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最後の浮世絵師「月岡芳年」が手がけた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』
武者絵から美人画まで、多彩なジャンルの浮世絵を手がけていた月岡芳年。 無残絵や血みどろ絵などが有名で、グロテスクな描写が癖になっている人も多いのではないでしょうか。 刺激の強い表現を生かして、武者絵だけではなく妖怪やお化けを題材にした作品も多く手がけています。 芳年の描く浮世絵は、一度見たら忘れられない大きなインパクトをもっています。 無残絵を得意とする月岡芳年は妖怪を題材にした絵も多く描いている 芳年は、幕末から明治中期ごろに活躍した浮世絵師で、インパクトのある無残絵を手がけていたことから、「血まみれ芳年」と呼ばれることもあります。 また、浮世絵の勢いが失われつつあった時代に活躍していた浮世絵師であるため、最期の浮世絵師とも称されています。 『新形三十六怪撰 おもゐつつら』は、日本古来の物語に登場する妖怪やお化けを描いた新形三十六怪撰シリーズの一作品です。 月岡芳年が描いた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』とは 作品名:新形三十六怪撰 おもゐつつら 作者:月岡芳年 制作年:1892年 技法・材質:錦絵・和紙 寸法:37.0×25.3cm 所蔵:北九州市立美術館 『新形三十六怪撰 おもゐつつら』とは、日本のお伽話である「舌切り雀」のワンシーンを描いた浮世絵です。 葛籠から飛び出す妖怪たちと驚いて尻もちをついているお婆さんの姿が描かれています。 妖怪やお化けを題材にした浮世絵は、新形三十六怪撰シリーズだけではありません。 日本と中国の怪奇談や英雄に関する伝説を題材にした「和漢百物語」シリーズや、月を題材にした「月百姿」シリーズなど、多くの連作において妖怪やお化けを浮世絵の中に登場させています。 その中でも、「新形三十六怪撰」は、芳年が晩年に制作した妖怪やお化け絵の集大成といわれているのです。 日本のむかしばなしを題材にして描かれた『新形三十六怪撰 おもゐつつら』 題材となっている舌切り雀は、ケガをした雀を発見したお爺さんが手当てをしたところから話が始まります。 助けてもらった雀は、一緒に住んでいるお婆さんが準備していた障子を張り替えるための糊を、知らずに食べてしまいます。 怒ったお婆さんは、雀の舌を裁縫ばさみで切り落として、家から追い出してしまいました。 雀が心配なお爺さんは、山を探し回り、雀の住みかを発見します。 雀は、お爺さんに糊の件を謝罪し、手当てへの感謝の気持ちを伝えると、お礼として葛籠を渡しました。 お爺さんが家に帰って葛籠を開けてみると、なかには金銀財宝がたくさん入っていました。 これを見たお婆さんは、自分も葛籠をもらうために雀の住みかに押しかけます。 強引に奪うようにして葛籠を受け取ると、家に着くまで開けてはいけないという雀の忠告を無視して、道端で葛籠を開けてしまいます。 すると、葛籠の中からは金銀財宝ではなく、さまざまな妖怪たちが一斉に飛び出してきたのでした。 新形三十六怪撰は月岡芳年の集大成的作品群 新形三十六怪撰は、芳年が神経病とたたかい、苦悶の中で完成させた36図の連作です。 日本古来の説話や歴史物語の中に登場する幽霊や妖怪、化身、奇異を描いた作品群で、芳年自身が見た幻覚の世界を描いています。 『新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛を切る図』や『新形三十六怪撰 内裏に猪早太鵺を刺図』など、武者が化物を退治するシーンや幽霊が多いのも特徴の一つ。 『和漢百物語』から描き続けてきた妖怪絵の集大成ともいえるでしょう。 1889年に刊行され、完結したのは25年後と、芳年が亡くなった後のことでした。 後半の作品のうち数点は、芳年の版下絵をもとに、門下であった水野年方や右田年英がサポートし、完成させています。 過激な表現とダイナミックな構図で人々の心をつかんだ月岡芳年 今回紹介した『新形三十六怪撰 おもゐつつら』をはじめとした数々の作品は、大胆で迫力のある構図や過激な表現が人々の記憶に強く焼き付き、現代でも多くの人の心を惹きつけているといえるでしょう。 芳年が描く妖怪は、恐ろしいだけではなくどこか妖艶さを含んでおり、その魅力に引き寄せられた人の心に付け入り、凍りつくような恐怖と残酷さを現します。 恐ろしさだけではなく、人々を惹きつける妖しい魅力をもった芳年の作品は、直接自分の目で見てみたくなるものです。
2024.11.25
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巨大な骸骨との闘いを描いた歌川国芳の『相馬の古内裏』とは
ちゃきちゃきの江戸っ子である歌川国芳が手がけた浮世絵は数多く残されており、大胆で迫力のある作品から、可愛らしさを前面に出し風刺する作品まで、多彩な点も魅力の一つです。 中でも、巨大な骸骨が描かれた『相馬の古内裏』は、浮世絵に詳しくない人でも一度は見たことがあるのではないでしょうか。 奇想の絵師「歌川国芳」が描く『相馬の古内裏』 歌川国芳とは、江戸時代の末期に活躍した浮世絵師で、型破りな作品から「奇想の絵師」とも呼ばれています。 国芳は『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』で一躍人気浮世絵師へと昇りつめたこともあり、武者絵の国芳とも称されています。 『相馬の古内裏』は、国芳の代表作の一つで、山東京伝が書いた『善知安方忠義伝』に取材した作品です。 迫力ある巨大骸骨が目を引く、大胆で奇抜な国芳ならではの魅力が詰まっています。 巨大な骸骨が記憶に残る『相馬の古内裏』とは 作品名:相馬の古内裏 作者:歌川国芳 制作年:1845年-1846年ごろ 技法・材質: 大判錦絵・3枚続 寸法: 左37.2×24.1cm 中37.3×25.2cm 右37.1×25.5cm(千葉市美術館所蔵 ) 左37.4×25.1cm 中37.5×25.4cm 右37.5×25.9cm(東京富士美術館所蔵 ) 所蔵:千葉市美術館所蔵・東京富士美術館所蔵 相馬の古内裏は、歌川国芳の大変有名な作品で、巨大な骸骨は、江戸時代に考えられたとは思えないほど意外性があり、妖怪好きや奇抜なもの好きの心を惹きつけています。 骸骨の大きさも、現代人の特撮感覚にフィットしているのかもしれません。 立ち姿の女性の身長から考えると、骸骨の身長はおよそ10~12mほどと推測できます。 作品の左上には、以下の文章が書かれています。 「相馬の古内裏に、将門の姫君滝夜刃、妖術を以て味方を集むる。大宅太郎光国、妖怪を試さんとここに来り、遂に是を亡ぼす」 この作品の舞台となっている相馬の古内裏とは、平安時代の武将である平将門の築いた内裏の跡のことです。 新皇を名乗って東国を支配しようとした将門は、朝廷に滅ぼされてしまい、廃墟となった内裏跡には、妖怪や異類異形のものが現れるようになり、人々から恐れられていました。 勇気ある者が内裏跡に足を踏み入れますが、妖怪の姿を直接見て生きて帰る者はいませんでした。 武者の大宅太郎光国は、荒れ果てたかつての内裏に足を踏み入れると、打ちかけた大きな御簾に骸骨の細く尖った指がかかり、御簾の向こう側から巨大な骸骨が現れます。 作品では、暗闇を背に巨大な頭をゆっくりと光国に近づけ、見下ろすようなシーンが描かれています。 画面の左で巻物を広げているのは、将門の娘である滝夜刃姫で、光国と争っているのは、滝夜刃姫に仕える荒井丸です。 