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塩田千春(1972年-)現代画家[日本]
ベルリン在住の現代美術家「塩田千春」とは 塩田千春は、1972年、大阪府岸和田市生まれ、ベルリン在住の現代美術家です。 生と死や、存在とは何か、など人間の根源的な問題をテーマに、糸を紡いだ大規模インスタレーションをメインに制作しています。 そのほか、立体や写真、映像など多彩な手法を用いて作品を制作しています。 空間に糸を張り巡らせた迫力のあるインスタレーションを、直接はなくともSNSで見かけたことがある人も多いのではないでしょうか。 高校から美術系の学校へ進学した千春は、京都精華大学洋画科に進学します。 在学中に、オーストラリア国立大学キャンベラスクールオブアートへ留学。 その後、ブラウンシュバイク美術大学やベルリン芸術大学でもアートを学び、ベルリンを拠点に活動するようになりました。 2008年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞すると、2015年には第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館代表に選ばれています。 2008年に国立国際美術館、2012年に丸亀猪熊源一郎現代美術館、2013年に高知県立美術館、2018年に南オーストラリア美術館、ヨークシャー彫刻公園、2019年に森美術館と、国内外問わず数多くのギャラリーで個展を開催しており、国際的な活躍を見せています。 2001年の横浜トリエンナーレ、2010年の瀬戸内国際芸術祭、2012年のキエフ国際現代美術ビエンナーレ、2016年のシドニー・ビエンナーレにも参加しており、世界各国に活動の幅を広げているといえるでしょう。 塩田千春の思想と世界観 千春は、記憶や不安、沈黙、夢など、カタチのないものを表現したインスタレーションやパフォーマンスを行っています。 これらの作品は、個人的な体験を出発点にしているのが特徴です。 作品制作は足りない何かを埋めるための行動 ガンにより療養していた期間、千春は、自分に何かが足りていないという感覚を常に持っていました。 自身には足りないものばかりであり、その満たされない何かを埋めるために作品を制作しているのです。 そのため、千春の作品はちょっとした欠けやズレがきっかけで始まることが多いといいます。 ベルリンに3年ほど住み、久しぶりに日本へ帰ると、さまざまな違和感を覚えたそうです。 靴のサイズは、昔と変わらないはずなのに履き心地がしっくりこなかったり、昔の友人と会っても何かが違う感覚があったり、人や物、風景などすべてが3年離れている間に想像していたものとズレてしまっていました。 しかし、この想像と実際のギャップにより生まれた「なぜ」が、作品制作につながっていくのです。 千春は、想像したものをすぐにカタチにするのではなく、自分の中で温める期間があるといいます。 心で感じたことと向き合い、イメージを膨らませてからカタチにしていきます。 想像から制作までの間に、新しいアイディアが浮かんでも、スケッチはあえてしないそうです。 絵にしてしまうと、絵という作品になってしまうため、言葉だけで書きだすことが多くあります。 自由な時間がクリエイティブな発想を生む 数々の作品を生み出していく中で、千春が特に大切にしているのが自由な時間です。 ヨーロッパには、カフェ文化がありますが、何をして暮らしているのかわからないような人々が、昼間からカフェでお茶を飲んでいる姿をよく見かけていたそうです。 クリエイティブな発想を生み出すためには、何もない、何にもならない時間をただぼーっと過ごすことが大切だと考えています。 自由な空気のベルリンに惹かれる 千春は、ベルリンに住み制作活動を進めていますが、最初からベルリンに住もうと決めていたわけではありませんでした。 美大を卒業した後、すぐにギャラリーで個展を開催したり美術館で展覧会を開催したりするのは難しいため、さらにアートを学ぼうと留学を考えたそうです。 当時、ドイツに留学の受け入れ先があったこと、たまたま訪れたベルリンの街が魅力的だったことから、移住を決意しました。 ドイツを東西に分けるベルリンの壁が壊されたのは1989年、千春がドイツに留学したのは、その数年後のことでした。 さまざまな場所で改装工事が行われており、アーティストたちは次々と現場に入り、自由な空気が流れていたそうです。 世界中から集まったアーティストがアトリエを構え、多種多様な国々の芸術家が混じり合い、個性を主張しながら創造を広げている空間に魅了されたのでした。 国境のない現代美術を目指す 千春は、本来自由であるはずの現代美術の世界にも国境やナショナリズムの意識が残っていると感じているそうです。 たとえば、グローバリゼーションの展覧会として開催されていても、日本人作家、アフリカ人作家、アメリカ人作家など、数カ国の芸術を集めただけの展覧会が多く、ナショナリズムが残っていると感じたそうです。 千春が、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館で展示を行った際「日本の代表としていかがでしょうか?」と質問され、違和感があったといいます。 千春は、日本の文化を伝える作品を制作しているわけではなく、国籍や性別などに関係なくわかりあえる現代美術を目指しています。 ガンにより死と向き合い個展を開催する 2017年、千春は2度目の卵巣がんを発病し、死と向き合いました。 6時間にもおよぶ大手術の末、卵巣を摘出し、5か月にわたり抗がん剤治療を続けることで、ガンを克服しました。 病に打ち勝った千春は、2019年に「魂がふるえる」という個展を森美術館にて開催します。 展示された『Cell』シリーズは、細胞をテーマにした作品群で、生と死を命題に作品を制作しました。 心と身体が引き裂かれるような苦しい体験をした千春が、人間としての尊厳や自我を、再び自分の身体へと取り戻すために作られたのが『Cell』です。 塩田千春が制作した作品たち 千春の作品は、作品の中を歩き回れるほど大規模なものも多く、そのインパクトに圧倒される人も多くいます。 『不確かな旅』 真っ赤な糸が展示室全体に広がる大規模なインスタレーション作品で、千春といえば「糸」シリーズを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 もつれあったり、絡まりあったりしている赤い糸は、体内をめぐる血液を表現しているようでもあり、人と人とのつながりを表現しているとも捉えられます。 「舟」も千春がよく活用するモチーフの一つで、骨組みだけで作られた舟は、行く先がわからない不安や不確かさなどを象徴しているように感じられます。 『静けさのなかで』 黒い糸が張り巡らされた空間で、焼けたピアノと椅子が静かに佇んでいる様子が印象的な作品です。 空間とモチーフを覆いつくす黒い糸は、見る者に不穏な気持ちや不安を感じさせます。 『静けさのなかで』は、千春が幼いころに見た近所の火事と、焼け跡から見つかったピアノという実体験の記憶をもとに制作されています。 『内と外』 2004年ごろから制作を開始した「窓」シリーズの一つで、『内と外』には旧東ベルリンで使用されていた古い窓枠が約250枚も使われています。 すべての窓に歴史や生活感が残っていて、住んでいた人たちの記憶を覗き込んでいるかのような感覚を味わえます。 年表:塩田千春 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1972(昭和47年) 0 大阪府岸和田市に生まれる。 1993(平成5年) 21 京都精華大学在学中、オーストラリア国立大学に交換留学。大規模ドローイングや糸を使った作品を制作。 1996(平成8年) 24 ハンブルク美術大学に入学。 1997(平成9年) 25 ブラウンシュヴァイク美術大学でマリーナ・アブラモヴィッチに師事。 2000(平成12年) 28 ベルリンを拠点に国際的な展示活動を開始。 2008(平成20年) 36 平成19年度芸術選奨新人賞、咲くやこの花賞美術部門を受賞。 2015(平成27年) 43 第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本代表として「掌の鍵」を展示。 2019(令和元年) 47 森美術館で個展「魂がふるえる」を開催。過去25年間の活動を回顧。
2024.11.09
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久隅守景(生没年不詳)画家/絵師[日本]
最も国宝らしくない国宝を描いた「久隅守景」とは 久隅守景は、江戸時代の前期に活動していた狩野派の絵師です。 狩野探幽の弟子であり、最も優秀な後継者ともいわれていました。 また、国宝にも指定されている『納涼図屏風』は、最も国宝らしくない国宝として、現代でも注目を集めています。 狩野探幽の弟子で優秀な後継者だった 守景は、若いころに探幽の門下となり、神足高雲や桃田柳栄、尾形幽元らとともに四天王と称されていました。 1831年に書かれた『画乗要略』では、山水と人物を得意としており、その技術は雪舟や伯仲、探幽門下で右に出るものなしとまで評価されています。 狩野派一門の逸材として活躍していた守景は、探幽の姪である国と結婚し、師匠の一字を拝領して「守信」と名乗っていました。 狩野派絵師として活躍していた当時の初期作品には、1634年に描かれた『劉伯倫図』があります。 また、1641年には探幽の弟である狩野尚信と探幽、尚信の姉婿である狩野信政とともに制作に参加した、滋賀県にある天台宗の寺院の聖衆来迎寺客殿の障壁画では『十六羅漢図』、富山県にある曹洞宗の寺院の瑞龍寺には『四季山水図襖』を描いています。 当時の守景は、探幽の画風を忠実に習い描いており、習作期間に位置づけられているのです。 子どものトラブルをきっかけに狩野派から距離を置く 結婚後、守景は1男2女に恵まれ、長女の清原雪信と長男の彦十郎は、父の守景を継いで絵師になっています。 雪信は、父の師でもある探幽に絵を学んだ狩野派随一の女性絵師で、探幽様式を忠実に習いながらも、女性らしい繊細な筆の運びや彩色で優美な作風の絵を描いていました。 作家の井原西鶴が書いた『好色一代男』にも、雪信の名前が登場していることから、当時の人気の高さがうかがえます。 高い評価を得ていた雪信でしたが、狩野門下の絵師であり尼崎の仕官の子である平野伊兵衛守清と駆け落ちをしてしまいます。 息子の彦十郎も探幽門下の絵師として活躍していましたが、悪所通いが原因となり探幽から勘当され破門、のちに師へ告げ口した同門絵師をうち果たすと口走り投獄され、佐渡へ島流しとなってしまいました。 しかし、彦十郎は佐渡でも狩野派の画風を忠実に学んだ作品を制作し続け、注文を受けて制作を行っていたそうです。 長女・長男は波乱万丈な人生を送ったといえるでしょう。 これらの問題がきっかけとなり、守景は狩野派から距離を置くようになり、金沢で制作活動を行うようになりました。 晩年まで制作活動は続けていた 狩野派と距離を置いた守景は晩年、加賀藩前田家に招かれて金沢の城下に滞在しました。 探幽の門下生として描いた瑞龍寺の襖絵は、前田利常の命によるもので、当時は加賀藩の重臣である今枝と小幡の両家にお世話になっていたそうです。 晩年の招待も、瑞龍寺の襖絵制作がきっかけであったと考えられます。 一説によると、2度目の滞在時は五代藩主・綱紀が招き、今枝、小幡の両家と町奉行の片岡孫兵衛の家にお世話になり、6年間滞在していたといわれています。 守景の代表作である『納涼図屏風』や『鷹狩図屏風』は、2度目の金沢滞在期間に描かれたと推測されているそうです。 晩年、絵を描き続けていた守景は、加賀の地でさらに飛躍的な成長を遂げたといえるでしょう。 