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浮世絵のぼかしが表現する、空や時間のグラデーション
多くの浮世絵作品で美しく表現されているグラデーションは、摺師の技術により描かれています。主に天候や時間、季節を表すために用いられるぼかしの技術。この技術が絵師の描いた原画に命を吹き込んでいるともいえます。芸術的な美しさを表現するために欠かせないぼかしの技術について知見を深め、浮世絵鑑賞をより楽しめるようにしましょう。 浮世絵のグラデーション技法、「ぼかし」とは 浮世絵の摺りの技術で「ぼかし」と呼ばれるものがあります。浮世絵の色をぼかしたい部分の版木に水を含ませた布や刷毛をあてて濡らし、その上に絵具をおいてにじんできたところで紙に摺る技法です。この技法により、上から下へ徐々に色が薄くなっていく美しいグラデーションを表現できます。ぼかしの技術は、手法によりいくつかに種類が分かれています。 板ぼかし 板ぼかしとは、版木そのものに手を加える技法です。色面を出すための版木の部分を、平刀で斜めに彫ることで、紙につく色が平均的にならないようにします。摺ったときに自然なグラデーションの表現が可能です。 吹きぼかし(一文字ぼかし、天ぼかし) 吹きぼかしは、摺りの技法によるグラデーション表現の一種です。版木の上端に水平かつ直線的なぼかしを入れ、主に空を表現するぼかしを一文字ぼかしや天ぼかしといいます。 ぼかしによるグラデーションは、絵にメリハリをつけたり、奥行き感を出したりするために用いられていました。グラデーションの配色によって季節や時間、天候などの表現も可能です。鮮やかな青色で晴天の様子を、朱を用いれば夕焼けの様子、墨で描くと冬や雪、雨、夜などを表現できます。ぼかしによる美しいグラデーションは、浮世絵の魅力や可能性を広げる技法といえます。 ぼかしの技術は、摺師の腕の見せ所 吹きぼかしは、摺りの技法によるグラデーション表現の一種です。版木の上端に水平かつ直線的なぼかしを入れ、主に空を表現するぼかしを一文字ぼかしや天ぼかしといいます。 ぼかしによるグラデーションは、絵にメリハリをつけたり、奥行き感を出したりするために用いられていました。グラデーションの配色によって季節や時間、天候などの表現も可能です。鮮やかな青色で晴天の様子を、朱を用いれば夕焼けの様子、墨で描くと冬や雪、雨、夜などを表現できます。ぼかしによる美しいグラデーションは、浮世絵の魅力や可能性を広げる技法といえます。 葛飾北斎『冨嶽三十六景 凱風快晴』 葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『冨嶽三十六景 凱風快晴』でも、美しいグラデーションが表現されています。日本人になじみ深い富士山が、赤く染まっている様子を描いた作品です。富士山の赤と空の藍のコントラストが印象深い作品ですが、実はグラデーションにより立体感が表現され、迫力のある印象を生み出しているのです。 作品の上部から帯状にぼかしを入れることで、空の広がりを表現しています。また、地平線部分にも淡いぼかしを入れることで奥行き感が出ています。富士山の自然の美を際立たせているのは、ぼかしによるグラデーションであるともいえるでしょう。 歌川広重『江戸名所百景 大はしあたけの夕立』 隅田川にかかる大はしを俯瞰で描いた『江戸名所百景大はしあたけの夕立』。突然の雨に降られるなか、橋を渡る人々の光景を描いた作品です。歌川広重(うたがわひろしげ)による浮世絵作品で、こちらにもぼかしによるグラデーションがうまく利用されています。作品上部には、摺師による当てなぼかしの技術により漆黒の暗雲が表現されており、激しい雨が降る悪天候が見て取れるでしょう。作品下部にもぼかし技法が取り入れられており、川の深さを濃い藍のグラデーションで表現しています。 『江戸名所百景大はしあたけの夕立』は、のちにゴッホが油彩模写で描いたことでも有名な浮世絵作品です。 実物の浮世絵を観賞すると、もっと「ぼかし」のすごさが分かる 浮世絵に用いられているぼかしによるグラデーションは、画像よりも実物を見るとよりその魅力に引き込まれます。摺師によるぼかしの技術のすごさや美しさを実感するためには、直接作品を鑑賞するのがお勧めです。ぼかし技法によるグラデーションで表現された、絵の背景を想像するのも楽しみ方の一つといえます。当時の技術が生んだ、美しい浮世絵の世界をぜひ見て楽しんでください。
2024.08.13
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墨一色から多色刷り、美しい錦絵へと進化した浮世絵
浮世絵は、墨一色から始まり多彩な色使いが行われるようになり、多くの名作を生んできました。 墨の濃淡で表された浮世絵と、多色摺りによって鮮やかな表現がされた浮世絵。 それぞれ違った良さがあります。 墨一色から鮮やかな錦絵に至るまで、どのような過程を経ていったのかを知ることで、より浮世絵の魅力が深まるでしょう。 浮世絵はもともと墨一色だった 江戸時代、町民の間で大きな流行りを見せた浮世絵。 現代に残っている作品を見てみると、色鮮やかに表現された浮世絵が目を引くのではないでしょうか。 しかし、浮世絵が誕生した当初は、色は使われておらず墨一色で描かれていました。 浮世絵は、浮世絵師が一つひとつ手書きで描く肉筆画から、大量印刷が可能な木版画に移行していきますが、挿絵と同様に墨一色で制作されています。 一つの絵柄から大量の作品を作り出せるようになった浮世絵は、庶民も気軽に楽しめる芸術作品として親しまれていました。 この墨一色で制作された初期の浮世絵は、黒摺絵とよばれています。 カラーになった浮世絵「丹絵」「紅絵」 墨一色で描かれていた浮世絵は、時代とともにさまざまな発展を遂げていき、のちに木版画に手で色を付ける浮世絵も誕生します。 色の付け方によって浮世絵の呼び名が異なり、朱色系の丹色をメインにした「丹絵」といいます。一方で、紅色をメインとしていた作品は、「紅絵」とよばれ区別されていました。 丹絵と紅絵は、原画を紙に摺った後に筆で色付けを行う手法ですが、のちに木版を摺る際に色付けを行う紅摺絵が誕生します。 紅摺絵は、紅や緑など補色関係にある2色をメインとして数色の色付けを行う手法です。 紅摺絵では使用する色の数は数種類程度と少なく、濃淡やグラデーションなどを付ける技術もまだありませんでした。 また、紅摺絵の制作が進み始めたころから、原画を描き色の指定を行う浮世絵師、木版画の板を彫る彫師、和紙に絵と色を摺っていく摺師の分業体制が確立されていきました。 錦絵の誕生でさらに表現の広がりを見せた浮世絵 紅摺絵の誕生により浮世絵作品に彩が生まれ、その後さらに制作技術が進んでいくと、より多くの色を使った錦絵が制作され始めるようになります。 多くの色を用いて描かれた浮世絵は、中国で作られた錦織の布地のように華やかで美しかったことから、錦絵とよばれるようになりました。 多色摺りが可能になったのは、複数の版木の位置を正確にあわせるための見当(けんとう)の技術が発展したためといわれています。 見当の位置に和紙を置くことで、色を重ねてもズレが生じることなく正確に摺れるようになりました。 そのため、多くの色を重ねられるようになったのです。 錦絵と浮世絵の違いが何かわからない方も多いでしょう。 錦絵は浮世絵の中の技法の一つです。 浮世絵は、江戸時代に描かれ始めた風俗画全般を指しており、その中でも多色摺りで制作されたものを錦絵といいます。 