内裏の跡に妖怪を出現させていたのは滝夜刃姫で、父の恨みを晴らそうと復讐を計画していたのでした。 歌川国芳は骸骨を強調して『相馬の古内裏』を描いた この作品は、山東京伝の小説『善知安方忠義伝』をもとに描かれています。 しかし、小説の中でこの3人が顔を合わせるのは、『相馬の古内裏』に描かれているような場面ではなく、巨大な骸骨も登場しません。 小説の中では、滝夜刃姫が妖術を使って出現させた妖怪たちの中に、通常の大きさの骸骨は登場しています。 この小説の中には、たびたび髑髏のモチーフが登場し、読む人に強い印象を与えていたため、国芳はその髑髏のモチーフを巨大化させて印象を深めたと考えられるでしょう。 小説では、古内裏を目指して進む光国の前に空飛ぶ髑髏が現れたり、滝夜刃姫の弟が将門の子であると証明するために、父の髑髏に自分の血を注ぐインパクトの強いシーンがあったりします。 国芳が描いた巨大な骸骨は、将門の怨念を表現しているようにも感じられるでしょう。 巨大な骸骨の後ろに広がる闇や、骸骨の立体感を表す陰影は、漆黒ではなく柔らかい色合いの黒で表現されており、繊細な色使いがうかがえます。 『相馬の古内裏』の骸骨は何を参考に描かれた? 江戸時代、人間の全身骨格をじっくり眺める機会は、そうそうありません。 1774年に江戸で出版された『解体新書』には、全身の骨格や部位の詳細を表した精密な図が載せられていました。 この本の翻訳は、前野良沢と杉田玄白、図を描いたのは小田野直武です。 直武は、原書の精巧な銅版画を丁寧に模写し、木版で印刷しました。 1808年には、亜欧堂田善が輸入書をもとに銅版解剖図を手がけ、背骨や全身骨格の図を描いています。 このような環境下を知ったうえで、あらためて国芳の巨大な骸骨を鑑賞してみると、その精巧で精密な表現に圧倒されるでしょう。 1826年に出版された『重訂解体新書』の解剖図は、骨の各部分が大変精密に描かれているため、国芳はそこから想像を膨らませ、『相馬の古内裏』の巨大骸骨を描いたのではとも考えられています。 しかし、現在も国芳の骸骨描写の出自は、明らかにされていません。 目にしたものから想像を膨らませて描くことが得意な国芳は、何らかの医学書を読み、想像する中で、巨大な骸骨のイメージが頭の中に浮かび上がってきたのかもしれません。 巨大な骸骨を描きインパクトある作品に仕上げられた『相馬の古内裏』 今回紹介した『相馬の古内裏』をはじめとした国芳の浮世絵は、大胆かつ迫力のある作品が多く、圧倒されるとともに細部までじっくりと鑑賞したくなります。 また、大胆さの中にユーモラスを含めた作品も多く、人々を楽しませる才能にも溢れていました。 かっこいい姿を描いた武者絵や、ユーモア溢れる戯画や風刺画など、多彩な才能を発揮した国芳の作品を、ぜひ間近で鑑賞してみてください。
2024.11.25
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江戸時代に大ブームとなった『水滸伝』と浮世絵の深い関係
浮世絵は、江戸時代に流行った娯楽品であり、当時の世相や風俗を表現した絵画作品です。 今では世界で注目を集めており、史料価値と資産価値の高さから人気を博しています。 さまざまな題材で描かれる浮世絵ですが、今回は『水滸伝』をモチーフにした作品について深堀していきます。 当時、なぜこの作品が浮世絵の題材として選ばれたのかを探っていきましょう。 江戸時代の『水滸伝』ブーム 浮世絵の題材として取り上げられている『水滸伝』ですが、どのような作品なのでしょうか。 浮世絵は、作品が生み出された当時のブームが如実に反映されている点が特徴です。浮世絵に取り上げられるほど、当時の人々の興味関心を集めた作品について深堀してみましょう。 『水滸伝』とは 『水滸伝』は、明時代の中国で生み出された長編小説です。 ドラマで何度も取り上げられた『西遊記』や、一度は誰しもがはまった『三国志演義』、『金瓶梅』と並ぶ「四大奇書」に数えられる名作として普及しました。 北宋末期において、中国に蔓延った官僚汚職を正すまでのサクセスストーリーを描いた作品であり、日本の『南総里見八犬伝』のモチーフにもなったようです。 さまざまな理由で社会からはじき出された108人の好漢(英雄)が各地で立ち上がり、大小さまざまな戦を乗り越えて梁山泊に集結します。 その後、汚職にまみれた官僚(官吏)に立ち向かい、国を救っていくストーリー構成です。 浮世絵だけでなく、歌舞伎でもたびたび取り上げられる題材であり、巨悪に立ち向かう、義憤にかられる内容は、人々に痛快な印象を与える小説として、大人気コンテンツとして話題になりました。 なぜ江戸時代に『水滸伝』は流行したのか 『水滸伝』は江戸初期に伝来し、漢学者の間で興味が持たれており、岡島冠山が翻訳したことで『通俗忠義水滸伝』が刊行されました。 また、翻訳版の小説だけでなく、より読みやすい絵本や挿絵入りの読本に書き換えられることで広く流通するに至りました。 作品を手に取る対象が飛躍的に増えたため、読者層は加速度的に拡大します。 また、作品の舞台を中国から日本に置き換えた山東京伝の『忠臣水滸伝』や、曲亭馬琴の『傾城水滸伝』、『南総里見八犬伝』が生み出されたことによって、さらに人々の生活のなかで『水滸伝』が認知されるようになりました。 その結果、庶民の間で『水滸伝』のブームが沸き起こり、浮世絵の世界にもブームは波及することとなります。 歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵の中でも武者絵としてひとつのジャンルを切り開くまでに至りました。 さらに、狂歌や見世物も『水滸伝』を題材にした作品を生み出すことで、江戸末期には大衆文化を形づくるまでになりました。 浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 歌川国芳の代表的な浮世絵作品に『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』があります。 浮世絵師の歌川国芳は、1797年(寛政9年)に東京で生を受けました。 実家は染物屋を営んでおり、幼少期から聡明で、わずか7~8歳で好んで浮世絵の本を読むような子どもだったようです。 特に、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたと記録されています。 幼少期から浮世絵に触れ、模写することで浮世絵にまつわる技術を学んでいました。 12歳のときに描いた『鍾馗提剣図』は、長年浮世絵を描き続けた熟練者のような作品の仕上がりと評価されています。 この作品がのちに歌川豊国の目に留まり、歌川一門に弟子入りすることで浮世絵師としてのキャリアをスタートさせています。 幼少期の優れたエピソードはあるものの、実際の下積みは大変だったようです。 しかし、中国から伝わってきた『水滸伝』をモチーフにした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を手がけたことで、一躍人気浮世絵師としてに名が広まりました。 作中の登場人物を一人ひとり描いた作品ですが、当時幅広い人々が『水滸伝』に慣れ親しんでいたことが、人気の理由として考えられています。 また、浮世絵として作品を世に出したことも人気に火が付いた要因ではないでしょうか。 浮世絵は、庶民の生活や風俗を表現した作品であったため、大衆の娯楽として幅広く消費されるコンテンツでした。 表現技法は大きく肉筆画と木版画に分かれ、木版画から派生した錦絵という技法に昇華されてから飛躍的に発展していきました。