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浮世絵に描かれた兎たち…兎は古来より神聖で縁起物だった
日本に古くから存在する兎は、浮世絵のモチーフとしてもたびたび登場します。 古来より神聖で縁起物とされてきた兎について知ることで、より浮世絵の深い楽しみ方を身につけられるでしょう。 兎がモチーフとなっている浮世絵とともに、兎の説話や童話などの意味についても理解を深めることをお勧めします。 日本に古来からいた、兎 浮世絵にも描かれている兎は、いつごろから日本にいるのか気になる方も多いのではないでしょうか。 日本では、各地に点在している縄文時代の貝塚から兎の骨が出土していることや、古事記の『因幡の白兎』に登場していることから、その時代にはすでにかなりの数の兎が生息していたと考えられます。 日本の固有種であるニホンノウサギは、灰色や褐色の毛色をしており、冬の積雪地帯では白毛に生え変わります。 兎は、日本に限らず世界各国でよく擬人化されて童話や説話のモデルとして利用されているのが特徴。日本では、月面の模様が餅つきをする兎に見えていたことから、兎は月に棲んでいるという説話が仏教や道教の説話、民間説話に残されています。 また、兎は山の神の使いともいわれています。 日本の各地で兎にまつわる行事が行われており、人が暮らす里と神や動物がいる山を自由に行き来する様子から、境界を超える神使であると考えられてきました。 『因幡の白兎』に登場する兎は、オオクニヌシノミコトに助けられた後、感謝の言葉とともにオオクニヌシノミコトがヤカミヒメと結ばれる予言を伝え、2人の仲を取り持ちます。 この神話の内容から、兎は人のご縁を結ぶ導きの動物としても表現されることが多くなったのです。 『金太郎』に登場する兎 金太郎とは、坂田金時の幼名であり、金太郎を主人公とする昔話や童話のタイトルでもあります。 金太郎の童話として有名なエピソードも、実在した坂田銀時の生い立ちになぞらえているとされています。 金太郎は、小さいころから力持ちで、熊と相撲をとったり、鹿や猿、兎などと野山を駆け回ったりして遊んでいました。 ある日、いつものように動物たちと散歩をしていると川につきました。 橋がないため動物たちが渡れずに困っていると、金太郎は川辺で育つ大木を引き抜き川に渡して橋にしたのです。 これを見学していた侍が感心して、金太郎に腕相撲を挑み、金太郎は侍に腕相撲で勝利します。 京都から来たこの侍は、強い人を全国で探し回っていました。 そして、力比べで勝利した金太郎を京都に連れていき、のちに坂田金時という立派な侍に育てたとされています。 有名な説話が多く存在する金太郎は、浮世絵のモチーフとしても多く描かれていました。 鳥居清長(とりいきよなが)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川国芳(うたがわくによし)など多くの人気浮世絵師にも描かれています。 『かちかち山』に登場する兎 かちかち山は、おばあさんを殺したタヌキを、おじいさんに代わって兎が成敗する話です。 かちかち山が民話として成立したのは、室町時代後期とされています。 この民話では、兎は知恵者で人の味方として描かれており、タヌキは人をだましたり化かしたりする者として描かれているのです。 かちかち山の物語では、兎がタヌキを懲らしめる描写が多くあります。 芝刈りに誘ったタヌキの背中に火をつけ大やけどを負わせ、とうがらし入りの味噌を薬と偽って背中に塗りたくり、タヌキは痛みで苦しみました。 兎はさらにタヌキを漁に誘い、泥の船に乗せると海で船が溶け出し、タヌキは溺れてそのまま死んでしまいます。 かちかち山では、日本を含む世界各国で古くから裁判の一種として用いられてきた火責めや水責めなどが行われており、物語の中で兎が裁判官となりタヌキの罪を罰しています。残酷な物語に聞こえますが、悪いことをした者には罪が与えられるというメッセージが込められているといえるでしょう。 浮世絵の時代から兎は神聖で身近な生き物だった 兎は日本で古くから神聖な動物として扱われており、さまざまな説話や童話に登場しています。 『因幡の白兎』では、人と人を結ぶ役割を果たしていたり、『かちかち山』では、知恵者として罪人を罰して人間の味方となったり、兎は人との関係性が密接であったと考えられるでしょう。 兎は、芸術作品のモチーフとしてもよく用いられており、浮世絵にも多く描かれています。 神聖な生き物でありながらも、古くから人の身近で暮らしていたといえます。 浮世絵作品を観賞する際は、兎が描かれている背景や意味を想像しながら楽しむのもよいでしょう。
2024.08.15
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浮世絵に描かれた犬たち…おかげ犬から南総里見八犬伝まで
江戸時代に描かれた浮世絵には、犬を題材にした作品も多くあります。 昔から人々の生活に馴染み、生活を共にしてきた犬にかかわる作品を知り、当時の人々の生活に触れていきましょう。 『南総里見八犬伝』と柳川重信 江戸時代に書かれた『南総里見八犬伝』と浮世絵師の柳川重信には、深いつながりがあります。 『南総里見八犬伝』は、現代でも歌舞伎の演目として披露されたり、ドラマになったりと根強い人気を誇っています。作品自体の面白さはもちろんありますが、当時、浮世絵師・柳川重信が描いた『南総里見八犬伝』の表紙の挿絵も、大きなインパクトを残し、人々の目を惹きつけたといえるでしょう。 『南総里見八犬伝』とは 曲亭馬琴(1767~1848)による長編小説『南総里見八犬伝』は、安房の里見家の興亡を描いた物語です。 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの徳の玉を持つ八犬士を中心に、里見家の危機を救うために奮闘する姿が描かれています。 歌舞伎の人気演目の1つで、浮世絵にも多くの作品が残されています。 表紙や挿絵を描いた浮世絵師、柳川重信 作家名:柳川重信(やながわしげのぶ) 代表作:『絵を描く花魁図 』『三都名所之花 』 柳川重信は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 葛飾北斎(かつしかほくさい)の弟子となり、のちに北斎の長女・美与と結婚しました。柳川重信は、曲亭馬琴が書いた長編小説『南総里見八犬伝』の表紙や挿絵を描いたことでも有名です。 挿絵は、養子の重山(後の二代目重信)とともに担当しました。 柳川重信の描いた表紙は犬だらけ 柳川重信が描いた『南総里見八犬伝』の挿絵のほとんどに犬が登場します。 もちろん『南総里見八犬伝』の中でも犬が登場しますが、決して犬ばかりのストーリーではありません。 しかし、シリーズごとに異なるデザインの表紙には、毎回たくさんの犬たちが描かれています。 かわいらしい見た目から、現在でも注目されているデザインです。 犬のタッチは表紙によって異なり、丸くデフォルメされた愛らしい姿で描かれているものから、擬人化された凛々しい姿のものまでさまざまあります。 小さな子犬が表紙にぎゅうぎゅう詰めで描かれたものもあり、犬好きにはたまりません。 柳川重信の描いた犬の表紙により、以後の『南総里見八犬伝』にちなんだ作品の表紙でも、犬をメインにしたデザインが多く採用されています。 江戸時代の犬と人の関係 現在、さまざまな動物と共に暮らす日本ですが、江戸時代でも多くの動物がペットとして可愛がられていたようです。 なかでも代表的なのは、犬や猫で、武家や町人、長屋の人々にとっても身近な動物でした。 江戸時代初期は、西洋から大型犬が伝わってきていたこともあり、武家が威厳を示すために大型犬をよく飼っていたといわれています。 その後、日本犬が主流となり江戸の町のあちらこちらで、犬が放し飼いになっていました。 ペットとしてかわいがられた狆(ちん) 江戸時代では、狆と呼ばれる犬が武家など上流階級で飼育されていました。 狆は、日本で初めて改良された愛がん犬で、江戸時代では猫のような犬、犬と猫の間の動物などといわれていた歴史を持っています。 「ちいさいいぬ」が省略されていき、「狆(ちん)」になったともいわれています。 性格は温和で物静か。 体臭が少なく、犬は屋外で飼うものと認識されていた江戸時代においても、狆は屋内で飼育されていました。 当初は、大奥、大名家、遊郭などで人気を集めており、その後、上流階級のステータスとして、一般庶民にも広まっていきました。 伊勢屋、稲荷に、犬の糞 江戸時代は、犬の数自体が多く、当時は放し飼いが当たり前になっていました。 そのため、江戸のあちこちで犬を見かけ、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞(いせや、いなりに、いぬのくそ)」といわれるほど、江戸の町には伊勢屋の屋号を持つ店と、お稲荷さんと犬が多かったのです。 長屋のある地域では、住人全体が飼い主の位置づけで、各住人がそれぞれに餌をやったり、遊んだりして飼っていました。 犬は番犬としても役立ちますが、子どものよい遊び相手になっていたともいえます。 お伊勢参りに行った犬たち 江戸時代には、お伊勢参りをする「おかげ犬」が相次いで現れました。 飼い主とともに伊勢に参るのではなく、病気や用事で参詣できない飼い主に代わって、犬が単身伊勢参りを行うものです。 犬が1匹で伊勢まで行き、お参りを行うとはにわかに信じがたい話ですが、飼い主の代わりにお参りを果たした犬の像や記録が各地で残されています。 当時、犬がお伊勢参りをする様子は、歌川広重の描いた『東海道五十三次 四日市 日永村追分参宮道』にも登場していたのです。 鳥居の前に木札や風呂敷を結びつけた犬が描かれており、お参りに来た人々と交流を交わす様子が描かれています。 また、福島県須賀川市の十念寺には、シロと呼ばれる犬の像が祀られています。 江戸時代後半、シロは病気で寝込んでお伊勢参りに行けない飼い主に代わり、2か月かけてお伊勢参りを行い、伊勢神宮のお札をもらって飼い主のもとに帰ってきたというお話です。 浮世絵にも残された、犬と人間の変わらぬ関係 現代では多くの犬が、人々の生活の中で一緒に暮らしています。 江戸時代でも、犬は人のそばで暮らし、時には主人の代わりに旅に出るなど、その関係と信頼の深さがわかるエピソードも多いことがわかります。 古くから愛され続けた犬がモチーフになっている浮世絵作品も多く残されているため、当時の人々と犬の暮らしが垣間見える作品の観賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.15
