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尾形光琳(1658年-1716年)画家[日本]
琳派を代表する画家「尾形光琳」とは 生没年:1658年-1716年 尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家で、琳派を代表する人物です。 伝統あるやまと絵に、大胆な構図や色彩を取り入れた斬新な画風が特徴で、背景には金箔がふんだんに使用された屏風絵作品が有名です。 琳派は、世襲制や師弟関係が存在しないため、直接絵を学ぶことはありませんでしたが、光琳は俵屋宗達をはじめとした先人の作品を手本に模倣を繰り返し、技術を学びながら独自の画風を築き上げていったと考えられています。 裕福な呉服屋の次男として生まれる 尾形光琳は、1658年に京都有数の呉服商である「雁金屋」の次男として生まれました。 父の尾形宗謙は、能楽や茶道、書、絵画などをたしなむ趣味人で、光琳は父の影響により幅広いジャンルの文化芸能に幼いころから親しみました。 陶工や絵師として活躍していた尾形乾山は、光琳の5歳下の弟です。 裕福な家柄で生まれ育った光琳でしたが、21歳のときに雁金屋の最大顧客であった東福門院が亡くなってしまいます。 東福門院は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の娘であり、後水尾天皇の后でもありました。 最大の顧客を失った雁金屋の経営状況は悪化の一途をたどり、30歳のときには父が亡くなります。 尾形光琳は、父の莫大な遺産を相続しましたが、まともに働かないまま遊び惚けており、早々に財産を使い果たしてしまったといわれています。 尾形光琳は遊び人だった? 数多くの名作を残している尾形光琳ですが、30代を迎えるまではかなりの遊び人だったといわれています。 亡くなった父の遺産で豪遊し、女性との交際も華やかなものだったそうです。 30歳前後で結婚したといわれていますが、トラブルは後を絶ちませんでした。 32歳のときには、女性から子どもの認知をめぐって訴えられたこともあり、家屋敷や財産を差し出して穏便に済ませようと交渉に持ち込んだ逸話も残されています。 また、光琳には、正妻を含めて6人の妻と7人の子どもがいたともいわれています。 このような話から、光琳は大変プレイボーイであったと予想できるでしょう。 本格的に画業をはじめたときも借金をしており、のちに画家として成功してからも派手な暮らしから離れられず、借金漬けの生活を続けていたそうです。 絵師としてデビューしたのは30代後半 尾形光琳が絵師として本格的にデビューしたのは30代後半ごろからだったといわれています。 江戸に移り住み、大名お抱え絵師として活躍し、雪舟の水墨画や狩野派、中国絵画などを学んでいきますが、江戸での暮らしになじめず5年ほどで京都に戻っています。 京都に戻ってからは、江戸で学んだ技術や経験と持ち前の絵画センスで、目覚ましい活躍をみせるようになりました。 幼いころから家業の影響で衣装文様の装飾美に多く触れていた光琳は、構図感覚や色彩感覚に優れていたと考えられます。 また、公家の名門である「二条綱平」という強力な後援者を得るとともに、富裕層が好む装飾的で豪華絢爛な作風を得意として、活躍の場を広げていきました。 1701年、尾形光琳が44歳のときには「法橋」の称号を授かっています。 そもそも法橋は、高僧に与えられる位ですが、優れた功績をおさめた絵師や仏師にも与えられるケースがありました。 制作年代を確定できる要素がなく、いつごろ制作されたものか判明していない作品もありますが、残されている多くの作品に「法橋光琳」の落款が押されていることから、本格的に絵画を制作し始めたのは、30代後半から40代以降と推察されています。 尾形光琳が活躍した元禄年間 尾形光琳が活躍した時代は、琳派が誕生してから約100年経った時代の京都です。 光琳が生まれた時代は、元禄年間と呼ばれており、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉がおさめていたころです。 江戸時代の最盛期ともいわれており、積極的な新田開発や農業技術、器具の改良などにより農業生産力が大幅に向上し、経済的にも発展を遂げていました。 商品流通の拡大もあり、貨幣経済が発展し、大阪や京都を中心に商業都市が栄えていきました。 絵画の世界では、幕府や大名のお抱え絵師である狩野派や、朝廷絵師の土佐派などが活躍していたそうです。 一方、琳派は新しい時代の作品を多く制作しており、数々の名品を生み出しています。 光琳は、琳派の中でも本阿弥光悦や俵屋宗達の技法を吸収し、琳派を発展させていった人物としても知られています。 絵画や蒔絵に新しい風を吹き込み、多くの人々から人気を集めました。 300年後も評価されるデザインセンスを持っていた 尾形光琳は、デザインセンスに優れており、俵屋宗達の画面構成にならい独自の画風を確立しました。 『紅白梅図屏風』でも、その天才的なセンスが発揮されており、大きな水流を中央に描き、左右の金地には紅白の花を咲かせた梅の老木と若木を配置しています。 自然の景観をモチーフにしていますが、本来の自然界では存在しない構成であり、光琳のセンスが光る作品です。 印象的な構図で、当時の日本美術のイメージとはかけ離れている作品であるにもかかわらず、一つの作品としてまとめられているのは、光琳のデザインセンスがあったからこそであるといえるでしょう。 また、『燕子花図屏風』では、燕子花のモチーフが繰り返されているデザインが印象的で、光琳のクリエイティブさがうかがえます。 尾形光琳は美意識も高かった 尾形光琳は、美意識も高く、優れたファッションアドバイザーでもありました。 光琳は、後援者だった中村内蔵助と公私問わず親交を深めており、蔵助の妻が茶会に出かけるときにどのような衣装を着ていくべきかを光琳に相談したそうです。 当時、富裕層の妻たちが集まって行われていたお茶会は、衣装の豪華さを競う場でもありました。 光琳はそのような場で、あえて白と黒のシンプルな色使いの衣装を提案します。 アドバイスを受けて、シンプルな衣装を着て出かけた蔵助の妻は、豪華な装いをしたほかの妻たちから絶賛されたそうです。 このエピソードから、光琳が優れたファッションセンスも身につけていたことがわかるでしょう。 尾形光琳はアール・ヌーヴォーの火付け役? 尾形光琳は、19世紀の終わりから20世紀のはじめごろのフランスを中心としたヨーロッパ全体で流行していたアール・ヌーヴォーの火付け役であったともいわれています。 国際的な美術運動であるアール・ヌーヴォーは、植物の文様や流れるような曲線のデザインが特徴的で、その後のジャポニズムにつながっていきました。 アール・ヌーヴォーが誕生したきっかけは、琳派の絵画であったといわれています。 当時欧米では、シーボルトが持ち帰った酒井抱一の『光琳百図』や、フェノロサによって紹介された琳派の俵屋宗達や光琳が注目されており、光琳文様の自然表現がクリムトやミュシャなどの画家に大きな影響を与え、西洋絵画に新しい風を吹き込んだのでした。 尾形光琳と俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代の初期に活躍していた絵師で、尾形光琳とは生きていた時代が異なります。 直接的な師弟関係はありませんでしたが、光琳の作品からは宗達が描いた『風神雷神図』『槙楓図』のような様式がみられるものもあり、光琳が宗達の作品から学びを得ていたのではないかと考えられています。 光琳は宗達を目標にしていたといわれていますが、決して越えられない壁であると気付いた光琳は、独自の画風を生み出していったのでした。 尾形光琳と尾形乾山 尾形光琳には、尾形乾山という5歳離れた弟がいました。 乾山も芸術家としての道に進んでいますが、絵ではなく焼きものの制作を選び、二条家から譲ってもらった窯で乾山窯を開いていました。 初期のころに制作していた焼きものの絵付けは、すべて兄である光琳が行っていたそうで、兄弟の仲は良好であったと考えられるでしょう。 また、派手好きで遊び人であった光琳とは正反対に、乾山は勤勉で読書好きだったといわれています。 年表:尾形光琳 西暦 満年齢 できごと 1658年 0歳 京都で呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。幼名は惟富、通称は市之丞。 1678年 20歳 雁金屋の経営が東福門院の崩御により傾き始める。 1687年 29歳 父・宗謙が死去。兄・藤三郎が雁金屋を継ぎ、光琳は遊興にふけ、借金をつくる。 1692年 35歳 「光琳」の名が史料に初めて登場する。収入の為に画業に専念し始める。 1701年 44歳 法橋の位を得る。これ以降、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られるようになる。 1704年 47歳 江戸へ下る。裕福あった中村内蔵助を頼り、経済的に困窮しつつも活動を続ける。 1709年 51歳 京都に戻る。 1711年 53歳 京都の新町通りに新居を構え、創作活動を行う。 1713年 55歳 長男・寿市郎に遺言書に相当する書を残す。自身の画業を「家業」とは見なしていないことを述べる。 1716年7月20日 59歳 死去。代表作『紅白梅図』などを残す。