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、多彩な色使いが特徴的な錦絵と呼ばれるジャンルの浮世絵です。 また、一つの作品だけではなく複数の作品がシリーズ化して制作されているため、連作とも呼ばれています。 好みの登場人物の絵を鑑賞するだけではなく、かかわりのある人物を並べてストーリーを膨らませながら鑑賞するのも楽しみ方の一つです。 『水滸伝』が江戸文化に与えた影響は大きかった 中国から渡ってきた『水滸伝』は、江戸時代において幅広い人々に愛される作品だったとわかります。 翻訳後の小説以外にも、オマージュ作品や狂歌として昇華しただけでなく、浮世絵の題材に用いられるなど、江戸文化に与えた影響は、大きかったといえるでしょう。 原作の『水滸伝』を読んでから、歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を鑑賞して、登場人物のイメージ合わせをしてみたり、先に浮世絵で登場人物のイメージを湧かせてからほかの作品を見てみたりするなど、さまざまな鑑賞方法を楽しめます。
2024.11.24
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浮世絵に描かれた大迫力の”刺青”
現代では、ファッションとして身体に彫る人が増えてきた刺青ですが、遡ると平安時代から受け継がれている文化だったとご存知でしょうか。 文化として根差してきた刺青は、江戸時代に至ると度々浮世絵の題材として取り上げられていました。 そして、今なお浮世絵作品として世に残っています。 刺青の文化的背景を知らないと価値ある作品か分からない場合も少なくありません。 これから紹介する刺青文化と浮世絵の代表作を知ることで、作品にまつわる理解を深めていきましょう。 江戸時代の刺青の役割 刺青が盛んに行われた江戸時代における、刺青の持つ役割について紐解いていきましょう。 まずは、「刺青」と「入墨」の違いについて知る必要があります。 大きな違いはないとされていますが、「刺青」はかつて「しせい」と呼ばれており、谷崎潤一郎の小説にて「いれずみ」と当て字されてから、今の呼び方が広く使われるようになりました。 江戸時代においては、罪人のしるしとして「入墨」と表記されるため、それぞれの言葉の持つ役割は、やや異なっていると言えます。 罪人の証としての「入墨」 前述の通り、「入墨」と表記する場合は、罪人の証として顔や身体の皮膚に彫り込まれたしるしを指します。 当初は、任侠といった渡世人の間で、お守りの役割がある念仏の「南無阿弥陀仏」をはじめとした経文を、身体の一部に彫り込むことから始まりました。 通常の生活とは違う世界で生き残る人にとって、心の支えになったようです。 一方で、刑罰の一種として取り込まれるようになったのは、江戸時代中期とされています。 入墨は、一度彫ると簡単には消せません。 人口増加による犯罪件数の増加を抑制するために、一般人と区別する方法として広く活用されました。 入墨刑に用いられるデザインは、地域ごとに異なっていたようです。 例えば、江戸であれば腕関節の下側に2本線が入れられていましたが、大阪では腕の関節あたりに2本線が入れられるなどの違いがあったようです。 また、おでこに丸や犬の字を彫り込む地域もありました。 悪目立ちする分、一定の抑制効果は見込めそうです。 しかし、渡世人や罪人に彫り込まれるだけのためにあったのであれば、入墨が現代に至るまで脈々と続いてきた文化になりそうにありません。 入墨が、後世に受け継がれるまでに発達した背景には、一体何があるのでしょうか。 ファッションとしての「彫り物」 江戸時代では、任侠の世界に生きる人もしくは罪を犯した人以外にも、入墨を身体に彫り込んだ人がいます。 それは、遊女やとび職人です。 浮世絵としても、遊女やとび職人が刺青を入れた作品が世に多く残っています。 長年、入墨文化が受け継がれてきたのは、浮世絵から推測できるように、遊女やとび職人をはじめとした一定層の一般庶民にも入墨が根差していたからだと考えられます。 また、現代においてはタトゥーと呼び名を変え、ファッションとしての「彫り物」が残っています。 仁王像などをモチーフにした和彫りの絵柄や、おしゃれな洋風のイメージを身体に彫り込むことでファッションとして楽しむ機会が増えました。 浮世絵に見る、刺青 代表的な浮世絵作品を通して、刺青について深堀りしていきましょう。 浮世絵は、当時の人々の暮らしや世相を垣間見るための史料としても役立ちます。 『当世四天王』落合芳幾 入墨が描かれている浮世絵作品の一つに、落合芳幾が描いた『当世四天王』があります。 落合芳幾は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した浮世絵師であり、歌川国芳の門下に属していました。 月岡芳国とは同門の兄弟弟子で、一時は人気を二分するほど力を持った画家です。 『当座四天王』は、肩から刺青が彫られた男性たちが力強く描かれており、落合芳幾の代表作として知られています。 『いたさう』月岡芳年 月岡芳年が描いた『いたさう』にも、入墨が登場します。 月岡芳年は、歌川国芳の門下に属しており、江戸時代後期から明治中期まで活躍しました。 作品には、遊女がこれから刺青を彫り込もうとしている場面を切り取って描かれています。 遊女といえば、江戸吉原のイメージが強いですが、遊女の始まりは大阪や京都といった上方とされており、関西から入墨ブームが始まったとされています。 ブームになった入墨は「起請彫り」といい、なじみの客に対する「愛の証」として、客の名前や年齢の数に等しいホクロを身体に彫り込んだものです。 現代においても、身体に恋人の名前をタトゥーとして彫り込む人も少なくありませんが、数百年も前から同じような行為はあったのでした。 とはいえ、心から慕って彫り込む例は多くなかったようです。 遊女の生活環境は劣悪だったとされており、置かれた環境から逃げ出すためには、なじみ客との結婚しか手段がありませんでした。 黙って逃げても厳しい折檻が待ち受けていたため、なじみ客に射止められ、晴れて遊郭以外の世界に旅立つことを夢見る女性が多かったことは、想像に難くありません。 そのため、意外と気軽に名前を入墨で彫り込んでいたと言い伝えられています。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』歌川国芳 歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』にも、迫力のある入墨が描かれています。 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 前述した落合芳幾や月岡芳年を門下生とし、数多くの作品を世に残してきました。 歌川国芳の代表作である『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』は、中国の歴史小説である水滸伝が元ネタとして取り扱われています。 江戸時代に入り、入墨ブームが興り、その世相と歴史小説作品を掛け合わせたこの浮世絵は、躍動感に溢れている点が特徴です。 江戸時代の入墨文化を浮世絵でみてみよう 江戸時代の入墨文化は、罪人だけでなく遊女をはじめとした一般庶民の中でも流行していたと分かりました。 世相が表現された浮世絵を見ることで、当時の生活や文化に触れられます。 浮世絵は入墨文化だけでなく、当時の風俗を知れる貴重な史料です。 江戸時代の人々の暮らしや文化を知りたい方は、浮世絵作品をぜひ鑑賞しましょう。
