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久隅守景(生没年不詳)画家/絵師[日本]
最も国宝らしくない国宝を描いた「久隅守景」とは 久隅守景は、江戸時代の前期に活動していた狩野派の絵師です。 狩野探幽の弟子であり、最も優秀な後継者ともいわれていました。 また、国宝にも指定されている『納涼図屏風』は、最も国宝らしくない国宝として、現代でも注目を集めています。 狩野探幽の弟子で優秀な後継者だった 守景は、若いころに探幽の門下となり、神足高雲や桃田柳栄、尾形幽元らとともに四天王と称されていました。 1831年に書かれた『画乗要略』では、山水と人物を得意としており、その技術は雪舟や伯仲、探幽門下で右に出るものなしとまで評価されています。 狩野派一門の逸材として活躍していた守景は、探幽の姪である国と結婚し、師匠の一字を拝領して「守信」と名乗っていました。 狩野派絵師として活躍していた当時の初期作品には、1634年に描かれた『劉伯倫図』があります。 また、1641年には探幽の弟である狩野尚信と探幽、尚信の姉婿である狩野信政とともに制作に参加した、滋賀県にある天台宗の寺院の聖衆来迎寺客殿の障壁画では『十六羅漢図』、富山県にある曹洞宗の寺院の瑞龍寺には『四季山水図襖』を描いています。 当時の守景は、探幽の画風を忠実に習い描いており、習作期間に位置づけられているのです。 子どものトラブルをきっかけに狩野派から距離を置く 結婚後、守景は1男2女に恵まれ、長女の清原雪信と長男の彦十郎は、父の守景を継いで絵師になっています。 雪信は、父の師でもある探幽に絵を学んだ狩野派随一の女性絵師で、探幽様式を忠実に習いながらも、女性らしい繊細な筆の運びや彩色で優美な作風の絵を描いていました。 作家の井原西鶴が書いた『好色一代男』にも、雪信の名前が登場していることから、当時の人気の高さがうかがえます。 高い評価を得ていた雪信でしたが、狩野門下の絵師であり尼崎の仕官の子である平野伊兵衛守清と駆け落ちをしてしまいます。 息子の彦十郎も探幽門下の絵師として活躍していましたが、悪所通いが原因となり探幽から勘当され破門、のちに師へ告げ口した同門絵師をうち果たすと口走り投獄され、佐渡へ島流しとなってしまいました。 しかし、彦十郎は佐渡でも狩野派の画風を忠実に学んだ作品を制作し続け、注文を受けて制作を行っていたそうです。 長女・長男は波乱万丈な人生を送ったといえるでしょう。 これらの問題がきっかけとなり、守景は狩野派から距離を置くようになり、金沢で制作活動を行うようになりました。 晩年まで制作活動は続けていた 狩野派と距離を置いた守景は晩年、加賀藩前田家に招かれて金沢の城下に滞在しました。 探幽の門下生として描いた瑞龍寺の襖絵は、前田利常の命によるもので、当時は加賀藩の重臣である今枝と小幡の両家にお世話になっていたそうです。 晩年の招待も、瑞龍寺の襖絵制作がきっかけであったと考えられます。 一説によると、2度目の滞在時は五代藩主・綱紀が招き、今枝、小幡の両家と町奉行の片岡孫兵衛の家にお世話になり、6年間滞在していたといわれています。 守景の代表作である『納涼図屏風』や『鷹狩図屏風』は、2度目の金沢滞在期間に描かれたと推測されているそうです。 晩年、絵を描き続けていた守景は、加賀の地でさらに飛躍的な成長を遂げたといえるでしょう。 最晩年は、京都に移住して『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』を制作しており、年を重ねても老いを感じさせない素晴らしい作品を残しています。 久隅守景が描く絵の特徴 守景が描く作品は、初期こそ探幽に習い忠実に探幽様式を再現していましたが、狩野派と距離を置いて以降は、独自の画風を確立していきました。 守景は、味わいのある墨線が魅力の一つで、耕作図といった農民の生活を描いた風俗画を多く手がけています。 探幽以後の狩野派は、守景の画風を敵対視して形式化・形骸化していきますが、守景は個性的な画風を確立していき、高く評価されていました。 また、守景は農村の人々の暮らしをよく描いており、武士が領民の暮らしを守り自らを戒める鑑戒画として知られています。 国宝らしくない国宝『納涼図屏風』 国宝らしくない国宝と呼ばれる『納涼図屏風』は、2度目の金沢滞在時に描かれたといわれています。 おぼろげな月光のもとで、筵を敷いて夕涼みする納付の親子が描かれている作品です。 地面には、細かい砂利のようなものが描かれており、近くに小川が流れているのかと想像させてくれます。 1日の労働を終えて家族で夕涼みするその様子は、くつろぎのひとときといえますが、シンプルな構成からどこかもの悲しさも感じられるでしょう。 また、くつろいでいる3人の表情からは、何気ない日常風景の詩情豊かに表現する守景の才能が見え隠れしています。 日常風景を描いたこの作品は、華やかさがなく一見地味であるとも捉えられ、国宝らしくない国宝ともいわれているのです。 しかし、すみずみまで細かく鑑賞してみると、神経の行き届いた繊細な筆使いが見受けられます。 男性側は太くはっきりとした輪郭線が描かれているのに対して、女性側は細く繊細な輪郭線が描かれています。 『納涼図屏風』は、見れば見るほどその味わい深さに魅了される作品といえるでしょう。 年表:久隅守景 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1620年代頃(元和期) 不詳 生まれる。 1630年代(寛永期) 10代 狩野探幽に師事し、狩野派四天王と称される。 1634(寛永11年) 不詳 作品『劉伯倫図』を制作。探幽門下でその才能を評価される。 1641(寛永18年) 不詳 『四季山水図』を知恩院にて制作。探幽や他の弟子と協力。 1642(寛永19年) 不詳 聖衆来迎寺に『十六羅漢図』を制作。 1672(寛文12年) 50代頃 息子の不行跡により破門。弟子たちから距離を置くようになる。 1700年代初頭(元禄期) 不詳 死去。晩年は不明な点が多いが、後世に影響を与えた。
2024.11.09
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日本だけじゃない!今や世界へ広がる刀剣ブーム
日本における刀剣ブームは漫画やアニメがきっかけ? 日本で起きた刀剣ブームの背景には、漫画やアニメの影響が大きく関係しています。 特に、バトル系のアニメや漫画では、「刀剣」がよく登場します。 日本刀はその美しい曲線や細身のデザインから、「最強の武器」として描かれることが多く、見る人の心を強く惹きつけているのです。 また、アニメや漫画などの二次元作品が好きな人たちは、キャラクターそのものだけでなく、そのキャラクターに関連する物品やイメージカラーなどにも深い愛着を持つ傾向があります。 そのため、キャラクターが使っている日本刀や関連するグッズを買い集めることが、ファン活動の一環として広がっていきました。 漫画やアニメがきっかけとなり、刀剣ブームは子どもから大人まで、特に若い女性たちの間で大きく広がり、日本社会において一大ブームとなっています。 名刀を展示する博物館などに多くの若い女性が訪れる光景が日常的に見られるようになったことは、このブームがいかに影響力を持っているかを物語っています。 るろうに剣心 るろうに剣心は、1994年から1999年にかけて週刊少年ジャンプで連載されていた、和月伸宏による人気漫画です。 「るろ剣」の愛称で親しまれ、90年代後期の週刊少年ジャンプを代表する作品の一つとして広く知られています。 漫画の人気は、アニメ化や実写映画化によってさらに広がり、多くの世代から支持を得ました。 物語の舞台は明治時代の日本で、作品内には数々の刀剣が登場します。中でも注目を集めたのが、主人公・緋村剣心が使用する「逆刃刀」。 逆刃刀は、通常の刀とは異なり、刃と峰が逆になっている特殊な刀剣です。敵を切ることなく戦いたいという剣心の不殺の誓いを象徴しています。 剣心は、かつて幕末最強と恐れられた伝説の人斬り抜刀斎として名を馳せていましたが、ある不幸なできごとをきっかけに人を斬ることをやめ、逆刃刀を手に取るようになりました。この設定は、多くの読者や視聴者に強い印象を与え、刀剣に対する関心を大きく引き上げたといえるでしょう。 るろうに剣心が人気を集めたことで、日本刀の美しさや強さが再評価され、日本国内外で刀剣への興味が広まり、刀剣ブームの一端を担ったことは間違いありません。特に若い世代の中で、日本刀を象徴的な存在として捉えるきっかけとなり、刀剣に対する関心が高まったのです。 ONE PIECE ONE PIECEは、1997年から週刊少年ジャンプで連載されている尾田栄一郎による漫画で、世界中で大人気の作品です。 物語の中心にあるのは、海賊たちが「ひとつなぎの大秘宝[ワンピース]」を巡って繰り広げる冒険とバトル。 多彩な武器や能力が登場する中でも、特に注目されるのが主人公モンキー・D・ルフィの仲間であるロロノア・ゾロが使う「三刀流」の剣術です。 ゾロは、両手と口に刀を持つ独特な戦闘スタイルで知られており、その剣術は達人級です。 ゾロが使用する刀には、「和道一文字」や「三代鬼徹」、「秋水」などの名前が付けられており、これらの名称は実在の名工や名刀からインスピレーションを受けているとされています。 例えば、「和道一文字」は平安時代から室町時代にかけて活躍した刀鍛冶「一文字派」が作り上げた刀をモデルにしていると考えられます。また、「三代鬼徹」は江戸時代中期に実在した刀工「虎徹」の作品をモデルにしているともいわれているのです。 ONE PIECEに登場する刀剣は、実際に模造刀として販売され、ファンの間で人気を集めています。 BLEACH BLEACHは、2001年から2016年にかけて週刊少年ジャンプで連載され、久保帯人が手がけた人気漫画です。 死神と呼ばれるキャラクターたちが登場し、その死神たちが使用する特殊な刀剣「斬魄刀」が物語の中心となっています。 斬魄刀は、死神が悪霊「虚」を斬り浄化するための武器であり、所有者の魂に基づいて形状や能力が決定されます。 能力が解放されていない状態では、斬魄刀は通常の日本刀と似た形状をしていますが、力が解放されると、さまざまな特殊能力を発揮する点が特徴です。 斬魄刀の設定は、物語の中で非常に重要な要素となっており、多くのファンを惹きつけました。 斬魄刀の存在を通して、特に若い世代を中心に、刀剣に対する憧れや興味が広まり、実際の日本刀や刀剣文化への関心をも呼び起こすきっかけになったといえるでしょう。 戦国BASARA 刀剣ブームが盛り上がりを見せたのは平成時代後半のことですが、それ以前にも若い女性たちを虜にした作品がありました。 それは、2005年に発売されたアクションゲーム「戦国BASARA」です。 日本の戦国時代を舞台にしており、歴史上の武将たちが個性豊かに描かれたキャラクターとして登場します。 戦国BASARAは、「戦国時代を舞台にしたゲームに女性ファンを増やした作品」として知られており、特に若い女性の間で大きな人気を博しました。 当時、女性はアクションゲームに対してあまり興味を持たない、あるいは戦国時代に興味がないというイメージが一般的でしたが、このゲームはその常識を覆しました。 二次元作品のファンたちは、その作品に関連するグッズを購入することが「ファン活動」の一環とされていますが、戦国BASARAも例外ではありません。 