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浮世絵に描かれた大きな鯨!江戸時代の捕鯨・名将の逸話
古来より、日本と鯨には密接な関係性があります。 日本では捕鯨が盛んに行われており、鯨は当時の人々の食料として重宝されていました。日本人が生きていくために必要とされていた鯨は、浮世絵でもたびたび描かれています。 巨大な鯨を複数の大判を連ねた続絵で描いた作品は、圧倒的なスケールで人々を魅了していました。 日本人の生活や娯楽に結びついている鯨と捕鯨の歴史をたどり、浮世絵作品の楽しみ方に深みを与えましょう。 浮世絵に描かれた鯨 巨大な鯨は、浮世絵のモチーフにもよくなっており、多くの有名浮世絵師によって描かれています。 有名な作品としては、歌川国芳の『宮本武蔵の鯨退治』、葛飾北斎の『千絵の海 五島鯨突』などがあります。 絵師による描き方の違いを比較しながら楽しむのもよいでしょう。 歌川国芳『宮本武蔵の鯨退治』 歌川国芳(うたがわくによし)の『宮本武蔵の鯨退治』は、宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説を基に描かれた作品。 宮本武蔵とは、江戸時代初期に活躍した剣豪で、二天一流剣法の祖ともいわれ、日本の剣道史上もっとも有名な剣豪の1人です。 生涯無敗を誇ったとされる宮本武蔵の苛烈な生き様は、宮本武蔵死後も歌舞伎や浄瑠璃、小説などでたびたび描かれています。 『宮本武蔵の鯨退治』は、伝説的な強さを誇る宮本武蔵が鯨を退治する様子が描かれています。 3枚続きの大判に大きな鯨の絵が描かれ、迫力のある作品です。 波が斜めに描かれている様子から、海が平衡感覚を失うほど荒れ狂っている様が伝わります。空は灰色で暗雲が立ち込めています。 この悪条件の中、宮本武蔵が刀1本で鯨に立ち向かい、剣を突き立てている勇ましい姿が描かれており、ダイナミックな構図が魅力的です。 宮本武蔵の表情には自信が感じられ、その圧倒的な強さを表現しているといえるでしょう。 葛飾北斎『千絵の海 五島鯨突』 葛飾北斎(かつしかほくさい)も鯨の浮世絵を描いており『千絵の海 五島鯨突』は、『千絵の海』シリーズの1つとして知られています。 五島の海に姿を表した大きな鯨を、30艘ほどの船で取り囲み、鯨を入り江に追い込む様子が描かれています。 鯨は尻尾を振り上げ、巨大な波しぶきをたてながら暴れているようにも見えるでしょう。また、銛はまだ刺さっておらず、これから船団が鯨に近づいていき、一斉に銛を打ちこむ様子であるといえます。 肥前国(現在の長崎県)西端にある列島の五島では、現在でも漁業が盛んな地域です。 捕鯨は、紀州熊野灘(現在の和歌山県)や土佐湾(現在の高知県)と並んで、盛んに行われていました。 日本人はいつから捕鯨をしていたのか 四方を海に囲まれた日本では、古来より漁業が盛んに行われてきました。 また、日本の近海が鯨の回遊路にあたっていたため、鯨も大切な食料として盛んに捕鯨を行っていました。 さまざまな鯨が行き交う路の近くに日本列島が存在している環境から、日本人が鯨を捕獲して食す文化が育まれていったと考えられます。 縄文時代から鯨を捕獲する文化は始まっていたとされ、江戸時代初期に入ると鯨組による組織的な捕鯨が開始されました。 のちに網取り式捕鯨と呼ばれる効率的な捕獲方法も開発され、日本における鯨の供給量は増大していきます。 当時、日本にはまだ生肉類を保存する技術がありませんでした。そのため、赤肉や皮類は塩蔵して全国各地へ出荷されています。また、内臓は主に産地でのみ消費されていました。 江戸時代後期になると、アメリカの捕鯨船が日本近海で鯨を乱獲し、資源の確保が悪化してしまいます。 日本の沿岸捕鯨は一時的に衰退の一途をたどりました。その後、明治時代後期にノルウェーから伝わった近代捕鯨が導入され、供給量は回復していきました。 鯨に対峙する様子をダイナミックに描いた浮世絵 江戸時代を中心に当時の捕鯨は、現代よりも技術がなかったため命がけで鯨と対峙していたといえます。 当時の時代背景や捕鯨環境を考えると、浮世絵として描かれている鯨の作品を見る視点も変わってくるのではないでしょうか。 ダイナミックな構図で描かれた迫力のある鯨絵を、当時の様子を想像しながらぜひ楽しんでみてください。
2024.08.15
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東京で浮世絵を買取してもらうには?まずは無料相談をしてみよう
かつて江戸と呼ばれていた東京には、今も浮世絵を扱う業者が多くいます。 作品の中には高い価値が付けられるものもあります。 買取を行う業者も少なくないため、浮世絵を処分したい方は相談してみてはいかがでしょうか。 東京で浮世絵を買取してもらいたいと考えている方は、高価買取のポイントなどをチェックしましょう。 東京で浮世絵買取を相談しよう 浮世絵は、経済や文化の中心地だった江戸で花開いた芸術です。 そのため、東京には今も多くの浮世絵作品が残されていると考えられます。また、浮世絵の買取ができる業者も少なくありません。 もともと大衆文化として生まれた浮世絵ですが、作品によっては高い価値を持つ可能性があります。 自宅の整理や相続などで入手した浮世絵の処分を考えている方は、買取を相談してみてはいかがでしょうか。 浮世絵とは 浮世絵とは、主に江戸時代から昭和初期にかけて描かれた風俗画です。 とくに、江戸時代に木版画の手法が生まれ、大量生産が可能になってから大衆文化として大きく発展しました。 技術の進歩により多色摺りができるようになると、鮮やかな色彩を生かした作品が多数発表されて、浮世絵の人気はさらに高まりました。 葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)などが主な浮世絵師です。 浮世絵の色使いや大胆な構図は、海外にも影響を与えました。 ゴッホやゴーギャンといった有名画家も浮世絵を模写したり、自分の作品の中に取り入れたりしたといわれています。 19世紀後半にヨーロッパで日本の美術工芸品を愛好するジャポニズムが流行した際、その中心となったのも浮世絵でした。 風俗画である浮世絵は、さまざまなものをテーマとしたことも特徴です。 人物画や風景画、当時話題になった事件などを描いた浮世絵は、現代でいう新聞や雑誌のような役割も持っていました。 ただし、明治時代中期に写真が普及すると浮世絵は徐々に衰退してしまいます。 その後、大正から昭和にかけて浮世絵の復興を目指す動きが広がりました。人気作品の復刻版が作られたり、新版画と呼ばれる新作が発表されたりしています。 浮世絵は高く売れる? 浮世絵は作品によって価値が異なるため、高く売れるものもあればそうでないものもあるのが実情です。 とくに浮世絵版画の多くは、庶民向けに作られているため、芸術的価値が高くないものが少なくありません。 そのため作品によっては、低い価格でしか売れなかったり、買取を断られたりすることもあります。 一方で、芸術的・歴史的価値が高い作品であれば高価買取してもらえる可能性もあるのが浮世絵です。 たとえば、日本国内だけでなく海外でも高い知名度を持つ作家の作品には、高い価値がつくと期待できます。 一般の方には知られていなくても、コレクターの間では人気の高い作品もあるでしょう。 浮世絵の処分を考えている方は、専門知識を持つ査定士に査定してもらうことをお勧めします。 国内外から人気の浮世絵、実は復刻版も多い? 浮世絵には、大きく分けて木版画の浮世絵版画と作家が直接描いた肉筆浮世絵があります。 このうち流通量が多いのが浮世絵版画で、浮世絵といえば木版画を指すのが一般的です。 なお、木版画の浮世絵の中には、江戸時代から明治時代にかけて作られた復刻版があることに注意しましょう。 葛飾北斎や歌川広重のような有名作家の作品をもとに木版を作り、それを擦って作られたのが復刻版で、図柄を印刷したポスターとは異なります。 復刻版の制作には、木版を作って擦るという手間がかかるだけでなく、高い技術が必要です。そのため、クオリティはオリジナルのものとほぼ変わらないといわれています。ただし、芸術的価値という観点では、オリジナルと復刻版は比較になりません。 オリジナルの作品は、今から200年近く前に作家本人が直接携わって作られたことに価値があります。有名作家の作品で状態がよければ高価買取されることも珍しくありません。 一方、復刻版はあくまでもオリジナル作品を真似て後世の人が作ったものであるため、買取不可としている業者もあります。 なお、オリジナルと復刻版を見分けるポイントはサインです。 復刻版は図柄の周囲の余白部分に、鉛筆で摺師と彫師の名前が書かれている傾向があります。 高額査定が期待できる、浮世絵とは 浮世絵の中でも初摺り、肉筆浮世絵、有名作家の作品の3つに当てはまるものは、査定価格が高くなる傾向にあります。 初擦り 初擦りとは、最初に擦られた浮世絵版画のことです。 浮世絵版画の場合、まずは絵師が描いた下絵を再現するように彫師が原板を作ります。続いて擦師が色を入れて擦ることで完成します。 作品を初めて擦る際には、絵師が立ち合い、色合いや濃淡などを調整するのが一般的でした。そのため絵師の意向が反映されている初擦りは、価値が高いと考えられているのです。なお、人気作品は増版されることもありますが、絵師の立ち合いはありません。そのため、後擦りと呼ばれる増版による作品は、初擦りと雰囲気が異なってしまうことがあったのです。 肉筆浮世絵 肉筆浮世絵とは、紙や絹に直接描かれた浮世絵のことです。 浮世絵版画が一般的となった後も、多くの作家が肉筆浮世絵を手掛けました。肉筆浮世絵は、一点物で希少価値があるため、買取額は高くなりやすいと考えられます。 作家(浮世絵師) 最後に、浮世絵の査定では作家名が重要です。 葛飾北斎や歌川広重のような誰もが知る有名作家の作品は、中古市場でも人気があるため査定価格が上がりやすいでしょう。 とくに有名作家かつ初刷りもしくは、肉筆浮世絵であれば高額査定が期待できます。 東京(江戸)が舞台の浮世絵 江戸時代後期は、浮世絵の中でも風景画と呼ばれる名所や町の様子を描いたものが人気を博しました。 庶民の暮らしが豊かになり、余裕のある人々の間では、伊勢神宮のような神社仏閣への巡礼や観光を目的とした旅行がブームになったためです。 日本各地の風景を描いた浮世絵は、絵葉書や旅行ガイドのような役割を果たしていたのでしょう。また、旅行に行けない人も名所の様子を知ろうとこぞって浮世絵を買い求めていたといわれています。 