2024.11.24
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葛飾応為…天才浮世絵師・北斎の血を引く娘
葛飾北斎の娘である葛飾応為もまた、江戸時代後期に浮世絵師として活躍していました。 世間では、父・葛飾北斎の名は、知らない人はいないほど有名ですが、娘である葛飾応為も浮世絵師として大変才能があったと知っている人は少ないでしょう。 葛飾応為がどのような作品を描き、また父である北斎を支えてきたのかを知り、浮世絵師としての葛飾応為の魅力を感じましょう。 葛飾北斎の娘、葛飾応為 葛飾応為とは、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師で、あの有名浮世絵師・葛飾北斎の三女でもあります。 父である北斎が「おーい!」といつも読んでいたことから、画号を「応為」にしたという、ユニークな逸話も残されています。 葛飾北斎には、2人の息子と3人の娘がいました。 中でも応為は、父譲りの画才で北斎の画業を支えていたといわれています。 1度は、3代目堤等琳の門人の南沢等明のもとへ嫁ぎましたが、針仕事をまったく行わず、等明の描いた絵を稚拙に思い笑ったため、離縁されてしまったそうです。 実家に戻った応為は、父・北斎とともに画業に没頭しました。 葛飾応為の絵師としての実力は、北斎も認めるほどのもので、父の画業を手伝いながら自らも浮世絵師として活動していたそうです。 また、家庭教師として商家や武家の娘たちに絵も教えていました。 応為は、特に美人画を得意としており、女性ならではの感性や繊細な描写により、北斎とはまた異なる魅力的な美人画を描いています。 父・北斎が亡くなったあとは、門人や親戚の家を点々としながら暮らしていたといわれています。 そして、北斎の死後8年が経ったとき、絵の仕事をするために出かけると言い残し、家に帰ってくることはありませんでした。 このとき、応為は67歳でした。 応為の最後は諸説ありますが、仏門に帰依し、加賀前田家に扶持されたのちに金沢で没したといわれています。 現存している葛飾応為としての作品は少ないですが、近年の研究では、葛飾北斎の作品の中に応為が描いたとされる作品が見つかっています。 たとえば、葛飾北斎が描いた『手踊り図』も、応為の手が加えられているそうです。 発見された作品が、葛飾北斎の代わりとなり浮世絵を描けるほど、技術と才能があったことの証明となるでしょう。 葛飾応為の描いた浮世絵 葛飾応為がどのような浮世絵を描いていたのか、気になる人も多いのではないでしょうか。父である北斎も唸らせた応為の作品の特徴を知り、より浮世絵への魅力を深めていきましょう。 『吉原格子先之図』 『吉原格子先之図』は、葛飾応為の代表作の一つです。 浮世絵版画ではなく肉筆画の作品です。 絵には落款が押されていませんが、作品内に描かれた提灯に隠し落款が見つかっています。 この印により、応為によって描かれたのではないかと推測されています。 『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓を歩き回る人々の様子を描いた作品で、提灯の灯りによる陰影が特徴的です。 『吉原夜景図』とも呼ばれており、現在は東京都の太田記念美術館に所蔵されています。 『夜桜美人図』 『夜桜美人図』は、『春夜美人図』とも呼ばれる作品で、こちらも落款が押されていません。 明確にはなっていませんが、作風から葛飾応為によって描かれたとされています。 夜を照らす満点の星空の下で、若い女性が短冊と筆を持ち何かをしたためている様子を描いた作品です。 灯篭の灯りによる陰影や、等級を意識した描き分けが行われている星などの繊細な描写が魅力的です。 現存する作品は少ない 葛飾応為は、父の才能を受け継いだ素晴らしい浮世絵師であったとされています。 しかし、現存する作品は十数点と少なく、その多くが肉筆画です。 応為が手がけたとされる木版画で、現在判明している作品は、絵本の『絵入日用女重宝句』と『煎茶手引の種』に描かれている図のみです。 父である北斎を支え、自身も名作を残した葛飾応為 葛飾応為は、天才浮世絵師でもあり父でもある葛飾北斎も一目おく存在でした。 若くして絵の才能を発揮し、若干14歳にして浮世絵師としての仕事を任されるほどであったといわれています。 また、葛飾北斎になりすまして描いた作品もあるといわれるほどです。 現存する作品は多くありませんが、その一つひとつの作品を見ていくと、確かに父の影響を受けた素晴らしい絵師であったとわかるでしょう。
2024.11.24
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葛飾北斎が描いた晩年の名作とは
葛飾北斎は、江戸時代を代表する浮世絵の1人です。 彼が描いた風景画や肉筆画は、後世に語り継がれる名作として扱われ、日本に限らず世界的な評価を受けています。 しかし、葛飾北斎が手がけた作品数は、およそ3万点にものぼるといわれ、代表作の多くは晩年期に描かれているのです。 どのような生涯を送った人物なのか、晩年の葛飾北斎が描いた作品に迫ります。 真の絵師を目指した、葛飾北斎 作家名:葛飾北斎 代表作:『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『雪中虎図』『酔余美人図』 葛飾北斎は、日本の歴史に存在する芸術家の中でも、世界的知名度を誇る浮世絵師です。 本所割下水、現在の墨田区に生まれた葛飾北斎は、墨田区から台東区の範囲でおよそ90回以上も引っ越しを行ったことで知られ、90年におよぶ生涯のほとんどを墨田区で過ごしたといいます。 彼が残した浮世絵の作品数は、細かいデッサンも含むとおよそ3万点を超えるそうです。 また、葛飾北斎という画号も、複数あるうちの1つに過ぎません。 葛飾北斎の画号は、全部で30はあるといわれています。 活動期間ごとに「春朗期・宗理期・葛飾北斎期・戴斗期・為一期・画狂老人卍期」の主に6期に分かれており、それぞれで作品の傾向が異なります。 なお、葛飾北斎の代表作である『富嶽三十六景』は、晩年の少し前である為一期に作られたものです。 当時、葛飾北斎は72歳という高齢でした。 葛飾北斎は、晩年まで浮世絵を描き続けたことでも有名で、死の直前に「5年の寿命があれば本当の絵師になれたものを」との言葉を残したそうです。 葛飾北斎は、生涯をすべて浮世絵に費やした、日本を代表する芸術家といえます。 肉筆画を描いた晩年期 葛飾北斎といえば、風景画である『富嶽三十六景』が非常に有名です。 しかし、晩年期の彼は、風景画以外の肉筆画(一点ものの作品)も多く描いており、題材も大きく変化しました。 晩年の葛飾北斎は、画号を「画狂老人卍」と名乗っており、このころの代表作として『朱描鍾馗図』『雲龍図』『西瓜図』『富士越龍図』が挙げられます。 しかし、作品たちを見ると、錦絵(多種類の色彩が特徴の絵画)をほとんど描かなかったことがわかります。 題材も風景画から動植物や武者絵など、幅広いジャンルに変化しました。 対象の立体感を演出する技法は、葛飾北斎の作品たちに見られる特徴ですが『朱描鍾馗図』『雲龍図』からもその趣がうかがえます。 『西瓜図』 『西瓜図』は、葛飾北斎が80歳の1839年に制作された肉筆画です。 縦長の画面の中に、切られた西瓜に白い和紙・菜切り包丁・上には桂剥きされた西瓜の皮が描かれています。 背景の淡いグラデーションと清涼感のある西瓜の朱色が作品の魅力で「蔬果図(野菜や果物をデッサンしたもの)」の1つとされています。 