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東京国立博物館 [東京都台東区]へ行ってみよう
東京国立博物館は、1872年に開館した歴史ある博物館です。 150年以上の歴史の中で受け継がれてきた収蔵品は約12万点で、そのうち国宝が89点、重要文化財が649点も保存されています。 東京国立博物館には、教科書でも見たことがあるような有名な作品が多く展示されています。 美術品に詳しくない人でも一度は見たことがあるようなものもたくさん展示されているため、子どもから大人まで鑑賞を楽しめるでしょう。 展示 東京国立博物館の敷地は広大で、展示施設もいくつかの建物に分かれています。 ・本館 ・平成館 ・東洋館 ・法隆寺宝物館 ・表慶館 ・資料館 など 日本だけではなく東洋の美術や考古を中心に、さまざまなジャンルの文化財が収蔵・展示されているため、特定のジャンルに偏らずまんべんなく歴史的価値のある展示品を鑑賞できます。 コレクション 東京国立博物館では、絵画から書跡、彫刻、工芸、考古などさまざまなジャンルの名品が約12万点も収蔵されています。 公式サイトでは、博物館が所蔵している優良品約500件のデータを閲覧可能です。 博物館を訪れて気になったものがあれば後から見直してみたり、先に所蔵品をチェックし展示中のものの下見として活用するのもよいでしょう。 所蔵されている国宝には以下のようなものがあります。 ・『銀象嵌銘大刀』熊本県和水町 江田船山古墳出土 ・『千手観音像 』 ・『秋冬山水図』雪舟等楊筆 特徴/ここがオススメ 東京国立博物館には、国宝や重要文化財に指定されている物品が多く収蔵・展示されているのが魅力の一つです。 国宝や重要文化財は歴史的・文化的価値の高い大変貴重なものであり、なかなか直接みれる機会は少ないといえます。 東京国立博物館には、多くの国宝や重要文化財が所蔵されているとともに、定期的に入れ替えを行いながら展示をしています。 いくつもの国宝や重要文化財をまとめて鑑賞できる機会はなかなかありません。 東京国立博物館を訪れたら、国宝や重要文化財に指定されているかにも注目して見てみるとよいでしょう。 美術館情報 東京国立博物館 住所:〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9 GoogleMap:https://maps.app.goo.gl/PqxJFp5TykHzKap97 アクセス:JR上野駅公園口、または鶯谷駅南口下車 徒歩10分 ほか 開館時間:9:30~17:00(金・土は19:00まで)※入館は閉館の30分前まで 休館日:月曜日・年末年始 ※最新の情報は公式サイトをご覧ください 料金:総合文化展(平常展)は一般1000円、大学生500円 ※特別展は展示によって異なります 公式サイト:https://www.tnm.jp/ 年間パスポート:友の会 年会費7000円、国立博物館メンバーズパス 一般2500円 学生1200円 近隣のおでかけスポット 上野公園の敷地内にある東京国立博物館。 建物の目の前には公園の噴水があり、噴水越しの博物館は涼し気で壮大な雰囲気があります。 上野動物園 上野公園内には、東京国立博物館から歩いて数分の距離に上野動物園があります。上野動物園では、約300種3000点の動物が飼育されており、東京都心でありながら自然の景観を再現しているのが特徴です。エリアは東園、西園の大きく2つに分けられており、上野動物園の名物であるジャイアントパンダが暮らすパンダもりは、西園にあります。 上野恩賜公園 東京台東区にある広大な敷地の上野恩賜公園には、さまざまな施設が併設されており、東京国立博物館もそのうちの一つです。 上野恩賜公園は、自然や噴水など散策を楽しめる空間があるとともに、数々の銅像や施設などもあり、見どころがたくさんあります。 散歩やアート鑑賞、寺社巡りと、自分の興味のある楽しみ方をみつけられる公園です。 春にはソメイヨシノが満開になり、お花見スポットとしても有名です。 上野アメ横商店街 上野公園がある上野駅からすぐの場所にアメ横と呼ばれるにぎやかな商店街があります。 約500mの道には、400店舗以上のお店が軒を連ねています。 アメ横では、珍品・貴品などを扱う専門店がたくさん集まっており、上野公園の観光ついでに寄ってみるのもおすすめです。
2024.11.09
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国宝や重要文化財はどうやって選ばれるのか?
国宝や重要文化財が日本にとって大切なものであると漠然としたイメージはあっても、具体的にどのようなものを指しているのか、どのように指定されているのか知らない人も多いでしょう。 国宝や重要文化財がどのように指定されているのかを知ることで、歴史的・文化的な価値を理解したうえでの鑑賞を楽しめるようになります。 国宝とは 国宝とは、簡単にいうと「日本の宝」です。 古くは、1897年の「古社寺保存法」、1929年の「国宝保存法」により指定された6847件の物品を国宝と呼んでいました。 しかし、1950年に「文化財保護法」が新たに制定されると、過去に国宝と指定された物品は一度「重要文化財」と呼ばれるようになり、文部科学省が「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いものかつ、国民の宝たるもの」と認めたものを国宝として指定しました。 そのため、現在国宝として認められている物品は、もともと国宝として扱われていたものの中からさらに価値が高いと判断された国宝中の国宝ともいえます。 国宝は、8つのジャンルに分けられており、項目は以下の通りです。 ・工芸品 ・絵画 ・彫刻 ・書跡、典籍 ・建造物 ・古文書 ・考古資料 ・歴史資料 国宝指定が最も多いジャンルは工芸品で、陶磁器や仏教の法具、刀剣などが該当します。 考古資料とは、土偶や青銅器などの出土品です。 国宝の選び方 国宝は、重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いものかつ、たぐいない国民の宝たるものと認められたものが指定を受けます。 また、国宝は重要文化財から指定されるため、まず重要文化財として指定される必要があります。 国宝は、文化財分科会が文部科学大臣に対して、該当の文化財を国宝に指定するよう答申し、それを受けた文部科学大臣が指定することで国宝と認められるようになるのです。 旧国宝もある 旧国宝とは、昔の法律により定められていた国宝を指します。 美術鑑賞をしているとき、「重要文化財(旧国宝)」の文字を見かけたことがある人も多いのではないでしょうか。 旧国宝は、1929年に制定された「国宝保存法」によって指定されていた国宝で、1950年の「文化財保護法」により国宝が一度すべて重要文化財となり、その後国宝として指定されなかった物品です。 国宝から重要文化財に変更されたからといって歴史・文化的価値が下がったわけではありません。 制度上の変更であり、現在の精度では重要文化財も極めて重要な物品とされています。 重要文化財とは 重要文化財とは、過去に制定されていた「古社寺保存法」や「国宝保存法」にて国宝と指定されながらも、新たに制定された文化財保護法では国宝に指定されなかった物品です。 過去の法律により国宝とされていた時期があるため、旧国宝とも呼ばれています。 また、国宝や重要文化財は、毎年新たに指定が行われており、新たに重要文化財となるものもあれば、重要文化財から国宝に格上げされる物品も多くあるのです。 重要文化財の選び方 文部科学大臣が、有形文化財のうちさらに重要であると判断したものを重要文化財として指定します。 文化財保護法では、文部科学大臣が文化審議会に諮問し、答申を受けてから指定を行うよう定められています。 また、諮問前には文化庁や都道府県教育委員会が文化財の所在調査を行い、指定候補となる物品をピックアップし、さらに詳細な調査を行ってから諮問が実施されているのです。 文化庁では、所在調査のほか美術史や建築史、土木史など関連分野の学術研究の成果も情報収集し、指定の参考としています。 諮問後、文化審議会から答申が出された後は、文部科学大臣が重要文化財に指定、登録または選定を行い指定書を所有者に交付します。 国宝・重要文化財のジャンル 国宝・重要文化財の主なジャンルは以下の8つです。 ・工芸品 ・絵画 ・彫刻 ・書跡、典籍 ・建造物 ・古文書 ・考古資料 ・歴史資料 建造物では、城郭や神社、寺院、住宅などが該当します。 江戸時代までに建てられ、天守が保存されている天守閣のある城を現存天守と呼びます。 現存天守は現在12城あり、そのうち国宝に指定されているのは、松本城・松江城・姫路城・犬山城、彦根城の5つです。 絵画では、古墳壁画や密教曼荼羅、やまと絵、水墨画、絵巻、近代絵画などが該当します。 日本の絵画様式として有名なやまと絵の国宝としては『鳥獣戯画』や『源氏物語絵巻』などがあります。 彫刻では、仏像が該当し、特に京都や奈良に集中しているのが特徴です。 国宝第一号となった広隆寺の仏像『弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)』は、1951年に指定されました。 国宝に指定されている仏像の中で最も大きいのが、神奈川県鎌倉市の高徳院にある『銅造阿弥陀如来坐像』で約15m、ついで奈良県の東大寺金堂にある『銅造盧舎那仏坐像』で約13mです。 工芸品の国宝として有名なのが『曜変天目茶碗』です。 茶碗の内側に大小さまざまな斑点模様が散らばっており、角度を変えて鑑賞すると玉虫色の鮮やかな輝きをみせ、宇宙の星のように鮮やかな輝きを放っているのが特徴で、藤田美術館・静嘉堂文庫・龍光院がそれぞれ所蔵している3点すべてが国宝に指定されています。
2024.11.09
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国宝や重要文化財の宝庫「東京国立博物館」の常設展を観に行ってみた!
