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川端玉章(1842年-1913年)日本画家[日本]
後進育成にも努めた日本画家「川端玉章」とは 生没年:1842年-1913年 川端玉章は、明治時代に活躍した日本画家で、自ら作品を制作しながらも東京美術学校の教授を務め、自身の川端画学校を開設するなど、後進の育成にも励んだ人物です。 美術学校の同僚には、狩野派の画家で第一次の帝室技芸員メンバーにも選ばれている、橋本雅邦がいました。 玉章は、繊細な筆使いと、情緒あふれるモチーフを融合させて、新しい日本画の道を切り開いた芸術家として、高く評価されています。 幼いころから絵の巧さを認められていた 玉章は、京都の高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれました。 父は、蒔絵師であり俳諧をしていた芸術家で、幼いころの玉章は、蒔絵を父から教わっていました。 さらに、漢学や国学などの教養も教わり、さまざまな学びを得られる環境にいた玉章は、自然と絵画への道を歩み始めたのです。 11歳のときに、実業家の三井高喜や三井高弘などに絵の巧さを認められ、さらに絵画の基礎を固めて本格的に画家として活動していくために高喜の紹介で、円山派の絵師である中島来章から絵を学んでいきます。 貧しい生活から徐々に頭角を見せ始める 1866年には、レンズ越しに絵を覗いて鑑賞する眼鏡絵 や、錦絵 、新聞の付録などを描くようになり、1867年には江戸に移り住みます。 玉章は、江戸で苦しい生活を続けていましたが、少しずつ画家としての才能を世間に広めていったのでした。 そして、1872年ごろからは、狩野派を学び洋画家となった高橋由一のもとで油絵を学ぶようになり、1877年には第一回内国勧業博覧会で褒状を受け取り、1878年には画塾天真堂を創設しています。 1882年になると、第一回内国絵画共進会にて初入選を果たし、これをきっかけに玉章は才能を開花させていき、1884年の第二回内国絵画共進会では、銅賞を受賞しました。 東京美術学校で円山派の教師として働く 1889年、岡倉 覚三の声かけにより、玉章は東京美術学校の円山派の教師として勤務することに。 1890年には、正式に東京美術学校の教授に就任して教鞭をふるい、1912年までの22年間、写生の授業を受け持ちました。 玉章が、東京美術学校として受け入れられたのは、 覚三がみた両国の大きな書画会において、一番達者に描いていたのは河鍋暁斎でしたが、玉章の作品は図柄が他の画家とは異なり印象に残ったためといわれています。 1881年には、深川に画塾「天眞舎」を開き、そこでも若い画家たちに絵を教えていたそうです。 日本青年絵画協会設立を援助する 1891年には、玉章より一世代若い画家たちによる日本青年絵画協会の設立にあたって、玉章は川辺御楯らに働きかけ、援助しました。 1896年には、優れた美術家や工芸家が任命される帝室技芸員となり、1897年には古社寺保存会委員、1898年には日本美術院会員や文展開設 以来審査員なども務めました。 1910年ごろには、小石川下富坂町に川端画学校を開設し、さまざまな方面から後進の育成を進めていたそうです。 1913年、玉章は発作を起こし、長年悩まされていた中風により息を引き取りました。 中風とは、現在でいう脳血管障害の後遺症を指し、手足のしびれや言語障害、麻痺などが該当します。 日本画だけではなく洋画も描いていた 玉章は、若いころにチャールズ・ワグナーに洋画を学んでおり、日本画だけではなく洋画作品も多く手がけています。 円山派の技法を西洋画に融合させて、新しい写実性を生み出すことに成功しました。 新しいジャンルを確立させた玉章は、晩年には文化絵も研究しており、生涯学びの姿勢をもち、誠実で努力家な人物であったと想像できるでしょう。 川端玉章のライバル橋本雅邦 円山派から絵を学び伝統を重んじていた玉章と同じ時代に東京美術学校で教授を務めていたのが、雅邦です。 玉章と雅邦は、ライバル同士であったと評されており、玉章は円山派の流れを継承し、美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らの育成にあたったのに対して、雅邦は狩野派を受け継ぎ、横山大観や菱田春草ら日本美術院出身の画家を輩出した点で、対照的であるとわかります。 玉章のライバルといわれている雅邦は、狩野派の技法をベースに他流派や西洋画などの技法も柔軟に取り入れ、近代的な新しい日本画スタイルを生み出しました。 山水画や故事人物画などの漢画系のモチーフを得意としており、雄大な山水画は多くの人を魅了しました。 一方、玉章は花鳥山水画や風景画を得意としており、さらに絵を仕上げるのが早かったことでも知られています。 絵を描き始めると終始机に向かって絵を描き続け、その集中力は常軌を逸するとまでいわれていました。 古い伝統だけに固執せず、西洋画の写実技術を学び、新たな日本画のジャンルを築き上げていきました。 川端玉章の弟子たち 玉章は、自ら日本画の新しいスタイルを確立させていくだけではなく、新たに活躍していくであろう若手画家の育成にも努めていました。 東京美術学校で教鞭をとりながらも、同美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らを育成した点も、玉章の大きな功績といえるでしょう。 平福百穂 生没年:1877年-1933年 平福百穂は、玉章の内弟子の一人で、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 川端塾で絵を学び、塾生の先輩であった結城素明に勧められて東京美術学校にも入学しています。 卒業後は、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を研究し、制作していきました。 1916年ごろからは、中国の南画や画像石や画巻などに関心を示し古典回帰がみられます。 その後、自然主義的写生画と古典を融合させて新たな作品を作り出していきました。 結城素明 生没年:1875年-1957年 結城素明は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 東京で酒屋を営んでいた森田周助の次男として誕生し、10歳のころに親類の結城彦太郎の養嗣子となりました。 覚三の勧めで玉章の画塾に入門して学びつつ、東京美術学校の日本画科にも入学。 いつも墨斗と手帖をもっており、目に留まったものや気になったものは何でも写生したそうです。 川端玉章の代表作 玉章の代表作の一つが『四時 軍花図』と呼ばれる油彩画で、第一回内国勧業博覧会に出品された作品です。 玉章はいくつも油彩画を制作していたといわれていますが、現存する作品は『四時 軍花図』のみです。 また、ほかにも『唐人お吉』という作品は、人物の半身像という珍しいモチーフを描いた作品で、玉章の手がけた作品の中でも異彩を放っています。 年表:川端玉章 西暦 満年齢 できごと 1842年4月18日 0歳 京都高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれる。 1853年 11歳 三井家で丁稚奉公に出て、三井高喜や三井高弘らに絵の才能を認められ、中島来章に入門。 1867年 25歳 江戸に移住する。 