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新千円札に浮世絵デザイン!海外から「Great Wave」と呼ばれる名作
新千円札のデザインに採用されたのは日本の浮世絵です。 葛飾北斎が描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は海外からの人気も高い作品で、新札の発表は日本国内だけではなく、海外でも話題になっています。 2024年、新千円札に浮世絵が! 現在、財務省が発表した2024年度から使用される1万円札、5千円札、千円札のデザインが話題に。 新千円札には、江戸時代に活躍した浮世絵師、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が採用されました。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、荒れ狂う海と大きな波、その後ろに見える富士山の構図が特徴的な浮世絵です。 今回一新される紙幣の図柄には、新元号の時代に引き継いでいきたい日本を代表する歴史や伝統、文化、美しい自然にちなんだ人物や作品が選ばれたそうです。 上記の選定理由から、青色の新千円札には、日本の象徴でもある富士山を描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が採用されています。 葛飾北斎は、江戸時代を代表する人気浮世絵師で、現在もなお高い人気を誇っています。 また、日本国内だけではなく海外からも高い評価を受けており、葛飾北斎の名と『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、世界の芸術家に大きな影響を与えた浮世絵師・作品です。 新札の発行日は、2024年7月3日に決定しています。 新千円札に描かれている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』をきっかけに、浮世絵の存在を知り興味を持つ人もいるでしょう。 ぜひそこから、浮世絵を鑑賞したり購入したりと、日本の伝統的な芸術作品の楽しみを見つけてみてください。 日本だけではない!海外でも有名な『神奈川沖浪裏』 2024年度から一新される新札の中で、千円札のデザインとして採用された『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。 日本で最も有名な絵画の1つであり、日本を象徴する富士山の絵が描かれています。 多くの日本人が一度は目にしたことがあるのはもちろん、海外でも非常に人気の高い作品なのです。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』には、大自然の脅威とそれに立ち向かう小さな人の姿、そして遠くに富士山が描かれています。 静と動、遠と近の鮮明な対比がテーマになっている浮世絵です。 この作品は、海外の有名芸術家にも大きな衝撃を与えており、画家であるゴッホは、弟のテオに宛てた手紙の中でこの浮世絵を絶賛しています。また、フランスの作曲家であるドビュッシーが、仕事場に『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を掲げ、交響曲『海』を作曲したのは有名な話です。 海外でも高い人気を誇っている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。 ロンドンの大英博物館には、3枚もの『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が所蔵されています。なぜ同じ絵が3枚も存在しているのか、疑問に感じた人もいるでしょう。 実は、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は肉筆画ではなく浮世絵版画であるためです。 浮世絵版画とは、浮世絵師が描いた原画を彫師が木の板に彫り、摺師がそれを紙に摺って制作されます。そのため、原画が描かれた版木があれば、何度も摺って量産することが可能です。ただし、何度も摺ると版木の状態が変化していき、最初と後半で違った印象の作品ができあがります。 さまざまなバージョンの作品が存在することは、制作された当時も人気が高かった証明ともいえるでしょう。 海外人気の高い葛飾北斎の作品には、多くのコレクターも存在しています。 海外からの反応もアツい!新千円札のGreat Wave 新千円札に採用された葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、海外では『Great Wave』の名で、大変人気を集めています。そのため、新札発表後に海外では、新札に選ばれた人物よりも、葛飾北斎の名や『Great Wave』が話題になったのです。 海外からの反応がアツい『Great Wave』を起用した千円札は、海外観光客の新しい定番土産にもなるかもしれません。 新千円札を手にした外国人観光客の反応も楽しみ キャッシュレス化が進みつつある中、新札の話題はそれほど多くありませんが、葛飾北斎の人気を考えると、外国人観光客の反応も楽しみになります。 また、新札をきっかけに浮世絵に興味を持ち、購入や鑑賞を楽しむ人が増えることも期待できます。 新札に描かれた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の魅力を知り、実際の浮世絵も楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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新たな美人画を確立した清長風美人の特徴や進化とは
江戸時代の美人画の中で、新たな作風を確立した清長風美人。描いた鳥居清長の人物像を探るとともに、美人画の特徴や周囲に与えた影響などがどのようなものであったか掘り下げていきましょう。 鳥居清長が描いた、すらりとした八頭身美人 清長風美人とは、鳥居清長(とりいきよなが)が描いた美人画の女性の画風を指します。清長風美人は、すらりと身長が高く健康的で8頭身美人が特徴です。のちに活躍する喜多川歌麿をはじめとした人気絵師たちにも、大きな影響を与えたといわれています。 鳥居清長とは 鳥居清長は、江戸時代中期にあたる天明期に活躍した浮世絵師です。鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重と並び「六大浮世絵師」の一人としても広く知られています。鳥居清満の門人であり、1767年ごろから鳥居派伝統の技法を用いた細判紅摺絵の役者絵を手掛けています。1775年ごろからは、美人風俗画の揃物や黄表紙など版本の挿絵も精力的に描いていました。 写生技術を高めるべく、鈴木春信や礒田湖竜斎、北尾重政などの画風を学んでいき、写生に基づいた独自の作風を確立していきます。1781年ごろからは、湖竜斎に代わって美人画の第一人者として知られるようになりました。 師の鳥居清満が亡くなった後に鳥居家4代目を襲名しました。襲名後は、鳥居家の家業である看板絵や番付絵に専念するようになり、一枚絵の製作からは徐々に離れていったのです。しかし、鳥居清長が描いた美人画は、次世代の絵師にも大きな影響を及ぼしており、喜多川歌麿とともに頂点に立つ美人画絵師に位置づけられています。 鳥居清長の描いた美人「清長風美人」 鳥居清長が描く美人画は、これまでの美人画とは一線を画すものでした。鳥居清長が登場するまでの浮世絵の美人画は、菱川師宣風の華麗で優美な美人像が主流でした。しかし、鳥居清長は、より写実的でリアルな美人像を追い求めたのです。すらりと背が高く健康的な8頭身という特徴を持つ清長風美人は、多くの人を魅了し「江戸のヴィーナス(天明のヴィーナス)」とも呼ばれていました。 清長風美人の魅力は写実性だけではなく、表情豊かで自然体な姿も人々の心を惹きつけていました。型にはまったポーズや表情ではなく、江戸時代に暮らす女性の日常的な姿を描いた作品が、多くの人から親しみを抱いてもらえたと考えられるでしょう。自然体を重視していたため、シンプルな着物姿の美人画も多く残されています。現代でも、鳥居清長の美人画は、当時の江戸に住む町人の生活や文化を伝えるための貴重な資料として重宝されています。 清長風美人が描かれた、清長三大揃物 鳥居清長の絶頂期は、1782~1784年頃といわれています。このころに描かれた『当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)』『風俗東之錦(ふうぞくあずまのにしき)』『美南見十二候(みなみじゅうにこう)』は、清長三大揃物と呼ばれ、高く評価されています。三大揃物は、鳥居清長の最高傑作ともいわれている作品です。人間観察に基づいた人の表情や仕草の描写、巧みな遠近法を活用した風景描写から、鳥居清長の高い技術と感性を垣間見ることが可能な作品といえます。三大揃物の大判図の合計は、48点にもなりますが、版元も不明で、謎の多いシリーズです。 このシリーズを描いていたころから、大判2枚続絵や3枚続絵など大きな作品にも力を注ぐようになり、江戸時代の生活を背景に、女性の自然な姿を巧みに表現した作品が増えていきました。 ボストン美術館にある、貴重な作品『女湯』 鳥居清長が描いた作品『女湯』は、ボストン美術館(エドガー・ドガ旧蔵)と川崎・砂子の里資料館にしかない貴重な浮世絵です。また、ボストン美術館と資料館の作品でも、絵に違いが見られます。ボストン美術館蔵の作品では、右から2番目に立っている女性が陰部を赤い腰巻きで隠しています。これは日本からの輸出時に上手く修正したと推測できるでしょう。スタイルの良い女性たちが描かれており、日本における裸体美の第一級作品との呼び声もあります。 ボストン美術館には浮世絵作品が多く所蔵されていますが、その理由にはビゲローが関係しています。ビゲローは、アメリカの医師であり日本美術の研究家です。日本美術の収集家としても知られており、1890年にボストン美術館の理事に就任。1911年にビゲローが収集していた美術品が、正式にボストン美術館に寄贈されました。ビゲローが収集していた浮世絵コレクションは33,264枚という膨大な数でした。現在、ボストン美術館全体の約64%がビゲローの寄贈品です。そのため、ボストン美術館には日本の浮世絵が多く所蔵されているのです。 清長風美人の前と後を比較してみる 清長風美人が登場する前と後の美人画の特徴を確認していきましょう。浮世絵が描かれ始めた初期は、少女のようなあどけなさが残る可憐な女性表現が人気を集めていました。代表的な作家は鈴木晴信(すずきはるのぶ)です。 清長風美人以降の江戸時代後期には、艶やかな雰囲気をまとった退廃的な美人画が好んで描かれました。代表的な作家は渓斉英泉(けいさいえいせん)です。後期には、色気のある妖艶な女性表現が好まれていました。 絶妙なバランスで描かれた、美しい清長風美人 すらりとしたスタイルの美人を描いていた鳥居清長。控えめながらも自然体な姿を魅力的に描く鳥居清長の画風は、多くの絵師たちが参考にしています。清長風美人と呼ばれる言葉が誕生していることから、多くの人の印象に残っていたとわかります。時代とともに作風が変化していく美人画を、昔からさかのぼってみてみると浮世絵美人画の新たな魅力に気付けるかもしれません。清長風美人の浮世絵をきっかけに、さまざまな画風の美人画の鑑賞も楽しんでみてください。
