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月岡芳年の集大成の一つ『月百姿 貞観殿月 源経基』とは
月岡芳年が数え47歳から54歳のときに発表された浮世絵・月百姿。 月をテーマとした作品がそろい、全100図とボリュームのある大判錦絵シリーズとなりました。 その作品の一つに『月百姿 貞観殿月 源経基』があります。 躍動感ある源経基の姿が描かれたこの作品には、ともに描かれている鹿や月に深い意味が込められています。 無残絵で知られる月岡芳年はさまざまなジャンルの浮世絵を描いている 明治時代に活躍した浮世絵師・月岡芳年は、その作品における大胆で衝撃的な表現から「血まみれ芳年」としても知られています。 歌舞伎の残酷シーンや戊辰戦争の戦場をテーマにした無残絵のイメージが強い浮世絵師ですが、武者絵や妖怪画、歴史画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけているのです。 「月百姿」や「新形三十六怪撰」、さらには「大日本名将鑑」など、彼の作品はその鮮烈な色彩とダイナミックな構図で、観る者に強い印象を与えています。 『貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、源経基が鹿を仕留めるシーンを描いています。 源経基が鹿を仕留める様子を描いた『月百姿 貞観殿月 源経基』とは 作品名:月百姿 貞観殿月 源経基 作者:月岡芳年 制作年:1888年 技法・材質:大判錦絵 寸法:36.2cm×25.1cm 『月百姿 貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、秋にちなんだ浮世絵としても知られています。 この作品では、弓の名手として有名な源経基が暴れる鹿を弓矢で仕留めるシーンが描かれています。 背景には紅葉が舞い散り、その紅葉を照らすように丸い月が描かれているのが特徴です。 秋の美しさとともに、鹿を弓で射る迫力のある瞬間が捉えられています。 秋の風情と武士の勇姿が融合した、芳年ならではの魅力ある作品です。 舞い散る紅葉や、弓を放った経基の着物の動きから躍動感を表現しています。 『貞観殿月 源経基』に描かれているシーンの物語とは この作品に描かれているシーンの物語は、源経基が牡鹿の姿をした鬼を退治するというものです。 源経基は、10世紀の高級廷臣であり、詩人としても名高く、特にその弓術に優れた将軍として知られています。 貞観殿は京都御所に位置しており、932年の秋、朱雀天皇がその庭園を散歩していると、巨大な牡鹿が現れます。 最初は紅葉と遊んでいましたが、突然天皇に襲いかかろうとした瞬間、経基は冷静に鏑矢を放ち、見事巨大な牡鹿の目の間に鏑矢が命中。 経基は天皇を救うことに成功したのでした。 『貞観殿月 源経基』で描かれている鹿に込められた意味 芳年は、このエピソードを秋の紅葉の季節、月明かりの中で描いており、経基の弓術が優れていることを伝える逸話として理解されています。 しかし、この物語にはさらに深い意味が隠されているのです。 鹿は藤原氏の氏神を祭る春日大社の使いであり、その鹿が幼帝に襲いかかる姿には寓意が込められていると考えられます。 つまり、鹿の暴走は将門や藤原純友の暴挙を暗示し、経基がその反乱を鎮圧することを表現しているのです。 この作品は、月が未来のできごとを暗示しているという意味で、月の不思議な力を示しています。 月に魅了された月岡芳年が描く『月百姿 貞観殿月 源経基』 1885年~1891年の晩年に発表された月百姿は、月岡芳年の最後の大作とも呼ばれています。 今回ご紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、そんな月百姿シリーズの一作品です。 源経基をはじめとした武将が描かれていたり、絶世の美女や動物、幽霊、怪物などメインとなる題材が多彩な点が特徴のシリーズ作品です。 すべての作品に月が関連しており、エピソードの背景を月が彩っています。 芳年が好んでいた写実的な画風と、どこか現実とは異なる神秘的で幻想的な雰囲気が魅力の一つです。 背景は、月が際立つよう極力シンプルな図にしている作品がある一方で、月をメインとなる題材と同じほどのサイズで描いた作品もあり、斬新な構図が目を引きます。 芳年の人生の集大成であり、真骨頂であると評されている月百姿。 今回紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、歴史的な武将を題材としています。 作品を通して歴史を理解するとともに、絵に隠された寓意を想像しながら、芳年の集大成となる月百姿シリーズを楽しんでください。 月百姿以外の作品でも月を印象的に描いている作品があるため、ほかの作品と比較しながら鑑賞するのもよいでしょう。
2024.11.26
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葛飾 北斎が弟子のために描いた絵手本『北斎漫画』とは
日本を代表する浮世絵師・葛飾北斎は、19歳で絵師の道に進んで以来、生涯にわたって驚くべき数々の作品を手がけました。 90歳で亡くなるまで画業に情熱を注ぎ続け、自ら「画狂人」と称するほど絵を愛し、その圧倒的な技術と独創的な表現で江戸時代から今に至るまで多くの人々を魅了しています。 日本を代表する浮世絵師「葛飾北斎」と代表作 北斎の代表作のひとつである『北斎漫画』には、当時の庶民の生活風景、動植物、風景や名所、幽霊、神仏などが多彩に描かれており、あらゆるテーマを網羅しているのが特徴です。 特に、軽妙で洒脱な筆遣いや、動きのあるダイナミックな構図は、北斎ならではの魅力です。 一瞬をとらえたユーモアに満ちた描写からも、観察力と独自の感性が存分に発揮されているとわかります。 彼の作品には、視点の斬新さや繊細なディテールへのこだわりが随所に表れており、その画力は今なお世界中の人々を惹きつけてやみません。 弟子の絵手本として描かれた『北斎漫画』とは 作品名:北斎漫画 作者:葛飾北斎 制作年:1814年-1878年 技法・材質:半紙本 寸法:22.8 cm × 15.9 cm 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子のために描いた絵手本として誕生し、当時の日本で「漫画」という言葉を広めるきっかけとなった作品です。 江戸時代には「漫筆」と呼ばれる、思いつくままに描くスタイルがあり、北斎はその自由な発想をさらに進化させて「漫画」という言葉を作り出しました。 ここでの「漫画」は、現在のストーリー性のある漫画とは異なり、日常の風景や人物、動植物などを軽妙に描き分けるスタイルを指しています。 絵手本である『北斎漫画』は、庶民の生活や自然に親しむ民衆に向けて制作され、粋なユーモアや風刺、また道徳観を織り交ぜて、多くの人々に親しまれました。 軽やかな筆致と風格ある構図で生き生きと表現された絵は、江戸時代の文化や美意識を感じさせるもので、当時の教養ある庶民に愛され、後世にわたってもその影響は計り知れません。 海外の芸術家にも影響を与えた絵手本『北斎漫画』 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子や絵の初心者のために描いた絵手本ですが、その完成度は絵手本の枠を超え、多くの人々を魅了する内容になっています。 表紙に記された「伝神開手」という言葉には「絵画の神髄を初心者に伝える」という意味が込められており、画業を始めたばかりの弟子たちへ北斎の芸術のエッセンスを伝授する意図が示されています。 全15編にわたり4000を超える図が収められ、庶民の暮らしや風俗、動植物、自然現象などが精緻かつ洒落とユーモアを交えて描かれている『北斎漫画』は、その内容の奥深さと豊かさで江戸時代の教養ある庶民にも愛されました。 さらに、19世紀に日本からヨーロッパへ磁器や陶器を輸出する際、緩衝材として用いられた浮世絵や北斎漫画がフランスの画家たちの目に留まりました。 クロード・モネ、フィンセント・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった印象派の画家たちがその表現に強い影響を受け、ヨーロッパ美術における日本美術の魅力が広まる一因となったのです。 名前に江戸時代当時の北斗七星信仰が隠れている 『北斎漫画』には、江戸時代当時の北斗七星信仰の影響が秘められています。 2編から10編までの編尾の画の後ろに、「北斎改 葛飾載斗」筆、同門人「魚屋北渓 斗園楼北泉」校正と記されており、北斎の「北」と載斗の「斗」で北斗、北渓の「北」と斗園の「斗」で北斗の文字が現れ、陰陽道や妙見菩薩信仰に通じる北斗七星信仰が感じられる仕掛けとなっています。 単なる絵手本に留まらない深い象徴性が込められているのです。 北斎の名と弟子たちの名に隠されたこうした背景が、江戸時代の人々の信仰や文化を映し出し、独特な魅力を放つ作品に仕上がっています。 『北斎漫画』五編 柿本貴僧正は歌人・柿本人麻呂の伝説を描いている 『北斎漫画』五編には、有名な歌人・柿本人麻呂が「柿本貴僧正」として登場し、伝説を元にした姿が描かれています。 『北斎漫画』の後半には百人一首の歌人たちが多く登場しており、その一人として描かれている人麻呂は、三つ目で鬼の顔をした僧侶として表現されています。 人麻呂は、日本の代表的な歌人として3490もの歌を残したことで知られていますが、彼の詳細な経歴はほとんど不明です。 歴史的には、政治的な争いに巻き込まれ、その結果、すべての経歴が抹消されてしまったという説もあります。 そのため、後世にはさまざまな伝説が生まれました。 特に有名な伝説の一つに、彼が恋してはいけない高貴な女性に恋い焦がれ、最終的には鬼に変わってしまったという話があります。 北斎は、この伝説にもとづいて柿本人麻呂を描いており、十編に登場する柿本人麻呂は、立派な人の姿で描かれています。 https://daruma3.jp/ukiyoe/382 風景画で有名な葛飾北斎は『北斎漫画』にみられるユーモアも持ち合わせている 風景画で名高い葛飾北斎ですが、その作品には鋭い観察眼から生まれたユーモアも見受けられます。 北斎は、ただ単に美しい風景を描くだけでなく、日常生活や自然の中での人々の様子を精細にとらえることで、彼らの生き生きとした姿を表現しました。 『北斎漫画』では、当時の人々の日常や動植物が描かれるだけでなく、そこに思わず微笑んでしまうようなユニークなエッセンスも加えられています。 『北斎漫画』では、さまざまなシーンが展開され、北斎は人々のしぐさや表情を生き生きととらえています。 また、風景や風俗を描く中で、ちょっとした笑いや粋な風情を感じさせる点は、北斎の人間味と遊び心が表現されているといえるでしょう。 北斎は画家としての技術だけでなく、観察力やユーモアのセンスも兼ね備えた偉大な芸術家であることが、『北斎漫画』を通じて感じられます。 彼の作品は、時代を超えて今なお多くの人々に愛され続けているのです。
2024.11.26
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なぜ浮世絵は世界に広まったのか?