東京の上野公園内にある大規模な博物館「東京国立博物館」を知っていますか? 東京国立博物館には、150年以上にわたり受け継がれてきた約12万点の収蔵品があります。 そのうち、国宝が89点、重要文化財が648点と、質と量ともに日本を代表するコレクションといえるでしょう。 総合文化展では、常に3000件以上の収蔵品や寄託品を展示しており、見どころがたくさんです! 今回は、国宝や重要文化財などの貴重な品を収蔵・展示している東京国立博物館の総合文化展を観に行ってきました。 東京国立博物館は5つの展示館からなる博物館 東京国立博物館は、上野駅からすぐの場所にある上野公園内に建設されている博物館です。 上野公園内の中でも開放感があり、噴水が涼しげな空気を作り出してくれている広場の奥に博物館があります。 平日の11時ごろに訪れましたが、すでにチケット売り場には行列ができていました。 また、上野公園内を歩いているときから感じていましたが、外国人観光客も多くチケット売り場に並んでいます。 体感では、日本人よりも外国人観光客のほうが多かったように感じます…! そのため、平日でもある程度の混雑が予想されます。 東京国立博物館自体、広く展示数も多いため、ゆっくりと見て回りたい方は、朝一の開館と同時に入館するのがおすすめです。 チケットを購入してさっそく敷地内に入ると、建物がいくつも建ち並んでいます。 どこから行けばよいか迷ってしまう方は、まずは本館の展示から鑑賞するのがおすすめです。 本館と平成館は建物内でつながっているため、本館の作品を鑑賞した後に外に出なくともそのまま平成館の鑑賞も楽しめます。 東京国立博物館の総合文化展では国宝・重要文化財がいくつも展示されている 東京国立博物館の特徴といえば、収蔵・展示されている国宝・重要文化財の数が多いこと! 現在は、国宝が89点、重要文化財が648点収蔵されています。 美術品の中でも、歴史的・文化的価値が高く大変貴重なものが指定される国宝と重要文化財。 国民的財産を一目見てみたいという方も多いでしょう。 東京国立博物館では、一つや二つだけでなく、数十点、数百点の国宝と重要文化財が展示されており、国の宝を一目見てみたい!という方にもおすすめの博物館です。 東京国立博物館には、本館・平成館・東洋館・法隆寺宝物館・黒田記念館・表慶館の6つの展示館があります。 黒田記念館では、洋画家の黒田清輝の作品が展示されており、表慶館は基本的に特別展やイベントが開催される建物です。 今回は、それ以外の4館に展示されている作品について紹介していきます。 本館:日本の美術 日本美術を取り扱っている本館の展示は、1階と2階に分かれています。 2階では、日本美術の移り変わりが分かるよう時代別に展示が行われており、日本美術のもつ独特で豊かな魅力を堪能できる展示になっています。 1階の展示は、彫刻や近代美術、刀剣などジャンル別に深堀していけるような展示になっていました。 アイヌ文化や琉球文化に関連した歴史資料も多く展示しており、美術品の鑑賞を楽しむとともに歴史の勉強もできるため、子どもの学びにもぴったりです! 本館1階から2階に上がる大階段は、ドラマやミュージックビデオなどでもたびたび使われており、博物館に行ったことがない人でも見覚えがあるかもしれません。どこから見ればよいか迷ったら案内図に表示されている番号順にみていくとスムーズに進めます。 本館に設置されている案内板には、写真撮影禁止のマークがある作品のみ撮影ができないと案内が書かれています。 撮影OK作品と同じように間違えて撮影しないよう、作品の近くにマークが設置されていないか必ず確認してから写真を撮るようにしましょう。 十六羅漢像(第三尊者) 平安時代・11世紀 国宝(1952年指定) この作品は、滋賀の聖衆来迎寺に伝来した現存する最古の十六羅漢像の一幅です。 お堂の前に経机をおいてイスに座っているのが羅漢です。 羅漢とは仏教を開いた釈迦の教えを守り伝える聖者であるといわれています。 本館の国宝室に飾られていたこの作品は、鮮やかな色合いが今でも残っており、描かれた平安時代のころには、さらに色彩豊かな掛軸であったのだろうと感じられました。 服やものの輪郭ははっきりと描かれていますが、顔の輪郭は薄く柔らかな線で描かれているような印象を受けました。 この作品は、絹の裏側から絵具を塗って絹目を通して柔らかな彩色効果を生み出す裏彩式と呼ばれる技法が用いられています。 裏彩式と柔らかな輪郭線により、800年以上経った今でも温かみのある絵に見えるのでしょう。 康円作 鎌倉時代・1273年 木造/彩色/玉眼 重要文化財 真ん中の獅子に乗っているのが文殊菩薩、左端から大聖老人、于闐王、善財童子、仏陀波利三蔵です。 文殊菩薩と4人の従者が海を渡る「渡海文殊」の群像を表現した像です。 光背の細かなデザインや衣服のシワやヨレなども巧みに表現されている点に感心しました。 また、黒い床と背景に置かれた立像は、照明によって光り輝き、神々しさを演出している点も印象に残っています。 照明により背景に映し出されているシルエットの光背もとてもきれいでした! 平成館:日本の考古 平成館の1階にある考古展示室では、旧石器時代から江戸時代までの歴史をたどりながら考古資料を鑑賞できます。 縄文時代の土偶や弥生時代の銅鐸、古墳時代のはにわなど、教科書で見たことがある作品もたくさん見かけるかもしれません! 現在タイムリーで勉強中のお子さんとも一緒に学びながら楽しめる展示ですね! 扁平鈕式銅鐸 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 伝香川県出土 青銅製 国宝 銅鐸とは、弥生時代に作られた釣鐘の形をした青銅器のことで、当時祭りに用いられていたといわれています。 扁平鈕式銅鐸は、弥生時代の中期に作られたとされており、描かれている模様をよく見てみると、魚をついばむ鳥や、イノシシ猟などが表現されています。 また、杵で臼をつく人や梯子がかけられた高床建物も描かれていることから、銅鐸が農耕祭祀と深いかかわりがあるのではと考えられるようになったそうです。 この銅鐸は、弥生時代に作られたものでかなり古い出土品ですが、照明の光があたり表面が輝いており、こんなにも状態のよいものが発掘されるのだと感動しました! 模様も細かい線で描かれていますが、はっきりと絵が残っており、タイムマシンで過去から現代に運んできたかのような印象を受けました。 東洋館:東洋の美術 東洋館では「東洋美術をめぐる旅」のコンセプトのもと、朝鮮半島や中国、東南アジア、インド、エジプトなどアジア各地の文化を展示しています。 各国で独自に発展していった東洋の美を堪能できる展示館です。 勢至菩薩立像 中国 隋時代・6世紀 重要文化財 国宝や重要文化財に指定されているのは、日本の美術品だけではありません。 こちらの勢至菩薩立像は中国で作られたものです。 丸顔でスラッとした細身の長身、繊細なデザインの装身具などは、隋時代に流行していた典型的な表現方法。 小さな立像ですが、装身具の模様が細かく表現されており、顔を近づけて何度もまじまじと眺めてしまいました。 法隆寺宝物館:法隆寺献納宝物 法隆寺宝物館には、1878年に奈良の法隆寺から皇室に献納され、戦後になって国に移管された宝物300点が収蔵・展示されています。 大変貴重な宝物の数々を間近で鑑賞できる機会はなかなかありません! 法隆寺宝物館には、金銅仏、伎楽面、押出仏、仏画、経典、仏具などが所蔵されており、そのうち国宝が11点、重要文化財が182点と価値のある美術品が数多く所蔵・展示されているのも見どころの一つです。 正倉院宝物は8世紀の作品がメインですが、法隆寺宝物館はそれよりも古い7世紀の宝物も含まれており、より歴史の古い宝物を拝めるかもしれません。 灌頂幡 飛鳥時代・7世紀 国宝 灌頂とは、頭に水を注いで仏の弟子として高位に昇ったことを照明する儀式のことです。 灌頂幡は、その儀式で使用する旗を指しています。 灌頂幡の全体には、透彫による仏や天人、雲、唐草などの模様があります。 最上部は、天蓋とその中央に吊り下げられた6枚の大幡からなっており、天蓋は4枚の金銅板を傘の形に組み合わせ、周囲に蛇舌と呼ばれる飾金具を設置し、その下に垂飾を垂らしているのが特徴です。 蛇舌の細かい模様に心惹かれ、飛鳥時代に使われていたころはさらに輝きを放ち、儀式の雰囲気を高めていてくれたのだろうなと感じました。 また、法隆寺宝物館では、ガラスのケースに入れられた立像が規則正しく並んでいる展示室があり、神々しさや厳かな雰囲気を感じられました。 神聖な空気感を味わいたい方は、ぜひ訪れてみてください。 デジタル法隆寺宝物館では法隆寺ゆかりの名宝を鑑賞できる 法隆寺宝物館内には、常時展示できない法隆寺ゆかりの名宝をデジタル技術を用いて鑑賞できる展示室があります! デジタル法隆寺宝物館では、国宝の「聖徳太子絵伝」「法隆寺金堂壁画」の2つのテーマを主軸に、グラフィックパネルと大型8Kモニターを使って絵の詳細まで自由に鑑賞できるデジタルコンテンツを展示しています。 国宝の中には、傷みがひどく展示ができないものや、肉眼で細部まで鑑賞できないものもたくさんあります。 