風景画を得意とした浮世絵師には、葛飾北斎や歌川広重、歌川国芳(うたがわくによし)がいます。 彼らは日本全国の名所に加えて、江戸の風景を描いた作品も多く残しました。風景画は、当時の街並みや人々の暮らしを現代に伝えるものです。 現代の東京の様子と比べながら鑑賞するとより楽しめるでしょう。 東京・浅草 東京都台東区の浅草、とくに浅草寺周辺は、たびたび浮世絵のテーマに選ばれてきました。 歌川広重は『江戸高名会亭尽 浅草雷門前』という作品で、浅草寺周辺のにぎわいを描いています。 都内最古の寺院とされる浅草寺は、江戸時代の人々から篤く信仰されていました。また、周辺は仲見世と呼ばれる商店街だったこともあり、当時から多くの人が集まる人気スポットだったのです。 ほかに浅草の風景を描いた作品として、葛飾北斎の『富嶽三十六景 東都浅草本願寺』が挙げられます。 『富嶽三十六景』は、日本各地から富士山が見える風景を題材とした作品集です。 タイトルには36と入っていますが、当時から非常に人気があったため作品が追加され、実際は46の風景画が収められています。 とくに力強い波と富士山を対比した『神奈川県沖波裏』が有名です。 『東都浅草本願寺』では、1657(明暦3)年に起きた明暦の大火を機に浅草へ移転した東本願寺の大屋根と、遠くに見える富士山を描いています。 屋根の上には作業する職人たちが小さく描かれ、見る人に大屋根の大きさを伝えており、浮世絵風景画の代表作ともいわれる作品です。 東京・日本橋 日本橋は、江戸と日本各地を結ぶ五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)の起点です。 当時、江戸幕府により五街道が整備されたことも庶民の間で旅行が広がった理由の一つでした。 旅行ブームにしたがって、街道にある名所を描いた浮世絵も数多く制作されました。 東海道にある53の宿場の様子を描いた歌川広重の『東海道五十三次』は、とくに有名で、その中には、もちろん起点である日本橋をテーマとした作品もあります。 当時の日本橋には、朝だけ開かれる魚市場がありました。 『東海道五十三次之内 日本橋 朝之景』では、橋の上を町人や魚売りが行き交う様子を描き、江戸の街の活気を伝えています。 歌川広重は、ほかにも日本橋を描いた作品を残しています。 雪に覆われた街を表現した『江戸名所・日本橋雪晴の朝』は代表作の一つです。 遠くには、富士山や江戸城と思われる景色も見え、日本橋が日本の中心地であったことを表現しています。 東京・隅田川 川や橋のある景色、川辺で楽しむ人々の様子も浮世絵のテーマとして好まれました。 とくに東京の東部を流れ、東京湾へ注ぐ隅田川を描いた作品は、枚挙にいとまがありません。 最近「東京スカイツリーが描かれている」として話題になった、歌川国芳の『東都三ッ股之図』も隅田川を題材とする一枚です。 三ッ股とは、隅田川と旧中川を結ぶ水路である小名木川が合流する地点の地名。 『東都三ッ股之図』では、右手に見えるのが隅田川にかかる永代橋、左側の奥の橋は小名木川にかけられている万年橋だといわれています。その万年橋の右川に2つの塔のようなものが描かれており、高いほうが東京スカイツリーのようだと話題になりました。 これらの正体は明らかではありませんが、小さい塔は火の見櫓、高い塔は井戸掘りの櫓とする説が有力です。 また、歌川国芳の兄弟子に当たる歌川国貞(うたがわくにさだ)は、隅田川を背景にくつろぐ3人の女性たちの姿を描いた『両国夕涼の光景』という作品を残しています。水上にはびっしりと船がならび、当時の隅田川が交通の要衝として使われていたことがわかります。 歌川広重の『新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図』も当時の生活がわかる作品の一つです。この作品では、橋の上で大勢の人が花火大会を見物する様子が描かれています。 東京の浮世絵買取、気を付けたいポイントとは 浮世絵を売る場合、まず査定してもらうことが大切です。 その際、査定士がチェックしているポイントを押さえておくと買取価格がアップする可能性があります。 買取で気を付けたいポイントは以下のとおりです。 ・作家 ・保存状態 ・査定書 ・付属品 ・摺られた時期 ・技法 など 上記のうち、作家はとくに重要です。 有名作家の作品であれば高価買取が期待できます。 ただし、サインが見つけられないなどの理由で作家名が不明なケースもあるでしょう。 その場合は、浮世絵の専門家である査定士に査定してもらうことで、有名作家の作品だとわかるケースもあるため、作家不明の作品も一度相談してみることをお勧めします。 また、保存状態も買取価格に影響を与えるポイント。 基本的にきれいなものほど高く売りやすく、反対に破れやシミ、色褪せがあると買取価格が下がりやすい傾向にあります。 ただし、シミやカビなどは、修復が可能な場合もあります。汚れがある浮世絵も査定してもらうとよいでしょう。 なお、売却までの間は、直射日光が当たらない場所に保管すると劣化を防げます。 浮世絵に鑑定書や箱、説明書などの付属品がある場合は、一緒に査定してもらいましょう。とくに本物だと証明する査定書があれば、買取価格が高くなる可能性があります。 東京で浮世絵買取を相談するなら、実績ある査定士へ 浮世絵は江戸時代に大きく発展した芸術です。 そのため、経済や文化の中心地であった江戸の風景を描いた作品も多く残されています。 東京には、今も多くの浮世絵が残っていると考えられ、買取を行う業者も少なくありません。 浮世絵は、作品によって高価買取の対象となる可能性があります。手放そうと考えている方は、実績のある査定士に相談するのがお勧めです。 正しく価値を判断してくれるため、高く買取してもらえるかもしれません。 汚れやシミがあっても買取できる場合もあります。価値のわからない浮世絵も一度相談してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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花鳥画浮世絵を高く買取してもらおう | 高額査定のコツやポイントまで
江戸時代ごろから人気を集めているジャンル「浮世絵」。 さらに、そこから複数のテーマに分類され、さまざまな題材が描かれている浮世絵が誕生しています。 現代でも人気のジャンルの一つが、花鳥画浮世絵です。 有名浮世絵師が描いた作品も多く残されており、作家や作品によっては高価買取が狙えます。 浮世絵の美しい花鳥画…高額買取してもらえる? 浮世絵の中でも寛政期以降に人気を広げた花鳥画浮世絵。 浮世絵は、日本画の中でも人気なジャンルの一つで、さらにさまざまなテーマに分かれています。 武将絵や美人画、役者絵、風景画、花鳥画など題材が豊富なのも特徴の一つです。花鳥画浮世絵も人気ジャンルの一つで、作品や作家によって買取価格が高くなると予想されます。 買取時に価値の把握ができるよう、花鳥画浮世絵がどのようなものか知り、高価買取のポイントを押さえることが大切です。 花鳥画浮世絵とは そもそも浮世絵とは、江戸時代から大正時代に描かれた町人の日常生活を表現した絵のことです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、その一つが花鳥画浮世絵です。 花鳥画そのものは、花や鳥、昆虫などをモチーフにした絵画を指します。 花鳥画の起源は、六朝時代の中国です。 宋時代以降には、民間の間で寓意を取り入れた花鳥画が広がりを見せます。 日本では、平安時代ごろから花鳥画の制作が始まり、南北朝時代には、禅僧による水墨画の花鳥画が描かれるようになりました。 その後、室町時代に色鮮やかな花鳥画が誕生し、隆盛期を迎えます。 桃山時代には、日本ならではの様式が確立され、江戸時代中期ごろからは、写実的な作品が多く制作されるようになりました。 花鳥画浮世絵は、俳諧や狂歌などの当時の文芸との関係性が深かったため広がりを見せました。寛政期を境に、当時の浮世絵2大ジャンルであった美人画と役者絵は、徐々に後退しています。 のちに風景画や花鳥画などがメインとなった浮世絵が多く描かれるようになりました。 花鳥画浮世絵は高く売れる? 江戸時代に暮らす人々の生活を描いた浮世絵には、ジャンルがさまざまあり、花鳥画浮世絵もその一つです。 花鳥画浮世絵は、日本だけではなく海外からも高く評価されている絵画で、作品によっては高価買取が狙えます。花鳥画浮世絵の価値は、描いた絵師が誰であるかも大きく関係しています。 歴史的に有名な絵師が描いた花鳥画浮世絵であれば、高値で買い取ってもらえることも。描いた絵師を確認するためには、落款やサインをチェックしましょう。 また、鑑定書や付属品がある場合は、一緒に査定に出すと評価が上がります。 有名絵師が描いた花鳥画浮世絵ほど、偽物も出回っています。 そのため、自宅にある花鳥画浮世絵の真贋や価値を知りたい方は、プロの査定士への査定依頼がお勧めです。 著名な浮世絵師も花鳥画を描いた 江戸時代の始まりとともに町民の間に広がりを見せた浮世絵。 日本絵画の一つでジャンルもさまざまあります。 有名な浮世絵師も花鳥画浮世絵を多く手掛けています。花鳥画浮世絵を描いた有名浮世絵師は、西村重長・歌川広重・小林清親などです。 有名な浮世絵師と人気作品をチェックし、自宅にある花鳥画浮世絵は、高価買取してもらえるかの判断材料にしましょう。 江戸時代初期に活躍した、西村重長 作家名:西村重長(にしむらしげなが) 代表作:『新吉原月見之座舗』『竹田新からくり』 生没年:1697年?-1756年 西村重長は、江戸時代の初期に活躍した浮世絵師です。 鳥居派の中でもとくに鳥居清信風の漆絵による役者絵を描いていました。その後は、西川祐信や奥村政信風のテイストも取り入れ、漆絵美人画や浮世絵、花鳥画、歴史画、風景画などの紅摺絵も描いています。 西村重長は、多彩な浮世絵師で墨線を使わず、紅、黄、緑、鼠色で摺った無線絵の一種である「没骨の水絵」と呼ばれる技法の作品も多く描きました。それらの作品は、のちに石川豊信・鈴木春信・礒田湖龍斎らの画風にも影響を与えたといわれています。 また、江戸通油町(現・東日本橋)の地主でもあり、晩年は神田で古書店を開業しています。 西村重長は、多くの浮世絵作品を手掛け、花鳥画浮世絵も描いたとされていますが、現代まで残されている作品は少ないのが現状です。 