2024.08.13
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猫も金魚も…擬人化がかわいい、歌川国芳の浮世絵
浮世絵のジャンルの一つに擬人化があります。 主に、天保の改革による浮世絵への厳しい規制がかけられていた時代に描かれていました。 擬人化の浮世絵で有名なのが歌川国芳です。 ユーモアあふれるデザインと、幕府への風刺が入り混じった浮世絵は、一般的な浮世絵とはまたひと味違う魅力があるといえます。 動物から植物まで…擬人化作品といえば歌川国芳 浮世絵には、擬人化された作品も多く存在します。 その中でも擬人化で人気を集めていたのが歌川国芳です。 個性あふれる歌川国芳の擬人化作品は、動物から植物までさまざまな生き物を題材にしており、その背景に隠された想いを想像しながら鑑賞してみてはいかがでしょうか。 歌川国芳 作家名:歌川国芳(うたがわくによし) 生没年:1798年-1861年 代表作:『相馬の古内裏』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 日本美術史上では、奇想の絵師の一人に挙げられています。 日本橋の紺屋で生まれた歌川国芳は、12歳と早くにその画才を認められ、当時人気絵師だった歌川豊国のもとで師事を受けました。しかし、その後十数年間、歌川国芳の絵は人気が出ず、脚光を浴び始めたのは30歳を過ぎてからでした。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』が大ヒットし、一躍人気浮世絵師となります。色彩鮮やかに描かれ躍動する英雄は、江戸の人々の心を惹きつけました。その後、武者絵の国芳と呼ばれるようになり、古今東西の歴史や物語に登場するさまざまな英雄を描いていきます。 歌川国芳が描く浮世絵の魅力は、クールに描かれた英雄たちだけではありません。 画想の豊かさや斬新なデザイン力、奇想天外なアイディア、確実なデッサンスキルなどが組み合わさり、浮世絵の枠にはとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出しています。 戯画(浮世絵戯画)とは 太平の世が続いていた江戸時代には、多くの浮世絵戯画が描かれていました。 戯画とは、戯れに描いたり、誇張や風刺を交えたりして描かれたユーモラスあふれる絵を指しています。 江戸時代では、浮世絵の題材として用いられることも多く、多くの庶民を楽しませていました。 題材は人間だけではなく、動物や植物も含まれます。 歌川国芳の描いた、ゆかいな戯画の数々 歌川国芳が描く浮世絵の大きな魅力は、独特のユーモアや発想の奇抜さにあります。 天保の改革により、浮世絵をはじめとした娯楽産業に厳しい制限がかけられた際、遊女や歌舞伎役者を浮世絵に描くことが禁じられてしまいました。そこで歌川国芳は、見立て絵を描き規制をかわしていくのです。 『金魚づくし・百ものがたり』 歌川国芳が描いた浮世絵『金魚づくし・百ものがたり』は、戯画の一つ。 金魚や水中の生き物を擬人化し、ユーモアあふれる作品に仕上がっています。 百ものがたりは、当時江戸で流行していた怪談会を指しており、百本のろうそくを火に灯し、怪談話が一つ終わるごとにろうそくの明かりを一本ずつ消していくというもの。最後の一本を消すと幽霊が現れるという肝試しの一つでもありました。 『金魚づくし・百ものがたり』は、金魚たちが怪談話を披露していき、最後の話が終わり猫の化け物が現れた瞬間を描いています。 猫・猫・猫…歌川国芳は無類の猫好き 歌川国芳は、無類の猫好きであったとも伝えられています。 明治期の浮世絵研究者である飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』によると、常に5・6匹の猫を飼い、さらには1・2匹の猫を懐に入れておくほどの猫好きだったようで、猫が亡くなると供養を行うだけではなく、猫専用の仏壇も置かれていました。 猫好きであったこともあってか、猫を題材にして擬人化した作品も多く残しています。 『其のまま地口猫飼好五十三疋』は、歌川広重の有名作品『東海道五捨三次之内』を猫バージョンで描いた作品です。 ユーモアあふれる作品で、『東海道五捨三次之内』と見比べてみても楽しめるでしょう。 出版規制の残る時代に擬人化アイディアで楽しませた歌川国芳 歌川国芳は、浮世絵師界の中で戯画や狂画の第一人者ともいえる存在です。 天保の改革による出版規制をかいくぐるため、独創的なアイディアで日本を風刺していきました。 擬人化による独自のセンスが光る歌川国芳の浮世絵。 そのポップで奇抜なデザインだけではなく、時代背景を考え、どのような思想が描かれているのかを想像して鑑賞するのも楽しみ方の一つです。
2024.08.13
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「だるせん」と呼ばれた葛飾北斎の達磨絵と名古屋との関係
世界中から高い評価を受けている葛飾北斎。浮世絵版画作品の印象が強い人も多いでしょう。しかし、葛飾北斎は、高い画力と奇抜な発想力により多彩な作品を手掛けています。名古屋との縁も深い葛飾北斎が「だるせん」と呼ばれていた由縁に迫っていきましょう。 葛飾北斎のニックネーム「だるせん」とは 江戸時代から現代まで絶大な人気を誇っている浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は「だるせん」と呼ばれていたのをご存知でしょうか。さまざまな技術を学び多彩な画風が特徴の葛飾北斎は、だるまの絵を描いていたこともありました。 大達磨を描いた、葛飾北斎 1817年、名古屋に滞在していた葛飾北斎は、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行いました。この催しは、北斎漫画を広めるために行われたといわれています。葛飾北斎が大だるま絵を描くことを紹介した張り紙があちこちの店に張り出され、当日は張り紙を見たり、噂を聞きつけたりしてきた人々で大変にぎわっていたようです。 境内には足場が組まれ巨大な紙が用意されていました。見物人からの拍手喝采を受け、葛飾北斎はまず鼻を描いていきます。その後、右の眼、左の眼、口、髭を描き、紙を引き上げ衣紋を描いていきました。完成した大だるま絵の大きさは、18m×11mほどもあったといわれています。 このパフォーマンスは大きな話題をさらい、葛飾北斎はだるま先生を略して「だるせん」と呼ばれるようになりました。現在の名古屋、本願寺名古屋別院(西別院)は「大達磨絵揮毫の地」とされています。 葛飾北斎とは 出身地:東京都墨田区 代表作:『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『富士越龍図』 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くのが好きだった北斎は、十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章に師事を受けています。その後、破門されてしまいますが、他流派や西洋画などさまざまな画風を学んだ葛飾北斎は、その圧倒的な画力と奇想天外なアイディアで数々の名作を完成させました。浮世絵版画を多く制作していますが、肉筆画も多く手掛けています。 尾張(現在の名古屋)でも人気だった葛飾北斎 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張でも人気を集めていました。1812年ごろ葛飾北斎は、関西方面へ旅に出たとされており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在し、300枚以上の版下絵を描き上げました。 このとき描いた絵がのちに、門人の絵手本として有名な『北斎漫画』になるのです。『北斎漫画』は、名古屋の版元である永楽屋東四郎によって初版発行されています。 200年の時を経て再現された大達磨絵 1817年に葛飾北斎が名古屋で描いた大だるま絵は、第二次世界大戦時に消失してしまったといわれています。しかし、尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)によって書き留められた『北斎大画即書細図』に当時のイベントの情報が残されていました。書細図には、当時のスケジュールや賑わいの様子はもちろん、用意された和紙や筆、絵の具などまで詳細に記されています。 2017年、200年前に描かれた葛飾北斎の大だるま絵を再現して描くイベントが行われました。場所は、名古屋市中区の本願寺名古屋別院、愛知県立芸術大や名古屋市博物館の協力により実現されました。当時の記録をもとに、雨に強い和紙や米俵5俵分のわら筆を用意し、忠実に再現して描かれています。 当日は小雨が降り強風が吹いていましたが、約2時間で絵は完成され、観客から拍手と歓声がわき上がる素敵なイベントになったようです。 葛飾北斎の人気は当時からすごかった 現在でも、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている葛飾北斎は、江戸時代当時から、江戸にとどまらず各地で人気を集めていました。名古屋とのゆかりも深く、当時は「だるせん(だるま先生)」と呼ばれていたそうです。大だるま絵をはじめとして、葛飾北斎の作品は、奇想天外なものも多く、作品によって異なる魅力を感じさせてくれます。有名な作品ばかりではなく、さまざまな地域や時代に描かれた葛飾北斎の作品を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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浮世絵に描かれたかわいい猫・怖い猫・面白い猫たち