そんな作品でも、高精細画像として大型8Kモニターに映し出すことで衣類の細部から人物の表情まで、見たい部分を大きく拡大して存分に鑑賞を楽しめます! 法隆寺宝物館に展示されている数々の名宝とあわせて、肉眼では拝むことのできない国宝や名宝もデジタル技術を駆使してあわせて鑑賞してみましょう。 数々の日本の宝を鑑賞できる貴重な博物館 東京国立博物館では、保護の観点から国宝や重要文化財などの美術工芸品の長期間の公開が難しいため、定期的に展示入れ替えを行っています。 そのため、展示の名称も常設展ではなく、総合文化展としているのです。 収蔵品と寄託品で構成されている約3000件の展示は、ほぼ毎週どこかの展示室で展示替えが行われており、その数はなんと年間300回以上といわれています! そのため、特別展やイベントではなくとも何度も訪れて新しい名宝を鑑賞したくなってしまいます。 いつ見ても必ず新しい美術工芸品と出会える東京国立博物館。 特別展やイベントも頻繁に開催されているため、あわせて鑑賞を楽しみましょう。 また、東京国立博物館近くには、EVERYONEs CAFEがあり、東京都を産地とする江戸前食材や、東京野菜および江戸野菜などを取り入れた料理が楽しめます。 開放感のあるオープンテラスもあるため、博物館鑑賞のあとに上野公園の自然を感じながら美味しい料理を味わいましょう! 店舗情報 EVERYONEs CAFE https://shop.create-restaurants.co.jp/0941/ 開催情報 『総合文化展』 場所:東京都台東区上野公園13-9 期間:常時 公式ページ:https://www.tnm.jp/ チケット:総合文化展(平常展)は一般1000円、大学生500円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.11.09
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久隅守景(生没年不詳)画家/絵師[日本]
最も国宝らしくない国宝を描いた「久隅守景」とは 久隅守景は、江戸時代の前期に活動していた狩野派の絵師です。 狩野探幽の弟子であり、最も優秀な後継者ともいわれていました。 また、国宝にも指定されている『納涼図屏風』は、最も国宝らしくない国宝として、現代でも注目を集めています。 狩野探幽の弟子で優秀な後継者だった 守景は、若いころに探幽の門下となり、神足高雲や桃田柳栄、尾形幽元らとともに四天王と称されていました。 1831年に書かれた『画乗要略』では、山水と人物を得意としており、その技術は雪舟や伯仲、探幽門下で右に出るものなしとまで評価されています。 狩野派一門の逸材として活躍していた守景は、探幽の姪である国と結婚し、師匠の一字を拝領して「守信」と名乗っていました。 狩野派絵師として活躍していた当時の初期作品には、1634年に描かれた『劉伯倫図』があります。 また、1641年には探幽の弟である狩野尚信と探幽、尚信の姉婿である狩野信政とともに制作に参加した、滋賀県にある天台宗の寺院の聖衆来迎寺客殿の障壁画では『十六羅漢図』、富山県にある曹洞宗の寺院の瑞龍寺には『四季山水図襖』を描いています。 当時の守景は、探幽の画風を忠実に習い描いており、習作期間に位置づけられているのです。 子どものトラブルをきっかけに狩野派から距離を置く 結婚後、守景は1男2女に恵まれ、長女の清原雪信と長男の彦十郎は、父の守景を継いで絵師になっています。 雪信は、父の師でもある探幽に絵を学んだ狩野派随一の女性絵師で、探幽様式を忠実に習いながらも、女性らしい繊細な筆の運びや彩色で優美な作風の絵を描いていました。 作家の井原西鶴が書いた『好色一代男』にも、雪信の名前が登場していることから、当時の人気の高さがうかがえます。 高い評価を得ていた雪信でしたが、狩野門下の絵師であり尼崎の仕官の子である平野伊兵衛守清と駆け落ちをしてしまいます。 息子の彦十郎も探幽門下の絵師として活躍していましたが、悪所通いが原因となり探幽から勘当され破門、のちに師へ告げ口した同門絵師をうち果たすと口走り投獄され、佐渡へ島流しとなってしまいました。 しかし、彦十郎は佐渡でも狩野派の画風を忠実に学んだ作品を制作し続け、注文を受けて制作を行っていたそうです。 長女・長男は波乱万丈な人生を送ったといえるでしょう。 これらの問題がきっかけとなり、守景は狩野派から距離を置くようになり、金沢で制作活動を行うようになりました。 晩年まで制作活動は続けていた 狩野派と距離を置いた守景は晩年、加賀藩前田家に招かれて金沢の城下に滞在しました。 探幽の門下生として描いた瑞龍寺の襖絵は、前田利常の命によるもので、当時は加賀藩の重臣である今枝と小幡の両家にお世話になっていたそうです。 晩年の招待も、瑞龍寺の襖絵制作がきっかけであったと考えられます。 一説によると、2度目の滞在時は五代藩主・綱紀が招き、今枝、小幡の両家と町奉行の片岡孫兵衛の家にお世話になり、6年間滞在していたといわれています。 守景の代表作である『納涼図屏風』や『鷹狩図屏風』は、2度目の金沢滞在期間に描かれたと推測されているそうです。 晩年、絵を描き続けていた守景は、加賀の地でさらに飛躍的な成長を遂げたといえるでしょう。 最晩年は、京都に移住して『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』を制作しており、年を重ねても老いを感じさせない素晴らしい作品を残しています。 久隅守景が描く絵の特徴 守景が描く作品は、初期こそ探幽に習い忠実に探幽様式を再現していましたが、狩野派と距離を置いて以降は、独自の画風を確立していきました。 守景は、味わいのある墨線が魅力の一つで、耕作図といった農民の生活を描いた風俗画を多く手がけています。 探幽以後の狩野派は、守景の画風を敵対視して形式化・形骸化していきますが、守景は個性的な画風を確立していき、高く評価されていました。 また、守景は農村の人々の暮らしをよく描いており、武士が領民の暮らしを守り自らを戒める鑑戒画として知られています。 国宝らしくない国宝『納涼図屏風』 国宝らしくない国宝と呼ばれる『納涼図屏風』は、2度目の金沢滞在時に描かれたといわれています。 おぼろげな月光のもとで、筵を敷いて夕涼みする納付の親子が描かれている作品です。 地面には、細かい砂利のようなものが描かれており、近くに小川が流れているのかと想像させてくれます。 1日の労働を終えて家族で夕涼みするその様子は、くつろぎのひとときといえますが、シンプルな構成からどこかもの悲しさも感じられるでしょう。 また、くつろいでいる3人の表情からは、何気ない日常風景の詩情豊かに表現する守景の才能が見え隠れしています。 日常風景を描いたこの作品は、華やかさがなく一見地味であるとも捉えられ、国宝らしくない国宝ともいわれているのです。 しかし、すみずみまで細かく鑑賞してみると、神経の行き届いた繊細な筆使いが見受けられます。 男性側は太くはっきりとした輪郭線が描かれているのに対して、女性側は細く繊細な輪郭線が描かれています。 『納涼図屏風』は、見れば見るほどその味わい深さに魅了される作品といえるでしょう。 年表:久隅守景 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1620年代頃(元和期) 不詳 生まれる。 1630年代(寛永期) 10代 狩野探幽に師事し、狩野派四天王と称される。 1634(寛永11年) 不詳 作品『劉伯倫図』を制作。探幽門下でその才能を評価される。 1641(寛永18年) 不詳 『四季山水図』を知恩院にて制作。探幽や他の弟子と協力。 1642(寛永19年) 不詳 聖衆来迎寺に『十六羅漢図』を制作。 1672(寛文12年) 50代頃 息子の不行跡により破門。弟子たちから距離を置くようになる。 1700年代初頭(元禄期) 不詳 死去。晩年は不明な点が多いが、後世に影響を与えた。
2024.11.09
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日本だけじゃない!今や世界へ広がる刀剣ブーム