浮世絵が世界中で流行したきっかけとは 19世紀後半、海外では日本美術が多くの画家に影響をおよぼすジャポニスムが流行しました。 ジャポニスムとは、西洋が東洋をどのように見て、描き、理解していたかを研究する学問であるオリエンタリズムの延長にある東洋美術への憧れを表現したもので、開国して以降、日本から海外へ伝わった江戸の浮世絵がジャポニスムの中心となっていました。 西洋画壇でも浮世絵愛好家が多く登場し、作品をコレクションする者から、自身の作品に浮世絵の技術や技法を取り入れる者までおり、浮世絵はさまざまな形で西洋美術に大きな影響を与えたのです。 また、絵画や版画の世界だけにとどまらず、西洋の芸術文化全体に新しい風を吹き込んだともいわれています。 1867年のパリ万国博覧会 ジャポニスムが流行するきっかけを作ったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会であるといわれています。 パリ万博は、フランスの首都で開催された万博で、最新の科学技術や産業技術、芸術作品、製品などを展示する国際的な博覧会です。 幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍「徳川慶喜」がこれを受け、日本美術の出品が実現しました。 江戸幕府は、狩野派の掛軸や画帳、浮世絵を出品、薩摩藩は、薩摩や琉球の特産物、佐賀藩は、磁器などを出品しました。 パリ万博は42カ国が参加し、来場者1500万人と大成功を収めており、このとき多くの人々に日本美術が注目されることになります。 日本美術は、これまでの西洋にはない大胆な構図と鮮やかな色彩などの特徴をもっており、西洋の芸術家たちからすると斬新で新鮮なものに映ったのです。 西洋画では、宗教や神話をモチーフにした絵がメインでしたが、日本の浮世絵では一般大衆の日常生活や風景などを描いた風俗画がメインでした。 また、シンメトリーな構図や遠近法など、西洋画が重視していた技法を使用しない独自の構図も衝撃を与えました。 その後、パリ万博は1878年、1889年、1900年、1937年と開催され、すべての博覧会に参加した日本の美術は、海外に広く知れ渡り、ジャポニスムの流行は1910年代ごろまで続いています。 鎖国中もオランダへの輸出品の包装紙として使われていた ジャポニスムの流行を作ったのは、パリ万博への日本美術の出品が大きな理由の一つとされていますが、実はそれよりも前に、日本の浮世絵はヨーロッパに渡っていました。 江戸時代、日本はヨーロッパに茶碗をはじめとした陶器を輸出しており、陶器が割れないよう緩衝材として、浮世絵が使われていたのです。 何気なく丸められた紙を広げてみると、そこには日本の自然や人々の暮らしが鮮やかな色彩で生き生きと描かれていました。 中でも、浮世絵師の葛飾北斎が描いた『北斎漫画』は、西洋人に大きな衝撃を与えました。 パリで活動していた版画家のフェリックス・ブラックモンが、包装紙として使われていた『北斎漫画』を偶然目にし、デッサン力の高さに衝撃を受け、仲間の画家たちに広めたことで、印象派の画家に影響を与えたともいわれています。 ヨーロッパに浮世絵を広めた画商「林忠正」 林忠正 生没年:1853年-1906年 林忠正は、初めて西洋で日本美術品を商った日本人といわれています。 パリ万博での仕事をきっかけに、日本美術や工芸品を広めようと決意した忠正はパリで日本美術を取り扱う店を構え、西洋の日本美術愛好家たちからの興味や関心を引き、ジャポニスム隆盛のきっかけを作りました。 パリ万博をきっかけに日本美術への理解と興味を深める 忠正は、ちょうど3回目のパリ万博が開催されていた年に、貿易商社の起立工商会社通訳として雇われ、パリに渡ります。 当時、パリ万博の影響もあって日本美術は西洋から関心を寄せられつつありました。 忠正は、万博で日本の展示品を鑑賞した画家や評論家の前で、流暢なフランス語で作品の解説を行い、熱心な解説がさらに海外の人々が日本美術への理解と興味を深めることを手助けしたといえます。 また、忠正自身も日本美術への理解と興味を深めていきました。 パリに滞在し日本美術を扱う店を創設する パリ万博が終了した後も、忠正はパリにとどまり、日本の美術品を取り扱う店を創設しました。 起立工商会社の副社長だった若井兼三郎とともに、美術新聞のルイ・ゴンスが主筆となり刊行していた『日本美術』に携わりながら、本格的に日本美術を学んでいったのです。 忠正は、ヨーロッパに日本美術を広めるために、工芸品や絵画を日本から直接輸入しました。 当時、日本での浮世絵は卑しいものとして捉えられていましたが、忠正はその価値を誰よりも早く察知し、芸術性を認めるべきであると日本人に対しても訴えています。 1886年には、世紀末のパリを代表する『パリ・イリュストレ』というビジュアル誌の日本特集号にフランス語の記事を寄稿し、2万5000部の大ベストセラーとなりました。 日本に初めて印象派の作品を紹介した人物でもある 1900年に開催されたパリ万博では、民間人として初となる事務官長に就任し、日本の出展ブースのプロデューサーとして、日本美術作品の魅力を世界にアピールするべく尽力しました。 また、長年美術界に貢献したとして、フランス政府からは教育文化功労章1級やレジオン・ドヌール3等賞などが贈られています。 フランス印象派の画家たちとも親交を深めるようになり、印象派の作品を日本へ初めて紹介したのも忠正であるといわれています。 忠正は、印象派の巨匠とも呼ばれているマネと親しく交流した唯一の日本人ともいわれているのです。 1905年に帰国した際は、約500点ものコレクションを持ち帰り、西洋近代美術館を建設しようと計画を立てます。 しかし、その夢を果たすことなく翌年に東京にて亡くなってしまいました。 国立西洋美術館が建設されたのは、忠正が亡くなってから50年後のことでした。 ヨーロッパでジャポニスムが流行した理由は? ジャポニスムが流行したのは、日本美術が西洋美術にはない特徴をもった絵画であったからであると考えられます。 自由なテーマ 当時のヨーロッパでは、宗教画や肖像画が主流であり、風景画は少数派でした。 絵画は、厳粛なテーマが多く、表現にも一定の制約があり、新鮮さのある作品があまり生まれない時代となっていました。 しかし、浮世絵はヨーロッパの絵画の概念を覆す特徴をもっていたのです。 浮世絵は、一般大衆の日常生活を描いた娯楽に近い作品であったため、美人画から役者絵、武者絵、花鳥画、風景画、相撲絵、妖怪画、春画など、テーマは多岐にわたります。 テーマに縛られることなく自由な浮世絵は、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたのでした。 多彩なテーマで描かれた浮世絵は、西洋の芸術家たちに大きなインスピレーションを与え、19世紀の美術界において革命をもたらすきっかけとなりました。 ダイナミックな構図 浮世絵は、西洋絵画にはないダイナミックな構図も特徴の一つです。 西洋絵画では、陰影や遠近法を用いて写実的な表現に焦点を当てていましたが、浮世絵では現実にはあり得ないであろう大胆な構図や誇張表現によって、ダイナミズムやリズム感を強調しています。 たとえば、北斎の『神奈川沖浪裏』では、圧倒的な迫力をもつ波が、人々を乗せた舟の上に覆いかぶさろうとしているかのようにデフォルメされて描かれ、一方で、背後には小さく富士山が描かれています。 一枚の絵の中に、現実ではあり得ない誇張されたシーンが描かれており、違和感なく見る者の心を惹きつけるその変幻自在な構図は、西洋の人々に大きな衝撃を与えました。 明るく鮮やかな色彩 浮世絵の大きな特徴は、そのポップで鮮やかな色彩です。 西洋絵画では、濃厚で深みのある色合いが好んで使われており、鑑賞する者に迫力や重みを感じさせる作品が多く描かれていました。 一方、日本の浮世絵では、明るく軽やかな色彩が多く、ポップな雰囲気のある作品が多くあります。 西洋の人々は、今までにない色使いに新鮮さを覚え、ジャポニスムの流行を作るきっかけとなったともいえるでしょう。 浮世絵の鮮やかな色彩により生み出される明るいポップな雰囲気は、西洋の伝統的な色使いに新しい視点をもたらし、のちの芸術運動にも大きな影響を与えたと考えられます。 大胆な余白による抜け感 浮世絵は、画面をすべて覆いつくすのではなく、大胆な余白を作りバランスを取る特徴があります。 西洋絵画では、画面を埋めつくす描写が一般的であり、背景には空や雲、壁、影など自然の風景や街の景色が全面に描かれました。 