錦絵を初めて描いた、鈴木春信 作家名:鈴木春信(すずきはるのぶ) 代表作:『風流四季歌仙』『風流やつし七小町』 浮世絵の中でも、鮮やかな色使いで多くの人の目を惹きつけた錦絵。 最初に錦絵を描いたのは、鈴木春信であるといわれています。 鈴木春信は、錦絵の手法を活用して多くの美人画を制作しました。彼の浮世絵では、男女ともに華奢な姿で描かれているのが特徴。当時の江戸にはなじみが少なかった上方文化や、中国美人画に影響を受けた画風であったといわれています。 構図や構成は、京都で師事した西川祐信を参考にし、人物の描き方は、明朝時代に活躍した版画家「仇英」(きゅうえい)に影響を受けていたと考えられています。 鈴木春信は、版元からの資金援助を受けながら、錦絵の手法を発展させるために尽力を尽くしました。 デビュー作が1760年とされており、亡くなったのが1770年とされているため、わずか10年で浮世絵師としての活動を終えたと考えられています。 しかし、錦絵の発展に貢献した鈴木春信が浮世絵の世界に与えた影響は、大きなものであったといえるでしょう。 最盛期を迎えた錦絵 色鮮やかな錦絵は、富裕層だけではなく、庶民の間でも人気を集めていました。 錦絵は1804~1830年ごろに最盛期を迎えます。 浮世絵をスピーディーかつ大量に摺る技術が発展していったため、華やかな錦絵も庶民が手ごろな価格で購入できるようになったのです。 大判の錦絵は、そば1杯ほどの価格で販売されていたといわれています。 錦絵の中でも、とくに歌舞伎役者を題材とした役者絵や、美人を描いた美人画、相撲絵、武者絵などは人気が高く、現在でいうブロマイドのような扱いを受けていました。 また、全国各地の景勝地を描いた風景画の錦絵は、旅行のガイドマップのような役割を担っており、自分で旅行へなかなか行けない人にとっては、絵で旅行をした気分になれるとして親しまれていました。 名所絵で人気を博した歌川広重 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『東海道五十三次之内』『富士三十六景』 歌川広重は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師で、四季折々の美しい自然や表情豊かな天気を表現している点が特徴です。 とくに、雨や雪の表現に長けていて、歌川広重を超える浮世絵師はいないといわれるほど。 歌川広重が制作した錦絵として有名な作品の一つが『名所江戸百景』です。 人生の集大成といわれている作品で、118図もの作品を手がけており、弟子が手がけた作品も含めると、すべてあわせて120図での構成です。 春夏秋冬の季節に分けられていて、江戸時代ごろ有名だった江戸や近郊の名所、景観が優れている地域などの風景を描いています。また、風景とあわせて行事や人々の暮らしも描き、歌川広重ならではの画風が確立されている作品といえるでしょう。 江戸末期から明治にかけて多くの作品を残した歌川房種 作家名:歌川房種(うたがわふさたね) 代表作:『蚕の養殖』『幡隨意長兵衛 河原崎権十郎』 歌川房種は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。 歌川貞房の門人で、幕末には『近江八景』などの風景画や、芝居絵、源氏絵シリーズなどを手がけ、明治に入ってからは、開化風俗画や西南戦争関連の錦絵などを制作していました。 色鮮やかな着物や美しい景色などを鮮やかな錦絵で表現している浮世絵師です。 浮世絵独自の色、「ベロ藍」 錦絵のような多色摺りによって、浮世絵が色鮮やかになっていく時代の中で、あえて単色で摺られた浮世絵もありました。 中でもベロ藍一色で摺られた葛飾北斎(かつしかほくさい)の『冨嶽三十六景 甲州石班澤』は、有名な作品の一つです。 ベロ藍とは、のちにジャパンブルーとも称される人工顔料で、鮮やかで透明感のある藍色の特徴があります。『冨嶽三十六景 甲州石班澤』では、ベロ藍の濃淡によって絵が表現されています。 時代とともに進化し、色合いも表現豊かになった浮世絵 墨一色から始まった浮世絵は、時代とともに発展していき、丹絵や紅絵のように筆で色付けが行われるようになり、その後、版木自体に色を付けて摺っていく紅摺絵、10色以上と多彩な色を用いる錦絵へと進化していきました。 多色摺りにより色彩豊かになった浮世絵は、多様な表現が可能となり、多くの人の心を惹きつける作品が多く誕生していったといえるでしょう。
2024.08.13
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輪郭線は浮世絵最大の特徴!西洋絵画にはない独自の技法
浮世絵の大きな特徴の一つとして、輪郭線が挙げられます。 西洋絵画ではあまり見られない技法で、日本の浮世絵の雰囲気を作っている、独自の技法ともいえるでしょう。 輪郭線がなぜ描かれているのか、どのような描かれ方をしているのか知ることで、浮世絵の新たな楽しみ方を発見しましょう。 江戸時代に上流階級だけではなく、一般庶民の間にも広く知れ渡り人気を集めた浮世絵。 ただ、絵柄を楽しむのではなく、輪郭線をはじめとした技法部分にも目を向けると、浮世絵の新たな一面を発見できるかもしれません。 浮世絵の特徴、輪郭線について 浮世絵の特徴であり魅力の一つでもあるのが、輪郭線です。 西洋絵画ではルネッサンス以降、輪郭線をはっきり描くことはせず、人物に陰影をつけたり遠近法を活用したりして写実性を感じられる絵画を描いていました。 一方、浮世絵をはじめとした日本画の多くは、輪郭線がはっきりと描かれています。 浮世絵でも、西洋からもたらされた遠近法も取り入れられてはいますが、輪郭線を使って印象的な画面を構成する手法が好まれました。線で囲んだ部分をそれぞれ単色で表現しているのも特徴的です。 浮世絵は、写実性を重視するよりも、見たものにインパクトを残し心を惹きつけることを目的に描かれていたともいえます。 浮世絵にはなぜ輪郭線があるのか 浮世絵が、絵師1人で制作しているのではなく、複数の職人が分業して制作している点も、輪郭線が描かれる理由の一つといえます。 絵師によって描かれた輪郭線を頼りに、彫師が板を彫り進めていく工程があるためと考えられるでしょう。 浮世絵作品が完成されるまでには、絵師・彫師・摺師の3つの職人がかかわっています。 まずは絵師が、浮世絵のデザインとなる下絵を制作します。このとき、色の指定や細部の彫りや摺りを細かく指定していくことも。 原画が完成すると、それをもとに彫師が版木にデザインを彫り進めていきます。 まずは、黒1色で表現される輪郭線を彫っていきます。主版が完成したら、摺る色ごとに版木を分けて彫り、表現する色の数だけ色版が用いられるのです。 主版や色版が完成したら、摺師が紙に摺っていき浮世絵ができあがります。 このように浮世絵は分業により制作されていることから、デザインの目印となるよう輪郭線が描かれているとも推察できます。 浮世絵に見る、輪郭線 浮世絵でよく見られる輪郭線は、絵師によって特徴があります。 輪郭線の描き方によりさまざまな印象を表現しているのです。 歌川国芳(うたがわくによし)の『於岩ぼうこん』や歌川国貞(うたがわくにさだ)の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 混江龍李俊』、楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)の『竹のひと節 本朝二十四孝 狐火』でも、輪郭線が工夫して描かれており、それぞれ異なる特徴を持っています。 