2024.12.27
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旭玉山(1843年-1923年)彫刻家[日本]
象牙彫刻や彫嵌細工を手がける「旭玉山」とは 生没年:1843年-1923年 旭玉山とは、象牙彫刻や彫嵌細工を表現のメインとして活動していた彫刻家です。 玉山は、浅草の寺の子どもとして生まれますが、僧侶の道を捨て、一般の人に戻り、独学で彫刻を学んでいきました。 彫刻の技術を習得すると、生き物をモチーフにした精緻な根付を作り、生活するように。 根付とは、主に江戸時代に使用されていた留め具のことで、印籠や煙草入れ、巾着などに利用されていました。 その後、玉山は1877年に開催された第一回内国勧業博覧会に『人体骨格置物』を出品し、見事竜紋賞を受賞しました。 翌年の1878年には、明治時代の彫刻科である石川光明とともに、牙彫の技術や文化を発展させるために、競技会と批評会を定期的に開催するようになり、のちの東京彫工会につながっていきます。 1881年には、第二回内国勧業博覧会にて『牙彫髑髏』を出品し、名誉賞牌を受賞して高く評価されます。 明治宮殿が造営される際は、東京彫工会を代表して宮内省に出向き、多くの工芸家たちをまとめて彫刻制作を取り仕切りました。 1890年、玉山は眼病を患い大磯に移住し、その後1892年には京都に移り住みます。 京都に移ってからは、関西地区で開催される博覧会で審査員を務めました。 1900年に開催されるパリ万国博覧会に向けて作品の制作を進めていましたが、展覧会までに完成が間に合わず、作品は翌年の日本美術協会展にて出品されました。 その作品が『官女置物』で、十二単を牙彫で精緻に表現しているこの作品は、明治牙彫の代表作として知られています。 玉山は、木彫をメインに嵌入彫刻や鹿角彫刻を制作していましたが、晩年は素朴でシンプルな表現の作品を多く制作しました。 象牙を素材にした彫刻「象牙彫刻」の特徴 象牙彫刻とは、象牙を素材として彫刻した作品を指し、象牙がもつ重量感や柔らかな質感、温かみのある色合いなどが特徴です。 牙彫師の繊細で卓越した技巧により生み出された象牙彫刻には、ほかの芸術作品にはない独特の美しさがあります。 また、すべての象牙が作品として利用できるわけではなく、彫刻とするのに適した硬度と粘りが存在します。 象牙彫刻によって作られる主な工芸品は、アクセサリーや根付などの作品や、刀装具、印章、楽器の部品、などです。 また、人や動物、建物をモチーフに作られた芸術作品も多く制作されています。 象牙彫刻の歴史をさかのぼると、約32,000年前のドイツで獅子頭の小立像が発見されており、この作品が最も古い象牙彫刻であるといわれています。 中国では、宮殿を飾る等宮廷職人が象牙彫刻の技術を発展させていき、奈良時代ごろに中国から日本にも象牙作品が伝わっていきました。 江戸時代以降は、牙彫根付が流行し、精巧な牙彫の印寵といった日用品や置物にも象牙彫刻の技術が利用されるように。 大正時代に入ると、着色技術が発展していき、豊かな色彩表現が特徴の象牙彫刻も増えていきました。 素材はめ込んで装飾する「彫嵌細工」の特徴 彫嵌とは、象牙や木などのベースとなる素材を図柄にあわせて彫り、刻んだ貝や牙角、金属、べっ甲などをはめ込んで装飾する技法を指します。 もともとは大陸で生まれた技法といわれており、日本に伝わってからさらに技術が洗練されていき、特に明治以降は、彫嵌細工の優れた美術品が数多く制作されています。 彫嵌細工は、素材の特性を熟知したうえで、高度な技術を用いて制作する必要があり、時間と手間が大いにかかる美術品です。 彫嵌細工は、美しいだけではなく、独特の風格や品格を備えており、多くの人の心を惹きつけてきました。 旭玉山の代表作『牙彫髑髏置物』 『牙彫髑髏置物』は、1881年に玉山が制作した牙彫作品で、明治政府が編纂している図案集『温知図録』にも掲載されています。 玉山は、医学者の松本良順らから人体骸骨の制作指導を受けており、象牙彫刻を用いた髑髏の制作を得意としていたそうです。 年表:旭玉山 西暦 満年齢 できごと 1843年 0歳 浅草の寺に生まれる。幼名は富丸。 1877年 34歳 第一回内国勧業博覧会で『人体骨格置物』を出展し、竜紋賞を受賞。 1878年 35歳 石川光明と共に牙彫発展のための競技会と批評会を開始。 1881年 38歳 第二回内国勧業博覧会で『牙彫髑髏』を出展し、名誉賞牌を受賞。 1885年 42歳 競技会と批評会が東京彫工会に発展。 1890年頃 47歳 眼病を患い、大磯に移住。 1892年 49歳 京都に移住し、関西地区の博覧会で審査員を務める。 1900年 57歳 パリ万国博覧会に向けて制作を進めるも間に合わず、翌年日本美術協会展に出展。 1901年 58歳 日本美術協会展に『官女置物』を出展し、高い評価を受ける。 1923年8月10日 80歳 死去。
2024.12.27
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高村光雲(1852年-1934年)仏師・彫刻家[日本]
彫刻界の重鎮と呼ばれた「高村光雲」とは 生没年:1852年-1934年 高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家で、明治から大正にかけて活躍した人物です。 仏像や動物をモチーフにした作品を多く残しており、代表作には、上野公園の『西郷隆盛像』や皇居の『楠公像』などがあり、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 息子の高村光太郎は、詩人であり彫刻家としても活躍した人物です。 12歳で仏師・高村東雲に弟子入り 光雲は、江戸・下谷源空寺門前の長屋にて生まれ、本名を中島幸吉といいます。 父の兼松は、自身が幼いころ家庭の事情で手に職を付けられなかった経験から、息子には何か手に職を付けさせてやりたいと考えていました。 幼いころからノコギリやのみで木片を切ったり削ったりしている光雲の姿をみて、大工をしている親戚の家に奉公に出そうと考えます。 光雲が12歳になり、いざ奉公に出る日の前日、髪を整えるために訪れた床屋で大きな転機がまっていました。 光雲が大工に弟子入りすると床屋の主人に伝えると、彫刻師の高村東雲が一人弟子をとりたがっていることを伝えられます。 それを聞き、光雲は大工への弟子入りをやめ、東雲に弟子入りすることを決めたのでした。 光雲は、伝統ある仏像彫刻の技術を守り続けてきた東雲のもとで、彫刻に関する技術を熱心に学びます。 のちに、光雲は兵役を逃れるために、東雲の姉の養子となり、高村の名を継ぎました。 1874年、東雲からも認められるほどの腕前を身につけた光雲は、高村光雲と名乗り、1877年には第1回内国勧業博覧会にて東雲の代わりに『白衣観音』を出品しました。 この作品は、最高賞となる龍紋賞を受賞し、光雲の名は多くの人々に知れ渡っていきます。 師匠亡きあと独立するも苦境が待っていた 1879年、師匠である東雲が亡くなり、光雲は仏師・彫刻家として独立することになりました。 師の東雲が精力的に製作していた時代から、木彫りは徐々に衰退の道を辿っており、明治維新後は、さらに仏教を廃止する運動が高まっていったため、仕事は急速に減少していきました。 さらに、海外向けに輸出された象牙彫刻が流行となり、独立したばかりの光雲の生活は、次第に苦しくなっていったのです。 しかし、光雲は逆風に飲まれることなく積極的に西洋美術を学び、木彫りをさらに研究していきました。 西洋美術から写実的な表現方法を学んだ光雲は、木彫りにも応用して新しい技術を生み出し、木彫りの伝統を近代へとつなげる橋を架けました。 牙彫師・石川光明をきっかけに美術の世界へ その後、光雲は洋傘の柄から貿易品の型彫りまで、木彫りの依頼は何でも引き受け、仕事を着実にこなしながら木彫りの技術を磨いていきました。 そのようなとき、転機となる彫刻作家、石川光明と出会います。 光明は光雲と同い年で、下谷稲荷町の宮彫師の家に誕生し、牙彫師・菊川正光に師事し牙彫を学んでいる人物です。 1881年には、第2回内国勧業博覧会に出品した『魚籃観音』が妙技二等賞を受賞し、超絶技巧といわれるほどの高い技術力によって活躍していました。 