかりの入札会としてあまりに有名。 東京美術倶楽部で春峯庵と呼ばれる旧家の秘蔵品という触れ込みで、東洲斎写楽や喜多川歌麿などの肉筆浮世絵が入札会に出品されました。 大学教授で、当時の美術史研究の権威だった笹川臨風が、作品の推薦文を書いたことで信頼性が増し、多くの作品が売約済みとなりました。 しかし、後になってすべての肉筆浮世絵が贋作であると発覚したのです。 浮世絵骨董商や神官、出版業者などが関わる大がかりな犯行であったため、当時の日本において大きな衝撃を与えた事件でした。 人気の高い浮世絵だからこその事件。 実際に浮世絵には、贋作も多く出回っているので注意が必要です。 浮世絵が本物かどうか見分けるのは素人には難しい… 浮世絵はその人気ぶりから贋作も多く出回っています。 真贋を見極めるためには、落款や印章の特徴を本物と比較したり、和紙に版木を摺ったにじみがあるかを確認したりすることが大切です。 また、オリジナルではないが、贋作でもない復刻版と呼ばれる作品も存在します。 作品の特徴を理解することが真贋を見極めることにつながるでしょう。 売るときも購入するときも、まずはこのようなポイントをチェックすることが大切です。 しかし、人気の浮世絵ほどクオリティの高い贋作が作られているため、素人目で判断するのは難しい場合もあります。 そのため、浮世絵の真贋や価値を知りたい場合は、経験豊富なプロの買取業者へ査定を依頼するのがお勧めです。 所有している浮世絵が誰の作品であるか、本物であるかなどを知りたい方は、ぜひ一度プ相談してみてくださいね。
2024.08.13
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