歌川国芳『於岩ぼうこん』 歌川国芳が描いた浮世絵『於岩ぼうこん』でも、輪郭線がはっきりと描かれています。 虫籠と団扇を手にして踊るお岩の姿を描いた作品で、背後には朽ち果てたお岩の姿が重なり、同じようにポーズを取っています。 お岩とお岩の亡霊の間には、はっきりとした輪郭線が描かれているのがわかるでしょう。 『於岩ぼうこん』は『東海道四谷怪談』系統の舞台の一部を描いたもので、物語の終盤を表している作品です。 多くの悪事を働いた主人公の夢に美しい娘お岩が登場します。次第に亡霊としての姿を現していく、幻想的かつ恐ろしいシーンを描いています。 歌川国貞『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 混江龍李俊』 楊洲周延が描いた『竹のひと節 本朝二十四孝 狐火』でも、輪郭線が描かれています。 この作品は『本朝廿四孝』と呼ばれる浄瑠璃や歌舞伎、日本舞踊の演目の一つとして有名な物語のワンシーンを描いたものです。 着物の裾の曲線もはっきりとした輪郭線で表現されています。 また特徴的なのが、中央の人物よりも両端でポーズを決めている人物の輪郭線を薄く描いている点です。 輪郭線の濃淡により、遠近感を表現しているともいえるでしょう。 楊洲周延『竹のひと節 本朝二十四孝 狐火』 楊洲周延が描いた『竹のひと節 本朝二十四孝 狐火』でも、輪郭線が描かれています。 この作品は『本朝廿四孝』と呼ばれる浄瑠璃や歌舞伎、日本舞踊の演目の一つとして有名な物語のワンシーンを描いたものです。 着物の裾の曲線もはっきりとした輪郭線で表現されています。 また特徴的なのが、中央の人物よりも両端でポーズを決めている人物の輪郭線を薄く描いている点です。 輪郭線の濃淡により、遠近感を表現しているともいえるでしょう。 浮世絵独自の技法「輪郭線」は、現代の漫画文化の原点ともいえる 輪郭線は、西洋絵画ではあまり見られない日本独特の表現方法です。 浮世絵で描かれていた輪郭線が、日本の漫画の原点になったともいわれています。 輪郭線を意識して西洋絵画との違いを比べたり、数多くの浮世絵においてどのような輪郭線の描かれ方をされているのか見たりしながら浮世絵を鑑賞すると、これまでとは違った楽しみを発見できるかもしれません。 ぜひ、浮世絵を鑑賞する機会があれば、構図やデザインとともに、輪郭線という細かい部分にも目を向けてみましょう。作品や絵師による描かれ方の微妙な違いなども楽しめます。 浮世絵の魅力を再認識することにもつながるでしょう。
2024.08.13
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続絵でストーリーを楽しみたい!広がる浮世絵の世界
江戸時代に庶民から人気を集めていた浮世絵。 その中でも続絵は、迫力のある表現が可能な技法で、スケールの大きな絵が楽しめるとして、注目を浴びていました。 続絵の特徴や魅力、有名な作品を知ることで、より浮世絵鑑賞が楽しくなるのではないでしょうか。 続絵についての理解を深め、自分の中にある浮世絵の世界をさらに広げていきましょう。 ストーリーを楽しみたい、浮世絵の続絵 続絵とは、複数の版画を並べて一つのモチーフを構成するように描かれた作品です。 続絵には、2枚続から3枚続、多いものだと10枚以上の版画を横に並べて巨大な構図を描いた作品もあります。また、横だけではなく、縦に複数枚並べて描かれている浮世絵もあります。 続絵は、1枚1枚個別にも鑑賞が可能です。しかし、つなげて飾ることで、よりスケールの大きな作品として楽しめます。 続絵は、1781年ごろに流行り始めた技法で、役者絵や武者絵、錦絵など多くの浮世絵で活用されました。 なぜ1枚の大判で制作がされなかったのか、それには技術的な問題があったといわれています。 当時の技術では、大きな紙を作るのが難しかったことと、彫師や摺師の作業は、絵が大きくなるほどに難易度が増すことが考えられます。 そのため、分割して作業を行えるよう大きな作品は、2枚、3枚と複数の紙に分けて描かれたと推察できるでしょう。 大迫力の浮世絵、続絵 複数の大判を連ねて描かれる続絵。 大きな構図を描けるため、迫力も満点です。 役者絵の続絵では、1枚につき1人の役者が描かれている作品が多くありました。 そのため、続絵は必ずまとめて購入する必要がなく、自分が気に入っている役者が描かれている部分だけを購入するケースもあったそうです。 1枚ずつでも鑑賞は楽しめますが、続絵を揃えて鑑賞すると、舞台の広がりや物語が見えてきます。 単に横や縦に並べる作品もあれば、4枚を2×2で並べる構図や凸型に3枚並べる構図、L字型に3枚並べる作品もあり、さまざまな組み合わせで浮世絵を表現できるのも、続絵の特徴です。 有名な続絵を知り、浮世絵の新たな楽しみ方を見つけていきましょう。 歌川国芳『川中嶋信玄謙信旗本大合戦之図』 歌川国芳(うたがわくによし)が描いた合戦絵『川中嶋信玄謙信旗本大合戦之図』は、3枚の紙で構成された続絵。 『川中嶋信玄謙信旗本大合戦之図』は、武田信玄と上杉謙信が激闘を繰り広げた川中島の戦いの4戦目が描かれています。左の大判に武田信玄、右の大判に上杉謙信が描かれている構図です。 武田側の軍記『甲陽軍鑑』に基づいて、信玄と謙信の一騎打ちの様子が描かれています。 月毛の白馬に乗った若武者が、信玄が腰掛けている場所まで突き進み、日本刀で切りかかりますが、信玄はそれを軍配団扇でかわすのです。 原大隅守がとっさに若者を突こうとして馬を突いたため、馬は驚き走り去っていきます。この白馬にまたがっていた男が上杉謙信だったのです。 歌川国芳は、このエピソードを気に入り、この作品以外にも上杉側の軍記に基づく絵も複数残しています。 大将同士の一騎打ちという大きなスケールの話が、歌川国芳の絵心を沸かせたといえるでしょう。 鳥文斎栄之『鷁首船』 鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)が描いた『鷁首船』も、続絵として有名な作品です。 この作品は、古代に行われていた龍頭鷁首船上の管弦遊びを、江戸時代の当世風にアレンジしたものです。 7人の遊女が鞨鼓、笙、龍笛、箏、火焔太鼓、篳篥などの雅楽器を奏でている様子が描かれています。船上の7人の遊女は、宝船の七福人をイメージしているといわれています。 鳥文斎栄之は、美人画を多く手掛けた浮世絵師です。 鳥文斎栄之が描く美人には、すらっとした細身と小顔、極端ななで肩などの特徴があります。 手首や指先は、白くほっそりとしており、優雅な仕草を表現しているといえるでしょう。鳥文斎栄之の初期の作品には、健康的な八頭身の美人を描いて一世を風靡していた鳥居清長(とりいきよなが)の影響を大きく受けているであろう画風が多く見られます。 楊洲周延『世上各国写画帝王鏡』 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)も続絵の浮世絵を多く手掛けています。 『世上各国写画帝王鏡』も有名な続絵作品の一つです。 晩年にかけては大判3枚の続絵である『皇后宮還幸宮御渡海図』、『皇子御降誕之図』、『今様振園の遊』などを描いています。 明治維新後、華族や新政府の高官の夫人や令嬢は、外国と対等に付き合っていくためには洋服を着用しなければならないとして、公の場で華やかなドレスを身にまとうようになりました。楊洲周延は、女性の新しいファッションを取り上げた錦絵を数多く描いています。 楊洲周延が最も力を注いだのが、宮廷官女や大奥風俗などの美人風俗で、時代を反映させた作品が多くの人の心を惹きつけました。 続絵の登場で、より広がった浮世絵の表現 複数の大判を連ねて描かれる続絵は、浮世絵の表現の世界を広げた技法のひとつといえるでしょう。 1枚1枚でも楽しめるうえに、連ねて鑑賞すればその迫力と物語の奥深さに心を揺さぶられるでしょう。 続絵は、横や縦に並べるだけではなく2×2のように四角い構図で描かれたり、凸型やL字型のように並べられたりと絵師や作品によって個性が出る技法です。 浮世絵鑑賞を楽しむときは、ぜひ続絵の構図や物語もチェックして、描かれた当初の想いを創造してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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北斎も広重も…シリーズで楽しませた、連作浮世絵の魅力