日本における刀剣ブームは漫画やアニメがきっかけ? 日本で起きた刀剣ブームの背景には、漫画やアニメの影響が大きく関係しています。 特に、バトル系のアニメや漫画では、「刀剣」がよく登場します。 日本刀はその美しい曲線や細身のデザインから、「最強の武器」として描かれることが多く、見る人の心を強く惹きつけているのです。 また、アニメや漫画などの二次元作品が好きな人たちは、キャラクターそのものだけでなく、そのキャラクターに関連する物品やイメージカラーなどにも深い愛着を持つ傾向があります。 そのため、キャラクターが使っている日本刀や関連するグッズを買い集めることが、ファン活動の一環として広がっていきました。 漫画やアニメがきっかけとなり、刀剣ブームは子どもから大人まで、特に若い女性たちの間で大きく広がり、日本社会において一大ブームとなっています。 名刀を展示する博物館などに多くの若い女性が訪れる光景が日常的に見られるようになったことは、このブームがいかに影響力を持っているかを物語っています。 るろうに剣心 るろうに剣心は、1994年から1999年にかけて週刊少年ジャンプで連載されていた、和月伸宏による人気漫画です。 「るろ剣」の愛称で親しまれ、90年代後期の週刊少年ジャンプを代表する作品の一つとして広く知られています。 漫画の人気は、アニメ化や実写映画化によってさらに広がり、多くの世代から支持を得ました。 物語の舞台は明治時代の日本で、作品内には数々の刀剣が登場します。中でも注目を集めたのが、主人公・緋村剣心が使用する「逆刃刀」。 逆刃刀は、通常の刀とは異なり、刃と峰が逆になっている特殊な刀剣です。敵を切ることなく戦いたいという剣心の不殺の誓いを象徴しています。 剣心は、かつて幕末最強と恐れられた伝説の人斬り抜刀斎として名を馳せていましたが、ある不幸なできごとをきっかけに人を斬ることをやめ、逆刃刀を手に取るようになりました。この設定は、多くの読者や視聴者に強い印象を与え、刀剣に対する関心を大きく引き上げたといえるでしょう。 るろうに剣心が人気を集めたことで、日本刀の美しさや強さが再評価され、日本国内外で刀剣への興味が広まり、刀剣ブームの一端を担ったことは間違いありません。特に若い世代の中で、日本刀を象徴的な存在として捉えるきっかけとなり、刀剣に対する関心が高まったのです。 ONE PIECE ONE PIECEは、1997年から週刊少年ジャンプで連載されている尾田栄一郎による漫画で、世界中で大人気の作品です。 物語の中心にあるのは、海賊たちが「ひとつなぎの大秘宝[ワンピース]」を巡って繰り広げる冒険とバトル。 多彩な武器や能力が登場する中でも、特に注目されるのが主人公モンキー・D・ルフィの仲間であるロロノア・ゾロが使う「三刀流」の剣術です。 ゾロは、両手と口に刀を持つ独特な戦闘スタイルで知られており、その剣術は達人級です。 ゾロが使用する刀には、「和道一文字」や「三代鬼徹」、「秋水」などの名前が付けられており、これらの名称は実在の名工や名刀からインスピレーションを受けているとされています。 例えば、「和道一文字」は平安時代から室町時代にかけて活躍した刀鍛冶「一文字派」が作り上げた刀をモデルにしていると考えられます。また、「三代鬼徹」は江戸時代中期に実在した刀工「虎徹」の作品をモデルにしているともいわれているのです。 ONE PIECEに登場する刀剣は、実際に模造刀として販売され、ファンの間で人気を集めています。 BLEACH BLEACHは、2001年から2016年にかけて週刊少年ジャンプで連載され、久保帯人が手がけた人気漫画です。 死神と呼ばれるキャラクターたちが登場し、その死神たちが使用する特殊な刀剣「斬魄刀」が物語の中心となっています。 斬魄刀は、死神が悪霊「虚」を斬り浄化するための武器であり、所有者の魂に基づいて形状や能力が決定されます。 能力が解放されていない状態では、斬魄刀は通常の日本刀と似た形状をしていますが、力が解放されると、さまざまな特殊能力を発揮する点が特徴です。 斬魄刀の設定は、物語の中で非常に重要な要素となっており、多くのファンを惹きつけました。 斬魄刀の存在を通して、特に若い世代を中心に、刀剣に対する憧れや興味が広まり、実際の日本刀や刀剣文化への関心をも呼び起こすきっかけになったといえるでしょう。 戦国BASARA 刀剣ブームが盛り上がりを見せたのは平成時代後半のことですが、それ以前にも若い女性たちを虜にした作品がありました。 それは、2005年に発売されたアクションゲーム「戦国BASARA」です。 日本の戦国時代を舞台にしており、歴史上の武将たちが個性豊かに描かれたキャラクターとして登場します。 戦国BASARAは、「戦国時代を舞台にしたゲームに女性ファンを増やした作品」として知られており、特に若い女性の間で大きな人気を博しました。 当時、女性はアクションゲームに対してあまり興味を持たない、あるいは戦国時代に興味がないというイメージが一般的でしたが、このゲームはその常識を覆しました。 二次元作品のファンたちは、その作品に関連するグッズを購入することが「ファン活動」の一環とされていますが、戦国BASARAも例外ではありません。 ゲームの人気と共に、キャラクターの姿が描かれたグッズや、彼らが使用する日本刀をモデルにしたアイテムなどが次々と販売され、特に武器関連のグッズは発売と同時に売り切れることも。 さらに、熱心なファンの中には、キャラクターのコスプレをするために衣装や模造刀を専門業者に依頼して制作する人もいました。 戦国BASARAは、単なるゲームとしての枠を超え、ファンの間で深く愛され、さまざまな形でその人気を保ち続けています。 戦国BASARAは、若い女性に刀剣や戦国時代に対する関心を高め、刀剣ブームを支える重要な作品の一つといえるでしょう。 刀剣乱舞 刀剣乱舞は、2015年に配信開始されたブラウザゲームで、実在する日本刀や伝説的な名刀を「イケメン」に擬人化しており、そのキャラクターを操作するのが特徴です。 ゲームの成功をきっかけに、アニメ、舞台、漫画といったさまざまなメディアミックス展開が行われ、大きな人気を博しました。 刀剣乱舞は、平成の刀剣ブームを牽引する作品となり、女性ファンを中心に広がりを見せました。 このブームによって生まれた新語として、2015年に流行語大賞にノミネートされた「刀剣女子」という言葉があります。 「刀剣女子」は、日本刀が好きな女性、または刀剣乱舞の女性ファンを指し、この言葉から多くの女性が刀剣に対する深い興味を持つようになったことがうかがえるでしょう。 ゲームに登場するキャラクターは刀剣男士と呼ばれ、多くが現存する名刀をモデルにしています。 刀剣女子たちは、自分が好きな刀剣男士のモデルとなった実物の刀を一目見ようと、全国各地の博物館や美術館を巡り、その様子をSNSで共有することがファン活動の一環として定着。 特別展示として名刀が期間限定で展示される際には、各施設が過去最高の来場者数を記録することもしばしばあります。 さらに、一度訪問したことのある施設でも、別の名刀が展示されると聞くと、再度訪れる熱心なファンも少なくありません。 展示施設側も、この刀剣ブームに対応するために、刀剣に関する解説をより分かりやすくしたり、地域の商業施設と連携して町おこしを行ったりなど、さまざまな取り組みを進めています。 刀剣女子たちも、これらの施設の努力や心遣いに感謝し、その体験をSNSで共有することで、さらに多くのファンが興味を持って訪れるという相乗効果が生まれています。 刀剣乱舞は、単なるゲームとしての枠を超え、日本刀への関心を高め、社会現象ともいえる刀剣ブームを生み出す大きなきっかけとなりました。 鬼滅の刃 鬼滅の刃は、2016年から2020年まで週刊少年ジャンプで連載された吾峠呼世晴による漫画で、その人気は日本国内のみならず世界中に広がっています。 連載終了後もその人気は衰えることなく、さまざまなメディアミックス展開が続いているのです。 鬼滅の刃の物語では、登場人物たちが使用する「日輪刀」が重要な役割を果たしています。 日輪刀は「猩々緋砂鉄」や「猩々緋鉱石」などの特別な鉱石から作られ、所有者によって刀身の色が変化するため、色変わりの刀とも呼ばれています。 主人公・竈門炭治郎が所属する鬼を退治する特殊部隊「鬼殺隊」では、各隊員がそれぞれ独自の呼吸法を用いて、個性豊かな日輪刀を駆使して戦うのが特徴です。 呼吸法や日輪刀の使い方は、子どもたちの間で「ごっこ遊び」としても大流行し、キャラクターたちの技や刀を模倣する遊びが広まりました。 また、日輪刀はおもちゃとしてだけでなく、模造刀としても非常に人気が高まり、大人のコスプレアイテムとしても需要が高まっています。 さらに、鬼滅の刃をきっかけに、若い世代を中心とした「居合道」や「剣道」のブームが生まれました。 鬼殺隊のメンバーに憧れを抱いた人々が、各地の道場に問い合わせをしたり、実際に入門したりと、刀剣文化に対する関心が急激に高まったのです。 「鬼滅の刃」は、単なるエンターテインメント作品としての枠を超えて、日本刀や武道への関心を広め、現代の刀剣ブームを後押しする大きなきっかけとなりました。 海外に広がった刀剣ブーム 日本刀は、その美しい造形と優れた実用性により、国内外で広く愛されてきました。 特に最近では、映画やゲーム、文化交流を通じて、その魅力が世界中で再評価されています。 日本刀は、単なる武器としてだけでなく、芸術品や象徴としての価値が認識され、多くの国々で注目されています。 海外における刀剣ブームは、こうした背景を反映し、さまざまなメディアやイベントを通じて日本刀への関心を深めるきっかけとなっているのです。 欧米における日本刀ブーム 日本の刀剣は、ヨーロッパやアメリカを中心に広がり、現地のミュージアムで芸術品として高く評価されています。 特に日本刀は、美しさと技術の結晶として海外のコレクターや芸術愛好家に注目され、数多くの日本刀が各国のミュージアムに所蔵されています。 所蔵されている日本刀は、主に貴族や実業家たちのコレクション寄贈によって集められ、海外での日本刀の認知度向上に貢献してきました。 