浮世絵のモチーフとしてもよく用いられている猫。 現在では多くの人々に愛されている動物です。 人と暮らし、人々の生活に溶け込んでいる猫は、いったいいつごろから日本でなじみ深い動物になったのでしょうか。 その歴史は、奈良時代にまでさかのぼります。 猫と人間の深い関係 現代では、自宅で猫を飼う人もいれば、一方で人懐っこい野良猫もいます。 人々が暮らす街中に溶け込んでいる猫たちは、古くから人々と生活をともにしてきていたようです。 歴史をさかのぼって人々と猫の関係性を見ていくとともに、猫がモチーフになっている芸術作品にも触れていきましょう。 猫は昔から人間のそばにいた 一般的に、奈良時代に中国から仏教が伝えられた際に、経典をネズミから守るため、船に一緒に乗せられたのが、日本に猫が伝わった始まりとされていました。 しかし、近年、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で、イエネコとみられる動物の骨が発掘されたのです。貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守るために飼われていたと考えられています。 この発見により、今からおよそ2100年前の弥生時代には、日本に猫がいたのではないかとする説が濃厚になりました。 どちらにせよ古代日本では、愛玩目的ではなく書物や食料を守るために猫が飼われていたようです。 その後、平安時代には、現在の猫と同じように愛玩動物として飼われるようになりましたが、まだ数が少なく貴重な存在であったため、高貴な身分の人のみが猫を飼っていました。安土桃山時代から江戸時代にかけては、ネズミによる食料被害を減らすべく、猫を放し飼いにする作戦が実行されました。 猫による対策効果は高く、ネズミによる被害は減ったそうです。 しかし、猫が貴重な存在であることには変わりなかったため、本物の猫の代わりに猫の絵が重宝されていたとする史料もあります。 その後、縁起の良い動物として招き猫が誕生したように、猫は守り神としても親しまれていきました。庶民でも手の届きやすい存在になったころ、ネズミ駆除として多くの人々によって猫を飼うことが習慣化していきました。 江戸時代には、猫がモチーフになった浮世絵作品が多数制作されています。縁起物として親しまれてきた猫は、芸術のモチーフにもなり、長く人々から愛されてきたことがわかるでしょう。 猫を愛した浮世絵師、歌川国芳 歌川国芳は、浮世絵界きっての愛猫家として知られています。 明治期の浮世絵研究者・飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』でも、歌川国芳の猫への溺愛ぶりが記録されています。 『浮世絵師歌川列伝』によると、歌川国芳は常に5・6匹の猫を飼っており、1・2匹の猫を懐に入れて暮らすほど、猫好きだったようです。 また、猫が亡くなったときは、供養を行うだけではなく、自宅には猫の仏壇が置かれていました。 猫への愛情が伝わる弟子とのエピソードがあります。 ある日、亡くなった猫の供養を弟子である歌川芳宗にお金を渡して頼みました。しかし、歌川芳宗は猫の亡骸を橋から捨てて、もらったお金を吉原の遊郭で使い果たしてしまいました。 供養に行ったふりをして帰ってきた歌川芳宗に対して、歌川国芳が猫の戒名を訪ねたことで、嘘がばれてしまいます。その後、芳宗は破門されたといいます。 無類の猫好きである歌川国芳は、猫をモチーフにした浮世絵も多数制作していました。 『其のまま地口猫飼好五十三疋』は、歌川広重の『東海道五十三次』をオマージュした作品です。 53の宿場町にちなんだダジャレとともに猫の姿が描かれており、思わず笑ってしまうユーモアあふれる作品です。 猫の描写や表現が豊かな作品たちは、いまもなお多くの人々に愛されています。 浮世絵に描かれた猫たち 江戸時代に流行した浮世絵には、猫を題材にした作品も多く存在します。 愛らしい猫が描かれた親しみのある作品から、浮世絵の世界を深めていくのもお勧めです。 豊原周延 作家名:豊原周延(とよはらちかのぶ) 生没年:1838年-1912年 豊原周延は別名・楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)ともいい、戊辰戦争で幕府側について戦った異色の浮世絵師として知られています。 幼少のころは狩野派で絵画技法を学び、その後は、渓斎英泉の門人から浮世絵を教わりました。のちに、歌川国芳や歌川国貞にも師事し、師の他界後は、歌川国貞の門人であった豊原国周から学びを受けます。 絵の学びを続ける中、幕末の戊辰戦争が勃発。 豊原国周は、江戸の高田藩士で結成された神木隊として上野戦争に参戦しました。 その後、箱館戦争を戦うなど激動のときを過ごしたのでした。そのため、本格的に浮世絵師として活動できたのは、40歳を過ぎてからでした。 優美な美人画や躍動感ある役者絵、戦争絵、時事画題、歴史画などさまざまなジャンルを描き、明治という時代を彩っていきます。 色鮮やかな着物を着た女性と子ども、そしておもちゃに戯れる猫の姿が描かれています。猫は、紐でくくられているようにも見え、おそらく飼い猫であることが分かります。 一筆斎文調 作家名:一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう) 生没年:不詳 一筆斎文調は、1760年ごろから浮世絵を描いていた浮世絵師といわれています。 もとは狩野派の石川幸元の門人とされており、のちに浮世絵へ転向した絵師です。 勝川春章と『絵本舞台扇』を共作し、これまでの形式化した役者絵に新しい風を吹かせたとして高い評価を受けています。 浮世絵作品の数は少なく、とりわけ肉筆画は、ほとんど残されていません。 一筆斎文調の描いたこの絵には、足元に小さな子猫がいます。江戸の暮らしには、猫が人々とともにいたことが分かる作品といえるでしょう。 鈴木春信 作家名:鈴木春信(すずきはるのぶ) 生没年:1725?年-1770年 鈴木春信は、錦絵の誕生や発展に大きく貢献した浮世絵師として知られています。錦絵が誕生するまでは、紅摺絵の技法を用いて浮世絵を制作していました。 鈴木春信は、浮世絵を制作しながら、近所に住む発明家の平賀源内と交流を持ち、ともに錦絵の技術研究を行っていたといわれています。版元からの資金援助も受け、錦絵の手法の発展に力を注いでいきました。 多色摺りの技術向上を続けていた鈴木春信の版木を譲り受けた版元は、暦や依頼者の名前を削り取り印刷して販売します。 この浮世絵が錦織のように鮮やかで美しかったことから、錦絵と呼ばれるようになりました。 鈴木晴信もまた、江戸の人々と暮らす猫を描いています。この作品では、子どもが猫を抱える様子が。猫の首には首飾りらしきものがつけられており、飼い猫であろうことが想像できます。 歌川國貞 作家名:歌川國貞(うたがわくにさだ) 生没年:1786年-1865年 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍を見せた絵師で「奇想の絵師」とも呼ばれています。 小さいころから絵の才能があり、7・8歳ごろには、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたそうです。 このころから絵の勉強は始まっており、著名な絵師の作品を模写する中で、浮世絵の技術を身に付けていきました。 歌川国芳が大衆からの人気を集めたのは、決して早くなく30歳のころでした。 明代中国の小説・水滸伝をモチーフにした連作浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』が大ヒット。 その後も、ユーモアあふれる作品を数多く生み出していきました。
2024.08.13
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希少な肉筆浮世絵は高価買取のチャンス!価値の分かる専門家へ相談を