ゲームの人気と共に、キャラクターの姿が描かれたグッズや、彼らが使用する日本刀をモデルにしたアイテムなどが次々と販売され、特に武器関連のグッズは発売と同時に売り切れることも。 さらに、熱心なファンの中には、キャラクターのコスプレをするために衣装や模造刀を専門業者に依頼して制作する人もいました。 戦国BASARAは、単なるゲームとしての枠を超え、ファンの間で深く愛され、さまざまな形でその人気を保ち続けています。 戦国BASARAは、若い女性に刀剣や戦国時代に対する関心を高め、刀剣ブームを支える重要な作品の一つといえるでしょう。 刀剣乱舞 刀剣乱舞は、2015年に配信開始されたブラウザゲームで、実在する日本刀や伝説的な名刀を「イケメン」に擬人化しており、そのキャラクターを操作するのが特徴です。 ゲームの成功をきっかけに、アニメ、舞台、漫画といったさまざまなメディアミックス展開が行われ、大きな人気を博しました。 刀剣乱舞は、平成の刀剣ブームを牽引する作品となり、女性ファンを中心に広がりを見せました。 このブームによって生まれた新語として、2015年に流行語大賞にノミネートされた「刀剣女子」という言葉があります。 「刀剣女子」は、日本刀が好きな女性、または刀剣乱舞の女性ファンを指し、この言葉から多くの女性が刀剣に対する深い興味を持つようになったことがうかがえるでしょう。 ゲームに登場するキャラクターは刀剣男士と呼ばれ、多くが現存する名刀をモデルにしています。 刀剣女子たちは、自分が好きな刀剣男士のモデルとなった実物の刀を一目見ようと、全国各地の博物館や美術館を巡り、その様子をSNSで共有することがファン活動の一環として定着。 特別展示として名刀が期間限定で展示される際には、各施設が過去最高の来場者数を記録することもしばしばあります。 さらに、一度訪問したことのある施設でも、別の名刀が展示されると聞くと、再度訪れる熱心なファンも少なくありません。 展示施設側も、この刀剣ブームに対応するために、刀剣に関する解説をより分かりやすくしたり、地域の商業施設と連携して町おこしを行ったりなど、さまざまな取り組みを進めています。 刀剣女子たちも、これらの施設の努力や心遣いに感謝し、その体験をSNSで共有することで、さらに多くのファンが興味を持って訪れるという相乗効果が生まれています。 刀剣乱舞は、単なるゲームとしての枠を超え、日本刀への関心を高め、社会現象ともいえる刀剣ブームを生み出す大きなきっかけとなりました。 鬼滅の刃 鬼滅の刃は、2016年から2020年まで週刊少年ジャンプで連載された吾峠呼世晴による漫画で、その人気は日本国内のみならず世界中に広がっています。 連載終了後もその人気は衰えることなく、さまざまなメディアミックス展開が続いているのです。 鬼滅の刃の物語では、登場人物たちが使用する「日輪刀」が重要な役割を果たしています。 日輪刀は「猩々緋砂鉄」や「猩々緋鉱石」などの特別な鉱石から作られ、所有者によって刀身の色が変化するため、色変わりの刀とも呼ばれています。 主人公・竈門炭治郎が所属する鬼を退治する特殊部隊「鬼殺隊」では、各隊員がそれぞれ独自の呼吸法を用いて、個性豊かな日輪刀を駆使して戦うのが特徴です。 呼吸法や日輪刀の使い方は、子どもたちの間で「ごっこ遊び」としても大流行し、キャラクターたちの技や刀を模倣する遊びが広まりました。 また、日輪刀はおもちゃとしてだけでなく、模造刀としても非常に人気が高まり、大人のコスプレアイテムとしても需要が高まっています。 さらに、鬼滅の刃をきっかけに、若い世代を中心とした「居合道」や「剣道」のブームが生まれました。 鬼殺隊のメンバーに憧れを抱いた人々が、各地の道場に問い合わせをしたり、実際に入門したりと、刀剣文化に対する関心が急激に高まったのです。 「鬼滅の刃」は、単なるエンターテインメント作品としての枠を超えて、日本刀や武道への関心を広め、現代の刀剣ブームを後押しする大きなきっかけとなりました。 海外に広がった刀剣ブーム 日本刀は、その美しい造形と優れた実用性により、国内外で広く愛されてきました。 特に最近では、映画やゲーム、文化交流を通じて、その魅力が世界中で再評価されています。 日本刀は、単なる武器としてだけでなく、芸術品や象徴としての価値が認識され、多くの国々で注目されています。 海外における刀剣ブームは、こうした背景を反映し、さまざまなメディアやイベントを通じて日本刀への関心を深めるきっかけとなっているのです。 欧米における日本刀ブーム 日本の刀剣は、ヨーロッパやアメリカを中心に広がり、現地のミュージアムで芸術品として高く評価されています。 特に日本刀は、美しさと技術の結晶として海外のコレクターや芸術愛好家に注目され、数多くの日本刀が各国のミュージアムに所蔵されています。 所蔵されている日本刀は、主に貴族や実業家たちのコレクション寄贈によって集められ、海外での日本刀の認知度向上に貢献してきました。 特にボストン美術館は、アメリカにおける日本美術の拠点の一つです。 明治時代には美術思想家である岡倉天心が美術館に招かれ、日本美術の普及に貢献しました。 ボストン美術館は、50,000点以上の日本美術品を所蔵しており、その中には「宗吉」や「来国光」、「志津三郎兼氏」など、歴史的に貴重な日本刀も含まれています。 欧米のミュージアムは、日本刀を芸術品として評価し、広く一般に紹介することで、欧米における日本刀ブームを促進してきました。 日本刀が持つ美しさや歴史的価値は、今や世界中で認識され、多くの人々に愛され続けています。 中国における日本刀ブーム 日本刀は、中国でも古くから高い評価を受けてきました。 その美しさや機能性は、中国の詩人や文人たちの心を惹きつけ、文化的な交流の一環として深く根付いています。 日本刀が中国に輸出されるようになったのは、平安時代ごろです。 中国の北宋時代に活躍した文人・詩人・政治家である「欧陽脩」は、日本刀の美しさに感銘を受け、「日本刀歌」という詩を残しています。 鮫皮で装飾された鞘や金銀混ざり合った真鍮と銅の組み合わせに注目し、日本刀が単なる武器ではなく、神聖で崇高な存在として見なされていたことがうかがえます。 中国での日本刀ブームがさらに広がったのは、日明貿易が始まったころです。 足利義満が始めた日明貿易(朱印船貿易)は、1401年から1549年まで続きました。 この公式貿易の枠組みの中で、日本から中国へ多くの日本刀が輸出されました。 特に明の時代、中国は倭寇と呼ばれる海賊の襲撃に悩まされており、倭寇が使用していた日本刀の優れた切れ味に対抗するため、同じ日本刀を武器として手に入れようとしたといわれています。 その結果、日明貿易を通じて約10万振の日本刀が中国に輸出され、その多くは「数打ち」と呼ばれる大量生産の備前刀でした。 日本刀は洋画にも登場する 現代において、日本刀は洋画の中でもその魅力を発揮し、海外での関心を高めています。 映画監督であるクエンティン・タランティーノの作品には、日本刀が登場し、重要な役割を果たしているのです。 タランティーノ監督は、独特なスタイルとエンターテインメント性で知られ、多くの作品で日本刀を取り入れています。 代表作である「パルプ・フィクション」や「キル・ビル」は、その一例です。 「キル・ビル」では、主人公のザ・ブライドが日本刀を武器として使用します。 架空の刀鍛冶「服部半蔵」が作った「ハンゾーソード」は、映画の中で非常に象徴的な存在となっています。 「キル・ビル」は、日本刀が持つ美しさと実用性を映画の中で際立たせ、その存在感を強調しました。 日本刀の登場は、単なる武器としての役割を超えて、映画の中で重要な象徴となり、視覚的にも文化的にも深い影響を与えているのです。
2024.11.09
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刀剣博物館 [東京都墨田区]へ行ってみよう
世界が注目する美しい日本の刀剣を堪能する「刀剣博物館」 「刀剣博物館」は、日本刀の保存と美術的価値の普及を目的に「日本美術刀剣保存協会」によって運営されている専門博物館です。 1968年(昭和43年)に東京・渋谷区で開館し、その後、2018年(平成30年)には両国の旧安田庭園内に移転して、新館としてオープンしました。 この新館は、建築家・槇文彦氏がデザインしたもので、曲線美が際立つモダンな3階建ての建物です。 展示 刀剣博物館では、さまざまな国宝や重要文化財の刀剣を鑑賞できます。 国宝「明石国行」は、正式には「太刀 銘 国行(来)」といいます。 鎌倉時代に活動した山城国(現在の京都府)の刀工で、来派の創始者である「来国行」が鍛えた名刀です。 この刀は、かつて明石藩(現在の兵庫県)に伝わっていたため、「明石国行」という号が付けられました。 所蔵されている刀は常設展示ではありませんが、随時展示されることがありますので、展覧会情報を確認するために、ぜひホームページをチェックしてみてください。 コレクション 公益財団法人 日本美術刀剣保存協会は、日本刀の保存と普及を目的とする団体として60年以上の歴史を誇ります。また、同協会が運営する刀剣博物館は、日本国内でほとんど類を見ない日本刀専門の博物館です。これにより、多くのコレクターから作品の寄贈を受けるほか、さまざまな所蔵者から刀剣や刀装具の保管や管理を依託されているものも多数存在しています。 「国宝 太刀 銘 延吉」 「国宝 太刀 銘 国行(来)」 「重要文化財 短刀 銘 兼氏」 特徴/ここがオススメ 1階にあるミュージアムショップでは、製鉄施設「日刀保たたら」を有する刀剣博物館ならではのお土産として、小箱に入った「玉鋼」が販売されており、非常に人気です。 また、1階には庭園を眺められるカフェスペースがあり、さらに3階の屋上には屋上庭園が設けられており、訪れる人々に癒しのひとときを提供しています。 美術館情報 刀剣博物館 住所:〒130-0015 東京都墨田区横網1-12-9 GoogleMap:https://maps.app.goo.gl/uukEKiMFNkTg6tRB6 アクセス:JR総武線 両国駅西口から徒歩7分 ほか 開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日:毎週月曜日(祝日の場合開館、翌火曜日が休館)・展示替期間・年末年始 ※最新の情報は公式サイトをご覧ください 料金:通常展 大人1000円、会員700円、学生(高校・大学・専門学校)500円、中学生以下無料 公式サイト:https://www.touken.or.jp/museum/ 年間パスポート:記載なし
2024.11.09
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月山貞一(1907年-1995年)刀工[日本]