江戸時代から多くの人の心を魅了し続けている浮世絵。 1枚で完成する作品や和紙を2枚3枚と連ねて大きな作品を描く続絵、同じモチーフをさまざまな構図や構成で描く連作など、多種多様な作品が制作されています。 シリーズものとして大変人気を集めた連作の浮世絵作品も多く残されており、現在でも人気がある浮世絵ジャンルです。 連作浮世絵とは 連作浮世絵とは、1つのテーマに沿って制作されているシリーズ作品のことです。 名所絵や風景画、道中絵などお題を絞って制作されます。 同じテーマでもさまざまな表情を見せてくれる連作は、見る人を飽きさせない魅力のある作品で、多様な角度から描かれた作品を見比べながら楽しめます。 有名な連作浮世絵をぜひ観賞してみましょう。 歌川広重『東海道五十三次』 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『名所江戸百景』『東海道五十三次』 歌川広重は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、名所絵作品が有名です。 歌川広重が描いた数々の名所絵によって、江戸に旅行ブームが巻き起こったといっても過言ではありません。 歌川広重は、歌川豊広の門下に入って叙情的な作風を学んでいき、のちに名所絵の第一人者と呼ばれるほどの浮世絵師となります。 歌川広重の名作のひとつといえば『東海道五十三次』。 1833年ごろに制作された、日本橋から京都の間にある宿場町の風景を題材にした連作で、全55作品から成り立っています。 東海道中の名所や自然、名物、伝承などが、四季や天気の移り変わりとともに美しく表現された作品です。 また、時間帯までも描き分けており、そこで働き暮らす人々の活動や宿場町の賑わいの様子なども描いている点が魅力です。 叙情的な風景とともに、江戸時代を生きる人々の暮らしを描いた『東海道五十三次』は、当時の生活を知るための史料としても高い評価を得ています。 葛飾北斎『富嶽三十六景』 作家名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 代表作:『北斎漫画』『富嶽三十六景』 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師の一人で、多彩な画風で人々を魅了していました。 その人気は日本国内だけにとどまらず、海外からも高い評価を受けています。 90歳で他界するまで、約3万点もの多くの作品を描き続けた葛飾北斎。 現代では、新紙幣のデザインに葛飾北斎が描いた『神奈川沖浪裏』が採用されることでも話題を集めました。 葛飾北斎は、さまざまな名前で活動していたり、同じ場所にとどまらず何度も引越しを繰り返したりしていたことでも有名です。 画号の変更は30回、引越しは93回したともいわれています。衣食住よりも絵を描くことを優先していた葛飾北斎は、家事をまったくしなかったために家の汚れが限界を迎えると、引越しをしていたといわれています。 葛飾北斎は、勝川春章の門人でしたが、ほかの流派である狩野派や土佐派、堤等琳、西洋画、明画などからも絵の技法や画風を学んでおり、のちの多彩な画風の礎を築いたといえるでしょう。一説には、ほかの流派を学んだことで破門されたともいわれています。 葛飾北斎の名作といえば、1831年ごろに制作された『富嶽三十六景』です。 三十六景としていますが、裏富士と呼ばれる10作品を加えた全46作品で構成された浮世絵の連作です。 この作品では、さまざまな地域や季節、時間帯、構図、色彩で富士山が描かれていますが、すべての作品が実在する構図で描かれているわけではありません。 葛飾北斎の独創的な視点から描かれた富士山も多く、デザイン性に富んだ作品が人々を魅了しました。 また、『富嶽三十六景』の中でもとくに有名なのが『神奈川沖浪裏』ではないでしょうか。 日本国内のみならず海外からも高い評価を受けているこの作品の魅力は、荒々しく大胆な大波と富士山の遠近法によるダイナミックな構図。波の細部までこだわった『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎の浮世絵に対する強い思いが見え隠れしています。 月岡芳年『大日本名将鑑』 作家名:月岡芳年(つきおかよしとし) 代表作:『新形三十六怪撰』『大日本名将鑑』 月岡芳年は、幕末から明治時代前期に活躍した浮世絵師で、血みどろ絵・残虐絵と呼ばれる『英名二十八衆句』で、一躍注目を浴びました。 また、月岡芳年は最後の浮世絵師とも称され、亡くなる直前まで浮世絵制作に没頭していたといわれています。 浮世絵の枠にとどまらない活躍を見せていた月岡芳年。 浮世絵作品には、洋風絵画でよく見られる明暗や逆光などの技法も積極的に取り入れていました。 月岡芳年の有名作品として、1877年ごろに制作された『大日本名将鑑』があります。 天照大神から江戸幕府3代将軍・徳川家光までの、神話や歴史上の偉人、英雄を51人も描いた作品です。 写実性が高く、月岡芳年の個性を十分に楽しめる作品といえるでしょう。また、単純な構図では描かれていない点から、月岡芳年のデッサン力の高さが垣間見えます。 歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 作家名:歌川国芳(うたがわくによし) 代表作:『相馬の古内裏』『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、奇抜な発想から生み出されるユーモラスあふれる浮世絵作品で人気を集めました。 現代でも、武者絵や風刺画などで有名な歌川国芳ですが、江戸時代当時はなかなか日の目を見ず、注目を浴びたのは30歳を過ぎてからでした。 当時、歌川国芳を一躍有名にしたのが『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる浮世絵の連作です。 1827年ごろに制作されたとみられるこの作品は、明の小説・水滸伝をモチーフにしており、登場キャラクターが一人ひとり描かれています。 作品名には百八人とありますが、現在は重複する人物を含めた74作品が確認されています。 魅力的なキャラクターたちがエキゾチックかつ躍動感あふれる姿で描かれている点が魅力の一つです。 鳥居清長『袖の巻』 作家名:鳥居清長(とりいきよなが) 代表作:『風俗東之錦』『袖の巻』 鳥居清長は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画などを得意としていました。とくに役者絵のモチーフになる歌舞伎とは、切っても切れない縁があります。 父・鳥居清元の代から江戸歌舞伎の看板絵を手がけており、鳥居清信も跡を継いで看板絵を描いていました。しかし、鳥居清信は看板絵だけにとどまらず、役者絵としても歌舞伎役者を描き人気を集めたのです。 鳥居清長の有名な連作に『袖の巻』があります。 『袖の巻』は、全12図からなる春画の連作です。春画とは、枕絵や危絵とも呼ばれる、昔の性風俗画を指します。 『袖の巻』は、浮世絵としてはめずらしい横長にトリミングされたレイアウトが特徴的。シンプルな線描で制作された作品で、耽美な世界を引き立たせています。 シリーズで楽しむ、連作浮世絵の魅力 同じテーマの作品をさまざまな角度から楽しめる連作浮世絵。 多くの有名絵師たちが連作の浮世絵を残していて、当時も今も多くの人を楽しませています。 一枚一枚鑑賞するのもよいですが、シリーズ作品の表現方法を比較しながら鑑賞するのも、連作浮世絵の楽しみ方の一つ。 ぜひ、連作浮世絵を見比べて、作品ごとに見せてくれる表情や表現を楽しんでみてください。