最晩年は、京都に移住して『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』を制作しており、年を重ねても老いを感じさせない素晴らしい作品を残しています。 久隅守景が描く絵の特徴 守景が描く作品は、初期こそ探幽に習い忠実に探幽様式を再現していましたが、狩野派と距離を置いて以降は、独自の画風を確立していきました。 守景は、味わいのある墨線が魅力の一つで、耕作図といった農民の生活を描いた風俗画を多く手がけています。 探幽以後の狩野派は、守景の画風を敵対視して形式化・形骸化していきますが、守景は個性的な画風を確立していき、高く評価されていました。 また、守景は農村の人々の暮らしをよく描いており、武士が領民の暮らしを守り自らを戒める鑑戒画として知られています。 国宝らしくない国宝『納涼図屏風』 国宝らしくない国宝と呼ばれる『納涼図屏風』は、2度目の金沢滞在時に描かれたといわれています。 おぼろげな月光のもとで、筵を敷いて夕涼みする納付の親子が描かれている作品です。 地面には、細かい砂利のようなものが描かれており、近くに小川が流れているのかと想像させてくれます。 1日の労働を終えて家族で夕涼みするその様子は、くつろぎのひとときといえますが、シンプルな構成からどこかもの悲しさも感じられるでしょう。 また、くつろいでいる3人の表情からは、何気ない日常風景の詩情豊かに表現する守景の才能が見え隠れしています。 日常風景を描いたこの作品は、華やかさがなく一見地味であるとも捉えられ、国宝らしくない国宝ともいわれているのです。 しかし、すみずみまで細かく鑑賞してみると、神経の行き届いた繊細な筆使いが見受けられます。 男性側は太くはっきりとした輪郭線が描かれているのに対して、女性側は細く繊細な輪郭線が描かれています。 『納涼図屏風』は、見れば見るほどその味わい深さに魅了される作品といえるでしょう。 年表:久隅守景 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1620年代頃(元和期) 不詳 生まれる。 1630年代(寛永期) 10代 狩野探幽に師事し、狩野派四天王と称される。 1634(寛永11年) 不詳 作品『劉伯倫図』を制作。探幽門下でその才能を評価される。 1641(寛永18年) 不詳 『四季山水図』を知恩院にて制作。探幽や他の弟子と協力。 1642(寛永19年) 不詳 聖衆来迎寺に『十六羅漢図』を制作。 1672(寛文12年) 50代頃 息子の不行跡により破門。弟子たちから距離を置くようになる。 1700年代初頭(元禄期) 不詳 死去。晩年は不明な点が多いが、後世に影響を与えた。
2024.11.09
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月山貞一(1907年-1995年)刀工[日本]
人間国宝として刀を作る「月山貞一」とは 月山貞一(がっさんさだかず) 生没年:1907年-1995年 二代・月山貞一は、大阪にて刀匠である月山貞勝の子として生まれました。 1918年ごろからは、父の貞勝から作刀を学び、16歳になると月山貞光を名乗って大阪美術協会展に初入選し、刀匠界で一目置かれるようになります。 貞一は、戦時中の日本における重要な作刀を依頼される機会が多く、1929年には昭和天皇に贈呈するための『大元帥刀』を父の貞勝とともに作刀しました。 同年、父が亡くなると日本帝国陸軍の兵器製作所である「大阪陸軍造兵廠」と呼ばれる大阪工場の軍刀鍛錬所責任者に任命されます。 戦時中において、西日本の刀匠の最高峰となるのでした。 1945年、日本が第二次世界大戦に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により日本刀の製造が禁止されてしまい、日本の伝統である作刀の技術は衰退の危機を迎えます。 1954年に制定された武器製造法令により文化財保護委員会から作刀の許可を得るまでは、刀匠として不遇の時代を過ごしました。 作刀の許可を得てからは、精力的に作品を作り、1966年に刀匠として名高い祖父「月山貞一」の名を受け継ぎ、二代・月山貞一として作刀を続けていきました。 刀匠としての才能を天から与えられた貞一は、月山家伝統の綾杉鍛えを継承するだけに留まらず、五箇伝の技法すべてを習得したのです。 1971年には、作刀における卓越した技術が認められ、人間国宝の認定を受けました。 初代「月山貞一」は帝室技芸員に任命されている 二代・月山貞一の祖父にあたる初代・月山貞一は、帝室技芸員に任命された優れた刀匠でした。 1836年、初代・月山貞一は、現在の滋賀県にあたる近江国にて、塚本家の子として生まれました。 7歳になると、大阪で活躍していた刀匠「月山貞吉」の養子となり、刀匠としての道を歩みはじめます。 11歳ごろから刀工の修業を開始した貞一は、めきめきと技術を上げていき、1851年16歳のときには、『月山貞吉造之嫡子貞一十六歳ニ而彫之、嘉永四年八月吉日』と銘のある平造りの脇差を作刀します。 鍔には滝不動と呼ばれる滝と不動明王を描く日本伝統的な構図を彫り、この脇差の完成度の高さから、貞一は作刀における才能を持ち合わせていたことがうかがえるでしょう。 1876年、廃刀令が制定されると、日本刀の需要は急激に下がってしまい、多くの刀工職人たちは、転職を余儀なくされました。 しかし、初代・月山貞一は、刀工として作刀を続け、1906年、ついに当時の刀匠としては最高の名誉であった「帝室技芸員」に任命されるのでした。 帝室技芸員となった初代・月山貞一は、宮内省御用刀匠として、愛刀家であると有名な明治天皇の軍刀や、皇族、著名人の刀剣を作刀し、刀匠界で名を広めます。 初代・月山貞一が作刀する刀たちは、どれも豪快な造込みがされており、綾杉肌と呼ばれる大きく波を打っているように見える形状の鍛肌を得意としていました。 作刀だけではなく、刀身彫刻の技術も卓越しており、濃厚で緻密な彫物を刀身に行う月山彫りと呼ばれる技法で名をはせています。 二代・月山貞一が習得した「五箇伝」とは 二代・月山貞一が習得したとされている五箇伝とは、大和伝・山城伝・備前伝・相州伝・美濃伝の5つの地域に伝わる日本刀作りを指します。 大和伝は、現在の奈良県である大和国に伝えられた鍛錬法で、寺院と密接な関係をもっていました。 山城伝は、平安京に都が移された794年ごろから繁栄しはじめた鍛錬法で、優美で気品に満ちた刀剣が特徴です。 貴族の依頼によって作られていたため、実践の技術は問われず、姿や形の美しさに重点が置かれました。 備前伝は、987年の古備前鍛冶からはじまり、時代の波に乗るようにして名匠が誕生し、受け継がれていきました。 戦国時代には、数打ち物と呼ばれる大量生産をこなし、さらに反映していったのです。 相州伝は、現在の神奈川県である相模国に鎌倉幕府が誕生したことをきっかけに生まれた鍛錬法で、強く鍛えた鋼を高温で熱したあと、急速に冷却する難しい技術が取り入れられています。 美濃伝は、現在の岐阜県である美濃国に伝えられた鍛錬法で、五箇伝では最も新しい流派です。 大量生産する数打ちと高品質な注文打ちを両立させ、名をはせていきました。 年表:月山貞一 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1907(明治40年) 0 大阪府に生まれる。父は刀工の月山貞勝で、本名は月山昇。 1929(昭和4年) 22 昭和天皇に贈呈するための大元帥刀を父と共に作刀。 1940年代(昭和期) 30代 戦時中、大阪陸軍造兵廠の軍刀鍛錬所責任者を務める。 1954(昭和29年) 47 武器等製造法の施行により文化財保護委員会の許可を得て作刀を再開。 1966(昭和41年) 59 祖父の名を継いで月山貞一を名乗る。 1967(昭和42年) 60 新作名刀展で正宗賞、文化財保護委員長賞を受賞。 1971(昭和46年) 64 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 1979(昭和54年) 72 勲四等旭日小綬章を受章。 1995(平成7年) 87 奈良県桜井市で死去。
2024.11.09
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安井曾太郎(1888年-1955年)洋画家[日本]
清爽堅実で写実的な洋画家「安井曾太郎」とは 安井曾太郎 生没年:1888年-1955年 安井曾太郎は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家で、梅原龍三郎と並んで称された人物です。 自分自身が絵を描くだけではなく、新文展の審査員や東京美術学校の教授、帝室技芸員、蕨画塾の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注ぎました。 また、1952年には文化勲章を受章しており、1955年、肺炎で療養している折に、心臓麻痺を引き起こし亡くなりました。 幼いころから画家への道を志す 曾太郎は、京都市中京区にて安井元七、よねのあいだに5男として生まれました。 父の元七は、木綿問屋「安井商店」の2代目と資産家であり、貧しくないむしろ裕福な家庭ではありましたが、中京商家の昔からの習わしもあり、曾太郎は質素な生活を送ったといわれています。 また、生家の隣にある扇屋「藤田団扇堂」には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係性もあり、藤田の家にも気兼ねなく出入りしていたそうです。 無口で実直な性格だった曽太郎からすると、生家にはいつも客が出入りしており、応対する番頭や小僧も多かったため、にぎやかで落ち着く場所がないと感じていました。 しかし、藤田の家は扇屋という商売柄もあって静かであったため、曾太郎はよく出入りをしていたといえます。 また、藤田家の祖母の熟練した筆使いにより描かれる京扇の模様が大変美しく、曾太郎の心を惹きつけていたことも、長居をしてしまう大きな理由の一つといえるでしょう。 曾太郎は、祖母に習いさまざまな模様を描かせてもらい、絵を描くことへの好奇心を高めていきました。 このころのできごとが、のちの画家への礎となり、絵描き思考が形成されていったと考えられます。 その後、4年制の尋常小学校を卒業すると、親の希望もあって商家の子らしい堀川通りにある京都市立商業学校に入学。 しかし、画家として暮らしていく道をあきらめきれずに本科1年を終了したころに学校を中途退学します。 退学前、父に画家を志していることを打ち明けたところ、もちろん反対にあいましたが、長兄の彦三郎が曽太郎の気持ちをくみ父を説得し、画家を目指すことを許されました。 子どものころの曾太郎がなぜ洋画に強く惹かれたのかはっきりとした理由は記録に残っていませんが、中学校の図画教師であった平清水亮太郎の影響や、珠算が苦手であったこと、商人に向かない性格などが関係していると考えられます。 商業学校を中退した曾太郎は、京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でもある亮太郎の家に1年間ほど通い、デッサンや水彩画を学びました。 ライバルとの出会いとパリ留学 1903年ごろから画業に専念するようになりましたが、これまで本格的に絵を学んだことがなかった曽太郎は、焦る気持ちを抑えながら、絵の技術を磨く日々を過ごしました。 そのような中、曾太郎が西大谷にある蓮池で写生をしていたとき、一人の若い画家と出会います。 その画家が描いていた絵は斬新かつ軽妙で大変うまく、内気な性格の曾太郎は声をかけるのをためらいましたが、この機会を逃してはいけないと思い切って声をかけました。 声をかけた画家が、洋画家で教育者の浅井忠に師事している中林僊という洋画家でした。 