歌川広重の描いた、花鳥画 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『名所江戸百景 水道橋駿河台』『東都名所 日本橋之白雨』 生没年:1797年-1858年 歌川広重は、多くの人気風景画を残していることで有名ですが、実は花鳥画も多く手掛けています。その数は数百点にものぼるといわれており、多くの作品が短冊型で制作されています。 歌川広重が描く花鳥画浮世絵の特徴は、静止画でありながらも躍動感のある生き生きとした鳥の描写です。 ツバメやカワセミ、千鳥などが飛翔する様子や枝にとまった瞬間の様子、身体をさかさまにして枝にぶら下がる様子など、さまざまなシチュエーションの鳥を描いています。歌川広重が描いた花鳥画浮世絵には『水葵に鴛鴦』『萼あじさいに川蝉』などがあります。 ”最後の浮世絵師”小林清親の描いた、花鳥画 作家名:小林清親(こばやしきよちか) 代表作:『東京五大橋之一両国真景』『於黄海我軍大捷第一図』 生没年:1847年-1915年 小林清親は、15歳の時に父が亡くなったことをきっかけに元服して家督を継ぎ、幕臣となりました。 第15代将軍徳川慶喜のもとで多くの合戦に参加しています。 その後、江戸幕府がなくなると、母親とともに徳川慶喜らを追って静岡に移住しました。母が亡くなった27歳ごろには、東京に戻り絵師としての活動を本格化させました。 西洋画家に師事したといわれていますが、誰に師事したかは明確になっておらず、一説では、イギリス人の風刺画家「チャールズ・ワーグマン」に師事していたといわれています。 小林清親の本格的なデビューは、1876年と明治時代に入ってからでした。 風刺画や風景画を多く手掛けていた小林清親ですが『鶏と蜻蛉』『柿に目白』など花鳥画も描いています。 人気の花鳥画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 現代でも人気の高いジャンルの一つである花鳥画浮世絵。 多くの有名浮世絵師によって描かれており、作品や作家によっては、高価買取が狙えるでしょう。高価買取を狙いたい方は、まず手持ちの花鳥画浮世絵が、どの浮世絵師によって描かれているかのチェックがお勧めです。 また、買取価格には、作品の保存状態も大きく影響します。 破れやシワ、シミなどが目立つ状態だと、買取価格は下がってしまうでしょう。作品の買取を考えている場合は、保管方法にも気を遣うことが大切です。 自宅に眠っている花鳥画浮世絵がある方は、ぜひ一度プロの査定士へ査定を依頼してみてくださいね。
2024.08.13
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迫力ある相撲絵:浮世絵買取は実績ある買取業者へ相談を
迫力ある相撲絵は、高価買取が狙える浮世絵です。 倉庫に眠っている浮世絵や相撲絵を発見したら、まずは査定士に相談してみましょう。 江戸時代の有名な絵師も相撲絵を数多く描いており、現代でも人気を集めている作品もあります。浮世絵のなかでも相撲絵の価値を知るためには、相撲絵がどのようなものか、いつごろから人気を集めているかをチェックしてみると良いでしょう。 江戸庶民も熱狂!相撲絵の浮世絵を買取してもらおう 相撲は日本の国技であり、土俵から外に出たら負けというシンプルなスポーツです。 現在の相撲の形式は、江戸時代に確立されたといわれています。土俵入りの儀式や化粧回しなど現在でも行われている様式は、江戸時代から誕生していきました。 また、浮世絵としても人気を集めており、有名な絵師が描いた相撲絵は、現在でも高価買取が期待できるでしょう。 相撲絵とは 相撲絵とは、浮世絵版画のなかでも相撲を描いた作品を指します。 力士の似顔絵や取り組みの様子、土俵入りなどもあれば、平常の姿を描いた作品もあります。のちには、力士たちが宴会をする様子や稽古場風景なども描かれるようになりました。 相撲浮世絵は高く売れる? 相撲浮世絵は、作品によって高価買取が狙える浮世絵です。 相撲は、古来より神事として扱われており、競技や娯楽として多くの日本人に親しまれてきました。相撲の浮世絵は、プログラムや取組表など、競技に必要な版画を制作することから始まっています。そこから人気が集まり、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの有名絵師も相撲の浮世絵を描くようになりました。 実際に有名な絵師が描いた相撲絵もいくつも現存しており、特にそういった作品であれば高価買取が期待できる浮世絵です。 ご自宅に相撲浮世絵がある方は、ぜひ一度査定に出してみてはいかがでしょうか。 江戸時代には相撲が大ブームに 江戸時代に大成した相撲は、神事として古くから受け継がれてきています。浮世絵としても人気を集めており、当時の有名力士が描かれた浮世絵も多く存在しています。 歌舞伎と並んで人気だった、相撲 相撲は、神話や伝説にも登場する競技です。 なんと4世紀ごろの古墳時代の出土品に相撲人形があり、実に古くから競技が行われていたことが分かっています。 また、古事記や日本書紀の神話や伝説にも登場し、神事としても知られています。稲作が開始されると、農民の間で稲が豊作となるよう祈ったり、占ったりするための行事としても執り行われていました。 奈良時代や平安時代に入ると宮廷儀式である相撲節会となり、天皇の前で相撲を取る天覧相撲が行われています。 武士の時代に入ると、力が強いと戦いに必要な武術に長けているとみなされ、武家で力士を雇うようにもなりました。 日本で有名な戦国武将の1人である織田信長は、大の相撲好きとしても知られており、毎年力士を集めて相撲大会を開くほどでした。信長の相撲好きについては『信長公記』と呼ばれる資料にも記載があります。 そして、江戸時代に現在行われている相撲の原形が確立され、武士の娯楽として親しまれてきた相撲が庶民の間にも広まっていったのです。 勧進相撲は、お寺や神社の修繕に必要な費用を収集する目的で行われていた相撲として有名です。大店の商人がスポンサーとなり、数多くの名試合を生み出し、庶民を楽しませていました。 プロの力士が誕生したのも江戸時代です。 江戸や大阪、京都などで相撲興行が活発に行われ、相撲風景を描いた錦絵も制作されるように。絵のモデルにもなったことで、さらに人々の間で相撲人気が広まっていきました。しかし、相撲の試合ではけんかや争いが絶えず、政府は頻繁に禁止令を出していたそうです。 そのため、勝負の決まり手を四十八手に定めたり、現在の土俵のように俵で丸く仕切ったりなど、競技としてさまざまなルールが決められていきました。また、力士を養成する部屋制度もこの時代に誕生しています。 ふんどしにまげ姿の衣装は、古くからの伝統で、このようなしきたりが数多く残っている相撲は、単なるスポーツではなく日本の文化を受け継いだ伝統的な文化といえます。 筋肉隆々、巨大に描かれた力士たち 相撲の浮世絵では、独特の表現が用いられ多くの力士が描かれてきました。 力士は、背が高く体重も重いため、大きな力士の隣に世話係を小さく縮こまっているように描くことで、その特徴を描写することもありました。 また相撲絵では、力士がどれだけ巨体で迫力があるかを伝えるために、筋肉隆々な描き方がされています。 相撲絵として描かれた人気力士 競技でも相撲絵としても人気のあった力士として、4代目横綱の谷風(たにかぜ)、5代目横綱の小野川(おのがわ)、無双力士の雷電(らいでん)などが挙げられます。いずれも、浮世絵師の勝川春英(かつかわしゅんえい)によって描かれています。 4代目横綱の谷風は、伝説として語られている江戸の名横綱。 歴代の力士のなかでも、強豪として語り継がれる偉大な力士で、全盛期には4年間負けなしだったといわれています。63連勝という大きな功績を残し、江戸時代における相撲文化を大いに盛り上げた力士の一人といえるでしょう。 5代目横綱の小野川は、4代目横綱である谷風の連勝記録を64勝で止めた力士でもあります。 谷風やのちに紹介する雷電とともに、相撲の黄金時代を築き上げた力士の一人といえるでしょう。176cm・116kgと力士としては決して巨体とはいえない体格で、技能派力士としても知られています。 雷電は、江戸時代に活躍した力士で、生涯勝率が9割6部2厘と驚異的な勝率を叩き出しています。 この記録は、歴代1位でいまだに破られていません。254勝10敗2分で優勝相当成績25回のうち、全勝が7回で44連勝を含んでおり、歴史的な記録といえるでしょう。 この屈強な力士たちの浮世絵を描いたのが勝川春英(かつかわしゅんえい)です。 勝川春英は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師で、勝川春章の門人でした。相撲絵のほかにも役者絵や狂画、武者絵などを描き、版本の挿絵や肉筆画なども手がけていることで有名です。 人気の浮世絵・相撲絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 江戸時代ごろから長く日本の庶民に愛され続けている浮世絵。 多くの有名絵師を排出している江戸時代には、浮世絵の人気が多くの人の間で広まっていました。浮世絵のジャンルの一つである相撲絵もまた、人気作品のひとつです。日本の国技である相撲をモチーフとしており、筋肉隆々の迫力ある力士の絵が魅力といえるでしょう。 浮世絵は現在でも多くのコレクターがいるため、骨董品市場の中でも人気ジャンルの1つ。そして、相撲絵の浮世絵も例外ではありません。相撲絵の価値をより正確に評価してもらうのは、実績のある浮世絵買取業者へ相談するのが良いでしょう。プロの査定士が、状態などを見ながら納得いく価値で評価をしてくれます。
2024.08.13
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人気の浮世絵・武者絵は高価買取が期待できます