特にボストン美術館は、アメリカにおける日本美術の拠点の一つです。 明治時代には美術思想家である岡倉天心が美術館に招かれ、日本美術の普及に貢献しました。 ボストン美術館は、50,000点以上の日本美術品を所蔵しており、その中には「宗吉」や「来国光」、「志津三郎兼氏」など、歴史的に貴重な日本刀も含まれています。 欧米のミュージアムは、日本刀を芸術品として評価し、広く一般に紹介することで、欧米における日本刀ブームを促進してきました。 日本刀が持つ美しさや歴史的価値は、今や世界中で認識され、多くの人々に愛され続けています。 中国における日本刀ブーム 日本刀は、中国でも古くから高い評価を受けてきました。 その美しさや機能性は、中国の詩人や文人たちの心を惹きつけ、文化的な交流の一環として深く根付いています。 日本刀が中国に輸出されるようになったのは、平安時代ごろです。 中国の北宋時代に活躍した文人・詩人・政治家である「欧陽脩」は、日本刀の美しさに感銘を受け、「日本刀歌」という詩を残しています。 鮫皮で装飾された鞘や金銀混ざり合った真鍮と銅の組み合わせに注目し、日本刀が単なる武器ではなく、神聖で崇高な存在として見なされていたことがうかがえます。 中国での日本刀ブームがさらに広がったのは、日明貿易が始まったころです。 足利義満が始めた日明貿易(朱印船貿易)は、1401年から1549年まで続きました。 この公式貿易の枠組みの中で、日本から中国へ多くの日本刀が輸出されました。 特に明の時代、中国は倭寇と呼ばれる海賊の襲撃に悩まされており、倭寇が使用していた日本刀の優れた切れ味に対抗するため、同じ日本刀を武器として手に入れようとしたといわれています。 その結果、日明貿易を通じて約10万振の日本刀が中国に輸出され、その多くは「数打ち」と呼ばれる大量生産の備前刀でした。 日本刀は洋画にも登場する 現代において、日本刀は洋画の中でもその魅力を発揮し、海外での関心を高めています。 映画監督であるクエンティン・タランティーノの作品には、日本刀が登場し、重要な役割を果たしているのです。 タランティーノ監督は、独特なスタイルとエンターテインメント性で知られ、多くの作品で日本刀を取り入れています。 代表作である「パルプ・フィクション」や「キル・ビル」は、その一例です。 「キル・ビル」では、主人公のザ・ブライドが日本刀を武器として使用します。 架空の刀鍛冶「服部半蔵」が作った「ハンゾーソード」は、映画の中で非常に象徴的な存在となっています。 「キル・ビル」は、日本刀が持つ美しさと実用性を映画の中で際立たせ、その存在感を強調しました。 日本刀の登場は、単なる武器としての役割を超えて、映画の中で重要な象徴となり、視覚的にも文化的にも深い影響を与えているのです。
2024.11.09
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刀剣博物館 [東京都墨田区]へ行ってみよう
世界が注目する美しい日本の刀剣を堪能する「刀剣博物館」 「刀剣博物館」は、日本刀の保存と美術的価値の普及を目的に「日本美術刀剣保存協会」によって運営されている専門博物館です。 1968年(昭和43年)に東京・渋谷区で開館し、その後、2018年(平成30年)には両国の旧安田庭園内に移転して、新館としてオープンしました。 この新館は、建築家・槇文彦氏がデザインしたもので、曲線美が際立つモダンな3階建ての建物です。 展示 刀剣博物館では、さまざまな国宝や重要文化財の刀剣を鑑賞できます。 国宝「明石国行」は、正式には「太刀 銘 国行(来)」といいます。 鎌倉時代に活動した山城国(現在の京都府)の刀工で、来派の創始者である「来国行」が鍛えた名刀です。 この刀は、かつて明石藩(現在の兵庫県)に伝わっていたため、「明石国行」という号が付けられました。 所蔵されている刀は常設展示ではありませんが、随時展示されることがありますので、展覧会情報を確認するために、ぜひホームページをチェックしてみてください。 コレクション 公益財団法人 日本美術刀剣保存協会は、日本刀の保存と普及を目的とする団体として60年以上の歴史を誇ります。また、同協会が運営する刀剣博物館は、日本国内でほとんど類を見ない日本刀専門の博物館です。これにより、多くのコレクターから作品の寄贈を受けるほか、さまざまな所蔵者から刀剣や刀装具の保管や管理を依託されているものも多数存在しています。 「国宝 太刀 銘 延吉」 「国宝 太刀 銘 国行(来)」 「重要文化財 短刀 銘 兼氏」 特徴/ここがオススメ 1階にあるミュージアムショップでは、製鉄施設「日刀保たたら」を有する刀剣博物館ならではのお土産として、小箱に入った「玉鋼」が販売されており、非常に人気です。 また、1階には庭園を眺められるカフェスペースがあり、さらに3階の屋上には屋上庭園が設けられており、訪れる人々に癒しのひとときを提供しています。 美術館情報 刀剣博物館 住所:〒130-0015 東京都墨田区横網1-12-9 GoogleMap:https://maps.app.goo.gl/uukEKiMFNkTg6tRB6 アクセス:JR総武線 両国駅西口から徒歩7分 ほか 開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日:毎週月曜日(祝日の場合開館、翌火曜日が休館)・展示替期間・年末年始 ※最新の情報は公式サイトをご覧ください 料金:通常展 大人1000円、会員700円、学生(高校・大学・専門学校)500円、中学生以下無料 公式サイト:https://www.touken.or.jp/museum/ 年間パスポート:記載なし
2024.11.09
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月山貞一(1907年-1995年)刀工[日本]
人間国宝として刀を作る「月山貞一」とは 月山貞一(がっさんさだかず) 生没年:1907年-1995年 二代・月山貞一は、大阪にて刀匠である月山貞勝の子として生まれました。 1918年ごろからは、父の貞勝から作刀を学び、16歳になると月山貞光を名乗って大阪美術協会展に初入選し、刀匠界で一目置かれるようになります。 貞一は、戦時中の日本における重要な作刀を依頼される機会が多く、1929年には昭和天皇に贈呈するための『大元帥刀』を父の貞勝とともに作刀しました。 同年、父が亡くなると日本帝国陸軍の兵器製作所である「大阪陸軍造兵廠」と呼ばれる大阪工場の軍刀鍛錬所責任者に任命されます。 戦時中において、西日本の刀匠の最高峰となるのでした。 1945年、日本が第二次世界大戦に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により日本刀の製造が禁止されてしまい、日本の伝統である作刀の技術は衰退の危機を迎えます。 1954年に制定された武器製造法令により文化財保護委員会から作刀の許可を得るまでは、刀匠として不遇の時代を過ごしました。 作刀の許可を得てからは、精力的に作品を作り、1966年に刀匠として名高い祖父「月山貞一」の名を受け継ぎ、二代・月山貞一として作刀を続けていきました。 刀匠としての才能を天から与えられた貞一は、月山家伝統の綾杉鍛えを継承するだけに留まらず、五箇伝の技法すべてを習得したのです。 1971年には、作刀における卓越した技術が認められ、人間国宝の認定を受けました。 初代「月山貞一」は帝室技芸員に任命されている 二代・月山貞一の祖父にあたる初代・月山貞一は、帝室技芸員に任命された優れた刀匠でした。 1836年、初代・月山貞一は、現在の滋賀県にあたる近江国にて、塚本家の子として生まれました。 7歳になると、大阪で活躍していた刀匠「月山貞吉」の養子となり、刀匠としての道を歩みはじめます。 11歳ごろから刀工の修業を開始した貞一は、めきめきと技術を上げていき、1851年16歳のときには、『月山貞吉造之嫡子貞一十六歳ニ而彫之、嘉永四年八月吉日』と銘のある平造りの脇差を作刀します。 鍔には滝不動と呼ばれる滝と不動明王を描く日本伝統的な構図を彫り、この脇差の完成度の高さから、貞一は作刀における才能を持ち合わせていたことがうかがえるでしょう。 1876年、廃刀令が制定されると、日本刀の需要は急激に下がってしまい、多くの刀工職人たちは、転職を余儀なくされました。 しかし、初代・月山貞一は、刀工として作刀を続け、1906年、ついに当時の刀匠としては最高の名誉であった「帝室技芸員」に任命されるのでした。 帝室技芸員となった初代・月山貞一は、宮内省御用刀匠として、愛刀家であると有名な明治天皇の軍刀や、皇族、著名人の刀剣を作刀し、刀匠界で名を広めます。 初代・月山貞一が作刀する刀たちは、どれも豪快な造込みがされており、綾杉肌と呼ばれる大きく波を打っているように見える形状の鍛肌を得意としていました。 作刀だけではなく、刀身彫刻の技術も卓越しており、濃厚で緻密な彫物を刀身に行う月山彫りと呼ばれる技法で名をはせています。 二代・月山貞一が習得した「五箇伝」とは 二代・月山貞一が習得したとされている五箇伝とは、大和伝・山城伝・備前伝・相州伝・美濃伝の5つの地域に伝わる日本刀作りを指します。 