曾太郎は、僊の紹介により浅井忠が開いている聖護院洋画研究所に入門し、さらに本格的に絵を学んでいきます。 この出会いと入門がきっかけとなり、のちによき友人でありライバルとなる、日本画壇を支えていく梅原龍三郎との出会いにもつながっていくのです。 また、忠と鹿子木孟郎などの適切な指導のおかげもあり、曾太郎は絵描きに没頭していきます。 入門してから3年後の19歳のとき、同じく聖護院洋画研究所にて学んでいた津田青楓とともにフランス・パリへ留学します。 パリに到着した2人は、鹿子木の紹介によりアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ、写実を学んでいきました。 曾太郎はアカデミーで早々に頭角を現していき、ローランスの教室で毎月開催されていた油絵を木炭画のコンクールでは、ほとんどの賞を曾太郎が独占します。 曾太郎は、自宅宛ての手紙にて人には内緒だと伝えながら次のように記しました。 「ジュリアンで賞を取るのは思っているより名誉なことではない。美術学校内も同様で見なヘタな絵ばかりだ。」と批評しています。 そのころの曾太郎が描いた木炭デッサンを見てみると、筆調が冴えているかつ精妙で、自身でも成長を感じられ、初めて見るフランスンの景色や初めて学ぶ知識などが目の前に無限に広がっていた興奮が見て取れます。 第一次世界大戦の開始と体調不良により帰国 アカデミー・ジュリアンで3年間学んだあと、曾太郎はアカデミーをやめて自分のアトリエをもち、自由な研究や制作を進めていくようになりました。 パリ滞在中は、ミレーやピサロ、セザンヌ、エル・グレコ、ギリシャ彫刻などに関心をもち、影響を受けるようになっていきます。 中でも、セザンヌの作風に興味を抱き、それまで暖かく情緒的な色調であった曾太郎の作品は、セザンヌ作品によく見られる青黒く理知的な作風に変化していきました。 そして、留学を始めてから7年後の1914年、第一次世界大戦が勃発したのとあわせて患っていた胸部疾患が悪化したため、長谷川昇や天文学者の福見尚文に身体を支えられながら、45点の作品とともに帰国の途につきました。 帰国後、1915年の新年を親兄弟とともに京都の生家で迎えることになります。 病は、帰国途中の船上にて回復傾向に向かっていましたが、まだ全快とはいえず、療養が必要な状態でした。 しばらくは、紀州の湯崎温泉に滞在したり、関西美術院で指導にあたったりして過ごしました。 その後、留学中に親友となった青楓が二科会の創立に携わり、誘いを受けた曾太郎も会員となり、10月に開催された第2回二科会展ではパリ留学中に描いた44点の作品を特別出品し、一躍日本画壇に名を知らしめました。 しかし、フランスと日本の風土の違いに苦しめられ、その後10年ほどが自分の作風を模索し続け、低迷期に入っていくのでした。 そして、1930年に発表した『婦人像』を皮切りに、曽太郎は独自の日本的な油彩画を確立させていき、龍三郎とともに第二次世界大戦後の昭和期を代表する洋画家として高く評価されるようになっていきます。 1944年には、東京美術学校の教授となり、1952年に文化勲章を受賞するなど、功績が日本画壇に認められ、画家としての成功をおさめるのでした。 安井曾太郎が描く作品の特徴 曾太郎が描く絵からは、シンプルな線と鮮やかな色彩が織りなす、いきいきとしたモチーフたちがうかがえます。 またモチーフにするものからは、日本的な落ち着いた趣を感じられるのも特徴の一つです。 ありのままを描き出すリアリズム感 曾太郎は、意図的に省略や強調、変形を用いて構成を行い、写真のような絵ではなく、対象のそのままの特徴を、あるがままに描き出すのが特徴です。 この曾太郎のリアリズム感は、多くの作品から見て取れます。 静物画の中でも『九谷鉢と桃』は傑作といわれており、この作品を制作した当時の曾太郎は、セザンヌをはじめとしたヨーロッパで学んだ西洋技術を自分の中に落とし込み、日本人の油彩画、さらに深堀りすると曾太郎自身の画風を成立させたといえるでしょう。 人物画に定評がある 日本を代表する洋画家の曾太郎は、人物画にも定評があり、いきいきとした様子が描かれた人物を好む人も多くいます。 曾太郎はデッサンが得意であったこともあり、鑑賞した人が感心してしまうほど巧みに描かれています。 中でも『座像』は、物静かな雰囲気を醸し出す婦人が描かれており、静かな雰囲気の中に意志の強さを感じさせる強いまなざしが特徴です。 年表:安井曾太郎 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888(明治21年) 0 京都市中京区で生まれる。商家の五男として育つ。 1903(明治36年) 15 京都市立商業学校を中退し、聖護院洋画研究所で浅井忠に師事して絵を学び始める。 1907(明治40年) 19 渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。特にセザンヌの影響を受け、ヨーロッパ各国を旅行する。 1914(大正3年) 26 第一次世界大戦の勃発により日本に帰国。翌年、二科会会員に推挙される。 1930(昭和5年) 42 代表作『外房風景』を発表し、独自の画風を確立する。 1944(昭和19年) 56 帝国芸術院会員に任命される。 1955(昭和30年) 67 東京で死去。晩年まで日本洋画界を牽引し、後世に大きな影響を残す。
2024.11.09
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ルネ・マグリット(1898年-1967年)画家[ベルギー]
シュルレアリスムの画家「ルネ・マグリット」とは ルネ・マグリット 生没年:1898年-1967年 ルネ・マグリットは、ベルギー出身のシュルレアリスムの画家で、イメージの魔術師とも呼ばれています。 岩が空中に浮かんでいる様子や、青空が鳥の形に切り抜かれている様子、靴に指が生えた様子など、独創的で不思議な作品が多く、鑑賞した者が再考する必要があるのが特徴です。 マグリットの不思議な世界観は、本来世界がもっている神秘をイメージとして表現したものといわれています。 マグリットの作風は、のちのポップ・アートやミニマリスト・アート、コンセプチュアル・アートなどにも影響を与えました。 母の自殺が子どもだったマグリットに大きな影響を与える マグリットは、ベルギーのレシーヌという町で、仕立て屋兼繊維商の父レオポルド・マグリットと帽子職人の母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれました。 マグリットの作品には、スーツを着た男性や帽子をモチーフにしたものが多く登場します。 両親の仕事柄、子どものころからスーツを着た人や帽子に囲まれて育ったのではないかと考えられるでしょう。 また、マグリットは1910年ごろに家族とともにレシーヌからシャトレに移り住み、絵画教室に通い油絵やデッサンなどの美術教育を受けていたといわれています。 1912年、マグリットの芸術感に大きな影響を与えるできごとが起こります。 母がシャトレのサンブル川で入水自殺をしてしまうのです。 母の自殺衝動は数年前からあり、何度も自殺未遂を図っており、父は母が自殺しないよう寝室に閉じ込めたこともあったそうです。 しかし、母は自宅を飛び出し、数キロ離れた河川敷で遺体となって発見されました。 葬儀の日、母の顔にかけられた布とドレス姿は、マグリットの目と記憶にしっかりと焼き付き、現実と幻想が混ざり合ったマグリットの芸術は、この体験が反映されているのではないかといわれています。 1927年から1928年に描かれた『恋人たち』では、描かれた人物の顔に布がかけられています。 学生時代は印象派に影響を受ける 母が亡くなった後、マグリットと兄弟は下女と家庭教師に引き取られ、生活することになりました。 1913年、マグリットと家族はシャルルロワに移り住み、高校へ入学します。 マグリットの作品は、1915年ごろのものから残されており、当時は印象派のスタイルで制作していました。 1916年から1918年まで、ブリュッセルの美術学校に通い、ベルギー象徴主義のコンスタン・モンタルドに師事しますが、授業にはあまり身が入らなかったそうです。 また、画家でありポスターデザイナーでもあるジスベール・コンバッツからも学び、グラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしながら絵画を勉強していました。 学校に通い絵を学んでいく中で、マグリットの作品は印象派以降の近代美術に影響を受けるようになっていきます。 未来派やキュビスムに大きな影響を受ける 1918年、詩人のピエール・ブルジョワーズや抽象画家のピエール・フルケをはじめとしたベルギー前衛芸術家の仲間と共同アトリエにて短期間制作を行っています。 このころから、イタリア未来派のダイナミズムに興味をもつようになり、その後、雑誌デ・ステイルの創始者テオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。 ドゥースブルフは、ブリュッセルにオランダの純粋主義理論について講演するために来ており、講演を聞いたマグリットの創作意欲に火をつけました。 1918年から1924年にかけての作品は、未来派やキュビスムに大きな影響を受けており、女性をモチーフにした魅力的な肖像画を多く残しました。 幼なじみとの結婚とジョルジョ・デ・キリコ作品との出会い 1920年、ブリュッセルの植物園で幼なじみのジョルジェットと再会し、1922年に結婚します。 1920年から1921年まで、マグリットはベルギーのベヴェルーに従軍し、地図製作や指揮官の肖像画を制作しました。 兵役を終えたマグリットは、1922年から1923年まで壁紙工場の製図工として働きます。 1922年は、マグリットの画家人生に大きな影響を与えるできごとが起こります。 詩人のマルセル・ラコントからジョルジョ・デ・キリコの『愛の歌』の複製を見せられ、マグリットは、「私の人生の中で最も感動的な瞬間の一つであった。私は初めて思考を目の当たりにした」とのちに語っています。 1923年から1926年ごろまでは、ポスターや広告デザイナーとして働いており、このころは、ロベール・ドローネやフェルナン・レジェなど、ピュリスムやキュビズムに影響を受けた作品を制作していました。 その後、ブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、本職を画家としたキャリアをスタートさせました。 シュルレアリストとしての活躍 1926年、マグリットはキュビスムから決別し、初めてとなるシュルレアリスム絵画『失われた騎手』を制作し、1927年にはル・サントール画廊にて初個展を開催しました。 しかし、個展デビューは批評家の厳しい評価を受け、マグリットは落ち込み、パリへと向かいます。 パリでは、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンやほかの芸術家たちと交流を重ねるようになり、シュルレアリスムグループに参加し本格的に絵画制作にのめり込んでいきました。 マグリットの描く作品は、ほかの芸術家たちと比べると幻想的で夢の中にいるようなイメージをもっていました。 その後、シュルレアリスムグループのリーダー的な存在となり、パリには3年間ほど滞在します。 1924年から1929年までは、マグリットの最も充実した時代といわれており、この期間に描かれた作品は、幻想的というよりもどこか不気味な雰囲気が漂っていました。 1929年には、パリのゴーマンズ・ギャラリーにて、サルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギー、フランシス・ピカビア、マックス・エルンストらとともに展覧会を開催しています。 