浮世絵はさまざまな題材を描き、美人画や風景画などいくつもの人気ジャンルがあります。 その中でも武者絵は、国内外で高い人気を得ているものです。武者絵は、江戸時代から明治時代にかけて多く制作され、次々と人気絵師を生み出しました。 武者絵は、国内でも海外でも評価が高く、慎重に業者を選べば高価買取も期待できるジャンルです。作品の状態や絵師・描かれた題材・描かれた年代などにより、価格は大きく変動します。そのため、真贋や価値を適正に見極められる買取業者を選ぶことが大切です。 武者絵の浮世絵は高価買取のチャンス 武者絵の浮世絵は人気のジャンルであり、作家や作品によっては高価買取が期待できます。 有名な絵師の作品や保存状態の良い作品には高値がつきやすく、鑑定書や付属品の有無などにより価格が変動するのが一般的です。 作品の価値を適正に査定できる買取業者に持ち込むことで、高価買取のチャンスと巡り会えるかもしれません。 武者絵の浮世絵を買取してもらう際は、専門の買取業者に依頼しましょう。 武者絵とは 武者絵とは、歴史や伝説・神話に登場する武士や英雄の姿、戦いが描かれた絵を指します。 江戸時代から明治時代にかけて、武者絵は多くの浮世絵師の手によって描かれました。 武者絵の代表的な絵師として、浮世絵を確立させた菱川師宣(ひしかわもろのぶ)や、武者絵の最盛期を作り上げたといわれる歌川国芳(うたがわくによし)などが挙げられます。武者絵は、美人画や風景画と比較しても遜色ないほどの人気を誇り、徳川家以外の武将を英雄視することを危惧した江戸幕府により、規制の対象にもなりました。 武者絵は買取してもらえる? 武者絵は国内外で人気の高いジャンルであり、買取業者にて査定・買取を依頼できます。 買取価格は、作品の状態や作者・描かれた時代などにより変動するため、武者絵の知識や査定の経験が豊富で、作品を適切に評価できる買取業者を選ぶことが大切です。 有名浮世絵師も描いた、武士の世界 浮世絵の中でも人気のジャンルである武者絵は、数々の有名浮世絵師により描かれました。 歴史や伝説の中で語られてきた多くの武将や英雄を、名のある絵師たちはどのように描いたのでしょうか。 菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵の先駆者として語られることの多い絵師であり、江戸時代前期に活躍しました。 1630年ごろ(寛永年間の中期)に、現在の千葉県鋸南町保田で生まれたと推定され、幼少期から絵の才能を発揮し、狩野派や土佐派などに触れ、独学に近い形で絵を修行したのち江戸に出ます。 江戸に出てからは絵本の挿絵で人気を博しました。 挿絵では市井の女性や名所の風景などを木版画で描き、これが浮世絵へと発展していきます。 菱川師宣が好んで描いた題材は江戸の庶民であり、中でも「見返り美人」は浮世の女性を色鮮やかに描いた肉筆画で、彼の代表作といえるでしょう。 また、彼の作品には『武家百人一首』や『大江山酒呑童子図』、『大和武者絵』など、多くの武者絵も残されています。 菱川師宣は「墨摺り(すみずり)」という技法で武者絵を多数制作しました。 墨摺りとは、墨一色で版画を刷り、濃淡や線のタッチだけで多彩な表現を可能にする技法です。 さらに、墨で表現された絵の上に色彩を加える技法も駆使し、色合いや雰囲気などをより細やかに描き出すことも得意としていました。国内外で、今なお高い人気を誇る浮世絵を創始した功績は計り知れません。 勝川春亭 勝川春亭(かつかわしゅんてい)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、武者絵や役者絵で名を馳せた勝川春英の門人です。 本名は、山口長十郎(中川長十郎との説もあり)ですが、勝川を称し、松高斎や戯墨庵・耕煙山樵・及壺・宮山人などの号を持ちました。 勝川春亭は数多くの錦絵(木版画浮世絵の一種で分業が特徴)を描き、役者絵や美人画・名所絵など多様な作品を残しましたが、錦絵で最も多く描いたのが武者絵でした。2枚や3枚の絵を横に連ねて一つの画面を作る「二枚続」や「三枚続」など、武者絵としては斬新な手法を積極的に取り入れ、迫力ある作品を残しています。勝川春亭の用いた形式は、次の世代の歌川国芳を輩出する土台となりました。 代表作のひとつである武者絵『巴御前武蔵三郎左衛門有国(ともえごぜんむさしさぶろうざえもんありくに)』は、平家の残党である武蔵三郎を、源義仲軍の女性武将・巴御前が討伐するシーンを描いた作品です。 巴御前の勇敢さや、討たれる武蔵三郎の悲壮さを迫力ある画面に表現しています。 また、『石橋山合戦(いしばしやまかっせん)』は、源頼朝軍の佐々木高綱が、殿(しんがり)として平家軍の追撃を立ち阻む様子が激しいタッチで描かれた、三枚続の大作です。 歌川国芳 歌川国芳(うたがわくによし)は、1797年(寛政9年)ごろに江戸で生まれました。 幼少期から浮世絵に親しみましたが、12歳ごろの作品である『鍾馗提剣図(しょうきていけんず)』が人気浮世絵師の歌川豊国に高く評価され、豊国のもとで修行に励むことになります。 しかし、師である豊国や兄弟子の歌川国貞の人気に追いつくことのできない不遇の時代が続きました。 歌川国芳にとっての転機は、1827年ごろに中国の古典小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)』でした。 江戸でも人気のあった水滸伝の登場人物を一人ひとり描いたこの作品がきっかけで、彼は「武者絵の国芳」という異名を獲得します。歌川国芳の武者絵は、画面から飛び出さんばかりの迫力ある構成と、躍動感あふれる人物描写が特徴でした。 『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』の一つ『浪裏白跳張順(ろうりはくちょうちょうじゅん)』は、水滸伝の登場人物である張順を描いた作品で、作中の豪傑たちのダイナミックな描写には、歌川国芳による武者絵の特色が存分に発揮されています。 また、風刺やユーモアを交えた作品で江戸幕府を批判し、江戸町人の人気を得たという反骨精神も、彼の魅力を物語る一面といえるでしょう。 武者絵には歴史上の人物も数多く描かれた 武者絵には、多くの人々に馴染み深い、歴史上の人物も数多く描かれています。 太平の世である江戸時代では、戦国時代の武将は伝説上の人物のようになっていたのでしょう。 有名な浮世絵師たちによって描かれた、歴史上の人物を画題とした作品とは、どのようなものでしょうか。 『加藤清正公図』(葛飾北斎) 『加藤清正公図』は、ゴッホやドガにも影響を与えたとして世界的にも有名な、葛飾北斎による作品です。 葛飾北斎は、1760年(宝暦10年)に現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くことに熱心でした。 成長して浮世絵の彫師として下積みの時代を送りますが、あるとき絵師になることを決心し、勝川春章の門人となりました。19歳ごろから勝川春朗として錦絵を世に出しますが、その後は勝川派から離れ、美人画や風景画・妖怪絵など多彩な作品を残しています。 そんな葛飾北斎が40歳のときに描いた肉筆の武者絵が『加藤清正公図』です。 加藤清正は、豊臣秀吉の先鋒として活躍した戦国武将で、秀吉の死後は徳川家康に従いました。関ヶ原の戦いの後は肥後熊本藩主となり、現在の熊本城を築城した人物としても有名です。 『加藤清正公図』は、葛飾北斎の武者絵の中でも傑作とされており、猛将らしい清正公の気迫や宴席での余裕ある雰囲気などを巧妙に描いています。色彩や構図にも独特の美しさがあり、葛飾北斎の画力がいかに優れているかを感じられるでしょう。 『藤原保昌月下弄笛図 』(月岡芳年) 月岡芳年(つきおかよしとし)は1839年(天保10年)に生まれ、幕末から明治半ばにかけて浮世絵師として活躍しました。 本名を月岡米次郎(つきおかよねじろう)といい、12歳で歌川国芳に弟子入りし、武者絵や役者絵を次々と発表します。 27歳のときに、兄弟子の落合芳幾と競作した『英名二十八衆句』は、その凄惨な流血描写や死体描写から「血みどろ絵」や「無惨絵」と呼ばれ、江戸川乱歩や三島由紀夫など後世の文学者らの興味を集めたことでも有名です。月岡芳年は、幕末から明治にかけて激動の時代を生き、戊辰戦争や西南戦争などの戦争も錦絵に描きました。 月岡芳年が1883年(明治16年)に残した大判の三枚続が『藤原保昌月下弄笛図』です。 傑作のひとつに数えられるこの作品は、盗賊の「袴垂(はかまだれ)」が、貴族であり優れた武人でもある藤原保昌(ふじわらのやすまさ)を切り殺そうと隙をうかがうも、笛を吹きながら付け入る隙を与えない保昌を相手に、動けずにいる緊迫した場面を描いた作品です。多くの分野で多彩な才能を見せる月岡芳年は、浮世絵の人気を支えた歌川国芳にも比肩しうるほどの人気を誇っています。 『武田上杉川中島大合戦』(歌川国芳) 江戸時代後期に活躍した歌川国芳は、30歳ごろに江戸で流行していた中国の小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』で一躍人気絵師となりました。歌川国芳の出世作として知られるこの作品は、その後の水滸伝ブームの火付け役となりました。 そして、「武者絵の国芳」とあだ名された歌川国芳の、躍動感あふれる大胆な構図と類まれな画才が存分に発揮された作品が『武田上杉川中島大合戦』です。 武田信玄と上杉謙信との間で5度にわたり繰り広げられた川中島の戦いは、1561年(永禄4年)に行われた4戦目に佳境を迎えます。この合戦における最大の見どころは、何といっても武田信玄と上杉謙信の一騎打ちでしょう。 画面右の謙信が斬り掛かり、画面中央の信玄がそれを軍配で受け止める場面が、流れる川の激しさとともに大迫力で描かれています。鮮やかな色彩とダイナミックな構図で見る者を惹きつけるこの作品は、「武者絵の国芳」の真骨頂といえるでしょう。 人気の浮世絵・武者絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 武者絵の浮世絵は、歴史や伝説上の人物の活躍、有名な合戦や物語の一場面を描いた絵です。 江戸時代から明治時代にかけて、多くの人気浮世絵師がさまざまな武者絵を描き、好評を博しました。武者絵は愛好家が多数おり、海外での人気も高いため、優良な買取業者を選べば高価買取が期待できます。 人気浮世絵師が描いた作品には高値がつきやすいですが、落款や署名があればさらに価値が高まるでしょう。保存状態や付属品の有無も価格を左右するため、保管の仕方に気をつけなければなりません。 また、一点物である肉筆画や、木版画の初摺りも、希少価値という観点から評価額が高い傾向があります。 適正な価格をつけてもらうためには、プロの査定士に見てもらうのが最適です。 人気の浮世絵・武者絵の買取はプロの査定士のいる浮世絵買取店に相談してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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美人画浮世絵を買取してもらおう | 誰もが知る名作・名絵師なら高額査定も期待大