2024.08.13
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浮世絵コレクター・シーボルト。新たに葛飾北斎の肉筆画も見つかる
シーボルトはオランダの医師であると同時に、日本芸術のコレクターでもありました。近年、シーボルトの記録をきっかけに、作家不明だった肉筆画が葛飾北斎の作品であったと判明しています。シーボルトがどのような人物であったかを知ると同時に、シーボルトを魅了した浮世絵作品たちにも触れていきましょう。 シーボルトは浮世絵コレクターだった 江戸時代末期、長崎出島のオランダ商館に医師として来日したシーボルト。 西洋人として初めて出島の外に出て鳴滝塾を開き、日本人に最新の西洋医学を教えたとして有名です。日本の医学は、シーボルトの教えにより飛躍的発展を遂げたといっても過言ではありません。 そんなシーボルトは、実は日本の文化や芸術にも興味があり、浮世絵コレクターとしての一面も持っていました。 多くの浮世絵作品を集めたシーボルト シーボルトは、日本の美術にも関心が高く、浮世絵を多くコレクションしていました。最初は、出島の外で往診を行っていたことがきっかけです。診察料を取らずに往診を行っていたため、患者が感謝の気持ちを込めて贈り物を託すようになりました。このやり取りをきっかけに、シーボルトのコレクションは増えていきました。 シーボルトが、ヤン・コック=ブロムホフ(出島商館長)、ヨハネス・ファン=オーフェルメール=フィッセル(出島商館員)と持ち帰った浮世絵の数は1200点以上。日本の文化と芸術は、それほどまでにシーボルトを魅了したともいえるでしょう。 シーボルトの浮世絵コレクション シーボルトは、ドイツのヴュルツブルク出身で、1796年2月17日生まれです。医学者の家で育ったシーボルトは、ヴュルツブルク大学医学部に入学。医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。卒業後、近くの町医者として働いていましたが、知らない国の自然を学びたいと考え、世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医になりました。 シーボルトは、1823年8月11日に長崎へ到着。長崎の町で病人の診察を行いました。翌年、もう一度長崎を訪れた際に鳴滝塾を開き、医者たちに医学を教えています。1826年には、オランダ商館長の江戸参府に同行しました。その後、シーボルトは長崎で暮らす女性・楠本たきと結ばれ、娘・いねが生まれます。 しかし、のちに有名なシーボルト事件が起こり、シーボルトは国外追放となってしまいます。シーボルトが日本を調査するために集めていた物品の中に、日本地図や将軍家の家紋が入っている着物など、日本からの持ち出しを禁止されているものが複数あったためでした。 30年後の1859年、シーボルトはふたたび日本を訪れています。塾を開いていた鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと関わりあいながら日本の研究を続けました。幕府にも招かれヨーロッパの学問を教えています。3年後、日本を去り、1866年にドイツのミュンヘンで亡くなりました。 シーボルトが所有していた謎の絵は、葛飾北斎のものだった オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵されていた、作者不明の6枚の絵が、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎が描いた西洋風肉筆画であることが近年判明しました。長らく作者不明であったのは、作者を示す署名や落款がなかったためでした。シーボルトはこの絵を江戸で葛飾北斎から受け取ったと考えられますが、当時検閲が厳しく、オランダ人が絵師に安易に接触しないよう規制をかけられていました。 そのため、葛飾北斎はわざと署名や落款を押さずに検閲を通過できるようにしたと考えられます。近年の作家名判明には、どのようなことでも細かく記録を取るシーボルトの性格が役に立ったといえます。ドイツに保管されていた絵画コレクションの中に「88~93 江戸と江戸近郊の図6枚、幕府御用絵師北斎による西洋風に描かれた風景画」のメモが残されていました。この記録に書かれている特徴と、作者不明とされていた6枚の絵画の特徴が一致したため、葛飾北斎の作品であると判明したのです。 北斎の貴重な作品、もしかしたらまだ世界のどこかにあるかも? シーボルトは浮世絵コレクターとして有名です。しかし、シーボルトだけではなく日本の芸術に魅了されて浮世絵をコレクションする人々は、海外にも多く存在するでしょう。シーボルトの記録がきっかけで作家が葛飾北斎であると判明した6枚の絵は、いつもとは異なる西洋画風の絵のタッチを見られる貴重な作品です。当時の時代背景により作家の判明まで時間を要しましたが、歴史と芸術を同時に味わえる作品ともいえるでしょう。
2024.08.13
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浮世絵独特の美しい白は、日本の和紙だからこそなせる業
江戸時代、庶民の間に広まっていった浮世絵は、階級に関係なく多くの人々が楽しめる娯楽としての立ち位置を確立しました。現代では、当時の浮世絵作品を美術館や博物館で見かけることが多いでしょう。しかし、有名絵師の浮世絵は現代でも摺られており、伝統的な手法を用いて制作された浮世絵を自宅でも楽しめるのです。 浮世絵にはどんな和紙が使われていた? 浮世絵をはじめとした日本の絵画作品は、繊細な材料と制作により成り立っています。とくに絵が摺られる和紙は、制作後の劣化を防ぐためにも、十分な品質を確保する必要がありました。 浮世絵版画には丈夫な和紙が欠かせなかった 浮世絵は、一般的に「奉書紙」と呼ばれる手すき和紙に摺られていました。奉書紙の主な原料は、楮に白土を混ぜ合わせたもので、純白の美しさから高級和紙として取り扱われていました。主に最高級の公文書に使われることも。楮は、繊維が長く丈夫な紙を作るのに向いている原料です。成長も早く2、3年で収穫できるため、環境にも優しい原料といえるでしょう。 浮世絵は、1枚の紙に何色も色を摺り重ねていくため、丈夫な紙でないと破れてしまうおそれがあるのです。そのため、楮を含む耐久性に優れた和紙が好んで使用されました。 高級和紙「越前奉書」 「越前奉書」は、公用紙や写経紙、版画用紙、紙幣などに用いられる最高級紙です。福井県の嶺北地方にある越前市で作られてきた和紙で、職人が地道に技術を磨き、現在もなお最高級の和紙を生産しています。 