浮世絵には浮世絵版画のほか、肉筆浮世絵と呼ばれるものがあります。 肉筆浮世絵は浮世絵版画よりも希少性が高く、高価買取してもらえる可能性があります。 価値の分かる専門家へ相談してみましょう。 肉筆浮世絵を高価買取してもらおう 浮世絵といえば一般的に木版画を指します。 一方で、同様の題材を肉筆で描いたものが肉筆浮世絵です。 作家や状態によっては肉筆浮世絵も高価買取してもらえる可能性があります。 肉筆浮世絵とは 肉筆浮世絵とは、名前の通り筆を使って(肉筆で)紙や布に直接描かれた浮世絵のことです。 そもそも浮世絵とは、18世紀の江戸時代の風俗などを題材とした絵画のことです。 ただし、画家によって一点ずつ描かれる従来の絵画と違い、浮世絵は木版画でした。 そのため、安価に複製ができ、大衆文化として広く普及したのです。 一方で、浮世絵が誕生した後も、画家が風俗や有名な人物などを題材として肉筆で絵を描くこともありました。 それを木版画の浮世絵と区別するための呼び方が肉筆浮世絵です。 木版画の下絵や原画ではない、オリジナルの作品です。 浮世絵版画は買取してもらえる? 浮世絵版画とは木版画の浮世絵のことです。 版画のため同じ図柄が複数存在することが肉筆浮世絵との大きな違いの一つです。 また、大衆向けの作品が多いため、芸術的価値が高くないものもあります。 とくに江戸時代から明治時代にかけて作られた復刻版や、無名作家の作品は買取を断られてしまったり、買取価格が低くなったりするかもしれません。 ただし、浮世絵版画でも有名作家の作品であれば高く買取してもらえる可能性があります。 たとえば、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)などが代表的な浮世絵師です。 査定の結果、有名作家の作品だと分かるケースもあります。 作家名が不明の作品も専門家に一度見てもらうとよいでしょう。 一方、浮世絵版画よりも高価買取してもらえる傾向にあるのが肉筆浮世絵です。 肉筆浮世絵は作家が直接制作しているため、希少価値があります。 また、肉筆浮世絵の多くは依頼主から注文を受けて描かれています。 大量生産を前提に売れやすさを狙った作品が多い浮世絵版画に比べて、絵師による創作の自由度が高いのが特徴です。 肉筆浮世絵はそもそも一点物で希少性が高い上、人気作家のものであれば100万円を超える価格で取引されることもあるでしょう。 葛飾北斎や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)といった人気作家も肉筆浮世絵を手掛けています。 ただし、肉筆浮世絵は贋作が多いことでも知られています。 真贋の査定が難しいため、買取していない業者や低価格で買取しようとする業者もいるかもしれません。 肉筆浮世絵を売る際は、複数の業者への査定依頼をお勧めします。 肉筆浮世絵はいつからあった? 浮世絵の祖とも呼ばれる菱川師宣以降、浮世絵とは主に版画を指す言葉として使われています。 しかし、成立当初の浮世絵は、紙や絹に直接描かれるのが一般的でした。 たとえば床の間に飾って鑑賞するための掛け軸や、屏風、扇などに描かれた作品が多く残っています。 浮世絵の歴史については明確になっていない部分が多く、研究者によって意見が分かれています。 中でも浮世絵の誕生に大きく貢献したと多くの研究者に考えられているのが、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)です。 武家に生まれた岩佐又兵衛は一族が没落した後、江戸時代初期に絵師として活躍しました。 大胆でパワフルな表現が特徴で、代表作として『洛中洛外図屏風』、肉筆の『職人尽』、『三十六歌仙図額』などが挙げられます。 なお、版画の技術が発展した後も、肉筆浮世絵を制作した浮世絵師は少なくありません。 そのため、岩佐又兵衛の頃の浮世絵を「初期肉筆浮世絵」と呼び、後世のものと区別することもあります。 版画と比べて一点物のためより高い価格で販売できたことや、肉筆画を描く浮世絵師のほうが地位が高いと当時考えられていたことが理由です。 中には版画に興味を示さず、生涯にわたって肉筆画の制作に専念した宮川長春(みやがわちょうしゅん)のような浮世絵師もいます。 世界的に有名な『見返り美人図』は肉筆浮世絵の代表作 作家名:菱川師宣(ひしかわもろのぶ) 代表作:『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』『北楼及び演劇図巻』 『見返り美人図』は1693年頃、晩年を迎えた菱川師宣によって描かれた肉筆浮世絵です。 切手の題材になったり、教科書に掲載されたりしたため見たことがある方も多いでしょう。 現在は東京・上野の国立博物館に収蔵されています。 大胆な構図や鮮やかな色彩が、ゴッホやゴーギャンのような海外の芸術家にも影響を与えた作品として、世界的にも有名になりました。 赤い振袖を着た女性が、ふと立ち止まってこちらを振り返っている構図が印象的な作品です。 美しい女性を描いた「美人画」は、浮世絵の人気ジャンルの一つです。 美人画では、遊女や看板娘など実在する女性を複数名描くのが一般的でした。 しかし、『見返り美人図』は、一人の女性だけを描いている点や、実在の女性ではない菱川師宣の考える理想の女性が描かれている点が特徴です。 また、この作品に描かれた女性の衣装や髪型などに表現された江戸時代のファッションも見どころです。 絞りや金糸による刺繍が入った着物や、「吉弥結び」で結ばれた緑色の帯、玉結びという髪型などは当時の流行の最先端でした。 当時の美人画は今でいうファッション誌のような役割も果たしていたことがわかります。 肉筆浮世絵を描いた有名作家たち 版画による浮世絵が一般的になった後も、多くの作家が肉筆浮世絵を描いていました。 肉筆浮世絵の制作で知られる作家には菱川師宣のほか、葛飾北斎や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川豊春(うたがわとよはる)などの作家が挙げられます。 中でも葛飾北斎は晩年、肉筆浮世絵に傾倒し、多くの作品を残したことで知られています。 『神奈川県沖浪裏』がとくに有名な『富嶽三十六景』を描いた葛飾北斎は、ありとあらゆるものをテーマに生涯で34,000点以上の作品を制作しました。 作品は海外でも高く評価されており、世界で最も有名な浮世絵師といえます。 そんな葛飾北斎は肉筆浮世絵も大量に描いており、特に魚や花、鳥などを題材とした『肉筆画帖』が代表的な作品として挙げられます。 中でも『塩鮭と鼠』、『福寿草と扇』などが有名です。 美人画で有名な喜多川歌麿も多くの肉筆浮世絵を発表しました。代表作として『美人夏姿図』、『納涼美人図』などがあります。 肉筆浮世絵専門絵師、宮川長春 18世紀前半に活動した宮川長春は、版画を一切手掛けず、肉筆浮世絵だけを描いた絵師です。 日本画の主流である狩野派や土佐派に学んだ後、菱川師宣に師事して浮世絵師となりました。 師匠である菱川師宣は版画によって浮世絵を発展させた人物ですが、長春は肉筆画のほうが優れているという信念を貫きました。 多くの弟子を取り、宮川長亀、宮川一笑、宮川春水をはじめとする宮川派は肉筆浮世絵に専念した一門として知られています。 現存する作品は約200点といわれています。 国内に限らず海外の美術館にも多く収蔵されているように宮川長春の作品は海外でも人気がありました。 浮世絵をあまり好まなかったといわれる東洋美術史家のアーネスト・フェノロサも、宮川長春だけは評価していたという逸話も伝わっています。 宮川長春が得意としたのは、優美で気品のある美人画です。 依頼者は裕福な町人や武家が多かったとされ、高級な絵絹に質の良い絵の具を使って丁寧に彩色された作品が、多数残されています。 代表作は『立姿美人図』、重要文化財に指定されている『風俗図巻』など。 一人で立つ女性や蚊帳から顔を出す女性など、似た構図の作品を繰り返し制作したことも特徴です。 宮川長春は春画作品も多く描いた 庶民の風俗、遊女、遊郭の風景などを好んで題材とした宮川長春は、春画にも多くの優れた作品を残しました。 なお、春画とは性行為の様子、性的なものなどを描いた風俗画のことです。 枕絵、あぶな絵などと呼ばれることもあります。 平安時代からあったとされ、江戸時代以前には武士が魔除けのお守りとしたり、嫁入り道具として持たされたりすることもありました。 江戸時代には、春画は浮世絵のジャンルの一つとして発展し、葛飾北斎や歌川広重といった有名作家も多くの作品を制作しました。 一般市民には、春画をまとめた「好色本」が広く流通していたといわれています。 幕府から禁止令が出されても庶民から愛され続けた春画は、最近では美術品として再評価される傾向にあります。 肉筆浮世絵買取は実績ある査定士へ依頼を 絵師が直接描いた肉筆浮世絵は、木版画と異なり同じものが存在しないため、希少性があります。 浮世絵版画よりも買取価格が高くなる可能性があるでしょう。 とくに有名作家の作品であれば高額査定が期待できます。 ただし、肉筆浮世絵には贋作が混じることもあるため査定が難しいとされているため、実績のある査定士がいる業者へ査定を依頼するのがお勧めです。 また、査定によって有名作家の作品だと分かるケースもあります。 遺品整理や相続のタイミングで出てきた浮世絵は、作家名や価値が分からなくても査定してもらうとよいでしょう。
2024.08.13
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浮世絵の買取価格の相場は?人気作家の価格相場は高い