哲学と芸術の融合 1929年、マグリットは最後のシュルレアリスム革命展に、代表作となる『イメージの裏切り』を出品しました。 展覧会では、エッセイの『言葉とイメージ』も配布しており、平面作品と文字言語、視覚言語の関係性を挑発的に探求する今までにない革新的な作品を発表しています。 『イメージの裏切り』には、パイプの絵が描かれており、その下に「これはパイプではありません」と言葉が書かれています。 一見、タバコ屋の広告のようにも見えるこの作品に描かれているのはパイプの絵ですが、あくまでパイプを表現した絵であり、パイプそのものではありません。 マグリットは、イメージと対象の根本的な違いを強調したかったと考えられます。 このように、マグリットの芸術は、日常的なモチーフを採用しながらもそのものの一般的な使い方や見え方とは異なる状態になっているのが特徴の一つです。 ブリュッセルに戻り広告代理店を開業 1929年末、世界恐慌の影響を受けたル・サントール画廊は活動を停止してしまい、マグリットの収入も途絶えてしまいます。 また、パリでシュルレアリスムから関心のない態度をとられパリの芸術に幻滅したマグリットは、ブリュッセルに戻り、1934年に弟のポールとともに広告代理店「ドンゴ」を開業しました。 経済的に苦しい状況を立て直すために開業した広告代理店により、マグリットは安定した収入を得られるようになり、1934年から1937年にかけては「エメア」というペンネームで絵を描き、音響映画の配給会社トビス・クラングフィルムの広告にも採用されています。 1936年には、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊にてアメリカで初となる個展を開催し、1938年にはロンドン画廊でも個展を開催しました。 この展覧会によりマグリットの名は世界中に注目されるようになり、評価が高まっていきました。 ロンドン滞在中には、建築も学んでおり、いくつか作品を制作するとともに、ギャラリーでは画家として講演を行い、芸術家としての地位を高めていったのです。 ルネ・マグリットの世界観と作風 マグリットは、シュルレアリスムの画家とも呼ばれていますが、シュルレアリスムの中でもさらに独特な作風が特徴の一つです。 現実と幻想を巧みに融合させ視覚的な驚きをもたらす作品を多く残しています。 シュルレアリスム シュルレアリスムとは、1920年代に巻き起こった芸術運動で、夢や潜在意識の世界を表現することを目的とした芸術です。 マグリットは、シュルレアリスムの運動に参加し、日常的な物体を通常とは異なる文脈で描き、鑑賞する者に現実の再考を促すような作品を制作しています。 そのため、マグリットの作品には不条理・矛盾したイメージ・シーンが多く登場し、観る者に大きなインパクトを与えています。 古典的な描法 マグリットは、古典的な描法を用いて絵画を制作しています。 筆触を残さないよう繊細に筆を使い、まるで写真のような精密さのある絵画を描いていました。 この技法により、作品に現実感を与えることで、奇妙な文脈のインパクトがさらに大きくなり、印象を強めていると考えられるでしょう。 マグリットの作品は、細部まで丁寧に描かれているのが特徴で、現実世界の物体や風景を精密に再現しています。 視覚的なパラドックス 多くのマグリット作品には、視覚的なパラドックスが登場します。 たとえば、同一人物が複数の場所に同時に存在しているようなシーンや、モチーフを実際とは異なる形状や大きさで描かれていることなどです。 このようなパラドックスは、鑑賞する者の視覚的認識に強い印象を与え、現実と幻想の境界をあいまいにしているといえます。 言葉とイメージの関係性 マグリットは、絵だけではなくイメージと言葉の関係性についても深く探求していました。 『イメージの裏切り』が有名ですが、それ以外にも『テーブル、海、果物』でも言葉とイメージを巧みに利用して作品を描いています。 絵を観てみると、通常であれば左からテーブルが木の葉、海がバター、果物がミルク壺と考えてしまうでしょう。 また、言葉も現実を表してはおらず、海といえば広大な青い水面をイメージしますが、マグリットの作品では、海の下にバターの塊が描かれているのです。 この作品も、マグリットの言葉とイメージの問題を再考させる代表的な作品の一つです。 年表:ルネ・マグリット 西暦 満年齢 できごと 1898 0 ベルギー、レシーヌにて誕生。 1910 12 母が自殺し、遺体が川で発見される。この出来事が彼の作品に影響を与える。 1916 18 ブリュッセルの美術学校に入学し、絵画を学び始める。 1926 28 初めての個展を開催。シュルレアリスム的な作品を発表し、注目を集める。代表作には『眠れる者たちの館』がある。 1929 31 『イメージの裏切り』を制作。この作品には「これはパイプではない」という有名な言葉が描かれており、視覚と言葉の関係について考察を促す。 1936 38 アメリカでの展覧会に出展し、作品が国際的に注目を集める。代表作『大家族』『光の帝国』などを制作。 1940年代 40代 第二次世界大戦中に様々な画風を試し、明るい色彩の作品を制作。 1954 56 ベルギー王立美術アカデミーで回顧展が開催され、ベルギーを代表する画家として広く認識される。 1967 68 ブリュッセルで死去。生涯を通じてシュルレアリスムを追求し、多くの後世の芸術家に影響を与える。
2024.11.09
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ジャン=ミシェル・バスキア(1960年-1988年)画家[アメリカ]
グラフィティの申し子と呼ばれた「ジャン=ミシェル・バスキア」とは ジャン=ミシェル・バスキア 生没年:1960年-1988年 ジャン=ミシェル・バスキアとは、グラフィティ・アートをモチーフにした作品で活躍したアメリカの画家です。 バスキアは、ストリート・アートを芸術の分野に押し上げ、世界に広めた重要なアーティストの一人です。 バスキアが亡くなったあとも、残された作品は高い評価を得て、人々に大きな影響を与えました。 一見、街中にあるような落書きに見える作品たちの背景には、貧富や黒人差別などに対する強い社会的メッセージが込められています。 幼いころにもらった『グレイの解剖学』 バスキアは、アメリカのニューヨーク市ブルックリンにて、プエルトリコ系移民の母とハイチ系移民の父の間に生まれました。 バスキアは、幼いころから絵を描いていたといわれており、これは母からの影響が大きかったとされています。 母は幼いバスキアを連れて、よく地元の美術館に行ったり、ブルックリン美術館のジュニア会員に登録させたりと、バスキアが美術に触れられる環境を熱心に作っていました。 バスキアは勉強もでき、4歳になるころには読み書きを習得したそうです。 ニューヨークのアート専門私立学校である聖アンズ学校に入学したバスキアは、友人となるマーク・プロッツォと出会い、2人で子ども向けの絵本を制作し、早くからアートに関する才能を表していました。 しかし1968年、7歳のころ、道路で遊んでいたバスキアは、車に轢かれる交通事故に遭ってしまいます。 腕を骨折、内臓破裂の重傷を負い、脾臓の摘出手術を受けるほどの大きなけがをしてしまいました。 母は、入院中のバスキアが退屈しないようにと、よく医学生が読んでいる『グレイの解剖学』という有名な本をプレゼントします。 『グレイの解剖学』には、学術書でありながらも図版が豊富にあり、この本がのちのバスキアのアートに大きな影響を与えたといわれています。 バスキアの作品でよく描かれている人体模型のようなモチーフは、幼いバスキアがみた解剖図が源泉といえるでしょう。 ユニット「SAMO」でスプレーペインティングを始める バスキアは、15歳のときに家出をし、ニューヨークのマンハッタンにあるトンプキンス・スクエア公園のベンチでしばらく過ごしていましたが、警察に逮捕されてしまい、父の保護観察下に置かれることに。 しかし、17歳のときに父がバスキアを家から追い出したため、友人の家に居候しながら、自ら作成したTシャツやポストカードを販売して生計を立てるようになりました。 その後、1976年に友人のアル・ディアスとともにSAMOというユニットを結成します。 SAMOは「SAMe Old shit(いつもと同じだよ)」という意味をもっており、2人は学校新聞にマンガを連載するといった活動からはじめ、やがてストリートでグラフィックアートを描くようになっていきます。 マンハッタンのダウンタウンの建物や壁、地下鉄などさまざまな場所にスプレーペインティングを施し、社会を風刺するバスキアの政治的かつ詩的な作品は、少しずつ注目を集めていくようになりました。 当時バスキアは、昼間はノーホーにあるアパレル倉庫で働きながら、夜になると街に出てスプレーペインティングを描く日々を続けていたのです。 また、ダウンタウンのナイトクラブの常連にもなっており、夜は多くのクラブにも出入りしていました。 ある夜、バスキアがいつものようにスプレーペインティングをしているとき、ユニーク・クロシングの社長であるハーベイ・ラッサックが偶然通りかかり、バスキアの才能を認め生活費をサポートするために仕事を依頼するようになります。 1978年には、雑誌「ザ・ヴィレッジ・ボイス」でSAMOの特集が組まれ、活動が世間に広まっていきました。 しかし翌年、ディアスとの関係を解消し、SAMOとしての活動も終了します。 その際は、ソーホーの建物の壁には「SAMO IS DEAD」の文字が描かれました。 キース・ヘリングをはじめとした仲間との親交 1979年、18歳のバスキアは、グレン・オブライエンが司会の番組「TV Party」に出演し、これをきっかけにオブライエンと親交を深めていったバスキアは、その後の数年間、定期的に「TV Party」に出演しました。 バスキアは、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ周辺でもグラフィックアートを制作しており、当時学生であったパフォーマンス・アーティストのジョン・セックス、ストリート・アーティストのケニー・シャーフ、キース・ヘリングらとも親交を深めていきました。 バンド「GRAY」を結成する 1979年、バスキアはヒップホップに通ずるマイケル・ホルマンとパーティーで出会い、「Test Pattern」というノイズロックバンドを結成しました。 バンド名はのちに、幼いころにみた解剖学の教科書『グレイの解剖学』からとって「GRAY」に改名されました。 メンバーには、シャノン・ドーソン、ウェイン・クリフォードなどがおり、当時彼らはCBGB、Hurrah、Mudd Clubなどの大きなクラブのステージでの演奏経験もあり、実力が認められていた人物です。 現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルとの出会い 高校を中退してオリジナルのポストカードやTシャツを販売して生計を立てていたバスキアは、20歳前後のときに運命的な出会いを果たします。 バスキアがソーホーでポストカードを売っていたとき、美術評論家のゲルドザーラーと現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルを見かけ、バスキアは2人が昼食をとっていたレストランに押しかけポストカードを売りつけました。 突然のできごとで、ゲルドザーラーは若すぎると興味を示しませんでしたが、ウォーホルはバスキアの才能を認め、1ドルでポストカードを購入しました。 この出会いがきっかけとなり、のちに共同制作を行うまでの関係性になります。 のちに、美術商のビショフベルガーが、バスキアとウォーホルのランチをセッティングすると、2人はすぐに意気投合。 