人間国宝として刀を作る「月山貞一」とは 月山貞一(がっさんさだかず) 生没年:1907年-1995年 二代・月山貞一は、大阪にて刀匠である月山貞勝の子として生まれました。 1918年ごろからは、父の貞勝から作刀を学び、16歳になると月山貞光を名乗って大阪美術協会展に初入選し、刀匠界で一目置かれるようになります。 貞一は、戦時中の日本における重要な作刀を依頼される機会が多く、1929年には昭和天皇に贈呈するための『大元帥刀』を父の貞勝とともに作刀しました。 同年、父が亡くなると日本帝国陸軍の兵器製作所である「大阪陸軍造兵廠」と呼ばれる大阪工場の軍刀鍛錬所責任者に任命されます。 戦時中において、西日本の刀匠の最高峰となるのでした。 1945年、日本が第二次世界大戦に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により日本刀の製造が禁止されてしまい、日本の伝統である作刀の技術は衰退の危機を迎えます。 1954年に制定された武器製造法令により文化財保護委員会から作刀の許可を得るまでは、刀匠として不遇の時代を過ごしました。 作刀の許可を得てからは、精力的に作品を作り、1966年に刀匠として名高い祖父「月山貞一」の名を受け継ぎ、二代・月山貞一として作刀を続けていきました。 刀匠としての才能を天から与えられた貞一は、月山家伝統の綾杉鍛えを継承するだけに留まらず、五箇伝の技法すべてを習得したのです。 1971年には、作刀における卓越した技術が認められ、人間国宝の認定を受けました。 初代「月山貞一」は帝室技芸員に任命されている 二代・月山貞一の祖父にあたる初代・月山貞一は、帝室技芸員に任命された優れた刀匠でした。 1836年、初代・月山貞一は、現在の滋賀県にあたる近江国にて、塚本家の子として生まれました。 7歳になると、大阪で活躍していた刀匠「月山貞吉」の養子となり、刀匠としての道を歩みはじめます。 11歳ごろから刀工の修業を開始した貞一は、めきめきと技術を上げていき、1851年16歳のときには、『月山貞吉造之嫡子貞一十六歳ニ而彫之、嘉永四年八月吉日』と銘のある平造りの脇差を作刀します。 鍔には滝不動と呼ばれる滝と不動明王を描く日本伝統的な構図を彫り、この脇差の完成度の高さから、貞一は作刀における才能を持ち合わせていたことがうかがえるでしょう。 1876年、廃刀令が制定されると、日本刀の需要は急激に下がってしまい、多くの刀工職人たちは、転職を余儀なくされました。 しかし、初代・月山貞一は、刀工として作刀を続け、1906年、ついに当時の刀匠としては最高の名誉であった「帝室技芸員」に任命されるのでした。 帝室技芸員となった初代・月山貞一は、宮内省御用刀匠として、愛刀家であると有名な明治天皇の軍刀や、皇族、著名人の刀剣を作刀し、刀匠界で名を広めます。 初代・月山貞一が作刀する刀たちは、どれも豪快な造込みがされており、綾杉肌と呼ばれる大きく波を打っているように見える形状の鍛肌を得意としていました。 作刀だけではなく、刀身彫刻の技術も卓越しており、濃厚で緻密な彫物を刀身に行う月山彫りと呼ばれる技法で名をはせています。 二代・月山貞一が習得した「五箇伝」とは 二代・月山貞一が習得したとされている五箇伝とは、大和伝・山城伝・備前伝・相州伝・美濃伝の5つの地域に伝わる日本刀作りを指します。 大和伝は、現在の奈良県である大和国に伝えられた鍛錬法で、寺院と密接な関係をもっていました。 山城伝は、平安京に都が移された794年ごろから繁栄しはじめた鍛錬法で、優美で気品に満ちた刀剣が特徴です。 貴族の依頼によって作られていたため、実践の技術は問われず、姿や形の美しさに重点が置かれました。 備前伝は、987年の古備前鍛冶からはじまり、時代の波に乗るようにして名匠が誕生し、受け継がれていきました。 戦国時代には、数打ち物と呼ばれる大量生産をこなし、さらに反映していったのです。 相州伝は、現在の神奈川県である相模国に鎌倉幕府が誕生したことをきっかけに生まれた鍛錬法で、強く鍛えた鋼を高温で熱したあと、急速に冷却する難しい技術が取り入れられています。 美濃伝は、現在の岐阜県である美濃国に伝えられた鍛錬法で、五箇伝では最も新しい流派です。 大量生産する数打ちと高品質な注文打ちを両立させ、名をはせていきました。 年表:月山貞一 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1907(明治40年) 0 大阪府に生まれる。父は刀工の月山貞勝で、本名は月山昇。 1929(昭和4年) 22 昭和天皇に贈呈するための大元帥刀を父と共に作刀。 1940年代(昭和期) 30代 戦時中、大阪陸軍造兵廠の軍刀鍛錬所責任者を務める。 1954(昭和29年) 47 武器等製造法の施行により文化財保護委員会の許可を得て作刀を再開。 1966(昭和41年) 59 祖父の名を継いで月山貞一を名乗る。 1967(昭和42年) 60 新作名刀展で正宗賞、文化財保護委員長賞を受賞。 1971(昭和46年) 64 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 1979(昭和54年) 72 勲四等旭日小綬章を受章。 1995(平成7年) 87 奈良県桜井市で死去。
2024.11.09
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東京国立近代美術館 [東京都千代田区]へ行ってみよう
皇居近くにある、日本最初の国立美術館 東京国立近代美術館は、東京の中心部に位置する美術館で、皇居や北の丸公園、千鳥ヶ淵など日本の文化や自然を感じられる環境の近くにあります。 また、東京国立近代美術館は、日本で最初の国立美術館でもあります。 もともとは1952年に中央区京橋に開館し、その後コレクションが増加したため、1969年に現在の千代田区に移転しました。 2001年には大幅なリニューアルが行われ、展示室の拡張やミュージアムショップ、レストランの新設などにより見どころがさらに増えました。 展示 東京国立近代美術館では、所蔵作品展と企画展を開催しています。 所蔵作品展では、日本画・洋画・版画・写真・映像・彫刻など1万3000点を超える所蔵作品から約200点を選出して、会期ごとに入れ替えを行いながら展示しています。 国内最大級のコレクション展示であり、所蔵作品展でありながらも来るたびに新しい作品を鑑賞できるのが魅力の一つです。 企画展では、国内外問わずさまざまな作家の個展や、時代や社会をテーマにした展示会、ユーモアのある展覧会を年に数回開催しています。 コレクション 東京国立近代美術館には、約1万3000点を超える膨大なコレクションが所蔵されています。 19世紀末から現在まで、日本の近現代美術作品を中心に、社会的文脈やグローバルな視点も取り入れながら、収集を続けています。 また、所蔵している作品の国内外の美術館で開催される展覧会への貸出も行っており、近代美術を世に広める役割も担っているといえるでしょう。 東京国立近代美術館に所蔵されている主な作品は以下の通りです。 ・『大きな花束』ポール・セザンヌ ・『ラ・ガループの海水浴場』パブロ・ピカソ ・『王昭君』菱田春草 ・『仁王捉鬼図』狩野芳崖 特徴/ここがオススメ 東京国立近代美術館の最大の魅力は、1万3000点を超える国内最大級のコレクションです。 所蔵作品の中には、横山大観や菱田春草、岸田劉生など重要文化財に指定されている作品も多くあります。 一般的に、企画展をメイン会場で展示する美術館では、常設展の規模が小さくなりがちですが、東京国立近代美術館では膨大なコレクションがあるため、所蔵作品展も充実しているのが大きな魅力です。 所蔵作品展である「MOMATコレクション」では、会期ごとに作品の入れ替えを行うため、常設展でありながら何度訪れても新鮮な気持ちで鑑賞を楽しめます。 1万3000点を超えるコレクションの中から、研究員が季節や社会の状況などにあわせてテーマを決め、約200点を選出し入れ替えを行っています。 さまざまな名画に巡り会えるチャンスのある美術館といえます。 また、所蔵作品は近代の日本画から洋画、国内外の現代アート、彫刻、版画、写真、映像などジャンルが多彩です。 多種多様なジャンルの作品を時代の流れとともに楽しめるのも魅力の一つといえるでしょう。 東京国立近代美術館では、重要文化財を15点所蔵しています。 こちらも常にすべてが展示されているわけではなく、入れ替えが行われているため、すべての重要文化財を自分の目で見てみたいという方は、会期ごとに何度も訪れてみましょう。 美術館情報 東京国立近代美術館 住所:〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1 GoogleMap:https://maps.app.goo.gl/jXpdPobqagGT8AEv9 アクセス: 東京メトロ東西線「竹橋駅」 1b出口より徒歩3分、東京メトロ東西線・半蔵門線・都営新宿線「九段下駅」4番出口より徒歩15分ほか 開館時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00) 休館日:月曜日、展示替期間、年末年始 ※最新の情報は公式サイトをご覧ください 料金: 所蔵作品展 一般500円、大学生250円 企画展 展示によって異なります 公式サイト:https://www.momat.go.jp/ 年間パスポート:1200円 ※初めて利用した日から1年間有効
2024.11.09
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安井曾太郎(1888年-1955年)洋画家[日本]
清爽堅実で写実的な洋画家「安井曾太郎」とは 安井曾太郎 生没年:1888年-1955年 安井曾太郎は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家で、梅原龍三郎と並んで称された人物です。 自分自身が絵を描くだけではなく、新文展の審査員や東京美術学校の教授、帝室技芸員、蕨画塾の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注ぎました。 また、1952年には文化勲章を受章しており、1955年、肺炎で療養している折に、心臓麻痺を引き起こし亡くなりました。 幼いころから画家への道を志す 曾太郎は、京都市中京区にて安井元七、よねのあいだに5男として生まれました。 父の元七は、木綿問屋「安井商店」の2代目と資産家であり、貧しくないむしろ裕福な家庭ではありましたが、中京商家の昔からの習わしもあり、曾太郎は質素な生活を送ったといわれています。 また、生家の隣にある扇屋「藤田団扇堂」には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係性もあり、藤田の家にも気兼ねなく出入りしていたそうです。 無口で実直な性格だった曽太郎からすると、生家にはいつも客が出入りしており、応対する番頭や小僧も多かったため、にぎやかで落ち着く場所がないと感じていました。 しかし、藤田の家は扇屋という商売柄もあって静かであったため、曾太郎はよく出入りをしていたといえます。 また、藤田家の祖母の熟練した筆使いにより描かれる京扇の模様が大変美しく、曾太郎の心を惹きつけていたことも、長居をしてしまう大きな理由の一つといえるでしょう。 曾太郎は、祖母に習いさまざまな模様を描かせてもらい、絵を描くことへの好奇心を高めていきました。 このころのできごとが、のちの画家への礎となり、絵描き思考が形成されていったと考えられます。 その後、4年制の尋常小学校を卒業すると、親の希望もあって商家の子らしい堀川通りにある京都市立商業学校に入学。 しかし、画家として暮らしていく道をあきらめきれずに本科1年を終了したころに学校を中途退学します。 退学前、父に画家を志していることを打ち明けたところ、もちろん反対にあいましたが、長兄の彦三郎が曽太郎の気持ちをくみ父を説得し、画家を目指すことを許されました。 子どものころの曾太郎がなぜ洋画に強く惹かれたのかはっきりとした理由は記録に残っていませんが、中学校の図画教師であった平清水亮太郎の影響や、珠算が苦手であったこと、商人に向かない性格などが関係していると考えられます。 