浮世絵を買取してもらいたいけれど相場が分からないと悩んでいる方は多いでしょう。 浮世絵の買取価格相場は、作品によってさまざまです。 しかし、買取価格が高くなりやすい作品には、いくつかのポイントがあります。 浮世絵の買取価格相場はどれくらい? 多くの業者が浮世絵を買取しています。 ただし、浮世絵の買取価格の相場は、作品によってばらつきが大きいことを押さえておきましょう。 価値のあるものは、数十万円から数百万円の価値がつくことは珍しくありません。 有名作家かつ保存状態がよいといった条件がそろったものでは、数千万円以上の価格で取引されることもありました。 一方で、浮世絵には、作家以外の人が真似て作った贋作や、オリジナルの作品をベースとして後世の人が作り直した復刻版もあります。 これらの作品は、価値が高いとは言えません。 そのため、浮世絵の買取価格は、作品による差が大きくなるのです。 買取価格相場が高くなる浮世絵は? 浮世絵の買取価格の相場は、作家や作品、制作方法によって大きく異なります。 査定士は、さまざまなポイントをチェックした上で、買取価格を決めているためです。 逆に言えば、査定士の評価が高くなりやすいポイントを押さえておけば、高価買取を期待できる作品かどうかが分かるかもしれません。 人気浮世絵師の作品 浮世絵の中でも買取価格が高くなりやすいのが、人気浮世絵師の作品です。 中でも4大浮世絵師と言われる東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)の作品は、高価買取が期待できます。ただし、4大浮世絵師でもそれぞれの価格の相場は異なります。 東洲斎写楽 例えば東洲斎写楽は、確認されている約150点の作品のうち、特に評価が高いのは前期のものです。特に最初期に発表された28点の大首絵には名作が多いとされています。 一方、東洲斎写楽の作品とされているものの中には、贋作が混じっている可能性に注意が必要です。 贋作に芸術的価値はないため、基本的に買取できません。そのため、買取価格相場は、数万円から数千円までバラつきがあるのが東洲斎写楽の浮世絵の特徴です。 喜多川歌麿 美人画で有名な喜多川歌麿は、生前から人気の高い絵師でした。 喜多川歌麿の作品の相場は、数万円〜数十万円です。過去には、数千万円の価値がつけられた作品もありました。 そこまで高い価値がつくことは稀とはいえ、人気作品や保存状態のよいものであれば高価買取の可能性があります。 葛飾北斎 世界で最も有名な浮世絵師と言われる葛飾北斎の作品の買取価格は、五万円〜十万円が相場です。 歴史的に価値があると認められれば、評価はより高くなります。作品や状態によっては、百万円を超える価格がつけられる可能性もあるでしょう。 歌川広重 風景画を得意とした歌川広重も人気の高い作家です。 オリジナルかつ状態のよいものであれば百万円以上することも少なくありません。過去には、一千万円を超える価格で取引された作品もありました。 初摺の浮世絵版画 木版画形式の浮世絵を浮世絵版画と呼びます。浮世絵版画は原版に当たる版木さえあれば、何度も摺ることが可能です。 そのため、同じ作品が大量に流通していることを理由に買取価格が低くなることもあります。 しかし、浮世絵版画でも初摺のものは、高価買取が期待できます。 初摺とは、版木が完成してから最初に摺られた浮世絵のことです。 江戸時代には、はじめに200枚程度を摺り、人気があれば追加で摺るのが一般的でした。このうちはじめの200枚程度を初摺、追加分を後摺と呼びます。 初摺は摺師、絵師、彫師が立ち会い、絵師のイメージした通りの仕上がりになっているか確認します。 しかし、後摺はこうした仕上がりの確認がないため、何度も摺るうちに版木がすり減ってしまったり、使用する顔料が変更されたりして、初摺とは雰囲気が変わっていることもありました。 そのため、芸術的価値は初摺が最も高いとされています。特に、人気作品の初摺となれば高価買取が十分期待できるでしょう。 肉筆浮世絵 肉筆浮世絵とは、絵筆を使って描かれた浮世絵のことです。 浮世絵版画と違い、一枚ずつしか制作されない肉筆浮世絵は希少性が高いことから、買取価格が上がりやすい傾向にあります。 浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の代表作『見返り美人図』も肉筆浮世絵です。 浮世絵版画が普及した後も、肉筆浮世絵が描かれることは珍しくありませんでした。葛飾北斎や歌川広重も肉筆浮世絵を複数残しています。 買取価格相場の高い、人気浮世絵師 人気浮世絵師の作品は、買取価格相場が高くなる傾向にあります。 特に4大浮世絵師の作品は、国内はもちろん、海外にも愛好家が多いため高価買取の可能性があります。有名作品も多いため、どこかで目にしたことがある方もいるのではないでしょうか。 東洲斎写楽 東洲斎写楽は江戸時代中期に当たる、1794年5月から約10カ月間のみ活動した浮世絵師。 短い期間に約150点の作品を残し、忽然と姿を消してしまいました。 その正体は、能役者の斎藤十郎兵衛という説が有力ですが、いまだに分からないことが多いため「謎の浮世絵師」と呼ばれることもあります。 東洲斎写楽の作品は、上半身をデフォルメした大首絵の構図を取った役者絵が、特に有名です。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』などが代表作として挙げられます。役者を理想化して描くのが主流だった当時、ありのままの姿を表現した東洲斎写楽の作品は、強烈なインパクトを与え、大人気となりました。 しかし、役者からの評判はよくなかったのか、作品を発表するたびに作風が変化して東洲斎写楽らしい個性が薄まっていきました。 特に後半に発表した作品は、平凡とされています。このため、高価買取が期待できるのは、主に活動期間前半に発表された作品です。 喜多川歌麿 喜多川歌麿は、18世紀後半に活躍した浮世絵師です。 はじめは役者絵や本の挿絵などを描いていましたが、1790年代から美人画を主に制作するようになり大人気となりました。 『寛永三美人』『婦女人相十品 ポッピンを吹く娘(ビードロを吹く娘)』などが代表作です。 喜多川歌麿の美人画の特徴は、大首絵と呼ばれる胸から上を描いた構図です。 女性の表情やしぐさ、個性などを丁寧に描くためには、大首絵の構図が不可欠だったのです。 当時の美人画は全身を描くのが主流だったため、喜多川歌麿の作品は、目新しいものとして感じられたことでしょう。 人々からは、美人大首絵と呼ばれることもありました。 しかし、遊女や茶屋の看板娘などをモデルとする美人画は、風紀を乱すものとしてたびたび幕府から禁止される憂き目にあっています。 喜多川歌麿は、さまざまな方法で禁止令に対抗しましたが、豊臣秀吉が行った醍醐での花見を題材とする『太閤五妻洛東遊観之図』でついに処罰を受けてしまいました。豊臣秀吉を描くことで、当時の将軍である徳川家斉を批判していると言われてしまったのです。 この事件にショックを受けた喜多川歌麿は、従来のような創作への意欲を失ってしまい、2年後に亡くなったとされています。 葛飾北斎 葛飾北斎は、18世紀後半から19世紀半ばまでに34,000点を超える作品を制作した浮世絵師です。 江戸幕府は当時、鎖国政策を行っていましたが、その作品の一部は、海外に流出していたため生前から外国でも人気があったと言われています。 現代でも国内外で人気が高い葛飾北斎は、世界で最も有名な浮世絵師の一人です。 葛飾北斎は、身の回りのありとあらゆるものを題材として絵を描きました。 武者絵、妖怪絵、読本の挿絵、春画などさまざまな作品を発表しています。 特に代表作である『富嶽三十六景』のような風景画は、当時から高い評価を受けていました。同時代に活躍し、同じく風景画を得意としていた歌川広重と人気を二分していたと言われています。 『富嶽三十六景』の中でも特に有名なのが大波と、遠くに見える富士山を描いた『神奈川県沖浪裏』。葛飾北斎の作品に見られる大胆な構図と色鮮やかな色彩は、ゴッホやドガといった海外の芸術家にも大きな影響を与えました。 歌川広重 19世紀前半の浮世絵師・歌川広重は、風景画の名手として知られています。 東海道にある宿場などを描いた連作の『東海道五十三次』は特に有名です。 歌川広重の作品の特徴として挙げられるのが、ベロ藍と言われる顔料が生み出す透き通るような青色です。浮世絵版画にベロ藍を使用すると油彩画より発色が鮮やかになります。その透明感に海外の芸術家たちは驚き、いつしか「ヒロシゲブルー」と呼ばれるようになりました。 江戸時代後期には庶民の生活が向上し、旅行を楽しむ人も増えていました。 各地の名所を取り上げた歌川広重の風景画は、旅行ガイドとしても人気を集めたと言われています。 誰の作品か分からないと、浮世絵には値段がつかない? 作家は浮世絵の買取価格を決める大切なポイントの一つです。そのため、作家が分からないと価格がつきづらいと言えるでしょう。 江戸時代には、多数の作家が浮世絵の作品を作ったため、中には無名の作家もいます。 そもそも浮世絵は、大衆向けに作られているものが多く、必ずしも芸術的価値が高くないものも含まれます。芸術的・歴史的価値を明らかにするためにも作家が重要なのです。 一方で、当初は作家が不明でも、査定士が見ることで作家名が判明することも少なくありません。特に落款や印章のついた作品は、専門家である査定士が見ることで作者が分かる可能性が高いでしょう。そのため、誰の作品か分からないから値段がつかないとは言い切れません。 復刻版の浮世絵は、買い取ってもらえない? 浮世絵版画には、大きく分けてオリジナル版と復刻版があります。 オリジナル版とは、浮世絵師本人が描いた下絵を元に作られた版木で摺られた作品のことです。 一方、復刻版とはオリジナル版を忠実に写し取って作られた版木により、浮世絵版画を現代に蘇らせたものです。彫師や摺師との共同作業によって作られており、クオリティはオリジナル版とほぼ変わりません。 しかし、復刻版の芸術的価値はオリジナル版に遠く及びません。査定士により復刻版だと分かれば、買取してもらえない可能性があることに注意しましょう。 市場に多く出回る浮世絵だからこそ、経験ある査定士へ相談を 浮世絵の中でも特に浮世絵版画は、一度に数百枚ずつ摺られるのが一般的でした。また、人気作品は後世に復刻版が作られることもありました。 その結果、市場には多くの浮世絵が出回っているため、買取の際には作家が重視されます。 特に4大浮世絵師と呼ばれる東洲斎写楽、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重の作品は、国内外で人気の作家で、これらの作家の作品は、買取価格が高くなる傾向にあります。 また、同じ作家の同じ図柄でも初摺であればより価値が高いと判断されます。さらに、希少価値の高い肉筆浮世絵であれば高価買取が期待できるでしょう。 浮世絵の買取を依頼するのであれば、実績ある査定士に相談するのがお勧めです。 専門家である査定士が査定することで、相場を踏まえた買取価格をつけてもらえると期待できます。 作家が分からない作品も、プロが査定することで価値が判明するかもしれません。 浮世絵の処分を予定されている方は、ぜひ一度相談してみてください。
2024.08.08
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浮世絵版画は高く売れる?高価買取の基準とポイントは?