一方、浮世絵では、何も描かない空間をあえて作り、鑑賞する者に広がりや静けさを感じさせます。 余白は、多くの日本美術に見られる空間を活かした美意識ともいえ、絶妙な空白の感覚が、西洋の人々の目には新鮮に映り、無駄なものを排除し洗練された作品として魅力的に見えたといえるでしょう。 一つのテーマに特化した連作 浮世絵では、連作による作品制作が多く行われていました。 たとえば、北斎の『富嶽三十六景』や『富嶽百景』、歌川広重の『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などです。 連作は、一つのテーマを別々の視点から描いたり、季節や時間をずらして描いたりすることで、変化を楽しめるのが魅力の一つです。 当時の西洋絵画では、シリーズ作品や一つのテーマに対して繰り返し制作を行う方法は、一般的ではありませんでした。 そのため、西洋の芸術家たちは、連作の浮世絵がもつ独自の魅力に心惹かれ、大きな影響を与えたと考えられます。 印象派の画家であるモネは、浮世絵の連作からインスピレーションを得て『睡蓮』シリーズを描いたといわれています。 連作は、一つひとつの作品を独立した芸術として楽しむこともできれば、比較して季節や時間の移り変わりによって変化する表情を楽しむことも可能です。 浮世絵の連作は、西洋の芸術家たちの作品の捉え方や創作時のアプローチ方法に、新たな風を吹き込んだといえるでしょう。 安価で手に入りやすい 当時の日本で浮世絵は、大衆の娯楽品として手ごろな価格で流通していました。 浮世絵は芸術品ではなく、大衆の娯楽や情報を伝えるためのメディアとしての働きをもっており、さらに大量生産を可能とする仕組みができあがっていたため、多くの人々が浮世絵を手にする機会を得ていました。 多くの西洋絵画は、1点ものであり、制作にたくさんの時間と労力がかけられていたため、絵画といえば貴重で高価なものと考えていた人は多かったと考えられます。 そのため、浮世絵の量や種類の多さが収集家の心に火をつけ、貴重な作品を探しながらコレクションしていく熱狂性を生み出したといえるでしょう。 浮世絵に影響を受けた海外の芸術家 浮世絵は、西洋の鑑賞者だけではなく有名な芸術家たちにも大きな影響を与えています。 浮世絵からインスピレーションを受けた有名画家には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホなどがいます。 エドゥアール・マネ エドゥアール・マネは、近代美術の父とも呼ばれる画家で、19世紀パリのモダニズム的な生活風景を描いた作品で有名です。 代表作『オランピア』は、浮世絵の影響を受けているといわれており、透視図法や立体感を作り出す陰影など西洋絵画の技法が取り除かれ、はっきりとした輪郭線が描かれています。 浮世絵のテーマとしては一般的で、西洋絵画ではあまり見られない『舟遊び』を描いた作品では、メイン以外を省略し、遠近法を使わず俯瞰的で大胆な浮世絵のような構図を取り入れています。 また、小説家のエミール・ゾラの肖像画では、背景に襖絵や相撲絵などを描き入れていることから、浮世絵をはじめとした日本美術に関心を寄せていたことがうかがえるでしょう。 クロード・モネ クロード・モネは、印象派の画家であり、ジャポニスムから強い影響を受けた芸術家の一人です。 浮世絵の空間描写や光の色彩表現に心酔していたモネは、主題の選び方や俯瞰的な視点、平行線を用いた幾何学的な構図、両端をカットする大胆な配置など、浮世絵がもつ独自の特徴を巧みに西洋画に取り込んでいきました。 また、1876年には妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を制作しており、着物姿の女性が後ろ向きの体勢から身体をひねり振り返る構図で描かれています。 この女性が振り返るポーズは、浮世絵師である菱川師宣の『見返り美人図』を思わせます。 モネの代表作『睡蓮』シリーズは、琳派の屏風絵に影響を受けているともいわれており、また描かれた太鼓橋は、歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている太鼓橋をモデルにしているともいわれているのです。 フィンセント・ファン・ゴッホ 『ひまわり』で有名なポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に大きな影響を受けた芸術家の一人です。 ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰りパリで店を開いたとき、ゴッホは店でいくつもの浮世絵を鑑賞しました。 浮世絵にはまったゴッホは、生涯で約500点もの浮世絵を収集したといわれています。 中でも、歌川広重の作品を大変気に入っており、広重の代表作『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油絵で模写しています。 また、ゴッホがお世話になっていた画材屋の店主を描いた『タンギー爺さん』の背景には、浮世絵師の渓斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』や、広重の『冨士三十六景 さがみ川』などの浮世絵が描かれました。 ジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらなかった 浮世絵をはじめとした日本美術が、西洋の画家たちに大きな影響を与えたとする話は、聞いたことがある人も多いでしょう。 しかし、日本美術が海外へ影響を与えたのは、絵画ジャンルだけではありませんでした。 特に、19世紀後半に大流行したジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらず、工芸や作曲など、あらゆる芸術分野に影響を与えました。 パリ万博をきっかけに上流階級層が浮世絵を評価するようになってコレクターが次々と現れ、そこからさらに浮世絵を販売する商人も登場するようになり、さまざまな分野に浮世への魅力が広がっていったのです。 ガラス工芸家のエミール・ガレ ガラス工芸家のエミール・ガレは、自然の中に咲いている花や生き物に焦点を当て、繊細な表現で作品に落とし込んでいました。 当時の西洋美術では、山や木などの自然風景を描くことはあっても、自然に生きる花や鳥などの小さな生命たちに焦点を当てる概念がほとんどありませんでした。 そのため、日本の花鳥画や工芸品の自由な花鳥の表現は、西洋の人々には新鮮に映ったことでしょう。 ガレは、当時の西洋で不吉な虫とされていたトンボをたびたび作品に登場させており、北斎の花鳥画『桔梗に蜻蛉』が大きなインスピレーションになっているといわれています。 日本の浮世絵をきっかけに、今までの西洋美術にはなかったモチーフを用いた作品制作に挑戦したともいえるでしょう。 作曲家のクロード・ドビュッシー 『月の光』をはじめとしたクラシック音楽の作曲家として有名なドビュッシーも、浮世絵や日本の美術品に影響を受けた芸術家の一人です。 ドビュッシーは、絵画作品から着想を得て作曲をしていたといわれており、当時流行していたジャポニスムにも強い関心をもっていました。 浮世絵や仏像などを収集しており、ドビュッシーの代表作『海』の楽譜の表紙には、北斎の『神奈川沖浪裏』をイメージした絵が描かれています。 『海』という曲のイメージに北斎の作品がマッチするとして採用されたと考えられます。
2024.11.26
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最後の浮世絵師「月岡芳年」が手がけた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』