大和伝は、現在の奈良県である大和国に伝えられた鍛錬法で、寺院と密接な関係をもっていました。 山城伝は、平安京に都が移された794年ごろから繁栄しはじめた鍛錬法で、優美で気品に満ちた刀剣が特徴です。 貴族の依頼によって作られていたため、実践の技術は問われず、姿や形の美しさに重点が置かれました。 備前伝は、987年の古備前鍛冶からはじまり、時代の波に乗るようにして名匠が誕生し、受け継がれていきました。 戦国時代には、数打ち物と呼ばれる大量生産をこなし、さらに反映していったのです。 相州伝は、現在の神奈川県である相模国に鎌倉幕府が誕生したことをきっかけに生まれた鍛錬法で、強く鍛えた鋼を高温で熱したあと、急速に冷却する難しい技術が取り入れられています。 美濃伝は、現在の岐阜県である美濃国に伝えられた鍛錬法で、五箇伝では最も新しい流派です。 大量生産する数打ちと高品質な注文打ちを両立させ、名をはせていきました。 年表:月山貞一 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1907(明治40年) 0 大阪府に生まれる。父は刀工の月山貞勝で、本名は月山昇。 1929(昭和4年) 22 昭和天皇に贈呈するための大元帥刀を父と共に作刀。 1940年代(昭和期) 30代 戦時中、大阪陸軍造兵廠の軍刀鍛錬所責任者を務める。 1954(昭和29年) 47 武器等製造法の施行により文化財保護委員会の許可を得て作刀を再開。 1966(昭和41年) 59 祖父の名を継いで月山貞一を名乗る。 1967(昭和42年) 60 新作名刀展で正宗賞、文化財保護委員長賞を受賞。 1971(昭和46年) 64 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 1979(昭和54年) 72 勲四等旭日小綬章を受章。 1995(平成7年) 87 奈良県桜井市で死去。
2024.11.09
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東京国立近代美術館 [東京都千代田区]へ行ってみよう
皇居近くにある、日本最初の国立美術館 東京国立近代美術館は、東京の中心部に位置する美術館で、皇居や北の丸公園、千鳥ヶ淵など日本の文化や自然を感じられる環境の近くにあります。 また、東京国立近代美術館は、日本で最初の国立美術館でもあります。 もともとは1952年に中央区京橋に開館し、その後コレクションが増加したため、1969年に現在の千代田区に移転しました。 2001年には大幅なリニューアルが行われ、展示室の拡張やミュージアムショップ、レストランの新設などにより見どころがさらに増えました。 展示 東京国立近代美術館では、所蔵作品展と企画展を開催しています。 所蔵作品展では、日本画・洋画・版画・写真・映像・彫刻など1万3000点を超える所蔵作品から約200点を選出して、会期ごとに入れ替えを行いながら展示しています。 国内最大級のコレクション展示であり、所蔵作品展でありながらも来るたびに新しい作品を鑑賞できるのが魅力の一つです。 企画展では、国内外問わずさまざまな作家の個展や、時代や社会をテーマにした展示会、ユーモアのある展覧会を年に数回開催しています。 コレクション 東京国立近代美術館には、約1万3000点を超える膨大なコレクションが所蔵されています。 19世紀末から現在まで、日本の近現代美術作品を中心に、社会的文脈やグローバルな視点も取り入れながら、収集を続けています。 また、所蔵している作品の国内外の美術館で開催される展覧会への貸出も行っており、近代美術を世に広める役割も担っているといえるでしょう。 東京国立近代美術館に所蔵されている主な作品は以下の通りです。 ・『大きな花束』ポール・セザンヌ ・『ラ・ガループの海水浴場』パブロ・ピカソ ・『王昭君』菱田春草 ・『仁王捉鬼図』狩野芳崖 特徴/ここがオススメ 東京国立近代美術館の最大の魅力は、1万3000点を超える国内最大級のコレクションです。 所蔵作品の中には、横山大観や菱田春草、岸田劉生など重要文化財に指定されている作品も多くあります。 一般的に、企画展をメイン会場で展示する美術館では、常設展の規模が小さくなりがちですが、東京国立近代美術館では膨大なコレクションがあるため、所蔵作品展も充実しているのが大きな魅力です。 所蔵作品展である「MOMATコレクション」では、会期ごとに作品の入れ替えを行うため、常設展でありながら何度訪れても新鮮な気持ちで鑑賞を楽しめます。 1万3000点を超えるコレクションの中から、研究員が季節や社会の状況などにあわせてテーマを決め、約200点を選出し入れ替えを行っています。 さまざまな名画に巡り会えるチャンスのある美術館といえます。 また、所蔵作品は近代の日本画から洋画、国内外の現代アート、彫刻、版画、写真、映像などジャンルが多彩です。 多種多様なジャンルの作品を時代の流れとともに楽しめるのも魅力の一つといえるでしょう。 東京国立近代美術館では、重要文化財を15点所蔵しています。 こちらも常にすべてが展示されているわけではなく、入れ替えが行われているため、すべての重要文化財を自分の目で見てみたいという方は、会期ごとに何度も訪れてみましょう。 美術館情報 東京国立近代美術館 住所:〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3-1 GoogleMap:https://maps.app.goo.gl/jXpdPobqagGT8AEv9 アクセス: 東京メトロ東西線「竹橋駅」 1b出口より徒歩3分、東京メトロ東西線・半蔵門線・都営新宿線「九段下駅」4番出口より徒歩15分ほか 開館時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00) 休館日:月曜日、展示替期間、年末年始 ※最新の情報は公式サイトをご覧ください 料金: 所蔵作品展 一般500円、大学生250円 企画展 展示によって異なります 公式サイト:https://www.momat.go.jp/ 年間パスポート:1200円 ※初めて利用した日から1年間有効
2024.11.09
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安井曾太郎(1888年-1955年)洋画家[日本]
清爽堅実で写実的な洋画家「安井曾太郎」とは 安井曾太郎 生没年:1888年-1955年 安井曾太郎は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家で、梅原龍三郎と並んで称された人物です。 自分自身が絵を描くだけではなく、新文展の審査員や東京美術学校の教授、帝室技芸員、蕨画塾の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注ぎました。 また、1952年には文化勲章を受章しており、1955年、肺炎で療養している折に、心臓麻痺を引き起こし亡くなりました。 幼いころから画家への道を志す 曾太郎は、京都市中京区にて安井元七、よねのあいだに5男として生まれました。 父の元七は、木綿問屋「安井商店」の2代目と資産家であり、貧しくないむしろ裕福な家庭ではありましたが、中京商家の昔からの習わしもあり、曾太郎は質素な生活を送ったといわれています。 また、生家の隣にある扇屋「藤田団扇堂」には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係性もあり、藤田の家にも気兼ねなく出入りしていたそうです。 無口で実直な性格だった曽太郎からすると、生家にはいつも客が出入りしており、応対する番頭や小僧も多かったため、にぎやかで落ち着く場所がないと感じていました。 しかし、藤田の家は扇屋という商売柄もあって静かであったため、曾太郎はよく出入りをしていたといえます。 また、藤田家の祖母の熟練した筆使いにより描かれる京扇の模様が大変美しく、曾太郎の心を惹きつけていたことも、長居をしてしまう大きな理由の一つといえるでしょう。 曾太郎は、祖母に習いさまざまな模様を描かせてもらい、絵を描くことへの好奇心を高めていきました。 このころのできごとが、のちの画家への礎となり、絵描き思考が形成されていったと考えられます。 その後、4年制の尋常小学校を卒業すると、親の希望もあって商家の子らしい堀川通りにある京都市立商業学校に入学。 しかし、画家として暮らしていく道をあきらめきれずに本科1年を終了したころに学校を中途退学します。 退学前、父に画家を志していることを打ち明けたところ、もちろん反対にあいましたが、長兄の彦三郎が曽太郎の気持ちをくみ父を説得し、画家を目指すことを許されました。 子どものころの曾太郎がなぜ洋画に強く惹かれたのかはっきりとした理由は記録に残っていませんが、中学校の図画教師であった平清水亮太郎の影響や、珠算が苦手であったこと、商人に向かない性格などが関係していると考えられます。 