越前和紙の発祥は、今から約1500年ほど前にまでさかのぼります。26代継体天皇が越前に潜んでいたころ、岡太川の上流に美しい女神が現れ、村で紙漉きを生業とすれば生活が楽になると村人に説き、紙の漉き方を伝授したそうです。 越前和紙の名が全国に広まったのは、「鳥の子紙」と「越前奉書」がきっかけです。武家社会の時代、和紙は公用紙として用いられるようになり、このとき重宝されていたのが越前鳥の子紙でした。紙の色合いが鶏の卵のように淡かったことからその名がつき、品質の良さから紙の王者とも呼ばれていました。 その後、室町時代に越前奉書が誕生しました。越前奉書は、ふっくらと厚手の質感が特徴的です。奉書は、公家や武家の公用紙を指しており、楮を原料とした丈夫で上質な楮紙が用いられていたため、奉書紙と呼ばれるように。越前奉書は、1338年に将軍の命令を記す奉書専用の最高級紙として使われたことで、全国に広まっていったそうです。江戸時代には、幕府の御用紙となり、高級浮世絵版画用紙として多くの名作を制作する際に用いられました。 和紙だからこそできる、浮世絵の美しい表現 丈夫な和紙は、何度も異なる色を摺る浮世絵の制作で重宝されてきました。紙をちぎってみると紙の繊維がはっきりと見えます。繊維が細かく絡み合っているため、絵の具の粒子がしっかりと染み込み、200年近く前に制作された作品でも、はっきりとした色合いが残っているのです。 喜多川歌麿の描いた、肌の質感 江戸時代中期に活躍した浮世絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)。美人画を得意としており、繊細で品のある描線が特徴です。女性の仕草や気品、表情の美しさが繊細かつ華麗に表現された作品が多く存在します。『婦女人相十品・ポッピンを吹く女』も代表作の一つで、肌の柔らかな質感を、和紙をうまく生かして表現している特徴があります。 歌川広重の描いた、降り積もる雪 江戸時代の末期に活躍した浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)。四季折々の美しい自然や天気などを表情豊かに表現した画風が特徴です。とくに、雪や雨の表現に優れていて、歌川広重を超える浮世絵師はいないといわれています。歌川広重の代表作『東海道五十三次』の『蒲原 夜之雪』では、蒲原に降り積もる雪のやわらかな質感や量感を、和紙の肌の白さを活かしつつ墨のぼかしを重ねグラデーションを作ることで、見事に表現しています。 鈴木春信の描いた、着物 江戸時代中期に活躍した浮世絵師・鈴木春信(すずきはるのぶ)。美人画や若い男女の恋模様などを多く手掛け、人気を集めていました。男女ともに色っぽいというよりは、華奢で可愛らしい姿の画風を得意としており、中国美人画の影響が見受けられる作品も多く残されています。鈴木春信の代表作『雪中相合傘』では、美しい女性の白い着物を和紙そのものの色合いで表現しています。 しかし、よく見ると女性の着物にうっすらと模様が浮かんでいるのです。こちらは空摺と呼ばれる技法で、版木に色を付けずに摺って和紙の表面に凹凸を生み、模様を描く方法です。 葛飾北斎の描いた、白波 江戸時代を代表する浮世絵師で、世界的な人気を誇っている葛飾北斎(かつしかほくさい)。生涯現役を貫き多くの作品を世に残した葛飾北斎の画風は、同じ絵師が描いたとは思えないほどの多彩さが特徴です。浮世絵だけではなく、狩野派や土佐派、西洋画法など多様な絵画から学びを得たため、多彩な作風が生まれたと考えられます。 葛飾北斎の代表作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、躍動感ある波が輪郭線を用いてはっきりと描かれています。また、数種類の藍色を重ね摺りすることで、和紙そのものの白さが強調され、白波の白さがはっきりと表現されているのが特徴的です。 日本の和紙の良さを生かした、美しい浮世絵 日本の和紙の良さを引きたたせる浮世絵作品。浮世絵作品と和紙には深いつながりがあります。丈夫で繊維が絡み合った和紙を利用することで、古くに制作された浮世絵でも、鮮やかな色合いを保った状態で現代に残されているのです。和紙の白さを浮世絵の表現方法として用いている作品も多くあります。今後、浮世絵を鑑賞する際は、作品のモチーフや画風だけではなく、用いられている和紙にも注目してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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浮世絵を売るために欠かせない、版元とその役割
浮世絵は、デザインを描く浮世絵師と木版を彫る彫師、木版を紙に摺って完成させる摺師の3つの過程と職人によって作り上げられています。 そして、その浮世絵を販売するために欠かせないのが、版元という存在です。 版元は、浮世絵を大衆のもとに届けるために、企画・宣伝・販売を行う立場であり、浮世絵作品が今の時代まで人気を博しているのは、版元のおかげともいえるでしょう。 浮世絵職人をまとめた、版元の役割 誕生当初、浮世絵は、浮世絵師が一つひとつ手で描いていましたが、のちに木版を紙に摺るスタイルが確立されていきます。 浮世絵版画は、作業工程ごとに職人が置かれ制作されます。浮世絵師、彫師、摺師と彼らをまとめあげる版元と呼ばれる人物がいました。 版元とは 版元とは、浮世絵を売り出す店や人を指しています。 また、浮世絵作品の企画やプロデュースも行っていた版元は、現代の出版社のような存在といえるでしょう。 版元が企画した内容に沿って、浮世絵師が下絵を描き、彫師が下絵を木版に彫り、摺師が紙に摺り上げて、浮世絵は制作されていました。 版元の役割 版元は、浮世絵のプロデュースや制作工程のディレクションを担当していました。 企画や宣伝、販売など作品を実際に作る工程以外を担当する版元は、浮世絵の売れ行きを大きく左右する存在ともいえます。 制作した浮世絵が大衆から注目を浴びるためには、作品の企画や宣伝が欠かせません。 まず、江戸時代を暮らす町民たちの興味を引く題材やモチーフなどを考える必要があります。 そのため、版元は時代の流れを理解し、流行に敏感であることが求められました。新しいアイディアを創出して、人々の関心を引くためのスキルが必要な職業であったといえます。 また、流行を先取りしたアイディアにより制作した浮世絵も、宣伝がうまくいかなければ大衆の目に触れずに終わってしまいます。 そのため、版元には宣伝力も必要でした。現代で注目を浴びている浮世絵師は、版元の手腕があってこそともいえるでしょう。 歴史に名を残す、有名な版元たち 浮世絵の歴史の中では、絵師たちが注目を浴びがちですが、実は歴史に名を残している有名な版元も多くいます。 現代で名を連ねる有名浮世絵師は、版元の力があってこそ、その才能が世間に広がったともいえるでしょう。浮世絵師が活躍するきっかけを作った版元には、どのような人物がいたのかを知ることで、より浮世絵の歴史的な魅力を深められます。 松会三四郎 松会三四郎(まつえさんしろう)は、江戸最古の版元と呼ばれています。 幕府の御用達書肆(しょし・書物の出版や販売を行う店)であり、江戸出版業の初期から享保年間までに、約200点を刊行しました。 松会三四郎は、浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の絵本を出版したことでも有名です。 菱川師宣の『小むらさき』や『和国三女』などを出版しています。 