1872年 30歳 高橋由一に油絵を学び、三井家の依頼で三囲神社に『狐の嫁入り』扁額を描く。 1877年 35歳 第一回内国勧業博覧会で褒状を受ける。 1878年 36歳 画塾「天真堂」を創設。 1879年 37歳 龍池会設立に関与。 1881年 39歳 深川に画塾「天眞舎」を開く。 1882年 40歳 第一回内国絵画共進会で銅賞を受賞。 1884年 42歳 第二回内国絵画共進会で再び銅賞を受賞。 1890年 48歳 東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、主に写生を担当。 1891年 49歳 日本青年絵画協会設立を援助。事務所を自邸に置く。 1896年 54歳 帝室技芸員に任命される。 1897年 55歳 古社寺保存会委員に任命される。 1898年 56歳 日本美術院会員に選出され、文展開設以来の審査員を務める。 1909年 67歳 小石川下富坂町に川端画学校を開設。 1913年2月14日 70歳 中風のため死去。東京都港区高輪2丁目と、東京芸術大学中庭に顕彰碑が建てられる。
2024.12.27
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歌川芳艶(1822-1866)浮世絵師 [日本]
歌川国芳の門弟「歌川芳艶」とは 歌川芳艶は、江戸時代末期に活躍した浮世絵師で、奇想の絵師と呼ばれていた歌川国芳の弟子の一人です。 月岡芳年や落合芳幾などの国芳門下と比べると、知名度の低い浮世絵師ですが、国芳の武者絵の才能を最も引き継いだ浮世絵師ともいわれています。 15歳で歌川国芳の門下に入る 芳艶は、日本橋本町の駕籠屋である「十ノ字」の息子として生まれ、15歳になると武者絵を得意とする国芳の門下に入ります。 17歳のときに、髪結床ののれんに中国の人気小説である『水滸伝』に登場するキャラクターの「九紋竜」と「魯智深」の雪中奮闘の図を描きました。 それを見た国芳は、力強さと艶やかな色彩から、画号「芳艶」を与えました。 歌川芳艶と呼ばれていますが、歌川の名が入った落款が見られないため、後半生に使用していた「一英斎」という画号と芳艶を組み合わせ、「一英斎芳艶」と呼ぶのが正しいとする意見もあります。 芳艶は、同じ歌川派の門下である歌川国輝とライバル関係にあり、刺青の下絵で競い合うと、芳艶といえば「自来也」、国輝といえば「狐忠信」と並んで称されました。 30歳を過ぎて賭博にはまる 芳艶は、師匠の国芳譲りの迫力ある武者絵で頭角を現していきましたが、30歳を過ぎたころ、賭博にはまるようになり、遊郭のある色街に入り浸るようになっていきました。 その行動は、同門の浮世絵師たちから反発を買い、師匠の国芳から破門を言い渡されてしまうのでした。 破門後、芳艶は2、3年の間、浮世絵師としての仕事から距離を置きます。 しかし、1856年ごろから浮世絵師の本業を再スタートさせ、師匠にも劣らない力強い武者絵を数多く制作するようになりました。 芳艶が再び筆を執り浮世絵制作に踏み切ったのは、博打仲間であった歌川芳鶴が獄死したためといわれています。 役者絵や風景画も描いている 再スタートを決めた芳艶は、武者絵だけではなく役者絵や風景画、開港した横浜をテーマにした横浜絵など、多彩なジャンルに挑戦しますが、国芳譲りの武者絵ほど個性を発揮する作品は生まれませんでした。 また、武者絵以外のジャンルの作品は、多く残されていません。 一方で、のれんや看板絵などの大きな作品も手がけるようになり、こちらでは制作した作品が多くの人からの人気を集めていたようです。 1863年、徳川14代将軍である徳川家茂の上洛に取材した『御上洛東海道』シリーズの制作にも参加し、芳艶は全162作品中16作品を担当しました。 当時の幕府では、徳川将軍を浮世絵に描くことは禁止されていたため、『御上洛東海道』シリーズでは、家茂の行列をモデルに鎌倉幕府初代将軍であった源頼朝の姿で作品を描いています。 芳艶は、生涯作品を制作し続けており、45歳で亡くなりました。 芳艶亡き後は、門下であった2代 歌川芳艶や歌川艶長、歌川一豊などが、江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍しました。 国芳魂を受け継いだ浮世絵師 江戸時代の終わりに活躍した浮世絵師の芳艶は、ほかの才能ある国芳門下の陰に存在が隠れてしまい、現代においてはほとんど名前が知られていません。 しかし、師匠の国芳が得意としていた武者絵の画風を継承していた芳艶は、師匠を超えるとも思わせてくれる迫力と魅力に満ち溢れた作品を残しています。 国芳の武者絵の才能を、最も色濃く受け継いだのは、芳艶ともいわれているのです。 歌川芳艶が描いた浮世絵作品 芳艶は、師匠の国芳譲りの迫力ある武者絵が有名な浮世絵師です。 『川中島大合戦組討尽 帆品弾正昌忠 高松内膳』 この作品は、1857年に制作された全12枚の『川中島大合戦組討』シリーズの8枚目にあたる作品です。 川中島の戦いとは、現在の長野県北部である北信濃をメインの舞台とし、現在の山梨県である甲斐国の戦国大名の上杉謙信が1553年から1564年の間にわたって繰り広げた合戦を指します。 『川中島大合戦組討尽 帆品弾正昌忠 高松内膳』では、武田信玄軍の帆品弾正昌忠と、上杉謙信軍の高松内膳の戦いが描かれています。 『頼光雲気を察して足柄山に公時を得る』 この作品は、平安時代の伝承をテーマにしており、平安京の武将である源頼光が、静岡県と神奈川県の境にある金時山周辺の足柄山の峠を通ったときの様子を描いています。 作品は、足柄山の地で暮らす怪力自慢の金太郎と出会ったときの様子を描いており、頼光と金太郎、頼光四天王と呼ばれる重臣の碓井貞光、渡辺綱、卜部季武が登場します。 5人がいる場所に、突然雲気が立ち上り、その中から金太郎を育てた山姥が登場するシーンが描かれており、浮世絵の右手側には扇を高々と掲げる頼光は、目の前で起こった摩訶不思議な光景にまったく動じない様子が表現されているのです。 『高松城水責之図』 この作品は、1582年に巻き起こった備中高松城の水攻めの様子を描いています。 備中高松城の水攻めとは、織田信長の命を受けた豊臣秀吉が、毛利氏配下の清水宗治が守っている備中高松城を水攻めにした戦いのことです。 備中高松城を孤立させるために荒々しく流れ込んでいく水を大胆かつ繊細な表現で描いているのが特徴です。 風にたなびく吹き流しの動きには躍動感があり、戦いの迫力が伝わってきます。 武者絵を得意としていた芳艶の多彩な表現力がうかがえる作品です。 年表:歌川芳艶 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1822(文政5年) 0 日本橋本町二丁目に生まれる。本名は甲胡万吉。 1837(天保8年) 15 歌川国芳に入門。師匠から「芳艶」の号を与えられる。 1839(天保10年) 17 『花紅葉錦伊達傘』の挿絵を手掛ける。 1856(安政3年) 34 再び画業に復帰し、武者絵で人気を博す。代表作に『本朝武者鏡』がある。 1860(万延元年) 38 武者絵に加え、役者絵や横浜絵など新たなジャンルにも挑戦。 1866(慶応2年) 44 死去。狩野派の影響を受けつつ、武者絵を中心に後世に影響を与える。
2024.11.25
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塩田千春(1972年-)現代画家[日本]