江戸時代に生まれた浮世絵版画は、当時の人々の間で大人気となりました。 浮世絵版画の技術がなければ、浮世絵が大衆文化として発展することはなかったかもしれません。 現在、有名な作品の多くも浮世絵版画です。 しかし、浮世絵版画は同じものが複数作られているため、価値が高くないと考えている方もいるかもしれません。 浮世絵版画について高価買取の基準や主な有名作品、作り方などを知り、買取時の価値について理解を深めましょう。 浮世絵版画を高価買取してもらおう 浮世絵には肉筆で描かれた肉筆浮世絵と、木版画形式の浮世絵版画の2種類があります。 一般的に浮世絵と言うと、後者の浮世絵版画を指すことが多いでしょう。 江戸時代に大流行した浮世絵版画からは、多くの傑作が生まれています。 現代でも浮世絵の人気は高く、国内外に多くのコレクターがいます。 作品によっては高価買取の対象になるかもしれません。 浮世絵版画とは 浮世絵版画とは、絵師が描いた下絵を元にした原版(版木)を摺って制作する浮世絵のことです。 浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)がきっかけとなって誕生しました。 木版画形式のため大量生産が可能で、1枚当たりの価格が安かったため、江戸時代の庶民の間にも一気に広まったと言われています。 始めは、墨一色で摺られていた浮世絵版画でしたが、江戸時代中期には、技術の進歩により何色もの顔料を使う多色摺りが一般的になりました。 現代でも知られている有名作品の多くは、多色摺りで作られています。 特に18世紀末から19世紀前半は、浮世絵版画が最も盛り上がった時期です。 葛飾北斎(かつしかほくさい)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)といった人気絵師もこの時期に活躍しました。 当時、江戸幕府は鎖国政策を取っていましたが、さまざまなルートから海外へ伝わった浮世絵は外国人にも人気でした。 多色摺による鮮やかな発色や大胆な構図は、外国の芸術家にも大きな影響を与えたのです。 なお、身近なものをテーマに描かれた浮世絵版画は、いくつかのジャンルに分けられます。 美しい女性をモデルにした美人画や、歌舞伎役者のブロマイドとして活用された役者絵、絵葉書や旅行ガイドの役割を果たした風景画などが、主なジャンルです。 浮世絵版画は買取してもらえる? 結論から言えば、浮世絵版画は買取してもらえる可能性があります。 中には高価買取が期待できる作品もあります。 浮世絵版画は安く大量に作れるという特性を生かして、江戸時代には大衆向けにさまざまな作品が販売されました。 そのため、中には芸術的価値が高くないものもあるのが事実です。 作品や作家、保存状態などによっては買取してもらえないものもあるでしょう。 一方で、作品によっては非常に芸術性が高く、国内だけでなく海外からも人気を集めている作品もあります。 特に遺品整理や相続を通じて出てきた浮世絵版画は、受け取った方は作家名が分からないことも少なくありません。 しかし、査定士による査定の結果、有名作家の作品だと判明し、高価買取されることもあるのです。 不要は浮世絵版画を持っている方は、ぜひ買取を検討してみてください。 浮世絵版画の制作工程 浮世絵版画は基本的に、4つの役割を持つ人々との共同作業で作られていました。葛飾北斎など浮世絵版画の作家とは、この中の絵師に該当します。 しかし、実際には作家一人の力で作れるものではないことが分かるでしょう。 版元 版元とは、現代で言う出版社またはプロデューサーです。 浮世絵版画を摺ったり売ったりするだけでなく、より売れる商品を作るために企画も行いました。 喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)という2人の人気絵師を発掘した、版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は特に有名です。 彫師 彫師とは、絵師が描いた図柄を元に版木を作る職人のことです。 一人が最初から最後まで担うこともあれば、複数の職人が協力して1枚の版木を作る場合もありました。 なお、2色以上の色を重ねる浮世絵版画では、一色ごとに一枚の版木が必要です。 版木の数が増えるほど時間やコストがかかってしまうため、浮世絵版画では5枚の板の両面を使った10面以内に抑えるのが一般的でした。 たとえば、江戸時代中期に活躍した喜多川歌麿の作品『五人美人愛敬競 八ツ山わしや』を見てみましょう。 注目したいのは女性の髪の毛です。 髪の毛を彫るのは高い技術が必要とされ、何人かの彫師が協力して作業する場合でも、特に優れた者だけに任されていたと言われています。 『五人美人愛敬競 八ツ山わしや』では、髪全体に細かな筋が入り毛の流れを表現していることや、生え際は白を効果的に使って表現していることが分かります。 色を付けたくない部分を彫っていく浮世絵版画の場合、髪の毛の流れを示す白い筋が彫師が彫った部分です。 作品にもよるものの、線の細さは1mm以下になることも多く、非常に繊細な作業であったことが伺えます。 また、絵師によっては、下絵の段階で細かな部分を描かないことがあります。その際は、彫師が足りない部分を補います。 中には髪の毛や着物の柄を彫師に任せる絵師もいました。 江戸時代の浮世絵版画では、ほとんどの場合、作家として名前が残るのは絵師のみです。しかし、実際には彫師も大きな役割を果たしていたと言えるでしょう。 摺師 摺師とは、原版に顔料を付けて紙に摺る職人のことです。 絵師のイメージ通りの図柄ができるように版木と紙、顔料を調整するには、高い技術が必要でした。 特に多色擦りが登場してからは、版木の枚数が増えたため作業にかかる時間も長くなり、摺師の負担は増えたと考えられます。 歌川広重(うたがわひろしげ)は、雨や雪の描写を得意とする絵師です。 『東海道五拾三次 蒲原 夜之雪』では、寒村に降り積もった雪を墨の黒と和紙の白のグラデーションで表現しています。 ぼかしの技術を用いることで、雪のやわらかな質感が伝わってくるでしょう。 浮世絵版画では、ぼかしたい部分に水分を多くした顔料を乗せて、まず版木の上でグラデーションを作ります。 その上に紙を置いて摺ることでぼかしを表現するのです。 絵師が思い描いた通りのグラデーションができるかは摺師の力量次第と言えます。 なお、浮世絵版画が完成するまでの流れは以下の通りです。 下絵を描く(絵師) 検閲を受ける 主版を彫る(彫師) 色分けする(絵師・彫師・摺師) 色ごとの版木を彫る(彫師) 紙に擦る(摺師) このように、1枚の浮世絵版画を完成させるまでには多くの人の手を経ていることが分かります。 なお、1790年以降、浮世絵は下絵の段階で幕府の校閲を受けることが義務付けられていました。 絵師 葛飾北斎や歌川広重など、今日私たちが知っている人物は「絵師(浮世絵師)」です。 絵師の主な役割は、題材の選定(版元と共同で行うことも)やデザイン画の作成です。 浮世絵の題材には、役者絵、美人画、風景画、歴史画などがあり、時代や流行、依頼主の要望を考慮しながら、題材を選定していきます。浮世絵版画の場合、複数枚を刷るため、商業的に成功するのかという視点も非常に重要なのです。 また、構図・デザインは、絵師の芸術的なセンスが試されます。そして、彫師や摺師への指示も的確に行わなければ、絵師のイメージを実現することはできません。 絵師の役割は、単に絵を描くだけでなく、作品全体の企画・デザイン・制作を統括し、最終的な品質を保証することにあります。彼らの創造力と技術は、浮世絵の美しさと魅力を支える重要な要素であるといえるでしょう。 浮世絵版画の価値を決めるポイント 浮世絵版画の価値を決めるポイントは複数あります。 中でも特に重要なのが、作家です。 浮世絵が大衆文化として人気を集めた江戸時代には、無数の浮世絵師がいました。当然、中には全くの無名作家もいます。 無名作家の作品は、買い手を見つけにくいため、高い価値を付けるのは難しくなり、査定してもらっても買取価格が数百円と言われることも少なくありません。 一方、誰もが知る有名作家の作品は、価値が高くなる傾向にあります。 相場は、江戸時代のもので30,000円〜100,000円、復刻版で10,000円〜20,000円です。 さらに保存状態がよいものであれば、数百万円〜数千万円の価値が付けられる可能性があるでしょう。 実際に、2017年に開かれたオークションで葛飾北斎の『神奈川県沖波裏』が9,804万円で落札された事例があります。 そもそも肉筆浮世絵と異なり、浮世絵版画は元となる版木さえあれば何度も摺れます。 その結果、同じ作品が多く市場に出回っていますが、それぞれの価値には開きがあります。 初摺かどうかや保存状態などが大きな意味を持つためです。 例として、オリジナル板と復刻版の違いが挙げられます。 復刻版とは、江戸時代から明治時代初期に作られた浮世絵版画を現代へ蘇らせたものです。 オリジナル板を正確に写し取った原版を摺って作られる復刻板は、クオリティという意味では、オリジナル板とほとんど違いはありません。 ただし、200年以上前に作家本人が携わって作ったオリジナル板と比べると、復刻版の美術品としての価値は低くなってしまいます。 一部の有名作家のものを除いて、買取を断られるケースも珍しくありません。 また、オリジナル版の中では最初に摺られたものを初摺、増版以降のものを後摺と言います。絵師の意向が反映されている初摺のほうが、価値が高いとされています。 浮世絵版画の有名作品 浮世絵版画の手法が確立されたことで、江戸時代から昭和にかけて多くの作家が誕生しました。 その中には、日本国内はもちろん、海外でも人気の有名作品が複数存在します。 