浮世絵の中でも特に美しい女性の姿を描いたものを美人画と呼びます。 美人画は人気が高く、さまざまな作家が取り組んできたため、誰もが知る名作も多数あります。『見返り美人図』は美人画の代表例です。 高価買取が期待できる作品もあるため、美人画を持っている方は、査定してもらうのがお勧めです。 美人画の概要や主な人気作品についての知見を深め、所有する美人画の価値を確認できるようにしましょう。 人気の美人画浮世絵を買取してもらおう 身の回りのさまざまなものを題材とした浮世絵は、いくつかのジャンルに分けられます。 中でも美しい女性をテーマとしているのが美人画です。 美人画は、浮世絵が誕生したころから一貫して人気のジャンルだったため、さまざまな作家により数々の名作が残されています。 美人画浮世絵とは 美人画とは、美しい女性を描いた浮世絵です。 遊女や歴史上の人物、お店の看板娘などの美しいと評判だった女性をモデルとすることが多いものの、本人そっくりに描かれるとは限りません。むしろ、女性個人をありのままに描くよりも、理想の女性像を表現することが美人画の主流でした。 当然、美人と言われる基準は、時代によって少しずつ異なります。 時代や絵師による表現の違いを比べるのも、美人画の楽しみと言えるでしょう。 美人画浮世絵は今でも人気が高い 美人画は、浮世絵の中でも特に人気の高いジャンル。 日本国内だけでなく海外にも愛好家がいる浮世絵は、芸術作品として買取してもらえる可能性があります。 特に有名作家の作品であれば高く売れると期待できます。 遺品整理や相続で得た浮世絵を手放すのであれば、一度査定してもらうとよいでしょう。 作家名が分からないものも相談してみるのがお勧めです。専門知識を持つ査定士が査定した結果、高い価値が付くかもしれません。 有名すぎる美人画『見返り美人図』 浮世絵の美人画における代表作と言えば、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の『見返り美人図』。 17世紀に描かれた『見返り美人図』は、かつて切手の図柄として採用されたり、教科書に掲載されたりしたため、浮世絵の中でも特に知名度の高い作品ではないでしょうか。赤い着物を着た一人の若い女性が、ふと振り返った瞬間を捉えたこの作品は、構図の巧みさなどの点で、後世にまで大きなインパクトを与えたと言われています。 浮世絵の祖といわれる菱川師宣 『見返り美人図』を描いた菱川師宣は、浮世絵の祖と言われています。 そもそも浮世絵とは、人物や風景など身近なものを題材とする風俗画のこと。 現代では、浮世絵と言えば版画形式の浮世絵版画を指しますが、始めは他の絵画と同様に浮世絵も筆で紙や布に描かれていました。これを肉筆浮世絵と言います。 肉筆浮世絵は一枚ごとに絵師が手描きするため、制作に時間やお金がかかります。そのため、初期の浮世絵は庶民が気軽に手に取れるものではありませんでした。 しかし、菱川師宣が木版画の技術を使い、一枚の絵を大量に擦る方法を発明したことで、状況は大きく変化しました。 本の挿絵を描く仕事をしていた菱川師宣が、絵だけを観賞用として別に擦り、それが大衆に受け入れられたのが、浮世絵版画が生まれたきっかけです。 大量生産が可能になったことで一枚あたりの価格が下がり、庶民でも浮世絵を入手しやすくなりました。 これがきっかけで浮世絵は、大衆文化の一つとして大きく発展を遂げることになったのです。 同時に、浮世絵版画を生み出した菱川師宣は「浮世絵の祖」と呼ばれるようになりました。 なお、菱川師宣が活躍したころは白黒のみだった浮世絵版画は、その後、技術の発展により何色も重ねた色鮮やかな表現が可能になりました。 18世紀に活躍した葛飾北斎(かつしかほくさい)の『富嶽三十六景』のような多色擦りの浮世絵版画は「錦絵」と呼ばれています。 安く大量生産が可能になった浮世絵版画は、写真の技術がなかった江戸時代には、マスメディアの役割も果たしていたと言われています。 例えば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』、歌川広重の『東海道五十三次』といった風景画は、絵葉書や旅行ガイドの代わりでもありました。 また、遊女や看板娘などを描いた美人画は、広告の役割も担っていたと考えられています。 『見返り美人図』の見どころ 江戸時代から昭和に至るまで数多くの美人画が描かれてきた中で『見返り美人図』が特に有名なのには、いくつかの理由があります。 その理由の一つが、構図です。 実は菱川師宣より前まで、美人画と言えば一枚の絵の中に複数の女性が描かれるのが一般的でした。複数人を描くほうが、風俗が伝わりやすいためです。 一方、『見返り美人図』では一人だけを描くことで、女性に視線が集中する効果を狙ったのでしょう。 この作品以降、女性一人だけを登場させる構図は浮世絵の定番となりました。 また、体勢や視線の向きに細かく気を配った構図も『見返り美人図』の見どころです。 現実には、やや無理のある体勢だと言われていますが、女性の美しさを際立たせています。そして、あえて背景に何も描かなかったのも、女性の動きや美を強調するためだと言われています。 『見返り美人図』は当時から人気が高く、「師宣の美女こそ江戸女」と言われるほどでした。 その理由は、女性のファッションにあります。 当時の美人画は実在する女性をありのままに描くというより、理想の美女を具現化することに重きが置かれていました。 そのため、『見返り美人図』に登場する女性は高級な着物に身を包み、髪型や帯の結び方は当時の流行に沿っています。見るだけで最先端の流行が分かる美人画は、江戸時代の人にとってファッション誌の代わりでもあったのでした。 また、現代の私たちにとっては、当時の風俗を伝えてくれる資料としての価値もあります。 なお、『見返り美人図』は、菱川師宣が直接描いた肉筆浮世絵であり、版画ではありません。 菱川師宣は浮世絵版画を生んだ絵師として有名ですが、同時にさまざまな肉筆浮世絵も手掛けています。 『見返り美人図』は同じものが存在しない肉筆浮世絵であるという点も、評価が高い理由として挙げられます。 一世風靡した、鳥居清長の美人画 18世紀末の天明年間に美人画で一世風靡したのが鳥居清長(とりいきよなが)。 江戸出身の絵師である鳥居清長の作品では、すらっとした8等身の美女が目を引きます。また、儚げというよりは堂々として健康的な女性たちを多く描いたことも特徴です。 鳥居清長の美人画にはもう一つ、背景が描かれているという特徴があります。 美人画では美女のポーズや着物、表情などに注力し、『見返り美人図』のようにあえて無背景とするものは少なくありませんでした。 一方、鳥居清長の美人画では、背景として江戸の風景が写実的に描かれており、このように美人画の背景に江戸の風景を細かく描写したのは、鳥居清長が初めてだと言われています。 彼の描く長身で健康的な美女は、背景に描かれた江戸の風景から江戸のヴィーナスまたは天明のヴィーナスと呼ばれることも。 代表作は『美南見十二候』、『風俗東之錦』。 鳥居清長の作品は、特に海外でも高い人気を誇っており、外国の美術館にも多くの作品が収蔵されています。 誰もが一度は見たことがある『ポッピンを吹く娘』 喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は、江戸時代中期にあたる、18世紀半ばに活躍した絵師です。美人画を得意とし、彼がモデルにした女性は、あっという間に江戸中で有名になったと言われています。 『婦女人相十品 ポッピンを吹く娘(ビードロを吹く娘)』は、1790年ごろに発表されました。 『婦人人相十品』という、女性がさまざまな仕草をしているシーンを切り取った10枚の大判錦絵から構成されているシリーズのうちの一枚です。 ポッピンとは、長くて細い首を持ったフラスコのようなガラス製のおもちゃのことです。 江戸時代後期にオランダから伝わり、ビードロとも呼ばれ、首の部分から息を吹き込んで音を鳴らして遊びました。 喜多川歌麿の美人画の特徴は、胸から上を大きく描く構図だと言えます。この『ポッピンを吹く娘』でも、あえて全身を描かずに上半身だけにフォーカスしています。 喜多川歌麿はこうした「美人大首絵」と呼ばれる構図の作品を多く残しています。 また、この作品では女性が着ている衣装や小道具であるポッピンも見どころです。 市松模様は、当時流行していた柄で、振袖を着ていることから若い未婚の女性であることが分かります。また、舶来品であるポッピンを持っていることや、ガラス細工のついたかんざしから裕福な家の娘であることも示されています。 江戸時代後期には美人画浮世絵にも変化が… 江戸時代後期に入ると、美人画にも従来とは異なる傾向が見られるようになりました。 当時、主に遊女をモデルとする美人画で人気があったのが、絵師の渓斎英泉(けいさいえいせん)です。 渓斎英泉は絵師としてのキャリアの前半では、師匠に倣って細い線で優美な女性像を制作していました。しかし、徐々に独特の美人画を発展させていきます。 大首絵を得意とした彼の美人画では、女性たちがみな猫背で下唇を突き出すような姿で描かれるという特徴がありました。 その表情は、どこか思い詰めているような、厭世的な雰囲気を感じさせます。 渓斎英泉が活躍した19世紀前半は、次々と来航する外国船やそれに刺激された尊王攘夷運動などにより、人々は不安定さを感じていたと考えられています。そうした世相にマッチしていたことが、渓斎英泉の美人画が人々の心をつかんだ理由だったのでしょう。 また、彼の画風に影響を受けた絵師として、歌川国貞(うたがわくにさだ)が挙げられます。 同時代に活躍した二人は、幕末の退廃的な美を描いた絵師として評価されています。 しかしこの頃に起きた「天保の改革」の一つとして、1842年頃からの数年間にわたって浮世絵の制作が厳しく制限されるという事件が起こりました。美人画を含む浮世絵は、風紀を乱すものとして処罰の対象となるおそれがあったのです。 これをきっかけに渓斎英泉は、文筆業に専念するようになり、浮世絵作家としての活動を終えたのでした。 大正の浮世絵師、竹久夢二 竹久夢二(たけひさゆめじ)は、明治時代末から大正時代にかけて活躍した画家です。 日本画の技法を用いた竹久夢二の作品は、厳密に言えば浮世絵ではありません。しかし、多くの美人画を描いたため、「大正の浮世絵師」と称されることもありました。 竹久夢二の美人画は、白いうりざね顔にやや離れた大きな目、曲線を強調したボディラインなどが特徴です。 その女性像は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンの象徴ともなりました。 竹久夢二は、絵画だけでなく、書籍の装丁や広告宣伝、日用雑貨などのデザインも多数手掛けていました。そのため、彼の美人画は当時から大衆の間で絶大な人気があり、「夢二式」という言葉が美人の代名詞として使われるほどでした。 美人画浮世絵の買取は実績ある買取専門業者へ相談を 美人画は江戸時代から現代に至るまで浮世絵の人気ジャンルの一つ。 菱川師宣の『見返り美人図』を始め、これまでに多くの名作が生まれてきました。 それぞれの時代の理想の女性を描いた美人画には、当時の流行や世相が反映されていることも魅力です。 人気の美人画は、高く買取してもらえる可能性があります。 ただし、浮世絵は作家や作品によって買取価格が異なるため、実績ある買取業者へ相談することが大切です。 鳥居清長や喜多川歌麿などの有名作家のものや、保存状態のよい作品、肉筆浮世絵などが特に買取価格が高くなりやすい浮世絵の例です。 シミやカビなどの汚れがあっても買取してもらえるケースもあります。 処分予定の美人画は、査定を依頼してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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大阪で浮世絵は高価買取のチャンス!実績ある査定士へ相談を