ベルリン在住の現代美術家「塩田千春」とは 塩田千春は、1972年、大阪府岸和田市生まれ、ベルリン在住の現代美術家です。 生と死や、存在とは何か、など人間の根源的な問題をテーマに、糸を紡いだ大規模インスタレーションをメインに制作しています。 そのほか、立体や写真、映像など多彩な手法を用いて作品を制作しています。 空間に糸を張り巡らせた迫力のあるインスタレーションを、直接はなくともSNSで見かけたことがある人も多いのではないでしょうか。 高校から美術系の学校へ進学した千春は、京都精華大学洋画科に進学します。 在学中に、オーストラリア国立大学キャンベラスクールオブアートへ留学。 その後、ブラウンシュバイク美術大学やベルリン芸術大学でもアートを学び、ベルリンを拠点に活動するようになりました。 2008年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞すると、2015年には第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館代表に選ばれています。 2008年に国立国際美術館、2012年に丸亀猪熊源一郎現代美術館、2013年に高知県立美術館、2018年に南オーストラリア美術館、ヨークシャー彫刻公園、2019年に森美術館と、国内外問わず数多くのギャラリーで個展を開催しており、国際的な活躍を見せています。 2001年の横浜トリエンナーレ、2010年の瀬戸内国際芸術祭、2012年のキエフ国際現代美術ビエンナーレ、2016年のシドニー・ビエンナーレにも参加しており、世界各国に活動の幅を広げているといえるでしょう。 塩田千春の思想と世界観 千春は、記憶や不安、沈黙、夢など、カタチのないものを表現したインスタレーションやパフォーマンスを行っています。 これらの作品は、個人的な体験を出発点にしているのが特徴です。 作品制作は足りない何かを埋めるための行動 ガンにより療養していた期間、千春は、自分に何かが足りていないという感覚を常に持っていました。 自身には足りないものばかりであり、その満たされない何かを埋めるために作品を制作しているのです。 そのため、千春の作品はちょっとした欠けやズレがきっかけで始まることが多いといいます。 ベルリンに3年ほど住み、久しぶりに日本へ帰ると、さまざまな違和感を覚えたそうです。 靴のサイズは、昔と変わらないはずなのに履き心地がしっくりこなかったり、昔の友人と会っても何かが違う感覚があったり、人や物、風景などすべてが3年離れている間に想像していたものとズレてしまっていました。 しかし、この想像と実際のギャップにより生まれた「なぜ」が、作品制作につながっていくのです。 千春は、想像したものをすぐにカタチにするのではなく、自分の中で温める期間があるといいます。 心で感じたことと向き合い、イメージを膨らませてからカタチにしていきます。 想像から制作までの間に、新しいアイディアが浮かんでも、スケッチはあえてしないそうです。 絵にしてしまうと、絵という作品になってしまうため、言葉だけで書きだすことが多くあります。 自由な時間がクリエイティブな発想を生む 数々の作品を生み出していく中で、千春が特に大切にしているのが自由な時間です。 ヨーロッパには、カフェ文化がありますが、何をして暮らしているのかわからないような人々が、昼間からカフェでお茶を飲んでいる姿をよく見かけていたそうです。 クリエイティブな発想を生み出すためには、何もない、何にもならない時間をただぼーっと過ごすことが大切だと考えています。 自由な空気のベルリンに惹かれる 千春は、ベルリンに住み制作活動を進めていますが、最初からベルリンに住もうと決めていたわけではありませんでした。 美大を卒業した後、すぐにギャラリーで個展を開催したり美術館で展覧会を開催したりするのは難しいため、さらにアートを学ぼうと留学を考えたそうです。 当時、ドイツに留学の受け入れ先があったこと、たまたま訪れたベルリンの街が魅力的だったことから、移住を決意しました。 ドイツを東西に分けるベルリンの壁が壊されたのは1989年、千春がドイツに留学したのは、その数年後のことでした。 さまざまな場所で改装工事が行われており、アーティストたちは次々と現場に入り、自由な空気が流れていたそうです。 世界中から集まったアーティストがアトリエを構え、多種多様な国々の芸術家が混じり合い、個性を主張しながら創造を広げている空間に魅了されたのでした。 国境のない現代美術を目指す 千春は、本来自由であるはずの現代美術の世界にも国境やナショナリズムの意識が残っていると感じているそうです。 たとえば、グローバリゼーションの展覧会として開催されていても、日本人作家、アフリカ人作家、アメリカ人作家など、数カ国の芸術を集めただけの展覧会が多く、ナショナリズムが残っていると感じたそうです。 千春が、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館で展示を行った際「日本の代表としていかがでしょうか?」と質問され、違和感があったといいます。 千春は、日本の文化を伝える作品を制作しているわけではなく、国籍や性別などに関係なくわかりあえる現代美術を目指しています。 ガンにより死と向き合い個展を開催する 2017年、千春は2度目の卵巣がんを発病し、死と向き合いました。 6時間にもおよぶ大手術の末、卵巣を摘出し、5か月にわたり抗がん剤治療を続けることで、ガンを克服しました。 病に打ち勝った千春は、2019年に「魂がふるえる」という個展を森美術館にて開催します。 展示された『Cell』シリーズは、細胞をテーマにした作品群で、生と死を命題に作品を制作しました。 心と身体が引き裂かれるような苦しい体験をした千春が、人間としての尊厳や自我を、再び自分の身体へと取り戻すために作られたのが『Cell』です。 塩田千春が制作した作品たち 千春の作品は、作品の中を歩き回れるほど大規模なものも多く、そのインパクトに圧倒される人も多くいます。 『不確かな旅』 真っ赤な糸が展示室全体に広がる大規模なインスタレーション作品で、千春といえば「糸」シリーズを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 もつれあったり、絡まりあったりしている赤い糸は、体内をめぐる血液を表現しているようでもあり、人と人とのつながりを表現しているとも捉えられます。 「舟」も千春がよく活用するモチーフの一つで、骨組みだけで作られた舟は、行く先がわからない不安や不確かさなどを象徴しているように感じられます。 『静けさのなかで』 黒い糸が張り巡らされた空間で、焼けたピアノと椅子が静かに佇んでいる様子が印象的な作品です。 空間とモチーフを覆いつくす黒い糸は、見る者に不穏な気持ちや不安を感じさせます。 『静けさのなかで』は、千春が幼いころに見た近所の火事と、焼け跡から見つかったピアノという実体験の記憶をもとに制作されています。 『内と外』 2004年ごろから制作を開始した「窓」シリーズの一つで、『内と外』には旧東ベルリンで使用されていた古い窓枠が約250枚も使われています。 すべての窓に歴史や生活感が残っていて、住んでいた人たちの記憶を覗き込んでいるかのような感覚を味わえます。 年表:塩田千春 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1972(昭和47年) 0 大阪府岸和田市に生まれる。 1993(平成5年) 21 京都精華大学在学中、オーストラリア国立大学に交換留学。大規模ドローイングや糸を使った作品を制作。 1996(平成8年) 24 ハンブルク美術大学に入学。 1997(平成9年) 25 ブラウンシュヴァイク美術大学でマリーナ・アブラモヴィッチに師事。 2000(平成12年) 28 ベルリンを拠点に国際的な展示活動を開始。 2008(平成20年) 36 平成19年度芸術選奨新人賞、咲くやこの花賞美術部門を受賞。 2015(平成27年) 43 第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本代表として「掌の鍵」を展示。 2019(令和元年) 47 森美術館で個展「魂がふるえる」を開催。過去25年間の活動を回顧。