しかし、専門家の間では、七夕をイメージした見立絵との見解も。 その理由は、画の構図が蔬果図らしくない点にあります。 西瓜は、水の入った桶を、西瓜の皮は5色の絹糸、包丁と和紙は、七夕で使う梶の葉のメタファーとされており、いずれも七夕に必要な飾りを指しているためではないかとの説があります。 葛飾北斎の作品について研究するものの間では、当作品は、七夕を連想させる見立絵という見解が浮上しているのです。 『富士越龍』 『富士越龍図』は、晩年の葛飾北斎が最後に仕上げたといわれる1849年の肉筆画です。 雪の積もる富士山をメインに、黒い雲の中を龍が駆けのぼる様が描かれています。 一説によると、葛飾北斎の娘である葛飾応為が制作したとの考察も。 なお『富士越龍図』は、同様の構図の作品が2つあり、紙版と絹版にわかれます。 どちらが先に制作されたものなのか明らかになってはいませんが、落款があることから、どちらも正当な葛飾北斎の作品です。 『富士越龍図』に描かれた天をのぼる龍は、さらなる高みを目指したいという葛飾北斎の気持ちを現したためではないかともいわれています。 画狂老人卍 晩年の葛飾北斎は、落款に「画狂老人卍」という画号を用いていました。 現代人が見るとチープなネーミングに映るかもしれませんが、このワードにはれっきとした意味が込められているのです。 晩年の落款「画狂老人卍」 葛飾北斎は、その生涯でおよそ30回にもおよぶ画号の変更を行った変人としても有名です。 当時、浮世絵師が己の画号を変えるのは珍しいことではありませんでした。 しかし、30回も変えるのは普通ではありません。 それでも、葛飾北斎が画号を変え続けたのは「初心を忘れないため」という説と「画号を弟子に売って生活費にあてていた」という説の2つが考察されています。 売れっ子だった葛飾北斎ですが、その割に生活は貧乏だったそうです。 そのため、どちらの説も信憑性があり、真実は明らかになっていません。 「画狂老人卍」というネーミングをつけた理由は、主に2つあるといわれています。 1つ目は「画狂老人」という画号を気に入っている点です。 葛飾北斎は「画狂老人卍」を名乗る30年前、1805年からおよそ1年間だけ「画狂老人」という画号を落款に使っていました。 大昔に使ったフレーズを再度使っていることから、気に入ったフレーズであることがうかがえます。 また「卍」のワードは、葛飾北斎が所属していた川柳の会で使われていたニックネームです。 葛飾北斎は、64歳のころから川柳を趣味にしていた時期があり、周囲から「卍さん」の呼称で親しまれました。 過去の画号にも頻繁に卍を使っていた背景からも、気に入って画号に加えた可能性は高いでしょう。 2つ目の理由は、宗教的な意味合いです。 卍の1文字は、日蓮宗における徳の象徴とされています。 葛飾北斎は、熱心な日蓮宗の教徒であったため、卍のネーミングと日蓮宗は、深く関係していることがうかがえます。 画狂・北斎の最期の言葉 晩年、葛飾北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年の寿命があれば、真の絵師になれたものを)」といい、辞世の句で「ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだ後は魂となって夏の草原をのびのび飛んでいこう)」と詠みました。 最期の言葉から、葛飾北斎は90年という生涯を浮世絵師として過ごし、技術の研鑽を最後まで怠らなかった人物だとわかります。 現在も北斎の浮世絵は世界を圧倒している 葛飾北斎は、その生涯のすべてを浮世絵に捧げた偉人です。 彼が残した作品の数々は、日本に限らず世界にも浸透し、世界中の芸術家へ多大な影響を与えました。 事実、19世紀の画家を代表するセザンヌが描いた『サント=ヴィクトワール山』は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が意識されています。 また、葛飾北斎の作品は西洋絵画だけでなく、音楽や花瓶など、ほかのジャンルにも影響を与えたともいわれています。 葛飾北斎は、芸術の分野を進歩させた世界的な浮世絵といえるでしょう。
2024.11.24
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浮世絵の題材にもなった吉原遊郭
浮世絵とは江戸時代、庶民の娯楽の一つとして広まった文化です。 浮世絵は、江戸時代を暮らすさまざまな人や生活を題材にして制作されていました。 歌舞伎とともに江戸時代の娯楽であった遊郭もまた、題材の一つでした。 遊郭とは、遊女が集められた場所。遊女は、いわゆる春を売る女性たちのことです。 そして、江戸時代に人気のあった遊郭の一つ、吉原もよく浮世絵として描かれていました。 浮世絵のモチーフとなっている遊郭の歴史を知ることで、より浮世絵の楽しみ方の幅が広がるのではないでしょうか。 吉原遊郭はどんなところだったのか 江戸の吉原遊郭と聞くと、どのようなイメージを持っているでしょうか。 浮世絵の題材としてよく描かれている場所、華やかな恋愛文化が生まれた場所、江戸時代の娯楽として栄えた場所など、さまざまなイメージを思い浮かべるでしょう。 江戸時代に徳川幕府公認の遊郭として賑わいをみせていた吉原遊郭の歴史や浮世絵との関係性を知ると、江戸時代の娯楽や文化についての魅力を深められます。 遊郭の誕生 遊郭が初めて誕生したのは、1585年とされています。 豊臣秀吉が大阪の街に遊女たちを集めて建設されたのが遊郭です。 もともと遊女が売買春にあたる行為をすることはありましたが、決められた場所はありませんでした。そのため、遊女は遊女屋と呼ばれる店を転々としていたといわれています。 その後、京都にも遊女を集めて遊郭を建てています。 遊郭を設置する政策は、徳川幕府にも受け継がれていき、のちに全国約20か所に幕府公認の遊郭が設けられました。 その後、遊郭は、徳川幕府の厳しい規制の中で運営されていきます。 遊郭の多くは、市街の外れに建設され、建物の周囲に溝を掘ることで、遊女の外出や逃亡を防いでいました。 江戸時代の遊郭と、最も栄えた吉原遊郭 吉原遊郭とは、江戸幕府からの公認を受けていた江戸の遊郭です。 当時は、日本橋近くにあり、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転されました。 移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼んでいます。 吉原遊郭には数多くの遊女がおり、遊女たちは芸や娯楽を提供することで客を楽しませていました。 江戸時代に吉原遊郭は、文化や風俗の中心地として栄え、浮世絵作品にも頻繁に登場しています。 浮世絵師たちは、吉原の遊郭での日常や、遊女たちの姿を描き、これらの作品は庶民の間で広く愛されました。 吉原は、江戸時代の遊郭の中でも特に有名で、そこでの出来事や風俗は浮世絵によって詳細に描かれてきました。 遊女にもランクがあった 遊女とは、遊郭において性的なサービスを提供する女性を指す言葉です。 遊郭で働く遊女たちは、さらに細かいランク分けがされていました。 時代によって多少異なりますが、一般的に見習いの禿から始まり、デビューすると新造、端女郎、囲、御職、格子とランクが上がっていきます。 よく耳にする「太夫」は、遊女の中でも最高ランクの言葉です。 太夫になれるのは、1000人中2~5人と大変狭き門であったことがわかります。 太夫になるためには、容姿だけではなく、多彩な芸妓を持ち、大名などの会話に対応できるほどの知性や教養も必要でした。 