商業学校を中退した曾太郎は、京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でもある亮太郎の家に1年間ほど通い、デッサンや水彩画を学びました。 ライバルとの出会いとパリ留学 1903年ごろから画業に専念するようになりましたが、これまで本格的に絵を学んだことがなかった曽太郎は、焦る気持ちを抑えながら、絵の技術を磨く日々を過ごしました。 そのような中、曾太郎が西大谷にある蓮池で写生をしていたとき、一人の若い画家と出会います。 その画家が描いていた絵は斬新かつ軽妙で大変うまく、内気な性格の曾太郎は声をかけるのをためらいましたが、この機会を逃してはいけないと思い切って声をかけました。 声をかけた画家が、洋画家で教育者の浅井忠に師事している中林僊という洋画家でした。 曾太郎は、僊の紹介により浅井忠が開いている聖護院洋画研究所に入門し、さらに本格的に絵を学んでいきます。 この出会いと入門がきっかけとなり、のちによき友人でありライバルとなる、日本画壇を支えていく梅原龍三郎との出会いにもつながっていくのです。 また、忠と鹿子木孟郎などの適切な指導のおかげもあり、曾太郎は絵描きに没頭していきます。 入門してから3年後の19歳のとき、同じく聖護院洋画研究所にて学んでいた津田青楓とともにフランス・パリへ留学します。 パリに到着した2人は、鹿子木の紹介によりアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ、写実を学んでいきました。 曾太郎はアカデミーで早々に頭角を現していき、ローランスの教室で毎月開催されていた油絵を木炭画のコンクールでは、ほとんどの賞を曾太郎が独占します。 曾太郎は、自宅宛ての手紙にて人には内緒だと伝えながら次のように記しました。 「ジュリアンで賞を取るのは思っているより名誉なことではない。美術学校内も同様で見なヘタな絵ばかりだ。」と批評しています。 そのころの曾太郎が描いた木炭デッサンを見てみると、筆調が冴えているかつ精妙で、自身でも成長を感じられ、初めて見るフランスンの景色や初めて学ぶ知識などが目の前に無限に広がっていた興奮が見て取れます。 第一次世界大戦の開始と体調不良により帰国 アカデミー・ジュリアンで3年間学んだあと、曾太郎はアカデミーをやめて自分のアトリエをもち、自由な研究や制作を進めていくようになりました。 パリ滞在中は、ミレーやピサロ、セザンヌ、エル・グレコ、ギリシャ彫刻などに関心をもち、影響を受けるようになっていきます。 中でも、セザンヌの作風に興味を抱き、それまで暖かく情緒的な色調であった曾太郎の作品は、セザンヌ作品によく見られる青黒く理知的な作風に変化していきました。 そして、留学を始めてから7年後の1914年、第一次世界大戦が勃発したのとあわせて患っていた胸部疾患が悪化したため、長谷川昇や天文学者の福見尚文に身体を支えられながら、45点の作品とともに帰国の途につきました。 帰国後、1915年の新年を親兄弟とともに京都の生家で迎えることになります。 病は、帰国途中の船上にて回復傾向に向かっていましたが、まだ全快とはいえず、療養が必要な状態でした。 しばらくは、紀州の湯崎温泉に滞在したり、関西美術院で指導にあたったりして過ごしました。 その後、留学中に親友となった青楓が二科会の創立に携わり、誘いを受けた曾太郎も会員となり、10月に開催された第2回二科会展ではパリ留学中に描いた44点の作品を特別出品し、一躍日本画壇に名を知らしめました。 しかし、フランスと日本の風土の違いに苦しめられ、その後10年ほどが自分の作風を模索し続け、低迷期に入っていくのでした。 そして、1930年に発表した『婦人像』を皮切りに、曽太郎は独自の日本的な油彩画を確立させていき、龍三郎とともに第二次世界大戦後の昭和期を代表する洋画家として高く評価されるようになっていきます。 1944年には、東京美術学校の教授となり、1952年に文化勲章を受賞するなど、功績が日本画壇に認められ、画家としての成功をおさめるのでした。 安井曾太郎が描く作品の特徴 曾太郎が描く絵からは、シンプルな線と鮮やかな色彩が織りなす、いきいきとしたモチーフたちがうかがえます。 またモチーフにするものからは、日本的な落ち着いた趣を感じられるのも特徴の一つです。 ありのままを描き出すリアリズム感 曾太郎は、意図的に省略や強調、変形を用いて構成を行い、写真のような絵ではなく、対象のそのままの特徴を、あるがままに描き出すのが特徴です。 この曾太郎のリアリズム感は、多くの作品から見て取れます。 静物画の中でも『九谷鉢と桃』は傑作といわれており、この作品を制作した当時の曾太郎は、セザンヌをはじめとしたヨーロッパで学んだ西洋技術を自分の中に落とし込み、日本人の油彩画、さらに深堀りすると曾太郎自身の画風を成立させたといえるでしょう。 人物画に定評がある 日本を代表する洋画家の曾太郎は、人物画にも定評があり、いきいきとした様子が描かれた人物を好む人も多くいます。 曾太郎はデッサンが得意であったこともあり、鑑賞した人が感心してしまうほど巧みに描かれています。 中でも『座像』は、物静かな雰囲気を醸し出す婦人が描かれており、静かな雰囲気の中に意志の強さを感じさせる強いまなざしが特徴です。 年表:安井曾太郎 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888(明治21年) 0 京都市中京区で生まれる。商家の五男として育つ。 1903(明治36年) 15 京都市立商業学校を中退し、聖護院洋画研究所で浅井忠に師事して絵を学び始める。 1907(明治40年) 19 渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。特にセザンヌの影響を受け、ヨーロッパ各国を旅行する。 1914(大正3年) 26 第一次世界大戦の勃発により日本に帰国。翌年、二科会会員に推挙される。 1930(昭和5年) 42 代表作『外房風景』を発表し、独自の画風を確立する。 1944(昭和19年) 56 帝国芸術院会員に任命される。 1955(昭和30年) 67 東京で死去。晩年まで日本洋画界を牽引し、後世に大きな影響を残す。
2024.11.09
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ルネ・マグリット(1898年-1967年)画家[ベルギー]
シュルレアリスムの画家「ルネ・マグリット」とは ルネ・マグリット 生没年:1898年-1967年 ルネ・マグリットは、ベルギー出身のシュルレアリスムの画家で、イメージの魔術師とも呼ばれています。 岩が空中に浮かんでいる様子や、青空が鳥の形に切り抜かれている様子、靴に指が生えた様子など、独創的で不思議な作品が多く、鑑賞した者が再考する必要があるのが特徴です。 マグリットの不思議な世界観は、本来世界がもっている神秘をイメージとして表現したものといわれています。 マグリットの作風は、のちのポップ・アートやミニマリスト・アート、コンセプチュアル・アートなどにも影響を与えました。 母の自殺が子どもだったマグリットに大きな影響を与える マグリットは、ベルギーのレシーヌという町で、仕立て屋兼繊維商の父レオポルド・マグリットと帽子職人の母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれました。 マグリットの作品には、スーツを着た男性や帽子をモチーフにしたものが多く登場します。 両親の仕事柄、子どものころからスーツを着た人や帽子に囲まれて育ったのではないかと考えられるでしょう。 また、マグリットは1910年ごろに家族とともにレシーヌからシャトレに移り住み、絵画教室に通い油絵やデッサンなどの美術教育を受けていたといわれています。 1912年、マグリットの芸術感に大きな影響を与えるできごとが起こります。 母がシャトレのサンブル川で入水自殺をしてしまうのです。 母の自殺衝動は数年前からあり、何度も自殺未遂を図っており、父は母が自殺しないよう寝室に閉じ込めたこともあったそうです。 しかし、母は自宅を飛び出し、数キロ離れた河川敷で遺体となって発見されました。 葬儀の日、母の顔にかけられた布とドレス姿は、マグリットの目と記憶にしっかりと焼き付き、現実と幻想が混ざり合ったマグリットの芸術は、この体験が反映されているのではないかといわれています。 1927年から1928年に描かれた『恋人たち』では、描かれた人物の顔に布がかけられています。 学生時代は印象派に影響を受ける 母が亡くなった後、マグリットと兄弟は下女と家庭教師に引き取られ、生活することになりました。 1913年、マグリットと家族はシャルルロワに移り住み、高校へ入学します。 マグリットの作品は、1915年ごろのものから残されており、当時は印象派のスタイルで制作していました。 1916年から1918年まで、ブリュッセルの美術学校に通い、ベルギー象徴主義のコンスタン・モンタルドに師事しますが、授業にはあまり身が入らなかったそうです。 また、画家でありポスターデザイナーでもあるジスベール・コンバッツからも学び、グラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしながら絵画を勉強していました。 学校に通い絵を学んでいく中で、マグリットの作品は印象派以降の近代美術に影響を受けるようになっていきます。 未来派やキュビスムに大きな影響を受ける 1918年、詩人のピエール・ブルジョワーズや抽象画家のピエール・フルケをはじめとしたベルギー前衛芸術家の仲間と共同アトリエにて短期間制作を行っています。 このころから、イタリア未来派のダイナミズムに興味をもつようになり、その後、雑誌デ・ステイルの創始者テオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。 ドゥースブルフは、ブリュッセルにオランダの純粋主義理論について講演するために来ており、講演を聞いたマグリットの創作意欲に火をつけました。 1918年から1924年にかけての作品は、未来派やキュビスムに大きな影響を受けており、女性をモチーフにした魅力的な肖像画を多く残しました。 幼なじみとの結婚とジョルジョ・デ・キリコ作品との出会い 1920年、ブリュッセルの植物園で幼なじみのジョルジェットと再会し、1922年に結婚します。 1920年から1921年まで、マグリットはベルギーのベヴェルーに従軍し、地図製作や指揮官の肖像画を制作しました。 兵役を終えたマグリットは、1922年から1923年まで壁紙工場の製図工として働きます。 1922年は、マグリットの画家人生に大きな影響を与えるできごとが起こります。 詩人のマルセル・ラコントからジョルジョ・デ・キリコの『愛の歌』の複製を見せられ、マグリットは、「私の人生の中で最も感動的な瞬間の一つであった。私は初めて思考を目の当たりにした」とのちに語っています。 1923年から1926年ごろまでは、ポスターや広告デザイナーとして働いており、このころは、ロベール・ドローネやフェルナン・レジェなど、ピュリスムやキュビズムに影響を受けた作品を制作していました。 その後、ブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、本職を画家としたキャリアをスタートさせました。 