商業学校を中退した曾太郎は、京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でもある亮太郎の家に1年間ほど通い、デッサンや水彩画を学びました。 ライバルとの出会いとパリ留学 1903年ごろから画業に専念するようになりましたが、これまで本格的に絵を学んだことがなかった曽太郎は、焦る気持ちを抑えながら、絵の技術を磨く日々を過ごしました。 そのような中、曾太郎が西大谷にある蓮池で写生をしていたとき、一人の若い画家と出会います。 その画家が描いていた絵は斬新かつ軽妙で大変うまく、内気な性格の曾太郎は声をかけるのをためらいましたが、この機会を逃してはいけないと思い切って声をかけました。 声をかけた画家が、洋画家で教育者の浅井忠に師事している中林僊という洋画家でした。 曾太郎は、僊の紹介により浅井忠が開いている聖護院洋画研究所に入門し、さらに本格的に絵を学んでいきます。 この出会いと入門がきっかけとなり、のちによき友人でありライバルとなる、日本画壇を支えていく梅原龍三郎との出会いにもつながっていくのです。 また、忠と鹿子木孟郎などの適切な指導のおかげもあり、曾太郎は絵描きに没頭していきます。 入門してから3年後の19歳のとき、同じく聖護院洋画研究所にて学んでいた津田青楓とともにフランス・パリへ留学します。 パリに到着した2人は、鹿子木の紹介によりアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ、写実を学んでいきました。 曾太郎はアカデミーで早々に頭角を現していき、ローランスの教室で毎月開催されていた油絵を木炭画のコンクールでは、ほとんどの賞を曾太郎が独占します。 曾太郎は、自宅宛ての手紙にて人には内緒だと伝えながら次のように記しました。 「ジュリアンで賞を取るのは思っているより名誉なことではない。美術学校内も同様で見なヘタな絵ばかりだ。」と批評しています。 そのころの曾太郎が描いた木炭デッサンを見てみると、筆調が冴えているかつ精妙で、自身でも成長を感じられ、初めて見るフランスンの景色や初めて学ぶ知識などが目の前に無限に広がっていた興奮が見て取れます。 第一次世界大戦の開始と体調不良により帰国 アカデミー・ジュリアンで3年間学んだあと、曾太郎はアカデミーをやめて自分のアトリエをもち、自由な研究や制作を進めていくようになりました。 パリ滞在中は、ミレーやピサロ、セザンヌ、エル・グレコ、ギリシャ彫刻などに関心をもち、影響を受けるようになっていきます。 中でも、セザンヌの作風に興味を抱き、それまで暖かく情緒的な色調であった曾太郎の作品は、セザンヌ作品によく見られる青黒く理知的な作風に変化していきました。 そして、留学を始めてから7年後の1914年、第一次世界大戦が勃発したのとあわせて患っていた胸部疾患が悪化したため、長谷川昇や天文学者の福見尚文に身体を支えられながら、45点の作品とともに帰国の途につきました。 帰国後、1915年の新年を親兄弟とともに京都の生家で迎えることになります。 病は、帰国途中の船上にて回復傾向に向かっていましたが、まだ全快とはいえず、療養が必要な状態でした。 しばらくは、紀州の湯崎温泉に滞在したり、関西美術院で指導にあたったりして過ごしました。 その後、留学中に親友となった青楓が二科会の創立に携わり、誘いを受けた曾太郎も会員となり、10月に開催された第2回二科会展ではパリ留学中に描いた44点の作品を特別出品し、一躍日本画壇に名を知らしめました。 しかし、フランスと日本の風土の違いに苦しめられ、その後10年ほどが自分の作風を模索し続け、低迷期に入っていくのでした。 そして、1930年に発表した『婦人像』を皮切りに、曽太郎は独自の日本的な油彩画を確立させていき、龍三郎とともに第二次世界大戦後の昭和期を代表する洋画家として高く評価されるようになっていきます。 1944年には、東京美術学校の教授となり、1952年に文化勲章を受賞するなど、功績が日本画壇に認められ、画家としての成功をおさめるのでした。 安井曾太郎が描く作品の特徴 曾太郎が描く絵からは、シンプルな線と鮮やかな色彩が織りなす、いきいきとしたモチーフたちがうかがえます。 またモチーフにするものからは、日本的な落ち着いた趣を感じられるのも特徴の一つです。 ありのままを描き出すリアリズム感 曾太郎は、意図的に省略や強調、変形を用いて構成を行い、写真のような絵ではなく、対象のそのままの特徴を、あるがままに描き出すのが特徴です。 この曾太郎のリアリズム感は、多くの作品から見て取れます。 静物画の中でも『九谷鉢と桃』は傑作といわれており、この作品を制作した当時の曾太郎は、セザンヌをはじめとしたヨーロッパで学んだ西洋技術を自分の中に落とし込み、日本人の油彩画、さらに深堀りすると曾太郎自身の画風を成立させたといえるでしょう。 人物画に定評がある 日本を代表する洋画家の曾太郎は、人物画にも定評があり、いきいきとした様子が描かれた人物を好む人も多くいます。 曾太郎はデッサンが得意であったこともあり、鑑賞した人が感心してしまうほど巧みに描かれています。 中でも『座像』は、物静かな雰囲気を醸し出す婦人が描かれており、静かな雰囲気の中に意志の強さを感じさせる強いまなざしが特徴です。 年表:安井曾太郎 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888(明治21年) 0 京都市中京区で生まれる。商家の五男として育つ。 1903(明治36年) 15 京都市立商業学校を中退し、聖護院洋画研究所で浅井忠に師事して絵を学び始める。 1907(明治40年) 19 渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。特にセザンヌの影響を受け、ヨーロッパ各国を旅行する。 1914(大正3年) 26 第一次世界大戦の勃発により日本に帰国。翌年、二科会会員に推挙される。 1930(昭和5年) 42 代表作『外房風景』を発表し、独自の画風を確立する。 1944(昭和19年) 56 帝国芸術院会員に任命される。 1955(昭和30年) 67 東京で死去。晩年まで日本洋画界を牽引し、後世に大きな影響を残す。
2024.11.09
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ルネ・マグリット(1898年-1967年)画家[ベルギー]
シュルレアリスムの画家「ルネ・マグリット」とは ルネ・マグリット 生没年:1898年-1967年 ルネ・マグリットは、ベルギー出身のシュルレアリスムの画家で、イメージの魔術師とも呼ばれています。 岩が空中に浮かんでいる様子や、青空が鳥の形に切り抜かれている様子、靴に指が生えた様子など、独創的で不思議な作品が多く、鑑賞した者が再考する必要があるのが特徴です。 マグリットの不思議な世界観は、本来世界がもっている神秘をイメージとして表現したものといわれています。 マグリットの作風は、のちのポップ・アートやミニマリスト・アート、コンセプチュアル・アートなどにも影響を与えました。 母の自殺が子どもだったマグリットに大きな影響を与える マグリットは、ベルギーのレシーヌという町で、仕立て屋兼繊維商の父レオポルド・マグリットと帽子職人の母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれました。 マグリットの作品には、スーツを着た男性や帽子をモチーフにしたものが多く登場します。 両親の仕事柄、子どものころからスーツを着た人や帽子に囲まれて育ったのではないかと考えられるでしょう。 また、マグリットは1910年ごろに家族とともにレシーヌからシャトレに移り住み、絵画教室に通い油絵やデッサンなどの美術教育を受けていたといわれています。 1912年、マグリットの芸術感に大きな影響を与えるできごとが起こります。 母がシャトレのサンブル川で入水自殺をしてしまうのです。 母の自殺衝動は数年前からあり、何度も自殺未遂を図っており、父は母が自殺しないよう寝室に閉じ込めたこともあったそうです。 しかし、母は自宅を飛び出し、数キロ離れた河川敷で遺体となって発見されました。 葬儀の日、母の顔にかけられた布とドレス姿は、マグリットの目と記憶にしっかりと焼き付き、現実と幻想が混ざり合ったマグリットの芸術は、この体験が反映されているのではないかといわれています。 1927年から1928年に描かれた『恋人たち』では、描かれた人物の顔に布がかけられています。 学生時代は印象派に影響を受ける 母が亡くなった後、マグリットと兄弟は下女と家庭教師に引き取られ、生活することになりました。 1913年、マグリットと家族はシャルルロワに移り住み、高校へ入学します。 マグリットの作品は、1915年ごろのものから残されており、当時は印象派のスタイルで制作していました。 1916年から1918年まで、ブリュッセルの美術学校に通い、ベルギー象徴主義のコンスタン・モンタルドに師事しますが、授業にはあまり身が入らなかったそうです。 