『富嶽三十六景』 作家名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 代表作:『富嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『北斎漫画』 『富嶽三十六景』を制作した葛飾北斎は、日本だけでなく世界的にも最も有名な浮世絵作家の一人です。 活動していた江戸時代後半にはすでに海外で知られており、ゴッホやドガなどの芸術家にも影響を与えました。 『富嶽三十六景』は、富士山を描いた風景画のシリーズです。 タイトルにある通り、当初は36作品を収める予定でしたが最終的に10点が追加されたというエピソードからも、当時から人気の高い作品だったことが分かります。 中でも、富士山とそれを飲み込もうとするかのような大波を対比させた『神奈川県沖浪裏』や、赤い富士山が目を引く『凱風快晴』は特に有名です。 代表作の『富嶽三十六景』は、葛飾北斎がすでに70代になっていた1831年から1834年にかけて出版された作品です。 葛飾北斎は若い頃から浮世絵版画に限らず、肉筆浮世絵、読本の挿絵、春画などあらゆる分野で活躍しました。 90歳で亡くなるまで創作への情熱を失わず、制作した作品数は34,000点以上とも言われています。 『東海道五十三次』 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『東海道五十三次』『名所江戸百景』『近江八景』 歌川広重は葛飾北斎に並ぶ、江戸時代後期の人気浮世絵作家です。 雨や風を巧みに表現した作品を多く残しており、特に風景画の名手として知られています。 『東海道五十三次』は、全55作の浮世絵版画で構成されるシリーズものです。 五大街道の一つである東海道にある53の宿場に、始点と終点の2箇所を加えた55箇所の情景を描いています。 制作は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』と同時期の1833年です。 歌川広重の浮世絵は、海外でも高く評価されています。 人気の理由の一つが、「ヒロシゲブルー」と称される青色の美しさ。歌川広重は、当時はまだ珍しかったベロ藍(紺青)と呼ばれる顔料を使って、海や空などの色を表現しました。 19世紀後半に広がった印象派や、アール・ヌーヴォーの作品には、歌川広重の影響を受けたものが多く見られます。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』 作家名:東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく) 代表作:『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』 東洲斎写楽は江戸時代中期に多くの役者絵を発表した浮世絵師です。 1794年5月から約10カ月という短い期間の間に、約150点の作品を残し、表舞台から消えてしまったことから「謎の浮世絵師」と呼ばれることもあります。 東洲斎写楽の魅力は、役者の特徴をよく捉えていることです。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』では、表情や両手を広げて前に出す独特のポーズから役者の個性が伝わります。 当時の役者絵は、ありのままに描くよりファンに受けるように美化して描くのが一般的だったため、東洲斎写楽の作品は驚きを持って迎えられました。 しかし、東洲斎写楽の斬新な表現は、役者からの評判は芳しくなかったようです。 作品を発表するたびに作風が変化し、最終的には浮世絵師の活動をやめてしまいました。 そのため、確認されている作品の中でも、『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』を含む最初期に発表された28枚の大首絵が最も高く評価されています。 浮世絵版画買取は実績ある査定士へ依頼を 江戸時代から続く木版画形式の浮世絵である浮世絵版画は、多くの場合、買取が可能です。 ただし、同じ作家の同じ作品でも、初摺、後摺、復刻版で価値に開きがあります。 買取価格が数百円から数万円以上まで、大きく差がつくこともあるのです。 浮世絵版画の価値を正確に見極めてもらうためには、実績ある査定士に相談することが大切です。 価値の分からないものも、まずは査定を依頼してみてはいかがでしょうか。
2024.08.08
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浮世絵を高価買取してもらうには?信頼できるプロの査定士に依頼しよう
日本の大衆文化として親しまれてきた浮世絵。 有名な作品も多く、日本だけではなく海外からも高い評価を受けている作品が数多くあります。浮世絵作品で高価買取を狙うのであれば、まずは有名浮世絵師が描いた作品であるかの確認が大切です。浮世絵の価値の調べ方を知るためには、浮世絵の概要を知る必要があります。 浮世絵を高く買取してもらおう 江戸時代から長く愛され続けている浮世絵は、作品や作家によって高価買取が可能な芸術作品です。 一方で、大量生産が行われ大衆に親しまれていた側面から、無名の浮世絵師や作品には、あまり価値がつかないことも。 浮世絵が高価買取できるかどうかには、描いた浮世絵師が大きく関係してきます。高価買取できる浮世絵がどのようなものかを知るためには、江戸時代に活躍した、有名絵師が誰であるかを把握することも大切です。 浮世絵とは 江戸時代から始まり、富裕層だけではなく庶民の間でも人気を集めていた浮世絵。版画の技術により大衆に広まった浮世絵には、さまざまな魅力があります。浮世絵の魅力を存分に楽しむためにも、まずは浮世絵の歴史や種類などを知ることが大切です。 浮世絵とは何か 浮世絵とは、江戸時代から大正時代にかけて描かれた絵画で、主に風俗を描いた作品を指します。「浮世」には、この世は憂き世で嫌なことばかりであるが、浮かれながら楽しくこの世を謳歌して暮らしたいという意味が込められています。このような意味を持つ浮世の字があてられ、浮世絵が描かれるようになりました。 江戸時代以前では、絵や書などの芸術を楽しめたのは、生活にゆとりのある武士や貴族などのいわゆる上流貴族たちだけでした。室町時代に、京都で町人に向けた安価な絵の販売もありましたが、ごく一部の層に向けたもののみ。実際に、絵や書が大衆にとって身近になったのは、戦国の世が終わり太平が訪れた江戸時代からでした。 日本は江戸時代に入ると、江戸が新興都市として発展・安定していき、町人たちの間でも現世を楽しもうとする雰囲気が生まれていきます。このような変化は、上流階級の人々に向けて描いていた絵師たちの創作活動にも影響を及ぼしていきました。のちに、多くの絵師たちが、人々が暮らす日常を描き始め、浮世絵が発展していったのです。 浮世絵の歴史 江戸時代に入り誕生した浮世絵は、当時の大衆メディアとして人々に親しまれていました。浮世絵は、過去や未来ではなく、「いま」を描くことに重きをおいています。そのため、浮世絵師たちは、時代の最先端をいく風俗や話題を追い求め、絵のモチーフとしていきました。江戸時代における大衆の楽しみといえば、遊びや芝居。これらは、美人画や役者絵として描かれました。作品は、現代でいう流行ファッション誌やブロマイド感覚で親しまれていました。 初期の浮世絵は、絵入本の挿絵から独立した形で描かれるようになっています。色は一切使われておらず、墨一色で描かれていました。この一枚絵が、町民の鑑賞用として広がっていったのです。 その後、版木を摺った後に筆で色付けを行う手彩色と呼ばれる手法が広がり、丹絵や紅絵、漆絵などが制作されるようになりました。しかし、手彩色は1枚ずつ色を付けるため、大量生産に向いていませんでした。また、仕上がりにムラが発生するのも課題に。 色付けを行い、かつ大量生産を可能にしたのが、色摺りです。色ごとに版木を用意し、指定の色で摺れるようにすることで、制作スピードがアップしました。この方法で摺られた浮世絵を、紅摺絵と呼びます。使用された色は2~3色ほどで、赤色をメインに緑色や黄色が用いられました。 紅摺絵により色つきの浮世絵が大量生産できるようになったのち、もっと多くの色が使われた浮世絵を見たいという声も多くなっていきました。この大衆の要望に応えるべく生み出されたのが錦絵です。 錦絵は、1764年以降に流行した絵暦の交換会がきっかけで誕生しました。絵暦とは、一般的な作品より少し豪華な浮世絵のことです。絵には、その年の月を隠し文字のように描き、知的な遊びが行われていた絵暦。趣味人が集まる会で披露し配るため、豪華さが重要視されていました。 絵暦は、鈴木春信(すずきはるのぶ)をはじめとした人気浮世絵師によって描かれています。豪華さを増すために、7~8色と多くの色が使われ始め、多色摺りの技術が発展していったのです。この多色摺りの浮世絵は、大衆からも人気を集め、錦織のような美しさがあったことから錦絵と呼ばれるようになりました。墨一色で描かれた浮世絵は、このような歴史を経て発展していきました。 肉筆浮世絵と浮世絵版画 浮世絵は大きく分けると、肉筆浮世絵と浮世絵版画に分類できます。肉筆浮世絵とは、浮世絵師が一つひとつ筆をとって描いた作品です。浮世絵師が直接和紙に描いていくため、この世に一つしかない希少性の高い浮世絵といえます。時間がかかる上に大量生産できない肉筆浮世絵は、浮世絵版画よりも価値が高いとされ、主に富裕層から依頼を受けて描かれていました。依頼内容にあわせて浮世絵師が丁寧に制作していく肉筆浮世絵は、販売価格も高価であったそうです。 一方、浮世絵版画とは、浮世絵師が描いた絵を彫師が版木に掘っていき、摺師が和紙に摺って制作される作品です。