武者絵から美人画まで、多彩なジャンルの浮世絵を手がけていた月岡芳年。 無残絵や血みどろ絵などが有名で、グロテスクな描写が癖になっている人も多いのではないでしょうか。 刺激の強い表現を生かして、武者絵だけではなく妖怪やお化けを題材にした作品も多く手がけています。 芳年の描く浮世絵は、一度見たら忘れられない大きなインパクトをもっています。 無残絵を得意とする月岡芳年は妖怪を題材にした絵も多く描いている 芳年は、幕末から明治中期ごろに活躍した浮世絵師で、インパクトのある無残絵を手がけていたことから、「血まみれ芳年」と呼ばれることもあります。 また、浮世絵の勢いが失われつつあった時代に活躍していた浮世絵師であるため、最期の浮世絵師とも称されています。 『新形三十六怪撰 おもゐつつら』は、日本古来の物語に登場する妖怪やお化けを描いた新形三十六怪撰シリーズの一作品です。 月岡芳年が描いた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』とは 作品名:新形三十六怪撰 おもゐつつら 作者:月岡芳年 制作年:1892年 技法・材質:錦絵・和紙 寸法:37.0×25.3cm 所蔵:北九州市立美術館 『新形三十六怪撰 おもゐつつら』とは、日本のお伽話である「舌切り雀」のワンシーンを描いた浮世絵です。 葛籠から飛び出す妖怪たちと驚いて尻もちをついているお婆さんの姿が描かれています。 妖怪やお化けを題材にした浮世絵は、新形三十六怪撰シリーズだけではありません。 日本と中国の怪奇談や英雄に関する伝説を題材にした「和漢百物語」シリーズや、月を題材にした「月百姿」シリーズなど、多くの連作において妖怪やお化けを浮世絵の中に登場させています。 その中でも、「新形三十六怪撰」は、芳年が晩年に制作した妖怪やお化け絵の集大成といわれているのです。 日本のむかしばなしを題材にして描かれた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』 題材となっている舌切り雀は、ケガをした雀を発見したお爺さんが手当てをしたところから話が始まります。 助けてもらった雀は、一緒に住んでいるお婆さんが準備していた障子を張り替えるための糊を、知らずに食べてしまいます。 怒ったお婆さんは、雀の舌を裁縫ばさみで切り落として、家から追い出してしまいました。 雀が心配なお爺さんは、山を探し回り、雀の住みかを発見します。 雀は、お爺さんに糊の件を謝罪し、手当てへの感謝の気持ちを伝えると、お礼として葛籠を渡しました。 お爺さんが家に帰って葛籠を開けてみると、なかには金銀財宝がたくさん入っていました。 これを見たお婆さんは、自分も葛籠をもらうために雀の住みかに押しかけます。 強引に奪うようにして葛籠を受け取ると、家に着くまで開けてはいけないという雀の忠告を無視して、道端で葛籠を開けてしまいます。 すると、葛籠の中からは金銀財宝ではなく、さまざまな妖怪たちが一斉に飛び出してきたのでした。 新形三十六怪撰は月岡芳年の集大成的作品群 新形三十六怪撰は、芳年が神経病とたたかい、苦悶の中で完成させた36図の連作です。 日本古来の説話や歴史物語の中に登場する幽霊や妖怪、化身、奇異を描いた作品群で、芳年自身が見た幻覚の世界を描いています。 『新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛を切る図』や『新形三十六怪撰 内裏に猪早太鵺を刺図』など、武者が化物を退治するシーンや幽霊が多いのも特徴の一つ。 『和漢百物語』から描き続けてきた妖怪絵の集大成ともいえるでしょう。 1889年に刊行され、完結したのは25年後と、芳年が亡くなった後のことでした。 後半の作品のうち数点は、芳年の版下絵をもとに、門下であった水野年方や右田年英がサポートし、完成させています。 過激な表現とダイナミックな構図で人々の心をつかんだ月岡芳年 今回紹介した『新形三十六怪撰 おもゐつつら』をはじめとした数々の作品は、大胆で迫力のある構図や過激な表現が人々の記憶に強く焼き付き、現代でも多くの人の心を惹きつけているといえるでしょう。 芳年が描く妖怪は、恐ろしいだけではなくどこか妖艶さを含んでおり、その魅力に引き寄せられた人の心に付け入り、凍りつくような恐怖と残酷さを現します。 恐ろしさだけではなく、人々を惹きつける妖しい魅力をもった芳年の作品は、直接自分の目で見てみたくなるものです。
2024.11.25
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巨大な骸骨との闘いを描いた歌川国芳の『相馬の古内裏』とは
ちゃきちゃきの江戸っ子である歌川国芳が手がけた浮世絵は数多く残されており、大胆で迫力のある作品から、可愛らしさを前面に出し風刺する作品まで、多彩な点も魅力の一つです。 中でも、巨大な骸骨が描かれた『相馬の古内裏』は、浮世絵に詳しくない人でも一度は見たことがあるのではないでしょうか。 奇想の絵師「歌川国芳」が描く『相馬の古内裏』 歌川国芳とは、江戸時代の末期に活躍した浮世絵師で、型破りな作品から「奇想の絵師」とも呼ばれています。 国芳は『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』で一躍人気浮世絵師へと昇りつめたこともあり、武者絵の国芳とも称されています。 『相馬の古内裏』は、国芳の代表作の一つで、山東京伝が書いた『善知安方忠義伝』に取材した作品です。 迫力ある巨大骸骨が目を引く、大胆で奇抜な国芳ならではの魅力が詰まっています。 巨大な骸骨が記憶に残る『相馬の古内裏』とは 作品名:相馬の古内裏 作者:歌川国芳 制作年:1845年-1846年ごろ 技法・材質: 大判錦絵・3枚続 寸法: 左37.2×24.1cm 中37.3×25.2cm 右37.1×25.5cm(千葉市美術館所蔵 ) 左37.4×25.1cm 中37.5×25.4cm 右37.5×25.9cm(東京富士美術館所蔵 ) 所蔵:千葉市美術館所蔵・東京富士美術館所蔵 相馬の古内裏は、歌川国芳の大変有名な作品で、巨大な骸骨は、江戸時代に考えられたとは思えないほど意外性があり、妖怪好きや奇抜なもの好きの心を惹きつけています。 骸骨の大きさも、現代人の特撮感覚にフィットしているのかもしれません。 立ち姿の女性の身長から考えると、骸骨の身長はおよそ10~12mほどと推測できます。 作品の左上には、以下の文章が書かれています。 「相馬の古内裏に、将門の姫君滝夜刃、妖術を以て味方を集むる。大宅太郎光国、妖怪を試さんとここに来り、遂に是を亡ぼす」 この作品の舞台となっている相馬の古内裏とは、平安時代の武将である平将門の築いた内裏の跡のことです。 新皇を名乗って東国を支配しようとした将門は、朝廷に滅ぼされてしまい、廃墟となった内裏跡には、妖怪や異類異形のものが現れるようになり、人々から恐れられていました。 勇気ある者が内裏跡に足を踏み入れますが、妖怪の姿を直接見て生きて帰る者はいませんでした。 武者の大宅太郎光国は、荒れ果てたかつての内裏に足を踏み入れると、打ちかけた大きな御簾に骸骨の細く尖った指がかかり、御簾の向こう側から巨大な骸骨が現れます。 作品では、暗闇を背に巨大な頭をゆっくりと光国に近づけ、見下ろすようなシーンが描かれています。 画面の左で巻物を広げているのは、将門の娘である滝夜刃姫で、光国と争っているのは、滝夜刃姫に仕える荒井丸です。 内裏の跡に妖怪を出現させていたのは滝夜刃姫で、父の恨みを晴らそうと復讐を計画していたのでした。 歌川国芳は骸骨を強調して『相馬の古内裏』を描いた この作品は、山東京伝の小説『善知安方忠義伝』をもとに描かれています。 しかし、小説の中でこの3人が顔を合わせるのは、『相馬の古内裏』に描かれているような場面ではなく、巨大な骸骨も登場しません。 小説の中では、滝夜刃姫が妖術を使って出現させた妖怪たちの中に、通常の大きさの骸骨は登場しています。 この小説の中には、たびたび髑髏のモチーフが登場し、読む人に強い印象を与えていたため、国芳はその髑髏のモチーフを巨大化させて印象を深めたと考えられるでしょう。 小説では、古内裏を目指して進む光国の前に空飛ぶ髑髏が現れたり、滝夜刃姫の弟が将門の子であると証明するために、父の髑髏に自分の血を注ぐインパクトの強いシーンがあったりします。 国芳が描いた巨大な骸骨は、将門の怨念を表現しているようにも感じられるでしょう。 巨大な骸骨の後ろに広がる闇や、骸骨の立体感を表す陰影は、漆黒ではなく柔らかい色合いの黒で表現されており、繊細な色使いがうかがえます。 『相馬の古内裏』の骸骨は何を参考に描かれた? 江戸時代、人間の全身骨格をじっくり眺める機会は、そうそうありません。 1774年に江戸で出版された『解体新書』には、全身の骨格や部位の詳細を表した精密な図が載せられていました。 この本の翻訳は、前野良沢と杉田玄白、図を描いたのは小田野直武です。 直武は、原書の精巧な銅版画を丁寧に模写し、木版で印刷しました。 1808年には、亜欧堂田善が輸入書をもとに銅版解剖図を手がけ、背骨や全身骨格の図を描いています。 このような環境下を知ったうえで、あらためて国芳の巨大な骸骨を鑑賞してみると、その精巧で精密な表現に圧倒されるでしょう。 1826年に出版された『重訂解体新書』の解剖図は、骨の各部分が大変精密に描かれているため、国芳はそこから想像を膨らませ、『相馬の古内裏』の巨大骸骨を描いたのではとも考えられています。 しかし、現在も国芳の骸骨描写の出自は、明らかにされていません。 目にしたものから想像を膨らませて描くことが得意な国芳は、何らかの医学書を読み、想像する中で、巨大な骸骨のイメージが頭の中に浮かび上がってきたのかもしれません。 巨大な骸骨を描きインパクトある作品に仕上げられた『相馬の古内裏』 今回紹介した『相馬の古内裏』をはじめとした国芳の浮世絵は、大胆かつ迫力のある作品が多く、圧倒されるとともに細部までじっくりと鑑賞したくなります。 また、大胆さの中にユーモラスを含めた作品も多く、人々を楽しませる才能にも溢れていました。 かっこいい姿を描いた武者絵や、ユーモア溢れる戯画や風刺画など、多彩な才能を発揮した国芳の作品を、ぜひ間近で鑑賞してみてください。