地元が同じかつ同い年であり、さらには似た経歴をもつ2人は、すぐに意気投合し、光明に誘われ、光雲も日本美術協会の会員となっています。 これがきっかけで、仏師職人の道を歩んできた光雲が、日本美術の世界に足を踏み入れていくのでした。 その後、光雲は日本美術協会役員の推薦により、光明とともに皇居造営における室内装飾を任され、日本の木彫りの第一人者として広く知れ渡りました。 東京美術学校の教授となり後進の育成に励む 光雲は、1889年に開校となった東京美術学校の教員に就任しました。 開校当初は、日本画科と彫刻科、工芸科の3つが設置され、光雲は校長の岡倉天心に誘われ、彫刻科の教員を務め、翌年には教授に就任しています。 同年、皇室が日本の美術や工芸を保護と奨励を目的として定めた帝室技芸員に、光明とともに任命されました。 その後は、明治のはじめごろから衰退の一途を辿っていた日本の木彫りを再興するために、精力的に製作活動をする一方、東京美術学校での指導や工房で多くの弟子をとるなど、後進の育成にも励みました。 高村光雲が手がける作品の特徴 高い技術力をもつ光雲は、伝統的な日本の木彫りに西洋の技術を融合させ、新たな作品を次々に生み出していきました。 伝統の木彫技術と西洋の写実性との融合 これまでの木彫りには、写実的な技術があまり用いられていませんでしたが、光雲は時代の移り変わりにあわせて積極的に西洋美術を学び、写実主義を取り入れた新たな木彫技術を生み出しました。 画家が写生するときのようにモチーフをよく観察し、見たままを写し取るのが特徴です。 写実性を重視していた光雲は、製作時に描いたスケッチが多く残されています。 今にも動き出しそうな細部へのこだわり 光雲の作品は、規模が大きく迫力のあるものも多くありますが、個人が所有する小・中サイズの仏像や動物をモデルにした作品も、多く製作しています。 小さな作品でも、口元の歯や目じりのシワなど細部に至るまで表現されており、衣は柔らかさをもった質感で再現されているのが魅力です。 動物をモデルにした作品では、皮膚の質感や毛の流れなども繊細に表現されており、今にも動き出しそうな躍動感が伝わってきます。 年表:高村光雲 西暦 満年齢 できごと 1852年3月8日 0歳 江戸下谷(現・台東区)で生まれる。 1863年 11歳 仏師・高村東雲の元に徒弟として入る。 1889年 37歳 東京美術学校に勤務開始、彫刻科教授に就任。 1890年 38歳 帝室技芸員に任命される。 1893年 41歳 『老猿』をシカゴ万博に出品。 1897年 45歳 『西郷隆盛像』が完成。 1900年 48歳 『山霊訶護』をパリ万博に出品。 1901年 49歳 正六位に叙される。 1903年 51歳 従五位に叙される。 1912年 60歳 正五位に叙される。 1922年 70歳 正四位に叙される。 1926年 74歳 東京美術学校を退職し、名誉教授となる。従三位に叙される。 1934年10月10日 82歳 死去。満82歳。
2024.12.27
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山田宗美(1871年-1916年)鍛金家[日本]
早世の鍛金家「山田宗美」とは 生没年:1871年-1916年 山田宗美は、石川県加賀市出身の鍛金家で、本名は山田長三郎といいます。 宗美は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で、加賀市の大聖寺藩に仕えていた武具鍛冶師の家系に生まれました。 1885年ごろから父の山田宗光に象嵌や打出しなど鍛金の技法を学び、ほかの兄弟が早くに亡くなってしまったことから1890年に10代目長三郎を襲名し、号として宗美を使うようになりました。 1891年、弱冠20歳とまだ若かった宗美は、新しい鉄打出の技法を編み出します。 1枚の薄い鉄板を金づちで叩いて伸ばし、立体の花瓶や置物を作り上げる独自の手法で、銅をはじめとした柔らかい金属とは異なり、鉄の打ち出しは難しく高い技術が必要なため、この技法は、画期的なものでした。 宗美は、卓越した鉄の打ち出し技術を持ち合わせており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」といわれるほどでした。 宗美は、自身が編み出した鉄打出技法を用いて数々の名作を製作しています。 1896年には、日本美術協会展に作品を初出品し、三等賞銅牌を受賞して宮内庁御用品となりました。 さらに、1900年にフランスで開催されたパリ万国博覧会、1904年にアメリカで開催されたセントルイス万国博覧会にも立て続けに作品を出品し、一等賞金牌を受賞しています。 さらに、1910年の日英博覧会に出品した『鉄打出狛犬大置物』は、名誉大賞を受賞。 宗美の精巧な技術と作り上げられた作品は、日本のみにとどまらず、海外からも高く評価されたのでした。 華々しい活躍をおさめる宗美ですが、一心不乱に創作活動を行っていたため、健康面で不調がみられるようになっていきました。 1913年、宮内省により運営されている帝室技芸員に推薦され、1916年には内定していましたが、発表を目前にして宗美は、44歳という若さで亡くなってしまいます。 帝室技芸員とは、美術や工芸において優秀な功績を残した人物が任命されるもので、技術の保護と発展のために制定された制度です。 今後の活躍も大いに期待されていた宗美でしたが、任命発表を待たずして生涯の幕を下ろしたのでした。 山田宗美が作り出す作品の魅力 宗美が製作してきた作品は、金属でありながらも細やかな写実性を表現しているのが大きな特徴です。 宗美は、たがねを使用して金属の表面を細かく彫り、彫った溝に別の種類の金属をはめ込む彫金技法「象嵌」を得意としていました。 江戸時代においては、武士が使用する鎧や兜、刀などの装飾に象嵌の技術が活用されていました。 象嵌を使用して金属を作る技法には、鍛金・彫金・鋳金の3つがあり、鍛金とは熱した金属が伸びる特性を活かし、叩いて伸ばすことで造形していく技術です。 宗美は、造形が難しいといわれていた鉄を使用した打出技法を編み出しており、その技術を利用して精巧な置物や花瓶などを作成しています。 宗美の作品では、特にウサギをモチーフにした置物が有名で、本物のウサギのようにピンと長い耳や柔らかな毛の質感を鉄で巧みに表現しており、作品を鑑賞すると思わずうっとりしてしまうでしょう。 細部にまでこだわり写実された作品は、素人目でみても心が惹きつけられます。 山田宗美は新しい技法を生み出した 宗美が考え出した鉄打出と呼ばれる新技法は、画期的な技術で、日本のみならず世界中で高く評価されています。 素材が鉄であるにもかかわらず、作品から冷たさは感じられず、写実的で今にも動き出しそうな躍動感が魅力です。 宗美には弟子がおり、黒瀬宗世は、1枚の薄い鉄板を伸ばして立体的な作品を作り出す技術を継承した数少ない人物です。 若くして亡くなってしまった宗美ですが、生み出された匠の技術は、後世にも伝えられています。 山田宗美の代表作品 巧みな技術を用いて作られた宗美の作品は、金属でありながらもリアルで温かみがあります。 『鉄打出兎置物』 『鉄打出兎置物』は、本来は伸ばしにくい1枚の薄い鉄板を、均一の厚さを維持しながら金づちで伸ばしていき、打ち絞ることで置物や花瓶を造形していく鉄打出工芸の技法を用いて作られています。 1枚の鉄板から形作られたとは思えない、リアルで躍動感のある作品は、精緻な写実表現により見る者を圧倒します。 また、鋳造品のように重量感のある見た目をしていますが、実際に作品を手に取ってみると、思っているよりも軽いのが特徴です。 この技法が誕生した過程や技法の詳細は、記録や資料として残されておらず、現在では再現不可能な幻の技法といわれています。 両耳をピンと真っすぐに伸ばしてうずくまるウサギの置物は、今にも飛び跳ねそうな躍動感を兼ね備えています。 前足と後ろ足の緊張感のある筋肉表現や、ふわふわとした毛の質感、両頬を膨らませて何か口に含んで隠しているような愛らしさなど、ウサギ独特の表情や動きがリアルに表現されているのが魅力の一つです。 写実性の高さから、技術力はもちろん、宗美の観察眼の鋭さも作品から垣間見えます。 『大根鼠置物』 『大根鼠置物』は、横向きに置かれた大根の上で、今にもかじりつきそうな様子のネズミが表現された作品です。 口元に手を当てた表情は、写実性が高いだけではなく、ネズミの生命感や躍動感なども巧みに表現しています。 宗美は、この作品を製作するにあたって、ネズミの生態を知るために俵を被り、20日間納屋に潜んでネズミとともに住んだというエピソードが残されており、リアルな表現のために観察に力を入れていたとわかります。 大根は、実際に無造作に置いたときに広がる葉の形を巧みに表現しており、ネズミと同様に鉄の堅さを感じさせない柔らかな質感をもっているのが特徴です。 年表:山田宗美 西暦 満年齢 できごと 1871年12月23日 0歳 石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で生まれる。 1891年 19歳 独自の鉄打出し技術を編み出す。 1896年 25歳 日本美術協会展で受賞。 1900年 28歳 パリ万国博覧会で受賞。 1904年 32歳 セントルイス万国博覧会で受賞。 1909年 37歳 日英博覧会で『鉄打出狛犬大置物』が名誉大賞を受賞。 1916年3月15日 44歳 帝室技芸員に内定するも、発表前に死去。 1982年 - 『鉄打出狛犬大置物』と『鉄打出鳩置物』が石川県指定文化財に指定。