なお、「花魁」は職名ではないため、ランクが決まっていません。 一般的に、客引きをする必要のない最上格の遊女を花魁と呼んでいました。 遊郭で生まれた文化 文化のゆりかごと呼ばれていた吉原遊郭をはじめとした花街は、江戸時代に栄えたさまざまな文化に深く関係しています。 吉原は、浮世絵をはじめ、茶の湯や歌舞伎、相撲、声曲、書、花、香、出版、祭礼、狂歌、俳譜など江戸時代を彩っていた文化を支えていました。 舞踏や音楽、茶道、詩歌などの芸を磨き、客を楽しませるための努力を重ねた遊女たちの技芸の美しさは、芸能の発展にも大きな影響を与えていたといわれています。 また、遊女の中でもトップランクにあたる太夫や花魁は、江戸時代の町人にとってアイドルやファッションリーダー的な存在でもありました。 花魁の華やかで美しい姿を描いた浮世絵をみて、女性たちは髪形やファッションを真似ていたそうです。 遊女たちの美しさや優雅さは、当時の社会に大きな影響を与えていたといえるでしょう。 浮世絵に描かれた吉原遊郭や遊女たち 江戸時代、吉原遊郭の街並みや、遊女たちの日常、芸妓を披露している姿などは、浮世絵師たちによって、鮮やかかつ華やかに表現されました。 当時の浮世絵には、江戸時代の都市風俗や文化を生き生きと表現したものが多くあります。 吉原遊郭で働く遊女たちの美しい着物姿や舞踏などが描かれており、現代では、江戸時代の生活や風俗を伝える貴重な史料にもなっています。 喜多川歌麿『青楼十二時』 喜多川歌麿の『青楼十二時』は、吉原遊郭で働く遊女の1日を描いた浮世絵です。 喜多川歌麿は、美人画で有名な浮世絵師です。 葛飾北斎と並んで、国内だけではなく、海外からも高い評価を受けています。 喜多川歌麿が描く美人画は、繊細な表情やしぐさ、顔の特徴などをうまく引き立たせており、浮世絵で女性の内面の美しさまで表現しているとして、多くの人々を魅了しました。 『青楼十二時』では、吉原遊郭で働く遊女のリアルな姿を描いています。 遊女の華やかな姿だけではなく、仕事の時間以外で見せる表情を描いたことで、人々の興味を引きつけました。 アイドルのオフショットを覗いているような気持ちにさせてくれる作品といえるでしょう。 また、『青楼十二時』では、遊女が寝ている姿が描かれていません。 寝顔が美人画として成立しないという理由もあるかもしれませんが、当時遊郭で働いていた遊女の不規則な生活リズムをリアルに表現していたともいえるでしょう。 溪斎英泉『江戸町一丁目 和泉屋内 泉壽』 溪斎英泉の『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』は、華やかな花魁の姿を描いた浮世絵です。 たくさんのかんざしで飾られた髪や、色鮮やかな着物姿が印象的な浮世絵で、この姿に当時の女性たちは、憧れを抱いていたそうです。 溪斎英泉は、美人画を得意とする浮世絵師で、切れ長の目にはっきりとした鼻筋、突き出た下唇などが特徴の絵をよく描いていました。 女性特有の丸みをうまく表現した作品も多く、どこか退廃的な印象を与える浮世絵を多く残しています。 『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』で描かれている花魁が身につけているギンガムチェックの模様は、弁慶格子とも呼ばれており、白地にグレーと黒の格子柄が特徴です。 歌川国貞『吉原遊郭婦家之図』 歌川国貞の『吉原遊郭婦家之図』では、吉原遊郭の建物内やそこで働く遊女たちの姿、利用客とのやり取りなどの様子が描かれています。 当時の吉原遊郭内の詳細や雰囲気がよく伝わってくる作品です。 歌川国貞は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画、武者絵、風景画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけていました。 二代歌川広重『東都 新吉原一覧』 二代歌川広重の『東都 新吉原一覧』は、江戸時代の吉原遊郭全体を上空から見下ろす視点で描かれた浮世絵です。 また、この作品には富士山が描かれていますが、方角的に本来はないはずの場所に存在しており、演出のために描かれたと考えられます。 二代歌川広重は、初代歌川広重の門人で、美人画や花鳥画、武者絵、風景画などを制作していた浮世絵師です。 初代が亡くなった翌年、二代目広重を襲名しています。 葛飾応為『吉原格子先之図』 葛飾応為の『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓の一場面を切り取って描かれた浮世絵です。 夜の吉原遊郭を行き交う人々と、格子戸の中で待つ遊女たちの様子が表現されています。 提灯の灯りによる陰影が特徴的な絵で、『吉原夜景図』とも呼ばれています。 葛飾応為は、葛飾北斎の三女であり、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 父親譲りの画才で、ときには父である葛飾北斎の作品を代筆していたともいわれています。 遊郭や遊女の浮世絵は、庶民の憧れだったから 遊郭でもトップレベルの太夫や花魁は、男性にとってもアイドルのような存在で、せめて手元に絵だけでもと、浮世絵を手にしていたと考えられるでしょう。 また、江戸時代のファッションリーダーでもあった遊女たちを描いた浮世絵を参考に、多くの女性たちがファッションを楽しんでいました。 遊郭や太夫、花魁を描いた華やかな浮世絵は、庶民からの要望があつく、人気の題材であったといえるでしょう。
2024.11.24
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ジャポニズムあふれるゴッホの名作『タンギー爺さん』
ゴッホは、ヨーロッパを代表する有名な画家の1人であり、日本の浮世絵作品に魅了された海外画家の1人でもあります。 ゴッホが描いた作品の背景を知ることで、日本の浮世絵作品の素晴らしさを再認識していきましょう。 ゴッホの名作『タンギー爺さん』の魅力 ゴッホは数多くの名作をこの世に残しており、その一つが『タンギー爺さん』です。 この作品には、ゴッホらしい作風が表現されているとともに、日本の浮世絵に対する敬意も表現されているのです。 ジャポニズムあふれる名作『タンギー爺さん』 ゴッホの有名作品である『タンギー爺さん』は、1887年に描かれた油彩画で、鮮やかな色彩と自信に満ちたモチーフのデザインが特徴的です。 『ペール・タンギーの肖像』とも呼ばれており、現在は、パリのロダン美術館に所蔵されています。 ゴッホが魅せられた、ジャポニズム ゴッホは、日本の浮世絵に大きな影響を受けたといわれています。 たとえば、安藤広重や葛飾北斎などの作品です。 題材はもちろん影のないフラットな色彩やパターンが、これまでのヨーロッパ美術にはなかった技法であったため、ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちは、大きな衝撃を受けました。 ゴッホは、日本画は平穏の探求を表していると述べています。 ゴッホは、パリにいた時代、浮世絵への興味がピークに達しており、弟のテオと一緒に日本の浮世絵作品を400点以上収集したといわれています。 また、集めるだけでは物足りず、コレクションを利用して浮世絵の展覧会も開催していたのです。 これらの行動からゴッホがどれほど浮世絵に傾倒していたかがわかるでしょう。 『タンギー爺さん』を観賞する ゴッホが描いた有名作品の一つ、『タンギー爺さん』。 