2024.11.25
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江戸時代に大ブームとなった『水滸伝』と浮世絵の深い関係
浮世絵は、江戸時代に流行った娯楽品であり、当時の世相や風俗を表現した絵画作品です。 今では世界で注目を集めており、史料価値と資産価値の高さから人気を博しています。 さまざまな題材で描かれる浮世絵ですが、今回は『水滸伝』をモチーフにした作品について深堀していきます。 当時、なぜこの作品が浮世絵の題材として選ばれたのかを探っていきましょう。 江戸時代の『水滸伝』ブーム 浮世絵の題材として取り上げられている『水滸伝』ですが、どのような作品なのでしょうか。 浮世絵は、作品が生み出された当時のブームが如実に反映されている点が特徴です。浮世絵に取り上げられるほど、当時の人々の興味関心を集めた作品について深堀してみましょう。 『水滸伝』とは 『水滸伝』は、明時代の中国で生み出された長編小説です。 ドラマで何度も取り上げられた『西遊記』や、一度は誰しもがはまった『三国志演義』、『金瓶梅』と並ぶ「四大奇書」に数えられる名作として普及しました。 北宋末期において、中国に蔓延った官僚汚職を正すまでのサクセスストーリーを描いた作品であり、日本の『南総里見八犬伝』のモチーフにもなったようです。 さまざまな理由で社会からはじき出された108人の好漢(英雄)が各地で立ち上がり、大小さまざまな戦を乗り越えて梁山泊に集結します。 その後、汚職にまみれた官僚(官吏)に立ち向かい、国を救っていくストーリー構成です。 浮世絵だけでなく、歌舞伎でもたびたび取り上げられる題材であり、巨悪に立ち向かう、義憤にかられる内容は、人々に痛快な印象を与える小説として、大人気コンテンツとして話題になりました。 なぜ江戸時代に『水滸伝』は流行したのか 『水滸伝』は江戸初期に伝来し、漢学者の間で興味が持たれており、岡島冠山が翻訳したことで『通俗忠義水滸伝』が刊行されました。 また、翻訳版の小説だけでなく、より読みやすい絵本や挿絵入りの読本に書き換えられることで広く流通するに至りました。 作品を手に取る対象が飛躍的に増えたため、読者層は加速度的に拡大します。 また、作品の舞台を中国から日本に置き換えた山東京伝の『忠臣水滸伝』や、曲亭馬琴の『傾城水滸伝』、『南総里見八犬伝』が生み出されたことによって、さらに人々の生活のなかで『水滸伝』が認知されるようになりました。 その結果、庶民の間で『水滸伝』のブームが沸き起こり、浮世絵の世界にもブームは波及することとなります。 歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵の中でも武者絵としてひとつのジャンルを切り開くまでに至りました。 さらに、狂歌や見世物も『水滸伝』を題材にした作品を生み出すことで、江戸末期には大衆文化を形づくるまでになりました。 浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 歌川国芳の代表的な浮世絵作品に『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』があります。 浮世絵師の歌川国芳は、1797年(寛政9年)に東京で生を受けました。 実家は染物屋を営んでおり、幼少期から聡明で、わずか7~8歳で好んで浮世絵の本を読むような子どもだったようです。 特に、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたと記録されています。 幼少期から浮世絵に触れ、模写することで浮世絵にまつわる技術を学んでいました。 12歳のときに描いた『鍾馗提剣図』は、長年浮世絵を描き続けた熟練者のような作品の仕上がりと評価されています。 この作品がのちに歌川豊国の目に留まり、歌川一門に弟子入りすることで浮世絵師としてのキャリアをスタートさせています。 幼少期の優れたエピソードはあるものの、実際の下積みは大変だったようです。 しかし、中国から伝わってきた『水滸伝』をモチーフにした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を手がけたことで、一躍人気浮世絵師としてに名が広まりました。 作中の登場人物を一人ひとり描いた作品ですが、当時幅広い人々が『水滸伝』に慣れ親しんでいたことが、人気の理由として考えられています。 また、浮世絵として作品を世に出したことも人気に火が付いた要因ではないでしょうか。 浮世絵は、庶民の生活や風俗を表現した作品であったため、大衆の娯楽として幅広く消費されるコンテンツでした。 表現技法は大きく肉筆画と木版画に分かれ、木版画から派生した錦絵という技法に昇華されてから飛躍的に発展していきました。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、多彩な色使いが特徴的な錦絵と呼ばれるジャンルの浮世絵です。 また、一つの作品だけではなく複数の作品がシリーズ化して制作されているため、連作とも呼ばれています。 好みの登場人物の絵を鑑賞するだけではなく、かかわりのある人物を並べてストーリーを膨らませながら鑑賞するのも楽しみ方の一つです。 『水滸伝』が江戸文化に与えた影響は大きかった 中国から渡ってきた『水滸伝』は、江戸時代において幅広い人々に愛される作品だったとわかります。 翻訳後の小説以外にも、オマージュ作品や狂歌として昇華しただけでなく、浮世絵の題材に用いられるなど、江戸文化に与えた影響は、大きかったといえるでしょう。 原作の『水滸伝』を読んでから、歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を鑑賞して、登場人物のイメージ合わせをしてみたり、先に浮世絵で登場人物のイメージを湧かせてからほかの作品を見てみたりするなど、さまざまな鑑賞方法を楽しめます。
2024.11.24
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浮世絵に描かれた大迫力の”刺青”
現代では、ファッションとして身体に彫る人が増えてきた刺青ですが、遡ると平安時代から受け継がれている文化だったとご存知でしょうか。 文化として根差してきた刺青は、江戸時代に至ると度々浮世絵の題材として取り上げられていました。 そして、今なお浮世絵作品として世に残っています。 刺青の文化的背景を知らないと価値ある作品か分からない場合も少なくありません。 これから紹介する刺青文化と浮世絵の代表作を知ることで、作品にまつわる理解を深めていきましょう。 江戸時代の刺青の役割 刺青が盛んに行われた江戸時代における、刺青の持つ役割について紐解いていきましょう。 まずは、「刺青」と「入墨」の違いについて知る必要があります。 大きな違いはないとされていますが、「刺青」はかつて「しせい」と呼ばれており、谷崎潤一郎の小説にて「いれずみ」と当て字されてから、今の呼び方が広く使われるようになりました。 江戸時代においては、罪人のしるしとして「入墨」と表記されるため、それぞれの言葉の持つ役割は、やや異なっていると言えます。 罪人の証としての「入墨」 前述の通り、「入墨」と表記する場合は、罪人の証として顔や身体の皮膚に彫り込まれたしるしを指します。 当初は、任侠といった渡世人の間で、お守りの役割がある念仏の「南無阿弥陀仏」をはじめとした経文を、身体の一部に彫り込むことから始まりました。 通常の生活とは違う世界で生き残る人にとって、心の支えになったようです。 