シュルレアリストとしての活躍 1926年、マグリットはキュビスムから決別し、初めてとなるシュルレアリスム絵画『失われた騎手』を制作し、1927年にはル・サントール画廊にて初個展を開催しました。 しかし、個展デビューは批評家の厳しい評価を受け、マグリットは落ち込み、パリへと向かいます。 パリでは、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンやほかの芸術家たちと交流を重ねるようになり、シュルレアリスムグループに参加し本格的に絵画制作にのめり込んでいきました。 マグリットの描く作品は、ほかの芸術家たちと比べると幻想的で夢の中にいるようなイメージをもっていました。 その後、シュルレアリスムグループのリーダー的な存在となり、パリには3年間ほど滞在します。 1924年から1929年までは、マグリットの最も充実した時代といわれており、この期間に描かれた作品は、幻想的というよりもどこか不気味な雰囲気が漂っていました。 1929年には、パリのゴーマンズ・ギャラリーにて、サルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギー、フランシス・ピカビア、マックス・エルンストらとともに展覧会を開催しています。 哲学と芸術の融合 1929年、マグリットは最後のシュルレアリスム革命展に、代表作となる『イメージの裏切り』を出品しました。 展覧会では、エッセイの『言葉とイメージ』も配布しており、平面作品と文字言語、視覚言語の関係性を挑発的に探求する今までにない革新的な作品を発表しています。 『イメージの裏切り』には、パイプの絵が描かれており、その下に「これはパイプではありません」と言葉が書かれています。 一見、タバコ屋の広告のようにも見えるこの作品に描かれているのはパイプの絵ですが、あくまでパイプを表現した絵であり、パイプそのものではありません。 マグリットは、イメージと対象の根本的な違いを強調したかったと考えられます。 このように、マグリットの芸術は、日常的なモチーフを採用しながらもそのものの一般的な使い方や見え方とは異なる状態になっているのが特徴の一つです。 ブリュッセルに戻り広告代理店を開業 1929年末、世界恐慌の影響を受けたル・サントール画廊は活動を停止してしまい、マグリットの収入も途絶えてしまいます。 また、パリでシュルレアリスムから関心のない態度をとられパリの芸術に幻滅したマグリットは、ブリュッセルに戻り、1934年に弟のポールとともに広告代理店「ドンゴ」を開業しました。 経済的に苦しい状況を立て直すために開業した広告代理店により、マグリットは安定した収入を得られるようになり、1934年から1937年にかけては「エメア」というペンネームで絵を描き、音響映画の配給会社トビス・クラングフィルムの広告にも採用されています。 1936年には、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊にてアメリカで初となる個展を開催し、1938年にはロンドン画廊でも個展を開催しました。 この展覧会によりマグリットの名は世界中に注目されるようになり、評価が高まっていきました。 ロンドン滞在中には、建築も学んでおり、いくつか作品を制作するとともに、ギャラリーでは画家として講演を行い、芸術家としての地位を高めていったのです。 ルネ・マグリットの世界観と作風 マグリットは、シュルレアリスムの画家とも呼ばれていますが、シュルレアリスムの中でもさらに独特な作風が特徴の一つです。 現実と幻想を巧みに融合させ視覚的な驚きをもたらす作品を多く残しています。 シュルレアリスム シュルレアリスムとは、1920年代に巻き起こった芸術運動で、夢や潜在意識の世界を表現することを目的とした芸術です。 マグリットは、シュルレアリスムの運動に参加し、日常的な物体を通常とは異なる文脈で描き、鑑賞する者に現実の再考を促すような作品を制作しています。 そのため、マグリットの作品には不条理・矛盾したイメージ・シーンが多く登場し、観る者に大きなインパクトを与えています。 古典的な描法 マグリットは、古典的な描法を用いて絵画を制作しています。 筆触を残さないよう繊細に筆を使い、まるで写真のような精密さのある絵画を描いていました。 この技法により、作品に現実感を与えることで、奇妙な文脈のインパクトがさらに大きくなり、印象を強めていると考えられるでしょう。 マグリットの作品は、細部まで丁寧に描かれているのが特徴で、現実世界の物体や風景を精密に再現しています。 視覚的なパラドックス 多くのマグリット作品には、視覚的なパラドックスが登場します。 たとえば、同一人物が複数の場所に同時に存在しているようなシーンや、モチーフを実際とは異なる形状や大きさで描かれていることなどです。 このようなパラドックスは、鑑賞する者の視覚的認識に強い印象を与え、現実と幻想の境界をあいまいにしているといえます。 言葉とイメージの関係性 マグリットは、絵だけではなくイメージと言葉の関係性についても深く探求していました。 『イメージの裏切り』が有名ですが、それ以外にも『テーブル、海、果物』でも言葉とイメージを巧みに利用して作品を描いています。 絵を観てみると、通常であれば左からテーブルが木の葉、海がバター、果物がミルク壺と考えてしまうでしょう。 また、言葉も現実を表してはおらず、海といえば広大な青い水面をイメージしますが、マグリットの作品では、海の下にバターの塊が描かれているのです。 この作品も、マグリットの言葉とイメージの問題を再考させる代表的な作品の一つです。 年表:ルネ・マグリット 西暦 満年齢 できごと 1898 0 ベルギー、レシーヌにて誕生。 1910 12 母が自殺し、遺体が川で発見される。この出来事が彼の作品に影響を与える。 1916 18 ブリュッセルの美術学校に入学し、絵画を学び始める。 1926 28 初めての個展を開催。シュルレアリスム的な作品を発表し、注目を集める。代表作には『眠れる者たちの館』がある。 1929 31 『イメージの裏切り』を制作。この作品には「これはパイプではない」という有名な言葉が描かれており、視覚と言葉の関係について考察を促す。 1936 38 アメリカでの展覧会に出展し、作品が国際的に注目を集める。代表作『大家族』『光の帝国』などを制作。 1940年代 40代 第二次世界大戦中に様々な画風を試し、明るい色彩の作品を制作。 1954 56 ベルギー王立美術アカデミーで回顧展が開催され、ベルギーを代表する画家として広く認識される。 1967 68 ブリュッセルで死去。生涯を通じてシュルレアリスムを追求し、多くの後世の芸術家に影響を与える。
2024.11.09
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ジャン=ミシェル・バスキア(1960年-1988年)画家[アメリカ]
グラフィティの申し子と呼ばれた「ジャン=ミシェル・バスキア」とは ジャン=ミシェル・バスキア 生没年:1960年-1988年 ジャン=ミシェル・バスキアとは、グラフィティ・アートをモチーフにした作品で活躍したアメリカの画家です。 バスキアは、ストリート・アートを芸術の分野に押し上げ、世界に広めた重要なアーティストの一人です。 バスキアが亡くなったあとも、残された作品は高い評価を得て、人々に大きな影響を与えました。 一見、街中にあるような落書きに見える作品たちの背景には、貧富や黒人差別などに対する強い社会的メッセージが込められています。 幼いころにもらった『グレイの解剖学』 バスキアは、アメリカのニューヨーク市ブルックリンにて、プエルトリコ系移民の母とハイチ系移民の父の間に生まれました。 バスキアは、幼いころから絵を描いていたといわれており、これは母からの影響が大きかったとされています。 母は幼いバスキアを連れて、よく地元の美術館に行ったり、ブルックリン美術館のジュニア会員に登録させたりと、バスキアが美術に触れられる環境を熱心に作っていました。 バスキアは勉強もでき、4歳になるころには読み書きを習得したそうです。 ニューヨークのアート専門私立学校である聖アンズ学校に入学したバスキアは、友人となるマーク・プロッツォと出会い、2人で子ども向けの絵本を制作し、早くからアートに関する才能を表していました。 しかし1968年、7歳のころ、道路で遊んでいたバスキアは、車に轢かれる交通事故に遭ってしまいます。 腕を骨折、内臓破裂の重傷を負い、脾臓の摘出手術を受けるほどの大きなけがをしてしまいました。 母は、入院中のバスキアが退屈しないようにと、よく医学生が読んでいる『グレイの解剖学』という有名な本をプレゼントします。 『グレイの解剖学』には、学術書でありながらも図版が豊富にあり、この本がのちのバスキアのアートに大きな影響を与えたといわれています。 バスキアの作品でよく描かれている人体模型のようなモチーフは、幼いバスキアがみた解剖図が源泉といえるでしょう。 ユニット「SAMO」でスプレーペインティングを始める バスキアは、15歳のときに家出をし、ニューヨークのマンハッタンにあるトンプキンス・スクエア公園のベンチでしばらく過ごしていましたが、警察に逮捕されてしまい、父の保護観察下に置かれることに。 しかし、17歳のときに父がバスキアを家から追い出したため、友人の家に居候しながら、自ら作成したTシャツやポストカードを販売して生計を立てるようになりました。 その後、1976年に友人のアル・ディアスとともにSAMOというユニットを結成します。 SAMOは「SAMe Old shit(いつもと同じだよ)」という意味をもっており、2人は学校新聞にマンガを連載するといった活動からはじめ、やがてストリートでグラフィックアートを描くようになっていきます。 マンハッタンのダウンタウンの建物や壁、地下鉄などさまざまな場所にスプレーペインティングを施し、社会を風刺するバスキアの政治的かつ詩的な作品は、少しずつ注目を集めていくようになりました。 当時バスキアは、昼間はノーホーにあるアパレル倉庫で働きながら、夜になると街に出てスプレーペインティングを描く日々を続けていたのです。 また、ダウンタウンのナイトクラブの常連にもなっており、夜は多くのクラブにも出入りしていました。 ある夜、バスキアがいつものようにスプレーペインティングをしているとき、ユニーク・クロシングの社長であるハーベイ・ラッサックが偶然通りかかり、バスキアの才能を認め生活費をサポートするために仕事を依頼するようになります。 1978年には、雑誌「ザ・ヴィレッジ・ボイス」でSAMOの特集が組まれ、活動が世間に広まっていきました。 しかし翌年、ディアスとの関係を解消し、SAMOとしての活動も終了します。 その際は、ソーホーの建物の壁には「SAMO IS DEAD」の文字が描かれました。 キース・ヘリングをはじめとした仲間との親交 1979年、18歳のバスキアは、グレン・オブライエンが司会の番組「TV Party」に出演し、これをきっかけにオブライエンと親交を深めていったバスキアは、その後の数年間、定期的に「TV Party」に出演しました。 バスキアは、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ周辺でもグラフィックアートを制作しており、当時学生であったパフォーマンス・アーティストのジョン・セックス、ストリート・アーティストのケニー・シャーフ、キース・ヘリングらとも親交を深めていきました。 