ウォーホルは、ポラロイドカメラで2人のセルフポートレートを撮影します。 ランチを終えて帰宅した後、バスキアは写真をもとに2時間ほどで2人の絵を描き、ウォーホルのもとに送ったそうです。 絵を受け取ったウォーホルは、のちに絵はまだ濡れていたと当時の様子を語っています。 アーティストとして名声を得る バスキアは、親交を深めていたオブライエンの縁により「Graffiti '80: The State of the Outlaw Art」へ出演し、少しずつ世間から認知されるようになるとともに名声が全米に広がり始めていきました。 1980年、「タイムズ・スクエア・ショー」という展覧会に参加したバスキアは、ジェフリー・ディッチをはじめとした多くの批評家やキュレーターに注目されるようになり、ディッチは雑誌「アート・イン・アメリカ」にて、バスキアへの評価を綴っています。 さらに翌年、現在MoMAニューヨーク近代美術館に統合されているニューヨークの P.S.1で開催された「ニューヨーク/ニューウェーブ」展に参加し、大きな存在感を発揮しました。 この展覧会をきっかけにイタリアでの個展や売却が行われるようになりました。 1982年には、国際的なアートフェア「ドクメンタ」にも参加しており、21歳で当時史上最年少として参加したバスキアの記録は、現在も破られていません。 著名アーティストとの関係 1983年、美術商のビショッフフェルガーは、翌年1984年に開催されるロサンゼルス夏季オリンピックを記念するための作品として、バスキアやウォーホル、イタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテに共同制作を依頼します。 また、ドクメンタに参加した後、バスキアは独立したばかりのディーラーであるラリー・ガゴシアンが作ったスペースをスタジオとして利用し、制作を行っていました。 のちに、ガゴシアンはバスキアの作品の力を借りつつも、世界有数のギャラリーへと成長していきます。 さらにバスキアは、当時まだ無名だったマドンナとも付き合っていました。 そのほかにも、グラフィティ・アーティスト仲間のポートレートを描いたり、ラッパーとして活動していたRammellzeeやK-Robのレコードデザインを担当したりと、さまざまな方面に活動や交友を広げていました。 22歳のときには、ホイットニー・ビエンナーレへの参加やコム・デ・ギャルソンとのコラボなど、大きなプロジェクトをいくつも手がけ、さらに人気が高まっていきます。 オーバードーズによる早すぎる死 1985年ごろ、ポップアート界のスターの地位に昇りつめ、名声を手にしたバスキアは、年間140万ドルほど稼いでいたといわれています。 しかし、成功の陰でバスキアの精神状態は大変不安定なものになっていました。 稼ぎが増え人気が高まっていくほど、プレッシャーも大きくなっていき、ヘロインに溺れるようになってしまったのです。 1986年ごろ、当時ガールフレンドだったジェニファー・グッドとともに、ヘロインへの依存を高めていき、中毒に拍車がかかったと考えられています。 また、1987年にウォーホルが亡くなったことで、バスキアはより一層孤独を深め、薬に依存していきました。 うつ病も悪化し、ハワイのマウイにて静養していましたが、ノーホーのスタジオに戻り1988年8月、ヘロインのオーバードーズにより、27歳という若さで人生の幕を下ろしました。 バスキアが描いた3つのシンボル バスキアの作品には、社会的なメッセージが込められているものも多くあります。 また、特定の意味をもったモチーフが繰り返し登場するのも特徴の一つです。 王冠 バスキアは、王冠のモチーフを好んでよく描いていました。 王冠は、権力や支配の象徴といった意味あいに解釈されることが多くあります。 バスキアは、黒人のアーティストとして、社会の不平等さや人種差別などの問題に強い関心を抱いていたことから、作品でよく権力問題へのメッセージを表現していました。 王冠のモチーフは、支配的な存在や権力に対する挑戦の意思を表現するために描かれ、不正義に対する抗議の象徴であったと考えられます。 また、王冠はアフリカの王や神話的な存在と関連しており、バスキア自身もアフリカ芸術の影響を受けていたことから、アフリカの伝統的な王権の象徴である王冠を描いていたともいわれています。 スカル バスキアの作品のモチーフを思い浮かべたとき、真っ先にイメージされるのがスカルのデザインではないでしょうか。 バスキアが人体の構造に興味をもつきっかけとなったのは、幼いころに事故で重傷を負い入院していたころに読んだ『グレイの解剖学』であるといわれています。 また、頭蓋骨はアフリカ文化圏で行われるブードゥーと呼ばれる儀式を想起させるものでもあり、バスキアはアフリカ芸術の影響を受けていたため、よくスカルのモチーフを描いていたとも考えられるでしょう。 黒人アーティストとしてのレッテルに悩んでいたバスキアは、肌の色に関係ない頭蓋骨をはじめとした皮膚の下の人体構造を描くことで、人種差別に対する強いメッセージを送っていたのかもしれません。 テキスト バスキアの作品には、絵だけではなくテキストも多く描かれており、ほとんどテキストだけで構成されている作品もあるほど、テキストにこだわりを見せています。 テキストの内容は多岐にわたり、お金やモノの価値に関する文章や、商品名、器官の名称、アーティストの名前、社会に向けたメッセージなどがあります。 バスキアは、さまざまなテキストを規則的に並べたり、繰り返し書いたり、ときにはバラバラに配置したりして作品を制作しました。 テキストは説明文としての役割ではなく、視覚的な要素の一つとして用いられています。 文章ではなく、いくつもの単語から生まれる意味や再構築された文が生み出すイメージを表現したのです。 黒人アーティストのレッテルと葛藤 ストリート・アーティストとして名声を手に入れたバスキアですが、自信が黒人アーティストとしてのレッテルを貼られることを大変嫌っていたそうです。 バスキアの作品に、黒人差別をテーマにしたものが多く残されていることからも、黒人アーティストと呼ばれることに悩み、抗議していたことが分かります。 バスキアは、初期のころから黒人差別や人種問題などへ強い関心や共感をもち、作品によって表現していました。 そのため、バスキアの作品には黒人ミュージシャンや黒人のスポーツ選手、歴史上の黒人の政治家や指導者などが、たびたび登場しています。 しかし、バスキアの活躍は黒人アーティストであったからこそ、黒人の音楽や歴史、文化、スポーツなどをテーマにした作品を制作でき、世間から評価を得られたという側面をもっており、そのためバスキアはより一層黒人アーティストとしての立ち位置に葛藤していたと考えられるでしょう。 バスキアが制作した作品の特徴 スプレーペインティングから始まったバスキアのアートには、主に3つの特徴があります。 一見、落書きにも見えてしまう作品の鑑賞を楽しむためには、特徴を理解し、鑑賞時に注目してみるとよいでしょう。 文字や記号を用いた作品 バスキアの作品には、記号や文字が多く描かれている特徴があります。 たとえば、人種差別に関する内容、聖書の引用、社会を強く批判するメッセージなどです。 また、文章としてではなく、単語や記号などを断片的に用いているのも特徴の一つです。 絵と文字や記号を融合させたアートは、グラフィティ・アート出身のバスキアならではの表現方法といえるでしょう。 解剖学からインスピレーションを受けた作品 バスキアの作品には、解剖学からインスピレーションを受けたであろうものが多くあります。 幼いころにみた『グレイの解剖学』がきっかけとなり、解剖学的なドローイングを行うようになり、バスキアの作品には、スカルや人体構造などがたびたび登場しています。 挑発的二分法を用いた作品 バスキアは、挑発的二分法と呼ばれる手法を用いた作品を多く制作しています。 挑発的二分法とは、一つの作品の中に黒人と白人、富裕層とホームレスなど相対する2つの要素に焦点をあてて描き、対比を強調する表現方法です。 社会への批判的なメッセージを作品で多く表現していたバスキアは、よく挑発的二分法を用いて社会へのメッセージを表していました。 年表:ジャン=ミシェル・バスキア 西暦 満年齢 できごと 1960 0 ニューヨーク市ブルックリンで誕生。母親はプエルトリコ系、父親はハイチ出身。幼少期から絵に親しみ、母親の影響で美術館に通う。 1968 7 車にはねられ、脾臓を摘出する大けがを負う。入院中に母から解剖図『グレイの解剖学』を贈られ、後の作風に影響を与える。 1976 15 SAMO(セイモ)という名前でグラフィティアートを開始。ニューヨーク市内の壁や建物にメッセージ性のある言葉や絵を描き、注目される。 1978 17 高校を中退し、家出。生活費を稼ぐために自作のポストカードやTシャツを販売し始める。この頃、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングといったアーティストとも出会う。 1981 20 グラフィティアートがアート界で注目され始め、『ザ・ヴィレッジ・ヴォイス』紙に取り上げられる。アートコレクターやギャラリーからの関心を集め、ロサンゼルスで初個展を開催する。代表作には『アンディ・ウォーホルの肖像』『無題』などがある。 1982 21 国際的に評価が高まり、ニューヨーク近代美術館の展覧会にも参加。同年、代表作『頭』を発表し、抽象と具象を融合させた独自のスタイルを確立する。 1983 22 アンディ・ウォーホルと本格的に親交を深め、共同作品も制作。代表作『ドス・カラベラス』や『フレックス』などを制作し、商業的にも成功を収める。 1985 24 ウォーホルとの共同作品が評価される一方で、「商業主義に屈した」と批判を受けることもある。この頃、『無題(悪魔)』を含むダークなテーマの作品も発表。 1988 27 精神的な孤立が深まり、薬物依存に悩む。代表作『王冠』を発表するが、8月12日、ヘロインの過剰摂取により自宅で死去。彼の死は多くのファンやアーティストに衝撃を与えた。
2024.11.09
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ヤノベケンジ(1965年- )現代芸術作家、京都芸術大学教授 [日本]