2024.12.27
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鈴木長吉(1848年-1919年)金工師[日本]
生きているかのような『十二の鷹』を作った「鈴木長吉」とは 生没年:1848年-1919年 鈴木長吉は、日本の金工技術を海外に広め、人気を高めた金工師の名工です。 日本の工芸品を積極的に海外へ輸出し、伝統的な美と技術を広めるとともに、日本の発展にも寄与しました。 18歳で独立し江戸で開業する 現在の埼玉県坂戸市である武蔵国入間郡石井村で生まれた長吉は、比企郡松山を代表する岡野東流斎から蝋型鋳金を5年間学んでいます。 鋳金とは、高熱で溶かした金属を鋳型に流し込んで、鋳型の空間にあわせて形を作る技法で、鋳型を蝋で製作するのが蝋型鋳金です。 その後、18歳で鋳物職人として独立を果たし、江戸で開業しました。 1874年には、明治政府が西洋諸国に対抗するために始めた政策の一つ殖産興業の一環として、日本の工芸品を西洋へ積極的に輸出する取り組みが動き始めました。 長吉は、輸出を目的に設立された起立工商会社の鋳造部監督を務め、2年後には工長となり、退社する1882年までの間、多くの大作を手がけて国内外の博覧会へ出展を行い、高い評価を得ています。 明治のはじめごろは、まだ機械工業が未発達であったため、高い技術によって作られた精巧な工芸品は、日本にとって貴重な外貨取得手段でした。 また、幕府解体により廃刀令や廃仏毀釈が出された影響で、職を失いつつあった当時の金工家にとって、工芸品を輸出する目的で設立された数々の企業は、生計を立てるための貴重な仕事場でした。 西洋人好みの作品を製作する 長吉は、西洋事情に詳しい日本の美術商・林忠正の監修のもと、西洋人好みの作品を製作していきました。 その一つが『十二の鷹』で、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つです。 また、同じ博覧会に出品された『鷲置物』は、2001年に重要文化財に指定されました。 長吉自身は、1896年に高い技術力が国に認められ、鋳金家として帝室技芸員に任命されました。 機械工業の発達により工芸品製作は下火に 日本の工芸品を製作する職人たちが活躍していく中、明治後期に入ると日本の機械工業が日に日に発達していき、手間や時間のかかる工芸品の製作は、下火になっていきました。 また、日本の工芸品が粗製乱造や過度な西洋趣味に偏ってしまっていたことも相まって、工芸品に対する評価が落ちてしまっていたのでした。 精緻かつ写実的で美しい装飾を大量に施す長吉のスタイルは、アール・ヌーヴォーの盛り上がりが収まっていくにつれて時代の流行とマッチしなくなっていきます。 晩年、長吉は養子を迎えて金剛砥石業に転職し、1919年、腎臓病にて自宅で亡くなりました。 高い技術と才能が認められて帝室技芸員にまでのぼりつめた、工芸界にとって重要な人物ではありますが、晩年の詳しい活動は明らかになっていません。 鈴木長吉の代表作 長吉は、数々の名作を残しており、展覧会にて受賞歴のある作品も多数存在します。 『十二の鷹』 『十二の鷹』は、1893年に製作されており、長吉はこの作品を製作するために実際に鷹を飼い、写生を繰り返して製作までに3年の月日を費やしたそうです。 江戸時代に発展した卓越した金工技術を用い、さまざまな姿の鷹をまるで生きているかのように表現しています。 『十二の鷹』は、1893年のシカゴ万博に出品され、紀念賞を受賞しました。 徳川幕府の時代、鷹が生息する48の地域から若い鷹を60羽近く集め、その中から将軍の鷹狩りのために選りすぐりの12羽を選定する儀式があり、その儀式にちなみ12羽の鷹が製作されました。 『孔雀大香炉』 『孔雀大香炉』は、1876年から1877年にかけて製作され、1878年のパリ万国博覧会に出展し、金賞を受賞しています。 構想は、フィラデルフィア万国博覧会の直後から練られ、渡辺省亭や山本光一に図案を作成してもらい、若井兼三郎が構図を作成、長吉が鋳造を担いました。 製作当初は、香炉の上に鳩が5羽いたそうです。 アール・ヌーヴォーの名を生み出した美術商のサミュエル・ビングは、この作品を「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と褒め称えました。 ヴィクトリア&アルバート博物館は、多額の予算を投じてビングから作品を購入し、現在博物館に所蔵されています。 『青銅鷲置物』 『青銅鷲置物』は、図案を山本光一が手がけ、鋳造を長吉が担当した作品で、1885年にニュルンベルク府バイエルン工業博物館にて開催された金工万国博覧会で金賞牌を授かり、博物館長が作品の美しさに驚き、会場で一番目立つ円形広間に移動させたそうです。 『水晶置物』 『水晶置物』は、1876年に御嶽山で採取された水晶玉の原石を用いて作られた作品で、第2回内国勧業博覧会に出品されました。 1893年に、美術館が水晶玉の寄贈を受けると、その後水晶にあわせてカスタムメイドの台座の製作を山中商会に依頼し、1500ドルが支払われたそうです。 『銅鷲置物』 『銅鷲置物』は、1893年に製作された作品で、岩上から獲物を狙う鷲の姿を写実的に表現した青銅製の置物です。 羽の一本一本が精密に作られており、足の肌合いまでもが本物のように表現されています。 鷲は、頭部・胴部・両翼・脚部を蝋型鋳造で作って接合し、接合部はたがねやのみを使って整えてあります。 鷲本体は黒褐色で、くちばしと爪は茶褐色で表現され、両目の眼球は彫った溝に純金を埋め込む金象嵌の技法が施されているのが特徴です。 年表:鈴木長吉 西暦 満年齢 できごと 1848年9月12日 0歳 武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれる。 1866年 18歳 岡野東流斎に蝋型鋳金を学び、独立して江戸で開業。 1874年 26歳 起立工商会社の鋳造部監督に就任。 1876年 28歳 『孔雀大香炉』を制作。フィラデルフィア万国博覧会に出品。 1882年 34歳 起立工商会社を退社。 1885年 37歳 『青銅鷲置物』でニュルンベルク府バイエルン工業博物館の金工万国博覧会で金賞を受賞。 1893年 45歳 『十二の鷹』『鷲置物』をシカゴ万国博覧会に出品。『十二の鷹』は高い評価を受ける。 1894年 46歳 『百寿花瓶』を制作。 1896年 48歳 帝室技芸員に任命される。 1899年 51歳 『岩上双虎ノ図置物』を制作し、翌年のパリ万国博覧会に出品。 1903年 55歳 『水晶置物』を制作。ボストン美術館に収蔵。 1919年1月29日 72歳 東京の自宅にて、腎臓病のため逝去。
2024.12.27
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木谷千種(1895年-1947年)日本画家[日本]