バンド「GRAY」を結成する 1979年、バスキアはヒップホップに通ずるマイケル・ホルマンとパーティーで出会い、「Test Pattern」というノイズロックバンドを結成しました。 バンド名はのちに、幼いころにみた解剖学の教科書『グレイの解剖学』からとって「GRAY」に改名されました。 メンバーには、シャノン・ドーソン、ウェイン・クリフォードなどがおり、当時彼らはCBGB、Hurrah、Mudd Clubなどの大きなクラブのステージでの演奏経験もあり、実力が認められていた人物です。 現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルとの出会い 高校を中退してオリジナルのポストカードやTシャツを販売して生計を立てていたバスキアは、20歳前後のときに運命的な出会いを果たします。 バスキアがソーホーでポストカードを売っていたとき、美術評論家のゲルドザーラーと現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルを見かけ、バスキアは2人が昼食をとっていたレストランに押しかけポストカードを売りつけました。 突然のできごとで、ゲルドザーラーは若すぎると興味を示しませんでしたが、ウォーホルはバスキアの才能を認め、1ドルでポストカードを購入しました。 この出会いがきっかけとなり、のちに共同制作を行うまでの関係性になります。 のちに、美術商のビショフベルガーが、バスキアとウォーホルのランチをセッティングすると、2人はすぐに意気投合。 ウォーホルは、ポラロイドカメラで2人のセルフポートレートを撮影します。 ランチを終えて帰宅した後、バスキアは写真をもとに2時間ほどで2人の絵を描き、ウォーホルのもとに送ったそうです。 絵を受け取ったウォーホルは、のちに絵はまだ濡れていたと当時の様子を語っています。 アーティストとして名声を得る バスキアは、親交を深めていたオブライエンの縁により「Graffiti '80: The State of the Outlaw Art」へ出演し、少しずつ世間から認知されるようになるとともに名声が全米に広がり始めていきました。 1980年、「タイムズ・スクエア・ショー」という展覧会に参加したバスキアは、ジェフリー・ディッチをはじめとした多くの批評家やキュレーターに注目されるようになり、ディッチは雑誌「アート・イン・アメリカ」にて、バスキアへの評価を綴っています。 さらに翌年、現在MoMAニューヨーク近代美術館に統合されているニューヨークの P.S.1で開催された「ニューヨーク/ニューウェーブ」展に参加し、大きな存在感を発揮しました。 この展覧会をきっかけにイタリアでの個展や売却が行われるようになりました。 1982年には、国際的なアートフェア「ドクメンタ」にも参加しており、21歳で当時史上最年少として参加したバスキアの記録は、現在も破られていません。 著名アーティストとの関係 1983年、美術商のビショッフフェルガーは、翌年1984年に開催されるロサンゼルス夏季オリンピックを記念するための作品として、バスキアやウォーホル、イタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテに共同制作を依頼します。 また、ドクメンタに参加した後、バスキアは独立したばかりのディーラーであるラリー・ガゴシアンが作ったスペースをスタジオとして利用し、制作を行っていました。 のちに、ガゴシアンはバスキアの作品の力を借りつつも、世界有数のギャラリーへと成長していきます。 さらにバスキアは、当時まだ無名だったマドンナとも付き合っていました。 そのほかにも、グラフィティ・アーティスト仲間のポートレートを描いたり、ラッパーとして活動していたRammellzeeやK-Robのレコードデザインを担当したりと、さまざまな方面に活動や交友を広げていました。 22歳のときには、ホイットニー・ビエンナーレへの参加やコム・デ・ギャルソンとのコラボなど、大きなプロジェクトをいくつも手がけ、さらに人気が高まっていきます。 オーバードーズによる早すぎる死 1985年ごろ、ポップアート界のスターの地位に昇りつめ、名声を手にしたバスキアは、年間140万ドルほど稼いでいたといわれています。 しかし、成功の陰でバスキアの精神状態は大変不安定なものになっていました。 稼ぎが増え人気が高まっていくほど、プレッシャーも大きくなっていき、ヘロインに溺れるようになってしまったのです。 1986年ごろ、当時ガールフレンドだったジェニファー・グッドとともに、ヘロインへの依存を高めていき、中毒に拍車がかかったと考えられています。 また、1987年にウォーホルが亡くなったことで、バスキアはより一層孤独を深め、薬に依存していきました。 うつ病も悪化し、ハワイのマウイにて静養していましたが、ノーホーのスタジオに戻り1988年8月、ヘロインのオーバードーズにより、27歳という若さで人生の幕を下ろしました。 バスキアが描いた3つのシンボル バスキアの作品には、社会的なメッセージが込められているものも多くあります。 また、特定の意味をもったモチーフが繰り返し登場するのも特徴の一つです。 王冠 バスキアは、王冠のモチーフを好んでよく描いていました。 王冠は、権力や支配の象徴といった意味あいに解釈されることが多くあります。 バスキアは、黒人のアーティストとして、社会の不平等さや人種差別などの問題に強い関心を抱いていたことから、作品でよく権力問題へのメッセージを表現していました。 王冠のモチーフは、支配的な存在や権力に対する挑戦の意思を表現するために描かれ、不正義に対する抗議の象徴であったと考えられます。 また、王冠はアフリカの王や神話的な存在と関連しており、バスキア自身もアフリカ芸術の影響を受けていたことから、アフリカの伝統的な王権の象徴である王冠を描いていたともいわれています。 スカル バスキアの作品のモチーフを思い浮かべたとき、真っ先にイメージされるのがスカルのデザインではないでしょうか。 バスキアが人体の構造に興味をもつきっかけとなったのは、幼いころに事故で重傷を負い入院していたころに読んだ『グレイの解剖学』であるといわれています。 また、頭蓋骨はアフリカ文化圏で行われるブードゥーと呼ばれる儀式を想起させるものでもあり、バスキアはアフリカ芸術の影響を受けていたため、よくスカルのモチーフを描いていたとも考えられるでしょう。 黒人アーティストとしてのレッテルに悩んでいたバスキアは、肌の色に関係ない頭蓋骨をはじめとした皮膚の下の人体構造を描くことで、人種差別に対する強いメッセージを送っていたのかもしれません。 テキスト バスキアの作品には、絵だけではなくテキストも多く描かれており、ほとんどテキストだけで構成されている作品もあるほど、テキストにこだわりを見せています。 テキストの内容は多岐にわたり、お金やモノの価値に関する文章や、商品名、器官の名称、アーティストの名前、社会に向けたメッセージなどがあります。 バスキアは、さまざまなテキストを規則的に並べたり、繰り返し書いたり、ときにはバラバラに配置したりして作品を制作しました。 テキストは説明文としての役割ではなく、視覚的な要素の一つとして用いられています。 文章ではなく、いくつもの単語から生まれる意味や再構築された文が生み出すイメージを表現したのです。 黒人アーティストのレッテルと葛藤 ストリート・アーティストとして名声を手に入れたバスキアですが、自信が黒人アーティストとしてのレッテルを貼られることを大変嫌っていたそうです。 バスキアの作品に、黒人差別をテーマにしたものが多く残されていることからも、黒人アーティストと呼ばれることに悩み、抗議していたことが分かります。 バスキアは、初期のころから黒人差別や人種問題などへ強い関心や共感をもち、作品によって表現していました。 そのため、バスキアの作品には黒人ミュージシャンや黒人のスポーツ選手、歴史上の黒人の政治家や指導者などが、たびたび登場しています。 しかし、バスキアの活躍は黒人アーティストであったからこそ、黒人の音楽や歴史、文化、スポーツなどをテーマにした作品を制作でき、世間から評価を得られたという側面をもっており、そのためバスキアはより一層黒人アーティストとしての立ち位置に葛藤していたと考えられるでしょう。 バスキアが制作した作品の特徴 スプレーペインティングから始まったバスキアのアートには、主に3つの特徴があります。 一見、落書きにも見えてしまう作品の鑑賞を楽しむためには、特徴を理解し、鑑賞時に注目してみるとよいでしょう。 文字や記号を用いた作品 バスキアの作品には、記号や文字が多く描かれている特徴があります。 たとえば、人種差別に関する内容、聖書の引用、社会を強く批判するメッセージなどです。 また、文章としてではなく、単語や記号などを断片的に用いているのも特徴の一つです。 絵と文字や記号を融合させたアートは、グラフィティ・アート出身のバスキアならではの表現方法といえるでしょう。 解剖学からインスピレーションを受けた作品 バスキアの作品には、解剖学からインスピレーションを受けたであろうものが多くあります。 幼いころにみた『グレイの解剖学』がきっかけとなり、解剖学的なドローイングを行うようになり、バスキアの作品には、スカルや人体構造などがたびたび登場しています。 挑発的二分法を用いた作品 バスキアは、挑発的二分法と呼ばれる手法を用いた作品を多く制作しています。 挑発的二分法とは、一つの作品の中に黒人と白人、富裕層とホームレスなど相対する2つの要素に焦点をあてて描き、対比を強調する表現方法です。 社会への批判的なメッセージを作品で多く表現していたバスキアは、よく挑発的二分法を用いて社会へのメッセージを表していました。 年表:ジャン=ミシェル・バスキア 西暦 満年齢 できごと 1960 0 ニューヨーク市ブルックリンで誕生。母親はプエルトリコ系、父親はハイチ出身。幼少期から絵に親しみ、母親の影響で美術館に通う。 1968 7 車にはねられ、脾臓を摘出する大けがを負う。入院中に母から解剖図『グレイの解剖学』を贈られ、後の作風に影響を与える。 1976 15 SAMO(セイモ)という名前でグラフィティアートを開始。ニューヨーク市内の壁や建物にメッセージ性のある言葉や絵を描き、注目される。 1978 17 高校を中退し、家出。生活費を稼ぐために自作のポストカードやTシャツを販売し始める。この頃、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングといったアーティストとも出会う。 1981 20 グラフィティアートがアート界で注目され始め、『ザ・ヴィレッジ・ヴォイス』紙に取り上げられる。アートコレクターやギャラリーからの関心を集め、ロサンゼルスで初個展を開催する。代表作には『アンディ・ウォーホルの肖像』『無題』などがある。 1982 21 国際的に評価が高まり、ニューヨーク近代美術館の展覧会にも参加。同年、代表作『頭』を発表し、抽象と具象を融合させた独自のスタイルを確立する。 1983 22 アンディ・ウォーホルと本格的に親交を深め、共同作品も制作。代表作『ドス・カラベラス』や『フレックス』などを制作し、商業的にも成功を収める。 1985 24 ウォーホルとの共同作品が評価される一方で、「商業主義に屈した」と批判を受けることもある。この頃、『無題(悪魔)』を含むダークなテーマの作品も発表。 1988 27 精神的な孤立が深まり、薬物依存に悩む。代表作『王冠』を発表するが、8月12日、ヘロインの過剰摂取により自宅で死去。彼の死は多くのファンやアーティストに衝撃を与えた。