蔦屋重三郎 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代の版元であり、数々の有名浮世絵師をプロデュースしてきた人物です。 蔦屋重三郎は、新吉原に生まれ、吉原で茶屋を営む喜多川家の養子となりました。成長した蔦屋重三郎は、新吉原で茶屋ではなく細見屋を営みます。細見とは、江戸時代から明治時代に出版されていた遊郭の案内書です。 当時、鱗形屋孫兵衛が独占していた吉原細見の改めを行い、出版権販売権独占を手に入れます。 その後、一流店が立ち並ぶ日本橋通油町に進出し、耕書堂という名の書店を創業し、洒落本や黄表紙など販売製品の幅を徐々に広げていきました。 吉原周辺の文化人ネットワークを駆使して、才能ある浮世絵師や戯作者とつながり、優秀な若手作家を世間に広めていきます。 江戸時代に訪れた狂歌ブームにものっかり、絵入り狂歌本という新しい発想の出版物も刊行しました。 寛政の改革により、出版物に規制がかけられた時代に、出版した洒落本が風紀を乱すとして処罰を受け、財産を没収されてしまいます。 しかし、そのような不運にも負けず、蔦屋重三郎はのちに有名な浮世絵師を輩出するのでした。 蔦屋重三郎によって才能を見出された有名浮世絵師が、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)です。 喜多川歌麿は、蔦屋重三郎からの助言を受け、女性の上半身に焦点を当てて大きく描写した「美人大首絵」と呼ばれる作風を確立しました。 喜多川歌麿が描いた『婦人相学十躰』『婦女人相十品』の揃物は、大ヒットを収めています。 東洲斎写楽は、現在でも謎の多い浮世絵師です。 役者の特徴を捉え、デフォルメした大首絵が有名で、個性的な作品は、当時から多くの人の目を惹きつけました。 喜多川歌麿が蔦屋重三郎のもとを去ってすぐに登場した東洲斎写楽は、蔦屋から28枚の役者絵を一挙に発表しました。誰も名前を聞いたことがない新人浮世絵師の絵を、背景がすべて黒雲母摺りの状態で発表するという挑戦的な出版を行っています。 その後、東洲斎写楽は蔦屋のもとで140点余りの作品を出版し、わずか10か月ほどで忽然と姿を消したのでした。あまりの神出鬼没ぶりに、実際は葛飾北斎に描かせたのではないか、役者の斎藤十郎兵衛をプロデュースしたのではないかと、さまざまな憶測が飛び交っています。 東洲斎写楽が誰であったのかは、いまだに解明されていません。 なお、現在書籍や音楽のレンタル・販売をメインに商売をしているTSUTAYAは、蔦屋重三郎の名前にあやかって付けられたともいわれています。 西村屋与八 西村屋与八(にしむらやよはち)は、鶴屋喜右衛門や蔦屋重三郎と肩を並べるほどの有力地本問屋で、浮世絵の中でも錦絵の代表的な版元です。 早くから鳥居派の浮世絵師とつながりを持っており、役者絵や美人画で有名な鳥居清長(とりいきよなが)の浮世絵作品を多く出版していました。 また、葛飾北斎(かつしかほくさい)の浮世絵も多く出版しています。 世界中で有名な『富嶽三十六景』シリーズも西村屋出版です。 浮世絵を見ると版元が分かる 浮世絵を描いた絵師は、署名や落款で判断できますが、出版社である版元は、浮世絵の何を見て判断するのでしょうか。 実は、浮世絵作品には絵師のサインのほかに、版元印が押されている場合があります。 版元印によってどの版元から出版された浮世絵であるかが確認できるのです。版元印のデザインは、版元によって異なり、たとえば、蔦屋重三郎の版元印は、山型に蔦の葉のマークが特徴です。 浮世絵職人をまとめた立役者・版元 浮世絵作品を大衆に広く知ってもらうためには、版元の存在が欠かせません。 版元とは、浮世絵作品の制作指揮をとる人のイメージです。 企画から宣伝、販売まで、実際の制作以外の部分を担って、浮世絵作品の売り上げを伸ばすために奮闘していました。版元あっての浮世絵作品ともいえるでしょう。 そのため、浮世絵作品には、版元印が入っているものも多く残されています。 浮世絵作品を鑑賞する際は、作品の芸術性とともにどの版元から出版されている作品化もチェックしてみると、よりさまざまな角度から浮世絵を楽しめるでしょう。
2024.08.13
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墨一色で描かれた浮世絵版画「墨摺絵」に見る、浮世絵の始まり
江戸時代に庶民の間で大きな人気を誇っていた浮世絵。 描かれ始めた当初は、墨一色の作品がほとんどでしたが、時代が流れるにつれて色が使われるようになり、鮮やかな錦絵が誕生していきました。 その時代ごとの浮世絵の特徴を知り、時代の変化とともに発展していく浮世絵を楽しみましょう。 初期の浮世絵は、墨一色だった 浮世絵が庶民からの人気を集めていた江戸時代、描かれ始めた当初は墨一色のシンプルなものでした。 その後、有名な絵師を輩出しながらカラーの浮世絵も描かれはじめ、進展していきました。 浮世絵版画の始まり 浮世絵版画の制作は、墨一色で摺られる墨摺絵から始まりました。 墨だけを用いて木版印刷をすることは、江戸時代以前にも行われており、技法的には墨一色で描かれた版本挿絵や絵本と変わりません。 そのため、広義の意味では版本挿絵や絵本も墨摺絵に含まれますが、一般的には、初期の浮世絵版画作品を指しています。 墨摺絵から始まった浮世絵版画は、その後、筆で彩色する丹絵や漆絵、紅絵と発展していきます。 さらには、草や黄、紅色を木板で摺って重ねていく紅摺絵も制作されるようになっていきました。多彩な色を用いる木版多色摺の錦絵ものちに誕生します。 浮世絵の祖、菱川師宣 墨摺絵から始まった浮世絵版画が発展するきっかけを作ったのは、浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。 菱川師宣が初めて一枚絵の版画を発売したのは、1670年ごろでした。 当時は、まだ挿絵として使われていた版画を1枚の絵画として販売したのです。版画は、大量生産が可能なため価格を安く抑えられ、庶民の間にも広まっていきました。 また、浮世絵版画が発売された当初は、多彩な色で摺られた錦絵は存在していませんでした。当時は墨一色で描かれた墨摺絵が中心で、菱川師宣が制作した版画では、吉原遊郭の情景を12枚の組物版画として構成した『吉原の躰』が有名です。 紅絵や漆絵、錦絵などの今日私たちがよく知る色鮮やかな浮世絵は、菱川師宣の死後に確立されました。 浮世絵版画の始まり…墨摺絵を描いた浮世絵師たち 江戸時代、浮世絵版画を描く多くの人気絵師が誕生しています。 浮世絵がまだ墨摺絵だった初期のころから活躍した絵師には、菱川師宣や西川祐信、勝川春章などがいます。 菱川師宣 作家名:菱川師宣(ひしかわもろのぶ) 代表作:『見返り美人図』『北楼及び演劇図巻』 生没年:1618?年-1694年 菱川師宣は、浮世絵の祖と呼ばれる浮世絵師で、浮世絵というジャンルを確立させた人物です。 のちに登場する葛飾北斎(かつしかほくさい)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などの有名絵師が活躍する時代になったのも、最初に菱川師宣が浮世絵版画を世に広めたからといっても過言ではありません。 菱川師宣は、版画だけではなく肉筆画も手掛けていました。 有名な作品として『見返り美人図』があります。郵便切手の図案にも採用されたため、この絵を見たことがある人も多いでしょう。 西川祐信 作家名:西川祐信(にしかわすけのぶ) 代表作:『絵本百人女郎品定』『女文書稽古』 生没年:1671年-1750年 西川祐信は、江戸には下らず上方で活躍したことから、京坂浮世絵界の第一人者といわれている人物です。 