大阪を拠点に活躍した「木谷千種」とは 生没年:1895年-1947年 木谷千種は、大正から昭和にかけて活躍した女性日本画家です。 大阪をメインに活躍した人物で、島成園や松本華羊、岡本更園などとも交流があります。 当時の女性としては珍しく、渡米して洋画を学んでいますが、自身の作品では、歌舞伎や人形浄瑠璃など、日本の伝統芸能や伝統行事に焦点を当てた作品を多く残しています。 結婚後は、家事や子育てをしながらも、精力的に絵を描き、発表し続けました。 12歳で渡米しシアトルで洋画を学ぶ 千種は、大阪府大阪市北区堂島にて、外国の商品や西洋の衣料・雑貨をメインに扱う唐物雑貨商を経営する吉岡政二郎の娘として誕生しました。 本名は吉岡英子で、幼いころに母を失っています。 12歳になると、渡米してシアトルで2年間洋画を学び、1909年に帰国した後は、大阪府立清水谷高等女学校に通います。 在学中から日本画家の深田直城に師事し、花鳥画を学びました。 深田は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、京都にて四条派を学び、その流れをもつ大阪の船場派で絵を描き続けるとともに、後進の育成にも貢献した人物です。 その後、千種は1909年に発生した大阪府大阪市で発生した大きな火事・北の大火により、自宅を焼失してしまいます。 東京移住後は池田園に師事する 千種は、女学校卒業間近にして東京に移住し、1913年から約2年間、女性日本画家の池田蕉園に師事しました。 蕉園は、明治から大正にかけて活躍した女性浮世絵師であり日本画家で、東京で最も人気のある美人画の描き手であったといわれています。 上村松園とともに女性美人画家の双璧といわれていましたが、31歳と若くして亡くなっています。 第6回文展で初入選を果たす 1912年、千種は、吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し、見事初入選を果たしています。 1915年には、大阪に戻り、池田室町に住んでいた叔父で東京テアトル創業者の吉岡重三郎のもとで一時的にお世話になることに。 叔父は、阪急東宝グループの創業者である小林一三を支援し、宝塚歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに力を入れた人物で、千種はこのようなモダンな環境にて絵画の制作活動を本格化させていきました。 大阪では、日本画家の野田九浦や浮世絵師であり日本画家の北野恒富などから、美人画を中心に学び、第1回大阪美術展覧会には『新居』を出品しました。 大阪で「女四人の会」を結成 女性日本画家の先駆けである大阪出身の島成園が、21歳という若さで第7回文展で入選を果たし、前年にも『宗右衛門町の夕』で初入選を果たしていたことから、若い女性画家が注目を集めていました。 また成園の活躍は、同世代の大阪の女性日本画家にとって大きな刺激となり、女性が職業画家を目指して大阪に集まる現象が起きていたそうです。 その中で、同じ時代に文展でそれぞれ入選し活躍していた千種、成園、華羊、更園が集まり、1916年に「女四人の会」が結成されました。 女四人の会は、浮世草子の井原西鶴が作った『好色五人女』をテーマに大阪で展覧会を開催しました。 千種は、1915年の第9回文展で入選した『針供養』や1918年の第12回文展入選作品の『をんごく』などを発表して注目を集め、のちに文展無鑑査決定を得ています。 その後、1918年に千種は、住まいを京都に移し、翌年から近代日本画家の先駆者といわれている竹内栖鳳の紹介により、菊池契月から絵を学んでいます。 千種は、同門である梶原緋佐子、和気春光とともに、「契月塾の三閨秀」と称されました。 -島成園 生没年:1892年-1970年 成園は、大阪堺に生まれ育ち、大阪を中心に活躍した女性日本画家です。 弱冠20歳にして、第6回文展に入選し、翌年の第7回文展でも入選するなど、若くして頭角を現し、美人画の領域を超えた衝撃的な作品を多く描き注目を集めていました。 成園が同世代の女性画家に与えた影響は大きく、多くの女性画家が大阪に集まり、近代大阪で一大勢力を形成しました。 -松本華羊 生没年:1893年-? 華羊は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家で、1913年に第13回巽画会展で入選を果たし画壇デビューすると、『ばらのとげ』、『池のほとり』、『都の春』など次々に新作を発表します。 1915年に大阪へ移り住み、第9回文展では『青葉の笛』が入選し、創作グループ「女四人の会」のメンバーとなり、さらに活躍の場を広げていきました。 1916年ごろからは、日本画と並行して洋画や彫塑などにも挑戦するようになり、1917年には泥人形展覧会を開催しています。 -岡本更園 生没年:1895年-? 更園は、日本画家の鏑木清方、西山翠嶂の門下であり、大正から昭和にかけて活躍した大阪の女性日本画家です。 はじめは、義理の兄である岡本大更の更彩画塾にて日本画を学び、その後「女四人の会」を結成して活躍の場を広げていきました。 美人画が得意で、新聞や雑誌の挿絵などの制作活動も行っていました。 結婚後は文楽や歌舞伎なども描く 1920年、千種は、近松門左衛門を研究している木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に戻ります。 結婚後は、これまで注目を集めてきた美人画だけではなく、文学や歌舞伎をテーマにした作品も多く描くようになりました。 1925年には、第6回帝展に『眉の名残』を出品して入選、1926年の第7回帝展では『浄瑠璃船』が入選、1929年の第10回帝展では『祇園町の雪』が入選するなど、目覚ましい活躍を見せていました。 女性をモチーフにした作品の発表を続け、帝展ではあわせて12回も入選を果たしています。 また、夫の蓬吟が書いた『解説註釈大近松全集』の装丁や、蓬吟が編集と発行を務めた郷土趣味雑誌『大阪人』の表紙絵を描くなど、結婚後は夫の仕事も支えていました。 若手女流画家の育成にも力を入れた 千種は、自ら精力的に優れた作品を制作し続けるだけではなく、後進の育成にも力を入れていました。 大阪の自宅を利用して「八千草会」や「千種会」などを開き、若手女性画家たちの育成を行っています。 指導だけではなく、地位を向上させるべく、千種会展や大阪女流展などを開催し、弟子たちに作品を発表する機会を与えました。 千種自身も、自らの作品を展覧会に出品しています。 1947年、女性画家として活躍し、後進の育成にも努めた千種は、大阪府南河内郡にて51歳で亡くなりました。 年表:木谷千種 西暦 満年齢 できごと 1895年2月17日 0 大阪府大阪市北区堂島で唐物雑貨商の吉岡政二郎の娘として生まれる。本名は吉岡英子。 1907年 12 渡米し、シアトルで2年間洋画を学ぶ。 1909年 14 帰国後、大阪府立清水谷高等女学校在学中に深田直城に師事し、花鳥画を学び始める。同年、北の大火で自宅を焼失。 1912年 17 吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し初入選。 1913年 18 東京に移住し、日本画家の池田蕉園に師事する。 1915年 20 再び関西に戻り、叔父の吉岡重三郎の元に寄寓。野田九浦や北野恒富の指導を受ける。大阪美術展覧会に『新居』を出品。 1916年 21 島成園、松本華羊、岡本更園と共に「女四人の会」を結成し、『好色五人女』を題材にした展覧会を大阪で開催。 1918年 23 京都に転居し、竹内栖鳳の紹介で菊池契月に師事。「契月塾の三閨秀」の一人と称される。 1920年4月 25 近松門左衛門研究家の木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に帰阪。文楽や歌舞伎を題材にした作品を多く手掛けるようになる。 1925年 30 第6回帝展に『眉の名残』を出品し入選。 1926年 31 第7回帝展に『浄瑠璃船』を出品し入選。 1929年 34 第10回帝展に『祇園町の雪』を出品し入選。 1930年代 35-40 文展、帝展に通算12回の入選を果たす。 1930年代 35-40 夫の著作『解説註釈大近松全集』の装丁や雑誌『大阪人』の表紙絵を手掛け、夫を支援。 1940年代 45-50 自宅に画塾「八千草会」や「千種会」を設立し、女流画家の育成に尽力。千種会展や大阪女流展を開催。 1947年1月24日 51 大阪府南河内郡にて死去。
2024.12.27
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加納夏雄(1828年-1898年)金工師[日本]
明治を代表する彫金師「加納夏雄」とは 生没年:1828年-1898年 加納夏雄は、幕末から明治にかけて活躍した京都出身の金工師です。 廃刀令により仕事が減る中、ビジネスセンスを活かして世界に名を知らしめた夏雄は、刀剣装飾以外にも、花瓶や置物、香合や根付などをメインに製作を続けていきました。 京都に生まれ7歳で養子に出される 夏雄は、京都御池通柳馬場で米穀商をしている伏見屋の子として生まれ、7歳で刀剣商・播磨屋の加納治助の養子となり、才能を開花させていきます。 幼いころから商売道具である刀剣の特に鍔をはじめとした金具の美しさに心惹かれた夏雄は、子どもながらに鑑識眼を養っていきました。 やがて、夏雄は自らも工具を使うようになり、製作に打ち込むようになっていきました。 夏雄の才能を見抜いた治助は、彫金師の奥村庄八のもとで本格的な技術を学ぶよう夏雄に勧め、12歳のころから奥村庄八に師事します。 庄八のもとで金工の基礎を学んだ夏雄は、その後、名金工・大月派の池田孝寿にも学び、夜は四条円山派の巨匠といわれている中島来章に絵を学び、朝には和歌や学術を儒学者である谷森善臣から習うなど、1日中学び続ける生活を送りました。 金工の技術だけではなく、絵や学問も学んだことが夏雄の今後の作風に大きな影響を与えたといえるでしょう。 