一方で、刑罰の一種として取り込まれるようになったのは、江戸時代中期とされています。 入墨は、一度彫ると簡単には消せません。 人口増加による犯罪件数の増加を抑制するために、一般人と区別する方法として広く活用されました。 入墨刑に用いられるデザインは、地域ごとに異なっていたようです。 例えば、江戸であれば腕関節の下側に2本線が入れられていましたが、大阪では腕の関節あたりに2本線が入れられるなどの違いがあったようです。 また、おでこに丸や犬の字を彫り込む地域もありました。 悪目立ちする分、一定の抑制効果は見込めそうです。 しかし、渡世人や罪人に彫り込まれるだけのためにあったのであれば、入墨が現代に至るまで脈々と続いてきた文化になりそうにありません。 入墨が、後世に受け継がれるまでに発達した背景には、一体何があるのでしょうか。 ファッションとしての「彫り物」 江戸時代では、任侠の世界に生きる人もしくは罪を犯した人以外にも、入墨を身体に彫り込んだ人がいます。 それは、遊女やとび職人です。 浮世絵としても、遊女やとび職人が刺青を入れた作品が世に多く残っています。 長年、入墨文化が受け継がれてきたのは、浮世絵から推測できるように、遊女やとび職人をはじめとした一定層の一般庶民にも入墨が根差していたからだと考えられます。 また、現代においてはタトゥーと呼び名を変え、ファッションとしての「彫り物」が残っています。 仁王像などをモチーフにした和彫りの絵柄や、おしゃれな洋風のイメージを身体に彫り込むことでファッションとして楽しむ機会が増えました。 浮世絵に見る、刺青 代表的な浮世絵作品を通して、刺青について深堀りしていきましょう。 浮世絵は、当時の人々の暮らしや世相を垣間見るための史料としても役立ちます。 『当世四天王』落合芳幾 入墨が描かれている浮世絵作品の一つに、落合芳幾が描いた『当世四天王』があります。 落合芳幾は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した浮世絵師であり、歌川国芳の門下に属していました。 月岡芳国とは同門の兄弟弟子で、一時は人気を二分するほど力を持った画家です。 『当座四天王』は、肩から刺青が彫られた男性たちが力強く描かれており、落合芳幾の代表作として知られています。 『いたさう』月岡芳年 月岡芳年が描いた『いたさう』にも、入墨が登場します。 月岡芳年は、歌川国芳の門下に属しており、江戸時代後期から明治中期まで活躍しました。 作品には、遊女がこれから刺青を彫り込もうとしている場面を切り取って描かれています。 遊女といえば、江戸吉原のイメージが強いですが、遊女の始まりは大阪や京都といった上方とされており、関西から入墨ブームが始まったとされています。 ブームになった入墨は「起請彫り」といい、なじみの客に対する「愛の証」として、客の名前や年齢の数に等しいホクロを身体に彫り込んだものです。 現代においても、身体に恋人の名前をタトゥーとして彫り込む人も少なくありませんが、数百年も前から同じような行為はあったのでした。 とはいえ、心から慕って彫り込む例は多くなかったようです。 遊女の生活環境は劣悪だったとされており、置かれた環境から逃げ出すためには、なじみ客との結婚しか手段がありませんでした。 黙って逃げても厳しい折檻が待ち受けていたため、なじみ客に射止められ、晴れて遊郭以外の世界に旅立つことを夢見る女性が多かったことは、想像に難くありません。 そのため、意外と気軽に名前を入墨で彫り込んでいたと言い伝えられています。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』歌川国芳 歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』にも、迫力のある入墨が描かれています。 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 前述した落合芳幾や月岡芳年を門下生とし、数多くの作品を世に残してきました。 歌川国芳の代表作である『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』は、中国の歴史小説である水滸伝が元ネタとして取り扱われています。 江戸時代に入り、入墨ブームが興り、その世相と歴史小説作品を掛け合わせたこの浮世絵は、躍動感に溢れている点が特徴です。 江戸時代の入墨文化を浮世絵でみてみよう 江戸時代の入墨文化は、罪人だけでなく遊女をはじめとした一般庶民の中でも流行していたと分かりました。 世相が表現された浮世絵を見ることで、当時の生活や文化に触れられます。 浮世絵は入墨文化だけでなく、当時の風俗を知れる貴重な史料です。 江戸時代の人々の暮らしや文化を知りたい方は、浮世絵作品をぜひ鑑賞しましょう。
2024.11.24
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葛飾応為…天才浮世絵師・北斎の血を引く娘
葛飾北斎の娘である葛飾応為もまた、江戸時代後期に浮世絵師として活躍していました。 世間では、父・葛飾北斎の名は、知らない人はいないほど有名ですが、娘である葛飾応為も浮世絵師として大変才能があったと知っている人は少ないでしょう。 葛飾応為がどのような作品を描き、また父である北斎を支えてきたのかを知り、浮世絵師としての葛飾応為の魅力を感じましょう。 葛飾北斎の娘、葛飾応為 葛飾応為とは、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師で、あの有名浮世絵師・葛飾北斎の三女でもあります。 父である北斎が「おーい!」といつも読んでいたことから、画号を「応為」にしたという、ユニークな逸話も残されています。 葛飾北斎には、2人の息子と3人の娘がいました。 中でも応為は、父譲りの画才で北斎の画業を支えていたといわれています。 1度は、3代目堤等琳の門人の南沢等明のもとへ嫁ぎましたが、針仕事をまったく行わず、等明の描いた絵を稚拙に思い笑ったため、離縁されてしまったそうです。 実家に戻った応為は、父・北斎とともに画業に没頭しました。 葛飾応為の絵師としての実力は、北斎も認めるほどのもので、父の画業を手伝いながら自らも浮世絵師として活動していたそうです。 また、家庭教師として商家や武家の娘たちに絵も教えていました。 応為は、特に美人画を得意としており、女性ならではの感性や繊細な描写により、北斎とはまた異なる魅力的な美人画を描いています。 父・北斎が亡くなったあとは、門人や親戚の家を点々としながら暮らしていたといわれています。 そして、北斎の死後8年が経ったとき、絵の仕事をするために出かけると言い残し、家に帰ってくることはありませんでした。 このとき、応為は67歳でした。 応為の最後は諸説ありますが、仏門に帰依し、加賀前田家に扶持されたのちに金沢で没したといわれています。 現存している葛飾応為としての作品は少ないですが、近年の研究では、葛飾北斎の作品の中に応為が描いたとされる作品が見つかっています。 たとえば、葛飾北斎が描いた『手踊り図』も、応為の手が加えられているそうです。 発見された作品が、葛飾北斎の代わりとなり浮世絵を描けるほど、技術と才能があったことの証明となるでしょう。 葛飾応為の描いた浮世絵 葛飾応為がどのような浮世絵を描いていたのか、気になる人も多いのではないでしょうか。父である北斎も唸らせた応為の作品の特徴を知り、より浮世絵への魅力を深めていきましょう。 『吉原格子先之図』 『吉原格子先之図』は、葛飾応為の代表作の一つです。 浮世絵版画ではなく肉筆画の作品です。 絵には落款が押されていませんが、作品内に描かれた提灯に隠し落款が見つかっています。 この印により、応為によって描かれたのではないかと推測されています。 『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓を歩き回る人々の様子を描いた作品で、提灯の灯りによる陰影が特徴的です。 『吉原夜景図』とも呼ばれており、現在は東京都の太田記念美術館に所蔵されています。 『夜桜美人図』 『夜桜美人図』は、『春夜美人図』とも呼ばれる作品で、こちらも落款が押されていません。 明確にはなっていませんが、作風から葛飾応為によって描かれたとされています。 夜を照らす満点の星空の下で、若い女性が短冊と筆を持ち何かをしたためている様子を描いた作品です。 灯篭の灯りによる陰影や、等級を意識した描き分けが行われている星などの繊細な描写が魅力的です。 現存する作品は少ない 葛飾応為は、父の才能を受け継いだ素晴らしい浮世絵師であったとされています。 しかし、現存する作品は十数点と少なく、その多くが肉筆画です。 応為が手がけたとされる木版画で、現在判明している作品は、絵本の『絵入日用女重宝句』と『煎茶手引の種』に描かれている図のみです。 父である北斎を支え、自身も名作を残した葛飾応為 葛飾応為は、天才浮世絵師でもあり父でもある葛飾北斎も一目おく存在でした。 若くして絵の才能を発揮し、若干14歳にして浮世絵師としての仕事を任されるほどであったといわれています。 また、葛飾北斎になりすまして描いた作品もあるといわれるほどです。 現存する作品は多くありませんが、その一つひとつの作品を見ていくと、確かに父の影響を受けた素晴らしい絵師であったとわかるでしょう。