2024.11.09
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久隅守景(生没年不詳)画家/絵師[日本]
最も国宝らしくない国宝を描いた「久隅守景」とは 久隅守景は、江戸時代の前期に活動していた狩野派の絵師です。 狩野探幽の弟子であり、最も優秀な後継者ともいわれていました。 また、国宝にも指定されている『納涼図屏風』は、最も国宝らしくない国宝として、現代でも注目を集めています。 狩野探幽の弟子で優秀な後継者だった 守景は、若いころに探幽の門下となり、神足高雲や桃田柳栄、尾形幽元らとともに四天王と称されていました。 1831年に書かれた『画乗要略』では、山水と人物を得意としており、その技術は雪舟や伯仲、探幽門下で右に出るものなしとまで評価されています。 狩野派一門の逸材として活躍していた守景は、探幽の姪である国と結婚し、師匠の一字を拝領して「守信」と名乗っていました。 狩野派絵師として活躍していた当時の初期作品には、1634年に描かれた『劉伯倫図』があります。 また、1641年には探幽の弟である狩野尚信と探幽、尚信の姉婿である狩野信政とともに制作に参加した、滋賀県にある天台宗の寺院の聖衆来迎寺客殿の障壁画では『十六羅漢図』、富山県にある曹洞宗の寺院の瑞龍寺には『四季山水図襖』を描いています。 当時の守景は、探幽の画風を忠実に習い描いており、習作期間に位置づけられているのです。 子どものトラブルをきっかけに狩野派から距離を置く 結婚後、守景は1男2女に恵まれ、長女の清原雪信と長男の彦十郎は、父の守景を継いで絵師になっています。 雪信は、父の師でもある探幽に絵を学んだ狩野派随一の女性絵師で、探幽様式を忠実に習いながらも、女性らしい繊細な筆の運びや彩色で優美な作風の絵を描いていました。 作家の井原西鶴が書いた『好色一代男』にも、雪信の名前が登場していることから、当時の人気の高さがうかがえます。 高い評価を得ていた雪信でしたが、狩野門下の絵師であり尼崎の仕官の子である平野伊兵衛守清と駆け落ちをしてしまいます。 息子の彦十郎も探幽門下の絵師として活躍していましたが、悪所通いが原因となり探幽から勘当され破門、のちに師へ告げ口した同門絵師をうち果たすと口走り投獄され、佐渡へ島流しとなってしまいました。 しかし、彦十郎は佐渡でも狩野派の画風を忠実に学んだ作品を制作し続け、注文を受けて制作を行っていたそうです。 長女・長男は波乱万丈な人生を送ったといえるでしょう。 これらの問題がきっかけとなり、守景は狩野派から距離を置くようになり、金沢で制作活動を行うようになりました。 晩年まで制作活動は続けていた 狩野派と距離を置いた守景は晩年、加賀藩前田家に招かれて金沢の城下に滞在しました。 探幽の門下生として描いた瑞龍寺の襖絵は、前田利常の命によるもので、当時は加賀藩の重臣である今枝と小幡の両家にお世話になっていたそうです。 晩年の招待も、瑞龍寺の襖絵制作がきっかけであったと考えられます。 一説によると、2度目の滞在時は五代藩主・綱紀が招き、今枝、小幡の両家と町奉行の片岡孫兵衛の家にお世話になり、6年間滞在していたといわれています。 守景の代表作である『納涼図屏風』や『鷹狩図屏風』は、2度目の金沢滞在期間に描かれたと推測されているそうです。 晩年、絵を描き続けていた守景は、加賀の地でさらに飛躍的な成長を遂げたといえるでしょう。 最晩年は、京都に移住して『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』を制作しており、年を重ねても老いを感じさせない素晴らしい作品を残しています。 久隅守景が描く絵の特徴 守景が描く作品は、初期こそ探幽に習い忠実に探幽様式を再現していましたが、狩野派と距離を置いて以降は、独自の画風を確立していきました。 守景は、味わいのある墨線が魅力の一つで、耕作図といった農民の生活を描いた風俗画を多く手がけています。 探幽以後の狩野派は、守景の画風を敵対視して形式化・形骸化していきますが、守景は個性的な画風を確立していき、高く評価されていました。 また、守景は農村の人々の暮らしをよく描いており、武士が領民の暮らしを守り自らを戒める鑑戒画として知られています。 国宝らしくない国宝『納涼図屏風』 国宝らしくない国宝と呼ばれる『納涼図屏風』は、2度目の金沢滞在時に描かれたといわれています。 おぼろげな月光のもとで、筵を敷いて夕涼みする納付の親子が描かれている作品です。 地面には、細かい砂利のようなものが描かれており、近くに小川が流れているのかと想像させてくれます。 1日の労働を終えて家族で夕涼みするその様子は、くつろぎのひとときといえますが、シンプルな構成からどこかもの悲しさも感じられるでしょう。 また、くつろいでいる3人の表情からは、何気ない日常風景の詩情豊かに表現する守景の才能が見え隠れしています。 日常風景を描いたこの作品は、華やかさがなく一見地味であるとも捉えられ、国宝らしくない国宝ともいわれているのです。 しかし、すみずみまで細かく鑑賞してみると、神経の行き届いた繊細な筆使いが見受けられます。 男性側は太くはっきりとした輪郭線が描かれているのに対して、女性側は細く繊細な輪郭線が描かれています。 『納涼図屏風』は、見れば見るほどその味わい深さに魅了される作品といえるでしょう。 年表:久隅守景 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1620年代頃(元和期) 不詳 生まれる。 1630年代(寛永期) 10代 狩野探幽に師事し、狩野派四天王と称される。 1634(寛永11年) 不詳 作品『劉伯倫図』を制作。探幽門下でその才能を評価される。 1641(寛永18年) 不詳 『四季山水図』を知恩院にて制作。探幽や他の弟子と協力。 1642(寛永19年) 不詳 聖衆来迎寺に『十六羅漢図』を制作。 1672(寛文12年) 50代頃 息子の不行跡により破門。弟子たちから距離を置くようになる。 1700年代初頭(元禄期) 不詳 死去。晩年は不明な点が多いが、後世に影響を与えた。
2024.11.09
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月山貞一(1907年-1995年)刀工[日本]