このタンギー爺さんが誰であるか、詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。 タンギー爺さんという人物を知るとともに、作品に描かれた題材からゴッホの浮世絵に対する興味や愛がどれほどのものであったかを見ていきましょう。 タンギー爺さんとは誰なのか 『タンギー爺さん』に描かれている人物は、ジュリアン・フランソワ・タンギーと呼ばれる画商のことです。 画商であるとともに、画材を販売する絵具挽き屋でもありました。 当時、ゴッホの絵をいち早く売り出した人物として知られています。 性格は陽気で、人望の厚い人柄と芸術や芸術家に対する敬意・熱意から、タンギーのお店はパリでは最も好まれていた画材店でした。 タンギーは、周囲の人々から「ペール・タンギー」の愛称で呼ばれていたそうです。 実は同じ構図の絵画が2作ある ゴッホが描いた『タンギー爺さん』は、ほぼ同じ構図の作品が2つ存在しています。そのため、タンギーを題材にした作品は、別の肖像画を含めて合計3点です。 最初の肖像画は、1886~1887年の冬に描かれました。 この作品には、鮮やかな色彩は使われておらず、茶色をメインとして唇に赤、エプロンに緑が使われている程度でした。 一方、1887年に描かれた2点の『タンギー爺さん』では、鮮やかな色彩が用いられています。 タンギー爺さんの背後にある浮世絵作品 『タンギー爺さん』の作品の背景には、日本の浮世絵作品をモチーフにした絵が多く描かれています。 タンギーは、画商でもありますが、自分のお店で浮世絵の取り扱いはしていませんでした。そのため、『タンギー爺さん』の背景に描かれた数々の浮世絵作品は、ゴッホ自身の浮世絵に対する愛やこだわりであったと考えられます。 『タンギー爺さん』の背景に描かれている『雲龍打掛の花魁』は、渓斎英泉の有名な美人画です。 ゴッホとタンギー爺さんは画家とモデルを超えた関係だった ゴッホとタンギー爺さんは、単なる画家と画商の関係だけではなく、ゴッホの理解者でもあったと考えられます。タンギーは、貧しい芸術家の生活をサポートするために、画材代の支払いを絵画の売却ですることを認めていました。 そのため、当時まだ無名であった画家が多く出入りしており、ゴッホもその画家の1人でした。 タンギーは、ゴッホが亡くなったとき、葬儀に参列した数少ない人物です。 『タンギー爺さん』には、浮世絵への愛だけではなく、タンギー爺さんに対する愛も込められている素晴らしい作品といえるでしょう。
2024.11.22
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ゴッホの描いた花魁とは?ジャポニズムと浮世絵が与えた衝撃
江戸時代から日本の民衆に愛され続けてきた浮世絵作品。 現代でも、多くの人を魅了している芸術品ですが、実は日本だけではなく海外人気も高い作品なのです。 多くのファンやコレクターが世界中におり、浮世絵の影響を受けている有名な海外作家もいます。 その一人が「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。 彼は、浮世絵にどのような魅力を感じたのでしょうか。 ゴッホの『花魁』に見る、浮世絵の影響 ゴッホは浮世絵の魅力に衝撃を受け、作風が大きく変化したといわれています。 当初のゴッホは、祖国オランダの同時代にいた画家の影響を強く受けており、どちらかといえば地味な作風の絵を描いていました。 現代に残されている、絵具がキャンパスのうえを走り回るような躍動感ある作品が生まれるきっかけを作ったのが、浮世絵作品であるといわれています。 ゴッホとジャポニズム ゴッホとは、ポスト印象派の画家で、現代でも天才画家と称されて多くの作品が美術館に所蔵されたり、オークションにて高値で取引されたりしています。 ゴッホがインスピレーションを受けたとされるジャポニズムとは、19世紀後半ごろにヨーロッパで流行した日本趣味のことです。 当時のフランス画家たちは、日本から伝わってきた浮世絵や陶器の絵柄などに見られる、日本独自の構図や色彩構成に強い衝撃を受けたといわれています。 ゴッホも衝撃を受けた画家の一人で、浮世絵を模倣したり、肖像画の背景全体に浮世絵を配置したりした作品も多く残されています。 ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちの間では、写実性を高めるために輪郭線を明確に描かず、立体感や奥行きのある絵画技法が主流でした。 しかし、浮世絵作品では、はっきりと描かれた輪郭線や直接的な構図などが用いられており、これまでにない表現方法が、ヨーロッパの画家たちの目には新鮮に映ったのでしょう。 ゴッホの描いた『花魁』 浮世絵の鮮やかな色使いや大胆な構図に大きな影響を受けたゴッホは、浮世絵作品を模した絵画も多く残しています。 その一つが、溪斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』です。 ゴッホは、この作品を模写した油絵を制作しています。 また、花魁が描かれた作品には、カエルや鶴なども描かれており、ほかの浮世絵作品からモチーフを持ってきたと見られます。 『雲龍打掛の花魁』を模写した作品からだけでも、ゴッホの浮世絵に対する熱中ぶりが見て取れるでしょう。 ゴッホを魅了した溪斎英泉『雲龍打掛の花魁』 ゴッホを魅了した溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』がどのような作品であるか、知らない人も多いでしょう。 ゴッホの浮世絵を模した作品の鑑賞を楽しむうえで、もととなった作品や作家の詳細を知っておくと、より背景を想像でき楽しみ方の幅が広がります。 溪斎英泉とは 溪斎英泉とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、吉原の遊女といった女性を題材にした美人画や春画を多く手がけていました。 妖艶で刺激的な作品も多く、当時の民衆を虜にしていました。 また、春画や美人画に限らず、風景画でもすぐれた作品を多く残しています。 溪斎英泉が描く美人画の特徴は、間隔の離れた切れ長の目と筋の通った鼻、突き出た下唇などです。 妖艶な雰囲気を醸し出している表情の女性の絵が、人々から人気を集めていました。描かれている女性の姿勢は、屈曲していたり猫背だったりと、女性特有の丸みが表現されています。 どこか退廃的な雰囲気が漂う作品が多い傾向です。 ゴッホが影響を受けたとする『雲龍打掛の花魁』も、溪斎英泉を代表する美人画といえます。 なぜゴッホは『雲龍打掛の花魁』を知っていたのか ゴッホが『雲龍打掛の花魁』を知るきっかけになったのが、パリ・イリュストレ誌です。 1886年5月号で日本特集が組まれた際に、表紙として左右反転された溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』が、採用されたのです。 ゴッホの遺品から、当時の雑誌の表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、雑誌の表紙を模写したものと考えられています。 ゴッホの絵に見る、日本浮世絵の魅力 世界的な画家であるゴッホを魅了した浮世絵。 ゴッホはこの作品以外にも『タンギー爺さん』や『種まく人』など浮世絵の影響を受けた作品を多く残しています。 浮世絵にインスピレーションを受けたゴッホの絵を鑑賞する際は、モチーフとなった浮世絵作品と見比べてみるのもよいでしょう。
2024.11.22