また、画家でありポスターデザイナーでもあるジスベール・コンバッツからも学び、グラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしながら絵画を勉強していました。 学校に通い絵を学んでいく中で、マグリットの作品は印象派以降の近代美術に影響を受けるようになっていきます。 未来派やキュビスムに大きな影響を受ける 1918年、詩人のピエール・ブルジョワーズや抽象画家のピエール・フルケをはじめとしたベルギー前衛芸術家の仲間と共同アトリエにて短期間制作を行っています。 このころから、イタリア未来派のダイナミズムに興味をもつようになり、その後、雑誌デ・ステイルの創始者テオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。 ドゥースブルフは、ブリュッセルにオランダの純粋主義理論について講演するために来ており、講演を聞いたマグリットの創作意欲に火をつけました。 1918年から1924年にかけての作品は、未来派やキュビスムに大きな影響を受けており、女性をモチーフにした魅力的な肖像画を多く残しました。 幼なじみとの結婚とジョルジョ・デ・キリコ作品との出会い 1920年、ブリュッセルの植物園で幼なじみのジョルジェットと再会し、1922年に結婚します。 1920年から1921年まで、マグリットはベルギーのベヴェルーに従軍し、地図製作や指揮官の肖像画を制作しました。 兵役を終えたマグリットは、1922年から1923年まで壁紙工場の製図工として働きます。 1922年は、マグリットの画家人生に大きな影響を与えるできごとが起こります。 詩人のマルセル・ラコントからジョルジョ・デ・キリコの『愛の歌』の複製を見せられ、マグリットは、「私の人生の中で最も感動的な瞬間の一つであった。私は初めて思考を目の当たりにした」とのちに語っています。 1923年から1926年ごろまでは、ポスターや広告デザイナーとして働いており、このころは、ロベール・ドローネやフェルナン・レジェなど、ピュリスムやキュビズムに影響を受けた作品を制作していました。 その後、ブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、本職を画家としたキャリアをスタートさせました。 シュルレアリストとしての活躍 1926年、マグリットはキュビスムから決別し、初めてとなるシュルレアリスム絵画『失われた騎手』を制作し、1927年にはル・サントール画廊にて初個展を開催しました。 しかし、個展デビューは批評家の厳しい評価を受け、マグリットは落ち込み、パリへと向かいます。 パリでは、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンやほかの芸術家たちと交流を重ねるようになり、シュルレアリスムグループに参加し本格的に絵画制作にのめり込んでいきました。 マグリットの描く作品は、ほかの芸術家たちと比べると幻想的で夢の中にいるようなイメージをもっていました。 その後、シュルレアリスムグループのリーダー的な存在となり、パリには3年間ほど滞在します。 1924年から1929年までは、マグリットの最も充実した時代といわれており、この期間に描かれた作品は、幻想的というよりもどこか不気味な雰囲気が漂っていました。 1929年には、パリのゴーマンズ・ギャラリーにて、サルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギー、フランシス・ピカビア、マックス・エルンストらとともに展覧会を開催しています。 哲学と芸術の融合 1929年、マグリットは最後のシュルレアリスム革命展に、代表作となる『イメージの裏切り』を出品しました。 展覧会では、エッセイの『言葉とイメージ』も配布しており、平面作品と文字言語、視覚言語の関係性を挑発的に探求する今までにない革新的な作品を発表しています。 『イメージの裏切り』には、パイプの絵が描かれており、その下に「これはパイプではありません」と言葉が書かれています。 一見、タバコ屋の広告のようにも見えるこの作品に描かれているのはパイプの絵ですが、あくまでパイプを表現した絵であり、パイプそのものではありません。 マグリットは、イメージと対象の根本的な違いを強調したかったと考えられます。 このように、マグリットの芸術は、日常的なモチーフを採用しながらもそのものの一般的な使い方や見え方とは異なる状態になっているのが特徴の一つです。 ブリュッセルに戻り広告代理店を開業 1929年末、世界恐慌の影響を受けたル・サントール画廊は活動を停止してしまい、マグリットの収入も途絶えてしまいます。 また、パリでシュルレアリスムから関心のない態度をとられパリの芸術に幻滅したマグリットは、ブリュッセルに戻り、1934年に弟のポールとともに広告代理店「ドンゴ」を開業しました。 経済的に苦しい状況を立て直すために開業した広告代理店により、マグリットは安定した収入を得られるようになり、1934年から1937年にかけては「エメア」というペンネームで絵を描き、音響映画の配給会社トビス・クラングフィルムの広告にも採用されています。 1936年には、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊にてアメリカで初となる個展を開催し、1938年にはロンドン画廊でも個展を開催しました。 この展覧会によりマグリットの名は世界中に注目されるようになり、評価が高まっていきました。 ロンドン滞在中には、建築も学んでおり、いくつか作品を制作するとともに、ギャラリーでは画家として講演を行い、芸術家としての地位を高めていったのです。 ルネ・マグリットの世界観と作風 マグリットは、シュルレアリスムの画家とも呼ばれていますが、シュルレアリスムの中でもさらに独特な作風が特徴の一つです。 現実と幻想を巧みに融合させ視覚的な驚きをもたらす作品を多く残しています。 シュルレアリスム シュルレアリスムとは、1920年代に巻き起こった芸術運動で、夢や潜在意識の世界を表現することを目的とした芸術です。 マグリットは、シュルレアリスムの運動に参加し、日常的な物体を通常とは異なる文脈で描き、鑑賞する者に現実の再考を促すような作品を制作しています。 そのため、マグリットの作品には不条理・矛盾したイメージ・シーンが多く登場し、観る者に大きなインパクトを与えています。 古典的な描法 マグリットは、古典的な描法を用いて絵画を制作しています。 筆触を残さないよう繊細に筆を使い、まるで写真のような精密さのある絵画を描いていました。 この技法により、作品に現実感を与えることで、奇妙な文脈のインパクトがさらに大きくなり、印象を強めていると考えられるでしょう。 マグリットの作品は、細部まで丁寧に描かれているのが特徴で、現実世界の物体や風景を精密に再現しています。 視覚的なパラドックス 多くのマグリット作品には、視覚的なパラドックスが登場します。 たとえば、同一人物が複数の場所に同時に存在しているようなシーンや、モチーフを実際とは異なる形状や大きさで描かれていることなどです。 このようなパラドックスは、鑑賞する者の視覚的認識に強い印象を与え、現実と幻想の境界をあいまいにしているといえます。 言葉とイメージの関係性 マグリットは、絵だけではなくイメージと言葉の関係性についても深く探求していました。 『イメージの裏切り』が有名ですが、それ以外にも『テーブル、海、果物』でも言葉とイメージを巧みに利用して作品を描いています。 絵を観てみると、通常であれば左からテーブルが木の葉、海がバター、果物がミルク壺と考えてしまうでしょう。 また、言葉も現実を表してはおらず、海といえば広大な青い水面をイメージしますが、マグリットの作品では、海の下にバターの塊が描かれているのです。 この作品も、マグリットの言葉とイメージの問題を再考させる代表的な作品の一つです。 年表:ルネ・マグリット 西暦 満年齢 できごと 1898 0 ベルギー、レシーヌにて誕生。 1910 12 母が自殺し、遺体が川で発見される。この出来事が彼の作品に影響を与える。 1916 18 ブリュッセルの美術学校に入学し、絵画を学び始める。 1926 28 初めての個展を開催。シュルレアリスム的な作品を発表し、注目を集める。代表作には『眠れる者たちの館』がある。 1929 31 『イメージの裏切り』を制作。この作品には「これはパイプではない」という有名な言葉が描かれており、視覚と言葉の関係について考察を促す。 1936 38 アメリカでの展覧会に出展し、作品が国際的に注目を集める。代表作『大家族』『光の帝国』などを制作。 1940年代 40代 第二次世界大戦中に様々な画風を試し、明るい色彩の作品を制作。 1954 56 ベルギー王立美術アカデミーで回顧展が開催され、ベルギーを代表する画家として広く認識される。 1967 68 ブリュッセルで死去。生涯を通じてシュルレアリスムを追求し、多くの後世の芸術家に影響を与える。
2024.11.09
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