19歳で独立し江戸に行く 19歳になると、夏雄は京都で開業して彫金の世界で独立を果たし、刀剣装飾をメインに事業を展開していきました。 自宅の2階にこもり、古くから作られてきた金工名作を模造したり、円山応挙や呉春の絵を学びなおしたり、古名作を自分流にアレンジして独自のデザインを探したりと、楽しみながら学びも忘れずに続けていたそうです。 夏雄が開業した1846年ごろは、幕末の動乱の真っ最中で、何人もの職人を抱えていた夏雄は、分業スタイルを導入して刀剣装飾の仕事をこなしていきました。 効率よく大量生産できるこの仕事の方法は、のちの事業にもプラスの影響を与えます。 25~27歳ごろ、夏雄は新たな地で事業をはじめようと、江戸に向かいます。 江戸は、金工の大家が多く、夏雄の生活はしばらくの間困窮しました。 1855年ごろから注文がようやく入りはじめたと思いきや、安政の大地震に見舞われてしまいます。 大地震により江戸の家を失ってしまった夏雄は、周囲の助けを借りながら2か月後には新居を建て直し、少しずつではありますが店も繁盛し、名声を高め確固たる地位を築いていきました。 明治の新貨幣づくりに携わる 徳川幕府が解体され新政府が樹立し、明治時代を迎えると夏雄の事業は大きく変化していきました。 廃刀令により、刀剣装飾の仕事は激減してしまいますが、明治政府から新貨幣の製造という大きな仕事の依頼が舞い込んだのです。 彫金師として高い評価を受けていた夏雄は、造幣寮で新貨幣の製造に携わるようになり、弟子たちとともに古今の資料を集めて研究し、官僚らと合議を重ねて、原型となる新貨幣を1870年に完成させました。 明治天皇御剣の拵金具を作る 1872年には、明治天皇御剣の金具製作の依頼が飛び込んできました。 正倉院に伝来していた聖武天皇御剣を明治天皇が大変気に入り、新たに製作するにあたって、夏雄の名があがったのでした。 明治天皇御剣には龍が刻まれていますが、夏雄はあまり龍や獅子を取り入れた作品は製作しておらず、夏雄の作品の中でも珍しいモチーフの作品です。 その後も、夏雄は御太刀製作にも携わっています。 帝室技芸員として若手育成にも努めた ビジネスの才能があった夏雄は、造幣寮を去った後も精力的に製作活動を進め、手がけていた事業が軌道に乗ると、ウィーン万国博覧会や展覧会などでも高い評価を得るようになっていきました。 1889年には東京美術学校が開校し、夏雄は彫金科の教授として教鞭をとり、後世の育成に励みました。 翌年の1890年には、帝室技芸員に任命され、彫金師としてさらに注目を集めていきます。 加納夏雄が製作した作品の特徴 夏雄は、刀装具や硬貨だけではなく、時代に合わせて花瓶や置物、シガレットケースなどさまざまな作品を製作しています。 夏雄が手がけた作品は、伝統的な美を継承しつつも現代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせていること、片彫りによる写実性の高さなどが特徴です。 伝統的な美と現代のスタイリッシュさ 従来の技法を用いて伝統的な美を重んじながらも、時代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせているのが夏雄作品の大きな特徴です。 このようなデザインセンスは、幕末から明治という変化の大きい時代を過ごした夏雄ならではの感覚であったといえるでしょう。 片切彫りによる写実的なデザイン 夏雄は、片切彫りと呼ばれる手法を得意としており、モチーフの片側の線を垂直に刻み、ほかの線を斜めに彫っていくスタイルを指します。 江戸時代中期の彫金師が生み出した技法で、この彫り方を用いるとモチーフが立体的に見えるのが特徴です。 夏雄は、卓越した技術力により、片切彫りで人物や花、鳥、鯉などを精巧かつ美しくデザインしています。 また、夏雄は若いころに円山派の絵を学んでいたため、絵画で培った写実的センスが、作品にも大きく反映されたと考えられるでしょう。 真面目で寛容な性格から弟子たちに慕われていた 真面目で寛容な性格であった夏雄は、多くの弟子たちから慕われていたといいます。 ある日、夏雄の古希を祝おうと弟子たちが計画を立てていたとき、幹事を務めたいと申し出る門下が50人ほどもいたそうです。 実直で探求心旺盛な夏雄は、何事も軽率に扱うことがなかったため、いつまでも金工の技術と目を養うことを怠らなかったといわれています。 年表:加納夏雄 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1828年(文政11年)5月27日 0歳 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 1835年(天保6年) 7歳 刀剣商の加納治助の養子となり、彫金に興味を持つ。 1840年(天保11年) 12歳 彫金師奥村庄八の元で修行を始め、線彫り、象嵌などの技法を習得。 1842年(天保13年) 14歳 円山四条派の絵師・中島来章に師事し、写実を学ぶ。 1846年(弘化3年) 19歳 金工師として独立。 1854年(安政元年) 26歳 江戸へ移り、神田に店を構える。 1855年(安政2年) 27歳 安政の大地震により家を失う。 1869年(明治2年) 41歳 皇室御用を命じられ、明治天皇の太刀飾りを担当。 7月には、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣を作成。 1872年(明治5年) 44歳 正倉院宝物修理に携わる。 1873年(明治6年) 45歳 明治天皇の命により『水龍剣』の拵えを完成させる。 1876年(明治9年) 48歳 廃刀令により多くの同業者が廃業するが、煙草入れや根付を作り続ける。 1890年(明治23年) 62歳 第三回内国勧業博覧会で『百鶴図花瓶』が一等妙技賞を受賞し、宮内省に買い上げられる。 1890年(明治23年) 62歳 東京美術学校の教授に就任。 1890年(明治23年) 62歳 第1回帝室技芸員に選ばれる。 1896年(明治29年) 68歳 明治天皇の下命により『沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵』を完成。 1898年(明治31年)2月3日 69歳 逝去。
2024.12.27
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正阿弥勝義(1832年-1908年)彫金師[日本]
卓越した彫金技術をもっていた「正阿弥勝義」とは 生没年:1832年-1908年 彫金師である正阿弥勝義の彫金技術は、明治時代の職人の中でも群を抜いて優れていたといわれています。 精緻な彫金や高い写実性とともに、多彩な金属を使用して色数が多く、美しい光沢が表現されているとして高い評価を受けています。 評判は国内だけにはとどまらず、海外の展覧会で展示され、国内外問わず人気を集めている人物です。 彫金師の父をもち幼いころから彫金を学ぶ 勝義は、津山二階町に住んでいる津山藩お抱えの彫金師である中川五右衛門勝継の3男として誕生しました。 幼いころから父に彫金を学び、津山藩先手鉄砲隊小山家の後継ぎになった後は、江戸の彫金師に弟子入りを頼みますが、果たせずに江戸から帰郷し、養子関係を解消しています。 その後は、18歳のときに岡山藩お抱えの彫金の名家である正阿弥家の婿養子となり、正阿弥家の9代目を受け継ぎました。 正阿弥家は、藩主からの依頼を受けて刀装具を作り、安定した暮らしをしてきた名家です。 9代目となってからは、実の兄である中川一匠や、その師の後藤一乗などに手紙で下絵や脂型、作品をやりとりして指導を受けます。 兄の一匠は、代々徳川家に仕える彫金師である後藤家の門下であり、江戸幕府や宮中の御用職人を務めていました。 勝義の作品が多く所蔵されている清水三年坂美術館には、この時代に制作された刀装具や短刀拵もあり、作品のできばえから当時すでに高度な技術を有していたことがわかります。 技術を生かした美術工芸品づくりで成功 正阿弥家の9代目として刀装具などを作り、安定した暮らしを送ってきた勝義でしたが、明治維新後に薩摩藩主との雇用関係が解消され生活の保障がなくなると同時に、廃刀令によって刀装具の仕事もなくなってしまいました。 時代の流れにより多くの彫金家たちが廃業していく中、勝義は彫金師としての技術を生かして、新たに花瓶や香炉などの室内装飾品や、彫像などの美術工芸品、茶器などの制作を開始します。 1878年、30名あまりの当代随一の工芸家たちで輸出産業を立ち上げ、神戸の貿易商をしていた濱田篤三郎の紹介でイギリス商人と売買契約を締結。 しかし、不正な手段により利益を得ようとする奸商が、作りの粗い偽物を制作していたことで輸出を中止します。 その後、少数精鋭の職人で美術工芸に専念すると、イギリスから大衝立の注文を依頼され、加納夏雄・海野勝珉が十二支図案を作成し、勝義が金工彫、逸見東洋が木工を担当。 