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謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは何者なのか
江戸時代中期に突如として浮世絵業界に現れ、そして忽然と姿を消した「東洲斎写楽」。 その正体は、いまだ明らかにされておらず、さまざまな説が現代でも論じられています。 写楽が描いた役者絵は、世界的な知名度を誇る日本の名作です。その正体を知りたい人は、決して少なくなく、今でも多くの議論がなされています。 謎に包まれた、東洲斎写楽とは何者なのか 作家名:東洲斎写楽 代表作:『市川蝦蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽(以下:写楽)は、1794年5月から1795年1月のおよそ10か月間だけ活動していたとされる浮世絵師です。 所属の流派・出生・本名、そのすべてが不明で、活動期間もわずか10か月というあまりにも奇天烈な人物といえます。 短い期間に145点もの作品を描く鬼才の持ち主で、活動初期には、一挙に28点もの大首絵(役者の上半身を描いたもの)を仕上げたそうです。 彼の描いた役者絵は、現代でもその構図が使われるほど芸術的要素の強さが魅力です。 役者の特徴を捉えたデフォルメチックな表現方法は、後世に続く浮世絵師や海外の画家たちにも多大な影響を与えました。 東洲斎写楽とは 写楽は、江戸時代中期を代表する「4大浮世絵」とも呼ばれています。 ほかの3人が葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重であることからも、その知名度の高さがうかがえます。 なお、写楽が「東洲斎写楽」の落款(作者の署名のこと)を使っていたのは、デビューから2か月間のみです。 その後、8か月間は「写楽画」と名乗っていました。 落款の名が変わると同時に、写楽の画力は急速に衰えます。 一部界隈では「この時期から別の人物が写楽を名乗っていたのではないか」との説も浮上しています。それほどまでに、絵柄がまったく異なるのです。 東洲斎写楽が描いた、役者絵 写楽を代表する『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』を始め、彼の描いた役者絵は、江戸中に知れ渡る大ブームに発展しています。 その背景を語るうえで欠かせない存在が、江戸の大手版元(現代の出版社)である「蔦谷重三郎」です。 写楽の役者絵が一大ブームを起こしたのは、蔦谷重三郎によるプロデュースがあってこそでした。 一説では「蔦谷重三郎が写楽本人なのではないか」との説も存在します。 堅実な経営スタイルで知られる蔦谷重三郎。 かの有名な喜多川歌麿の作品を出版するときでさえ、ゆっくりと入念な準備を進めたそうです。 しかし、写楽の作品においては、類を見ないアクティブさを見せつけています。 当時、無名かつ無実績の新人である写楽の作品を、一挙に28点も掲載しました。 また、すべてに黒雲母摺と呼ばれる鉱物の粉末をちりばめた特別仕様で出版するという、稀に見る好待遇でデビューを迎えさせました。 慎重な性格の蔦谷重三郎が、デビュー前の新人になぜこのようなハイリスクな出版を行ったのかは、いまだ明らかになっていません。 しかし、彼のプロデュースにより、写楽の作品は江戸中を巻き込むほどの大成功を収めました。 東洲斎写楽が多くの人を魅了する理由 慎重さに定評のある蔦谷重三郎によって大々的にプロデュースされた写楽。 新人作家である彼が多くの人を魅了したのは、人物像が謎なだけでなく、役者絵に込められた躍動感と、絵画としての完成度にあります。 まず、28枚の役者のなかでも一際人気を集めた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』。 これらは写楽の作品でも、役者の人物像と見た目の特徴を、的確に捉えているといわれています。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」の登場人物の1人で、芸妓の身請け金を奪おうとする悪役「江戸兵衛」を演じる大谷鬼次を描いたものです。 あごを突き出してにらみつけるような鋭い眼光や開いた両手が、悪役らしさを生み出しています。 『市川鰕蔵の竹村定之進』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」にて、前半の主人公である竹村定之進を演じた市川鰕蔵を描いた作品です。 市川鰕蔵は、当時の歌舞伎役者の中でも歴代最高と呼ばれており、描かれた風貌からもその自信が現れているように感じられます。 写楽の作品は、対象の人物像を正確に捉えたところが評価される一方、あまりに役者の素を表しすぎたとして、役者から批判も発生したそうです。 良くも悪くも、写楽は忖度のないありのままを描いた浮世絵だったのです。 東洲斎写楽の謎…彼は誰だったのか? 突然の登場から、わずか10か月で姿を消した写楽ですが、その正体には複数の説があります。 蔦谷重三郎や市川鰕蔵も候補の1人として数えられ、果ては葛飾北斎が写楽の正体だという説も。 写楽の正体を探る研究は、長年続けられてきましたが、現在ではある人物が濃厚だといわれています。初期の落款に描かれた「東洲斎写楽」と、同じ作家名を名乗る江戸に住んでいたとされる人物です。 謎の多い写楽の正体 1817年に出版された『諸家人名 江戸方角分(現代のタウンページのようなもの)』によると、八丁掘という現代の東京都中央区に位置する場所に「[号]写楽斎 地蔵橋」との記述が発見されました。 これは、写楽という名の人物が住んでいた場所で、すでに故人であることを意味します。 さらには、1844年に出版された『増補 浮世絵類考』によると、東洲斎写楽が八丁掘に住んでいたことと、徳島藩お抱えの能役者であり、浮世絵師であったことが記されていました。 また、本名を「斉藤十郎兵衛」といいます。 現在では、斉藤十郎兵衛が写楽の正体ではないかと提唱されています。 同名の浮世絵師であることはもちろん、自身も役者であったからこそ見事な役者の大首絵を描けたと考えれば、異論の余地がないのも当然です。 しかし、同名の作家を名乗る偽物の可能性も捨てきれないことから、確証にはいたっていません。 実は写楽は1人ではなかった? 写楽の作品は、第1期〜第4期まであるとされ、3期目から急速に画力が衰えます。 明らかに画風が異なるため、写楽複数人説が浮上しました。 実際に、各期の作品を見ればわかりますが、浮世絵に詳しくない人でも、違いが明らかにわかるレベルです。 ただ、途中で作風を変更した可能性もあります。 写楽の作品が最ももてはやされたのは、第1期の作品。第2期も好評でしたが、1期ほどではなかったようです。 そのため「写楽本人が人気を再燃させるために画風を変えた」との説も唱えられています。 3期から落款の署名が変更されたことから、現在は、写楽複数人説が定説です。しかし、当の本人の正体も判明しておらず、真相はいまだ明らかにされていません。 浮世絵最大のミステリー、東洲斎写楽 現在定説とされている写楽の正体は、八丁堀に住んでいた能役者「斉藤十郎兵衛」が濃厚です。 また「途中から別の人物が作品を描いていた」という説も、ある程度の信憑性を獲得しています。 いずれにしても確証のある証拠はそろっていないため、仮説の域をでません。 江戸を席巻した浮世絵「写楽」の正体が明らかになる日が、いつの日かくるのかもしれません。
2024.11.22
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