人間国宝として刀を作る「月山貞一」とは 月山貞一(がっさんさだかず) 生没年:1907年-1995年 二代・月山貞一は、大阪にて刀匠である月山貞勝の子として生まれました。 1918年ごろからは、父の貞勝から作刀を学び、16歳になると月山貞光を名乗って大阪美術協会展に初入選し、刀匠界で一目置かれるようになります。 貞一は、戦時中の日本における重要な作刀を依頼される機会が多く、1929年には昭和天皇に贈呈するための『大元帥刀』を父の貞勝とともに作刀しました。 同年、父が亡くなると日本帝国陸軍の兵器製作所である「大阪陸軍造兵廠」と呼ばれる大阪工場の軍刀鍛錬所責任者に任命されます。 戦時中において、西日本の刀匠の最高峰となるのでした。 1945年、日本が第二次世界大戦に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により日本刀の製造が禁止されてしまい、日本の伝統である作刀の技術は衰退の危機を迎えます。 1954年に制定された武器製造法令により文化財保護委員会から作刀の許可を得るまでは、刀匠として不遇の時代を過ごしました。 作刀の許可を得てからは、精力的に作品を作り、1966年に刀匠として名高い祖父「月山貞一」の名を受け継ぎ、二代・月山貞一として作刀を続けていきました。 刀匠としての才能を天から与えられた貞一は、月山家伝統の綾杉鍛えを継承するだけに留まらず、五箇伝の技法すべてを習得したのです。 1971年には、作刀における卓越した技術が認められ、人間国宝の認定を受けました。 初代「月山貞一」は帝室技芸員に任命されている 二代・月山貞一の祖父にあたる初代・月山貞一は、帝室技芸員に任命された優れた刀匠でした。 1836年、初代・月山貞一は、現在の滋賀県にあたる近江国にて、塚本家の子として生まれました。 7歳になると、大阪で活躍していた刀匠「月山貞吉」の養子となり、刀匠としての道を歩みはじめます。 11歳ごろから刀工の修業を開始した貞一は、めきめきと技術を上げていき、1851年16歳のときには、『月山貞吉造之嫡子貞一十六歳ニ而彫之、嘉永四年八月吉日』と銘のある平造りの脇差を作刀します。 鍔には滝不動と呼ばれる滝と不動明王を描く日本伝統的な構図を彫り、この脇差の完成度の高さから、貞一は作刀における才能を持ち合わせていたことがうかがえるでしょう。 1876年、廃刀令が制定されると、日本刀の需要は急激に下がってしまい、多くの刀工職人たちは、転職を余儀なくされました。 しかし、初代・月山貞一は、刀工として作刀を続け、1906年、ついに当時の刀匠としては最高の名誉であった「帝室技芸員」に任命されるのでした。 帝室技芸員となった初代・月山貞一は、宮内省御用刀匠として、愛刀家であると有名な明治天皇の軍刀や、皇族、著名人の刀剣を作刀し、刀匠界で名を広めます。 初代・月山貞一が作刀する刀たちは、どれも豪快な造込みがされており、綾杉肌と呼ばれる大きく波を打っているように見える形状の鍛肌を得意としていました。 作刀だけではなく、刀身彫刻の技術も卓越しており、濃厚で緻密な彫物を刀身に行う月山彫りと呼ばれる技法で名をはせています。 二代・月山貞一が習得した「五箇伝」とは 二代・月山貞一が習得したとされている五箇伝とは、大和伝・山城伝・備前伝・相州伝・美濃伝の5つの地域に伝わる日本刀作りを指します。 大和伝は、現在の奈良県である大和国に伝えられた鍛錬法で、寺院と密接な関係をもっていました。 山城伝は、平安京に都が移された794年ごろから繁栄しはじめた鍛錬法で、優美で気品に満ちた刀剣が特徴です。 貴族の依頼によって作られていたため、実践の技術は問われず、姿や形の美しさに重点が置かれました。 備前伝は、987年の古備前鍛冶からはじまり、時代の波に乗るようにして名匠が誕生し、受け継がれていきました。 戦国時代には、数打ち物と呼ばれる大量生産をこなし、さらに反映していったのです。 相州伝は、現在の神奈川県である相模国に鎌倉幕府が誕生したことをきっかけに生まれた鍛錬法で、強く鍛えた鋼を高温で熱したあと、急速に冷却する難しい技術が取り入れられています。 美濃伝は、現在の岐阜県である美濃国に伝えられた鍛錬法で、五箇伝では最も新しい流派です。 大量生産する数打ちと高品質な注文打ちを両立させ、名をはせていきました。 年表:月山貞一 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1907(明治40年) 0 大阪府に生まれる。父は刀工の月山貞勝で、本名は月山昇。 1929(昭和4年) 22 昭和天皇に贈呈するための大元帥刀を父と共に作刀。 1940年代(昭和期) 30代 戦時中、大阪陸軍造兵廠の軍刀鍛錬所責任者を務める。 1954(昭和29年) 47 武器等製造法の施行により文化財保護委員会の許可を得て作刀を再開。 1966(昭和41年) 59 祖父の名を継いで月山貞一を名乗る。 1967(昭和42年) 60 新作名刀展で正宗賞、文化財保護委員長賞を受賞。 1971(昭和46年) 64 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 1979(昭和54年) 72 勲四等旭日小綬章を受章。 1995(平成7年) 87 奈良県桜井市で死去。
2024.11.09
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安井曾太郎(1888年-1955年)洋画家[日本]
清爽堅実で写実的な洋画家「安井曾太郎」とは 安井曾太郎 生没年:1888年-1955年 安井曾太郎は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家で、梅原龍三郎と並んで称された人物です。 自分自身が絵を描くだけではなく、新文展の審査員や東京美術学校の教授、帝室技芸員、蕨画塾の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注ぎました。 また、1952年には文化勲章を受章しており、1955年、肺炎で療養している折に、心臓麻痺を引き起こし亡くなりました。 幼いころから画家への道を志す 曾太郎は、京都市中京区にて安井元七、よねのあいだに5男として生まれました。 父の元七は、木綿問屋「安井商店」の2代目と資産家であり、貧しくないむしろ裕福な家庭ではありましたが、中京商家の昔からの習わしもあり、曾太郎は質素な生活を送ったといわれています。 また、生家の隣にある扇屋「藤田団扇堂」には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係性もあり、藤田の家にも気兼ねなく出入りしていたそうです。 無口で実直な性格だった曽太郎からすると、生家にはいつも客が出入りしており、応対する番頭や小僧も多かったため、にぎやかで落ち着く場所がないと感じていました。 しかし、藤田の家は扇屋という商売柄もあって静かであったため、曾太郎はよく出入りをしていたといえます。 また、藤田家の祖母の熟練した筆使いにより描かれる京扇の模様が大変美しく、曾太郎の心を惹きつけていたことも、長居をしてしまう大きな理由の一つといえるでしょう。 曾太郎は、祖母に習いさまざまな模様を描かせてもらい、絵を描くことへの好奇心を高めていきました。 このころのできごとが、のちの画家への礎となり、絵描き思考が形成されていったと考えられます。 その後、4年制の尋常小学校を卒業すると、親の希望もあって商家の子らしい堀川通りにある京都市立商業学校に入学。 