2024.11.24
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葛飾北斎が描いた晩年の名作とは
葛飾北斎は、江戸時代を代表する浮世絵の1人です。 彼が描いた風景画や肉筆画は、後世に語り継がれる名作として扱われ、日本に限らず世界的な評価を受けています。 しかし、葛飾北斎が手がけた作品数は、およそ3万点にものぼるといわれ、代表作の多くは晩年期に描かれているのです。 どのような生涯を送った人物なのか、晩年の葛飾北斎が描いた作品に迫ります。 真の絵師を目指した、葛飾北斎 作家名:葛飾北斎 代表作:『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『雪中虎図』『酔余美人図』 葛飾北斎は、日本の歴史に存在する芸術家の中でも、世界的知名度を誇る浮世絵師です。 本所割下水、現在の墨田区に生まれた葛飾北斎は、墨田区から台東区の範囲でおよそ90回以上も引っ越しを行ったことで知られ、90年におよぶ生涯のほとんどを墨田区で過ごしたといいます。 彼が残した浮世絵の作品数は、細かいデッサンも含むとおよそ3万点を超えるそうです。 また、葛飾北斎という画号も、複数あるうちの1つに過ぎません。 葛飾北斎の画号は、全部で30はあるといわれています。 活動期間ごとに「春朗期・宗理期・葛飾北斎期・戴斗期・為一期・画狂老人卍期」の主に6期に分かれており、それぞれで作品の傾向が異なります。 なお、葛飾北斎の代表作である『富嶽三十六景』は、晩年の少し前である為一期に作られたものです。 当時、葛飾北斎は72歳という高齢でした。 葛飾北斎は、晩年まで浮世絵を描き続けたことでも有名で、死の直前に「5年の寿命があれば本当の絵師になれたものを」との言葉を残したそうです。 葛飾北斎は、生涯をすべて浮世絵に費やした、日本を代表する芸術家といえます。 肉筆画を描いた晩年期 葛飾北斎といえば、風景画である『富嶽三十六景』が非常に有名です。 しかし、晩年期の彼は、風景画以外の肉筆画(一点ものの作品)も多く描いており、題材も大きく変化しました。 晩年の葛飾北斎は、画号を「画狂老人卍」と名乗っており、このころの代表作として『朱描鍾馗図』『雲龍図』『西瓜図』『富士越龍図』が挙げられます。 しかし、作品たちを見ると、錦絵(多種類の色彩が特徴の絵画)をほとんど描かなかったことがわかります。 題材も風景画から動植物や武者絵など、幅広いジャンルに変化しました。 対象の立体感を演出する技法は、葛飾北斎の作品たちに見られる特徴ですが『朱描鍾馗図』『雲龍図』からもその趣がうかがえます。 『西瓜図』 『西瓜図』は、葛飾北斎が80歳の1839年に制作された肉筆画です。 縦長の画面の中に、切られた西瓜に白い和紙・菜切り包丁・上には桂剥きされた西瓜の皮が描かれています。 背景の淡いグラデーションと清涼感のある西瓜の朱色が作品の魅力で「蔬果図(野菜や果物をデッサンしたもの)」の1つとされています。 しかし、専門家の間では、七夕をイメージした見立絵との見解も。 その理由は、画の構図が蔬果図らしくない点にあります。 西瓜は、水の入った桶を、西瓜の皮は5色の絹糸、包丁と和紙は、七夕で使う梶の葉のメタファーとされており、いずれも七夕に必要な飾りを指しているためではないかとの説があります。 葛飾北斎の作品について研究するものの間では、当作品は、七夕を連想させる見立絵という見解が浮上しているのです。 『富士越龍』 『富士越龍図』は、晩年の葛飾北斎が最後に仕上げたといわれる1849年の肉筆画です。 雪の積もる富士山をメインに、黒い雲の中を龍が駆けのぼる様が描かれています。 一説によると、葛飾北斎の娘である葛飾応為が制作したとの考察も。 なお『富士越龍図』は、同様の構図の作品が2つあり、紙版と絹版にわかれます。 どちらが先に制作されたものなのか明らかになってはいませんが、落款があることから、どちらも正当な葛飾北斎の作品です。 『富士越龍図』に描かれた天をのぼる龍は、さらなる高みを目指したいという葛飾北斎の気持ちを現したためではないかともいわれています。 画狂老人卍 晩年の葛飾北斎は、落款に「画狂老人卍」という画号を用いていました。 現代人が見るとチープなネーミングに映るかもしれませんが、このワードにはれっきとした意味が込められているのです。 晩年の落款「画狂老人卍」 葛飾北斎は、その生涯でおよそ30回にもおよぶ画号の変更を行った変人としても有名です。 当時、浮世絵師が己の画号を変えるのは珍しいことではありませんでした。 しかし、30回も変えるのは普通ではありません。 それでも、葛飾北斎が画号を変え続けたのは「初心を忘れないため」という説と「画号を弟子に売って生活費にあてていた」という説の2つが考察されています。 売れっ子だった葛飾北斎ですが、その割に生活は貧乏だったそうです。 そのため、どちらの説も信憑性があり、真実は明らかになっていません。 「画狂老人卍」というネーミングをつけた理由は、主に2つあるといわれています。 1つ目は「画狂老人」という画号を気に入っている点です。 葛飾北斎は「画狂老人卍」を名乗る30年前、1805年からおよそ1年間だけ「画狂老人」という画号を落款に使っていました。 大昔に使ったフレーズを再度使っていることから、気に入ったフレーズであることがうかがえます。 また「卍」のワードは、葛飾北斎が所属していた川柳の会で使われていたニックネームです。 葛飾北斎は、64歳のころから川柳を趣味にしていた時期があり、周囲から「卍さん」の呼称で親しまれました。 過去の画号にも頻繁に卍を使っていた背景からも、気に入って画号に加えた可能性は高いでしょう。 2つ目の理由は、宗教的な意味合いです。 卍の1文字は、日蓮宗における徳の象徴とされています。 葛飾北斎は、熱心な日蓮宗の教徒であったため、卍のネーミングと日蓮宗は、深く関係していることがうかがえます。 画狂・北斎の最期の言葉 晩年、葛飾北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年の寿命があれば、真の絵師になれたものを)」といい、辞世の句で「ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだ後は魂となって夏の草原をのびのび飛んでいこう)」と詠みました。 最期の言葉から、葛飾北斎は90年という生涯を浮世絵師として過ごし、技術の研鑽を最後まで怠らなかった人物だとわかります。 現在も北斎の浮世絵は世界を圧倒している 葛飾北斎は、その生涯のすべてを浮世絵に捧げた偉人です。 彼が残した作品の数々は、日本に限らず世界にも浸透し、世界中の芸術家へ多大な影響を与えました。 事実、19世紀の画家を代表するセザンヌが描いた『サント=ヴィクトワール山』は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が意識されています。 また、葛飾北斎の作品は西洋絵画だけでなく、音楽や花瓶など、ほかのジャンルにも影響を与えたともいわれています。 葛飾北斎は、芸術の分野を進歩させた世界的な浮世絵といえるでしょう。
2024.11.24
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浮世絵の題材にもなった吉原遊郭