芸術に漫画・アニメ・特撮映画などを取り入れた「ヤノベケンジ」とは ヤノベケンジが制作する作品は、ユーモラスがあり、子どもから大人まで親しみのもてる作品でありながらも、その奥には社会的メッセージが込められています。 多くの作品は、ヤノベケンジが構想を練った壮大なストーリーにもとづいて作成されており、そのストーリー性が、人々を魅了する要因の一つともいえるでしょう。 幼いころに大阪万博会場跡地で遊んだ体験が原動力に ヤノベケンジを創作の道へと突き動かさせたのは、幼いころに遊んだ大阪万博会場跡地での経験といわれています。 ヤノベケンジが6歳で大阪府茨木市に引っ越してきたときには、すでに大阪万博は終了し、跡地は再利用の計画が頓挫し更地工事が続いている状況でした。 大阪万博跡地でみた近未来的なパビリオンの残骸や、巨大ロボットが放置されているお祭り広場で遊んだヤノベケンジは、未来の廃墟をイメージしたそうです。廃墟と聞くと、寂しい気持ちや悲しい気持ちになりそうですが、ヤノベケンジはむしろこの場所から何でも創り出せると胸が高鳴ったのを覚えているそうです。 このできごとをきっかけに、子どものころから特撮に夢中になり、怪獣のイラストを描いたり造形したりしてSF雑誌『宇宙船』に投稿していました。 ユーモラスな作品を次々に制作していく 1989年に京都市立芸術大学美術学部彫刻専攻を卒業後、ヤノベケンジは短期留学で、イギリスの国立大学であるロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ行き、その後1991年に京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了しています。 ヤノベケンジは、1990年に京都のアートスペース虹にて、生理食塩水を入れたタンクの中に鑑賞者が浸かり瞑想する体験ができる『タンキング・マシーン』を制作しました。 この作品は、第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワードで最優秀作品賞を受賞しています。 1992年には、水戸芸術館で個展「妄想砦のヤノベケンジ」を開催し、美術館に住み込んで「サバイバル」をテーマに、放射能汚染された環境でも生き抜ける機能を備えたユーモラスのあるデザインのスーツや、サバイバル用の機械一式、それらを収納して移動するための車などを発表しました。 以後、ヤノベケンジは「サバイバル」をテーマに、世界の終末のような環境下でも使える機械彫刻シリーズの制作を続け、1994年以降は拠点をベルリンに移して、欧米でも精力的に活動を続けました。 海外では、日本のサブカルチャーと関連して取り上げられることが多く、大きな注目を浴びています。 「アトムスーツプロジェクト」でチェルノブイリを訪問 1990年代の後半から、史上最後の遊園地計画「ルナ・プロジェクト」の構想を練り、その一環として「アトムスーツプロジェクト」をスタートさせました。 どこか鉄腕アトムを思わせる、ガイガーカウンター付き放射能感知服を制作・着用し、チェルノブイリ原発やその周辺の放置された都市の廃墟を歩き回ります。 また、スーツを着用して大阪万博跡地にある万博記念公園や砂漠、海岸なども歩き回り、幼いころに感じていた未来の廃墟への時間旅行を行いました。 チェルノブイリの激しい放射線量や開催後30年を経て朽ちていく様子、遊園地や保育園、軍用車の残骸など、現実の廃墟を目のあたりにしたヤノベケンジは、そこで生きる人々たちとの出会いや体験を通して、以後「廃墟からの再生」をテーマにした作品制作に移行していきました。 チェルノブイリの保育園でみた人形と大阪万博跡地の廃墟でみたロボットからインスピレーションを受け、大型ロボットや子どもの命令のみによって歌い踊り火を吹く巨大な腹話術人形型ロボットなどを制作します。 また、2003年には、大阪万博の美術館であった国立国際美術館にて集大成的展覧会『メガロマニア』を開きます。 解体されたエキスポタワーの朽ち果てた展望台の一部分を使用し、展望台内で生えていた苔を生育する作品の制作も行いました。 精力的な活動でさまざまな領域に表現を広げていく ヤノベケンジは、1990年に芸術家としての実質的なデビューを果たし、約30年間創作活動を続けてきています。 移り変わっていく社会の状況をみながら、彫刻や絵画、インスタレーション、絵本、映像、CG、映画、舞台など、表現の幅を広げその時々にあった創作活動を行っています。 また、イッセイ・ミヤケ、パパ・タラフラマ、ビートたけし、宮本亜門、増田セバスチャン、堀木エリ子など、さまざま分野で活躍しているクリエイターやアーティストともコラボを果たし、多くの芸術を創作してきました。 近年は、全国各地に巨大彫刻やパブリックアートを設置し、作品が一般の人々の目に触れる機会も多くなっています。 年表[ヤノベケンジ] 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1965年(昭和40年) 0歳 大阪府茨木市に生まれる。 1989年(平成元年) 24歳 京都市立芸術大学美術学部彫刻専攻を卒業。 1990年(平成2年) 25歳 作品『タンキング・マシーン』を発表。第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワード最優秀作品賞を受賞。 1991年(平成3年) 26歳 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。 1992年(平成4年) 27歳 水戸芸術館で個展「妄想砦のヤノベケンジ」開催。サバイバルマシーンのコンセプトを発表。 1994年(平成6年) 29歳 ベルリンに移住し、活動拠点を置く。 1997年(平成9年) 32歳 「アトムスーツプロジェクト」を開始。チェルノブイリ原発や万博記念公園で撮影を行う。 2003年(平成15年) 38歳 国立国際美術館で展覧会「メガロマニア」を開催。大阪万博のエキスポタワーの一部を使用した作品を展示。 2005年(平成17年) 40歳 豊田市美術館で個展「KINDERGARTEN」を開催。大型ロボット『ジャイアント・トらやん』などを発表。 2011年(平成23年) 46歳 東日本大震災と福島第一原発事故の影響を受け、『サン・チャイルド』を制作。 2012年(平成24年) 47歳 福島市や茨木市に『サン・チャイルド』像を設置。 2016年(平成28年) 51歳 第29回京都美術文化賞を受賞。 2018年(平成30年) 53歳 福島市に設置された『サン・チャイルド』が、批判を受け撤去される。 2021年(令和3年) 56歳 岡山県倉敷市の大原美術館で作品『サン・シスター(リバース)』を一般公開。 ヤノベケンジの作品が鑑賞できる展示・イベント
2024.09.10
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東郷青児(1897年-1978年)画家[日本]
日本最初期の前衛絵画を描いた「東郷青児」とは 東郷青児 生没年:1897年-1978年 東郷青児は、夢見るような甘い女性像を描き人気を博した日本の洋画家で、昭和の美人画家として、戦後の日本で一世を風靡しました。 絵画作品だけではなく、本や雑誌、包装紙などにも作品が使われ、多くの人に親しまれていました。 詩人画家・竹久夢二の雑貨店で働く 東郷は、鹿児島県鹿児島市に生まれ、幼いころに家族で東京に引っ越しており、小学校の同級生には洋画家の林武がいました。 東郷は、中学時代から絵画を学んでおり、中学4年のころに出会った画家で詩人の竹久夢二の作品に感動し、青山学院中等部を卒業すると画家を志すようになりました。 夢二に憧れを抱いた東郷は、17歳で夢二の雑貨店「港屋絵草紙店」で働き始めます。 このお店は、恋多き夢二が唯一籍を入れた女性、たまきのために開かれたお店で、たまきは一回り以上年の離れた東郷を弟のようにかわいがり、夢二の写しの手伝いを東郷にお願いしていました。雑貨店で写しをして技術を磨いていった東郷の美人画には、夢二の影響を受けているであろう特徴が見受けられます。その後も、東郷は女性美への探求を続けていくのでした。 前衛的なピカソ・女性的な作風のラファエロから影響を受ける 東郷が18歳のころ、東郷の才能に気づいた作曲家の山田耕筰から支援を受け、絵画の世界へと進んでいきます。耕筰は、作曲家として活動していましたが、当時のヨーロッパ絵画の最先端を研究していた人物でもありました。 その後、有島生馬に師事し、18歳のときに開催した初個展では、未来派風の前衛的な新人として注目を集めています。翌年、19歳で二科会に初出品した『パラソルさせる女』が二科賞を受賞し、才能を開花させていきました。 20代になるとヨーロッパへ留学し、東郷の作風に大きな影響を与える転機が訪れます。 東郷は、20世紀最大の画家と評されるピカソや、エコール・ド・パリの代表的な画家といわれていた藤田嗣治らと交流する機会を得て、画家として新しい学びや影響を受けました。 また、ピカソの前衛的な芸術だけではなく、ミケランジェロをはじめとした古典芸術にも深く感銘し、ヨーロッパにいる間にキュビズムや未来派、シュルレアリスムなど、さまざまな芸術を吸収し、独自のスタイルを確立させていきました。女性的で優美な作風が特徴のラファエロにも影響を受けており、東郷独自の美人画を描くベースとなったともいえるでしょう。 帰国後は、震災から復興した東京を彩るモダニズム文化の流れに乗り、絵画だけではなくさまざまな分野で活躍していきます。 1935年前後からは、洋画家の大先輩である藤田嗣治と大画面の装飾画に挑み、百貨店や画商から毎年のように個展開催の依頼がくるようになりました。 1960年代からは、二科会の交換展のために毎年世界各国を訪れるようになり、同時にこれまでのスタイルを変化させ、盛り上がった絵の具と荒々しいタッチで抽象画にようなデフォルメを取り入れていきました。 また、アフリカやアラブ諸国、南米などの風俗をモチーフに取り入れ新しいスタイルを生み出していきます。 64歳になると二科会会長に就任し、72歳のころにフランス政府から「芸術文化勲章オフィシエ」を授与されます。 さらに翌年、日本でも「勲三等旭日中綬章」を受章するなど、画家としての地位を確立させていきました。 洋菓子店の包装紙のデザインも手がける 東郷は、絵画だけにとどまらず、さまざまな分野でデザインの才能を発揮しました。 挿絵や洋菓子の包装紙、化粧品のパッケージ、マッチ箱、本の装丁など、あらゆる製品のデザインを手がけています。 東郷のアートは身近なものにも組み込まれ、多くの人に愛されました。特に、洋菓子店の包装紙はファンの間で人気が高く、ブックカバーや栞として利用する人もいたそうです。 2007年に閉店した吉祥寺の老舗喫茶店「ボア」では、包装紙だけではなくケーキの箱や店の名前、ロゴに至るまで東郷がプロデュースしたことで知られています。 また、小説家の谷崎潤一郎とコラボし、谷崎の耽美的な言葉と東郷の柔らかな曲線の美人画が融合した作品も制作しています。画業だけではなく、フランス文学の翻訳や小説の執筆など、幅広い分野で活躍を収めました。 芸術のデパートと呼ばれる芸術家ジャン・コクトーが書いた小説『恐るべき子供たち』は、翻訳から挿絵、装丁まで東郷が担いました。 東郷青児が描く美人画の特徴 東郷の描く美人画は、「青児美人」や「東郷様式」などと呼ばれ、独自のスタイルを確立していました。 ヨーロッパ留学を得てさまざまな経験と刺激を受け、西洋絵画の伝統技法を融合させ時代の先駆けとなる、新しい女性の理想像を表現しました。 デフォルメされた艶やかな曲線や、限られた色数のみを用いたシンプルな色彩が、青児美人の大きな特徴といえます。 大胆な構図やフォルムは、ピカソからの影響を受けており、自信のある色以外は使わないという教えのもと、東郷は独自のセンスで女性を表現していきました。 東郷は、流行りのファッションにも敏感で、女性が着用しているトレンドアイテムを絵画に取り入れていました。 東郷の描く女性像には、着物から洋服、当時フランスで流行っていたモード系、世界各国の伝統衣装など、さまざまな衣装が着せられ、東郷の繊細な美意識が表現されています。 年表[東郷青児] 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1897年(明治30年) 0歳 4月28日、鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町に生まれる。 1914年(大正3年) 17歳 青山学院中等部を卒業。この頃、竹久夢二の「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。 1915年(大正4年) 18歳 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所で制作。日比谷美術館で初個展を開催。有島生馬に師事。 1916年(大正5年) 19歳 第3回二科展に『パラソルさせる女』を出品し、二科賞を受賞。 1920年(大正9年) 23歳 永野明代と結婚。 1921年(大正10年) 24歳 フランスに留学。国立高等美術学校に学ぶ。長男志馬が誕生。 1924年(大正13年) 27歳 ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く。 1928年(昭和3年) 31歳 帰国し、第15回二科展に留学中の作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。西崎盈子と関係を持つ。 1929年(昭和4年) 32歳 愛人の西崎盈子と心中未遂事件を起こす。事件後、宇野千代と同棲。 1930年(昭和5年) 33歳 ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳し、白水社より刊行。 1931年(昭和6年) 34歳 二科会に入会。 1933年(昭和8年) 36歳 宇野千代と別れ、みつ子と同棲開始。 1934年(昭和9年) 37歳 麻雀賭博の容疑で警視庁に検挙される。 1939年(昭和14年) 42歳 みつ子との間に長女たまみ誕生。 1951年(昭和26年) 54歳 歌舞伎座用の緞帳を制作。 1957年(昭和32年) 60歳 日本芸術院賞を受賞。 1960年(昭和35年) 63歳 日本芸術院会員に就任。 1961年(昭和36年) 64歳 二科会会長に就任。 1969年(昭和44年) 72歳 フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与される。 1970年(昭和45年) 73歳 勲三等旭日中綬章を受章。 1976年(昭和51年) 79歳 勲二等旭日重光章を受章。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設される。 1978年(昭和53年) 80歳 4月25日、急性心不全により熊本市で死去。正四位、文化功労者追贈。