しかし、画家として暮らしていく道をあきらめきれずに本科1年を終了したころに学校を中途退学します。 退学前、父に画家を志していることを打ち明けたところ、もちろん反対にあいましたが、長兄の彦三郎が曽太郎の気持ちをくみ父を説得し、画家を目指すことを許されました。 子どものころの曾太郎がなぜ洋画に強く惹かれたのかはっきりとした理由は記録に残っていませんが、中学校の図画教師であった平清水亮太郎の影響や、珠算が苦手であったこと、商人に向かない性格などが関係していると考えられます。 商業学校を中退した曾太郎は、京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でもある亮太郎の家に1年間ほど通い、デッサンや水彩画を学びました。 ライバルとの出会いとパリ留学 1903年ごろから画業に専念するようになりましたが、これまで本格的に絵を学んだことがなかった曽太郎は、焦る気持ちを抑えながら、絵の技術を磨く日々を過ごしました。 そのような中、曾太郎が西大谷にある蓮池で写生をしていたとき、一人の若い画家と出会います。 その画家が描いていた絵は斬新かつ軽妙で大変うまく、内気な性格の曾太郎は声をかけるのをためらいましたが、この機会を逃してはいけないと思い切って声をかけました。 声をかけた画家が、洋画家で教育者の浅井忠に師事している中林僊という洋画家でした。 曾太郎は、僊の紹介により浅井忠が開いている聖護院洋画研究所に入門し、さらに本格的に絵を学んでいきます。 この出会いと入門がきっかけとなり、のちによき友人でありライバルとなる、日本画壇を支えていく梅原龍三郎との出会いにもつながっていくのです。 また、忠と鹿子木孟郎などの適切な指導のおかげもあり、曾太郎は絵描きに没頭していきます。 入門してから3年後の19歳のとき、同じく聖護院洋画研究所にて学んでいた津田青楓とともにフランス・パリへ留学します。 パリに到着した2人は、鹿子木の紹介によりアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ、写実を学んでいきました。 曾太郎はアカデミーで早々に頭角を現していき、ローランスの教室で毎月開催されていた油絵を木炭画のコンクールでは、ほとんどの賞を曾太郎が独占します。 曾太郎は、自宅宛ての手紙にて人には内緒だと伝えながら次のように記しました。 「ジュリアンで賞を取るのは思っているより名誉なことではない。美術学校内も同様で見なヘタな絵ばかりだ。」と批評しています。 そのころの曾太郎が描いた木炭デッサンを見てみると、筆調が冴えているかつ精妙で、自身でも成長を感じられ、初めて見るフランスンの景色や初めて学ぶ知識などが目の前に無限に広がっていた興奮が見て取れます。 第一次世界大戦の開始と体調不良により帰国 アカデミー・ジュリアンで3年間学んだあと、曾太郎はアカデミーをやめて自分のアトリエをもち、自由な研究や制作を進めていくようになりました。 パリ滞在中は、ミレーやピサロ、セザンヌ、エル・グレコ、ギリシャ彫刻などに関心をもち、影響を受けるようになっていきます。 中でも、セザンヌの作風に興味を抱き、それまで暖かく情緒的な色調であった曾太郎の作品は、セザンヌ作品によく見られる青黒く理知的な作風に変化していきました。 そして、留学を始めてから7年後の1914年、第一次世界大戦が勃発したのとあわせて患っていた胸部疾患が悪化したため、長谷川昇や天文学者の福見尚文に身体を支えられながら、45点の作品とともに帰国の途につきました。 帰国後、1915年の新年を親兄弟とともに京都の生家で迎えることになります。 病は、帰国途中の船上にて回復傾向に向かっていましたが、まだ全快とはいえず、療養が必要な状態でした。 しばらくは、紀州の湯崎温泉に滞在したり、関西美術院で指導にあたったりして過ごしました。 その後、留学中に親友となった青楓が二科会の創立に携わり、誘いを受けた曾太郎も会員となり、10月に開催された第2回二科会展ではパリ留学中に描いた44点の作品を特別出品し、一躍日本画壇に名を知らしめました。 しかし、フランスと日本の風土の違いに苦しめられ、その後10年ほどが自分の作風を模索し続け、低迷期に入っていくのでした。 そして、1930年に発表した『婦人像』を皮切りに、曽太郎は独自の日本的な油彩画を確立させていき、龍三郎とともに第二次世界大戦後の昭和期を代表する洋画家として高く評価されるようになっていきます。 1944年には、東京美術学校の教授となり、1952年に文化勲章を受賞するなど、功績が日本画壇に認められ、画家としての成功をおさめるのでした。 安井曾太郎が描く作品の特徴 曾太郎が描く絵からは、シンプルな線と鮮やかな色彩が織りなす、いきいきとしたモチーフたちがうかがえます。 またモチーフにするものからは、日本的な落ち着いた趣を感じられるのも特徴の一つです。 ありのままを描き出すリアリズム感 曾太郎は、意図的に省略や強調、変形を用いて構成を行い、写真のような絵ではなく、対象のそのままの特徴を、あるがままに描き出すのが特徴です。 この曾太郎のリアリズム感は、多くの作品から見て取れます。 静物画の中でも『九谷鉢と桃』は傑作といわれており、この作品を制作した当時の曾太郎は、セザンヌをはじめとしたヨーロッパで学んだ西洋技術を自分の中に落とし込み、日本人の油彩画、さらに深堀りすると曾太郎自身の画風を成立させたといえるでしょう。 人物画に定評がある 日本を代表する洋画家の曾太郎は、人物画にも定評があり、いきいきとした様子が描かれた人物を好む人も多くいます。 曾太郎はデッサンが得意であったこともあり、鑑賞した人が感心してしまうほど巧みに描かれています。 中でも『座像』は、物静かな雰囲気を醸し出す婦人が描かれており、静かな雰囲気の中に意志の強さを感じさせる強いまなざしが特徴です。 年表:安井曾太郎 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888(明治21年) 0 京都市中京区で生まれる。商家の五男として育つ。 1903(明治36年) 15 京都市立商業学校を中退し、聖護院洋画研究所で浅井忠に師事して絵を学び始める。 1907(明治40年) 19 渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。特にセザンヌの影響を受け、ヨーロッパ各国を旅行する。 1914(大正3年) 26 第一次世界大戦の勃発により日本に帰国。翌年、二科会会員に推挙される。 1930(昭和5年) 42 代表作『外房風景』を発表し、独自の画風を確立する。 1944(昭和19年) 56 帝国芸術院会員に任命される。 1955(昭和30年) 67 東京で死去。晩年まで日本洋画界を牽引し、後世に大きな影響を残す。
2024.11.09
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ヤノベケンジ(1965年- )現代芸術作家、京都芸術大学教授 [日本]