浮世絵とは江戸時代、庶民の娯楽の一つとして広まった文化です。 浮世絵は、江戸時代を暮らすさまざまな人や生活を題材にして制作されていました。 歌舞伎とともに江戸時代の娯楽であった遊郭もまた、題材の一つでした。 遊郭とは、遊女が集められた場所。遊女は、いわゆる春を売る女性たちのことです。 そして、江戸時代に人気のあった遊郭の一つ、吉原もよく浮世絵として描かれていました。 浮世絵のモチーフとなっている遊郭の歴史を知ることで、より浮世絵の楽しみ方の幅が広がるのではないでしょうか。 吉原遊郭はどんなところだったのか 江戸の吉原遊郭と聞くと、どのようなイメージを持っているでしょうか。 浮世絵の題材としてよく描かれている場所、華やかな恋愛文化が生まれた場所、江戸時代の娯楽として栄えた場所など、さまざまなイメージを思い浮かべるでしょう。 江戸時代に徳川幕府公認の遊郭として賑わいをみせていた吉原遊郭の歴史や浮世絵との関係性を知ると、江戸時代の娯楽や文化についての魅力を深められます。 遊郭の誕生 遊郭が初めて誕生したのは、1585年とされています。 豊臣秀吉が大阪の街に遊女たちを集めて建設されたのが遊郭です。 もともと遊女が売買春にあたる行為をすることはありましたが、決められた場所はありませんでした。そのため、遊女は遊女屋と呼ばれる店を転々としていたといわれています。 その後、京都にも遊女を集めて遊郭を建てています。 遊郭を設置する政策は、徳川幕府にも受け継がれていき、のちに全国約20か所に幕府公認の遊郭が設けられました。 その後、遊郭は、徳川幕府の厳しい規制の中で運営されていきます。 遊郭の多くは、市街の外れに建設され、建物の周囲に溝を掘ることで、遊女の外出や逃亡を防いでいました。 江戸時代の遊郭と、最も栄えた吉原遊郭 吉原遊郭とは、江戸幕府からの公認を受けていた江戸の遊郭です。 当時は、日本橋近くにあり、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転されました。 移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼んでいます。 吉原遊郭には数多くの遊女がおり、遊女たちは芸や娯楽を提供することで客を楽しませていました。 江戸時代に吉原遊郭は、文化や風俗の中心地として栄え、浮世絵作品にも頻繁に登場しています。 浮世絵師たちは、吉原の遊郭での日常や、遊女たちの姿を描き、これらの作品は庶民の間で広く愛されました。 吉原は、江戸時代の遊郭の中でも特に有名で、そこでの出来事や風俗は浮世絵によって詳細に描かれてきました。 遊女にもランクがあった 遊女とは、遊郭において性的なサービスを提供する女性を指す言葉です。 遊郭で働く遊女たちは、さらに細かいランク分けがされていました。 時代によって多少異なりますが、一般的に見習いの禿から始まり、デビューすると新造、端女郎、囲、御職、格子とランクが上がっていきます。 よく耳にする「太夫」は、遊女の中でも最高ランクの言葉です。 太夫になれるのは、1000人中2~5人と大変狭き門であったことがわかります。 太夫になるためには、容姿だけではなく、多彩な芸妓を持ち、大名などの会話に対応できるほどの知性や教養も必要でした。 なお、「花魁」は職名ではないため、ランクが決まっていません。 一般的に、客引きをする必要のない最上格の遊女を花魁と呼んでいました。 遊郭で生まれた文化 文化のゆりかごと呼ばれていた吉原遊郭をはじめとした花街は、江戸時代に栄えたさまざまな文化に深く関係しています。 吉原は、浮世絵をはじめ、茶の湯や歌舞伎、相撲、声曲、書、花、香、出版、祭礼、狂歌、俳譜など江戸時代を彩っていた文化を支えていました。 舞踏や音楽、茶道、詩歌などの芸を磨き、客を楽しませるための努力を重ねた遊女たちの技芸の美しさは、芸能の発展にも大きな影響を与えていたといわれています。 また、遊女の中でもトップランクにあたる太夫や花魁は、江戸時代の町人にとってアイドルやファッションリーダー的な存在でもありました。 花魁の華やかで美しい姿を描いた浮世絵をみて、女性たちは髪形やファッションを真似ていたそうです。 遊女たちの美しさや優雅さは、当時の社会に大きな影響を与えていたといえるでしょう。 浮世絵に描かれた吉原遊郭や遊女たち 江戸時代、吉原遊郭の街並みや、遊女たちの日常、芸妓を披露している姿などは、浮世絵師たちによって、鮮やかかつ華やかに表現されました。 当時の浮世絵には、江戸時代の都市風俗や文化を生き生きと表現したものが多くあります。 吉原遊郭で働く遊女たちの美しい着物姿や舞踏などが描かれており、現代では、江戸時代の生活や風俗を伝える貴重な史料にもなっています。 喜多川歌麿『青楼十二時』 喜多川歌麿の『青楼十二時』は、吉原遊郭で働く遊女の1日を描いた浮世絵です。 喜多川歌麿は、美人画で有名な浮世絵師です。 葛飾北斎と並んで、国内だけではなく、海外からも高い評価を受けています。 喜多川歌麿が描く美人画は、繊細な表情やしぐさ、顔の特徴などをうまく引き立たせており、浮世絵で女性の内面の美しさまで表現しているとして、多くの人々を魅了しました。 『青楼十二時』では、吉原遊郭で働く遊女のリアルな姿を描いています。 遊女の華やかな姿だけではなく、仕事の時間以外で見せる表情を描いたことで、人々の興味を引きつけました。 アイドルのオフショットを覗いているような気持ちにさせてくれる作品といえるでしょう。 また、『青楼十二時』では、遊女が寝ている姿が描かれていません。 寝顔が美人画として成立しないという理由もあるかもしれませんが、当時遊郭で働いていた遊女の不規則な生活リズムをリアルに表現していたともいえるでしょう。 溪斎英泉『江戸町一丁目 和泉屋内 泉壽』 溪斎英泉の『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』は、華やかな花魁の姿を描いた浮世絵です。 たくさんのかんざしで飾られた髪や、色鮮やかな着物姿が印象的な浮世絵で、この姿に当時の女性たちは、憧れを抱いていたそうです。 溪斎英泉は、美人画を得意とする浮世絵師で、切れ長の目にはっきりとした鼻筋、突き出た下唇などが特徴の絵をよく描いていました。 女性特有の丸みをうまく表現した作品も多く、どこか退廃的な印象を与える浮世絵を多く残しています。 『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』で描かれている花魁が身につけているギンガムチェックの模様は、弁慶格子とも呼ばれており、白地にグレーと黒の格子柄が特徴です。 歌川国貞『吉原遊郭婦家之図』 歌川国貞の『吉原遊郭婦家之図』では、吉原遊郭の建物内やそこで働く遊女たちの姿、利用客とのやり取りなどの様子が描かれています。 当時の吉原遊郭内の詳細や雰囲気がよく伝わってくる作品です。 歌川国貞は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画、武者絵、風景画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけていました。 二代歌川広重『東都 新吉原一覧』 二代歌川広重の『東都 新吉原一覧』は、江戸時代の吉原遊郭全体を上空から見下ろす視点で描かれた浮世絵です。 また、この作品には富士山が描かれていますが、方角的に本来はないはずの場所に存在しており、演出のために描かれたと考えられます。 二代歌川広重は、初代歌川広重の門人で、美人画や花鳥画、武者絵、風景画などを制作していた浮世絵師です。 初代が亡くなった翌年、二代目広重を襲名しています。 葛飾応為『吉原格子先之図』 葛飾応為の『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓の一場面を切り取って描かれた浮世絵です。 夜の吉原遊郭を行き交う人々と、格子戸の中で待つ遊女たちの様子が表現されています。 提灯の灯りによる陰影が特徴的な絵で、『吉原夜景図』とも呼ばれています。 葛飾応為は、葛飾北斎の三女であり、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 父親譲りの画才で、ときには父である葛飾北斎の作品を代筆していたともいわれています。 遊郭や遊女の浮世絵は、庶民の憧れだったから 遊郭でもトップレベルの太夫や花魁は、男性にとってもアイドルのような存在で、せめて手元に絵だけでもと、浮世絵を手にしていたと考えられるでしょう。 また、江戸時代のファッションリーダーでもあった遊女たちを描いた浮世絵を参考に、多くの女性たちがファッションを楽しんでいました。 遊郭や太夫、花魁を描いた華やかな浮世絵は、庶民からの要望があつく、人気の題材であったといえるでしょう。
2024.11.24
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