一度版木を完成させれば何度も摺れるため、大量生産が可能な浮世絵でした。安価で入手できるため、庶民でも楽しめる芸術品として広く知られていきました。一般的に、浮世絵というと浮世絵版画を指している場合が多い傾向です。 浮世絵のジャンル 浮世絵と一口にいっても、さまざまなジャンルが存在します。代表的なジャンルは、美人画・役者絵・武者絵などです。浮世絵初期の美人画は、遊里の女性を描いていましたが、時代が進むにつれ一般庶民も題材の対象となっていきました。全身を描いたものから、上半身に焦点を当てた大首絵など、さまざまな構図の美人画が制作されています。 役者絵も浮世絵の中で人気のあるジャンルの一つです。歌舞伎役者を描いた浮世絵であり、現代でいうブロマイドのような形で大衆に親しまれていました。役者絵も全身姿から大首絵、大顔絵などの構図で描かれています。 武者絵は、たくましい武士の姿を描いた浮世絵です。太平の世であった江戸時代では、強くありたいという男の憧れの的として人気を集めていました。武者絵では、歴史上の有名な武将や甲冑姿の武士のほかに、神話に登場する英雄なども描かれています。 著名な浮世絵師の作品は高額買取のチャンス 江戸時代に活躍した有名浮世絵師の作品は、高価買取のチャンスがあります。とくに、浮世絵の黄金時代を築き上げた四人の巨匠、葛飾北斎・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川国芳は、高値で取引されている作品が多くあります。 葛飾北斎 絵師名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 生没年:1760年-1849年 代表作:『冨嶽三十六景』『加藤清正公図』 葛飾北斎は、日本が世界に誇る浮世絵師の1人。 90歳で亡くなるまで浮世絵を描き続けたといわれています。生涯で描いた作品は、約30,000点にも及びます。葛飾北斎が浮世絵師としてデビューした当初は、勝川春章(かつかわしゅんしょう)の門下であったことから、勝川春朗(かつかわしゅんろう)を名乗っていました。早くから才能を開花させた北斎は、黄表紙の挿絵や錦絵、洒落本、春画の挿絵、肉筆美人画など、さまざまなジャンルの浮世絵を制作していきました。 勝川派を離れたあとは、琳派の門下に入り三代目俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名します。北斎は、美人画を中心に制作を進め、顔がスラリと細い優美な美人像である「宗理美人」を確立させます。しかし、お金に困っていた北斎は、宗理の画号をわずか4年で門人の宗二に売り渡してしまったのです。 その後は、流派に属さず浮世絵制作を続けていきます。代表作『冨嶽三十六景』は、北斎が72歳のときに発表された連作の浮世絵です。発表当初は、全36図で構成された『冨嶽三十六景』ですが、大変人気を集めたことから、のちに裏富士と呼ばれる10図が追加され、全46図の構成となりました。波間から顔を出す富士や赤富士など、さまざまな表情を見せる富士山を描き、江戸時代の旅行ブームをけん引しました。 喜多川歌麿 絵師名:喜多川歌麿(うたがわきみまろ) 生没年:1753年-1806年 代表作:『婦女人相十品』『当時三美人』 喜多川歌麿は、日本でも人気のある浮世絵師ですが、海外では葛飾北斎と並ぶほどの高い評価を受けています。 狩野派の町絵師・烏山石燕に師事し、中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』下巻の表紙絵の制作で、浮世絵師デビューしたといわれています。初期の浮世絵には、勝川派の影響が見受けられ、鳥居清長風の美人画を描いていました。 喜多川歌麿が自身の画風を確立させるきっかけとなったのが、蔦屋重三郎プロデュースで出版した狂歌絵本『画本虫撰』や『百千鳥狂歌合』です。花や鳥、虫などを繊細に描いて人気を博しました。 寛政の改革により幕府の規制が強くなると、狂歌絵本の制作ができなくなってしまいました。そこで、喜多川歌麿と蔦屋重三郎のコンビは、歌まくらと呼ばれる春画を制作するように。春画は性風俗を題材にしているため、当然表立って書店に並ぶことはありません。幕府にばれてしまえば、処罰の対象となります。幕府への反骨精神からこのような制作をしたとも考えられています。 その後は、美人画を得意としていた喜多川歌麿は、その後『婦女人相十品』と呼ばれる連作や『当時三美人』など、女性の上半身に焦点を当てて描く大首絵を次々と発表。さまざまな身分や職業の女性を描き、大衆から人気を集めました。喜多川歌麿の美人画は、写実性を重視し、顔の特徴を細かく描き、人物を描き分けている特徴があります。 東洲斎写楽 絵師名:東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく) 生没年:不詳 代表作:『市川鰕蔵の竹村定之進』『三世大谷鬼次の江戸兵衛』 東洲斎写楽は、四大浮世絵師の1人でありながら謎の多い人物です。 役者絵の中でも役者の顔を強調して描く、大首絵を得意としていました。無名の状態から突然デビューを果たし、約145点もの作品を生み出すと、わずか10か月で忽然と姿を消してしまったのです。活動期間はわずかでありながらも、歌舞伎役者の顔をデフォルメして描いた役者絵は、多くの人々の記憶に残る作品となりました。 蔦屋重三郎のもとで鮮烈なデビューを果たした東洲斎写楽の活動期間は、4期に分けられます。東洲斎写楽が描いた作品で最も評価が高いのは、デビュー当初である1期に描かれた作品です。大首絵と呼ばれる歌舞伎役者の上半身を描いた似顔絵を得意としており、これまでの定型的な役者絵ではなく、大胆にデフォルメされた個性的な表情が、人々の注目を集めたのでした。しかし、大きな衝撃を与えたものの、評価は賛否両論で、描かれた人々からは不評の声が上がっていたともいわれています。 東洲斎写楽の作品は、時が経って明治以降に海外で大きな反響を呼びました。その後、謎の多い東洲斎写楽の正体を探る動きが高まりました。東洲斎写楽の正体として最も有力なのは、斎藤十郎兵衛という能役者であるとする説です。しかし、いまだ東洲斎写楽の正体は解明されていません。 歌川国芳 絵師名:歌川国芳(うたがわくによし) 生没年:1797年-1861年 代表作:『相馬の古内裏』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、武者絵・風刺画・戯画などを得意としていた浮世絵師です。 幼いころから絵の才能を発揮しており、7~8歳ごろから江戸中期に活躍していた浮世絵師・北尾重政や北尾政美の絵をまとめた本を読んでいました。有名な絵師の浮世絵を模写することで、技術を身に付けていったそうです。12歳のときに描いた『鍾馗提剣図』が、歌川豊国の目に留まり、弟子として修業を開始することになりました。 幼いころから絵の才能を見出された歌川国芳でしたが、浮世絵師として大成するのは30歳を過ぎたころでした。歌川国芳を一躍有名にしたのが、明時代の小説『水滸伝』に登場するキャラクターを描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』です。 その後、さまざまなジャンルの浮世絵を手がけた歌川国芳は、常に新しい表現方法を模索し続けました。その画風は、西洋画の影響も受けていたと考えられています。当時の日本は鎖国の影響もあり、西洋画を集めるのは難しい状態であったにもかかわらず、西洋の銅版画などを数百枚所有し、西洋絵画の技法を研究していたそうです。その結果、遠近法を取り入れた写実的な浮世絵作品が発表されています。 実は偽物も多い、浮世絵 現在、浮世絵は日本だけにとどまらず海外からも高い人気を得ています。人気の高い作品であるほど贋作も多くなります。買取や購入の際に、真贋を見極めるための知識を身に付けておくことが大切です。本物であるかどうかは、落款や印章で確認できます。絵自体を本物に似せていても、落款や印章が本物と違えば、贋作の可能性が高いといえるでしょう。 ただし、人気作品ほど精巧な贋作も出回っており、浮世絵の真贋を素人目で見極めるのは難しいものです。買取を検討している浮世絵の真贋を知りたい場合は、査定経験の豊富なプロの査定士に相談するとよいでしょう。 査定士が見る!高額買取のポイントとは 浮世絵の査定では、主に以下の項目がチェックされます。 保存状態 付属品 査定書(鑑定書) 作家 サインの有無 摺られた時期 技法 肉筆浮世絵(肉筆画)かどうか 上記は、浮世絵の買取価格を左右する重要な要素です。 とくに、作家が誰であるかによって価格は大きく変動するでしょう。また、肉筆浮世絵であるか、浮世絵版画であるかも、価格に大きな影響を与えます。大量生産が可能であった浮世絵版画とは異なり、肉筆浮世絵は、浮世絵師が筆をとって直接和紙に描いていた作品のため、この世に一つしかない浮世絵です。そのため、浮世絵版画よりも高価買取が期待できます。 浮世絵買取は実績ある査定士へ依頼しましょう 浮世絵の買取を検討している場合は、実績のある査定士に査定を依頼して価値を確かめましょう。有名浮世絵師が描いた作品であれば、浮世絵版画でも高価買取が期待できます。古くに制作された浮世絵は、シミや汚れ、破れなどが生じている場合もあるでしょう。きれいな状態で買取をしてもらいたいと考えますが、査定の前に自己判断で修繕を行うのはお勧めできません。 まずは、査定士に査定を依頼して価値を確かめてから、修繕を行うのかを判断するとよいでしょう。遺品整理や相続のタイミングで譲り受けた浮世絵をお持ちの方は、ぜひ一度査定に出すことをお勧めします。
2024.08.07
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