芸術に漫画・アニメ・特撮映画などを取り入れた「ヤノベケンジ」とは ヤノベケンジが制作する作品は、ユーモラスがあり、子どもから大人まで親しみのもてる作品でありながらも、その奥には社会的メッセージが込められています。 多くの作品は、ヤノベケンジが構想を練った壮大なストーリーにもとづいて作成されており、そのストーリー性が、人々を魅了する要因の一つともいえるでしょう。 幼いころに大阪万博会場跡地で遊んだ体験が原動力に ヤノベケンジを創作の道へと突き動かさせたのは、幼いころに遊んだ大阪万博会場跡地での経験といわれています。 ヤノベケンジが6歳で大阪府茨木市に引っ越してきたときには、すでに大阪万博は終了し、跡地は再利用の計画が頓挫し更地工事が続いている状況でした。 大阪万博跡地でみた近未来的なパビリオンの残骸や、巨大ロボットが放置されているお祭り広場で遊んだヤノベケンジは、未来の廃墟をイメージしたそうです。廃墟と聞くと、寂しい気持ちや悲しい気持ちになりそうですが、ヤノベケンジはむしろこの場所から何でも創り出せると胸が高鳴ったのを覚えているそうです。 このできごとをきっかけに、子どものころから特撮に夢中になり、怪獣のイラストを描いたり造形したりしてSF雑誌『宇宙船』に投稿していました。 ユーモラスな作品を次々に制作していく 1989年に京都市立芸術大学美術学部彫刻専攻を卒業後、ヤノベケンジは短期留学で、イギリスの国立大学であるロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ行き、その後1991年に京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了しています。 ヤノベケンジは、1990年に京都のアートスペース虹にて、生理食塩水を入れたタンクの中に鑑賞者が浸かり瞑想する体験ができる『タンキング・マシーン』を制作しました。 この作品は、第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワードで最優秀作品賞を受賞しています。 1992年には、水戸芸術館で個展「妄想砦のヤノベケンジ」を開催し、美術館に住み込んで「サバイバル」をテーマに、放射能汚染された環境でも生き抜ける機能を備えたユーモラスのあるデザインのスーツや、サバイバル用の機械一式、それらを収納して移動するための車などを発表しました。 以後、ヤノベケンジは「サバイバル」をテーマに、世界の終末のような環境下でも使える機械彫刻シリーズの制作を続け、1994年以降は拠点をベルリンに移して、欧米でも精力的に活動を続けました。 海外では、日本のサブカルチャーと関連して取り上げられることが多く、大きな注目を浴びています。 「アトムスーツプロジェクト」でチェルノブイリを訪問 1990年代の後半から、史上最後の遊園地計画「ルナ・プロジェクト」の構想を練り、その一環として「アトムスーツプロジェクト」をスタートさせました。 どこか鉄腕アトムを思わせる、ガイガーカウンター付き放射能感知服を制作・着用し、チェルノブイリ原発やその周辺の放置された都市の廃墟を歩き回ります。 また、スーツを着用して大阪万博跡地にある万博記念公園や砂漠、海岸なども歩き回り、幼いころに感じていた未来の廃墟への時間旅行を行いました。 チェルノブイリの激しい放射線量や開催後30年を経て朽ちていく様子、遊園地や保育園、軍用車の残骸など、現実の廃墟を目のあたりにしたヤノベケンジは、そこで生きる人々たちとの出会いや体験を通して、以後「廃墟からの再生」をテーマにした作品制作に移行していきました。 チェルノブイリの保育園でみた人形と大阪万博跡地の廃墟でみたロボットからインスピレーションを受け、大型ロボットや子どもの命令のみによって歌い踊り火を吹く巨大な腹話術人形型ロボットなどを制作します。 また、2003年には、大阪万博の美術館であった国立国際美術館にて集大成的展覧会『メガロマニア』を開きます。 解体されたエキスポタワーの朽ち果てた展望台の一部分を使用し、展望台内で生えていた苔を生育する作品の制作も行いました。 精力的な活動でさまざまな領域に表現を広げていく ヤノベケンジは、1990年に芸術家としての実質的なデビューを果たし、約30年間創作活動を続けてきています。 移り変わっていく社会の状況をみながら、彫刻や絵画、インスタレーション、絵本、映像、CG、映画、舞台など、表現の幅を広げその時々にあった創作活動を行っています。 また、イッセイ・ミヤケ、パパ・タラフラマ、ビートたけし、宮本亜門、増田セバスチャン、堀木エリ子など、さまざま分野で活躍しているクリエイターやアーティストともコラボを果たし、多くの芸術を創作してきました。 近年は、全国各地に巨大彫刻やパブリックアートを設置し、作品が一般の人々の目に触れる機会も多くなっています。 年表[ヤノベケンジ] 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1965年(昭和40年) 0歳 大阪府茨木市に生まれる。 1989年(平成元年) 24歳 京都市立芸術大学美術学部彫刻専攻を卒業。 1990年(平成2年) 25歳 作品『タンキング・マシーン』を発表。第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワード最優秀作品賞を受賞。 1991年(平成3年) 26歳 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。 1992年(平成4年) 27歳 水戸芸術館で個展「妄想砦のヤノベケンジ」開催。サバイバルマシーンのコンセプトを発表。 1994年(平成6年) 29歳 ベルリンに移住し、活動拠点を置く。 1997年(平成9年) 32歳 「アトムスーツプロジェクト」を開始。チェルノブイリ原発や万博記念公園で撮影を行う。 2003年(平成15年) 38歳 国立国際美術館で展覧会「メガロマニア」を開催。大阪万博のエキスポタワーの一部を使用した作品を展示。 2005年(平成17年) 40歳 豊田市美術館で個展「KINDERGARTEN」を開催。大型ロボット『ジャイアント・トらやん』などを発表。 2011年(平成23年) 46歳 東日本大震災と福島第一原発事故の影響を受け、『サン・チャイルド』を制作。 2012年(平成24年) 47歳 福島市や茨木市に『サン・チャイルド』像を設置。 2016年(平成28年) 51歳 第29回京都美術文化賞を受賞。 2018年(平成30年) 53歳 福島市に設置された『サン・チャイルド』が、批判を受け撤去される。 2021年(令和3年) 56歳 岡山県倉敷市の大原美術館で作品『サン・シスター(リバース)』を一般公開。 ヤノベケンジの作品が鑑賞できる展示・イベント
2024.09.10
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東郷青児(1897年-1978年)画家[日本]