2024.11.09
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新たな発見が生まれる「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展」レポ
東京国立近代美術館では、パリ市立近代美術館、東京国立近代美術館、大阪中之島美術館のコレクションを、テーマごとにトリオに分けて展示するユニークな企画展を開催しています。 トリオで並べて鑑賞することで、共通点を発見したり、意外な組み合わせに驚かされたりと、多彩な楽しみ方のある企画展です。 今回は、東京国立近代美術館で開催されている「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展」に行ってきました! トリオ作品をじっくりと鑑賞して新たな共通点や発見を楽しみましょう。 これまでにない組み合わせで作品を展示する「TRIO展」は東京国立近代美術館にて開催中 TRIO展は、独自の文化を育んできたパリ・東京・大阪の3都市にある美術館のコレクションが集結し、共通する特徴ごとにトリオで分けた珍しい企画展です! 展示会場となる東京国立近代美術館の前庭には、TRIOのオブジェが設置されており、訪れた人を歓迎しています。 また、企画展に入ると撮影についての注意書きの看板が設置されているため、写真を撮りながら鑑賞を楽しみたいと考えている方は必ず確認しましょう。 「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展」のみどころ TRIO展の内容を紹介していく前に、みどころを簡単に紹介していきます! テーマやコンセプトに沿って7つの章に分け、3つセットで比較しながら鑑賞していくTRIO展。 どのような点に着目して作品を鑑賞してみるとよいかの参考にしてください。 3つの美術館の作品が一堂に集結 TRIO展は、パリ市立近代美術館、東京国立近代美術館、大阪中之島美術館の作品が一堂に集結する夢の企画展です! 3つの美術館による共同企画であり、34のテーマに沿ってそれぞれの美術館が作品を提供しています。 「モデルたちのパワー」、「空想の庭」、「現実と非現実のあわい」など独特なテーマに沿って組み合わされた作品たちを比較しながら鑑賞すると、これまでとは違った新たな発見ができるかもしれません。 ジャンルの垣根を越えて110人約150作品が集結する豪華な展示会 TRIO展は、パブロ・ピカソ、岸田劉生、萬鉄五郎、ジャン=ミシェル・バスキア、草間彌生など、時代やジャンルを超えて全110人、約150作品が集結する豪華でにぎやかな展示会です! 20世紀から現代にかけて活躍した日本と西洋のアーティストの作品が集まり、トリオ展示ならではの魅力を見せてくれるでしょう。 モダンアートを代表する巨匠から、現代で活躍し続けているアーティストまで、時代やジャンルに捉われることなく、自由な視点で鑑賞を楽しむのがおすすめです。 意外なトリオの組み合わせを楽しもう TRIO展では、共通するテーマに沿ってトリオで作品が展示されています。 たとえば、アンリ・マティス、萬鉄五郎、アメデオ・モディリアーニがTRIOになり展示されている作品があります。 アーティスト名を並べただけでは、何がテーマになっているか分かりませんよね。 作品を見てみると、3人の作家はみな女性が横たわる構図の絵を描いています。 3つの作品に描かれた女性たちからは、堂々とした女性の強い美を感じさせられます。 このようにTRIO展は、いままで比較して見たことがなかった作品たちを、テーマにあわせて比較しながら鑑賞できる貴重な企画展です! バスキアと佐伯祐三の作品が、都市のグラフィティとして並んで展示されていたり、女神を描いた作品としてマリー・ローランサンと藤田嗣治が並べられていたりと、普段の美術館では見られない組み合わせを楽しみましょう。 音声ガイドは女優の「有村架純」さん TRIO展では、女優の有村架純さんがナビゲーションを務める音声ガイドを楽しめます。 会場レンタル版とアプリ配信版があり、会場レンタル版はチケットで入場した後、展示会場前で受付を行っています。 貸出料金は1台650円(税込)です。 また、アプリ配信版は自分のスマホやタブレットが音声ガイドになり、展示会場内だけではなくどこでも自由に音声を楽しめます。 アプリ配信版は700円(税込)で、事前にダウンロードしておくと、当日はスムーズに鑑賞を進められるでしょう。 7つの章と34のテーマに分けられたTRIO展 TRIO展では、7つの章と34のテーマによって分けられた作品がトリオで展示されており、テーマに沿った共通点を発見しながら鑑賞を楽しめます。 ロベール・ドローネー『鏡台の前の裸婦(読書する女性)』 1915年 パリ市立近代美術館 安井曽太郎『金蓉』 1934年 東京国立近代美術館 佐伯祐三『郵便配達夫』 1928年 大阪中之島美術館 展示会場に入ってすぐに展示されているのがこの3つの作品です。 パッと見て分かる共通点は、モデルがみなイスに座っていることではないでしょうか。 そして、実はほかにも共通点があるのです! 『鏡台の前の裸婦(読書する女性)』は、パリ市立近代美術館の開館の契機を作ったジラルダン博士の遺贈品、『金蓉』は、東京国立近代美術館が最初に購入した作品の一つ、『郵便配達夫』は、大阪中之島美術館構想のきっかけとなった実業家の山本發次郎の急増品なのです。 つまり、3作品とも今回コラボした3つの美術館のはじまりに関連した作品です! そのため、今回のTRIO展では「コレクションのはじまり」というテーマでトリオになっているんですね。 はじまりのきっかけとなった作品が、すべてイスに座った絵なのも新たな発見になりました。テーマになっている共通点だけではなく、自分だけの共通点も発見しながら楽しめます。 第1章の「3つの都市:パリ、東京、大阪」では、3都市をテーマにした作品が展示されています。 モーリス・ユトリロ『セヴェスト通り』 1923年 パリ市立近代美術館 長谷川利行『新宿風景』 1937年 東京国立近代美術館 河合新蔵『道頓堀』 1914年 大阪中之島美術館 この3作品は、それぞれ3都市での生活や風景を切り取って描いた作品です。 ユトリロが描いたのは、モンマルトルの丘近くにある石造りの建物が建ち並んでいる通りと、その道を歩く女性。 利行は、昭和初期の新宿のビル街と行き交う人々の賑わいを描いています。 新蔵は、水の都と呼ばれる大阪の道頓堀川に沿って建ち並ぶ建物と船を漕いで移動する人々を描きました。 別々の土地、異なるタッチで描かれたこの作品たちは、都市と人々を描いた作品という共通点のもとトリオで展示されています。 第2章の「近代化する都市」では、伝統的なテーマから脱却し、現代社会を表現することに挑んだ作品をメインに展示しています。 フランソワ・デュフレーヌ『4点1組』 1965年 パリ市立近代美術館 佐伯祐三『ガス灯と広告』 1927年 東京国立近代美術館 ジャン=ミシェル・バスキア『無題』 1984年 大阪中之島美術館 この3作品は、路上アートをテーマにしている点で共通しています。 パリの詩人であったデュフレーヌは、重なり合った複数のポスターをはがしてキャンバスに貼り、作品を制作しています。 佐伯は、いくつものポスターが重ね貼りされているパリの街角を、素早い筆さばきで描きました。 バスキアは、ストリートアーティストとして活躍していた芸術家で、ニューヨークと東京にインスピレーションを受けて描いた作品を展示しています。 路上アートという共通するテーマでありながら、ポスターそのものを使った作品、ポスターが貼られている風景を描いた作品、ストリートアーティストとしての作品と、異なる手法で制作された作品を並べて見比べるのは新鮮な気持ちでした。 東京からもインスピレーションを受けているというバスキアの作品の中には、漢字も描かれています。 3作品を比較しながら全体を鑑賞した後は、気に入った作品の細部をじっくり鑑賞し、新たな気付きを得られるのもTRIO展ならではの楽しみ方ですね。 第3章の「夢と無意識」では、シュルレアリスムをはじめとした幻想、空想、夢、無意識、非現実、メタファーなどを表現した作家の作品が展示されています。 ジョルジョ・デ・キリコ『慰めのアンティゴネ』 1973年 パリ市立近代美術館 イケムラレイコ『樹の愛』 2007年 東京国立近代美術館 コンスタンティン・ブランクーシ『眠れるミューズ』 1910-1911年ごろ 大阪中之島美術館 この3つの作品は、すべて頭部に大きな印象を受ける作品です。 絵画と彫刻作品がトリオになる新しい組み合わせが印象に残りました! 『慰めのアンティゴネ』は、ギリシャ悲劇の王女アンティゴネが盲目の父王オイディプスを腕に抱く様子を描いていますが、頭部はマヌカンで表情が見えず無気力な印象を与えます。 ブランクーシの彫刻も表情のないマネキンのような作品ですが、目鼻立ちを際立たせており、上品な顔立ちに見えますね! タイトルになっているミューズとは、知的活動をつかさどる女神を指しており、作品には表情がないにもかかわらず、くっきりとした目鼻立ちから神秘性を生み出しているように感じられました。 『樹の愛』は、比較的新しい作品で、瞼を閉じた人の頭部を樹の愛という概念として表現しています。 第4章の「生まれ変わる人物表現」では、伝統的な人物表現から新たな表現を生むために、理想美の解体や新たな美の創造を追求していった作品が展示されています。 ジャン・メッツァンジェ『青い鳥』 1912-1923年 パリ市立近代美術館 藤田嗣治『五人の裸婦』 1923年 東京国立近代美術館 マリー・ローランサン『プリンセス達』 1928年 大阪中之島美術館 西洋絵画では、三美神と呼ばれる伝統的なテーマがありますが、20世紀に活躍していた画家たちは、この伝統に捉われず、さまざまな技法や人数によって女神たちを描いています。 『青い鳥』は、キュビスムの画家メッツァンジェが描いた作品で、メーテルリンクの童話創「青い鳥」をモチーフに描いています。 キュビスム特有の多視点から3人の女性を捉え、分割・統合しながら大画面に大胆に描いています。 ぱっと見ただけでは、どこに女神が描かれているのか分からない人も多いのではないでしょうか…。 じっくり鑑賞してみると、黄色い扇子で顔を隠している女性と、青い鳥をつかんでいる女性、横たわっている女性の3人が描かれています! 『五人の裸婦』は、藤田が初めて群像に挑戦した作品です。 藤田特有の乳白色の下地の色合いが表現された女性たちの肌の色が美しく、思わず見とれてしまいました。 それぞれの女性が独特なポーズをとっているのも印象的でした。 ローランサンの『プリンセス達』は、やはり淡い色彩表現が可愛い! 真っ白な肌と華やかな装いがマッチしていて女性の華麗さが際立っているように感じられました。 女性が抱いている犬のつぶらな瞳にも心惹かれてしまいました。 第5章の「人間の新しい形」では、都市化や工業化、世界大戦によって変化していく人間性や表現を追求した作品が展示されています。 カレル・アペル『村の上の動物たち』 1951年 パリ市立近代美術館 パウル・クレー『黄色の中の思考』 1937年 東京国立近代美術館 菅井汲『風の神』 1954年ごろ 大阪中之島美術館 この3作品は、自由奔放に引かれたかのような線を描いているのが共通する特徴です。 