2024.09.10
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オディロン・ルドン(1840年-1916年)画家[フランス]
象徴主義絵画をけん引した「オディロン・ルドン」とは オディロン・ルドン 生没年:1840年-1916年 オディロン・ルドンは、フランスの象徴主義を代表する画家で、モノクロの作品が多かったことから「黒の画家」とも呼ばれていました。 ルドンの作品は、1884年にジョリス=カルル・ユイスマンスが書いた小説『さかしま』で取り上げられたことで注目を集めるようになっていきました。 15歳ごろから本格的に素描を学ぶ ルドンは、南フランスのボルドーの街で、裕福な家庭に生まれました。 身体が弱かったルドンは、その後ボルドーから30kmほど離れた田舎町ペイル=ルバードへ里子に出され育ちます。 幼いころから素描を描き始めており、10歳のときには学校で素描の賞をもらっています。 15歳のとき、地元の水彩画家であるスタニスラス・ゴランから本格的に素描を学び始めました。 絵を描くことが好きだったルドンですが、父は画家に反対し建築家になることを勧めていたため、建築家を目指すことに。 1862年、22歳の秋、ルドンはフランスの美術学校であるエコール・デ・ボザールの試験を受けますが、不合格となり建築家への道をあきらめます。 再び画家を目指し始めたルドンは、1864年に新古典派の画家ジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学びますが、アカデミックな教育があわず翌年に帰郷しました。 終戦後はパリで芸術活動を開始する 故郷のボルドーに帰ってからのルドンは、彫刻制作を始めるとともに、フランスの版画家ロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学びました。このころから「黒」のカラーがもつ無限の可能性に着目し、自身の木炭画や版画を「ノワール(私の黒)」と呼び、黒を用いた独創的な作品を描くようになっていきました。 普仏戦争が勃発してからは、芸術活動を一時中断し従軍しますが、1871年末に病気のため戦線離脱。終戦後は、素描家を目指し再びパリに移住し、芸術活動を再開させます。移住当時は、木炭を使った素描をメインに活動を進めていましたが、サロンでリトグラフの技法を学び、木炭画とリトグラフを主軸として芸術活動を進めていきました。 1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行。 発行部数は25部と少ないものですが、職業画家としての記念すべき第一歩の作品といえるでしょう。 その後、ルドンは石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として活躍の場を広げていきました。 象徴主義の画家として注目を集める 1890年代、ルドンはノワールではなく、パステル画や油彩画を好んで描くようになりました。 1894年、老舗のデュラン・リュエル画廊にて大規模な個展を開催し見事成功をおさめ、象徴主義の画家としての地位を確立させていきました。 1899年、同画廊にてナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、尊敬の意を込めてルドンを迎え、グループ展を開催し、ルドンはナビ派として紹介されます。 当時、象徴主義が注目を集めていたことから、ルドンの作品は多くの若手画家たちの心を打ち、新しい絵画の先駆者として認識されるようになっていったのです。 ルドンは、若手画家たちと交流を深めていくようになり、その影響から絵画作品だけではなく室内装飾も手がけるようになりました。 装飾絵画から抽象絵画へ変化する 1899年、ルドンはロベール・ド・ドムシー男爵から、ブルゴーニュのセルミゼルにあるドムシー・シュール・レ・ヴォルト城のダイニングルームに飾るための装飾絵画の制作を依頼されました。 この装飾絵画17枚が、ルドンが制作した作品の中でも最も先鋭的といわれるものとなり、ルドンの作品が装飾絵画から抽象絵画へ移行するターニングポイントになりました。 また、ルドンはドムシー男爵に依頼され、夫人と娘のジャンヌの肖像画も描いています。 ルドンの芸術活動の特徴 ルドンは、夢や無意識下の幻想的で不思議な世界観をもった作品を多く制作しました。 幻想的でファンタジー性のある作品たちは、ルドンの死後、シュルレアリスムの先駆けとも評価されています。 多彩な画法を使い分けていた ルドンといえば、モノクロで描かれた木炭画を想像する人が多いのではないでしょうか。 しかし、得意としていた木炭画以外にも、パステル画や油彩画などへ表現方法を広げ、多彩な作品を制作しています。作品の色合いも、モノクロから色彩豊かなものに移り変わっていきました。 仏教やヒンドゥー教にも関心があった ルドンは、仏教やヒンドゥー教をはじめとしたさまざまな宗教にも関心をもっていたといわれており、それらの世界観を融合させた作品も多く制作しています。ルドン作品の幻想性や神秘的な世界観は、宗教の思想が影響しているとも考えられるでしょう。 ルドンは、若いころから植物学者であるアルマン・クラヴォーから読書の手ほどきを受けており、アルマンはルドンの精神的指導者でもありました。 アルマンから文学をはじめとし、最先端の科学や世界の多種多様な思想などを教わったことがきっかけで、東洋の思想にも強い興味を抱いたと考えられます。 20世紀はじめごろの10年間では、さまざまな宗教絵画が一つの作品に混ざりあった神秘的な作品を描いています。 代表的な作品には、『釈迦の死』、『釈迦』などがあり、東洋の宗教に強い影響を受けていることがわかりますね。 幻想的な世界観 ルドンが描く作品の大きな特徴は、無意識下を投影した幻想的な世界観をもっている点です。 当時、心理学者フロイトが唱えていた無意識の存在が世の中に広まっており、精神世界を投影したルドンの不思議な世界観の作品は、広く受け入れられたのです。 また、ルドンの画風は、19世紀後半のパリで巻き起こっていた反物質主義的な運動に後押しされ、写実主義や印象派へのアンチテーゼとしての評価も受けています。 退廃的な雰囲気 ルドンが制作した作品には、退廃的で暗い印象を受けるものも多くあります。その中でもとくに、モノクロのリトグラフ作品では、不安や絶望を思わせる印象の作品が多く残されています。 しかし、モチーフの表情をよく見てみると、どこか愛嬌のあるキャラクターに見えることも。 不穏な空気感を抱かせながらも、どこか人間としての温かみも感じられる不思議な世界観が、多くの人の心を惹きつけているのでしょう。 目と花をよく描いていた ルドンは、目と花に着目した作品をよく描いていました。 目に重きをおいた代表作の一つに『キュクロプス』があります。 キュクロプスとは、ギリシャ神話において卓越した鍛冶技術をもつ隻眼巨人として登場する下級神。凶暴で人を食らう恐ろしい人物像で知られていますが、ルドンが描くキュクロプスは、どこか寂しげな表情に見えます。 まるで、ルドン自身の内向的な性格をキュクロプスに反映しているかのようにも感じられるでしょう。 ルドンがよく花の絵を描いていたのは、若いころに植物学者アルマンのもとで学んでいたことがきっかけで、よく植物観察をしていたためともいわれています。 息子の死と誕生により作品に変化が ルドンは、若いころからモノクロのリトグラフや鉛筆画を多く制作していました。 しかし、49歳で次男のアリが誕生したころから、カラフルな作品も増えていったといわれています。 ルドンは、長男を半年で亡くしており、アリの誕生は大変喜ばしいことであったと考えられるでしょう。 アリの成長がルドンの生きがいになり、人生にも彩が生まれ、そのような色彩豊かな作品が増えていったのではと想像させてくれます。 しかし、アリも第一次世界大戦で生死不明となってしまい、76歳だったルドンはアリの行方を探すために各地を訪ねて回りました。 ルドンは、アリを探して回るなかで、風邪をこじらせ1916年にパリの自宅でその生涯に幕を閉じました。 ルドンが描いた色鮮やかな世界観は、息子アリをきっかけに始まり、終わったといえるでしょう。 [年表]オディロン・ルドン 西暦 満年齢 できごと 1840年 0歳 4月20日、フランスのボルドーで生まれる。本名はベルトラン=ジャン・ルドン。 1851年 11歳 ボルドー近郊の町ペイル=ルバードで、少年期を過ごす。 1860年 20歳 植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に影響を受ける。 1864年 24歳 パリでジャン=レオン・ジェロームに入門するも、数か月で辞め、ボルドーに戻る。 1870年 30歳 普仏戦争に従軍。 1872年 32歳 パリに定住。 1879年 39歳 初の石版画集『夢の中で』を刊行。植物学者アルマン・クラヴォーに捧げる。 1880年 40歳 クレオールの女性、カミーユ・ファルテと結婚。 1882年 42歳 新聞社ル・ゴーロワで木炭画と版画の個展を開催。石版画集『エドガー・ポーに』を刊行。 1886年 46歳 長男ジャンが誕生するが、半年後に夭折。 1889年 49歳 次男アリが誕生し、画風が明るい色彩を使うスタイルに変わる。 1904年 64歳 レジオンドヌール勲章を受章。 1913年 73歳 アーモリーショーにて1室を与えられ展示を行う。 1916年 76歳 7月6日、パリの自宅で死去。直前に消息不明だった次男アリの捜索に奔走していた。
2024.09.10
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バンクシー(生年月日未公表-2000年代ごろから活動)アーティスト、政治活動家[イギリス]