日本最初期の前衛絵画を描いた「東郷青児」とは 東郷青児 生没年:1897年-1978年 東郷青児は、夢見るような甘い女性像を描き人気を博した日本の洋画家で、昭和の美人画家として、戦後の日本で一世を風靡しました。 絵画作品だけではなく、本や雑誌、包装紙などにも作品が使われ、多くの人に親しまれていました。 詩人画家・竹久夢二の雑貨店で働く 東郷は、鹿児島県鹿児島市に生まれ、幼いころに家族で東京に引っ越しており、小学校の同級生には洋画家の林武がいました。 東郷は、中学時代から絵画を学んでおり、中学4年のころに出会った画家で詩人の竹久夢二の作品に感動し、青山学院中等部を卒業すると画家を志すようになりました。 夢二に憧れを抱いた東郷は、17歳で夢二の雑貨店「港屋絵草紙店」で働き始めます。 このお店は、恋多き夢二が唯一籍を入れた女性、たまきのために開かれたお店で、たまきは一回り以上年の離れた東郷を弟のようにかわいがり、夢二の写しの手伝いを東郷にお願いしていました。雑貨店で写しをして技術を磨いていった東郷の美人画には、夢二の影響を受けているであろう特徴が見受けられます。その後も、東郷は女性美への探求を続けていくのでした。 前衛的なピカソ・女性的な作風のラファエロから影響を受ける 東郷が18歳のころ、東郷の才能に気づいた作曲家の山田耕筰から支援を受け、絵画の世界へと進んでいきます。耕筰は、作曲家として活動していましたが、当時のヨーロッパ絵画の最先端を研究していた人物でもありました。 その後、有島生馬に師事し、18歳のときに開催した初個展では、未来派風の前衛的な新人として注目を集めています。翌年、19歳で二科会に初出品した『パラソルさせる女』が二科賞を受賞し、才能を開花させていきました。 20代になるとヨーロッパへ留学し、東郷の作風に大きな影響を与える転機が訪れます。 東郷は、20世紀最大の画家と評されるピカソや、エコール・ド・パリの代表的な画家といわれていた藤田嗣治らと交流する機会を得て、画家として新しい学びや影響を受けました。 また、ピカソの前衛的な芸術だけではなく、ミケランジェロをはじめとした古典芸術にも深く感銘し、ヨーロッパにいる間にキュビズムや未来派、シュルレアリスムなど、さまざまな芸術を吸収し、独自のスタイルを確立させていきました。女性的で優美な作風が特徴のラファエロにも影響を受けており、東郷独自の美人画を描くベースとなったともいえるでしょう。 帰国後は、震災から復興した東京を彩るモダニズム文化の流れに乗り、絵画だけではなくさまざまな分野で活躍していきます。 1935年前後からは、洋画家の大先輩である藤田嗣治と大画面の装飾画に挑み、百貨店や画商から毎年のように個展開催の依頼がくるようになりました。 1960年代からは、二科会の交換展のために毎年世界各国を訪れるようになり、同時にこれまでのスタイルを変化させ、盛り上がった絵の具と荒々しいタッチで抽象画にようなデフォルメを取り入れていきました。 また、アフリカやアラブ諸国、南米などの風俗をモチーフに取り入れ新しいスタイルを生み出していきます。 64歳になると二科会会長に就任し、72歳のころにフランス政府から「芸術文化勲章オフィシエ」を授与されます。 さらに翌年、日本でも「勲三等旭日中綬章」を受章するなど、画家としての地位を確立させていきました。 洋菓子店の包装紙のデザインも手がける 東郷は、絵画だけにとどまらず、さまざまな分野でデザインの才能を発揮しました。 挿絵や洋菓子の包装紙、化粧品のパッケージ、マッチ箱、本の装丁など、あらゆる製品のデザインを手がけています。 東郷のアートは身近なものにも組み込まれ、多くの人に愛されました。特に、洋菓子店の包装紙はファンの間で人気が高く、ブックカバーや栞として利用する人もいたそうです。 2007年に閉店した吉祥寺の老舗喫茶店「ボア」では、包装紙だけではなくケーキの箱や店の名前、ロゴに至るまで東郷がプロデュースしたことで知られています。 また、小説家の谷崎潤一郎とコラボし、谷崎の耽美的な言葉と東郷の柔らかな曲線の美人画が融合した作品も制作しています。画業だけではなく、フランス文学の翻訳や小説の執筆など、幅広い分野で活躍を収めました。 芸術のデパートと呼ばれる芸術家ジャン・コクトーが書いた小説『恐るべき子供たち』は、翻訳から挿絵、装丁まで東郷が担いました。 東郷青児が描く美人画の特徴 東郷の描く美人画は、「青児美人」や「東郷様式」などと呼ばれ、独自のスタイルを確立していました。 ヨーロッパ留学を得てさまざまな経験と刺激を受け、西洋絵画の伝統技法を融合させ時代の先駆けとなる、新しい女性の理想像を表現しました。 デフォルメされた艶やかな曲線や、限られた色数のみを用いたシンプルな色彩が、青児美人の大きな特徴といえます。 大胆な構図やフォルムは、ピカソからの影響を受けており、自信のある色以外は使わないという教えのもと、東郷は独自のセンスで女性を表現していきました。 東郷は、流行りのファッションにも敏感で、女性が着用しているトレンドアイテムを絵画に取り入れていました。 東郷の描く女性像には、着物から洋服、当時フランスで流行っていたモード系、世界各国の伝統衣装など、さまざまな衣装が着せられ、東郷の繊細な美意識が表現されています。 年表[東郷青児] 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1897年(明治30年) 0歳 4月28日、鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町に生まれる。 1914年(大正3年) 17歳 青山学院中等部を卒業。この頃、竹久夢二の「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。 1915年(大正4年) 18歳 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所で制作。日比谷美術館で初個展を開催。有島生馬に師事。 1916年(大正5年) 19歳 第3回二科展に『パラソルさせる女』を出品し、二科賞を受賞。 1920年(大正9年) 23歳 永野明代と結婚。 1921年(大正10年) 24歳 フランスに留学。国立高等美術学校に学ぶ。長男志馬が誕生。 1924年(大正13年) 27歳 ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く。 1928年(昭和3年) 31歳 帰国し、第15回二科展に留学中の作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。西崎盈子と関係を持つ。 1929年(昭和4年) 32歳 愛人の西崎盈子と心中未遂事件を起こす。事件後、宇野千代と同棲。 1930年(昭和5年) 33歳 ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳し、白水社より刊行。 1931年(昭和6年) 34歳 二科会に入会。 1933年(昭和8年) 36歳 宇野千代と別れ、みつ子と同棲開始。 1934年(昭和9年) 37歳 麻雀賭博の容疑で警視庁に検挙される。 1939年(昭和14年) 42歳 みつ子との間に長女たまみ誕生。 1951年(昭和26年) 54歳 歌舞伎座用の緞帳を制作。 1957年(昭和32年) 60歳 日本芸術院賞を受賞。 1960年(昭和35年) 63歳 日本芸術院会員に就任。 1961年(昭和36年) 64歳 二科会会長に就任。 1969年(昭和44年) 72歳 フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与される。 1970年(昭和45年) 73歳 勲三等旭日中綬章を受章。 1976年(昭和51年) 79歳 勲二等旭日重光章を受章。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設される。 1978年(昭和53年) 80歳 4月25日、急性心不全により熊本市で死去。正四位、文化功労者追贈。
2024.09.10
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