3年がかりで完成させて輸出し、現在はボストン美術館に所蔵されています。 勝義は、制作した作品を国内外問わず精力的に博覧会や美術展に出品し、世界各国で高い評価を得ており、受賞は30回以上、宮内省買い上げは13回にもおよんだそうです。 1899年、67歳になった勝義は、美術研究のために京都へ移り住みます。 京都の伝統文化に触れ、さらに才能を昇華させていき、高い評価を受けている作品の多くは、京都に移り住んでから亡くなるまでの10年間に制作されたものといわれています。 真面目で几帳面な彫金師であった 勝義は、真面目かつ几帳面であり、筆まめであったといわれています。 休みを取るのは正月と葵祭の2日だけで、それでも彫金の仕事に嫌気がさすこともなく、無心に制作に打ち込んでいたそうです。 ある日、成金から金の煙管を作ってほしいと頼まれ、一度は断ったもののどうしても欲しいと聞かないため、勝義は純金で煙管を作り依頼主に渡しました。 依頼主は大変喜びましたが、その様子を見た勝義はもう一度煙管を受け取り、金の上から鉄を巻いてしまいました。 そして、上から草花を彫ると、鉄の下から金の彫り物が浮かび上がり、依頼主に「金とはこうして使うものです」と言って返し、その依頼主は大変感心したそうです。 正阿弥勝義が制作した作品の特徴 勝義が作る作品は、超絶技巧と呼ぶほど高い技巧を誇っており、上品かつ精緻な作品は、多くの人の心を惹きつけました。 ときに生々しいほど写実性の高い表現もあり、一つひとつの作品を丹念に作り上げているとわかります。 また、巧みな技巧だけではなく色数の多さや鉄錆地の美しさも魅力の一つです。 勝義は、全体的に技術レベルの高い明治時代の彫金師たちの中でも群を抜いていたといわれています。 高い技術力に加えて、見る者の意表をつき想像を湧かせる遊び心や、粋な趣向なども盛り込み、複数の意匠を融合させることで、緊張感や物語性を生み出しているのです。 正阿弥勝義の代表作 『群鶏図香炉』は、銀地をベースに、金や銀、赤銅、素銅などのさまざまな金属を組み合わせてできています。 象嵌によりさまざまな鶏の姿を表現しており、ドーム状の火屋には、小菊を密集させ高肉彫で表現しています。 摘みの雄鶏は、丸彫で立体的に表されているなど、多彩な彫金技法を用いて作られた代表作の一つです。 『蓮葉に蛙皿』は、素銅地に鋤彫で葉脈を描き、緻密な槌目で葉の質感を巧みに表現しています。 虫食いの穴や枯れた葉の色調も細かく再現してあります。 ひときわ目を引くのが、巻いた葉の上に飛び乗った瞬間のアマガエルが表現されている部分です。 一瞬の動きを見逃さずに捉えた勝義の観察力の高さと、それを金属で表現する高い技術力がうかがえる一作品です。 年表:正阿弥勝義
2024.12.27
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濤川惣助(1847年-1910年)七宝家[日本]
無線七宝で活躍した「濤川惣助」とは 生没年:1847年-1910年 濤川惣助は、無線七宝を開発した七宝作家で、七宝を工芸品から芸術のレベルまで高めた人物でもあります。 東京の濤川、京都の並河と称され、国内外問わず高い評価を受けています。 1893年の、 シカゴ万博に出品された『七宝富嶽図額』は、2011年に重要文化財に指定。 1910年、63歳で肺炎にかかり亡くなるまで、七宝を研究し続け新たな道を切り開き続けた人物といえるでしょう。 貿易商から七宝家の道を目指す 惣助は、現在の千葉県旭市である下総国鶴巻村にて、農家の次男として誕生しました。 その後、陶磁器などを取り扱う貿易商となり働いていましたが、1877年に開催された第1回内国勧業博覧会で鑑賞した七宝焼に目を奪われ、七宝家の道を目指す決意をしました。 同じ年に、塚本貝助をはじめとした尾張七宝の職人たちが働いている、東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を、惣助は買収。 2年後となる1879年に、革新的な技術を用いて無線七宝を確立させました。 国内外の博覧会で賞を受賞 当時は、まだまだ機械工業が未発達であった日本では、伝統工芸品の輸出が貴重な外貨を得るための手段でした。 明治政府は、欧米で定期的に開催されていた万国博覧会に伝統工芸品を出品し、輸出を盛んに行おうとしていたのでした。 惣助は、この伝統工芸品を輸出する流れに乗って、国内外の博覧会に自身が手がけた無線七宝焼作品を出展し、次々に賞を受賞していきます。 1881年に開催された第2回内国勧業博覧会では、名誉金牌を授かり、1883年のアムステルダム万博では金牌、1885年のロンドン万博でも金牌、1889年開催のパリ万博では名誉大賞を受賞するなど、目覚ましい活躍をみせていました。 技術を磨き高い評価を受け順調に七宝家の道を歩んできた惣助は、1887年にはアーレンス商会と同様に尾張七宝の職人が働いている名古屋の大日本七宝製造会社の、東京分工場までも買収しています。 濤川惣助が生み出した無線七宝とは 無線七宝とは、有線七宝と同様に金属線を使用して模様を作り、釉薬を塗って焼成する前に金属線を取り除く技法により制作された作品です。 金属線を除去することで、釉薬の境界部分が混ざり合い、柔らかく滲んだような色合いが表現できます。 無線七宝は、釉薬の絶妙な色彩のグラデーションを生み出し、写実的で立体感がありつつも柔らかな表現ができる革新的な技法です。 また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝の技術を融合させることで、遠近感や水面に浮かぶ影の表現も可能としました。 濤川惣助が制作した32面の七宝額 1909年に東京御所として建設され、日本で唯一のネオ・バロック様式を用いた宮殿建築物である迎賓館赤坂離宮には、惣助が制作した七宝額が飾られています。 七宝額は、高度な技術と技法により制作されており、七宝を日本の伝統的な芸術品として世界に広めた作品といえるでしょう。 惣助の七宝焼は、これまで主流であった有線による表現ではなく、絵画のような滲みを巧みに表現した無線七宝の技法によって作られています。 赤坂離宮には、惣助がその巧みな技術と革新的な技法を用いて制作した七宝額が、花鳥の間に30面、小宴の間に2面の合計32面が飾られており、下絵は渡辺省亭が担っています。 帝室技芸員として活躍した二人のナミカワ 無線七宝を生み出し数々の賞を受賞した惣助と、有線七宝の巧みな技法と鮮やかな色彩により活躍した並河靖之は、どちらも七宝家であるとともに帝室技芸員でもありました。 帝室技芸員とは、日本の伝統的な美術工芸の技術を帝室で保護し、未来に継承・発展させるために定められた制度です。 二人のナミカワが帝室技芸員に任命されたのは、どちらも技術と人柄の両者において優れた美術工芸家であり、技術を磨き続けるとともに後進の育成に努めていたためです。 有線七宝を制作した並河靖之とは 靖之は、日本を代表する七宝家の一人で、有線七宝により活躍をおさめました。 彫金や象嵌などの技法も取り入れ、花や鳥、風景など自然から着想を得た図柄や、そこで暮らす人々の生活などを七宝焼に描きました。 これまで、図柄や紋様部分がメインで使用されていた黒色透明釉を、背景にも使用するようになり、そのような作品を「並河ブラック」と呼ぶことも。 鮮やかで独特な色彩の組み合わせや自由なデザインが海外でも高く評価され、海外の博覧会でも数多くの賞を受賞しています。 万年自鳴鐘の七宝台座を制作 万年自鳴鐘は、江戸時代の機械式置時計の傑作として知られており、七宝台座部分は、惣助が手がけています。 1851年に、田中久重が万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の6面部分はブリキ製であり、七宝による装飾はされていませんでした。 初代久重が亡くなったあと、2代目久重の依頼により万年自鳴鐘の大修理が実施され、その際に6角形の台座にある側面6面に七宝の装飾が施されたのです。 修理が無事終了した万年自鳴鐘は、日本初の時の記念日である1920年6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された時の博覧会にて展示されました。 6面には、それぞれ日本画が表現されており、岩礁や波、草木などと一緒に亀や鶏、太鼓、ウサギなどの動物も描かれています。 年表:濤川惣助 西暦 満年齢 できごと 1847年 0 下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれる。 1877年 30 第1回内国勧業博覧会を観覧し、七宝に魅了され七宝家に転進。塚本貝助ら尾張七宝の職人を擁するドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収。 1879年 32 革新的な無線七宝技法を発明。 1881年 34 第2回内国勧業博覧会で名誉金牌を受賞。 1883年 36 アムステルダム万博で金牌を受賞。 1885年 38 ロンドン万博で金牌を受賞。 1887年 40 大日本七宝製造会社の東京分工場を買収。 1889年 42 パリ万博で名誉大賞を受賞。 1893年 46 シカゴ万博に『七宝富嶽図額』を出展し、高評価を得る(後に重要文化財に指定)。 1896年 49 帝室技芸員に任命される(七宝分野では濤川惣助と並河靖之のみ)。 1910年2月9日 62 平塚の別荘で静養中、感冒から肺炎を併発し、死去。