3人とも、子どもの絵や先史民族の象形文字、日本古来の神話などに注目して作品を制作しており、よく見ると人の形や動物の姿が認識できますが、一見落書きのような絵にも見えてしまいますね。 しかし、これらの作品は規範的で機械的な線からの解放を表現しているのです。 人々が古来より持ち合わせていた原始的な創造エネルギーが感じられるこれらの作品は、絵そのものを見るのではなく、描かれた創造のパワーを感じ取ることが大切かもしれません! 第6章の「響きあう色とフォルム」では、人物や風景を主題とするのではなく色や形そのものが作品のメインとなっていった20世紀の美術作品を展示しています。 セルジュ・ポリアコフ『抽象のコンポジション』 1968年 パリ市立近代美術館 辰野登恵子『UNTITLED 95-9』 1995年 東京国立近代美術館 マーク・ロスコ『ボトル・グリーンと深い赤』 1958年 大阪中之島美術館 この3作品は、どれも抽象的な要素で構成されており、色彩に目が惹かれます。 絵画や彫刻を構成する基本的な要素である色と形に焦点があてられた作品たちで、20世紀に入ってからの人物や風景などの主題をもたず、色や形が作品の主題になっていった作品の代表ともいえるでしょう。 第7章の「越境するアート」では、これまで生み出されてきた絵画や彫刻などの基本的な美術ジャンルには当てはまらない表現を用いた作品を展示しています。 使われている素材は、既製品や日用品、廃材など多種多様で、映像表現の作品も数多く展示されていました。 アートは時代を映す鏡ともいわれています。 現代社会で多様性のある働き方が広がっているように、美術界でも多様な表現方法が生み出されていっていると感じました。 TORIO展はオリジナルグッズも大充実 今回展示されていた作品をプリントアウトしたポストカードやピンバッジ、マグネットセット、丸皿などさまざまなオリジナルグッズが販売されています! 眠れるミューズクッションやオダリスクの椅子のクッションなど、癖の強いグッズも販売されていて、グッズショップも見どころ満載です。 また、東京国立近代美術館限定の複製画の予約販売も行われていました。 会場で販売されていたのは、ジクレーと呼ばれる複製技法を用いて制作される複製画です。 複製画は、4原色の掛け合わせにより印刷されるのが一般的ですが、ジクレーによって制作されるTRIO展の複製画は、10色を掛け合わせて制作されており、これまで以上に細かな色彩やタッチの強弱、作品の繊細なニュアンスなどが表現できるようになりました。 販売価格が数万円とほかのグッズと比べると高価ですが、精密に再現された複製画は、自宅に飾っておくと雰囲気をがらっと変えてくれるでしょう。 気に入った作品があれば、ぜひ予約複製画を検討してみてはいかがでしょうか。 ちょっとしたお土産を買いたいという方は、缶バッジやアクリルキーホルダーのガチャガチャがおすすめです。 グッズショップの出口付近にありますので、見逃さないよう注意しましょう! 奇想な展示で新たな発見を生み出す「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展」 TRIO展は、これまで見たことがある作品も見たことがない作品も、新たな視点から楽しめる企画展です。 もともと知っている作品、気に入っている作品とトリオになって展示されている知らない作品にも興味をもつきっかけになりますね。 また、同じテーマの作品を比較して鑑賞することで、それぞれの特徴やよさなどの発見にもつながるかもしれません。 知らなかった作品に興味を抱き、知っている作品の魅力はさらに増し、美術鑑賞の方法や知識などを広げる素敵な企画展でした! 美術に詳しい人も詳しくない人も、それぞれの視点から自由に比較し共通点を探し出し、感性を豊かにしてくれるTRIO展。 「見て、比べて、話したくなる。」のキャッチコピーのように、鑑賞後は友人とカフェに入って感想を伝え合うのもよいですね。 東京国立近代美術館には、フレンチとイタリアンが融合したアートなレストラン「L'ART ET MIKUNI ラー・エ・ミクニ」が併設されています。 本格的なクリエイティブ料理を提供してくれるレストランで、店内からは皇居を眺められる点もポイントです。 東京国立近代美術館でアートを鑑賞した後は、皇居の自然を眺めながら優雅に食事をとり、展示会の余韻に浸りましょう。 店舗情報 L'ART ET MIKUNI ラー・エ・ミクニ https://lart-et-mikuni.jp/ TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクションは、2024年5月21日(火)~8月25日(日)まで開催中です。 2024年9月14日(土)~12月8日(日)までは、大阪中之島美術館 4階展示室にて開催予定のため、東京で見逃してしまった人は、ぜひ大阪中之島美術館で開催される際に訪れてみてください。 開催情報 『TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション展』 場所:東京国立近代美術館 期間:2024/5/21~2024/8/25 公式ページ:https://www.momat.go.jp/ チケット:一般 2200円、大学生 1200円、高校生700円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.11.09
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骨董品の処分方法は?手放すときには納得の選択を
骨董品を処分するための方法はいくつかあり、そのときの状況や目的により適切な方法を選択することが重要です。 また、処分方法によって特徴が異なるため、よく考えて処分方法を選ばなければなりません。 骨董品を処分する方法 長い年月を経て古びてしまったもの、傷・汚れのひどいもの、故人が遺したものなど、どのように処分すればよいかわからない骨董品をお持ちの方もいるでしょう。 骨董品の処分は、一般的には何度も行う経験ではないといえます。 一度も処分したことがなく、どのような方法があるのか知らない方もいるのではないでしょうか。 そのため、骨董品の処分を検討する際は、処分の方法を把握し、それぞれの方法のメリット・デメリットを正しく理解する必要があります。 ゴミとして処分する 骨董品をゴミとして処分する場合、主に以下の3つの方法が考えられます。 ・普通ゴミとして処分する ・粗大ゴミとして処分する ・ゴミ処理場に持ち込む 掛け軸や絵画など、可燃性の骨董品であれば、普通ゴミとして処分可能です。 各自治体が、週に1〜2回無料で回収してくれるため、最も手軽な方法といえるでしょう。 ただし、自治体によって分別のルールが異なるため、居住している地域の分別方法をよく確認しておくことが大切です。 粗大ゴミとして処分する場合、多くの自治体で回収が有料のため、事前に申し込みを行い、粗大ゴミ処理券をコンビニや郵便局で購入します。 ゴミ処理施設に連絡し直接持ち込む方法も、施設によって受け入れているゴミの種類が異なるため、事前に連絡して確認することが大切です。粗大ゴミとして出したり、処理場に持ち込んだりする場合は有料のため、必要な費用を事前に調べておきましょう。 ネットオークションやフリマで売る 現代には、ネットオークションやフリマのサイトやアプリが数多く存在しています。そのため、誰でも気軽に骨董品を他人に販売できるといえるでしょう。 自分で価格設定が行えるため、希望の金額で骨董品を販売できる点が魅力です。ネットオークションやフリマサイトの利用方法は簡単で、会員登録が済めば、商品の写真を掲載して説明文を書くだけで販売をスタートできます。 しかし、自分が正当な価値をわかっていないと、値打ち物を安く買い叩かれてしまうリスクがあるため注意が必要です。また、すぐに売れるとは限らないため、急いで骨董品を処分したい方には、適していません。 欲しい人へ譲り渡す 不要になった骨董品を処分するのなら、必要とする人に譲るのも一つの方法です。 友人や知人に尋ねてみて、欲しい人がいれば無料や格安で譲ることで、大切にしてもらえるという安心感が得られます。 ただし、この方法は、骨董品に興味のある友人・知人が周りにいない場合、処分するまでに時間がかかってしまう可能性があります。 欲しい人が見つからない場合は、速やかにほかの方法を検討するのがよいでしょう。 遺品整理業者・不用品回収業者に依頼する 故人が遺したものの整理で、できるだけ早く処分する必要があれば、遺品整理業者や不用品回収業者に依頼するのがお勧めです。 遺品整理業者に依頼する際に、骨董品の査定もお願いできる場合があり、適切な価格をつけてもらえる可能性があります。また、不用品回収業者によっては、無償での引き取りを行っているところもあるため、事前に確認しておくとよいでしょう。 しかし、業者によっては処分費用が発生する場合や、骨董品の適切な価値を評価してもらえない場合があります。利用する際は、複数の業者を比較し、相場をリサーチすることでリスク回避が可能です。 本当に処分していい?高い値打ちのある骨董品もあるかもしれません 骨董品は、興味のない人からすると、ただのガラクタや古いだけのものに見えるかもしれません。 しかし、単なる不用品として処分してしまう前に、その価値を見直してみることをお勧めします。 骨董品買取業者へ依頼する 処分しようと考えている骨董品は、まず骨董品買取業者に査定を依頼してみましょう。 骨董品買取業者は、遺品整理業者や不用品回収業者とは異なり、骨董品の価値を正確に見極められる専門業者です。 骨董品買取業者の鑑定士は、骨董品の歴史や希少性をプロの目で評価し、適正な買取価格を提示してくれます。処分しようとしている品物が、骨董品としての価値を持つのかどうか、素人目にはわかりません。 そのため、無料査定を実施している買取業者に依頼し、正確な価値を査定してもらうのがお勧めです。 思わぬ価値が見つかることも 古びたものに高い価値が認められる可能性もあるのが、骨董品の魅力です。 汚れや傷があるものでも、査定に出せば思わぬ価値をつけてもらえることもあります。 汚れや傷は無理に綺麗にしようとせず、そのまま骨董品買取業者に持ち込むのがよいでしょう。 無料査定や相見積もりで納得できる選択を 多くの骨董品買取業者では、持ち込みや訪問で無料査定を実施しています。 訪問査定であれば、大量の骨董品がある場合でも、持ち込みの手間が発生しません。 また、適切な価格を知りたい場合は、複数の骨董品買取業者をピックアップして、相見積もりを取るとよいでしょう。 骨董品の処分に迷ったら…価値を残す選択肢を考えてみて 遺品や不用品を処分する際に、その中に骨董品が眠っている場合があります。 骨董品の処分には、ゴミに出したり不用品回収業者に回収してもらったりと、いくつかの方法があります。 そのため、自分の目的と状況に合った手段を選ぶのが良いでしょう。 不要になった骨董品の処分に迷った際は、その価値をできるだけ残す選択肢を考えてみてはいかがでしょうか。骨董品買取業者であれば、正しい知識と経験を持ったプロが査定し、適正な価値を見極めてくれます。 まずは無料査定で、骨董品の価値をみてもらいましょう。
2024.10.28
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