浮世絵と言えば江戸で制作されたものがよく知られていますが、江戸時代後期には大阪でも盛んに描かれるようになりました。 上方浮世絵とも呼ばれる大阪で作られた浮世絵には、江戸のものとは異なる魅力があります。 大阪で浮世絵を売りたい方は、上方浮世絵の特徴や高く売れる浮世絵のポイントなどをチェックしましょう。 大阪で浮世絵買取を相談しよう 江戸時代に天下の台所とも呼ばれた大阪には、今も昔も多くの人や物が集まっています。 浮世絵を買取する業者も多いため、処分を考えている方はぜひ相談してみましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、主に江戸時代に作られた、人々の生活や身近なものを題材とした絵画のことです。 始めは肉筆で紙や絹に描かれていましたが、17世紀に菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって確立された木版画形式の浮世絵版画が一般的になると、庶民の間にも広がりました。 木版画の場合、同じ絵柄を数百枚も作成できるため、1枚あたりの価格が下がったことが理由です。 ただし、当初の浮世絵版画は白黒が中心です。 その後、2〜3色で擦る紅摺絵が普及しましたが、現代でもよく知られているカラフルな浮世絵版画の作品が生まれたのは、18世紀半ばになってからのことでした。なお、浮世絵の有名な作家には、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)などがいます。 浮世絵は、江戸時代の大衆文化の中心となっただけでなく、海外の芸術家にも影響を及ぼしました。あのゴッホやゴーギャンといった有名画家が浮世絵に惚れ込み、自身の作品の参考にしたと言われています。また、19世紀にヨーロッパで日本の美術工芸作品を愛好するジャポニズムが広まったのも浮世絵がきっかけでした。 美人画や風俗画、武将絵などさまざまなものをテーマとして描かれた浮世絵は、当時の人にとってマスメディアのような存在でもありましたが、明治時代中期に普及した写真に取って代わられる形で徐々に衰退しました。 浮世絵は高く売れる? 風景画の名手として知られる歌川広重(うたがわひろしげ)の『東海道五十三次』は、最も有名な浮世絵作品の一つです。 江戸と京都を結ぶ東海道にある53の宿場に、起点と終点の2箇所を加えた全55箇所の風景を描いた作品で構成されています。 このように『東海道五十三次』では、東海道の起点を江戸・日本橋、終点は京都・三条大橋としています。しかし、実際には京都と大阪の間にも宿場があったことが分かっているのです。 京都・大阪間にあった宿場は伏見、淀、枚方、守口の4箇所で、終点は高麗橋でした。もしこれらの宿場も描かれていれば、作品名は「東海道五十七次」になっていたかもしれません。 大阪で発展した「上方浮世絵」 浮世絵は1765年、浮世絵師の鈴木春信(すずきはるのぶ)により色鮮やかな木版画を制作する技術が発明されたことで、一気に広まったと言われています。多色摺りの技法を用いた色鮮やかな浮世絵は、「錦のように美しい」ことから錦絵と呼ばれるようになりました。 これ以降、ほとんどの浮世絵師が錦絵を描くようになりましたが、当時の浮世絵の中心は、あくまでも江戸です。 しかし、江戸での錦絵の発明から遅れること約25年。 1790年代に大阪で活躍していた流光斎如圭(りゅうこうさいじょけい)という浮世絵師が、初めて大阪で錦絵を描いたと言われています。 大阪で描かれた錦絵は、江戸で流行していたものとは異なる特徴を持っていました。 江戸では遊女やお店の看板娘などをモデルとした美人画や、風光明媚な景色を描いた風景画が人気のあったジャンルです。 一方で大阪や京都では、役者絵と言われる歌舞伎の人気役者を描いた浮世絵が中心でした。 こうした違いがあったことから、江戸時代に上方と呼ばれていた大阪や京都で制作された浮世絵は、特に「上方浮世絵」と言われ、江戸で描かれた浮世絵とは区別されています。 上方浮世絵には、役者を題材としているものが多いことの他に、以下のような特徴があります。 ・筆致 ・写実的 ・金銀の絵の具が使用されている ・上摺と並摺の2種類に分ける販売方法 ・天保の改革以降はサイズが小さくなった 当時、江戸にも初代歌川豊国(うたがわとよくに)、初代歌川国政(うたがわくにまさ)といった役者絵を得意とする浮世絵師がいました。 彼らの作品は、人気役者が舞台で活躍する様子をすっきりとした筆致で描いているのが特徴です。 一方、上方浮世絵では同じように役者を題材としていますが、必ずしも舞台で活躍する姿だけを描いているとは限りません。舞台裏で化粧する様子や素顔で舞台挨拶に望む姿などを表現した作品も数多く残されています。筆使いも江戸のように華やかさや優美さを求めるのではなく、粘りや力強さを感じさせるものが主流です。 役者を格好良く描くことよりも、ありのままを写し取ることに重きを置いていたのが上方浮世絵の特徴と言えるでしょう。 また、江戸では禁止されていた金や銀の絵の具が使用された作品があることも上方浮世絵の特徴です。ただし、これらの絵の具は当時も高価であったため、同じ図柄を2種類の方法で擦って販売する方法が取られていました。 上質な素材や高い技術を使って制作されたものを上摺(じょうずり)、安価な素材で価格を抑えたものを並摺(なみずり)と呼びます。 江戸時代後期に実施された天保の改革では、1843年から1847年までの約5年間、役者絵の制作が禁止されました。この事件以降、作品が従来より小型化したことも上方浮世絵の特徴として挙げられます。もともとB4サイズだった浮世絵は、半分に相当するB5サイズで作られるようになりました。 葛飾北斎が描いた、大阪・天神祭り 大阪天神祭りとは、大阪天満宮で毎年6月下旬から約1カ月にわたって開催される祭りです。 京都の祇園祭り、東京の神田祭りに並ぶ日本三大祭の一つに数えられています。特に最終日の7月25日の夜には、花火が打ち上げられ、大川に船を浮かべる船渡御も行われるため大変な賑わいを見せます。 『富嶽三十六景』などで知られる葛飾北斎(かつしかほくさい)が天神祭りを描いた作品が『摂州 天満橋 大阪』です。 この作品では、摂州天満橋を中心に、祭提灯を飾った船が大川を行き交う様子が描写されています。同じく祭提灯が掲げられた橋の上には、大勢の人がおり、祭りの夜の活気が伝わってきます。 大阪の浮世絵買取、気を付けたいポイントとは 浮世絵は、作品によって価値の違いが大きいことが特徴です。 高く買取してもらうには、査定士が重視しているポイントを押さえておくことが大切です。 浮世絵の査定では、主に以下のポイントがチェックされます。 ・作家 ・保存状態 ・鑑定書の有無 ・付属品の有無 ・肉筆浮世絵かどうか など 特に作家は、浮世絵の買取価格を決める重要なポイントです。 歌川広重や葛飾北斎、鳥居清長(とりいきよなが)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などが主な人気作家です。これらの作家の作品で、かつ人気シリーズや初版であるといった条件がそろえば1,000万円以上の価格がつけられることもあります。 なお、相続などで浮世絵を受け取ったケースでは、作家名が不明なこともあるでしょう。そのようなケースでは、査定により有名作家の作品と分かることもあるため、専門知識を持つ査定士に見てもらうことをお勧めします。 また、同じ作品でも保存状態が良いほうの買取価格が高くなりやすいでしょう。ただし、200年以上前に制作された浮世絵に汚れやシミはつきものです。 シミやカビの程度によっては、修復を前提に買取する業者もいます。一度相談してみてはいかがでしょうか。 大阪で浮世絵買取を相談するなら、実績ある買取業者へ 江戸時代に流行した浮世絵は、大阪で独自の発展を遂げました。 当時の人気役者を主な題材とした上方浮世絵は、金や銀の絵の具が使われた華やかなものが多いことなどが特徴です。また、役者を理想化せず、ありのままの姿を描いた上方浮世絵には、江戸の作品とは異なる魅力があります。 江戸時代から商業の中心地であった大阪には、浮世絵買取ができる多くの業者がいます。作品によっては高価買取が期待できるでしょう。 浮世絵の処分を検討している方は、実績豊富な査定士に一度相談してみてください。
2024.08.13
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富士山や江戸の町…風景画浮世絵を買取してもらおう