2024.12.27
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並河靖之(1845年-1927年)七宝家[日本]
日本を代表する七宝家の一人「並河靖之」とは 1845年-1927年 並河靖之は、日本の七宝家の一人で、明治時代に京都で活躍した人物です。 幼いころは動物好きだった 靖之は、川越藩松平大和守の家臣であり、京都留守居役京都詰め役人であった高岡九郎左衛門の3男として生まれました。 川越藩は、近江国に5000石の支配下をもっており、高岡家は代々その代官を務めていました。 靖之は幼いころ動物好きで、毎日世話役におぶってもらって近くの本能寺の馬場へ馬の匂いを嗅ぎに行っていたそうです。 並河家の家督を急遽継ぐことに 1855年、11歳になると、親せきで粟田青蓮院宮家に仕えていた並河家当主の靖全が急死してしまったため、靖之は急遽養子になることに。 並河家の家督を受け継いで、1858年に成人の儀式である元服を行い、9代目当主となりました。 なお、江戸時代の青蓮院家には、東の並河家と西の並河家の2つの並河家がありましたが、靖之が養子になったのは、西の並河家です。 家督を継いですぐに、皇族の久邇宮朝彦親王に近侍として仕え、親王が相国寺への隠居永蟄居を命じられた際や、広島藩預りになった際も、近くで仕え続けました。 靖之は、日本古典馬術の流派の一つである大坪流を修める馬術の達人であり、伏見宮や閑院宮でも馬術の手解きをしています。 明治維新後に七宝焼作りに取り組む 靖之は、親王に仕えたあと、明治維新後から七宝焼作りの取り組みを開始します。 知識や資材が不十分な中で、試行錯誤しながら技術を学んでいきます。 そして1873年、靖之の初作品となる『 鳳凰文食籠』が完成しました。 当時、七宝焼というと、主に中国でよく作られている艶のない釉薬を用いた泥七宝が日本でも主流でした。 一方、尾張七宝では、釉薬の発展が進んでおり、乳濁剤や呈色剤を使用していない透明釉をよく用いています。 靖之は、内国勧業博覧会にて見た透き通ったガラス質で艶のある尾張七宝の美しさは、泥七宝とは異なり、大きな衝撃を受けました。 すぐさま靖之は、下絵師を務めていた中原哲泉とワグネルとともに、七宝焼の研究を進めました。 熱心に研究を重ねた結果、最終的にどの七宝工房よりも釉薬の色の種類が多くなり、特に黒の透明釉薬である黒色透明釉は、大変評判が高く、現代では並河ブラックと称されています。 靖之は、国内外問わずさまざまな博覧会で多数の賞を受賞しており、七宝作家として大成功を収めています。 並河工房には、海外からも文化人が多く訪れ、靖之が製作する京都並河の七宝焼は、新聞や雑誌などを通して海外へと広く紹介されました。 並河靖之が製作する七宝焼の特徴 靖之の七宝焼は、巧みな技法と鮮やかな色使いによって一世を風靡しました。 靖之は、彫金や象嵌などの技法を七宝焼に取り入れ、自然や風景、そこで暮らす人々の生活などを作品に描きました。 豊かな色彩 靖之作品の特徴は、表面に施された鮮やかな色彩で、七宝焼全体に見られる特徴ではありますが、靖之の作品ではより顕著で、見る者の心を惹く豊かな色彩が魅力です。 細部まで手の込んだ細工 靖之が作る七宝焼は、緻密な細工が特徴の一つです。 一つひとつの作品が、細部に至るまで繊細かつ緻密に手間暇をかけて作られており、巧みな技術力が見え隠れしています。 自然の要素が豊富なデザイン 靖之が作る七宝焼には、花や鳥、風景など自然から着想を得て製作された作品が多く、自然の調和が作品に深みと生命感を与えています。 時代によって変化をみせる作風 七宝焼の研究を絶えず続けてきた靖之の作品は、生涯を通して変化し、洗練されていきました。 初期の作品では、伝統的な七宝焼の手法を用いたものが多く、徐々に独自の色彩の組み合わせやデザインが追及されるようになっていきます。 後期の作品では、大胆で豊かな色彩と自由な形状のものが増え、靖之の個性ある芸術観が作品に反映されるようになっていきました。 靖之は、七宝焼の中でも有線七宝を極めた人物で、パリやロンドン、シカゴ、バルセロナなど海外の博覧会や内国勧業博覧会に出品された花瓶や壷などの作品は、金賞を含む数多くの賞を受賞しています。 有線七宝とは、素地に文様の輪郭線となる金や銀の線を張り付け、線の間に釉薬を塗って焼成・研磨する技法によって作られた七宝焼です。 初期(1873-1880) 靖之が七宝焼を製作し始めた当初は、艶の少ない釉薬を用いた泥七宝が主流でした。 初期の中ごろから日本でも釉薬の開発が進み、艶のある透明釉薬を利用した作品も作られるようになっていきます。 初期作品は、作品全体に植線を立てて、全面に模様や図柄を施した作品が多い傾向です。 植線には、真鍮線を使用していましたが、初期の途中からは銀線や金メッキ線を用いた作品も多く見られるようになりました。 作品の図柄には、鳳凰や龍などの古代図を題材にしたデザインが施された作品が多く残されています。 第二期(1880-1890) 釉薬の開発がさらに進んでいき、使用できる釉薬の色が格段に増えたことで、作品の鮮やかさが増していきます。 またこの時期の七宝焼には、真鍮線が見られず、植線には銀線や金メッキ線が用いられていました。 初期のころ同様に、作品全体に植線を立てて全面に図柄を施していますが、一つひとつの柄の精巧さがより増しており、技術力の向上が見られます。 第三期(1890-1900) 第三期からは、植線に銀線と金線を用いるようになり、これまで黒色透明釉は、図柄や紋様部分のみに使用していましたが、背景にも利用するようになっていきました。 背景に黒色透明釉を使用した作品は、並河ブラックとも呼ばれています。 これまで紋様的な図柄の多かったのが、第三期からは写実的な図柄に変化していき、余白が生まれ、品のある空白の美しさが引き立つように。 製作技術はより洗練されており、1本の植線で太さを変えて、筆によって描かれたような表現方法が用いられています。 晩年(1900-1923) 晩年の作品は、より空白が目立つようになり、余白の美が強調されています。 有線七宝の技術は、さらに向上しており、第三期と同じように筆で水墨画を描いたような図柄が魅力的です。 多色の釉薬が利用できるようになったことで、今まで製作されてこなかったクリーム色や、紫、黄緑、ピンク、白などの素地の作品も多く作られています。 同時期に活躍した二人のナミカワ 靖之と同じ時代に活躍した七宝職人である濤川惣助は、靖之のライバルとして名が挙げられることもあり、二人のナミカワとしてよく比較されてきました。 惣助は、無線七宝と呼ばれる革新的な技法を採用して七宝焼を製作しています。 無線七宝では、釉薬を塗る前にあえて植線を取り除き、絶妙な色彩のグラデーションを生み出す技法が用いられており、写実的かつ立体感のある表現や、柔らかい表現を生み出せる特徴があります。 靖之と惣助の二人は、七宝の名匠として名を残しており、それぞれ異なるスタイルと巧みな技術で明治の七宝界をけん引しました。 年表:並河靖之 西暦 満年齢 できごと 1845年10月1日 0歳 京都柳馬場御池北入町で生まれる。 1855年 11歳 並河家の養子となり、並河靖之を名乗る。 1873年 28歳 七宝制作を開始し、処女作『鳳凰文食籠』を完成させる。 1875年 30歳 京都博覧会に出品し銅賞を受賞。 1876年 31歳 フィラデルフィア万博で銅賞牌を受賞。 1877年 32歳 第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受賞。 1878年 33歳 パリ万博で銀賞を受賞。 1879年 34歳 京都府の博覧会品評人を務める。 1881年 36歳 ストロン商会から契約を破棄され、事業を縮小。 1889年 44歳 パリ万博で再び受賞。 1893年 48歳 緑綬褒章を授与される。 1896年 51歳 帝室技芸員に任命される。 1906年 61歳 賞勲局の特命で勲章製造を開始。 1927年5月24日 81歳 逝去。
2024.12.27
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