神出鬼没で謎の多いグラフィティアーティスト「バンクシー」とは バンクシーは、正体を明かすことなく、世界中の壁やストリート、橋などさまざまな場所にメッセージ性の強いグラフィックを描き話題を集めました。 神出鬼没で、本名や年齢、性別など多くの情報が謎に包まれており、初期の活動場所がイギリス中心であったことから、イギリス人ではないかと推察されています。 バンクシーの作品は、いつどこで描かれているのか分からず、夜が明けてみるといつの間にか壁に作品が描かれていたというものがほとんどです。 中学を退学になりグラフィティ活動を開始する バンクシーがグラフィティ活動を始めたのは、中学校を退学したことがきっかけであったといわれています。 中学生のころ、大けがを負ったクラスメイトの事故の犯人であると疑われ、濡れ衣を着せられて地元ブリストルの中学校を退学になってしまったそうです。 そして、14歳ごろからグラフィティ活動をスタートさせました。 当初は、フリーハンドで作品を描いていましたが、街中の壁やストリートに絵を描く行為は違法であるため、スピーディに作品を完成させ警察に捕まらないよう、途中からステンシルを使うようになったそうです。 社会を風刺した鋭いメッセージ性のある作品 バンクシーは、消費社会や戦争など、政治や資本主義的な社会を痛烈に風刺する作品を多く残しています。 人々に議論を促し、社会問題に目を向けさせることがアートの役割であると、バンクシーは語っており、グラフィティアートを通じて、現代社会の在り方に問題提起をし続けているのです。 バンクシーは、積極的にチャリティ活動を行っており、地元のブリストルでは展覧会を開催して現地経済を活性化させたり、多くの慈善団体や施設に寄付や作品の寄贈を行ったりしています。 『The Son of a Migrant from Syria』は、フランスの難民キャンプがあるカレー地区にある作品で、古いパソコンと大きな袋を手に持つスティーブ・ジョブズが描かれています。この作品は、難民支援を訴えかけているといわれており、難民の受け入れをしなければ、未来のスティーブ・ジョブズの可能性を奪うかもしれないというメッセージが込められているのです。 実は、スティーブ・ジョブズは、シリア移民の息子であったのです。 移民の受け入れは自国の負担を大きくし、資源を枯渇させてしまうと不安視されていますが、シリア移民の息子であったジョブズが創設したアップルは、世界で最も高い利益を上げている企業であり、年70億ドル以上もの税金を国に納めています。 アップルがこれほどまでに大きな企業になったのは、シリアの移民を受け入れたからだと、訴えかけています。 『Shop Until You Drop』は、ロンドンの高級ショッピング街のビルの高層部分に描かれた作品です。 ショッピングカートを押す女性が落下する様子が描かれており、消費社会への風刺を描いているといわれています。 買い物に夢中で足元を見ずに踏み外してしまったのか、高価な買い物をし続け人生から転落してしまったのか、どちらにせよ消費することで経済を回す資本主義に対する痛烈な批判ともとれる作品です。 バンクシーの作風:3つの特徴 バンクシーが制作される作品の主な特徴は、グラフィティアート・ステンシルアート・ネズミのモチーフです。 グラフィティアートを多く手がける グラフィティは、落書きの意味を持ち、グラフィティアートとは、1960年代末から1970年代のニューヨークの街や地下鉄、高架下などの壁面に描かれるようになった絵を指しており、ストリートアートとも呼ばれています。 バンクシーは、公共の壁面にスプレーで作品を描いていることから、グラフィティアートの一つといえるでしょう。 ステンシルアートを用いている バンクシーのグラフィティアートには、ステンシルアートが用いられています。 ステンシルアートとは、ステンシル(切り抜き版)を利用して描くアートのことで、あらかじめ描きたい絵の形にくり抜いた型に、ペイントやスプレーをかけ作品を制作していく手法です。 型を準備しておけば、壁面に設置してスプレーを吹きかけるだけで描けるため、神出鬼没で誰にも見つからないように描かなければいけなかったバンクシーにぴったりの手法といえます。 このステンシルアートは、バンクシーが開発したものではなく、パリのグラフィティアーティストであるブレック・ル・ラットによって、1980年代にはすでに取り入れられていました。 ブレックは、ステンシルアートの父とも呼ばれており、ラットをはじめとした動物をモチーフにしていたこともあり、バンクシーは彼に影響を受けていたとも考えられています。 ネズミのモチーフをよく描いている バンクシーは、世界中のあらゆる場所にネズミをモチーフにした絵を描いています。 ネズミはさまざまなパターンで描かれており、例えば、落書きのための筆やスプレー缶をもったネズミ、ローラーやペンキ缶をもったネズミ、メッセージが書かれたプラカードを掲げるネズミ、傘をさすネズミ、ラジカセで音楽をかけるネズミなどがあちこちに描かれています。 街中に潜むネズミは、ゴミにまみれ、地下を走り回って病原菌をまき散らす厄介な存在でもあり、そのネズミを文明開化された都市から切り離された人々、いわゆるマイノリティな存在と重ね合わせて社会へ訴えかけていると考えられるでしょう。 また、ネズミはバンクシー自身を表しているともいわれています。 グラフィティアートは、本来禁止されている場所に作品を制作するため、都市の中に身を潜め、人目を忍んで描きます。夜の街に突如として現れて作品をこっそりと制作する自分自身を、ネズミに重ね合わせているともいえるでしょう。 そのため、街中に描かれているネズミの多くは、グラフィティを描くための道具を持っているとも考えられます。 バンクシーが起こした4つの大事件 謎の多いバンクシーは、グラフィティアートを使った前代未聞の事件をいくつも起こしています。 複数の有名美術館で作品を勝手に展示 バンクシーは、有名美術館に自分の作品を勝手に展示するという、異例の大事件を起こしています。 世界中の美術ファンが訪れるロンドンのテート・ブリテン美術館。 2003年、第七展示室を映し出す監視カメラには、つばの広い帽子とオーバーコート身につけた一人の男の姿が映っていました。男性は、ある壁面の前で立ち止まり、紙袋から額装と絵を取り出すと、なんと美術館の壁面に絵を勝手に飾り始めたのです。 そして、壁に絵を飾り終わると、何食わぬ顔で美術館を後にしました。 この飾られた作品がバンクシーのものであると判明したのは、絵の横に貼られた作品解説ラベルにバンクシーと書かれていたからでした。 勝手に飾り付けられた作品は、2時間半後に絵が自然に落ちるまで、誰も展示に気付かなかったそうです。 バンクシーは、大英博物館、ロンドン自然史博物館、ルーヴル美術館、ニューヨーク近代美術館、ブルックリン美術館など世界規模のミュージアムでも同じように自分の作品を勝手に展示しています。 美術品を盗難するのではなく、自分の作品を展示品として飾る行為は、前代未聞の事件として話題を集めました。 動物園の檻の中に侵入し作品を描く 美術品の展示事件を起こしたころと同じ時期に、バンクシーは動物園にも侵入して作品を制作しています。 バンクシーは、バルセロナの動物園の象が入っている檻に侵入し、壁一面に縦に棒を4つ並べ、横線を1本引いた記号を壁一面に描きました。 まるで遭難者が、遭難してから何日が経過しているかを記録しているようなこの作品は、動物園の存在意義を問いかけているようです。 ブリストルやロンドン、メルボルンなどの動物園の檻にも不法侵入し、作品を制作しています。 檻の中のサルが「おいらはセレブだってば。ここから出せよ」と手書きされた段ボールを手にしていたり、ペンギンの暮らす囲いの壁面には「魚ばっかりで飽きちゃったわ」というセリフがペイントされていたり、まるで動物園の囚われた動物たちの声を代弁しているようなアートを残していったのでした。 期間限定「ディズマランド」を開園 バンクシーが「悪魔のテーマパーク」というコンセプトで開園させたのが、ディズマランドです。 2015年8月から5週間の期間限定でオープンしたディズマランドは、ロンドンから電車で2時間ほどの距離にあるウェストン・スーパー・メアという地域に作られました。 この場所はバンクシーの出身地とされているブリストルからもほど近い場所にあります。 ディズマとは「陰鬱」「不愉快」などの意味をもっており、「Amusement Park」ではなく、「Bemusement(困惑) Park」と銘打っています。 17か国、約50人の現代アーティストによる作品があちこちに飾られているのが見どころです。 また、入口のセキュリティからユーモアが溢れており、入管・税関、保安検査場のように見せている入場ゲートは、すべて段ボールで作られています。 テーマパーク内には、風刺を利かせたさまざまな作品が展示されていて、子どもが楽しむというよりも大人が考えさせられるパークであったといえるでしょう。 世界中を驚愕させたサザビーズのシュレッダー事件 世界を驚愕させた有名な大事件といえば、シュレッダー事件を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 2018年10月5日のロンドンで開かれたサザビーズオークションで、バンクシーの『風船と少女』の落札が行われました。 100万ポンドの値がつき、落札された直後、額縁の下部に隠されていたシュレッダーによって作品が裁断されてしまったのです。 作品の半分ほどが切り刻まれたところでシュレッダーは止まり、作品はスタッフによって運び出され会場を後にしました。 バンクシー本人のSNSでも切り刻まれる瞬間の様子が動画で投稿されており、衝撃を受けた人も多いでしょう。 シュレッダーにかけられたのち、『風船と少女』は『愛はごみ箱の中に』とタイトルが変更されました。 『風船と少女』を落札した人物は大変驚いたそうですが、このできごとにより価値が高まったとし、そのまま『愛はごみ箱の中に』を購入したそうです。作品は、落札者のもとへ送られる前に、サザビーズのギャラリーで2日間展示されたのち、ドイツのフリーダー・ブルダ美術館にて1か月間展示されました。 年表:バンクシー バンクシーはその正体が分からず、年齢なども不明のため、主なできごとを中心に年表にまとめました。 西暦 できごと 2001 メキシコ・チアパス州で壁画を描く。 2003 ゲリラ個展『ターフ・ウォー』をロンドンで開催。バンクシーの名前がイギリス中に広まる。 2005 大英博物館に『ペッカム・ロック』を無断で陳列。ヨルダン川西岸地区の分離壁に9つの絵を残す。 2006 ブリストルで裸の男がバスルームの窓からぶら下がる壁画を描く。パリス・ヒルトンのデビューアルバムのフェイクを制作し、レコードショップに無断で陳列。 2007 ヨルダン川西岸地区ベツレヘムで分離壁にステンシル画を描く。 2009 『Banksy versus Bristol Museum』を開催し、注目を集める。 2010 『ザ・シンプソンズ』のオープニングアニメーションを演出。 2013 ニューヨークでアーティスト・イン・レジデンス『ベター・アウト・ザン・イン』を開催。 2015 ガザ地区にて破壊された家の残骸にグラフィティを描く。『ディズマランド』をオープン。 2017 ベツレヘムに『ザ・ウォールド・オフ・ホテル』を開業。 2018 サザビーズオークションにて『赤い風船に手を伸ばす少女』がシュレッダーで切断される。 2019 兵庫県洲本市でバンクシー作とみられるネズミの絵が発見される。 2020 新型コロナウイルスと戦う医療従事者をテーマに『Game Changer』を発表。 2021 『愛はごみ箱の中に』が再び競売にかけられ、過去最高額で落札される。 2022 ウクライナにてロシア軍によって破壊された都市で7点の作品を発表。 2023 スコットランド・グラスゴーで14年ぶりの公式個展『CUT&RUN』を開催。 2024 イギリス・フィンズベリー・パークで新たな作品を発表。
2024.08.17
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