江戸時代から明治時代にかけて、庶民の娯楽として広まった浮世絵。 なかでも、風景を描いた作品は、独創性に富んだものが多く、幅広い層に人気があります。 葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』など、誰しも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 浮世絵の買取を希望する場合は、専門の買取業者に査定をお願いするのがお勧めです。 有名な作品や、状態の良い作品は、高く売れるチャンスがあります。 風景画浮世絵をお持ちの方は、買取業者に持ち込んでみてはいかがでしょうか。 風景画の浮世絵は高価買取のチャンス 風景画の浮世絵は、独特の色彩表現や構図により国内外で人気があります。 有名な絵師の作品や、劣化が少なく保存状態の良いもの、大きなサイズのものなどは、高価買取のチャンスです。浮世絵の多くは木版画として大量に印刷され、庶民にも入手しやすかったため、思わぬところに保管されている場合があります。 風景画浮世絵とは 風景画浮世絵とは、江戸町人の生活を描いた浮世絵の中で、主に風景に焦点を当てた作品です。 「浮世」つまり仏教用語でいうところの「儚い世」が、やがて「現世の楽しみ」を意味するようになります。そして浮世絵では、遊女や役者などの町人の暮らしから歴史物語など、多様な題材が描かれるようになりました。 日本における風景画は、中国美術の影響が色濃い「山水画」として発達しましたが、浮世絵の1ジャンルとして独立したのは、18世紀末ごろです。 幕府が武者絵や役者絵に対する規制を強めると、風景画というものが脚光を浴びるようになります。 風景画浮世絵で描かれるのは、江戸や京都の街並み、富士山の眺めなど、日本人に馴染み深い景観です。 山水画のような理想化された自然の風景ではなく、日本人なら誰もが見たことがあるような写実的でどこか身近な風景こそが、浮世絵で描かれる風景画です。 風景画の代表作といえば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』を思い浮かべる人は多いでしょう。風景画浮世絵は、美しく身近な自然や街並みの姿を描くのみならず、当時を生きた人々の価値観や感性をも反映しています。 風景画浮世絵は買取してもらえる? 風景画浮世絵は、美術品としての価値があるだけでなく、当時の生活や文化を今に伝える貴重な資料でもあるため、多くの需要があります。 そのため、多くの買取業者が存在し、査定や買取を行っています。 しかし、作者や作品の状態、描かれたテーマなどにより買取価格が大きく変動することも。 風景画浮世絵を査定してもらう際は、真贋を見極め適正な価格つけられる業者を選ぶことが重要です。 誰もが知る『富嶽三十六景』は代表的な風景画 風景を描いた浮世絵として、大半の人が思い浮かべるのは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。 激しい白波に翻弄される小舟と、遠景に佇む富士山を描いた『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』。 這うように青黒く広がる樹海と、朝日を浴びて真っ赤に染まる富士山を描いた『凱風快晴(がいふうかいせい)』。 これらは、誰もが一度は目にしたことがあると言っても過言ではない、あまりに有名な風景画浮世絵です。 『富嶽三十六景』とは 『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』は、1831年〜1834年(天保2年〜5年)にかけて刊行された、葛飾北斎(かつしかほくさい)による大判の版画集です。 葛飾北斎の晩年に描かれた風景画のシリーズで、さまざまな季節や場所から眺めた富士山が色鮮やかに描写されています。 富嶽三十六景の刊行当時、葛飾北斎は70歳を超えていましたが、老いてなおその画力は、さらに洗練されていきました。富士山をテーマにしていますが、富士山を眺める人々やその周辺の様子などを巧みに描いており、葛飾北斎の観察力や構図力・色彩センスが存分に感じられるシリーズです。 なかでも『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、富嶽三十六景の代表作であるだけでなく、浮世絵を代表する作品として世界中で知られています。画面手前では荒れ狂う白波に小舟が揉まれ、画面奥には泰然と構えた富士山の姿が対照的に描かれています。 信仰の対象や観光地として人々の心に深く根ざしていた富士山。 当時流行した、藍色の絵具や鮮やかな赤色を用いて描いた『富嶽三十六景』は、国内外に大きな反響を巻き起こし、そのあまりの人気ぶりに、当初の36図版に加えて追加の10版が刊行され、富嶽三十六景は全46景となったほどです。 三大役物 富嶽三十六景の中でも、「三大役物」と呼ばれ、ひときわ人気の高い作品があります。 その3つとは『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』・『凱風快晴(がいふうかいせい)』・『山下白雨(さんかはくう)』です。 『神奈川沖浪裏』 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎による作品の中でも最もよく知られたものの一つです。白波の迫力と、遠くに見える富士山の落ち着いた姿が対照的に描かれています。 『凱風快晴』 『凱風快晴』という題名に心あたりがない場合でも、「赤富士」といえばすぐにわかる人は多いかもしれません。『凱風快晴』の画面で、朝日に照らされ真っ赤に染まる富士山と裾野に広がる樹海の背景には、真っ白な雲と青空が広がっています。 空と雲と富士山という単純すぎるほどの構成要素ですが、それぞれが細部まで緻密に描かれ、見るほどに魅力が増す傑作です。 『山下白雨』 『山下白雨』は、「黒富士」とも称され、富士の裾野に黒雲が広がり、稲妻が宙を引き裂く様が描かれています。雷雨のふもととは対照的に、山頂付近は明るい色調で描かれ、富士山の高さや雄大さが巧みに表現されています。 「黒富士」と「赤富士」では、描かれている雲の形や光の様子が異なり、季節ごと変化する富士山の姿を感じられるでしょう。 歌川広重が描いた風景画『名所江戸百景』 江戸時代後期の浮世絵師である歌川広重(うたがわひろしげ)は、風景画の名手として知られています。 『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』や『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』など、多くの優れた作品を残しました。 『名所江戸百景』 『名所江戸百景』は、1856年〜1858年(安政3年〜5年)にかけて歌川広重が制作した連作浮世絵です。 江戸の名所や景観・町人たちの暮らしを描いた作品群であり、浮世絵師・歌川広重の集大成とも位置付けられます。名所として古くから知られる場所だけでなく、何気ない江戸近郊の景観が、四季ごとに斬新な構図で描かれています。 『大はしあたけの夕立』 『大はしあたけの夕立』は、隅田川にかかる「大はし」の上を、雨から身を隠しながら渡る人々と、対岸の「あたけ」(安宅丸という船が繋留されていたことに由来)がぼやけて見えないほどの豪雨を描いた作品です。 墨の濃淡で表現された直線により、雨の強さや方向性が示されており、橋と河岸が斜めに交差する構図により、奥行きやダイナミックな雰囲気が演出されています。また、版木に水を含ませることにより絵具を滲ませ、遠くに見える対岸の街並みをぼかした表現も特徴的です。 橋を渡る人々の慌てた様子や、激しく叩きつける雨の音までも聞こえてくるような、リアルさが感じられる作品でもあります。 この作品は、印象派の画家ゴッホが模写したことでも知られ、歌川広重の画力が如実に伝わってくる傑作と言えるでしょう。 『亀戸梅屋舗』 名所江戸百景の一枚である『亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)』は、江戸の亀戸にあった梅の名所を描いた絵。 画面の一番手前に、視界を遮るように大きく描かれた梅の木が特徴的です。 背景には梅屋敷の庭や訪れる人々が見えます。 画面上半分の赤と、下半分の青が対比を強調しており、鮮やかな色彩にも歌川広重の多彩な表現を感じられるでしょう。 1857年(安政5年)にシリーズの30作目として描かれた作品で、春の風景を題材にして人気を博しました。 この作品の「梅屋敷」とは、豪商・伊勢屋彦左衛門(いせやひこざえもん)の別荘として建てられた「清香庵」を指します。 清香庵の梅林は、大変見事であると評判で、8代将軍である徳川吉宗も訪れたほどの名所でした。 『大はしあたけの夕立』とともに、『亀戸梅屋舗』もゴッホが模写した絵として知られています。ゴッホは浮世絵の中でも、歌川広重の作品から特に大きな影響を受けました。切り取られた構図や装飾的な色使い、強い輪郭線などを自分の作品で試すために、ゴッホは歌川広重の作品を模写したといわれています。 『浅草金龍山』 『浅草金龍山』もまた、歌川広重の傑作『名所江戸百景』を代表する作品です。 この作品は、浅草に現存する浅草寺雷門から見える雪景色を描いた一枚です。 浅草寺は、正式名称を「金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)」といい、「浅草観音(あさくさかんのん)」の呼び名でも知られています。 江戸時代の浅草は、庶民の集まる娯楽の場であり、浅草寺はその象徴として江戸の人々に愛されており、江戸の名所を描いた歌川広重の作品の中でも、特に人気の高い作品です。 『浅草金龍山』の大きな特徴は、画面手前の上部に大きく描かれた雷門の大提灯です。 この提灯を、あえて切り取るように描くことにより、画面に奥行きと臨場感を与えることに成功しています。 雷門の柱と提灯の大きさが、遠景の小さな寺と対照的であり、雪の白さをより際立たせている点も見事です。 こうした歌川広重のトリミング手法は、当時の印象派絵画にも多大な影響を与えたといわれています。 人気の風景画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! ご自宅やご実家に眠っている風景画浮世絵はありませんか。 江戸時代から明治時代にかけて広まった、独自の日本文化・浮世絵。美人画や役者絵・名所絵などさまざまなジャンルがあります。 その中でも風景画浮世絵は、国内外のコレクターや美術館・博物館による人気が高く、高価買取が期待できるジャンルです。 浮世絵の買取価格は、作者や作品の題材・保存の状態や付属品の有無などにより、大きく変動します。 そのため、高価買取のためには、専門知識豊富なプロの査定士の判断が不可欠です。状態の良いものは希少であり、高い買取価格がつく可能性もあります。シワやシミなどのダメージがあっても、有名作品であれば高値がつくことも。 適正な価格をつけてもらうためにも、信頼できる買取業者でプロの査定士に相談してみることをお勧めします。
2024.08.13
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