狩野派や土佐派の絵を学ぶとともに、菱川師宣や吉田半兵衛の画風を取り入れ独自の画風を確立させていきました。 西川祐信は、柔らかみのある筆使いで、落ち着きのある丸顔の女性を描き出す美人画に長けている特徴があります。 西川祐信は多くの好色絵本を描いており、これらの春画には「西川絵」の別称がつくほど人気を集めていました。 勝川春章 作家名:勝川春章(かつかわしゅんしょう) 代表作:『絵本舞台扇』『2代目 市川門之助』 生没年:1726年(1729年とする説もある)-1792年 勝川春章は、葛飾北斎の師匠であり、似顔絵の祖とも呼ばれています。 浮世絵のジャンルの一つである役者絵から、役者の顔や姿など個性をリアルに描く似顔絵のジャンルを新たに生み出しました。 勝川春章の作品は、墨摺と多色摺の両方が存在します。錦絵が登場し始めた時代にいち早く技術を習得していました。 それぞれ趣が異なるため、比較して鑑賞してみるのも楽しいでしょう。 浮世絵版画の始まりは墨摺絵からだった 江戸時代から現代まで、多くの人を惹きつける浮世絵版画は、墨摺絵から始まっています。 多くの浮世絵師に描かれながら変化していった浮世絵は、多彩な色を使って描かれる錦絵まで発展していきました。 浮世絵版画が広まるきっかけとなった墨摺絵を鑑賞し、浮世絵の魅力をあらためてかみしめましょう。
2024.08.13
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天才は一日にしてならず!葛飾北斎の初期作品からその進化を見る
日本だけではなく、海外からも高い評価を得ている浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は、生涯にわたって絵を描き、追求し続けたといわれています。 世界的に有名な『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、北斎が70歳を超えてから描いたとされていることに、驚きを感じる方もいるのではないでしょうか。 そこに至るまでにどのような進化があったのかを知るために、北斎の初期作品から紐解いていきましょう。 葛飾北斎の初期作品とは 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門し絵師となりました。 90歳の長寿を全うし、生涯現役を貫いています。最期まであと5年、10年生きられれば真の絵描きになれたと話していたことから、北斎は常に高みを目指して描き続けていたことがわかります。 そんな絵に情熱を注いだ北斎が描いた作品がどのように進化していったのか、初期作品から見ていきましょう。 処女作『四代目岩井半四郎 かしく』など 葛飾北斎の処女策として知られているのは、『四代目岩井半四郎 かしく』です。 1779年と、勝川春章に弟子入りした翌年に発表されています。北斎の錦絵デビュー作品の1つで、勝川春朗と号して描かれた浮世絵です。 勝川春朗時代に描いた作品には、役者似顔絵や美人風俗、名所絵、相撲絵、伝説古典、和漢武者、信仰画、動植物、金太郎、日本や中国の子どもなどがあり、ジャンルを限定せず多種多様な作品を手掛けていました。 北斎は、好奇心旺盛で絵に対する熱意も高かったことから、師の模倣だけでは飽きたりず、狩野派や唐画、洋画の画法も学んでいきました。 しかし、ほかの流派の画法を学んだことを咎められ、勝川派を破門されています。 『おしをくり はとう つうせんのづ』 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が描かれる30年近く前にも、葛飾北斎は同じ構図の波の絵を描いています。 それが、『おしをくり はとう つうせんのづ』。 この作品は『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の原型ともいわれ、北斎が45歳ごろに描いたものといわれています。 当時、北斎は西洋画の技法を学んでいたとされ、その影響が随所に現れている作品です。 原型ということもあり、構成は似ていますが、波の描かれ方が大きく異なっている点が見て取れます。 『おしをくり はとう つうせんのづ』では、丸みを帯びた波が描かれていますが、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、波の先が鋭く細かく表現されており、波のしぶきにより勢いのある様子が表されています。 30年の時を経て写実性が高まったといえるでしょう。 また、構図にも微妙な違いがあります。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、下から見上げる視点で描かれていますが、『おしをくり はとう つうせんのづ』では、見下ろす画角で描かれているのです。 視点を低くしている方が、大波の迫力や臨場感が伝わってくる作品といえます。 北斎の絵が進化し続けたのは、その向上心から 90歳で亡くなるまで生涯現役を貫いた葛飾北斎が絵にかけた情熱は、はかり知れません。 浮世絵版画以外にも、版本の挿絵や肉筆画も手掛けていました。 とくに版本は、力強く迫力のある描写や、ダイナミックな構図で読者を圧倒し、人気を集めていたそうです。 当時流行っていた作家・曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』といった作品をはじめ、さまざまな活字作品を圧倒的な表現力で絵画化していきました。 露木氏曰く、余北斎翁の門に入り、画法を学びしが、一日阿栄にむかひ、嘆息して謂て曰く、運筆自在ならず、画工とならんを欲するも、蓋し能はざるなり。 阿栄笑て曰く、我が父幼年より八十有余に至るまで、日々筆を採らざることなし。 然るに過ぐる日、猶自腕をくみて、余は実に猫一疋も画くこと能はずとて、落涙し、自ら其の画の意の如くならざるるを嘆息せり。 すべて画のみにあらず、己れ及ばずとて自棄てんとする時は、即これ其の道の上達する時なりと。 翁傍にありて、実に然り、実に然るなりといへり。 引用:飯島虚心 著、鈴木重三 編『葛飾北斎伝』岩波文庫 葛飾北斎が制作した作品は数多く、版画や錦絵のほかに挿絵や着物のデザインなど、浮世絵師として残した作品は約3万点を超えるといわれています。 このように情熱を燃やし生涯浮世絵を描き続けた北斎は、画狂人とも呼ばれています。 しかし、初期作品である『おしをくり はとう つうせんのづ』の画風と名作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の画風には大きな違いが。 このことから、世界中で高い評価を得ている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が完成するまでには、常に向上心と執着心を持ち続け、絵を描き続けた北斎の絶え間ない努力が垣間見えるでしょう。 亡くなる直前にも、まだ真の絵師にはなれていないと悔やむ姿があったとされることから、現状に満足することなく、常に進化し続けようと努力してきた北斎の姿が目に浮かびます。 葛飾北斎の作品に興味が湧いた方は、ぜひ有名作品だけではなく初期の作品も鑑賞し、その違いを楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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